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{{複数の問題
 
| 参照方法 = 2009年4月
 
| 出典の明記 = 2011年12月
 
| 独自研究 = 2017年3月
 
}}
 
{{ Infobox 航空機
 
| 名称=NAMC YS-11
 
| 画像=ファイル:Japan Maritime Self-Defence Force NAMC YS-11M (YS-11-112) Aoki-1.jpg
 
| キャプション=
 
| 用途=[[旅客機]]
 
| 分類=
 
| 設計者=
 
| 製造者=[[日本航空機製造]]
 
| 運用者 more=:
 
** [[国土交通省]]航空局
 
** [[航空自衛隊]]
 
** [[海上自衛隊]]
 
** [[海上保安庁]]
 
** [[日本エアコミューター]]
 
** [[日本トランスオーシャン航空|南西航空]]
 
** [[日本航空]]
 
** [[日本エアシステム|東亜国内航空]]
 
** [[全日本空輸]]
 
** [[エアーニッポン]]
 
** [[大韓航空]]
 
** [[ピードモント航空]]
 
** [[ハワイアン航空]]
 
** [[オリンピック航空]]
 
** [[VASP航空]]
 
** [[クルゼイロ航空]]
 
** ほか
 
| 初飛行年月日=[[1962年]][[8月30日]]
 
| 生産数=182機
 
| 生産開始年月日=
 
| 運用開始年月日=[[1965年]][[3月30日]]
 
| 退役年月日=
 
| 運用状況=現役
 
| ユニットコスト=
 
}}
 
'''YS-11'''は、[[日本航空機製造]]が製造した双発[[ターボプロップエンジン]]方式の[[旅客機]]。[[第二次世界大戦]]後に初めて[[日本]]のメーカーが開発した旅客機である。正式な読み方は「ワイエスいちいち」だが、一般には「ワイエスじゅういち」、または「ワイエスイレブン」と呼ばれることが多い([[#名称|後述]])時刻表では主に'''YS1'''または'''YS'''と表記されていたが、[[全日本空輸]]の便では愛称「オリンピア」の頭文字'''O'''と表記されていた。
 
  
[[2006年]]をもって日本においての旅客機用途での運航を終了した。[[海上保安庁]]で使われていた機体は[[2011年]](平成23年)に退役し、それ以外の用途では[[自衛隊]]で[[輸送機]]として運用されていた([[#採用官公庁|後述]])。また、[[東南アジア]]へ売却された機体も多くが運航終了となっている。一部の機体は[[レストア]]されて[[解体]]こそ免れているものの、[[機体]]そのものが旧式であることもあり、使用されている場面は稀である。
+
'''YS-11'''
  
== 歴史 ==
+
第2次世界大戦後,日本で初めて開発製造された中型ターボプロップ旅客機。 1957年輸送機設計研究協会が発足,開発計画が始まった。 YSは,この協会の輸送と設計の頭文字をとったもの。 1959年基礎設計が終わり,実機を製作するため日本航空機製造株式会社が設立された。試作1号機の初飛行は 1962年8月 30日。続いて同年 12月には2号機も飛んだ。就航は 1965年4月1日,日本国内航空の東京-徳島-高知線であった。 YS-11は全金属製,低翼単葉の双発プロペラ機で,旅客 60人乗り。エンジンはロールスロイス・ダート・ターボプロップ (3060馬力) 2。プロペラの直径を特に大きくし,離陸滑走路長 1110m,着陸 1100mと離着陸距離を短くしたのが特徴。全長 26.3m,全幅 32m,自重 15.4t,総重量 24.5t。速度は最大時速 600km,巡航時速 470km。航続距離 1200km。生産は 1973年 182機で打ち切られたが,日本国内では民間航空のほか自衛隊や海上保安庁が採用,国外へも 76機が輸出され,アメリカ合衆国,カナダ,ブラジル,アルゼンチン,ギリシア,フィリピン,インドネシアなどで使われた。
=== 国産航空機計画 ===
 
[[Image:SR DC3.jpg|thumb|ダグラスDC-3]]
 
[[連合国軍占領下の日本]]では[[連合国軍最高司令官総司令部]](GHQ/SCAP)による航空禁止令が布告されて、[[日本]]にあるすべての飛行機を破壊され、航空機メーカーを解体され、航空会社を潰され、大学の授業から航空力学の科目を取り除かれていた。[[1952年]](昭和27年)に[[サンフランシスコ講和条約]]の発効で再[[独立国|独立]]すると、日本[[企業]]による[[飛行機]]の運航や製造の禁止が一部解除され、この年の7月に[[航空法]]や[[航空機製造事業法]]が施行された。
 
  
民間[[航空会社]]は[[1951年]](昭和26年)に[[日本航空]]がGHQの意向で発足し、翌年の1952年(昭和27年)には[[全日本空輸]]の前身である[[日本ヘリコプター輸送]]、[[極東航空]]が発足し、その翌年の[[1953年]](昭和28年)までに[[日本エアシステム|東亜国内航空]]の前身となる[[日東航空]]、[[富士航空]]、[[北日本航空]]、[[東亜航空]]が発足した。
+
{{テンプレート:20180815sk}}
 
 
[[戦後]]の日本の[[航空路|航空路線]]は、[[ダグラス DC-3]]や[[ダグラス DC-4|DC-4]]、[[コンベア440]]などの[[アメリカ合衆国]]製や、[[デ・ハビランド DH.114 ヘロン]]などイギリス製の航空機が占めており、[[戦前]]の航空機[[開発]]・製造で実績のあった日本で、自国製の航空機を再び飛ばしたいという思いは、多くの航空関係者の抱くところであった。
 
 
 
戦後の日本の航空機産業は、[[1950年]](昭和25年)に勃発した[[朝鮮戦争]]で米軍機の[[整備]]・修理の受注を皮切りに、[[1955年]](昭和30年)4月には、[[川崎航空機]](現[[川崎重工業航空宇宙カンパニー]])と新三菱重工業(現[[三菱重工業]])で自衛隊向けの機体([[ロッキード]][[T-33]]Aジェット[[練習機]]、[[ノースアメリカン]][[F-86 (戦闘機)|F-86F]])の国内[[ライセンス生産]]が決定するまでになっていた。当時の[[航空機産業]]の監督官庁である[[通商産業省]](通産省、現・[[経済産業省]])は、商品サイクルの長い[[輸送機]]の[[開発]][[生産]]に取り組ませることで、その産業基盤を安定させる思惑があった。加えて、利用客の増加が見込まれた国内航空の旅客機に国産機を用いることで、[[軍用機]]と[[民間機]]を共通化すれば開発[[コスト]]が低下すると考え、「[[航空路|国内線]]の航空輸送を外国機に頼らず、さらに海外に輸出して、日本の[[国際収支]](外貨獲得)に貢献する」との名目で国産機開発の計画が立ち上げられた。
 
 
 
世界的には[[国家]]から軍用機の開発を受注した航空機メーカーが技術を蓄積し、それを旅客機に転用する例が多く、通産省も開発コストを下げて価格競争力を持たせて販売するビジネスモデルを構想していた。当時は[[運輸省]]でも民間輸送機の国内開発の助成案があり、通産省の国産機開発構想と[[行政]]の[[綱引き]]の対象となって権限争いが行われていた。閣議了承により、運輸省は耐空・型式証明までの管轄、通産省は製造証明と生産行政の管轄の、二重行政で決着した<ref name="nakamura"/>。
 
 
 
国内線用の[[旅客機]]の本格研究は[[新明和工業]](旧・[[川西航空機]])で始まっていた。[[1956年]](昭和31年)に運輸省が発表した「国内用中型機の安全性の確保に関する研究」の委託を受けて基礎研究を行い、後にYS-11の設計に参加する[[菊原静男]]、[[徳田晃一]]が中心となって進められた。この研究はDC-3の後継機種の仕様項目を研究するもので、[[レシプロエンジン]]双発の第一案(36席)、第二案(32席)、ターボプロップエンジン双発の第三案(52席)、第四案(53席)の設計案が提案され、最適とされた案は第三案とされ、その後のYS-11の叩き台となった<ref name="nakamura"/>。
 
 
 
=== 輸送機設計研究協会発足 ===
 
[[File:YS-11 Wind tunnel model.jpg|thumb|right|YS-11の設計のために東京大学航空学科で使用された[[風洞]]模型([[国立科学博物館]]の展示)<ref>{{Cite web |url=http://www.kahaku.go.jp/m/recommend/archive.php?cid=1530&_f_=25&_s_=2525&_c_=252520 |title=YS-11風洞模型 |publisher=国立科学博物館 |date= |accessdate=2013-12-30 |archiveurl=http://archive.is/yFe97 |archivedate=2013-05-01}}</ref>]]
 
[[1957年]](昭和32年)に日本企業による飛行機の運航や製造の禁止が全面解除される事を見越し、[[1956年]](昭和31年)に通産省重工業局航空機武器課の[[赤澤璋一]]課長の主導で国産民間機計画が打ち出された。通産省は各航空機メーカーと個別会談を行い、各社から賛同を得たことから、日本航空工業会に中型輸送機計画案を提出するように要請した。日本航空工業会がこの要請で開発案を提出したことから、通産省は中型[[輸送機]]計画開発の5カ年計画として、1957年(昭和32年)度予算で8,000万円を要求したが、第1次から第3次折衝まで予算請求が認められず、1957年(昭和32年)1月20日、[[水田三喜男]][[通商産業大臣]]と[[池田勇人]][[大蔵大臣]]の大臣交渉で予算を獲得することができた。鉱工業技術研究補助金の名目で3,500万円の予算を獲得した<ref name="air_liner_club"/>。
 
 
 
同年5月、理事長に新三菱重工副社長の[[荘田泰蔵]]が選任され、専任理事に[[木村秀政]][[東京大学]][[教授]]を迎えた「[[財団法人]] 輸送機設計研究協会」(通称「輸研」)が[[東京大学]]内に設立され、小型旅客輸送機の設計が始まった。輸研に参加したメーカーは新三菱重工業(現・三菱重工業)、川崎航空機(現・川崎重工業航空宇宙カンパニー)、[[富士重工業]]、新明和工業、[[日本飛行機]]、[[昭和飛行機工業|昭和飛行機]]の[[機体]]メーカーと、[[住友金属]](現・[[住友精密工業]])、[[島津製作所]]、[[日本電気]]、[[東京芝浦電気]](現・[[東芝]])、[[三菱電機]]、[[東京航空計器]]の[[部品]]メーカー各社であった。複数企業の[[ジョイント]]となった理由は、国内新型航空機開発と言う大型[[プロジェクト]]を、特定の企業一社に[[独占]]的に任せることで起こる他社の反発を懸念したためである<ref name="air_liner_club"/>。
 
 
 
輸研には、[[零式艦上戦闘機|零式艦上戦闘機(ゼロ戦)]]や[[雷電 (航空機)|雷電]]、[[烈風]]を設計した[[三菱重工業|新三菱]]の[[堀越二郎]]、[[中島飛行機]]で[[一式戦闘機|一式戦闘機「隼」]]を設計した富士重工業の[[太田稔]]、先述の[[川西航空機]]で[[二式飛行艇|二式大艇]]や[[紫電改]](及び[[紫電]])を設計した新明和工業の[[菊原静男]]、川崎航空機で[[三式戦闘機|三式戦闘機(飛燕)]]や[[五式戦闘機]]を設計した川崎重工業の[[土井武夫]]といった戦前の航空業界を支えた[[技術者]]が参加、[[設計]]に没頭した。航空業界ではこれに[[航研機]]の製作に携わった<ref>{{Cite web |author=K.Takenaka |date= |url=http://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/kouken.html |title=235. 航研・長距離飛行世界記録機 |work=古典航空機電脳博物館 |publisher= |accessdate=2012-10-15}}</ref>[[木村秀政]]を加えて「五人のサムライ」と呼んだ。
 
 
 
設計案として、日本の国内線需要を勘案して1,200mの[[滑走路]]で運用できるもの、航続距離は500[[マイル]]から1,000マイル(800[[キロメートル|km]]-1,600km)、整備性から低翼、経済性から60席以上、双発[[ターボプロップエンジン]]、開発期間は4年、開発費用は30億円の基本設計で固まった。当初、開発期間は5年であったが、当時国内の旅客機の残余寿命が3-4年の機体が多く、代替時期を勘案すれば5年では長過ぎるとの運輸省の主張から4年に短縮された<ref name="air_liner_club" />。
 
 
 
国産旅客機製造の理解と国からの予算獲得のため、[[1958年]](昭和33年)[[12月11日]]に[[日本飛行機]]の杉田工場で[[木型|モックアップ]]を完成披露した。[[プロトタイプ|試作機]]の予算を獲得するための[[デモンストレーション]]であり、技術的な検討を目的とするものではなかった。このため、客室の[[艤装]]に力を入れ、航法士席や二つの[[便所|化粧室]]を設け、[[アブレスト|横列]]5席の構成とし、[[内装]]は当時の有力デザイナーの[[渡辺力]]に依頼して、表皮を[[西陣織]]とした[[座席]]が設置された。この座席は当時の価格で一脚50万円以上したと言われている<ref name="nakamura"/>。
 
 
 
このモックアップを作るのにかかった費用は5,500万円(当時)で、点滅ランプの機構が用意できなかったため、担当者が隠れてスイッチを入れたり切ったりしていた。
 
 
 
=== 名称 ===
 
機種名であるYS-11の「YS」は、[[輸送機]]設計研究協会の「輸送機」と「設計」の頭文字「Y」と「S」をとったもの。一方、「11」の最初の「1」は搭載を検討していたエンジンの候補にふられた番号で、実際に選定された「ダート10」の番号は「1」であった。後ろの「1」は検討された機体仕様案の番号で、主翼の位置や面積によって数案が検討されていた。機体仕様案の中には第0案もあった。
 
 
 
先述のモックアップ完成披露キャッチフレーズが「[[横浜市|横浜]]・[[杉田 (横浜市)|杉田]]で11日に会いましょう」であった。これはYに横浜、Sに杉田を掛け、11に合わせて公開日を11日にした[[語呂合わせ]]であるが、これによって数値2桁「11」を「じゅういち」と読み発声することが一般に広まった。こうした経緯もあって、関係者のあいだでは当初正規に「ワイエス・いちいち」と呼ばれていたが、いつしか「ワイエス・じゅういち」と呼ばれるようになった。
 
 
 
=== 日本航空機製造株式会社設立 ===
 
モックアップ公開後、航空機メーカーの業界団体による設計組合的な輸送機設計研究協会から官民共同の[[特殊法人]]として[[日本航空機製造]](日航製;NAMC)を[[1959年]](昭和34年)6月1日に設立し、輸研は解散した。資本金を5億円とし、政府が3億円、民間からの出資は2億円であった。初代社長には輸研理事長の荘田康蔵が就任した。民間分の出資は輸研に参加した機体メーカー6社と材料・部品メーカーに加え、新たに[[商社]]、[[金融機関]]が出資した<ref name="air_liner_club" />。
 
 
 
[[日本航空機製造|日航製]]は輸研の残留[[スタッフ]]の30名と、出資各社からの出向者に[[役員]]13名の総勢125名で発足した。「五人のサムライ」は実機製作には携わらないと宣言したため、[[1960年]](昭和35年)からの実機製作は三菱から技術部長として出向してきた[[東條輝雄]]に任せられた。東條は[[父親]]で[[陸軍大臣]]や[[首相]]を歴任した[[東條英機]]の勧めで、[[軍人]]ではなく技術者を目指し、かつて堀越の元で「零戦」の設計にも携わっていた。
 
 
 
設計部は、1.庶務及び設計管理、2.全体計画([[空気力学|空力]]、[[性能]]、基礎研究)、3.胴体[[構造]]、客席[[艤装]]、胴体[[強度]]、4.[[翼|主翼]]、[[エンジン]][[ナセル (曖昧さ回避)|ナセル]]、エンジン艤装、[[燃料]]供給装置、5.[[尾翼]]、[[降着装置|脚]]、[[油圧]]、6.[[電装|電気]]、[[無線機|無線]]、[[計器]]、[[与圧]]、[[防水]]、客室艤装の各6班に分かれて分担した<ref name="air_liner_club" />。
 
 
 
日航製は設計開発、生産管理、品質管理、販売、プロダクトサポートを行い、生産は機体メーカー各社が分担し、最終組立は三菱重工業が行うこととした。
 
 
 
中型輸送機開発を正式に決定すると、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[コンベア]]や、[[オランダ]]の[[フォッカー]]、[[イギリス]]の[[ブリティッシュエアクラフトコーポレーション|BAC]]などの[[欧米]]航空機メーカーが、自社との共同開発、もしくは自社機の[[ライセンス生産]]への参画、つまり独自開発の計画中止を求めて殺到した。これらの企業はみなDC-3の後継となる機体の開発計画を持っており、競合機種が増えることを望まなかったからである。特にフォッカーは自社の[[フォッカー F27|F27 フレンドシップ]]と日本の機体の規模が競合するためしつこく食い下がってきたが、通産省はこれらをすべて一蹴した。
 
 
 
設計・各種計算には、[[富士通]]のリレー式計算機[[FACOM]] 128B等が使われた。FACOM 128Bは同型機が現在、富士通沼津工場の[[池田敏雄]]記念室に展示・動態保存されている。同様の計算機の動態保存機としては世界最古である。
 
 
 
