姪浜村

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[現]西区姪の浜一―六丁目・姪浜駅南めいのはまえきみなみ一―四丁目・愛宕あたご一―四丁目・愛宕南あたごみなみ一―二丁目・生の松原いきのまつばら一―四丁目・豊浜とよはま三丁目・大町団地おおまちだんち・小戸おど一―五丁目・内浜うちはま一―二丁目・石丸いしまる一丁目・福重ふくしげ三丁目

北は博多湾に臨み、室見むろみ川の河口左岸に位置する。西部を名柄ながら川・十郎じゆうろう川が北流して博多湾に注ぐ。同湾に面して姪浜が広がり、北西の小戸には妙見みようけん崎(妙現崎、現妙見岬)が突出し、その西側にはきすの浜が続き、生の松原へ連なる。姪浜は古くは袙浜あこめばまといったともいい、神功皇后が朝鮮半島からの帰り一二月四日にこの浜に着き袙の衣を干したことに由来するという(続風土記)。弘安七年(一二八四)閏四月一六日の北条時定覆勘状(龍造寺文書/鎌倉遺文二〇)に「姪浜」とみえ、龍造寺家清は姪浜警固番役の四月分と閏四月一五日までの分を勤仕している。当地の異国警固番役は肥前国の分担とされて、同国御家人が番役を勤仕した(弘安八年一〇月晦日「北条時定覆勘状案」青方文書/鎌倉遺文二〇など)。正安四年(一三〇二)一〇月、白魚時高は石築地役および盾・旗・鏑矢の未納をとがめられたが(同年一〇月八日「平岡為政書下案」青方文書/鎌倉遺文二八)、同月中に「袙浜」の高さ一尺七分の破損個所の修理を勤仕しているので(同年一〇月一五日「肥前守護代平岡為政覆勘状案」同上)、この頃までは番役が続けられていたと考えられる。元弘三年(一三三三)五月二五日、大友具簡は鎮西探題北条英時の「博多姪浜城」へ押寄せ、同日英時は自刃した(北肥戦誌)。この城は姪浜浦うら山(鷲尾山、現愛宕山)の南東、愛宕社近くの南方に突き出た山上にあったとされる(続風土記)。建武元年(一三三四)頃、筑前一宮住吉社(現福岡市博多区)の神主政忠は社領である当地などの引渡しを筑前国守に求め、認められている(一二月二一日「筑前国国宣案」住吉神社文書/南北朝遺文(九州編)七)。

文明一二年(一四八〇)九月二九日、生の松原に赴いた飯尾宗祇は「塩屋多く、所の様もさびしげなるを過て」、姪浜に至っている(筑紫道記)。天文二四年(一五五五)には九州探題領であった当地三〇町が大内氏の所領となり、代官に弘中三河守(隆兼)が補任された(同年九月二三日「大内氏奉行人連署奉書」西郷文書/豊前市史 文書資料)。永禄元年(一五五八)頃、大友氏の志摩しま郡郡代臼杵鑑続は姪浜の興運寺分を今津浜崎の寿福いまづはまさきのじゆふく寺に預けている(八月六日「臼杵鑑続預ケ状」児玉採集文書)。一五六二年七月五日に豊後を立ったイエズス会士フェルナンデスとアルメイダは、当地の一キリシタンの家に宿泊し、筑前国で最初に建てられた十字架の前で祈りを捧げ、翌日博多に向かっている。一五六五年一〇月、アルメイダは博多の町から陸路キリシタンが大勢いるMenofama(姪の浜)に向かい、肥前平戸への便船を待つ間の八日間当地に滞在した。一五八七年(天正一五年)、日本イエズス会副管区長ガスパル・コエリュは七月五日(和暦五月三〇日)頃、当地にいた前公方足利義昭を訪問している(以上フロイス「日本史」)。

近世には唐津街道がほぼ東西に通り、同街道の宿駅で筑前二一宿の一つ。姪浜宿が置かれ、また浦方の姪浜浦があった。「続風土記拾遺」などによれば当村は農・工・商・漁夫が雑居して生産が豊賑な西郡の喉咽であり、また海辺には船入りがあって旅商の船が絶えることはないと記される。海上は東が伊崎いざき浦(現中央区)、西は横浜よこはま浦と境をなしていた(続風土記拾遺)。小早川時代の指出前之帳によると、姪浜村は田五九町五反余(分米八二〇石余)・畠二五町四反余(分大豆一九七石余)。慶長七年(一六〇二)の検地高二千一九七石余(慶長石高帳)。元禄五年(一六九二)には高二千二四一石余、家数四八〇・社二・寺一七、人数三千六〇五。町場があり、また塩浜三三町があった(田圃志)。元禄国絵図には姪浜村の内として岳山たけのやま村を記す。石高書上帳案の郡帳高も二千二四一石余。寛政期(一七八九―一八〇一)の家数五七二(うち酒家五・麹家四)・人数二千五一二、牛一・馬七九(別本「続風土記附録」)。庄屋は脇差を許されており、宝永五年(一七〇八)には給知としない村に指定された(「郡役所記録」県史資料四)。村内には新しん町・北小路きたしようじ町・宮の前町・魚うお町・下野間しものま町・上野間町・旦過たんが町・当方とうほう町・畠中町・弥丸いやまる町・西町・三さんヶ町と浦分の東網屋ひがしあみや町・西網屋町の一四町があった(続風土記附録・続風土記拾遺)。三ヶ町には新町渡があり、元禄五年の浦分を除く一二町の人数は三千七〇〇余、東網屋町・西網屋町の人数は一千六五〇余とされる(田圃志)。慶長年間に酒造が許され、遠賀おんが郡芦屋あしや(現芦屋町)の鋳物師が移住していた(長政公御代御書出令条)。宝永七年四月の上使通行の際には、「姪浜川渡シ船指出シ」が命じられ、伝道船一九・小平太船一三・平太船四、加子六人が徴用された(津要録)。明和四年(一七六七)の唐津街道今いま宿までの人馬賃銭は馬一疋が一里・三二文、人足一人が一里・一六文であった。天明五年(一七八五)の火災では家四八五・蔵一〇・神社二・寺四が焼失(新訂黒田家譜)。福岡藩主の別邸である茶屋(本陣)が置かれ(福岡藩民政略誌)、文化九年(一八一二)の郡方覚によれば御茶屋奉行は尾崎三太夫であった。

