フサイン・イブン・アリー (イマーム)
テンプレート:シーア派 フサイン・イブン・アリー・イブン・アビー=ターリブ(حسين بن علي بن أﺑﻲ طالب; Ḥusayn ibn ‘Alī ibn Abī Ṭālib; 626年8月28日 - 680年10月10日)はイスラーム・シーア派における第3代イマーム(ごく一部では第2代)。母は預言者ムハンマドの娘ファーティマ・ザフラー、父はムハンマドの従兄弟アリー・イブン・アビー=ターリブ。ムハンマドの孫にあたり、シーア派のみならずスンナ派でもアフル・アル=バイト(御家=ムハンマド家)の一員として崇敬される。
フサインはヒジュラ暦61年のアーシューラー(ムハッラム月10日、ユリウス暦では680年10月10日)、カルバラーの戦いで惨敗を喫し戦死した。シーア派はアーシューラーに、その死を悲しむ祭式を行う。
Contents
出自
フサインはアリーとファーティマの次男である。フサインと兄ハサン・イブン・アリーはともに祖父ムハンマドの多大な愛を受けたという。
フサインとハサンの母ファーティマは幼時に没し、多数の異母兄弟とともに継母らに育てられた。フサインの育った時代は、イスラーム勢力が中東において急激に拡大した嵐のような時代であって、父アリー・イブン・アビー=ターリブはその政治の中枢にあって深く関わっていた。
系図
ムハンマド | ハディーシャ | ||||||||||||||||||||||||||||||
ファーティマ | アリー | ||||||||||||||||||||||||||||||
ハサン | フサイン | ||||||||||||||||||||||||||||||
アリ― | |||||||||||||||||||||||||||||||
カリフ権とアリー家
フサインの父アリーは656年、カリフ職に就き、以降661年まで務めた。アリーのカリフ位は常に脅かされており、ついにはクーファにおいてイブン・ムルジームによって殺害された。アリーの息子ハサンは父の死を受けてカリフに即位、アリーを破ってカリフに即位したシリア総督ムアーウィヤは次いでハサンとの戦いに臨もうとしていた。ハサンとムアーウィヤの勢力は何回か衝突したが決定的な決着には至らない。ハサンは内乱から来る帝国の内乱と支持者の苦難を慮って、カリフから退位することを決断、ムアーウィヤと約定を結んでマディーナへ退隠した。
これはアリー家とその支持者にとっては一時的な後退にすぎず、ムアーウィヤの没後にハサンがカリフ職に就き、カリフ権はアリー家に取り戻されるはずであった。したがってハサンとフサインは、預言者の孫・カリフの息子として指導権保持の主張を維持したのである。しかしムアーウィヤより前、669年にハサンは没し、フサインがアリー家の指導者となった。ムアーウィヤはフサインを無視して、その子ヤズィードを後継者として宣言。フサインを次代カリフ候補から除いたのであった。これはクライッシュ家内部での互選による継承から直系への継承へとカリフ職のあり方を変容させる意図による。
ムアーウィヤが没したのは680年のことであった。その首都、権力の中心地であるダマスクスではヤズィードが喝采をもってムアーウィヤを継ぐカリフに迎えられた。しかしながら、なおシリア以外の地域では、必ずしもヤズィードがカリフたることを奉じたわけではない。現在のイラク・クーファの人びとはヤズィードに対抗するため、いまやアリーの存命の息子たちで最年長となるフサインをクーファへと招いた。フサインはそのときヤズィードの軍から逃れ、マディーナからマッカにあった。彼は招致を受けて、妻子と彼に忠実な少数の戦士をあつめて、クーファへと進軍を始める。
カルバラーの戦い
ヤズィードはクーファにおける反乱気運の高まりを聞いて、これを収めるべく軍を派遣した。フサインらはクーファへの到着をまえにしてこの軍と衝突。約3000の軍の包囲下にフサインらは水を断たれた。フサインは伝承によれば72名の程度の手勢しか率いておらず、ほぼ虐殺に近い形で一方的に殺害されることとなった。フサインとその近しい人びとの首は、生存した女子供らとともに、ダマスクスのヤズィードのもとへと送られた。ヤズィードは、フサインの家族・支持者らの資産を没収、身分を奴隷に降した[1]。
埋葬
フサインの遺骸はその没地に近いカルバラーの街に葬られたという。首も多くの記録によると、のちに取り戻され、体と合わせて埋葬されたとされるが、逆にシリアにあるままで、その支持者らとともに葬られたとする見解もある。カルバラーのフサイン埋葬地には、のちにイマーム・フサイン廟(en)が立てられ、現在もシーア派ムスリムの参詣する聖地となっている。
シーア派での伝説
フサインが、サーサーン朝最後の王ヤズデギルド3世の娘ジャハーン・シャーと結婚し、4代目イマーム、アリー・ザイヌルアービディーンを生んだという伝説。9世紀頃にはこの伝説は既に成立してたと考えられている(現存資料の初出はタバリー)。なお、ジャハーン・シャーは結婚後、シャハル・バーヌー(または)シャフルバーヌーイェ)と改名している。
スンナ派での伝説
フサインの未亡人にウンム・イスハーク・ビント・タルハがおり、ファーティマ・ビント・フサインを生している[2]。
シーア派におけるフサイン
全てのシーア派はフサインをイマーム、また殉教者の長(サイイド・アッ=シュハダー)と考える。シーア派記録は一様にフサインはその努力の絶望的なことを知りつつも、なおイスラームとウンマをヤズィードから救うべく殉教への道を歩みだしたとしている。つまりシーア派信仰のなかでは自ら進んで宗教的義務と思われるものの犠牲となったのだと考えるのである。こうしてフサインは確信を秘めた勇気の持ち主として、また専制への抵抗者のモデルとなった。アーシューラーは、その悲嘆の日として、毎年フサインに捧げられる。
フサインの格言(伝)
- 神よ。ああ、汝を見失いし者の見いだしたりしは何ぞ。汝を見いだしたる者の見失うは何ぞ。
- 贈物を目当てに神を崇める者あり、これ商人の崇拝。罰をおそれて神を崇める者あり。奴隷の崇拝。感謝を捧げ、神を崇める者あり。真の崇拝にして、最高の崇拝。
脚注
- ↑ Aghaie, Kamran (November 30, 2004). The Martyrs of Karbala: Shi'i Symbols and Rituals in Modern Iran. University of Washington Press. ISBN 0-295-98448-1.
- ↑ http://www.islam4theworld.com/Sahabah/talhah_bn_ubaydullah_R.htm
- ↑ 出典: http://www.ezsoftech.com/islamic/infallible5.asp
関連項目
外部リンク
シーア派系
- Imam Husayn in the eyes of non-Muslims
- The Third Imam
- Mourning ceremonies for Imam Husayn
- The concept of martyrdom and mourning in Islam
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