=== 機体製造 ===
 
機体は中型とし、[[レイアウト]]に余裕が持てるように真円部分を長く設計した。当初の設計案では太胴(外径3.3 m)であったが、設計重量超過が判明したことから、モックアップと違った細胴(外径2.88 m)に再設計された。太胴の重量では[[STOL]]性を確保できず、[[日本の空港#地方管理空港|日本の地方空港]]に就航できないとの判断であった。このため、当初案の[[アブレスト|横列]]5人掛けから4人掛けに変更となった<ref name="air_liner_club" />。主翼は、[[メンテナンス|整備]]性の良さや[[航空事故|着水]]時に機体が浮いている時間が長くなる事を考え、胴体の下に翼がつく[[単葉機#主翼取付方法による分類|低翼]]に。また、地方空港を結ぶことを目的としたため、1,200 m 級の[[滑走路]]で[[離陸|離]][[着陸]]が可能な性能をもたせることとした。製造は新三菱重工(現[[三菱重工業]])、川崎航空機(現[[川崎重工業航空宇宙カンパニー]])、富士重工業(現[[SUBARU]])、[[新明和工業]]、[[日本飛行機]]、[[昭和飛行機工業]]、[[住友精密工業]]の7社が分担し、最終組み立てを三菱[[小牧市|小牧]]工場<ref>その後[[MRJ]]の生産拠点となる。</ref>が担当した。
 
 
 
各社の分担内容は以下のとおりである。
 
* 三菱(分担率: 54.2%) - 前部[[胴体]]、中部胴体、
 
* 川崎(25.3%) - [[翼|主翼]]、エンジン[[ナセル (曖昧さ回避)|ナセル]](エンジンの覆い)
 
* 富士(10.3%) - 機首、[[圧力隔壁]]、[[垂直尾翼]]、[[水平尾翼]]
 
* 日飛(4.9%) - 床板、[[エルロン|補助翼]]、[[高揚力装置|フラップ]]
 
* 新明和(4.7%) - 後部胴体、翼端、ドーサルフィン(垂直尾翼前方の安定翼)
 
* 昭和(0.5%) - [[操縦席]]、主翼前縁
 
* 住友(0.1%) - [[降着装置]]
 
 
 
併せて[[治具|治工具]]の開発も行われた。[[輸出]]を前提として[[アメリカ合衆国|米国]]のFAA([[連邦航空局]])の[[型式証明]]の取得を目指したため、[[戦前]]までの[[軍用機]]の生産技術は新しい民間機の生産技術にはほとんど役立たなかったと言われる<ref name="air_liner_club" />。
 
 
 
[[エンジン]]は[[耐空証明]]の取得に困難が予想されたため、自国での開発を諦めた。方式としては、当時主流になりつつあった[[ターボプロップエンジン]]を使用し、[[イギリス]]の[[ロールス・ロイス]]製[[ロールス・ロイス ダート|ダート 10]]を採用、[[プロペラ]]は[[ダウティ・ロートル]]製の4翅、[[降着装置|全脚]]のタイヤは[[グッドイヤー]]社製であった。当時の日本に手が出せなかった(試作はしたが実用性は低かった)[[アビオニクス|電子機器]]も、運行する航空会社が、実績があって[[アフターサービス]]が充実しているメーカーの製品を強く指向したため、[[気象レーダー]]と[[航空無線機|無線機]]は米国の{{仮リンク|ロックウェル・コリンズ|en|Rockwell Collins}}社や{{仮リンク|ベンディックス|en|Bendix Corporation}}社の製品であり、ほぼ全て日本国外の製品を[[輸入]]する結果となった(それらの機器に、実績がない日本国産品を採用したのは運輸省に納入された機体のみであった)。
 
 
 
当時日本国内での調達が困難だった大型の[[ジュラルミン]]部材は、アメリカの[[アルコア]]社から購入した。当初日本の金属メーカーも採用に向けて意欲を示したものの、YS-11に使用する量のみの生産では[[大量生産|量産]]効果が期待できず、[[価格]]で対抗できないうえ、アルコア社の[[アルミニウム合金|アルミ合金]]材は米国の[[軍用規格]]の金属材料であり、日本の[[JIS規格]]よりも[[品質]]が高かったため、アルコア社の金属材料が採用された経緯がある<ref name="air_liner_club" />。
 
 
 
=== 試作機 ===
 
耐空性審査要領に規定された荷重に耐える強度と耐用寿命を持つことを証明するために試験機が2機、01号機(静荷重試験用)・02号機(疲労試験用)が製造された。01号機を使用して1962年(昭和37年)に静荷重試験が実施され、破壊試験では制限荷重の153%で主翼が破壊するという好結果が得られた。02号機(疲労試験用)を使用した疲労試験は1961年(昭和36年)7月に開始された。安全寿命3万時間を目標としたYS-11の場合は、当時の統計理論より導かれた安全寿命係数(主翼は6.3胴体は22.5)を適用して1965年(昭和40年)4月までに、世界でも例のない20万回を越える疲労強度試験が行われた。胴体は9万時間まで、主翼は6万4000時間まで主要構造部には疲労被害は生じなかった。一方この時代にジェット旅客機が出現し安全寿命の考え方では設計が困難であるとの認識が一般的になり、フェールセーフ設計により耐用寿命を与えるように対空性審査要領も改訂された。YS-11の疲労試験でも、後半ではフェールセーフがあることを証明するために生じたクラックの進展データを得ることに重点が置かれた。胴体は22万5000時間、主翼は18万9000時間の疲労試験時間内では致命的な疲労被害が生じないことが確認された。
 
 
 
飛行試作機1号機(1001)は[[1962年]](昭和37年)[[7月11日]]に三菱小牧工場でロールアウトした。1か月に渡る電子機能検査、平衡試験、燃料試験、プロペラ機能検査、[[超短波]](VHF)検査を経て、[[8月14日]]にエンジンに初点火し、[[8月25日]]からは[[滑走路]]での地上試験、[[ブレーキ]]テストを行った。
 
 
 
[[8月30日]]、日航製は200人以上の[[マスメディア]]を招き、[[実況中継]]放送が行われる中、1号機は初飛行した。「YS-11 PROP-JET」と描かれた機体には、[[テストパイロット]]として正[[パイロット (航空)|操縦士]]に飛行整備部飛行課長の近藤計三、副操縦士に長谷川栄三が搭乗、[[名古屋飛行場]]から[[伊勢湾]]上空を56分間飛行し、各種試験、およびマスメディアへの[[デモンストレーション]]は成功裏に終了した。
 
 
 
10月には[[全日本空輸]](以下・全日空)との間で20機の予備契約が調印され、量産を開始した。しかし、全日空は後述する試作段階での三舵問題等の諸問題の発生から、正式な購入契約が交わされたのは2年後の[[1964年]](昭和39年)であった。全日空では第一次受領分は3機とし、開発の遅れや日航製の改善要求の対応のまずさから不信感を増し、生産ラインが安定する10機目以降とするとの要求に加えて、一定の運航実績を積むまでは契約価格の一割の支払いを留保する条件とした。[[日本国内航空]]や[[東亜航空]]も全日空と同様に、初期の導入機体は一定の運航実績を積むまでは契約価格の一割の支払いを留保するとの条件を出していた。また、[[日本航空]]も初期の開発段階の[[1963年]](昭和38年)に5機の仮発注を行っていたが、[[航空路|国際線]]主体の日本航空では自社路線の適性となる路線が少ないことから本契約に至ることはなかった。国家プロジェクトに[[ナショナル・フラッグ・キャリア]]として協力する姿勢を表明する、[[アドバルーン]]的意味合いが強かったと言われている<ref name="air_liner_club" />。
 
 
 
=== 問題と克服 ===
 
開発段階から操縦性の悪さが露呈していた。[[12月18日]]には[[皇太子]][[明仁|明仁親王]]([[今上天皇]])を招いての完成披露式典が[[東京国際空港|羽田空港]]で開かれ、その数日後に試作機2号機(1002)が初飛行を実施、2機による本格的な飛行試験が開始されたが、空力特性が悪いため[[振動]]と[[騒音]]が発生し、性能にも重大な影響を与えていた。横方向への安定不足は特に深刻で、プロペラ後流によって右方向へ異常な力が働き、全ての舵も効きが悪く、操縦性は最悪の癖を抱え、試験中にきりもみを起こして[[墜落]]の危機に直面することもあった。いわゆる「三舵問題」である。
 
 
 
これらは、輸出に必要なアメリカ[[連邦航空局]](FAA)の[[型式証明]]の取得の審査でも問題が指摘され、大規模な改修を余儀なくされた。この改修が予想以上に手間取ったため、マスメディアからは「飛べない飛行機」などと散々にこき下ろされた。全日空は納入の遅れがはっきりしたため、競合機種であった[[フォッカー F27|フォッカーF27 フレンドシップ]]を導入した。
 
 
 
初飛行を見届けて三菱に戻っていた東條も問題解決のため再び日航製に復帰し、改修作業に加わった。横安定については主翼の上反角を4度19分から6度19分に持ち上げればよいとの結論を出したが、設計の変更と再組み立てには1年かかると見込まれた。そこで、川崎の土井の提案により主翼の付け根に角度2度の[[くさび]]型部品(通称:土井のくさび)を挟み込むことで上反角を変更した。これにより機体を前方より見ると、主脚が「八」の字のようながに股のようになっている。操縦性の悪さは[[方向舵]]の[[タブ (航空機)|バランスタブ]]を、新考案の[[タブ (航空機)|スプリングタブ]]に変更して<ref>スプリングタブは、補助翼にも取付けられている</ref>、右偏向はエンジン取り付け部(エンジンナセル)の後ろに三角形の突起(通称、[[三味線]][[撥|バチ]])を取り付けることで解決、また、地上での[[ステアリング]]の効きを良くするため、主脚を後方へ傾斜させ、[[車輪]]の位置を後退させた。
 
 
 
これらの大改修により、FAAの型式証明取得の再審査では[[耐空類別]]T類に必要な片発[[離陸]](離陸直後のエンジントラブルで片方のエンジンが停止しても安全に離陸できるかを試すテスト)をクリアし、FAAの型式証明を取得している。
 
[[Image:MyPhotoYS11-2.jpg|thumb|全日空のYS-11]]
 
 
 
=== 就航 ===
 
[[1964年]](昭和39年)8月に[[運輸省]](現[[国土交通省]])の型式証明を取得し、国内線向けの出荷と納入を開始した。初飛行から型式証明取得まで、1号機の試験飛行は540時間、2号機は460時間であった。[[9月9日]]には全日空に[[リース]]された2号機(JA8612)が[[前東京オリンピック|東京オリンピック]]の[[オリンピック聖火|聖火]]を日本全国へ空輸し、日本国民に航空復活をアピールした。この聖火輸送に因んでその後、全日空が導入したYS-11には機首に「オリンピア」の[[愛称]]がマーキングされたが、機体や全日空の[[時刻表]]には「YS-11」の型式名や機種名は記されていない。表面上は聖火輸送の実績に由来した名称と説明されていたが、当時の日航製の開発が遅れていたことや、日航製の経営資金の枯渇から経営不安説も流れ、[[倒産]]した場合、倒産した会社の飛行機の名称をそのまま使う事態を避ける思惑が全日空にあったと言われている。他にも、米国の最有力顧客となった[[ピードモント航空]]も、当時の米国では日本製品の信頼性が高くなかったことから、乗客のイメージを配慮して、広告宣伝や時刻表には「ロールスロイス・プロップジェット」と表記し、日本製航空機であることや、YS-11の機種名の表示は行わなかった<ref name="air_liner_club" /><ref name="nakamura"/>。
 
 
 
[[1965年]](昭和40年)[[3月30日]]に量産1号機(2003)を運輸省航空局に納入、4月からは航空各社への納入が始まった。9月にはFAAの型式証明も取得して、輸出の体制が整った。
 
 
 
民間航空会社に最初に納入されたのは1965年(昭和40年)4月10日に東亜航空に引き渡された量産型2号機JA8639(S/N2004)であったが、納入した国内の航空会社で最初に[[定期]]路線で就航させたのは[[日本国内航空]]である。運輸省の量産一号機の翌々日の4月1日に、[[東京国際空港|東京(羽田)]] - [[徳島飛行場|徳島]] - [[高知空港|高知]]線で定期航空路線の運用を開始した。
 
 
 
日本国内航空は量産機の発注を行っていたものの、納入が路線開設に間に合わず、試作2号機を1965年(昭和40年)3月11日に日航製からリースして間に合わせたものである。この試作2号機は全日空が聖火の輸送で使用したものであり、日本国内航空では自社塗装に塗り直し、「聖火号」(初代)と命名して就航させた。因みに日本国内航空が最初に受領したのは量産型4号機(S/N2006)JA8640で、1965年(昭和40年)5月15日に納入され、「[[真珠]]号」と命名されている。同年12月8日に量産型14号機(S/N2006)JA8651を受領し、「聖火号」(二代目)と命名し、初代「聖火号」を日航製に返却した<ref name="air_liner_club" />。
 
 
 
その後、YS-11の定期運航は日本国内航空に続き、1965年(昭和40年)5月10日に東亜航空が[[広島西飛行場|広島]] - [[大阪国際空港|大阪(伊丹)]]線、大阪 - [[美保飛行場|米子]]線に就航、同年5月31日に[[南西航空]]がリース契約で受領し、同年6月8日に[[那覇空港|那覇]] - [[宮古空港|宮古]]線に就航した。同年7月29日には全日空が受領し、同年9月20日に大阪 - 高知線で就航した。南西航空がリース契約となったのは、[[本土復帰]]前の沖縄では航空機登録制度が未整備で、南西航空への売却であっても表面上はリース契約とせざるを得なかったからである。南西航空は本土返還後に正式に購入した。
 
 
 
遅れて[[1969年]](昭和44年)4月1日に、日本航空が日本国内航空よりウエットリースで[[福岡空港|福岡]] - [[釜山]]間で初の国際線の就航を始めて、当時の主要国内航空会社がYS-11の定期旅客運航を行ったことになった。日本航空では同路線の就航を[[ボーイング727]]で計画していたが、同じ路線を運航する[[大韓航空]]の機材がYS-11であったことから、機材に差が出ることを嫌った[[韓国]]政府の意向から日本航空も同じとせざるを得なくなり、日本国内航空から調達したものであった<ref name="air_liner_club" />。
 
 
 
YS-11-100は運航を重ねるにつれ、主脚の異常、脚開閉扉の設計ミス、外板継ぎ目からの[[雨漏り]]による電気系統不良などの欠陥が判明し始めた。そのたび、日航製職員や航空会社の[[整備士]]は改修のため[[徹夜]]の連続となった。この経験は、[[1967年]](昭和42年)のYS-11A(2050以降)の設計に生かされた。
 
 
 
[[1968年]](昭和43年)にはトラブルもほとんど解消し、1機あたりの飛行時間は月300時間以上、定時出発率99パーセントを誇る、高い信頼性を持つ航空機となった。
 
 
 
=== 輸出 ===
 
[[File:NAMC YS-11A N254P Piedt DCA 13.04.72 edited-1.jpg|thumb|250px|ピードモント航空のYS-11]]
 
[[1964年]](昭和39年)1月15日に日本機械輸出組合と日本航空工業界による「航空機[[東南アジア]]・[[オーストラリア|豪州]]市場調査団」が日本国外に派遣されたのを始めとして、日航製による日本国外の営業が繰り返された。しかし、日航製には航空機販売のノウハウがないことから、総合[[商社]]の販売ネットワークに頼ることとなった<ref name="air_liner_club" />。
 
 
 
YS-11の最初の輸出は[[1965年]](昭和40年)10月に[[フィリピン]]のフィリピナス・オリエント航空であった。[[戦争賠償]]の一環として2012号機が引き渡された。同社はその後最大4機のYS-11を保有した。
 
 
 
無名で実績のない日航製が日本国外で販売するには実機を見せるほかに宣伝の手段はなく、YS-11は積極的に日本国外へ飛行し、[[デモンストレーション]]を行った。まず、[[1966年]](昭和41年)[[9月15日]]から[[10月13日]]にかけて[[北アメリカ|北米]]へ渡航、[[アメリカ合衆国]]の[[サンフランシスコ]]・[[デンバー]]・[[セントルイス]]・[[ワシントンD.C.]]・[[マイアミ]]を飛び、近距離路線を運航する中堅航空会社である[[ピードモント航空]]や[[ハワイアン航空]]からまとまった数の受注を得ることができた。しかし、ピードモント航空では使用機材を例に機体仕様で多くの改善オプションを要求され、ハワイアン航空からリース契約で3機の輸出を行ったものの、搭乗口の低さ、騒音、振動、[[キャビン]]のデザインが不評で、僅か一年で全機が返却されてしまった。この反省が後のYS-11Aの開発で活かされることになった<ref name="air_liner_club" />。
 
 
 
