ジャン=バティスト・セイ
Jean Baptiste Say [1767―1832]
フランスの経済学者。リヨンに生まれる。保険会社勤務を経て、ミラボー主宰の『プロバンス通信』Courrier de Provenceの編集にあたり、ついで自ら『哲学・文学・政治学旬報』La décade philosophique, littéraire et politiqueを刊行した。1799年にはナポレオン執政政府の法制委員会委員になったが、1803年に出版した『政治経済学概論』Traité d'économie politiqueでの主張がナポレオンの政策と対立し、法制委員を辞職、紡績業などに従事した。ナポレオン失脚後は学界に復帰し、国立工芸院やコレージュ・ド・フランスの経済学の講座を担当するなど活躍した。
セーは、保険会社に勤務するかたわら読んだ『国富論』に強く影響され、スミス経済学のフランスへの紹介に貢献した。しかし彼は、スミスの経済的自由放任思想を継承してはいるが、理論的には両者には隔りがある。セーの経済学体系は、生産・流通・消費からなる三部構成がとられており、そのうち生産は、労働・資本・自然力(土地)の三要素(元本)の協働によって営まれ、各元本の働きである生産的用役の提供に対して賃金・利子・地代が支払われるとされる。また彼は、生産とは物質的財貨の創造ではなく効用の創造だと考える。効用とは人間のさまざまな欲望を満足させる能力であり、これが価値の第一の基礎に置かれていることから、彼の価値論は主観的な効用価値説の系譜に属する。さらに、生産物を購買する際に支払う貨幣は、購買者が自分自身の生産物を販売することによって得られるのだから、結局、生産物は生産物をもって支払われると考えられている。これをセーの法則(販路説)という。ここでは購買と販売の時間的分離が認められず、貨幣は単なる交換の瞬間的媒介物にすぎないとされる(貨幣ベール観)。そのうえ彼は、ある商品の供給過剰は他の商品の供給不足を意味するにすぎず、部分的な商品過剰はあっても全般的な過剰生産恐慌は生じえないと主張して、リカードやJ・ミルらとともに、マルサスやシスモンディの見解と対立した。