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− | + | 1877年に鹿児島士族が起した,[[西郷隆盛]]を首領とする大規模な反乱。 73年[[征韓論]]に敗れて政府を辞した陸軍大将西郷隆盛は,以後鹿児島で[[私学校]]を経営して九州各地の士族の子弟を多数養成し,新政府の武士層解体政策に不満をいだく全国不平士族層の間に絶大な声望をもっていた。鹿児島県令[[大山綱良]]は西郷の支持者で,鹿児島は反政府主義の最大の拠点となる観を呈した。西郷は征韓と士族の特権保護を主張し,有事の際に自己の兵力を率いて国家に奉仕しようと考えていたが,中央政府との対戦は欲していなかった。しかし客観的には政府の中央集権政策と対決,反目せざるをえない条件のもとにあり,西郷とともに下野した[[桐野利秋]],[[村田新八]]ら私学校の幹部や,血気にはやる同校生徒らは,中央政府への反感をつのらせた。政府側も鹿児島の反政府風潮を警戒し,鹿児島にあった政府の武器,弾薬を大阪に移そうとした。ここに私学校側の猜疑は頂点に達し,西郷暗殺と私学校弾圧を政府が企てていると断定してついに挙兵した。西郷もこれを制止しえず,みずからも決意して中央政府を問責する名目のもとに1万 3000をこえる軍を指揮して,熊本城に迫った。高知県においても林有造ら[[立志社]]の一派がこれに呼応しようとして捕えられた。政府は事態を重視し,有栖川宮を征討大総督とし,全国から徴募した平民主体の鎮台兵を集結して 77年4月ついに熊本城と連絡した。以後,[[田原坂]] (たばるざか) の激闘で西郷軍の将篠原国幹が戦死し,総退却した西郷は,同年9月城山において官軍総攻撃のさなかに幹部らとともに自決した。西南戦争は一方で近代戦争がもはや士族の専有ではありえず,他方,新政府に対する武力蜂起の不可能なことを世上に悟らせた。 | |
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2018/8/21/ (火) 17:22時点における最新版
西南戦争 | |
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戦争: 士族反乱 | |
年月日: 1877年(明治10年) | |
場所: 熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県 | |
結果: 明治政府の勝利 | |
交戦勢力 | |
明治政府 | 旧薩摩藩士族 |
戦力 | |
約70,000 | 約30,000 |
損害 | |
6,400 戦死 | 6,800 戦死 |
西南戦争(せいなんせんそう)、または西南の役(せいなんのえき)
1877年に鹿児島士族が起した,西郷隆盛を首領とする大規模な反乱。 73年征韓論に敗れて政府を辞した陸軍大将西郷隆盛は,以後鹿児島で私学校を経営して九州各地の士族の子弟を多数養成し,新政府の武士層解体政策に不満をいだく全国不平士族層の間に絶大な声望をもっていた。鹿児島県令大山綱良は西郷の支持者で,鹿児島は反政府主義の最大の拠点となる観を呈した。西郷は征韓と士族の特権保護を主張し,有事の際に自己の兵力を率いて国家に奉仕しようと考えていたが,中央政府との対戦は欲していなかった。しかし客観的には政府の中央集権政策と対決,反目せざるをえない条件のもとにあり,西郷とともに下野した桐野利秋,村田新八ら私学校の幹部や,血気にはやる同校生徒らは,中央政府への反感をつのらせた。政府側も鹿児島の反政府風潮を警戒し,鹿児島にあった政府の武器,弾薬を大阪に移そうとした。ここに私学校側の猜疑は頂点に達し,西郷暗殺と私学校弾圧を政府が企てていると断定してついに挙兵した。西郷もこれを制止しえず,みずからも決意して中央政府を問責する名目のもとに1万 3000をこえる軍を指揮して,熊本城に迫った。高知県においても林有造ら立志社の一派がこれに呼応しようとして捕えられた。政府は事態を重視し,有栖川宮を征討大総督とし,全国から徴募した平民主体の鎮台兵を集結して 77年4月ついに熊本城と連絡した。以後,田原坂 (たばるざか) の激闘で西郷軍の将篠原国幹が戦死し,総退却した西郷は,同年9月城山において官軍総攻撃のさなかに幹部らとともに自決した。西南戦争は一方で近代戦争がもはや士族の専有ではありえず,他方,新政府に対する武力蜂起の不可能なことを世上に悟らせた。