[[1967年]](昭和42年)は[[1月25日]]から[[3月15日]]にかけて[[南アメリカ]]の[[ペルー]]・[[アルゼンチン]]・[[チリ]]・[[ブラジル]]をデモ、[[10月11日]]と[[10月12日|12日]]に[[ベネズエラ]]、[[12月2日]]から[[12月12日|12日]]に[[カナダ]]、[[1968年]](昭和43年)[[8月27日]]から[[10月28日]]にかけては[[イギリス]]・[[西ドイツ]]・[[スウェーデン]]・[[イタリア]]・[[ユーゴスラビア]]・[[ギリシャ]]・[[サウジアラビア]]・[[パキスタン]]・[[ネパール]]・[[ミャンマー|ビルマ]]・[[タイ王国|タイ]]・[[マレーシア]]を精力的に回ったが、アジアの多くの途上国では購入予算がないため受注をほとんど得ることはできなかった。その後ブラジルやアルゼンチン、ペルーでまとまった数の受注を獲得した。しかし、[[ヨーロッパ]]では競合機が多いため、ギリシャのみの受注となった。
 
 
 
[[1968年]](昭和43年)のデモフライトではイギリスのファーンボロ・[[航空ショー|エアショー]]にも出展した。この出展でギリシャのオリンピック航空との商談が成立した。オリンピック航空では短期リースの2機を含め、最盛期には10機のYS-11を保有した<ref name="air_liner_club" />。当時のファーンボロ・エアショーでは、欧州の航空機メーカーの出展に限定されていたが、YS-11は[[ロールス・ロイス]]社製のエンジンを搭載していることから、英国製に類するとして特別に出展が認められ、デモフライトを実施することができた<ref name="nakamura"/>。
 
 
 
[[1969年]](昭和44年)にも[[2月27日]]から[[3月1日]]に[[メキシコ]]、[[12月3日]]から[[1970年]](昭和45年)[[2月14日]]にかけて[[モロッコ]]・[[セネガル]]・[[カメルーン]]・[[ガボン]]・[[コンゴ民主共和国|ザイール]]・[[中央アフリカ]]・[[ザンビア]]を飛行、同時に[[1月18日]]から[[1月22日|22日]]に[[シンガポール]]、[[6月20日]]から[[7月9日]]にかけて[[エジプト]]・[[ケニア]]・[[スーダン]]・[[南アフリカ共和国|南アフリカ]]、[[7月28日]]から[[8月3日]]に[[ベトナム戦争]]中の[[南ベトナム]][[ホーチミン市|サイゴン]]へ飛行し、いくつかの受注を獲得することができた。
 
 
 
=== 相次ぐ受注 ===
 
デモフライトが功を奏し、知名度が高いピードモント航空からのオプションを含む20機の発注により信頼を得たことも手伝い、アメリカやブラジルを中心として日本国外からの受注が相次いだ。生産数は徐々に伸び、[[1967年]](昭和42年)末には小牧工場は月産1.5機から2機に増産した。[[1968年]](昭和43年)末に確定受注が100機を超え、この年だけで50機以上を新たに受注している。[[1969年]](昭和44年)4月17日には全日空に量産100号機(通算102号機)を納入し、輸出は7カ国15社に達した。7月には当初の量産計画(150機)を上回る180機の量産計画が認可された。小牧工場は月産3.5機となり、順番待ちで発注から納入まで1年以上かかることもあった。しかし、この好調な日本国外への販売がその後の生産中止の引き金となった。
 
 
 
=== 生産終了 ===
 
[[File:Cruzeiro do Sul NAMC YS-11 Groves-1.jpg|thumb|クルゼイロ航空のYS-11(1970年頃)]]
 
[[ファイル:MyPhotoYS11-1.jpg|thumb|日本エアシステムのYS-11(1990年頃の[[大阪国際空港]]で撮影)]]
 
安定的な販売網の構築を待たずに売上は鈍化し始めた。特に日本国外での販売では競合国並の長期繰り延べ低金利払で対抗せざるを得なくなったことや、[[第二次世界大戦]]後の日本で初めて作った機体のため、実績不足から足元を見られて、原価を割った値引き販売を余儀なくされることも珍しくなかった。また、宣伝費などの販売、営業関連費を初期コストの中に換算していなかったなど、[[原価]]管理も杜撰であったと言われている。加えて、航空機製造各社の寄せ集め所帯であったことで責任の所在が曖昧となり、納入部品価格の引き下げもままならず、[[官僚]]の[[天下り]]が増加したことで社内に[[公務員]]気質が蔓延し始め、抜本的な経営[[改革]]が行われず[[赤字]]を加速させて行った。
 
 
 
特に日本国外での営業活動の赤字が当時予期せぬ[[変動相場制]]の移行で[[為替]]差損が発生した以外にも、[[会計検査院]]で指摘された米国での営業活動に日航製の問題が内因している。後述するYS-11Aの改造で米国国内の販売[[代理店]]を希望した[[ノースカロライナ州]]に本社がある[[中古]]航空機や航空部品の販売[[ディーラー]]であるシャーロット・エアクラフト社のコードウェル社長が積極的な営業参加の意思表示を示し、同社と[[北アメリカ|北米]]・[[ラテンアメリカ|中南米]]・[[スペイン]]地区の独占代理店契約を結んだ。しかし、同社は実質的な営業活動を行わず、[[三井物産]]と日航製の営業活動で[[ピードモント航空]]と売却契約が締結されると、シャーロット・エアクラフト社は地区独占代理店契約を盾に多額の[[手数料]]を要求し、ピードモント航空や[[クルゼイロ航空]]からYS-11の販売で下取りした33機の中古機をシャーロット・エアクラフト社に渡すなど、会計検査院から不当な取引と指摘された。[[国会]]で問題になり、日航製の専務が引責辞任する事態となった。日航製は旅客機の販売の実績もなかったことで、シャーロット・エアクラフト社に対しての信用調査や、業務の内容や、販売しなかった場合のペナルティの取り決めなどもない杜撰な契約内容だったからである。シャーロット・エアクラフト社の地区独占代理店契約解除に、2億3,000万円の支出や下取り機を渡さなければならない失態を演じた。
 
 
 
他にも、航空会社の経営者から[[リベート]]を要求されたり、支払いの延べ払いには[[大蔵省]]や通産省の了解が必要となり、了解が得られなかったことで契約に至らなかった例が少なからずあったと言われる。
 
 
 
加えて、プロダクト・サポートも十分でなく、[[インドネシア]]のブラーク航空との間では補給部品の供給ができず、欠航が相次いだことから航空会社の信用を失墜させてしまい、リース料の支払いを拒否され[[訴訟]]になるなど、日航製の[[特殊法人]]としての甘さが指摘されていた。また、輸出先の航空会社は遠隔地が多く、遠隔地の輸出先の航空会社から、しばしば日航製の負担で部品の預託や部品の販売センターの設置が要求されていたが、その要求を受け容れることはなかった<ref name="air_liner_club" />。
 
 
 
日本航空機製造の経営赤字は1966年(昭和41年)の航空機工業審議会の答申で既に提言されていた。[[1970年]](昭和45年)3月末で80億円の赤字、[[1971年]](昭和46年)3月末で145億円の赤字となっていた。この赤字は1970年から1971年にかけて[[国会]]で[[野党]]から追及される材料にもなった。このため航空機工業審議会では銀行代表団による経営改善専門委員会が設けられ、赤字の要因と今後の対策が検討された。
 
 
 
経営改善専門委員会は1971年4月27日に、同じ航空機工業審議会の政策委員会に改善策の最終案を報告した。その内容は、
 
# YS-11はその段階で認可されていた180機で製造を打ち切り
 
# 1972年(昭和47年)度末の時点で一切の累積赤字を解消する
 
# 1973年(昭和48年)度以降の日本航空機製造はYS-11に関しては売却した機体の売掛金回収と、補修部品の供給などに専念する
 
とされた。
 
 
 
この報告を基に政策委員会は、同年7月31日に次世代旅客機「YX」計画の進め方とYS-11の処理方針の答申案を決定し、9月27日に通産大臣に答申した。赤字の見通しについて量産180機とその後の10年間のアフターサービスで360億円の赤字が発生すると計算された。赤字の内容は、1.売上の減少(早期の生産打ち切りの公表による買い叩きと、競合機との価格競争で販売価格の値引きによるもの)で31億円、2.補用品の売上が予想を下回ったことで40億円、3.販売費の増加で31億円、4.金利負担増により94億円、5.為替差損で153億円、6.原価上昇で11億円とされた。これは一機当たりの機体価格3億5,000万円では2億円の赤字を計上する計算となった<ref name="nakamura"/>。その上で答申は、赤字360億円については、日航製造の資本金78億円の取り崩し、政府負担金245億7,700万円、航空機製造各社の負担金36億2300万円で処理されることとなった<ref name="nakamura"/>。赤字の負担をめぐっては、政府の全額負担か、メーカー側にも応分の負担を求めるかで議論があったが、最終的にはメーカーも負担する形になった。
 
 
 
この時点でYSの民需は145機、競合機[[アブロ 748|ホーカー・シドレー HS748]]は118機で、YS-11はフレンドシップに次ぐ売り上げであった。YSは総数182機を生産し、昭和47年度末([[1973年]](昭和48年)3月)に生産終了となり、技術を伝える後継機となる[[YX|YS33]]の開発計画が進まないまま、日本航空機製造は[[1981年]]12月28日の閣議で、業務の[[民間]]への移管と[[1982年]](昭和57年)度中の解散が正式決定された。これに従い、1982年(昭和57年)8月1日に営業権を三菱重工に譲渡し、[[1983年]](昭和58年)3月23日に日本航空機製造は解散した。その後のアフターサービスは[[三菱重工業]]が請け負っている。
 
 
 
特殊法人である杜撰な経営と、次期開発機が組織の経営能力を超えた[[ジェット旅客機]]であった技術偏重の体質など、民間旅客機メーカーの体を成していなかったことで、日本航空機製造の赤字体質脱却は不可能であり、これ以上の[[税金]]の投入は無駄であるとみなされても仕方がなかった。他に、国内航空機メーカー各社が航空機設計の基礎技術を確立し、蓄積したことで、日本航空機製造の設立当初の目的を達したとの判断もあった。安全性、快適性、経済性を求める民間旅客機と、経済性や快適性を無視して限界性能や耐久性を重視する[[軍用機]]では素性が相反するもの、設計・生産方式も全く異なるものであり、航空機であっても、旅客機と軍用機は似て非なるものであった。軍用機を基に設計されたYS-11の素性では、旅客機としての機能が時代の進展と共に乖離し、期待した市場では受け容れ難く、現状のままでは今後の販売増加は見込まれないこともあった。日本航空機製造の解散を提言したのは当時の通産省重工業局長であった[[赤澤璋一]]である。赤澤は輸送機設計研究協会設立に奔走した当時の通産省重工業局航空機武器課課長でもあり、自らYS-11の立ち上げと、その幕引きを行うことになった。<ref name="nakamura"/><ref name="maema-a"/><ref name="maema-b"/><ref name="maema-c"/><ref name="maema-d"/><ref name="air_liner_club" /><ref name="sugiura"/>
 
 
 
戦後、日本の民間航空機工業の振興は通産省の主導だけで行われ、競合国と比較して航空機産業に対する国家の助成や制度が不備であり、旅客機の企画・設計・生産・販売・金融・プロダクトサポートに長期的な戦略を立てられなかったため生産中止に追い込まれた結果となった。旅客機の企画・設計・生産・販売・金融・プロダクトサポートには長期的な粘り強い戦略が必要なのは今日では明白である。旅客機は軍用機と違い、企画・設計・生産以上に販売とサービス体制の構築に時間と費用が嵩むものであった。特に、採算性が悪い近距離線を運航する航空会社は、収益を得るために開発費を抑えた価格の安い機体を求めることとなる。そのため、性能面では高い要求を出さず、機体構造や機能部品などが新しく性能の優れた機体よりも、既に開発・改良し尽くされて故障が少なく、耐用期間も長く、補修部品の入手も容易な信頼性の高い航空機を購入し、稼働率を高めて経費の節減を図っている。YS-11が短距離路線用で企画・設計された以上、対象とするユーザーである近距離路線を運航する航空会社に対して、その部品供給サービスを怠り、技術偏重から、後継機種に高い性能を指向した近距離のジェット旅客機を企画するなどは、資金難で経営不安説も流れた日航製がすべきことではなかった。本来の使命は、機体のコストダウンや批判されていた操縦面での改良、更なる経済性や快適性の向上であり、加えて補修部品の供給体制を含めた販売網の構築であった。しかし、それは航空機開発技術力の向上を求めた通産省や、機体製造に関わった航空機メーカー各社の望むものではなかったことがYS-11にとっての不幸となってしまった。
 
 
 
日本航空機製造が解散したことで、旅客機の設計、製造だけでなく、販売・金融・プロダクト・サポートなどのアフターサービスのノウハウなどの次世代への継承が行われず、その後の旅客機の設計・製造・販売能力を自ら放棄してしまったことになったが、以後の民間旅客機の企画・設計・生産・販売における教訓は残した。<ref name="maema-a" /><ref name="maema-b" /><ref name="maema-c" /><ref name="maema-d" /><ref name="sugiura" />
 
 
 
=== 日本国内定期路線からの引退 ===
 
[[File:大阪空港にてYS-11とかちimg052.jpg|thumb|1987年8月大阪国際空港、東亜国内航空時代のYS-11とかち]]
 
[[画像:YScampaign.JPG|thumb|引退間際に扉に塗装されたキャンペーンマーク]]
 
[[画像:TanegashimaYS11.jpg|thumb|引退間近の日本エアコミューター機。旧[[種子島空港]]にて]]
 
定期運航に処する航空機体への[[空中衝突防止装置|空中衝突防止装置(TCAS)]]の装備を義務づけた[[航空法]]改正により、改修経費の関係で[[2006年]](平成18年)[[9月30日]]のラストフライトをもって日本国内の民間定期路線より引退した。
 
 
 
日本国内の民間定期路線のYS-11の最終便は、[[日本エアコミューター]]が[[2006年]](平成18年)9月30日に同社が最初にYS-11を飛ばしたのと同じ[[沖永良部空港]] - [[鹿児島空港]]でのフライトが、沖永良部発15:55に行われ就航以来無事故での運航完了となった。なお、9月30日の引退の時まで運航していたのは、日本エアコミューターの福岡 - [[松山空港|松山]]、高知、徳島、[[鹿児島空港|鹿児島]]の4路線であり、松山、高知の2路線は9月29日の福岡行きが最終運航となった。徳島、鹿児島線は30日が最終運航で、徳島 - 福岡便は10:00徳島発、鹿児島線は同日12:10福岡発の便であった。なお、YS-11の初運行から最終運航まで一度も運行から離脱しなかったのは全国で[[徳島飛行場|徳島空港]]だけである。
 
 
 
[[沖永良部空港]]では地元の[[踊り子]]による[[エイサー]]で最終便を送り出し、鹿児島空港到着時には空港[[消防]]隊によるウォーターアーチと、ファイナルフライトの到着後に引退記念セレモニーが行われ、多くのパイロット、整備士、[[客室乗務員]]をはじめとする日本エアコミューターの社員、元日航製の社員などが多数出席し引退を惜しんだ。セレモニーには日本中のテレビや新聞、雑誌の取材が殺到し、ファイナルフライトと引退セレモニーの記事が多くの新聞の一面を飾った。
 
 
 
これらの9月30日のファイナルフライトに使用された機体はJA8766とJA8768で、JA8768は徳島から福岡への飛行後に鹿児島へ、JA8766が沖永良部への最終フライトを行った(ちなみにこの機体は「レッド&グリーン塗装時代」には「[[徳之島|とくのしま]]」、つまり隣の島の愛称がついていた)また、この機体の[[操縦桿]]を握ったのは航空雑誌や日本エアコミューターからも「ミスターYS」の愛称で親しまれていた本村栄一で、総飛行時間2万時間以上のうち、23年間をYSに捧げた人物であり、彼もこのフライトを最後に引退した。奇しくもYSの座席数と同じ64歳での出来事であった。運航終了後のYSについて保存の声も根強かったものの、機体性能には問題なく、十分に現役で飛べるため、2機とも[[フィリピン]]へ売却された。
 
 
 
民間定期路線のYS-11最終便となった、[[日本エアコミューター]]の沖永良部空港発鹿児島空港行は[[2006年]](平成18年)[[7月30日]]の発売開始から3分で完売した、しかしその後[[インターネットオークション]]に『2006年(平成18年)9月30日・日本エアコミューター・沖永良部発鹿児島行YS-11最終便搭乗券』1枚が出品されるという出来事があった。インターネットオークション[[運営]]会社と航空会社側が協力してインターネットオークションから「強制[[削除]]」され、出品された搭乗券は「[[無効]]扱い」とされた。なお、出品時の価格は「10万円」だったと言われている。
 
 
 
[[2007年]](平成19年)8月には[[新幹線0系電車]]などと共に[[機械遺産]](13番)に認定された。
 
<!--* また、有限会社バイク技術研究所によって元日航製のOBが設計した「YS-11」という軽量折り畳み自転車が11月に発売されることも発表された。一旦コメントアウト-->
 
 
 
