「東海村JCO臨界事故」の版間の差分

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'''東海村JCO臨界事故'''(とうかいむらジェー・シー・オーりんかいじこ)は、[[1999年]][[9月30日]]、[[茨城県]][[那珂郡]][[東海村]]にある株式会社[[ジェー・シー・オー]]([[住友金属鉱山]]の[[子会社]]。以下「'''JCO'''」)の核燃料加工施設で発生した[[原子力事故]]([[臨界事故]])である。日本国内で初めて、事故[[被曝]]による死亡者を出した。
+
'''東海村JCO臨界事故'''(とうかいむらジェー・シー・オーりんかいじこ)
 
 
== 概要 ==
 
1999年[[9月30日]]、JCO東海事業所の核燃料加工施設内で核燃料を加工中に、[[ウラン]]溶液が[[臨界状態]]に達し[[連鎖反応 (核分裂)|核分裂連鎖反応]]が発生、この状態が約20時間持続した。これにより、至近距離で[[中性子線]]を浴びた作業員3名中、2名が死亡、1名が重症となった他、667名の被曝者を出した<ref name="失敗知識">{{Cite web |url=http://www.sozogaku.com/fkd/cf/CC0300004.html |title=JCOウラン加工工場での臨界事故 |author=小林光夫、田村昌三 |publisher=[[畑村洋太郎|畑村創造工学研究所]] |work=[http://www.sozogaku.com/fkd/index.html 失敗知識データベース] |accessdate=2016-05-25 }}</ref>。[[国際原子力事象評価尺度]] (INES) で'''レベル4'''(事業所外への大きなリスクを伴わない)の事故<ref name="nuke" />。
 
 
 
== 事故の推移 ==
 
JCOでは1999年度に、[[高速増殖炉]]の研究炉「[[常陽]]」で使用される核燃料(濃縮度18.8%{{refnest|group="注釈"|JCOの扱っていたウランの[[濃縮ウラン|濃縮度]]は、通常3-5パーセントだった<ref name="失敗知識" />。}}、ウラン濃度380gU/リットル以下の[[硝酸ウラニル]]溶液、約160リットル)の製造を請け負っていた<ref>[[#日本原子力学会編 2000|日本原子力学会編 2000]], p. 7.</ref>。1999年9月、まずウランの精製作業が中旬から28日まで行われ、翌29日より硝酸ウラニル溶液の均一化作業が始まった。翌30日、転換試験棟にてJCOの作業員たちが硝酸ウラニル溶液を沈殿槽に流し込む作業を行っていたところ、10時35分頃、沈殿槽内で硝酸ウラニル溶液が臨界状態となり[[警報]]が鳴動した<ref>[[#日本原子力学会編 2000|日本原子力学会編 2000]], p. 8.</ref>。沈殿槽は言わば「むき出しの[[原子炉]]」の状態となり、中性子線は建物の外にも放出された<ref name="臨界事故とは何だったのか">{{Cite web |author=根本がん |url=http://www.gensuikin.org/gnskn_nws/0310_3.htm |title=臨界事故とは何だったのか |publisher=原水爆禁止日本国民会議 |accessdate=2016-05-25 }}</ref>。
 
 
 
11時15分、臨界事故の可能性ありとの第一報がJCOから[[科学技術庁]]に入る。そして11時52分に被曝した作業員3名を搬送するため[[救急車]]が出動した。東海村から住民に対する[[屋内退避]]の呼びかけの広報が始まったのは、12時30分からである<ref name="mext">{{Cite web |author=原子力安全委員会 ウラン加工工場臨界事故調査委員会 |url = http://www.mext.go.jp/a_menu/kagaku/shisaku/jco/uranc.htm |title = JCOにおける臨界事故の経緯について |work=緊急提言・中間報告 |publisher = [[文部科学省]] |date=1999-11-05 |accessdate=2015-03-10}}</ref>。なお、この広報に関しては東海村の[[村上達也]]村長(当時)が、国・県の対応を待たず独断で行った<ref>{{harvnb|村上達也|箕川恒男|2002|p=}}{{要ページ番号|date=2015年3月}}</ref>。
 
 
 
