20180802聖職者、教員の傾聴とは(S.Kamijo)

提供: miniwiki
移動先:案内検索

1.始めに

 聖職者や教員はカウンセラーである必要はない、という当たり前のことが実践をするのは難しい。それは、ともに信徒または生徒の生活と深く結びついているからである。そして、聖職者は様々な人の相談を受けることもあるだろう。教員も同様に範囲は生徒や保護者に限られるだろうが様々な問題の相談を受けるだろう。聖職者や教員に期待されるのは、カウンセラーではない。しかし、それはカウンセラーが行う手法のようなものを学ぶ必要はないというわけではない。この3者に共通して求められる素質とは何だろうか、それは話を聞くことである。話を聞くという行為は、誰にでもできる。カウンセラーのカウンセリングを受けるよりも、気のおけない友人と食事をし、悩みを相談しただけで、カウンセリング以上の心理的効果があるときもある。それは、家族との会話によってもたらされることもある。チャプレンとしての働きでも重要となるようだ。そこで、この、傾聴という行為はどのようであるのが好ましいのかということを、まとめる。

2.カール・ロジャースの語るクライアント中心療法

 1940年代、アメリカの臨床心理学者カール・ロジャースはクライアント中心療法を提唱した。カウンセリングに来る人は何だかの心理的な問題を抱えており、その解決に手助けをしてほしいと考える。そこで、ロジャースは、相談者は潜在的に自分で問題を解決していく力を持っていると考え、治療者の役割は、相談者が自由に自己を表現し、自分で問題を解決していくことを手助けすることにあると考えた。 [鎌原 竹綱, 2015, ページ: 267](参照)

 相談者は潜在的に問題を解決していく力を持っていると考えた点は納得させられる。聖職者や教員のもとに何かを解決してほしいという内容で相談に行くことは少ない、むしろ解決してほしい内容がわかっている場合は、具体的な支援が行いやすい。勉強のある単元がわからない、聖書の内容がわからないなどの相談は明らかにそれぞれ専門家として解決できる。しかし、離婚の問題や進路の問題となると、聖職者も教員もどうすればよいのかわからなくなる。さらに、聖職者も教員も、これらの問題を解決するために、支援や介入を行い、それが相談者の望む形にならなかった場合、相談者と聖職者と教員は禍根が残すことになる。これは避けるべきである。

ロジャースは、カウンセラーがとるべき基本的姿勢つまり傾聴において、”a.自己一致・純粋性”、”b.無条件の肯定的配慮”、”c.共感的理解”の3つを重視している。

自己一致・純粋性とは、カウンセラーが自分自身の経験に開かれていることの必要性を説明するものである。自分自身の経験に開かれていることは、カウンセラーが自分自身の感情や態度、気分などを、否定したり歪曲したりすりことなく十分に意識していること、自分の気持ちに正直であることである。 [一丸 菅野, 2002, ページ: 18](引用)

つまり、aは真面目に話を聞くということだろう。そのうえで、気持ちに正直であることは難しい、反社会的な内容だった場合、それが相談者に伝わった場合、話にくくなるのではなかろうか。ただ、もしわざと共感的態度をとった場合も、相談者に伝わるということもあるのだろうか。bの無条件の肯定的配慮とは両立はできなさそうである。


無条件の肯定的配慮とは、カウンセラーの期待や価値観に沿ったクライアントの言動のみ是認を与えるのではなく、クライアントの体験のあらゆる側面を一切の価値判断をせずにそのまま受け入れて、そのクライアント独自の体験として関心をはらい尊重していく姿勢を指す。 [一丸 菅野, 2002, ページ: 19](引用)

 これは、聖職者は特に注意を必要とする。悩みを抱えた相談者は洗礼を受けたいわけではないのである。そして、聖書の御言葉と教義と原罪観を押し付けても、何も解決しないのである。聖職者は相談の応答がどうしても説教のような形になりがちである。宣教はすみに置き、相談者の話の内容を注意深く聞き続ける訓練が必要である。 また、教育現場において特に、無条件の肯定的配慮については、学生を教え採点し指導する立場にある教師は、肯定できないことがある。「なんにも怒らないからなんでも話てみろ」という教員が、いざ学生が「カンニングをしました」などいうと、注意し指導を行うのである。口調や指導の強度に個人差はあるが。学生の立場からすると、約束と違うのであり教師は信用を失うのである。無条件の肯定は立場上できないことがある。

共感的理解とは、カウンセラーがクライアントの内的世界をあたかも自分自身のものであるかのように体験しようと努力し、クライアントが自分自身や他者および外界をどのように見ているかをその感情も含めて正確に把握しようとすることである。 [鎌原 竹綱, 2015, ページ: 19](引用)

 これは、外からみて、その2者の関係がまともに見えているか、ということが重要である。相談という行為は、相手に信頼をよせ、自身の傷や弱点をさらけ出す行為である。このような関係において、その2者の間に恋愛感情のようなものを抱く危険性がある。聖職者も教員もその職業的立場において、相談を聞くことを引き受けている場合、そこに恋愛感情を持ち込むようなことは、いい結果をもたらさない。外から見て、相談者と相談を受ける人との関係がどのように見えているかを意識することは大切である。

では、カウンセリングマインドをもつとはどのようなものであろうか。そこで、実践的内容として、”A.相談者の自己解決を待てる能力”、”B.固定化した価値観にとらわれないこと”、”C.聖職者や教員自身が精神的な余裕をもち相談や助言を行えること”、”D.相談後に振り返り他者で言い合えるようなかかわり方であったか”、”E.正直に自身の間違いを心から謝れるか”の5項目があげられる。 [一丸 菅野, 2002, ページ: 20](参照)

ロジャースの言う3項目(a,b,c)をそのまま、適応することは心理学の専門教育を受けてもつかみにくく、すべて達成できることはまれであろう。しかし、後者の5項目(A,B,C,D,E)は達成しやすいものであると思う。

3.聖職者や教師にできること

聖職者は聖職者、教師は教師である。カウンセラーではない。そのうえで何ができるかと言えば、ただ話の聞き手となり、その話について、真摯な応答をおこなうことである。そして、その相談内容が手に負えないと思った場合、精神科医、臨床心理師、ソーシャルワーカー、スクールカウンセラーなど他の専門家との連携し、橋渡しをすることである。できることとできないことを、自分自身を守るためにも、見極めるべきである。熱心な聖職者や教員ほど様々な問題を引き受け燃え尽きるということはよくある。

4.参考文献

一丸 藤太郎, 菅野信夫. (2002). 学校教育相談. ミネルヴァ書房 .
鎌原雅彦, 竹綱誠一郎. (2015). やさしい教育心理学 第4版. 有斐閣.