[[2014年]]12月に[[国土交通省]][[航空局]]が所有していたJA8709を[[大阪府]][[八尾市]]の航空機部品販売ならび整備会社[[エアロラボインターナショナル]]が一般競争入札で落札<ref name="nhknw141225">{{Cite web|url=http://www9.nhk.or.jp/nw9/marugoto/2014/12/1225.html|title=YS-11 スクラップの危機 回避|publisher=[[日本放送協会|NHK]]ONLINE ニュースウォッチ9 特集まるごと|accessdate=2015-1-13}}</ref><ref name="fnnnw141217">{{Cite web |url=http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00282924.html |title=スクラップ危機の「YS-11」、大阪の航空機販売会社が落札 |publisher=[[フジテレビ|FNN]]NEWS JAPAN |accessdate=2015-1-13 |archivedate=2015-1-13 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20150113144859/http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00282924.html }}</ref><ref name="aviation wire20131218">{{cite news |title =  国交省のYS-11、223万円で落札 「来年飛ばしたい」|url = http://www.aviationwire.jp/archives/51899|publisher =[[aviation wire]]|date = 2013-12-18 | accessdate = 2013-12-18 }}</ref>。日本では[[航空法]]などの規制に適合しないおそれがあるため[[機体記号]]を[[アメリカ合衆国|アメリカ]]籍のN462ALへ変更する形で登録を行い、[[2015年]]3月にはエンジンの始動に成功<ref>{{Cite web|url=http://archive.is/t5taD|title=YS11、整備完了=4月中の再飛行目指す|publisher=時事ドットコム|date=2015-3-30|accessdate=2015-3-31}}</ref>。同年5月24日に[[連邦航空局]](FAA)から飛行を許可されたと発表<ref>[http://flyteam.jp/news/article/50307 エアロラボYS-11、5月27日羽田ローカルフライト、28日に高松へ]</ref>。羽田へこれ以上駐機できなくなったことで、同月27日に[[東京国際空港]]から[[高松空港]]の飛行を実施した<ref>[http://flightliner.jp/news/37411.html エアロラボのYS-11、羽田フライト決定 27日に高松空港へ]</ref>。
 
 
 
その時点では本機は未だ完全な修復には至っておらず、エアロラボインターナショナルは引き続き整備を継続すると共に再飛行と本格的な動態保存に向けた寄金を募っていた<ref>[http://www.aviationwire.jp/archives/62107 元航空局のYS-11、高松へフライト 修復すべて終わらず]</ref>。その後は同社が時折、エンジンを動かすなどして整備していたが高松空港が4月に民営化し、民営化に伴って定められた空港の供用規定で、機体を駐機できる期間を上限10日間とする項目が新設されたため、4月中旬からは違反状態になったことで運営会社が離陸を求めたことから高松空港での保管が難しくなった。そのため、能登空港に隣接する日本航空学園の敷地内に移して保管されることになった。2018年5月11日午前11時に離陸して付近を約30分間試験飛行した後、能登空港へ向けて再び飛行し同日に着陸した<ref>[https://archive.li/w2Slo 民間で唯一飛行可能なYS11、能登空港に到着]</ref><ref>[https://archive.li/4hyTX 3年ぶり離陸へ 高松空港から能登空港に]</ref><ref>[https://www.nikkan.co.jp/articles/view/00473003?twinews=20180511 国産プロペラ旅客機「YS11」、能登空港で保管へ 高松から離陸(更新)]</ref>。
 
 
 
=== その後の国産旅客機プロジェクト ===
 
実質的にYS-11プロジェクトの後継となる国産旅客機としては、2014年にロールアウトした三菱航空機の[[MRJ]]が挙げられる。また、YS-11に対しては正式に発注せずに終わった日本航空(JAL)も32機の[[MRJ]]を確定発注しており、2020年代前半から国内定期路線に投入予定である。
 
 
 
[[2015年]][[11月11日]]にはかつて53年前にYSが初飛行を行ったのと同じ名古屋飛行場において[[MRJ]]が初飛行に成功し、9年ぶりに国産旅客機が日本の空を舞った。
 
 
 
== 機体 ==
 
[[File:YS-11 JA8610 in Haneda Airport T101 Hangar.jpg|thumb|right|羽田空港T101格納庫で保管されているYS-11 JA8610。]]
 
機体の設計者たちは戦前に[[軍用機]]設計に携わってはいたが、旅客機の設計をしたことがない(それどころか乗ったこともない)者がほとんどであった。このため設計は軍用機の影響が強く、信頼性と耐久性に優れる反面、騒音と振動が大きく居住性が悪い、(後述する理由で)操縦者に対する負担が大きいという、民間旅客機でありながら軍用輸送機に近い性格の機体となってしまった。快適性・安全性・経済性が重視される民間機としては好ましくなく、運用開始した航空会社側からは、非常に扱いにくいという厳しい評価を受けた。
 
 
 
それでも日本の航空業界側は「日本の空は日本の翼で」という意識のもと、改修に改修を重ね、機体を実用水準に高めた。航空業界によって使える機体に育ったとも言える。やがて[[日本エアシステム|東亜国内航空]]では日本国外に輸出された機体を購入しなおすなど、YS-11に対する信頼性は大いに上がった。
 
 
 
機齢が40年を超えた機体も現れ始めたが、自衛隊や日本国外の[[航空会社|エアライン]]等では2013年現在も使用され続けている。航空大国アメリカでは「日本製の飛行機」、「ロールス・ロイス製エンジンを搭載した飛行機」、「ピードモント航空が使っていた飛行機」という形で知られている。
 
 
 
=== 頑丈さと過大重量 ===
 
YS-11の軍用機的性格が良い方に働いた例として、機体の頑丈さが挙げられる。航空先進国であった欧米では、民間輸送機開発に際してすでに耐用年数などを踏まえた合理的な機体設計を行うようになっていたが、YS-11は戦後日本で初の本格的旅客機であるため、[[安全率]]を過大なまでに確保していた。主翼については約19万飛行時間、胴体は約22万5千時間に相当する[[金属疲労|疲労]]強度試験を行っている。東京・[[調布市]]にある[[航空宇宙技術研究所]](NAL, 現[[宇宙航空研究開発機構|JAXA]])では26か月にわたり大きな[[水槽]]の中に胴体を沈め、内圧の増減を繰り返す胴体強度試験を行った([[コメット連続墜落事故]]の検証で使われたものと、ほぼ同じやり方である)が、9万時間までどこも損傷することはなかった(最終的に試験装置の方が損傷し、終了した)
 
 
 
しかしその頑丈さは重量増加という欠点にもなって跳ね返ってきた。近代旅客機の常道通りに総[[ジュラルミン]]製の[[モノコック]]構造であるが、強度重視で重量過大となり、出力の限られたエンジンに対しては重すぎる機体となった。元テストパイロットの沼口正彦は退役後のインタビューにおいて、「YS-11はパワー不足が目立った」とも語っている。YSの出力不足は、沼口に限らず多くのパイロットから指摘されている弱点である。全日空の[[機長]]としてYS-11に乗務したことがある[[内田幹樹]]はその著書『機長からアナウンス』で「最初はあまりのパワーのなさに驚いた」、「そのうえコクピットの居住環境も、寒すぎたり暑すぎたりとほんとうに最悪だった」、「飛行機マニアにいまでも人気が高いようだが、これはまったく理解できない」、「[[トヨタ・クラウン|クラウン]]に[[軽自動車]]のエンジンを乗せたような飛行機」、「パイロット仲間でもYS-11に愛着のある人をほとんど知らない」と酷評している<ref>
 
{{Cite book|和書
 
|author    = [[内田幹樹]]
 
|year      = 2004
 
|title    = 機長からアナウンス
 
|publisher = 新潮文庫
 
|isbn      = 978-4-10-116041-2
 
|pages = 210-212
 
}}</ref>。また重量のためタイヤに負担がかかり頻繁に交換が必要だという<ref name="otakuma">[http://otakei.otakuma.net/archives/2015022002.html 【宙にあこがれて】第50回 海上自衛隊クルーが語るYS-11] - [[おたくま経済新聞]]</ref>。
 
 
 
量産1号機にあたるJA8610は[[国立科学博物館]]によって[[東京国際空港|羽田空港]]のT101[[格納庫]]に保管されているが、同機はYS-11で唯一の[[動態保存]]機で、現在展示こそされていないものの、定期的にエンジンに火が入れられる予定となっており、「頑丈さを証明し、100年先も飛べるYSとして保存する」と言ったコメントも出されている<ref name="エアライン"/>。
 
 
 
=== 操縦性 ===
 
[[操舵]]系統には戦後主流になりつつあった[[油圧]]を使わず、[[操縦桿]]と[[動翼]]を[[ケーブル]]により直接つなげており、[[オートパイロット|自動操縦装置]]もなく(後に一部機体にはオートパイロット装備)、ほとんどを人力で動かしているため、沼口正彦を始め多くのパイロットが「世界最大の[[人力飛行機]]」と評している<ref name="otakuma" />。信頼性確保と軽量化を目的としての人力操舵採用であったが当然の結果として操縦に力を要し、通常は低速になると軽くなる動翼は常に重く<ref name="otakuma" />、特に[[エルロン]]が最も重いという<ref name="otakuma" />。また気流が乱れると[[自衛官]]ですら「腕がパンパンになる」と評するほど悪化し、展示飛行で急旋回する際には「ワイヤーが切れると思うほど」引く必要があるという<ref name="otakuma" />。海上自衛隊ではオートパイロットが装備されていない機体で訓練を行う際、30分ごとに交代するなどの対策を行っていた<ref name="otakuma" />。
 
 
 
離着陸に関してはパイロットから「上昇もしないんですけど、降りるのも降りてくれない」と評されており<ref name="otakuma" />、主翼が長めであるため滑空性能が強すぎることが指摘されている<ref name="otakuma" />。
 
 
 
このように特有の問題を抱えていたため、[[管制官]]も降下指示を早めに出したり急かさないなど配慮をしていたという<ref name="otakuma" />。
 
 
 
=== 客室設備 ===
 
[[便所|トイレ]]を装備しているが、当時の輸送機にはまだ多かった蓄積方式(いわゆる[[汲み取り式便所|汲み取り]]構造で、[[消毒]]・消臭液を汚物タンク部に溜めてある)を採用しており、[[便器]]に水を流す設備はなかった。汚物の液体分だけを漉し取って消毒液を混ぜ、便器の水洗に利用する「循環式」は、YS-11では採用に至っていない。トイレ内の照明はかなり暗めに設定されていた。この他にも冷暖房が必要な時期になると空調関係が不安定になりやすい<ref name="otakuma" />など、快適装備は旧来型で信頼性も高いとは言えなかった。
 
 
 
荷物棚が座席上部に存在するが、ここは[[帽子]]ぐらいの大きさのものしか収納できない(いわゆるハットラック)ため、大きな荷物は搭乗前に手[[荷物]]として預けるか、座席の下に置く必要があった<!-- 足元に置かず座席の下に置くよう言われる -->。機内の照明には丸形の[[蛍光灯]]が使用されており、一昔前の[[バス (交通機関)|バス]]を思わせる内装となっていた。日本国外で活躍している機体もほぼ機内は無改造のまま使用されていることが多く、カーゴ設備や機内サービス器具、座席上部の読書灯などにその名残を見ることができる。
 
 
 
一方で、初期の機体には内蔵式の[[タラップ]]([[エアステア]])が用意されておらず、地上設備の貧弱な地方空港での運用に難があるなど、ここでも旅客機としては使い勝手の悪い面が見られた。なお、後にユーザーの要望を受けて、内蔵式タラップも装備されている。
 
 
 
<gallery>
 
画像:Retired YS11 Cockpit.JPG|[[旅客機のコックピット|コックピット]]
 
File:YS-11 JA8772 inside.jpg|機内
 
画像:YSHIJOGUCHICHUIGAKI.jpg|[[非常口]]注意書き
 
画像:YS-11 ducts and lamps.JPG|上から冷気吹き出し口・読書灯・[[客室乗務員]]呼び出しボタン
 
画像:YSrestroom.JPG|トイレ
 
画像:YSpropeller.JPG|[[プロペラ]]とエンジンナセル
 
</gallery>
 
 
 
== 派生型 ==
 
YS-11にはいくつかの派生型式が存在する。機体の用途による違いで分かれているが、さらに納入先によって細かく区分されている。また、製造番号が付けられており、先行試作機2機は1001・1002、以下量産機は2003 - 2182である。
 
 
 
=== YS-11-100 ===
 
[[File:Philippine Airlines NAMC YS-11 Volpati.jpg|thumb|right|220px|フィリピン航空のYS-11-100(1979年)]]
 
* 生産機体番号 - 2003 - 49、58
 
2003(量産1号機)から2048が該当する初期の生産型。2010からは乗降口をスライド式の[[プラグドア]]に変更、2040から翼の防氷装置をヒーター<!--電熱式?、機関余熱式?-->からラバーブーツ方式([[ゴム]]膜に空気を送り込む)に変更した。納入先によって仕様が細かく違うことから形式名称が違う。[[日本エアシステム|日本国内航空]](形式:106、108、109、124)が12機、[[全日本空輸|全日空]](102、111)が9機、[[東亜航空]](104、114)が7機、[[航空自衛隊]]輸送機Pが4機(103、105)、[[運輸省]]航空局が3機(104、110、118)[[海上自衛隊]]輸送機M(112、A-113)が2機、航空大学校(115)が2機、輸出はフィリピナス・オリエント航空(107、116、121)が4機、また、[[リース]]でピードモント航空、[[大韓航空]]、ランサ航空、ハワイアン航空、クルゼイロ航空、[[アルゼンチン航空]]が採用した。このうちJA8612として使用された機体が定期便初就航の「聖火号」である。
 
 
 
海上自衛隊の輸送機Mのうち1機は2058だが、特別に100形 (A-113) として生産された。
 
 
 
=== YS-11A ===
 
[[1967年]](昭和42年)製造の2050(通算50号機)以降の機体で、輸出を見込んで大幅に改良を施した。これはアメリカ中西部の中古機や航空部品販売を行うディーラーであるシャーロット・エアクラフト社がアメリカでの販売代理権の取得を目指して提案してきたことを受け入れた仕様であった。同社がコンサルタントを使い競合機(フェアチャイルド[[FH-227]])との比較において、運航コスト、離着陸性能が優れ、短距離ローカル線で需要があると判断したが、ペイロード(有償荷物重量)が少ないとの指摘を受けて改良されたものであった<ref name="nakamura"/>。
 
 
 
エンジンは[[タービン]]の耐熱性向上とプロペラ[[減速機|減速歯車]]の強化によって出力を10%増加させ、[[ペイロード (航空宇宙)|ペイロード]]を1トン増やした。合わせて各部の設計変更を行い、主脚ドアの内面を平滑にして脚下げ時の速度を289km/hから389km/hへ向上、同時に急降下の際に脚を[[空力ブレーキ|エアブレーキ]]として使用できるようにした。座席の座面クッションを着水時の浮き具として使用できるものとし、座席間隔も860mmから790mmに改めて、64席に増やした。
 
 
 
2070からは内装を[[人造皮革|レザー]]張りから[[合成樹脂|プラスチック]]に改め、[[カーテン]]も[[シャッター]]式[[ブラインド]]として、ライバルになると目されたフォッカー[[F-28]]などに対抗した。また、[[オプション]]として[[補助動力装置]](APU)を搭載可能とし、[[エアコンディショナー|空調]]・[[発電]]・[[油圧]]装置・エンジン始動を地上設備なしで作動可能とした。これは地上設備の貧弱な日本国外の地方空港乗り入れを目指したものである。2075からは乗降口高さを体の大きな欧米人に合わせて1.6mから1.75mに拡大、2078からはエンジンを、タービンブレードの材質変更で高温時の最大出力を4%増加したダートMk542-10Jに 、2092からは減速歯車を補強して耐久性を向上したダートMk542-10Kに変更した。
 
 
 
=== YS-11A-200 ===
 
[[File:NAMC YS-11A, Phuket Air AN0923039.jpg|thumb|right|200px|プーケット航空のYS-11A-200(2005年)]]
 
* 生産機体番号 - 2050 - 57、59 - 69、75 - 85、90 - 103、108 - 121、123、126、127、130 - 138、141 - 149、152、154、155、157 - 159、163 - 168、175 - 178
 
YS-11Aのうち、標準形式の旅客型である。95機が生産された。最初の発注者であるピードモント航空はYS-11-100をリース購入していたが、頑丈な機体を気に入ったものの、機内設備などがアメリカの標準的な機内サービスの水準を満たすには程遠く、日航製は改良提案を受け入れて対応した。
 
 
 
ピードモント向けは205型で、電子装置を一新した。アメリカの標準に合わせるためオートパイロットを[[スペリー]]製とし、フライトディレクターシステム・エアデータコンピュータ・[[電波高度計]]を追加し、アメリカ連邦航空局(FAA)の[[計器着陸装置|カテゴリーII着陸]]の追加証明を獲得した。さらに[[航空計器|計器類]]を刷新、[[インバータ]]の増設、左プロペラにブレーキ設置、前脚[[ステアリング]]を50度から60度に変更、床下貨物室を後方へ60cm拡大した。機内設備はアメリカの航空会社の標準とし、前方乗降口を[[非常口|非常用]]に使用するため[[客室乗務員]]席を前方に増設、[[ギャレー]](調理設備)装備もアメリカの水準に合わせたものを、トイレもジェット機で使う[[水洗式便所|水洗]]式に、洗面台には給湯器を設置、座席を米国製に変更し、前方にコートルームを増設した。当時は日本製品の信頼性が高くなく、前述の通り、ピードモント航空では乗客の心理を配慮して[[広告]][[宣伝]]や[[時刻表]]には「ロールスロイス・プロップジェット」と表記し、日本製やYS-11の表示は行わなかった。
 
 
 