12時40分頃、[[内閣総理大臣]]・[[小渕恵三]](当時)に事故の第一報が報告される<ref name="mext" /><ref group="注釈">報告後、小渕首相がテレビで周辺住民に対し「外出しないように」と呼びかけを行った{{要出典|date=2015-11-09}}。なお、この事故を受け小渕内閣は翌10月1日に予定されていた[[内閣改造]]を延期、10月5日に改造を行った。</ref>。現地では事故現場から半径350[[メートル|m]]以内の住民約40世帯への避難要請、500m以内の住民への避難勧告、10[[キロメートル|km]]以内の住民10万世帯(約31万人)への[[屋内退避]]<ref group="注釈">10km圏内の屋内退避要請の発表は20時30分頃、その要請が解除されたのは翌[[10月1日]]の16時30分頃だった{{要出典|date=2015-11-09}}。</ref>および換気装置停止の呼びかけ、現場周辺の[[都道府県道|県道]]、[[国道]]、[[常磐自動車道]]の閉鎖、[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]の[[常磐線]][[水戸駅|水戸]] - [[日立駅|日立]]間、[[水郡線]]水戸 - [[常陸大子駅|常陸大子]]・[[常陸太田駅|常陸太田]]間の運転見合わせ、[[自衛隊]]への[[災害派遣]]要請<ref group="注釈">10月1日午前1時30分に陸上自衛隊へ派遣要請したのを皮切りに、同日午前5時42分に航空自衛隊及び海上自衛隊へも派遣要請を行った。
 
 
 
茨城県生活環境部原子力安全対策課『核燃料加工施設''臨界事故の記録''』P20
 
</ref>といった措置がとられた。
 
 
 
JCO社員は事故当初、誰も事故を収束させようとする作業をしなかったが、「あなた達でやらなければ強制作業命令を出した後に、結果的にする事になる」<ref name="nhks">[[NHKスペシャル]]『被曝治療83日間の記録 - 東海村臨界事故』(2001年放送){{要検証|date=2015-11-09}}</ref>と国からの代理人に促された結果、「うちが起こした事故はうちで処理しなければならない」と同社社員らが18人を2人1組で1分を限度に現場に向かい、[[アルゴン]]ガスを注入して冷却水を抜く、[[ホウ酸]]を投入するなどの作業を行い、[[連鎖反応 (核分裂)|連鎖反応]]を止めることに成功して事故は収束した。中性子線量が検出限界以下になったのが確認されたのは、臨界状態の開始から20時間経った翌10月1日の6時30分頃だった<ref>科学技術庁 (2000年10月13日) "[https://web.archive.org/web/20051102124740/http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/12/10/001023a.htm (株)ジェー・シー・オー東海事業所臨界事故に係る一時滞在者及び防災業務関係者等の線量評価の結果について]". 文部科学省. 2005年11月2日時点の[http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/12/10/001023a.htm オリジナル]{{リンク切れ|date=2015年3月}}よりアーカイブ。</ref>。
 
 
 
== 事故原因 ==
 
本事故の原因は、[[動力炉・核燃料開発事業団|旧動燃]]が発注した「常陽」用核燃料の製造工程<ref group="注釈">[[六フッ化ウラン]](UF<sub>6</sub>)を[[酸化ウラン(IV)|二酸化ウラン]](UO<sub>2</sub>)粉末に[[転換 (原子力)|再転換]]する中間工程。</ref>における、JCOのずさんな作業工程管理にあった。
 
 
 
JCOは、燃料加工の工程において、臨界事故防止([[臨界安全]])を重視した正規のマニュアルではなく、「裏マニュアル」に沿って作業をしていた。一例を挙げると、原料であるウラン化合物の粉末を溶解する工程では、正規マニュアルでは「溶解塔」という装置を使用すると定められていたが、裏マニュアルではステンレス製のバケツを用いるという手順に改変されていた。しかも事故前日の9月29日からは、作業の効率化をはかるため、この裏マニュアルとも異なる手順で作業がなされていた。具体的には、濃度の異なる[[硝酸ウラニル(VI)|硝酸ウラニル]]溶液を混合して均一濃度の製品に仕上げる均質化工程において、「貯塔」という容器を使用するべきところを「沈殿槽」という別の容器を使用していた。貯塔は臨界に至りづらい形状(背が高く、内径が狭い)だったが、使用目的が異なる沈殿槽は非常に臨界に至りやすい構造(背が低く、内径が広く、[[冷却水]]ジャケットに包まれている)であった<ref name="失敗知識" />。
 
