近衛長子
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近衛 長子(このえ ながこ、建保6年(1218年) - 建治元年2月11日(1275年3月9日))は、鎌倉時代の女院。後堀河天皇の中宮。猪熊関白近衛家実の女。母は修理大夫藤原季信の女。女院号は鷹司院(たかつかさいん)。法号は蓮華性[1]。
略歴
宣陽門院覲子内親王の養女となり、嘉禄2年(1226年)6月16日、9歳で叙従三位[2]、同6月19日後堀河天皇に入内、7月2日女御宣下、同29日中宮となる。寛喜元年(1229年)4月18日、九条竴子の中宮立后に先立ち、院号宣下(鷹司院)。天皇との間に子はなかった。
嘉禎3年(1237年)7月17日、四条天皇の准母に遇せられて入内[3]。宣陽門院の膨大な長講堂領を、鷹司院を通じて四条天皇に譲るための措置であった。しかし、四条天皇は仁治3年(1242年)1月に早世した。
寛元4年(1246年)4月21日に出家。同年、後深草天皇が宣陽門院の猶子となり、宣陽門院はその長講堂領を、鷹司院に一期分として譲渡した後、鷹司院の没後に後深草天皇に渡るように定めたが、後嵯峨上皇より異議が出たため、建長3年(1251年)に先の処分状を破棄して長講堂領を直ちに後深草天皇に譲渡し、代わりに鷹司院には元の上西門院領を一期分として与えた。
脚注