ピードモントは205型を20機採用、続いてクルゼイロ航空が202型を8機、[[VASP航空|ヴァスプ航空]]が211・212を6機、[[オリンピック航空]]が220を6機、[[チャイナエアライン|中華航空]]が219を2機、ポーラック・インドネシア航空が222を1機採用した。また、国内では全日空が208・213をリース含め計29機で最大のカスタマーとなり、東亜航空が217・221を11機、南西航空が209・214を5機、[[海上保安庁]]が207を2機、[[海上自衛隊]]が機上作業機T-Aに206を4機、[[航空自衛隊]]が飛行点検機(FC)に218を1機採用した。また、リースとしていくつかの航空会社に引き渡された。
 
 
 
機体の多くは最初に発注された航空会社で使用された後も、第2・第3次カスタマーによって運用され、そのほとんどが500型に、後にカーゴ([[貨物機|貨物型]])に改造された。
 
 
 
=== YS-11A-300 ===
 
* 生産機体番号 - 2070 - 74、86 - 89、105 - 107、128、129、139、182
 
YS-11Aのうち、旅客・貨物混載の機体である。16機製造。前方が貨物室、後方が客室で、自動式[[タラップ]]を内蔵した乗降口を後方へ移動し、前方左側には横2.48m・縦1.83の油圧式カーゴドアを増設し、大型貨物の搭載を可能とした。また前方の床は強化された。カーゴドアはプロペラ回転面を避けるため、自衛隊の貨物機400よりも横幅を縮小している。キャビンは隔壁の移動により、30席、38席、46席の混載型、50席から62席までの全旅客型にそれぞれ転換が可能である。
 
 
 
大韓航空が310型を4機、オーストラル航空が309を3機、トランスエアが306を2機、[[エール・アフリック|エアアフリク]]が302・314を1機ずつ、[[ガボン]]政府が318を1機、日本国内航空が307を1機、航空自衛隊が305を1機、海上自衛隊が1機(320→625として納入)採用、その他リース機として生産された。多くは600型に、その後にカーゴへ改造された。
 
 
 
後ろから乗るYSとして、YSのマイナーチェンジタイプとしては最も異彩を放った存在であった。
 
 
 
=== YS-11A-400 ===
 
* 生産機体番号 - 2124、125、150、151、160-162、174
 
YS-11Aの貨物専用機である。航空自衛隊に7機(402型)と海上自衛隊に1機(404型)が納入されたが、民間からの受注はなかった。胴体後部左に横3.05m・縦1.83mのスライド式カーゴドアを設置、床は全面補強を行い、44席のパッセンジャーシート、3人がけの[[小隊|トループ]]シート14基(42席)を設置可能、[[担架]]は24台を輸送できる。航空自衛隊では小型物資投下ドアも設置されている。
 
 
 
=== YS-11A-500 ===
 
[[ファイル:151101 Misawa Aviation & Science Museum, Aomori Japan53s3.jpg|thumb|YS-11A-500・JA8776<br />([[青森県立三沢航空科学館]]で撮影)]]
 
* 生産機体番号 - 2122、153、156、179
 
* 改造機体番号 - 2050 - 57、61、62、64、65、69、75、77 - 79、81、91、92、94 - 99、109、111 - 114、117 - 122、126、127、131、141、142、147、149、152 - 154、156、157、163、165、166、176、178
 
YS-11A-200のエンジンを542-10Kに換装し、ペイロードを500kg増加した機体。最大離陸重量も増加したため、運用能力が向上した。ピードモントが1機(205/500)、オリンピックが2機(220/500)、[[フィリピン航空]]が1機(523)採用した。また、200のうち54機が改造された。最後まで残った日本エアコミューターの4機はこのタイプである。日本ではJA8766(製造番号2142)・JA8768(製造番号2147)の機体が最後の最後まで使用され、ファイナルにはJA8766が使用されていた。このシリーズには後にオートパイロットや[[TCAD]]などの追加装備を施したものも存在している。
 
 
 
=== YS-11A-600 ===
 
[[File:Mid Pacific Air NAMC YS-11A-600 Silagi-1.jpg|thumb|right|200px|ミッドパシフィック航空のYS-11A-600(1981年)]]
 
* 生産機体番号 - 2104、140、169 - 173、180、181
 
* 改造機体番号 - 2070、71、72、73、89、106、128、172
 
YS-11A-300のエンジンを542-10Kに換装し、ペイロードを500kg増加した機体。最大離陸重量も増加したため、運用能力が向上した。海上自衛隊がT-Aとして2機(320-624)、ペリタ・エアサービスが2機(320/623)、リーブ・アリューシャン航空が2機(320/623)、ソシエテ・ジェネラル・アリマンタシオンが1機(321/627)、[[ガボン]]政府が1機(321/621)、ポーラック・インドネシアが1機を採用した。また、300のうち8機が改造された。
 
 
 
このタイプも-300同様、搭乗の際は後ろ側から乗り込む形となり、[[全日本空輸|全日空]]のラストフライト機にはこのタイプが使用された。
 
 
 
=== YS-11A-500R ===
 
* 改造機体番号 - 2101、102、103、108、115、116、133、146
 
YS-11A-200のエンジンにMk543を搭載、高[[気温]]・[[高地]]運用時の片発上昇性能が向上したことで、離陸重量制限が緩和された。開発段階では'''YS-11R'''であり、[[1972年]](昭和47年)7月に型式証明を取得した。全日空の213のうち、8機が改造の対象となった。
 
 
 
=== YS-11A-CARGO ===
 
* 改造機体番号 - 2050 - 53、56、62、70-73、75、77、86-88、104-106、113、114、117、120、129、139、140、154、169、170、171、173
 
YS-11Aの第3次カスタマーが運航している、YS-11の最終形態と言える機体である。その名の通り全室[[貨物機]]であり、200/300/500/600のうち、最後まで残った機体の中から30機が[[改造]]された。
 
 
 
=== 計画機 ===
 
赤字が問題になっていた日航製だったが、通産省の主導で[[1967年]](昭和42年)頃より、YS-11の後継機種([[YX]])の構想を練っていた。[[1970年]](昭和45年)には二つの派生型まで用意していた。しかし翌年末の[[1971年]](昭和46年)に政府決定によりYS-11が生産中止となったため、計画も放棄された。
 
 
 
; YS-11J
 
: YS-11の[[リージョナルジェット]] タイプ
 
:* 全長29.5m、全幅32m、全高8.5m。
 
: 主翼の上に[[ロールス・ロイス]]/[[スネクマ]](SNECMA) M45H[[ターボファンエンジン]]を搭載、[[後退翼|後退]][[尾翼]]に改造し、最高高度7,620m(2万5千フィート)航続距離2,100km、巡航速度650km/hを目指した。設計図や当時の詳細パンフレットなども残っており、ジェット機は通常翼の下部分にエンジンがあるが、この機体の[http://www.geocities.jp/serena3430044/YS11JCRZEIRO_4.jpg イラスト]ではエンジンを翼上に搭載したタイプである。
 
; YS-11S
 
YSX YS-11の短距離離着陸 ([[:en:STOL|STOL]]) タイプ
 
:* 全長28.8m、全幅29m、全高7.3m。
 
: エンジンを4基搭載、尾翼を大幅に改造して、航続距離900km、600m級の滑走路で離着陸が可能とされた。[[1970年]](昭和45年)に[[アメリカン航空]]が、短距離の都市近郊路線へのSTOL機導入のため、[[1974年]](昭和49年)に国際競争入札すると発表したことから計画した。入札内容は47席以上のコミューター機、開発費のかからないもの、20機から300機を購入するとしていた。候補に選ばれたのは日航製のほか、[[ホーカー・シドレー]]、コンベア、[[デ・ハビランド・カナダ]]、[[マクドネル・ダグラス]]。
 
; YS-33
 
{{Main|YX}}
 
: [[1967年]](昭和42年)に通産省がYS-11の後継機種(YX)として研究を開始した。[[1968年]](昭和43年)に90席前後の[[ターボジェット]]機として構想され、市場調査と基礎設計を開始した。[[1969年]](昭和44年)に「YS-33」と呼ばれるようになり、1300mの滑走路で離着陸性能を持つ90席前後の機体で、3発ジェットエンジンのDC-10に似た[http://www.geocities.jp/serena3430044/YS33.jpg 機体]となった。[[1970年]](昭和45年)に構想は更に大型化して、180席クラスのロールスロイス・ターボファンエンジン換装の機体にまで拡大した。ロールスロイス社がエンジンの開発を中止したことや、開発予算が膨らんだことに加え、日航製の赤字問題で[[1971年]](昭和46年)に開発が中止された。
 
: この研究は後に締結される[[ボーイング]]社との国際共同開発の基礎となった。
 
 
 
== 運用 ==
 
合計182機(国内民間機75機、官庁34機、輸出13カ国76機など)が製造され、日本をはじめとする各国の航空会社や政府で使用された。一方で日本国内だけで4件の[[航空事故|事故]](うち墜落3件)を起こした。
 
 
 
日本国内ではローンチ・カスタマーとなった全日空で[[1970年代]]30機の保有がピークとなり、[[1980年]]頃より順次退役し、[[1991年]](平成3年)8月31日の[[新潟空港|新潟]] - [[仙台空港|仙台]]間・ANA720便が最後の運航となった。一方、[[1971年]](昭和46年)に[[日本国内航空]](JDA)と[[東亜航空]](TAW)が合併した[[東亜国内航空]](TDA)では、[[1980年代]]には42機を保有する最大のオペレーターとなっていた。既に機体は生産中止となっていたことから、日本国外の中古機を買い戻して調達していた。これはTDAが抱える多くの路線が、騒音問題や空港施設の関係から、YS-11に依存しなければならなかったことが理由である。
 
 
 
[[File:YS11ARIGATOUNIPPONNOTSUBASA.JPG|thumb|引退直前のJACのYS-11]]
 
 
 
しかし、経年と共に整備費用(維持費)が上昇したことで、YS-11の経済効率の悪さが顕著になって行き、[[搭乗]]率が高くとも運航経費の上昇で赤字となる路線が多かった。[[1975年]](昭和50年)の整備費の[[指数]]を100とすると、[[1977年]](昭和52年)には193.7、[[1978年]](昭和53年)に228、[[1979年]](昭和54年)には249.1となり、加えて、燃料費の高騰、[[公租公課]]の上昇と、経済性は下がる一方となり、YS-11の就航路線で黒字を計上する例は僅かとなり、ほとんどが赤字路線へと転落、[[1994年]](平成6年)3月8日の[[南紀白浜空港|南紀白浜]] - 東京便を最後に同社([[日本エアシステム|JAS]])から引退した<ref name="nakamura"/>。
 
 
 
日本国内の民間航空機としては引退したが、その頑丈なつくりのため、各国に輸出された機体にはまだ現役にあり続けるものも少なくなく、タイやフィリピンなどではまとまった数の機体が各航空会社で活躍している。また、[[ギリシャ]]では、海運王[[アリストテレス・オナシス]]率いる[[オリンピック航空]]への輸出機が転籍を経て、現在も[[ギリシャ空軍]]機として使用されている。[[政府専用機]]として[[国家元首]]の移動に使用された機体もある。また、大韓航空にリースされた1機は[[ハイジャック]]され、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]に抑留状態となった(乗客乗員51名の内39名が韓国へ移送)抑留された機体のその後は不明である([[大韓航空機YS-11ハイジャック事件]]参照)
 
 
 
日本国内の官庁向けでは、10機が[[海上自衛隊]]、13機が[[航空自衛隊]]、5機が[[海上保安庁]]、6機が[[国土交通省]](旧運輸省)航空局に納入され、通常の輸送任務のほか[[練習機]]や各種任務機として配備運用されている。航空自衛隊では[[C-1 (輸送機)|C-1輸送機]]導入までのつなぎとして導入したのが始まりだが、後にエンジンをより強力な[[GE・アビエーション|ゼネラルエレクトリック]](GE)製のT64に換装して性能を向上したYS-11EA/EBが登場した。これらは俗に「スーパーYS-11」と呼ばれる。[[1990年]](平成2年)[[海上保安庁]]のYS-11「おじろ」は[[樺太]](サハリン)から全身火傷の[[コンスタンティン・スコロプイシュヌイ]]を搬送する作業に使用された。
 
 
 
日本国内の民間航空会社においては、日本の[[航空法]]が設置を義務付ける[[空中衝突防止装置]]([[空中衝突防止装置|TCAS]])が搭載されていないため、機体寿命より早く引退した。特例期間として[[2003年]](平成15年)[[9月30日]]まではTCASの装備なしでも飛行可能であったが、当時運航していた2社の内、[[エアーニッポン]]機材は同年[[8月31日]]をもって全機退役させることになり(最終フライトはJA8772で[[女満別空港|女満別]]から[[新千歳空港|新千歳]])、[[日本エアコミューター]]はTCASの簡易版である空中衝突警報装置(TCAD)の装備により、法律上は[[2006年]](平成18年)[[12月31日]]まで運航可能の特例が認められた。上記によって[[2004年]](平成16年)には、日本国内において就航させていた航空会社は日本エアコミューターのみとなり、[[2006年]](平成18年)[[9月30日]]に法律上の期間を満了することなく全路線から撤退した。しかし日本国外では中古機を含めて当分は旅客機として活躍すると思われる。また、TCAS設置が義務付けられていない自衛隊においては、航空自衛隊にて現役で使用されているほか、[[学校法人日本航空学園|日本航空学園]]では地上訓練用の教材として現役を続けている機体が存在する。
 
 
 
== 導入航空会社(リース含む) ==
 
日本の主要航空会社の他、[[アジア]]、南北アメリカ、[[ヨーロッパ]]、[[アフリカ]]の航空会社に新造機として導入された他、ギリシア政府やフィリピン[[政府専用機]]および空軍機としても運航されていた。その後転売を重ねられた機体も多く、[[2010年]]7月現在、各国の航空会社で運航されている機体は10-20機程度とみられ、その他に同数程度の機体が[[動態保存]]されているとみられる。
 
 
 
=== 日本 ===
 
[[画像:YS-11 JAC Itami.jpg|thumb|日本エアコミューターのYS-11 [[大阪国際空港]]]]
 
[[画像:Ys11_ank_ja8772.jpg|thumb|エアーニッポンのYS-11(JA8772、[[大島空港]])]]
 
* 日本国内航空・東亜航空→東亜国内航空→[[日本エアシステム]](現[[日本航空]]):後に[[日本エアコミューター]]へ転籍した機体がある。
 
* [[日本航空]]([[ウェットリース]])
 
* [[全日本空輸]]([[ローンチカスタマー#日本のメーカー|ローンチカスタマー]]) :後に[[エアーニッポン]]へ転籍した機体がある。
 
* 南西航空(現[[日本トランスオーシャン航空]])
 
* [[中日本航空]](試作2号機を運用:旅客定期便ではなく資源調査のための空中磁気探査に使用された。)
 
 
 
=== アジア ===
 
[[File:Asianspirit.jpg|thumb|right|[[エアアジア・ゼスト]]の  YS-11]]
 
[[File:Aboitiz Air NAMC YS-11 Volpati-1.jpg|thumb|right|アボイティス航空 YS-11 2003年]]
 
* [[大韓航空]]([[大韓民国]]、新造機導入)
 
* [[チャイナエアライン|中華航空]]([[中華民国]]、新造機導入)
 
* フィリピナス・オリエント航空(フィリピン、新造機導入)
 
* エアー・フィリピン(フィリピン、新造機導入)
 
* [[フィリピン航空]](フィリピン)
 
* アボイティス航空([[フィリピン]])
 
* [[エアアジア・ゼスト|アジアン・スピリット航空]](フィリピン)
 
* サウス・フェニックス航空(フィリピン)
 
* ピラミッド航空(フィリピン)
 
* [[プーケット航空]]([[タイ王国]])
 
* エア・フェニックス(タイ王国)
 
* ブーラク航空([[インドネシア]]、新造機導入)
 
* [[マンダラ航空]](インドネシア、新造機導入)
 
* [[メルパチ・ヌサンタラ航空]](インドネシア、新造機導入)
 
* ペリタ・エアサービス(インドネシア、新造機導入)
 
 
 
=== ヨーロッパ ===
 
[[File:NAMC YS-11A, Greece - Air Force AN0192354.jpg|thumb|NAMC YS-11A of the [[ギリシア空軍]] (1993)]]
 
* [[オリンピック航空]]([[ギリシア]]、新造機導入)
 
[[File:Mey-Air NAMC YS-11A LN-MTA.jpg|thumb|right|Mey-Air]]
 
* Mey-Air(ノルウェー)
 
 
 
=== 南アメリカ ===
 
* [[VASP航空]]([[ブラジル]]、新造機導入)
 
* [[クルゼイロ航空]](ブラジル、新造機導入)
 
* [[ヴァリグ・ブラジル航空]](ブラジル)
 
* [[アルゼンチン航空]]([[アルゼンチン]]、新造機導入)
 
* アラ航空(アルゼンチン、新造機導入)
 
* [[アウストラル航空]](アルゼンチン)
 
[[File:NAMC YS-11A-309 LV-JIJ Austral AEP 26.04.72 edited-2.jpg|thumb|right|[[アウストラル航空]]のYS-11A [[ホルヘ・ニューベリー空港]]1972年]]
 
* LANSA航空([[ペルー]]、新造機導入)
 
* アエロダン([[メキシコ]])
 
* アエロシエラ・デ・デュランゴ(メキシコ)
 
 
 