 
 
その結果、濃縮度18.8%の[[硝酸ウラニル]][[水溶液]]を不当に大量に貯蔵した容器の周りにある[[冷却水]]が[[中性子]]の反射材となって溶液が[[臨界]]状態となり、中性子線等の[[放射線]]が大量に放射された<ref name="失敗知識" />。ステンレスバケツで溶液を扱っていた作業員<!--の1人-->は、「<!--約16[[キログラム|kg]]の-->ウラン溶液を溶解槽に移している時に[[チェレンコフ放射|青い光]]が出た」旨を証言している<ref name="臨界事故とは何だったのか" />。
 
 
 
== 事故被曝者 ==
 
この事故では3名の作業員が推定1[[グレイ (単位)|グレイ]]・イクイバレント{{Refnest|group="注釈"|「生物学的ガンマ線相当線量」を示す単位で、短時間での高線量被曝において用いられる<ref>{{Cite web |url = http://www.remnet.jp/lecture/words2003/02067.html |title = グレイ・イクイバレント(GyEq)(gray equivalent) - 緊急被ばく医療研修 |publisher = [[原子力安全研究協会]] |accessdate=2015-03-10}}</ref>。}}以上の多量の[[放射線]](中性子線)を浴びた。作業員らはヘリコプターで[[放射線医学総合研究所]](以下「'''放医研'''」)へ搬送され、うち2名は造血細胞の移植の関係から[[東京大学医学部附属病院]](東大病院)に転院し集中治療がされた。3名の治療経過や本事故において被曝した者の経過などは、それぞれ以下の通り。
 
* 16 - 20グレイ・イクイバレント(推定16 - 20[[シーベルト]]以上<ref name="nuke">{{Cite web |url = http://www.nuketext.org/jco.html |title = よくわかる原子力 - 東海村JCO 臨界事故 |publisher = 原子力教育を考える会 |accessdate=2015-03-10}}</ref>)の被曝をした作業員'''A'''(当時35歳)は、高線量被曝による染色体破壊により、新しい細胞が生成できない状態となる。まず[[白血球]]が生成されなくなったため実妹から提供された[[造血幹細胞]]の[[造血幹細胞移植|移植]]が行われた。移植術自体は成功し移植直後は白血球の増加が見られたが、時間経過と共に新細胞の染色体にも異常が発見され、白血球数が再び減少に転じた。59日後の11月27日、心停止。救命処置により[[蘇生]]したものの、心肺停止によるダメージから各[[臓器]]の機能が著しく低下、最終的に治療手段が無くなり、事故から83日後の12月21日、[[多臓器不全]]により死亡した。
 
* 6.0 - 10グレイ・イクイバレント(推定6 - 10シーベルト<ref name="nuke" />)の被曝をした作業員'''B'''(当時40歳)もAと同様に高線量被曝による染色体破壊を受け、造血細胞の移植が一定の成果をあげたことにより一時は警察への証言を行うまでに回復した。しかし放射線障害により徐々に容態が悪化、さらに[[メチシリン耐性黄色ブドウ球菌|MRSA]]感染による肺炎を併発し<ref name="wGendai">{{Cite journal |和書 |author = 篠原理人 |date = 2000-05-06 |publisher = [[講談社]] |journal = [[週刊現代]] |page = 55 |title = 『春の事件』スクープ7連発ッ 東海村事故被曝社員『本当の病状』 |naid = 40001690344 |ref = harv}}</ref>、事故から211日後の2000年4月27日、多臓器不全により死亡した。
 
* 推定1 - 4.5グレイ・イクイバレントの被曝をした作業員'''C'''(当時54歳)は、一時白血球数がゼロになったが、放医研の[[無菌病室]]においてG-CSF製剤等による骨髄治療を受け回復。[[12月20日]]に放医研を退院した。
 
* 臨界状態を収束させるための作業を行った関係者7人が年間許容線量を越える被曝をし、事故の内容を十分知らされずに、被曝した作業員を搬送すべく駆け付けた救急隊員3人が2次被曝を受けた。被曝被害者の受けた最高被曝線量は最大120ミリシーベルト、50ミリシーベルトを超えたものは6名だった<ref name="nuke" />。さらに周辺住民207名への中性子線等の被曝も起こった。最大は25ミリシーベルトで、年間被曝線量限度の1ミリシーベルト以上の被曝者は112名だった<ref name="nuke" />。被曝者総数は、事故調査委員会(委員長:[[吉川弘之]]・[[日本学術会議]]会長)で認定されただけで667名(2000年4月)であった。
 
