昭和天皇誤導事件
座標: 東経139度20分9.7秒北緯36.411306度 東経139.336028度 昭和天皇誤導事件(しょうわてんのうごどうじけん)は、1934年(昭和9年)に群馬県で行われた陸軍大演習において、視察に訪れた昭和天皇一行の先導をしていた警部が緊張のあまり道を誤ってしまい、一時天皇一行が行方不明になったと大騒ぎになった警察の失態事件。前代未聞の事態であったため関係者が処分されたが、先導していた警部の1人が責任を取って自決を図った。昭和天皇一行行方不明事件、桐生鹵簿誤導事件とも呼ぶ(「鹵簿(ろぼ)」は行幸の行列のこと)。
経緯
1934年(昭和9年)11月16日、昭和天皇臨席のもと陸軍大演習が群馬県の高崎練兵場で行われた。観兵式に出席した後、昭和天皇一行が群馬県桐生市を視察することになっていた。予定された視察順序は「桐生駅 - 桐生西小 - 桐生高工」となっていた。地元住民は「現人神」である天皇を迎えるために1年前から予行演習を重ねており、出迎える際はひざまづくようにと指示されていた。こうした非日常の光景の中、先導役の本多重平警部(当時42歳)は、左折すべき末広町交差点を直進する過失を犯してしまった。そのため、視察の順序は桐生高工 - 桐生西小と全く逆になり、先に昭和天皇が訪問するはずだった桐生西小では、天皇御一行が行方不明になったと大騒ぎになった。
順序を間違った原因であるが、前日緊張の中、昭和天皇一行を本多警部は前橋市で先導していたところ、桐生市においての先導役の予定であった者が体調不良で辞退したため、代役で行ったものであった。そのため本多警部は、事前の下見を行っていなかった桐生市内でも先導することになった。しかし、昭和天皇を歓迎するための群衆で賑わう沿道の光景から、非日常の世界が広がっていたため幻惑され、予定で曲がるはずだった交差点では、先導者の運転手をはじめ、本多警部ももう1人の警部も、直進して当然だと思ったという。そのため、先導車の運転手が間違いに気付いたのはかなり後になってからであり、天皇一行の車も近づいており引き返せないため、本多警部は直進を命令したという。
本多警部のその後
この前代未聞の過失に対して関係者が処分されることになった。事件後、当事者の1人である本多警部は自宅謹慎していたが、県当局は自決を心配し部下2人を監視に付かせていた。しかし2日後、昭和天皇一行を乗せたお召し列車が前橋駅を出発する時刻が迫った時、本多警部は部下や家人に見送りに行けと命じ、その間に、列車が駅を出発した汽笛と共に日本刀で喉を突いて自決を図った。しかし、日本刀を素手で持っていたため、指が切れて突く力が弱くなり、一命を取り止めた(一部の資料では死亡したとされるが誤伝である)。このことは天皇一行にも「警部が責任を取り、自決した」と報告されたという。自決を図ったことについては、当時は「よくぞ責任を取ってくれた」と賞賛する声が挙がったという。
本多警部は一命を取り止めたものの後遺症は重大で、舌の筋肉が切断されたため、会話に支障が出る状態になった上に、食道と気道が癒着してしまい、食事をするのも難しい状態になった。彼は全国からの賞賛の声に励まされ、「もう1度天皇陛下のために生きる」決心をしたという。警察の出世コースからは外れたが、国立療養所事務長などを歴任し、1946年(昭和21年)まで公職を務めたという。
1945年(昭和20年)、日本の降伏により、太平洋戦争は終結した。昭和天皇が人間宣言を発し、戦前のような軍服姿ではなく背広姿で日本各地を視察する姿を見て、本多元警部は「武士道は必要なくなった」「もう世を捨てた」と漏らしたという。晩年は郷里で農業に従事し、1960年(昭和35年)5月22日に68歳で死去したという。
議会の動き
事件後、岡田啓介首相と後藤文夫内相が天皇にお詫びしたところ、天皇は別段の咎めもなく許したが、当時野党の立場にあった政友会は、議会でこれを取り上げて後藤内相を攻撃した。これについて岡田首相は、翌年の議会で取り上げられた国体明徴論と合わせて、政党人の自己否定につながる行為であったと批判している[1]。
脚注
- ↑ 岡田啓介 『岡田啓介回顧録』 中公文庫、2001年。ISBN 4122038995。
参考文献
- 朝日新聞 昭和60年(1985年)1月4日「それぞれの昭和」より
関連項目
- 末広町通り (桐生市)
- 聖駕の秋誤導事件のノンフィクション小説
- お召し列車 - 曾野綾子『お召列車、後退せず』の元ネタ