=== カリブ海沿岸 ===
 
[[File:YS-11A-500 Taxing out of the ramp.jpeg|thumb|エア・カリビアンのYS-11(ピアルコ国際空港)]]
 
* エア・カリビアン([[トリニダード・トバゴ]])
 
* アルバ航空([[オランダ]]領[[アルバ]])
 
 
 
=== 北アメリカ ===
 
* [[ピードモント航空]]([[アメリカ合衆国|アメリカ]]、新造機導入)
 
* [[ハワイアン航空]](アメリカ)
 
* [[リーブ・アリューシャン航空]](アメリカ、新造機導入)
 
* [[ミッドパシフィックエア]](アメリカ)
 
* エアボーン・エクスプレス航空(アメリカ)
 
* パシフィック・サウスウェスト航空(アメリカ)
 
* プロビンスタウン-ボストン航空(アメリカ、新造機導入)
 
** [[コンチネンタル航空|コンチネンタル・エクスプレス]](アメリカ、運航はプロビンスタウン-ボストン航空)
 
* シモンズ航空(アメリカ)
 
** [[アメリカン航空|アメリカン・イーグル航空]](アメリカ、運航はシモンズ航空)
 
* トランス・セントラル航空(アメリカ)
 
* フォートワース・エア(アメリカ)
 
* カナダトランス航空([[カナダ]]、新造機)
 
 
 
=== アフリカ ===
 
* [[エール・アフリック]]航空([[コートジボワール]]、[[セネガル]]など、新造機導入)
 
* ソシエテ・ジェネラル・アリマンタシオン航空([[ガボン]]、新造機導入)
 
* ガンビア航空([[ガンビア]])
 
 
 
== 採用官公庁 ==
 
=== 自衛隊 ===
 
[[自衛隊]]では[[1965年]](昭和40年)から[[1973年]](昭和46年)までにYS-11を23機導入した。内訳は[[航空自衛隊]]13機、[[海上自衛隊]]10機であった。この採用には、世界への信頼誇示のため、[[防衛省|防衛庁]]に進んで採用してほしいとの強い要望が通産省から寄せられたという話もある。空自の一部の機体は[[ゼネラル・エレクトリック|ジェネラル・エレクトリック]]社製 T64-IHI-10J を搭載し、プロペラを3枚に変更した「スーパーYS-11」となっている。[[航空法]]改正により、日本の航空機は[[空中衝突防止装置]]の設置が義務付けられたが、自衛隊機は対象外であり、かつ民間機より飛行時間が短いため、民間YS-11が引退した後も運用されている。
 
 
 
==== 航空自衛隊 ====
 
[[画像:YS11P KAB012.jpg|thumb|200px|YS-11P 人員輸送機(美保基地)]]
 
[[Image:JASDF YS-11 Special marking.JPG|thumb|200px|YS-11P 美保基地開庁50周年記念特別塗装]]
 
 
 
[[画像:Ys11_fc.jpg|thumb|200px|YS-11FC 飛行点検機(入間基地)]]
 
[[画像:NAMC YS-11EB (YS-11A-305), Japan - Air Force AN1722042.jpg|thumb|200px|YS-11EA]]
 
[[画像:NAMC YS-11EB, Japan - Air Force AN1913282.jpg|thumb|200px|YS-11EB]]
 
航空自衛隊では[[C-46 (航空機)|C-46]]の老朽化が進んでいたことから、次期輸送機導入までのつなぎとして、[[1965年]](昭和40年)から[[1971年]](昭和46年)にかけて、人員輸送機'''YS-11P'''を4機、人員・貨物輸送機'''YS-11PC'''を1機、貨物輸送機'''YS-11C'''を7機、飛行点検機(フライトチェッカー)'''YS-11FC'''を1機、それぞれ購入した。後に大型の[[C-130 (航空機)|C-130H]]輸送機が導入されたことから、余剰となったYS-11Cを他用途に改造した。2機が[[電子戦]]訓練機'''YS-11E'''に、1機が航法訓練機'''YS-11NT'''に、2機が電子測定機([[電子戦機|電子偵察機]])'''YS-11EL'''に、2機がエンジンとプロペラを換装した「スーパーYS」電子測定機'''YS-11EB'''に、それぞれ改造された。EBの1機はPCからCとなったものを再改造した。YS-11ELの2機も後に「スーパーYS」化されて、YS-11EBに統合された。YS-11Eは「スーパーYS」に改造され、'''YS-11EA'''となった。YS-11Pも2機がYS-11FCに改造された。
 
 
 
部品不足により、2015年6月22日に最初の1機が用途廃止となった<ref>[http://mainichi.jp/select/news/20150623k0000e040229000c.html YS11:最初の1機、空自美保基地で引退式/鳥取] 毎日新聞</ref>。
 
 
 
; YS-11P
 
: YS-11-100の航空自衛隊の人員輸送機。Pは旅客を意味する英語のPassengerの頭文字。全国の航空自衛隊基地を定期・不定期で結んでいる。主翼内[[インテグラルタンク]]とバグタンクによって燃料搭載量を7,270Lとし、航続距離を延長した。キャビンとコックピットは全日空機と同様。客席は最前列だけを後ろ向きにしてボックスとし、座席ピッチは91cmで43席とゆったりしている。また、客室は軽貨物輸送パレットか患者輸送寝台に転換可能である。4機採用がされた。
 
:平成29年5月29日に1152号機の退役を以って、同型の全てが用途廃止となった<ref>[https://mainichi.jp/articles/20170530/k00/00m/040/038000c YS11:空自の輸送機が最終フライト 小牧基地で式典]毎日新聞</ref>。なお、同機退役までの52年間における総飛行時間は2万3872時間。
 
:; VIP仕様機
 
:: YS-11Pの1151号機と1152号機は要人や幹部の移送のため、VIP仕様として導入された。後方にラウンジとして左右内向きの3人がけソファーを設け、右前方の荷物室に航法士席とキャビン窓を増設、男子専用トイレも追加した。1151号は後に飛行点検機に改造され、1153号機がVIP仕様に改造された。また、キャビンが近代的に改修され、前方がVIP席としてテーブルを挟んで4人掛けのシートが左右1組ずつ、中ほどに横向きソファのラウンジ、後方が客室(28席)となった。
 
; YS-11PC
 
: 航空自衛隊の人員・貨物輸送機。PCは Passenger Cargoの略。P型に続いて採用した機体で、貨客混載のYS-11-300をベースとした。後にP型に統合。
 
; YS-11C
 
: YS-11A-400を航空自衛隊が[[輸送機]]として採用したもの。Cは貨物機を意味するCargo(カーゴ)の略。胴体後部左側に横3.05m・縦1.83mのカーゴドアを設置した全貨物機で、床が強化された。室内は客席にも転換可能で、パッセンジャーシート44席か3人掛けトループシート14脚42席、担架は24床を設置できる。7機を採用したが、C-130H導入によって余剰となり、全て他用途に改造された。
 
; YS-11E
 
: YS-11Cから改造された航空自衛隊の電子戦訓練機。Eは[[ECM]]の略。日本の[[領空]]を監視するレーダー網及び、その他レーダーによる防空部隊の機能を確認するため、[[ジャミング|妨害電波]]をかけ、その対応を訓練するための機体。胴体上面に大小の[[レドーム]]、胴体下面に2個の大型レドーム、胴体後部両側に冷却装置を設置した。これらの改造は[[日本飛行機]]が主体となって行われた。2機が改造された後、YS-11EAとなった。官民問わず日常的に使用される電波をも妨害する可能性があるため、運用は慎重かつ厳密に定められている。
 
; YS-11EL
 
: YS-11Cを改造した航空自衛隊の電子情報収集([[シギント|ELINT]])任務に使用される機体。ELはELINTの略。中高度で長時間飛行を行い、周辺国から発せられる電波や信号などの電子情報を収集、分析する機体。2機改造されたが、後にYS-11EBに改造された。
 
; YS-11EA
 
: YS-11Eを「スーパーYS」化改造した電子戦訓練機。E型で上下7箇所あったレドームを廃し、ブレードアンテナのみとなった。また、冷却機材収容部は右側のみに、機内のECM機材も能力向上型に改められた。2機。
 
; YS-11EB
 
: YS-11Cを2機「スーパーYS」化改造した電子測定機(電子情報収集機)。後にEL型2機も同型に改造して計4機。機体上下に二つずつのドームを付けているのが外見上の特徴(冷却機材収容部もEA同様右側のみ)[[2006年]]の北朝鮮テポドン・ノドン・スカッドミサイル発射事件の直前にはこの機体が米空軍のRC-135B電子偵察機とともに監視活動を行った。
 
; YS-11FC
 
: 航空自衛隊の飛行試験機。FCは飛行点検機を意味する Flight Checkerの略。胴体には[[VHF]]及び[[TACAN]]アンテナを増設し、機内に航空通信設備、[[航空交通管制]]施設を検査する自動点検装置、[[計器着陸装置]]、通信装置、グラフィックレコーダー、機上録音機、信号観測用[[オシロスコープ]]などなどの無線機材が詰め込まれ、補助電力装置 (APU) を搭載して電源としている。新造1機、YS-11Pの改造2機の計3機。後継機とし[[セスナ サイテーション・ラティチュード|サイテーション680A]]の導入が決定している。
 
; YS-11NT
 
: YS-11Cを改造した航空自衛隊の航法訓練機。NTは航法訓練機を意味する Navigation Trainerの略。自衛隊の航法士を育成する機体で、航法/通信アンテナや[[六分儀]]が設置されている。1機。
 
; スーパーYS
 
: 航空自衛隊の注文により、[[日本飛行機]]が[[川崎重工業航空宇宙カンパニー|川崎重工業]]と[[iHI|石川島播磨重工業]]の協力を受けて開発した機体。重量増加で飛行能力が下がったC型とE型のエンジンを[[P-2J (航空機)|P-2J]]で使用していた[[ゼネラル・エレクトリック|GE]]の[[ゼネラル・エレクトリック T64|T64-IHI-10E]]を-10Jに改修後、換装(再利用)、[[プロペラ]]をハミルトン・スタンダードの3枚ブレードに交換した機体の俗称。上昇限界高度は9,000mに向上し、航続距離も延長された。他のYSと飛行騒音が決定的に違うために現存するYSでもかなりの異彩を放っている機である。
 
{| border="1" class="wikitable" style="background:#ffffff"
 
|+ style="font-size:smaller;" | 航空自衛隊の機体
 
|-
 
! 製造番号 !! 機体番号 !! 派生型式 !! 初飛行 !! 導入 !! 採用型式 !! 改造年 !! 改造型式 !! 再改造年 !! 改造型式 !! 退役 !!備考
 
|-
 
|2008||52-1151||103||[[1965年]][[2月15日]]||[[3月30日]]||YS-11P||[[1992年]]3月||YS-11FC||||||||VIP仕様で導入
 
|-
 
|2009||52-1152||103||1965年[[3月13日]]||3月30日||YS-11P||||||||||[[2017年]]5月29日||VIP仕様で導入
 
|-
 
|2018||62-1153||105||[[1966年]][[1月9日]]||[[3月4日]]||YS-11P||||||||||2015年6月22日<ref>[http://www.mod.go.jp/asdf/miho/daisen/602.pdf だいせん第602号]</ref>||VIP仕様に改造
 
|-
 
|2019||62-1154||105||1966年[[2月20日]]||[[3月28日]]||YS-11P||[[1990年]][[12月20日]]||YS-11FC||||||||
 
|-
 
|2074||82-1155||A-305||[[1968年]][[7月25日]]||[[8月28日]]||YS-11PC||19xx年||YS-11C||[[1995年]]||YS-11EB||||
 
|-
 
|2124||92-1156||A-402||[[1969年]][[9月17日]]||[[10月28日]]||YS-11C||[[1977年]]3月||YS-11NT||||||||
 
|-
 
|2125||92-1157||A-402||1969年[[9月17日]]||[[10月29日]]||YS-11C||1991年[[4月5日]]||YS-11EL||19xx年||YS-11EB||||
 
|-
 
|2150||02-1158||A-402||[[1970年]][[8月15日]]||[[9月16日]]||YS-11C||[[1989年]]||YS-11P||||||||
 
|-
 
|2151||02-1159||A-402||1970年[[9月8日]]||[[10月6日]]||YS-11C||1989年||YS-11P||[[1996年]][[2月22日]]||YS-11EB||||
 
|-
 
|2159||12-1160||A-218||[[1971年]][[1月11日]]||[[2月25日]]||YS-11FC||||||||||||
 
|-
 
|2160||12-1161||A-402||1971年[[5月11日]]||[[5月28日]]||YS-11C||[[1983年]]||YS-11EL||[[1997年]][[1月14日]]||YS-11EB||||
 
|-
 
|2161||12-1162||A-402||1971年[[6月5日]]||[[6月25日]]||YS-11C||[[1979年]]2月||YS-11E||[[1999年]]||YS-11EA||||
 
|-
 
|2162||12-1163||A-402||1971年6月22日||7月15日||YS-11C||1976年3月||YS-11E||1991年[[9月12日]]||YS-11EA||||[[1993年]]7月配備
 
|-
 
|}
 
 
 
'''配備基地'''
 
* YS-11EA:[[入間基地]] [[航空戦術教導団]]-電子作戦群
 
* YS-11EB:入間基地 航空戦術教導団-電子作戦群
 
* YS-11FC:入間基地 飛行点検隊
 
* YS-11NT:[[美保飛行場|美保基地]] 第3輸送航空隊 第403飛行隊(2017年5月まで)
 
* YS-11P:美保基地 第3輸送航空隊-第403飛行隊(2017年5月まで)
 
 
 
==== 海上自衛隊 ====
 
海上自衛隊は[[1967年]](昭和42年)から1973年(昭和48年)にかけて前部が人員(40席)、後部が貨物の混載輸送機'''YS-11M'''を導入した。1・2号機はYS-11-100をベースにした機体だが、3・4号機はYS-11A-300・400をベースにしており、最大離陸重量が増加した。この2機は'''YS-11M-A'''として区別される。また、[[1970年]](昭和45年)から機上作業練習機'''YS-11T-A'''を6機導入した。2009年、4機のうち1機が事故により用途廃止になるのを皮切りに順次引退が開始され、2014年12月26日、アメリカ海軍から中古の[[C-130 (航空機)|C-130R]](アメリカ海軍が保管している中古のKC-130R空中給油機をアメリカ国内で動作可能状態に再生して、空中給油機能を取り外した機体)を6機を後継機に最後まで残っていた2機の退役を持って全機用途廃止となった。整備マニュアルは独自に作成した物を利用していたという<ref name="otakuma" />。
 
 
 
YS-11の退役に伴い、海上自衛隊の職域から[[機上通信員]]が無くなった<ref name="otakuma" />。
 
 
 
[[画像:Ys11m.jpg|thumb|200px|YS-11M]]
 
; YS-11M
 
: YS-11-100の海上自衛隊輸送機。海上自衛隊唯一の輸送機で、全国の海自航空基地を定期・不定期で結んでおり、[[硫黄島 (東京都)|硫黄島]]や[[南鳥島]]へ物資を輸送する『小笠原定期』に向かう際は座席半分を取り払って貨物スペースを拡大する<ref name="otakuma" />。
 
: 改造点は、貨物輸送のため床を強化、室内運搬装置の設置、胴体後部に大型カーゴドアを増設した。機内は60m<sup>3</sup>か最大容積8m<sup>3</sup>までの貨物を搭載できる。2機。
 
; YS-11M-A
 
: YS-11A-400と300/600の海上自衛隊輸送機。内装では特にMとの違いはないが、YS-11Aであることから基本性能が異なる。2機。
 
[[File:Shimofusa10-ys11t-1922nx-dai.jpg|thumb|200px|YS-11T-A]]
 
[[File:Aircraft NAMC YS-11.png|thumb|200px|エプロン上のYS-11T-A]]
 
; YS-11T-A
 
: 海上自衛隊の機上作業訓練機。[[対潜哨戒機]]に搭乗する乗務員を養成する機体で、胴体下部に巨大レドームを設置し、低高度任務が多いことから[[与圧]]室を廃し、空調は機器の冷却に使用されている。このため夏場は蒸し風呂となり、気圧差で耳が慣れるのに時間がかかるなど特有の問題を抱える<ref name="otakuma" />。
 
: 当初はP-2Jや[[PS-1]]の乗員を育成するため、哨戒機器もP-2Jの物を用意した。後に[[P-3 (航空機)|P-3C]]が導入されると、T-Aの機器も合わせて更新された。2011年5月31日全機用途廃止となった<ref>[http://www.boueinews.com/news/2011/20110715_4.html 第205教育航空隊、半世紀の歴史に幕(自衛隊ニュース2011年7月15日(4) - 防衛ホーム新聞社)]</ref>。これにより同年6月1日第205教育航空隊は解隊した。
 
 
 