 
 
=== 治療に関する特記事項 ===
 
* 急性被曝による[[半数致死量]](LD<sub>50</sub> :"Lethal Dose, 50%"の略)は4.0Sv(亜致死線量)で2 - 6週間で被曝者の50%に死をもたらし、6.0Sv(致死線量)では2週間以内に90%が死亡するとされており<ref>{{Cite web|url=http://www.nho-dmc.jp/disaster/hyou1.html|title=表-1 人の急性被ばくによる症状|accessdate=2011-10-01|work=災害医療|publisher=独立行政法人国立病院機構 災害医療センター}}<!--2015-11-09にurl差し替え--></ref>、特に作業員Aに対しては当初から回復は絶望視されていた<ref name="wGendai" />。
 
* 医学的には、近代医学による被曝者治療の貴重な臨床例となった。特に日本では、このような大量の放射線被曝をした患者の治療自体が初めてで、治療に当たった医師団も、毎日のように発生する新しい症状に試行錯誤をしながらの治療だったと証言している<ref name="nhks" />。
 
 
 
== 刑事責任 ==
 
この事故では、同時に会社側の刑事責任も問われた。事故から約1年後の[[2000年]]10月16日には茨城[[都道府県労働局|労働局]]・水戸[[労働基準監督署]]がJCOと同社東海事業所所長を[[労働安全衛生法]]違反容疑で[[書類送検]]、翌11月1日には[[水戸地方検察庁|水戸地検]]が所長の他、同社製造部長、計画グループ長、製造グループ職場長、計画グループ主任、製造部製造グループスペシャルクルー班副長、その他製造グループ副長の6名を[[業務上過失致死傷罪|業務上過失致死罪]]、法人としてのJCOと所長を[[原子炉等規制法]]違反及び[[労働安全衛生法]]違反の罪でそれぞれ起訴した。
 
 
 
[[2003年]]3月3日、[[水戸地方裁判所|水戸地裁]]は被告企業としてのJCOに罰金刑、被告人6名に対し執行猶予付きの有罪判決を下した<ref name="judgment">{{Cite web |publisher=水戸地方裁判所 刑事部 |date=2003-03-03 |title=平成12(わ)865 核原料物質,核燃料物質及び原子炉の規制に関する法律違反等被告事件 判決全文 |format=PDF |url=http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/9A577AEACFA7154A49256CFE002AE108.pdf |accessdate=2011-03-30}}</ref>。なお、被害者でもある作業員Cは、製造グループ副長としての現場責任を問われ有罪判決を受けた<ref name="judgment" />。
 
 
 
== 事故の影響 ==
 
=== 当事者への影響 ===
 
この事故の結果、JCOは加工事業許可取り消し処分を受け、ウラン再転換事業の廃止を余儀なくされた。
 
 
 
=== 公共機関等への影響 ===
 
この事故を受けて、[[原子力災害対策特別措置法]]が制定されたほか、保安規定の遵守状況の国による確認、定期検査、主務大臣または原子力安全委員会への申告制度([[原子力施設安全情報申告制度]]、いわゆる[[内部告発]]制度)が導入された。
 
 
 
事故当時の陸上自衛隊は、[[災害派遣]]要請に基づき、第101化学防護隊(現[[中央特殊武器防護隊]])を派遣するなどの対処を行った。その後、同年12月に先述の[[原子力災害対策特別措置法]]が制定されたことを受け[[自衛隊法]]を改正、自衛隊の行動区分において「災害派遣」とは'''自然災害による派遣'''と定義づけ、原子力事故に起因する災害派遣は新たに「'''[[原子力災害派遣]]'''」を設け(自衛隊法第83条の3)、別個のものとして対処することとなった。
 
 
 
=== 経済・産業への影響 ===
 
事故の影響により、事故施設周辺はもとより、茨城県内全域で農水産物・加工品の返品や値崩れ、旅館や観光施設のキャンセルが相次いだ。
 
 
 
