「ミハイル・ロマノフ」の版間の差分
提供: miniwiki
(ページの作成:「ミハイル・ロマノフ Mikhail Feodorovich Romanov [生] 1596.7.22. モスクワ [没] 1645.7.23. モスクワ ロシアのツァーリ (在位 1613~45) 。ロマ…」) |
細 |
||
(同じ利用者による、間の1版が非表示) | |||
4行目: | 4行目: | ||
[生] 1596.7.22. モスクワ | [生] 1596.7.22. モスクワ | ||
[没] 1645.7.23. モスクワ | [没] 1645.7.23. モスクワ | ||
+ | |||
ロシアのツァーリ (在位 1613~45) 。ロマノフ朝初代のツァーリ。モスクワ総主教フィラレートの子。 1613年動乱時代ののち,ゼムスキー・ソボール (全国議会) によってツァーリに選出された。君主としては凡庸で,33年まで「大君」と呼ばれた父親が実権を握っていた。彼の時代にロシアの秩序は次第に回復するとともに,農奴制が強化され,ロマノフ朝支配の基盤が確立された。当初ゼムスキー・ソボールが重要な役割を果したが,帝権が強化されるとともにあまり招集されなくなった。 | ロシアのツァーリ (在位 1613~45) 。ロマノフ朝初代のツァーリ。モスクワ総主教フィラレートの子。 1613年動乱時代ののち,ゼムスキー・ソボール (全国議会) によってツァーリに選出された。君主としては凡庸で,33年まで「大君」と呼ばれた父親が実権を握っていた。彼の時代にロシアの秩序は次第に回復するとともに,農奴制が強化され,ロマノフ朝支配の基盤が確立された。当初ゼムスキー・ソボールが重要な役割を果したが,帝権が強化されるとともにあまり招集されなくなった。 | ||
[[ロシア史]] | [[ロシア史]] | ||
+ | |||
+ | {{デフォルトソート:みはいる ろまのふ}} | ||
+ | [[Category:ロシアのツァーリ]] | ||
+ | [[Category:ロシアの幼君]] | ||
+ | [[Category:ロマノフ家]] | ||
+ | [[Category:モスクワ出身の人物]] | ||
+ | [[Category:1596年生]] | ||
+ | [[Category:1645年没]] |
2018/7/22/ (日) 13:46時点における最新版
ミハイル・ロマノフ Mikhail Feodorovich Romanov
[生] 1596.7.22. モスクワ [没] 1645.7.23. モスクワ
ロシアのツァーリ (在位 1613~45) 。ロマノフ朝初代のツァーリ。モスクワ総主教フィラレートの子。 1613年動乱時代ののち,ゼムスキー・ソボール (全国議会) によってツァーリに選出された。君主としては凡庸で,33年まで「大君」と呼ばれた父親が実権を握っていた。彼の時代にロシアの秩序は次第に回復するとともに,農奴制が強化され,ロマノフ朝支配の基盤が確立された。当初ゼムスキー・ソボールが重要な役割を果したが,帝権が強化されるとともにあまり招集されなくなった。