{| border="1" class="wikitable" style="background:#ffffff"
 
|+ style="font-size:smaller;" | 海上自衛隊の機体
 
|-
 
! 製造番号 !! 機体番号 !! 派生型式 !! 初飛行 !! 導入 !! 採用型式 !! 退役
 
|-
 
|2033||9041||112||[[1967年]][[2月25日]]||同[[3月31日]]||YS-11M||2014年12月26日
 
|-
 
|2058||9042||A-113||[[1968年]][[2月17日]]||同[[3月15日]]||YS-11M||2014年12月26日
 
|-
 
|2100||6901||A-206||[[1969年]][[3月3日]]||[[1970年]][[2月28日]]||YS-11T-A||2011年5月31日
 
|-
 
|2123||6902||A-206||1969年[[9月5日]]||1970年[[6月15日]]||YS-11T-A||[[2010年]][[10月22日]]
 
|-
 
|2132||6903||A-206||1969年[[12月6日]]||1970年[[8月18日]]||YS-11T-A||2010年10月22日
 
|-
 
|2148||6904||A-206||1970年[[7月21日]]||[[1971年]][[4月28日]]||YS-11T-A||不明
 
|-
 
|2174||9043||A-404||1971年[[10月13日]]||同[[11月26日]]||YS-11M-A||2014年12月26日
 
|-
 
|2180||6905||A-320/624||[[1973年]][[3月15日]]||同[[12月20日]]||YS-11T-A||2011年5月31日
 
|-
 
|2181||6906||A-320/624||1973年[[5月15日]]||[[1974年]][[2月1日]]||YS-11T-A||2011年5月31日
 
|-
 
|2182||9044||A-320/625||1973年[[4月11日]]||同[[5月11日]]||YS-11M-A||2010年7月20日
 
|-
 
|}
 
 
 
; 配備基地
 
* YS-11M/M-A:[[厚木海軍飛行場|厚木航空基地]] [[第61航空隊 (海上自衛隊)|第61航空隊]](2014年12月まで)
 
* YS-11T-A:[[下総航空基地]] [[下総教育航空群]]-第205教育航空隊(2011年5月まで)
 
 
 
=== 海上保安庁 ===
 
[[Image:JCG YS-11 Ojiro.jpg|thumb|200px|おじろ2号]]
 
[[海上保安庁]]では、[[1965年]](昭和40年)の[[マリアナ海域漁船集団遭難事件]]により、多数の船員を救助できなかった痛手を教訓とし、「行動半径700[[海里]]において2.5時間の低空捜索能力を有する」長距離捜索救難機を導入することになった<ref name="mayama"/>採用されたYS-11Aは洋上での長距離飛行に備え、航法通信設備、[[六分儀]]、偏流計などの装備を追加、また、胴体後部には直径800mmの球形見張り窓(バブルウィンドウ)と横向き見張り窓、胴体下面にはシーマーカーなど標識投下装置2本、[[救命いかだ]]など物資投下口も設置された。翼内バグタンクのほかに815L入り胴体タンクを3個追加し、1,300kmの空域を低空で2時間半捜索できるようになった。LA701は尾部に磁気観測ヘッドを納めた強化プラスチック製の磁気探査装置ブームが装備されており、水路の[[地磁気]]と真方位、磁方位を定期観測していた。
 
 
 
[[1969年]](昭和44年)3月20日、羽田航空基地にLA701号機が導入され、同年には根室沖で発生した船舶火災事件で15名の救出に成功するなど、早くも航空救難に活躍した<ref name="mayama"/>。[[1971年]](昭和46年)11月にはLA702号機が就役し、2機体制となった。その後、新海洋秩序による[[排他的経済水域]]の設定に伴う業務拡大で、[[1977年]](昭和57年)度に[[全日本空輸|全日空]]の中古リース機を3機購入し直し、羽田・千歳・那覇に5機が配備され、日本の領海をカバーする体制が完備された。千歳と那覇の4機には[[1991年]](平成3年)5月に「おじろ」「しゅれい」の名が付けられたものの、羽田のLA701だけは名称がなかったが、[[1995年]](平成7年)5月に「ブルーイレブン」と名づけられた。[[2000年]](平成12年)からは「JAPAN COAST GUARD」のロゴ、次いでマスコットの「[[うみまる]]」シールも貼られた。
 
 
 
海上保安庁のYS-11Aは、救難や航路監視、領海警備、海底火山の観測などのほかにも、羽田所属機は[[特殊救難隊]]の空輸や[[南鳥島]]・[[硫黄島]]ロランC局の職員の送迎や物資運搬に、千歳所属機は冬季の[[流氷]]観測にも運用された。特に千歳所属機は、[[1990年]](平成2年)にサハリンで大火傷を負った少年[[コンスタンティン・スコロプイシュヌイ]]の北海道への救急搬送に用いられたほか、2度にわたるロシアへの緊急支援物資輸送に用いられた。「ブルーイレブン」はヨット捜索救助と中国密航船発見の功から、2度の長官表彰を受けた<ref name="mayama"/>。
 
 
 
老朽化により[[2009年]](平成21年)2月から解役が始まり、09年12月には「おじろ2号」が解役。最後まで残った「ブルーイレブン」も、42年間の総飛行時間は2万3,000時間以上に達していた<ref>{{Cite news |author=米田堅持 |url=http://mainichi.jp/select/wadai/news/20100529mog00m040013000c.html |title=YS11:最後の観閲式 今年度中に海保を引退 |newspaper=毎日jp |publisher=毎日新聞社 |date=2010年5月29日 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20100601021722/http://mainichi.jp/select/wadai/news/20100529mog00m040013000c.html |archivedate=2010年6月1日}}</ref>上に、航空法の改正で改造が必要なことから、2011年(平成23年)1月13日に解役。退役した機体は、部品取り用に航空自衛隊に提供された<ref name="さよなら"/>。後継機には、[[2006年]](平成18年)[[11月]]に、[[ボンバルディア・エアロスペース|ボンバルディア]]の[[デ・ハビランド・カナダ DHC-8|DHC-8 Q300]]海保仕様機を3機発注した。2009年(平成21年)から導入が始まっている。
 
 
 
{| border="1" class="wikitable" style="background:#ffffff"
 
|+ style="font-size:smaller;" | 海上保安庁の機体
 
|-
 
! 製造番号 !! 機体 !! 登録<br />番号 !! 機体<br />番号 !! 初飛行 !! 導入 !! 機体愛称 !! 配備 !! 退役 !! 備考
 
|-
 
|2093||A-207||JA8701||LA701||[[1969年]][[1月27日]]||[[3月20日]]||ブルーイレブン||[[東京国際空港|羽田航空基地]]||2011年1月||1995年5月命名
 
|-
 
|2175||A-207||JA8702||LA702||[[1971年]][[10月28日]]||[[11月30日]]||ブルーイレブン2||羽田航空基地||2010年3月||元千歳所属「おじろ2号」
 
|-
 
|2164||A-213||JA8780||LA780||1971年[[9月1日]]||[[1979年]][[3月2日]]||しゅれい1号||[[那覇空港|那覇航空基地]]||2009年11月||元全日空リース機
 
|-
 
|2167||A-213||JA8782||LA782||[[1972年]][[1月26日]]||1979年[[2月2日]]||おじろ2号||[[千歳基地|千歳航空基地]]||2010年3月||元全日空リース機
 
|-
 
|2177||A-213||JA8791||LA791||[[1973年]][[2月8日]]||[[1978年]][[12月1日]]||しゅれい2号||那覇航空基地||2009年11月||元全日空リース機
 
|-
 
|}
 
 
 
=== 航空局 ===
 
[[Image:YS-11-JA8709.jpg|thumb|200px|航空局 YS-11(JA8709)]]
 
[[運輸省]](現[[国土交通省]])[[航空局]]では飛行検査機として採用され、管制保安部に配属となった。前方右側の貨物扉を廃止、機体上面に短波・高周波アンテナ、2本のUHFアンテナ、後方下面にTACANアンテナ、2個のマーカーアンテナ、補助動力装置 (APU) の吸排気口増設などの改造が行われ、キャビンは前方に各種無線機器、自動操縦装置関係機器、オーディオ機器が置かれた作業室、後方を8名が搭乗できる客室とした。最初は機首部分と垂直尾翼、主翼先端が蛍光オレンジ色に塗られていたが、後に全身モノトーンホワイトと細帯に変更された。元[[日本エアシステム|東亜]]の2084(JA8709)は、後に[[飛行検査情報システム]]([[AFIS]])と[[空中衝突防止装置]](TCAS)を搭載していたが、老朽化のために[[2006年]](平成18年)[[12月22日]]に全機引退した。
 
 
 
航空局では後継機として[[ボンバルディア・エアロスペース|ボンバルディア]][[ボンバルディア CRJ|BD-700]]、[[サーブ 2000|サーブ2000]]、ボンバルディア[[デ・ハビランド・カナダ DHC-8|DHC-8 Q300]]を採用した。引退した2003(JA8610)は量産1号機であり、記念として[[国立科学博物館]]によって東京国際空港内で年間約900万円かけて動態保存されており、[[2007年]]には[[日本機械学会]]によって[[機械遺産]]に<ref>[http://www.jsme.or.jp/kikaiisan/data/no_013.html 旅客機YS11] - 機械遺産公式サイト。2016年5月9日閲覧。</ref>、[[2008年]][[4月]]には[[日本航空協会]]によって[[重要航空遺産]]に認定されている<ref>[http://www.aero.or.jp/isan/heritage/aviation-heritage-YS-11.htm 重要航空遺産 YS-11輸送機量産初号機(JA8610)および関連資料] - 日本航空協会公式サイト。2016年5月9日閲覧。</ref>。
 
 
 
製造番号2084の機体(JA8709)は中古機として1985年に航空局へ登録された後、2007年4月に用途廃止され、長らく東京国際空港(羽田空港)にて保管されていた。2014年12月に実施された競売で大阪府の[[エアロラボインターナショナル]]が機体を落札、レストアを実施して再飛行を目指している。2015年5月27日午後、羽田空港から[[高松空港]]に飛行した。
 
 
 
{| border="1" class="wikitable" style="background:#ffffff"
 
|+ style="font-size:smaller;" | 航空局の機体
 
|-
 
! 製造番号 !! 機体 !! 登録<br />番号 !! 初飛行 !! 導入 !! 愛称 !! 引退 !! 備考
 
|-
 
|2003||104||JA8610||[[1964年]][[10月23日]]||[[1965年]][[3月30日]]|| ||[[1998年]][[12月18日]]||[[国立科学博物館]]で永久保存
 
|-
 
|2021||110||JA8700||[[1966年]][[3月24日]]||[[1967年]][[1月24日]]||ちよだIII||[[1999年]][[1月29日]]||エアフィリピンに売却、スペア機材となる。
 
|-
 
|2047||118||JA8720||1967年[[9月11日]]||[[1968年]][[8月31日]]||ちよだIV||[[2006年]][[12月22日]]||
 
|-
 
|2048||115||JA8711||1967年[[10月6日]]||[[1972年]][[3月]]|| ||[[2002年]][[10月1日]]||元航空大
 
|-
 
|2049||115||JA8712||1967年[[10月13日]]||1972年3月|| ||2003年5月29日||元航空大→現[[崇城大学]]所有
 
|-
 
|2084||A-212||JA8709||[[1968年]][[10月9日]]||[[1985年]][[10月9日]]|| ||2006年12月22日||元ヴァスプ→[[日本エアシステム|東亜]]「よろん」→<br />[[エアロラボインターナショナル]](N462AL<ref>[http://flyteam.jp/registration/N462AL 機体記号 : N462AL (エアロラボ) 徹底ガイド | FlyTeam(フライチーム)]</ref>)
 
|-
 
|}
 
 
 
=== 後継機 ===
 
{{Multiple image|direction=horizontal|width=200
 
|image4=JASDF C-130H 20150906-01.JPG
 
|caption4=海上自衛隊のYS-11Mの後継機[[C-130 (航空機)|C-130R]]
 
}}
 
日本国外機を導入した[[国土交通省]]航空局・[[海上保安庁]]に対し、[[防衛省]]では機体年齢40年を迎えるYS-11の後継機計画について、ほとんど公表していない。海上自衛隊は一時期、後継機として[[ATR 72]]、[[デ・ハビランド・カナダ DHC-8|DHC-8 Q400]]、[[C-130J (航空機)|C-130J]]等が挙げられたが、その後白紙になった。2011年(平成23年)9月に後継機として、アメリカ海兵隊で使用され[[モスボール (軍事)|保管]]状態にあった[[C-130 (航空機)|KC-130R]]空中給油機を空中給油装備を外し、C-130R輸送機として6機導入し、2014年より配備された<ref>{{cite news |url=http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20110905-OYT1T01172.htm |title=中古のC130輸送機、海自配備へ…輸送力増強 |newspaper=YOMIURI ONLINE |agency=読売新聞 |publisher=読売新聞社 |date=2011-9-6 |accessdate=2012-10-15}}</ref>。
 
 
 
[[三菱重工業]]と[[経済産業省]]は、両者が開発を推進している新型航空機(環境適応型高性能小型航空機:当時MJ、現[[MRJ]])の採用を目指しており、[[2006年]](平成18年)[[5月31日]]に開催された、経済産業省主催の民間機開発推進関係省庁協議会において、三菱はMJ開発状況についての説明を行ったが、この時点でYS-11を業務運用している防衛庁・国土交通省・海上保安庁に対して、MJの採用を要望した。これに対して各省庁は「ニーズが合えば購入する」との認識を示したことから、官公庁ではMRJの開発経過を観察しながら、後継機選定を行うものと思われる。なお、防衛省[[航空幕僚監部]]では4機のYS-11EBの後継として、[[C-2 (航空機・日本)|C-2]]かC-130輸送機の改造型も検討している。一方、海上保安庁は2006年(平成18年)[[11月]]に後継として[[デ・ハビランド・カナダ DHC-8|DHC-8 Q300]]を3機発注し、2011年(平成23年)1月に、航空局では同年12月にすべて日本国外機に置き換えられた。
 
 
 
2016年(平成28年)12月、防衛省は残存するYS-11のうち[[飛行点検隊]]([[入間基地]])に所属する2機のYS-11FCの後継として[[セスナ サイテーション・ラティチュード|サイテーション680A]]を選定したことを発表した<ref>[http://www.mod.go.jp/j/press/news/2016/12/01a.html 飛行点検機の機種決定について](2016年12月1日)2016年12月9日閲覧。</ref>。同年4月に[[U-125御岳墜落事故]]で喪失したU-125 1機の分とあわせ3機を導入する。
 
 
 
== 記録 ==
 
YS-11は以下の記録を持っている。
 
 
 
=== 定時出発率 ===
 
[[エアーニッポン]]で使用していたYS-11は、[[1997年]](平成9年)に定時離陸率99.6 - 99.8%、[[日本エアコミューター]]で運航されていたYS-11も[[2004年]](平成16年)に定時出発率91.8%を達成している。これは世界の最新鋭飛行機でもなかなか達成できないものである。
 
 
 
=== 飛行時間と飛行サイクル ===
 
[[画像:YS-11 JA8717.jpg|thumb|200px|YS-11 JA8717(2005年7月15日、[[鹿児島空港]]にて)]]日本エアコミューターで使用されていた登録番号JA8717(製造番号2092)の機体は、登録されたのが[[1969年]](昭和44年)2月で、[[2006年]](平成18年)[[9月11日]]までの総飛行時間は71,220時間47分、総飛行サイクルは72,359回と'''世界一の記録'''となっており、このことからもYS-11の頑丈さがわかる。また、この機体は一時[[日本航空]]に当時の[[日本エアシステム|JDA]]から乗務員を含むウエット・リースされて唯一日本航空のフルカラーとなり、[[福岡空港|福岡]] - [[釜山広域市|釜山]]線を[[1969年]]4月1日から一年間の定期国際線運航を行った唯一の機体である。因みに日本航空はYS-11を保有したことはなかったが、2例だけYS-11で運航を行っていた。いずれもJDAからウエット・チャーターであり、日本航空が運航した夜間郵便専用機としての運航とこの国際線定期運航であった。
 
 
 
2004年(平成16年)[[9月]]には、[[台風]]により[[大阪国際空港|伊丹空港]]で垂直尾翼の方向舵や補助翼が脱落するなどの被害を受け、かなり大掛かりな修理が必要になった。これが他の機体であればそのまま部品取りにしていたところであるが、8717の実績と歴史的価値によって修理が決行され、ラインには同年10月に復帰した。この機体は2006年(平成18年)[[9月11日]]、YS-11の日としている最後の日に、奄美 - 鹿児島線のチャーター便を最後に、37年もの間一度の事故も起こすことなく有終の美を飾った後、[[9月12日]]に羽田へフェリーされ[[フィリピン]]の[[アボイティズ航空]]へ売却され、JA8766とJA8768の到着後、部品取り機材となって解体された。
 
 
 