このため、[[農産物]]への[[風評被害]]があったとして東海村の農家がJCOに損害賠償を請求しており<ref>[http://www.jsdi.or.jp/~y_ide/991020jco_tokai2.htm 風評被害による損害賠償詳細] 茨城県議会議員・井手義弘公式WEB、1999年10月21日。</ref>、茨城県がJCOに対する補償窓口を設置した際は約8000件<ref group="注釈">2000年8月31日時点</ref>の被害申出があった<ref>茨城県生活環境部原子力安全対策課『核燃料加工施設臨界事故の記録』P144〜P149</ref>。
 
 
 
この教訓は後の東日本大震災でも生かされ、茨城県内の農水産団体は、発災当初から各業者による個別請求ではなく農水産団体による一括して交渉・請求体制をとった結果、全国に先駆けて農畜産物及び水産物の補償請求を行った<ref>茨城県生活環境部防災・危機管理局原子力安全対策課『東日本大震災の記録 : 原子力災害編』P236~P237</ref>。
 
 
 
発生間もない10月12日に[[水戸芸術館]]にて開催が予定されていた[[ソプラノ]]歌手[[バーバラ・ボニー]]の水戸リサイタルが中止された原因とされている<ref>[http://www.arttowermito.or.jp/music/bonny99j.html 中止告知] [[水戸芸術館]]ホームページ</ref>。
 
 
 
=== 報道への影響 ===
 
翌[[10月1日]]の新聞[[朝刊]]から[[読売新聞]]や[[朝日新聞]]、[[毎日新聞]]など各[[全国紙]]が足並みを揃えてトップニュースでこの事故を伝えた(第1面と社会面のほぼ全面をこの事故関連の報道に割り当てた)が、事故当日は[[日本プロ野球|プロ野球]]・[[中日ドラゴンズ]]が[[明治神宮野球場]]で11年ぶり5度目の[[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]優勝を決めている。このためか、中日の親会社である[[中日新聞社]]が発行する[[中日新聞]]([[東京新聞]])は6大紙(読売・朝日・毎日・東京・[[日本経済新聞]]・[[産経新聞]])で唯一第1面及び社会面の大部分がこの事故関連の記事と中日優勝関連記事で占められることとなった(38面はこの事故関連、39面は中日優勝関連記事で占められた)<ref>『中日新聞』1999年10月1日付 1, 38, 39面</ref>。この件は「プロ野球で中日ドラゴンズが優勝すると政変及び大事件が起きる」という[[ジンクス]]の代表格として取り上げられることも多い<ref>夕刊フジ2005/08/11付、スポーツ報知2006/09/18付、ニッカンスポーツ2007/11/02付など</ref>。
 
{{see also|ジンクス#プロ野球}}
 
  
== 脚注 ==
+
1999年9月30日,茨城県東海村の民間ウラン転換加工会社ジェー・シー・オー JCO東海事業所の転換試験棟で起こった日本初の臨界事故([[臨界]])。
=== 注釈 ===
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist|group=注釈}}
 
  
=== 出典 ===
+
作業員 3人が大量の[[放射線]]を浴び,うち 2人が死亡した。地元住民には,半径 350m圏内の避難および半径 10km圏内の屋内退避措置がとられ,約 31万人に影響した。JCOは,[[六フッ化ウラン]]を二酸化ウラン粉末に転換して沸騰水型軽水炉用のウラン燃料を製造していたが,事故当時は[[高速増殖炉]]実験炉「常陽」に使う燃料を精製するため通常より高い濃縮度の硝酸ウラニル溶液を沈殿槽に注入する作業を行なっていた。
{{Reflist|2}}
 
  
== 参考文献 ==
+
正規のマニュアルとは異なる,バケツ状のステンレス容器を用いた危険な工程で作業を実施したため,沈殿槽内のウラン濃度が高まり臨界量に達し,[[核分裂連鎖反応]]を起こした。
<!--この節には、記事本文の編集時に実際に参考にした書籍等のみを記載して下さい。書籍の宣伝目的での記載はおやめ下さい-->
 
<!--著者姓の50音順-->
 
* {{Cite web |url=http://www.nr.titech.ac.jp/~hsekimot/AESJSafety/%82R%8F%CD0091.pdf |title=第3章 事故の経過と事実の解明 |work=JCOウラン加工工場における臨界事故の調査報告 |author=日本原子力学会編 |year=2000 |format=PDF |accessdate=2016-05-25 |ref=日本原子力学会編 2000 }}
 