姪浜浦には慶長一〇年八月二五日に難破船に関しての黒田長政掟書(新訂黒田家譜)が出されており、江戸時代初期から浦として把握されていた。元禄五年の家数一六五・人数一千五二〇(田圃志)、寛政期の家数二五〇(うち麹家一)・人数一千一二九(別本「続風土記附録」)。文化九年の郡方覚に載る「浦大庄屋并庄屋名元」によると浦庄屋武平の給銭は五〇〇目。助役左吉は無給。元禄年間に姪浜と今宿に塩浜奉行が置かれたが、姪浜の塩は最良品で値段も高かったため税も重かった(福岡藩民政略誌)。干鰯相物運上銀は以前より徴収されていたが、正徳五年(一七一五)に一ヵ年六〇〇目を浦方から取立てることとなり、享保元年(一七一六)には免除され、浦修復銀のうちに加えられた(浦役所定・同奉行法則)。明治初期の船八九、物産は菜種・櫨実・綿・塩・魚類・回生丹・酒・醤油・蝋燭・種油・割石など(地理全誌)。

産土神の住吉神社・祇園神社(現住吉神社)、小戸太神宮(現小戸神社)、鷲尾わしお権現并愛宕権現(現鷲尾愛宕神社)、禅宗興徳こうとく寺(現臨済宗大徳寺派)、浄土宗鎮西派天然てんねん寺(現浄土宗)、時宗光福こうふく寺、真宗西派順光じゆんこう寺・万正まんしよう寺(現浄土真宗本願寺派)などがある。宮の前町にあった住吉神社は社伝によれば神功皇后が朝鮮半島から帰着した際、志賀しか島(現東区)から別の船に乗替えて姪浜浦に上陸し、住吉神・志賀神を祀ったのが創始とされる。住吉神社の脇に並ぶ祇園神社の相殿に祀られる黒田重隆・同職隆は、黒田長政の命により祀られたという。小戸にある小戸太神宮を地元民は地蔵と俗称し、木で剣矛を作り奉納すると瘧が平癒するとされた(続風土記)。同社西方の妙見崎には百合若大臣の馬の足跡という窪みのある大岩があり、その辺りを御膳立といった(続風土記附録)。東方姪浜浦山の鷲尾山には古くから鷲尾権現が祀られていたが、寛永一〇年(一六三三)同所に福岡藩二代藩主黒田忠之によって愛宕権現が勧請され、同一一年社殿が完成した。これにより山名も愛宕山と称するようになったとされる(続風土記)。なお浦山は宗祇の「筑紫道記」に文明一二年九月二九日のこととして「汀に面白き山有。浦山といへり。汐満つときは山を廻りて嶋の如し」と記される。

興徳寺の創建は不明。文永四年(一二六七)宋から帰朝した南浦紹明(大応国師)は同七年一〇月二八日興徳寺檀越に招請されて同寺に入り、同九年頃まで住山、同年一二月崇福そうふく寺に移った(円通大応国師語録)。文永八年四月二七日の飯盛社元三之次第注文(青柳種信資料/鎌倉遺文一四)によれば、飯盛いいもり社の一二月二〇日の大般若経会には興徳寺が参加し、また油三升を納めることとされており、同社とのかかわりが深かった。細川幽斎(玄旨法印)の「九州道の記」天正一五年六月三日条には、興徳寺住持耳峯玄熊から発句の所望があったことが記される。寺は初め下野間町にあったが焼失し、天和二年(一六八二)弥丸町の光明寺という廃寺の跡地に移転した。白蓮寺殿鎮西将軍光峯道顕大居士と記す探題某のものとされる霊牌を所蔵していた。子院は北小路町の白毫びやくごう寺、魚町の東光とうこう寺、弥丸町の檀林寺、下野間町の三楽院・清芳軒(現清楽寺)、東網屋町の円福寺、当方町の東照寺、西町の円通寺の八寺。三楽院・清芳軒は興徳寺の旧寺地にある(続風土記・続風土記附録)。興徳寺蔵の徳治二年(一三〇七)の自賛のある絹本著色大応国師像は国指定重要文化財。旦過町の順光寺は中世には怡土いと郡上原かみのはるにあり、長福寺と号していた。慶長元年当地に移転、享保三年寺号を順光寺と改めた(続風土記附録)。