20180722メンデルスゾーン『エリア』を聞いての感想(S.Kamijo)

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1.はじめに

フェリックス・メンデルスゾーンの家はもともと有名なユダヤ教の家系であった。そして、父アブラハム・メンデルスゾーンは当時ユダヤ教差別が激しくなる中、息子の将来を考え、ルター派教会において洗礼を受けさせた。そして、メンデルスゾーン性ではなく、バルトロディ性を使わせようとした。エリアはフェリックス・メンデルスゾーンの最晩年の曲であり、旧約聖書の列王記が題材となっている。私はフェリックス・メンデルスゾーンがどのような思いで、キリスト教において重視されない傾向にある旧約聖書と向き合い、彼の信仰がどのような形で音楽に表せられるかを考えたいと思う。

2.旧約聖書と新約聖書の価値観の違い

旧約聖書は、世俗的であり血生臭く、まるで、わがままで嫉妬深くあまり付き合いたくない人間のような神と様々な困難の中いつか神との契約の成就を希望し生きるイスラエル民族の歴史教訓生き方を示す書とも言える。神とイスラエル民族の関係は対立的であり、嘆きや苦しみは声に出し叫び抗うというものだ。そして、新約聖書はギリシア思想の影響も受け、精神性内面性を重視し、イエス・キリストの十字架の出来事をクライマックスに復活の出来事に中心が当てられており、人が神に直接困難を叫び感情的になること少ない。当然、この思想の透明感は価値があり様々な宗教的伝統や芸術性にもつながった。もし、メンデルスゾーンが旧約聖書は乗り越えられ旧約聖書はイエスを救世主と示すためのものであると思っているならば、登場人物がセリフを語り、心情を吐露する必要はないのである。メンデルスゾーンはオラトリオ『聖パウロ』の台本を手がけた牧師のシューブリングに『エリア』においても助力を求めたのだが、シューブリングは内省的な内容としようとしたために、メンデルスゾーンとの考えの違いによって対立し、やり取りが止まってしまった。この点からもメンデルスゾーンは旧約聖書における物語性とイスラエル民族の神学を理解しそれを表現しようと試みたといえる。エリアの嫌味とバアル教司祭団との掛け合いと焦りで曲調が変化しそして完全終止を迎える様子の臨場感と緊迫感は私もイスラエル民族の中にいて、その様子を固唾をのみ見守っているような錯覚を覚えた。

3.回心の音楽

エリアであるが、煽り不安に苛まれ落ち込むなど、天に上げられるような人物には思えない。そうであるのに回心の出来事が起きるのである。人は自分の力や人の力だけでは変われないことがある。その変化において、嫌だがどうしても避けられないことが起きることがある。もし、すべて合理的な選択を続けることができるのであれば私達はすべて後悔もせずに生きることができるであろう。そうであるならば、神は不要だ。そのような、普通に考えればありえないような人の転換を音楽はどのように表現するのか。私はそれをメンデルスゾーンは優しさと嵐の出来事を音楽で表現するような形でなしたと思う。だれも、厳しいだけでは人は変わらない、そして、何か絶対的なものに追い詰められないと変わろうとも思えない、天使のアリアに誘われて、嵐の中に踏み出す勇気を得るのである。優しさとエリアの葛藤をあらわすような音楽の対比は、回心の出来事はこのようにして起こるのだということを想像させてくれる。

4.イエス・キリストはどこへ

『エリア』を通じ、イエス・キリストを示すような箇所は見受けられない。もし、メンデルスゾーンが心のそこからキリスト教徒であるならば、どこかの箇所にイエス・キリストを思わせるような内容の表現を入れたのではないかと思う。イエス・キリストを入れないことは、旧約聖書をそのまま根本的に読みその時代の臨場感物語性を重視しイスラエル民族の中に埋没し一体感を得るためには必要なことであると思う。メンデルスゾーンの神学はキリスト教とユダヤ教の伝統の中で悩み、最後に旧約聖書を臨場感もって表現できたと思うと感慨深い。

5.最後に

旧約聖書と新約聖書は両輪の関係であり、どちらも片方には持っていないような価値を持っている。二項対立する部分もあれば、重なる部分もある。現在では聖書がについて自由に表現し、自由に検証し自由な解釈が可能になった。片方が片方の思想を封じ込めるようでは不幸である。メンデルスゾーンの『エリア』は、彼が2つの宗教の中で、悩まなかったら生まれなかっただろう。さらに、このような形で、宗教と音楽について考える機会もなっただろう。