* {{Cite book |和書 |author = 村上達也 |author2 = 箕川恒男 |date = 2002-09 |title = みえない恐怖をこえて - 村上達也東海村長の証言 |pages = |publisher = 那珂書房 |series = シリーズ臨界事故のムラから 2 |isbn = 978-4-931442-31-3 |ref=harv }}
 
  
{{参照方法|date=2015年11月9日 (月) 14:13 (UTC)}}
+
作業していた 3人は骨髄,消化器,皮膚などほぼ全身に急性の[[放射線障害]]を起こした。そのほかの JCOの従業員に最大 48mSv(ミリシーベルト。[[シーベルト]]),防災業務関係者に最大 9.4mSv,周辺住民に最大 16mSvの被曝があった。
{{Notice|style=question|1=『被曝治療83日間の記録』は、岩波書店版と新潮社版のどちらを実際に参考にしていますか?|date=2015年11月9日 (月) 14:13 (UTC)}}
 
* {{Cite book |和書
 
|author    = NHK取材班
 
|date      = 2002-10
 
|title    = 被曝治療83日間の記録 - 東海村臨界事故
 
|publisher = [[岩波書店]]
 
|isbn      = 978-4-00-005872-8
 
|ref      = harv
 
}}
 
** {{Cite book |和書
 
|author    = NHK「東海村臨界事故」取材班
 
|date      = 2006-10
 
|title    = 朽ちていった命 - 被曝治療83日間の記録
 
|publisher = [[新潮社]]
 
|series    = [[新潮文庫]] え-16-1
 
|isbn      = 978-4-10-129551-0
 
|ref      = harv
 
}}(上記の改題文庫版)
 
* {{Cite book |和書
 
|editor    = [[原子力資料情報室]]編
 
|date      = 1999-12
 
|title    = 恐怖の臨界事故
 
|publisher = [[岩波書店]]
 
|series    = 岩波ブックレット No.496
 
|isbn      = 978-4-00-009196-1
 
|ref      = harv
 
}}
 
* {{Cite book |和書
 
|author    = JCO臨界事故総合評価会議
 
|date      = 2000-09
 
|title    = JCO臨界事故と日本の原子力行政 - 安全政策への提言
 
|publisher = [[七つ森書館]]
 
|isbn      = 978-4-8228-0041-3
 
|ref      = harv
 
}}
 
* {{Cite book |和書
 
|author    = 日本原子力学会JCO事故調査委員会
 
|date      = 2005-02
 
|title    = JCO臨界事故その全貌の解明 - 事実・要因・対応
 
|publisher = [[学校法人東海大学出版部|東海大学出版会]]
 
|isbn      = 978-4-486-01671-7
 
|ref      = harv
 
}}
 
* {{Cite web |url=http://www.hiroi.iii.u-tokyo.ac.jp/index-genzai_no_sigoto-JCO_jiko-ibaragi-houkokusho.pdf|title=核燃料加工施設臨界事故の記録|work=|author=茨城県生活環境部原子力安全対策課|year=2000|format=PDF|accessdate=2016-09-04|ref=茨城県生活環境部原子力安全対策課 2000|publisher=}}
 
* {{Cite web |url=http://www.pref.ibaraki.jp/seikatsukankyo/gentai/kikaku/nuclear/koho/08.html|title=東日本大震災の記録(原子力災害編)|work=|author=茨城県生活環境部防災・危機管理局原子力安全対策課|year=2014|format=|accessdate=2016-09-04|ref=茨城県生活環境部防災・危機管理局原子力安全対策課 2014|publisher=}}
 
 
 
== 関連書籍 ==
 
<!--この節には、記事本文の編集時に参考にしていないがさらなる理解に役立つ書籍等を記載して下さい-->
 
* {{Cite book |和書
 
|author    = 核事故緊急取材班
 
|author2  = 岸本康
 
|date      = 2000-01
 
|title    = 臨界19時間の教訓 検証ドキュメント
 
|publisher = [[小学館]]
 
|series    = 小学館文庫
 
|isbn      = 978-4-09-404201-6
 
|ref      = harv
 
}}<!--2011年9月14日 (水) 13:42 (UTC)-->
 
  
 +
この事故で,原子力発電所以外の原子力事業でも重大な事故が起こりうることがわかり,国は各事業を総点検,[[原子炉等規制法]]の改正などで原子力の安全規制を強化した。科学技術庁はこの事故を,[[国際原子力事象評価尺度]] INESでレベル4と位置づけた。([[原子力発電所事故]])
 +
 
== 関連項目 ==
 
== 関連項目 ==
 
* [[燃料サイクル安全工学研究施設]]
 
* [[燃料サイクル安全工学研究施設]]
* [[ナトリウム24]] - 周辺住民等の被曝量の推定などに使用された
 
* [[米山隆一 (政治家)|米山隆一]] - 前新潟県知事。弁護士、医師。放医研勤務時、被害者の治療を担当。
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://www.aesj.or.jp/~hms/link/joc-j.html JCO臨界事故に関する見解]([[日本原子力学会]]ヒューマンマシンシステム研究部会 JCO事故調査特別作業会 主査 古田一雄)<!--2015-11-09-->
 
* {{PDFlink|[http://jolissrch-inter.tokai-sc.jaea.go.jp/pdfdata/JNC-TN8440-2001-018.pdf JCO臨界事故の終息作業について (業務報告)]}}([[核燃料サイクル開発機構]])
 
<!--* 『平成11年度版原子力安全白書 [http://www.nsc.go.jp/hakusyo/hakusho11/010101.htm 第1章 (株)ジェー・シー・オーウラン加工工場における臨界事故について]{{リンク切れ|date=2015年3月}}』([[原子力安全委員会]])-->
 
* [http://www.nr.titech.ac.jp/~hsekimot/AESJSafety/ 原子力安全調査専門委員会]<!--2015-11-09-->
 
* [http://cnic.jp/jco/jcac/ JCO臨界事故総合評価会議]([http://cnic.jp/ 原子力資料情報室])
 
* [http://www.nuketext.org/jco.html 東海村JCO臨界事故]([http://www.nuketext.org/index.html 原子力教育を考える会])
 
* {{EoE|Tokaimura_criticality_accident,_Japan|Tokaimura criticality accident, Japan}}
 
* [http://www.rist.or.jp/atomica/data/dat_detail.php?Title_Key=04-10-02-03 JCOウラン加工工場臨界被ばく事故の概要]([http://www.rist.or.jp/atomica/ 原子力百科事典 ATOMICA])
 
  
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[[Category:日本の原子力事故]]
 
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2018/8/13/ (月) 11:52時点における最新版

東海村JCO臨界事故
日付 1999年9月30日 (1999-09-30)
時間 10時35分 (JST)
場所 茨城県那珂郡東海村
座標 東経140度33分13秒北緯36.47972度 東経140.55361度36.47972; 140.55361
結果 国際原子力事象評価尺度 (INES) レベル4
死者 2名
負傷者 1名
667名(被曝者)
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東海村JCO臨界事故(とうかいむらジェー・シー・オーりんかいじこ)

1999年9月30日,茨城県東海村の民間ウラン転換加工会社ジェー・シー・オー JCO東海事業所の転換試験棟で起こった日本初の臨界事故(臨界)。

作業員 3人が大量の放射線を浴び,うち 2人が死亡した。地元住民には,半径 350m圏内の避難および半径 10km圏内の屋内退避措置がとられ,約 31万人に影響した。JCOは,六フッ化ウランを二酸化ウラン粉末に転換して沸騰水型軽水炉用のウラン燃料を製造していたが,事故当時は高速増殖炉実験炉「常陽」に使う燃料を精製するため通常より高い濃縮度の硝酸ウラニル溶液を沈殿槽に注入する作業を行なっていた。

正規のマニュアルとは異なる,バケツ状のステンレス容器を用いた危険な工程で作業を実施したため,沈殿槽内のウラン濃度が高まり臨界量に達し,核分裂連鎖反応を起こした。

作業していた 3人は骨髄,消化器,皮膚などほぼ全身に急性の放射線障害を起こした。そのほかの JCOの従業員に最大 48mSv(ミリシーベルト。シーベルト),防災業務関係者に最大 9.4mSv,周辺住民に最大 16mSvの被曝があった。

この事故で,原子力発電所以外の原子力事業でも重大な事故が起こりうることがわかり,国は各事業を総点検,原子炉等規制法の改正などで原子力の安全規制を強化した。科学技術庁はこの事故を,国際原子力事象評価尺度 INESでレベル4と位置づけた。(原子力発電所事故

関連項目