== 事故概略 ==
 
{| class="wikitable" style="background: #fff"
 
|-
 
! 製造番号 !! 国名 !! 航空会社 !! 事故年月日 !! 概要 !! 備考
 
|-
 
|2007||[[日本]]||[[日本エアシステム|日本国内航空]]||[[1967年]]<br/>[[1月22日]]||[[函館空港]]でオーバーラン||修復して復帰
 
|-
 
|2007||日本||[[日本エアシステム|東亜国内航空]]||[[1981年]]<br/>[[5月31日]]||[[高知空港]]で再度オーバーラン||修復して復帰
 
|-
 
|2011||[[インドネシア]]||[[メルパチ・ヌサンタラ航空]]||[[1971年]]<br/>[[4月1日]]||[[ジャカルタ]]・{{仮リンク|クマヨラン空港|en|Kemayoran Airport}}で[[胴体着陸]]||登録抹消
 
|-
 
|2019||日本||[[航空自衛隊]]||[[1974年]]<br/>[[6月11日]]||[[美保飛行場|美保基地]]で胴体着陸||修復して復帰
 
|-
 
|2020||日本||東亜国内航空||[[1979年]]<br/>[[7月21日]]||[[東京国際空港|羽田空港]]で片主脚着陸||修復して復帰。[[由美かおる]]が搭乗
 
|-
 
|2022||日本||東亜国内航空||[[1988年]]<br/>[[1月10日]]||[[美保飛行場|米子空港]]でオーバーラン||登録抹消 (機首部分は[[電車とバスの博物館]]に保存、胴体部は主翼と水平尾翼を切断の上鳥取市伏野にて倉庫として使用されている[https://www.google.com/maps/place/35%C2%B031'39.2%22N+134%C2%B008'58.6%22E/@35.5275506,134.149674,3a,75y,278.17h,90t/data=!3m7!1e1!3m5!1s1nLb_ADxrltC-HOt671Xow!2e0!6s%2F%2Fgeo2.ggpht.com%2Fcbk%3Fpanoid%3D1nLb_ADxrltC-HOt671Xow%26output%3Dthumbnail%26cb_client%3Dmaps_sv.tactile.gps%26thumb%3D2%26w%3D203%26h%3D100%26yaw%3D99.24905%26pitch%3D0%26thumbfov%3D100!7i13312!8i6656!4m5!3m4!1s0x0:0x0!8m2!3d35.527551!4d134.149606])
 
|-
 
|2023||日本||[[全日本空輸]]||[[1966年]]<br/>[[11月13日]]||[[松山空港]]沖の海中に墜落([[全日空松山沖墜落事故]])||乗員乗客50名全員死亡
 
|-
 
|2026||日本||日本国内航空||[[1977年]]<br/>[[8月9日]]||[[女満別空港]]で胴体着陸||修復して復帰
 
|-
 
|2030||[[ガンビア]]||[[ガンビア航空]]||[[1993年]]<br/>[[12月9日]]||[[セネガル]]の[[ダカール]]空港上空で空中衝突、主翼を損傷||修復して復帰
 
|-
 
|2032||[[フィリピン]]||[[エア・フィリピン]]||[[1968年]]<br/>[[6月24日]]||[[タキシング中]]に火災||修復して復帰
 
|-
 
|2032||フィリピン||エア・フィリピン||1968年<br/>[[11月16日]]||{{仮リンク|ナガ空港|en|Naga Airport}}へ着陸に失敗して破損||登録抹消
 
|-
 
|2038||[[日本]]||[[日本エアシステム|東亜国内航空]]||[[1971年]]<br/>[[8月3日]]||[[広島西飛行場|広島空港]]で訓練中にオーバーラン<ref>『東亜国内航空YS11機 広島空港でオーバーラン 訓練中、着陸に失敗』 - 中国新聞 1971年8月3日夕刊 1ページ</ref><ref>『東亜国内機のオーバーラン 管制通信を誤解』 - 中国新聞 1971年8月4日 15ページ</ref>||修復して復帰
 
|-
 
|2041||日本||全日本空輸||[[1975年]]<br/>[[5月28日]]||[[大阪国際空港|伊丹空港]]で胴体着陸||修復して復帰
 
|-
 
|2043||[[大韓民国|韓国]]||[[大韓航空]]||[[1969年]]<br/>[[12月11日]]||[[ハイジャック]]され[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]の[[元山市|元山]](ウォンサン)付近のソンドク空港へ着陸<br/>/([[大韓航空機YS-11ハイジャック事件]])||以降の機体消息は不明
 
|-
 
|2054||[[ブラジル]]||[[ヴァリグ・ブラジル航空]]||[[1977年]]<br/>[[5月17日]]||ブラジル・[[サンタカタリナ州]]・ジョインビル空港でオーバーラン||修復して復帰
 
|-
 
|2059||[[ブラジル]]||[[VASP航空]]||[[1972年]]<br/>[[4月12日]]||[[リオデジャネイロ]]の50km北方の山中に墜落||
 
|-
 
|2060||日本||[[エアーニッポン|日本近距離航空]]||[[1983年]]<br/>[[3月11日]]||[[中標津空港]]へ着陸降下中に手前で墜落||乗員乗客53人中重傷18人、軽傷34人
 
|-
 
|2063||ブラジル||クルゼイロ航空||[[1972年]]<br/>[[10月18日]]||[[サンパウロ]]・[[コンゴーニャス空港|コンゴーニャス国際空港]]でオーバーラン、大破||廃棄処分
 
|-
 
|2068||ブラジル||VASP航空||[[1973年]]<br/>[[10月23日]]||リオデジャネイロの[[アルベルト・サントス・デュモン|サントス・デュモン]]空港で離陸に失敗<br/>オーバーランしてグアナバラ湾に水没||
 
|-
 
|2076||ブラジル||VASP航空||[[1971年]]<br/>[[11月7日]]||[[アラガルサス空港]]で破損、修復中に火災で焼失||
 
|-
 
|2080||ブラジル||ヴァリグ・ブラジル航空||[[1977年]]<br/>[[4月29日]]||ブラジル・サンタカタリナ州・イタジャイ空港近郊で着陸事故||登録抹消
 
|-
 
|2082||[[アメリカ合衆国|アメリカ]]||[[パシフィック・サウスウエスト航空]]||[[1974年]]<br/>[[3月5日]]||飛行訓練中に[[サンディエゴ]]近郊ボレゴ・スプリングスの砂漠に墜落||
 
|-
 
|2085||日本||全日本空輸||[[1969年]]<br/>[[10月20日]]||[[宮崎空港]]でオーバーラン||登録抹消
 
|-
 
|2095||日本||[[エアーニッポン]]||[[2001年]]<br/>[[2月16日]]||[[札幌飛行場|丘珠空港]]でオーバーラン||除籍処分<br/>機体は落下実験に提供
 
|-
 
|2107||フィリピン||[[フィリピン航空]]||[[1977年]]<br/>[[7月17日]]||[[マクタン島]] [[マクタン・セブ国際空港]]沖の海上に不時着||廃棄処分
 
|-
 
|2110||[[中華民国]]||[[チャイナエアライン|中華航空]]||[[1970年]]<br/>[[8月12日]]||豪雨の中、[[台北松山空港]]へ強行着陸を試み墜落([[中華航空206便墜落事故]])||乗員乗客31人中死亡14人、負傷17人
 
|-
 
|2112||アメリカ||[[エアボーン・エクスプレス]]||[[1992年]]<br/>[[3月6日]]||[[ウィルミントン空港]]で訓練中に胴体着陸||登録抹消
 
|-
 
|2113||アメリカ||[[ピードモント航空]]||[[1971年]]||[[ノースカロライナ州]][[ウィンストン・セーラム空港]]で胴体着陸||修復して復帰
 
|-
 
|2119||アメリカ||ピードモント航空||[[1970年]]<br/>[[7月28日]]||[[ワシントン・ナショナル空港]]で車輪を破損||修復して復帰
 
|-
 
|2134||日本||東亜国内航空||[[1971年]]<br/>[[7月3日]]||[[函館空港]]北方の[[七飯町]][[横津岳]]に墜落<br/>([[ばんだい号墜落事故]])||乗員乗客68名全員死亡
 
|-
 
|2139||アメリカ||[[フェニックス航空]]||[[1989年]]<br/>[[3月15日]]||[[インディアナ州]][[ウェスト・ラファイエット・パデュー・ユニバーシティ空港]]に着陸降下中、水平尾翼がアイシングを起こし墜落||
 
|-
 
|2154||アメリカ||[[ミッドパシフィックエア]]||[[1987年]]<br/>[[1月13日]]||インディアナ州[[レミントン空港]]へ強行着陸し大破||登録抹消
 
|-
 
|2155||[[ギリシャ]]||[[オリンピック航空]]||[[1972年]]<br/>[[10月21日]]||[[アテネ国際空港]](旧)へ着陸降下中に墜落||
 
|-
 
|2156||ギリシャ||オリンピック航空||[[1976年]]<br/>[[11月23日]]||コザニの南約25kmにあるサバントポロス山に墜落||
 
|-
 
|2169||アメリカ||[[リーブ・アリューシャン航空]]||[[1982年]]<br/>[[2月16日]]||[[キングサーモン空港]]付近の凍結した河川へ[[不時着]]([[リーブ・アリューシャン航空69便不時着事故]])。||修復して復帰
 
|-
 
|2172||アメリカ||リーブ・アリューシャン航空||[[1974年]]<br/>[[11月6日]]||[[格納庫]]火災で焼失||
 
|-
 
|2182||日本||海上自衛隊||[[2009年]]<br/>[[9月29日]]||[[小月航空基地]]でオーバーラン||除籍処分<br/>機体は2010年7月下旬に数日かけ解体処分
 
|}
 
 
 
== 静態保存機 ==
 
[[画像:YS11 Prop-Jet.JPG|thumb|200px|航空科学博物館のYS-11試作1号機]]
 
[[画像:Ys-11 2006-9-10-022.jpg|thumb|200px|[[航空公園駅]]東口駅前広場のYS-11]]
 
[[画像:YS11_KASM001.jpg|thumb|200px|[[かかみがはら航空宇宙科学博物館]]のYS-11]]
 
[[画像:Denshatobus ys11.jpg|thumb|140px|[[電車とバスの博物館]]のYS-11シミュレータ]]
 
[[画像:YS-11 in Saga Airport.jpg|thumb|200px|[[佐賀空港]](佐賀空港公園)のYS-11A-500R]]
 
退役したYS-11の一部は日本国内各地の博物館などに寄贈され、[[静態保存]]され展示されている。[[みちのく北方漁船博物館]]展示機は、元日本エアコミューターの機体だったが、日本エアシステムの塗装で展示されている。[[電車とバスの博物館]]のYS-11は、1988年1月10日に[[航空事故|事故]]を起こした機体の前頭部コクピット付近のみのカットボディ。東亜国内航空塗装で[[フライトシミュレーション|フライトシミュレータ]]として使用されている。
 
 
 
* 試作1号機
 
** 千葉県山武郡芝山町([[成田国際空港]]に隣接)[[航空科学博物館]](展示開始 1989年8月)
 
* 元[[エアーニッポン]]機
 
** 岐阜県各務原市 [[かかみがはら航空宇宙科学博物館]](展示開始 1996年)
 
** 埼玉県所沢市 [[西武鉄道|西武]][[西武新宿線|新宿線]][[航空公園駅]]東口駅前広場(管理は[[所沢航空発祥記念館]])(展示開始 1997年)
 
** 香川県高松市香南町 [[さぬきこどもの国]](展示開始 1998年)
 
** 佐賀県佐賀郡川副町 [[佐賀空港]] (展示開始 1998年)
 
** 兵庫県豊岡市 [[但馬飛行場|但馬空港]] (展示開始 1999年)
 
* 元[[日本エアコミューター]]機
 
** [[青森県]]青森市 [[みちのく北方漁船博物館|あおもり北のまほろば歴史館]](展示開始 2003年)
 
** [[青森県立三沢航空科学館]](展示開始 2003年)
 
** 神奈川県川崎市宮前区 [[電車とバスの博物館]]
 
* 元[[崇城大学]]機
 
** 熊本県上益城郡益城町 [[熊本空港]](展示開始 2013年-展示終了 2017年)
 
* 元航空自衛隊機
 
**[[あいち航空ミュージアム]](展示開始 2017年秋)
 
 
 
== 大衆的評価 ==
 
総生産数は決して多くはないが、日本の[[高度経済成長]]期を象徴する存在の一つとしてのノスタルジーや、武骨な構造・独特のエンジン音などを持つ個性的な機体として、日本には多くのファンがいる。
 
 
 
日本国内の航空専門誌では「日本の名機」「日本初の名国産機」などとも評しているが、実際にはエンジンを初めとして計器類などパーツのほとんどは海外製で、重量過大や操縦性の問題といった未熟さを指摘する意見もある。
 
 
 
[[鉄道]]雑誌では同じ1964年[[前東京オリンピック|東京オリンピック]]の前後にデビューした日本の乗り物として、陸の[[新幹線0系電車]]と対をなす存在として語られることがある。両者にはかつて軍用機製造に携わっていた人々によって作られた(YS-11については同じ航空分野のため自然な経過であるが、新幹線については[[三木忠直]]や[[松平精]]らのエピソードが著名)、という共通点がある<ref>新幹線0系電車特集雑誌 1999年 イカロス出版</ref>。
 
 
 
== 競合機種 ==
 
* [[フォッカー F27]](フレンドシップ)
 
* [[アブロ 748]](ホーカー・シドレー HS 748)
 
* [[コンベア600]]
 
 
 
== 仕様 ==
 
{{ 航空機スペック・ヘッダー
 
| 出典 = イカロスMook 旅客機年鑑、前間孝則著「YS-11 国産旅客機を創った男たち」
 
}}
 
* 乗員= 2名
 
* 定員= 56-64名
 
* 全長= 26.3[[メートル|m]]
 
* 全幅= 32.0m
 
* 全高= 8.98m
 
* 主翼面積= 94.8[[平方メートル|m<sup>2</sup>]]
 
* 胴体直径= 2.88m
 
* 自重= 14,600kg(A-100型) 15,400kg(A-500型)
 
* 最大離陸重量= 23,500kg(A-100型) 24,500kg(A-200型) 25,000kg(A-500型)
 
* エンジン= [[ロールス・ロイス]] [[ロールス・ロイス ダート|ダート]] [[ターボプロップエンジン]]2,660-3,060 [[馬力|shp]]×2
 
* 最大巡航速度= 470-480[[キロメートル毎時|km/h]]
 
* 失速速度= 140[[キロメートル毎時|km/h]]
 
* 航続距離= 1,090[[キロメートル|km]](フル搭載時) 2,200[[キロメートル|km]](最大)
 
 
 
== 記録映画 ==
 
日本航空機製造により、3本の記録映画が製作されている。現在フィルムは製作プロダクション等が所蔵しているが、目にする機会はきわめて少ない。作品中では「わいえすじゅういち」の呼称が使われている。
 
なお、『YS-11 新しい日本の翼』『YS-11 そのすぐれた性能』は2004年9月に[[チャンネルNECO]]で放送されている。
 
この項目ではそれらと、その一部を使用し、現在入手可能なANAのドキュメンタリーも紹介する。
 
 
 
; YS-11の誕生
 
: 1962年・[[日本映画新社]]製作・カラー・10分。YS-11の製造から、試作1号機の初飛行までを描いた作品。
 
; YS-11 新しい日本の翼
 
: 1963年・[[日本映画新社]]製作・カラー・32分。YS-11の製造から、試作1号機の初飛行までを描いた作品。『YS-11の誕生』に新たな映像素材を加えて再編集したもの。初飛行をしたYSの上反角の小ささがこの映像からもわかる。2015年11月現在、科学映像館によってYouTube にて無料配信されている。
 
; YS-11 そのすぐれた性能
 
: 1966年・[[日本映画新社]]製作・カラー・22分。[[日本貿易振興機構|日本貿易振興会(JETRO)]]と共同で、YS-11の日本国外プロモーションを兼ねて製作された作品。片発離着陸の様子や、日本国外向け機体の製造の様子も見ることができる。
 
; BLUE ON BLUE THE WORLD OF ANA サヨナラ YS-11オリンピア
 
: 1992年・[[SPEビジュアルワークス]]製作・カラー・43分。ANAが運用していたYS-11オリンピアの飛行映像、メカニズム紹介、および前記映像の一部を使用。ワイパーの稼動状況もみることができる。
 
 
 
== 出典・脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{reflist|2|refs=
 
<ref name="nakamura">{{Cite book ja-jp|author=中村浩美|year=2006|title=YS-11 世界を翔た日本の翼|publisher=祥伝社}}</ref>
 
<ref name="air_liner_club">{{Cite book ja-jp|author=エアーライナークラブ|year=2006|title=YS-11物語|publisher=JTBキャンブックス}}</ref>
 
<ref name="maema-a">{{Cite book ja-jp|author=前間孝則|year=1999|title=YS-11 - 上 国産旅客機を創った男たち|publisher=講談社・α文庫}}</ref>
 
<ref name="maema-b">{{Cite book ja-jp|author=前間孝則|year=1999|title=YS-11 - 下 苦難の初飛行と名機の運命|publisher=講談社・α文庫}}</ref>
 
<ref name="maema-c">{{Cite book ja-jp|author=前間孝則|year=2002|title=日本はなぜ旅客機を作れないのか|publisher=草思社}}</ref>
 
<ref name="maema-d">{{Cite book ja-jp|author=前間孝則|year=2003|title=国産旅客機が世界の空を飛ぶ日|publisher=講談社}}</ref>
 
<ref name="sugiura">{{Cite book ja-jp|author=杉浦一機|year=2003|title=ものがたり日本の航空技術|publisher=平凡社}}</ref>
 
<ref name="エアライン">{{Cite journal |和書 |author= |title= |year=2001|publisher=イカロス出版|journal=月刊エアライン|issue=9月号別冊付録 |pages= }}</ref>
 
<ref name="mayama">{{Cite journal |和書 |author= |title=海を守って42年 さよならYS-11A型!|year=2001|publisher=海人社|journal=世界の艦船 |number=739 |pages= }}</ref>
 
<ref name="さよなら">{{Cite journal |和書 |author= |title=さよなら!YS-11A 海保羽田航空基地で解役式|year=2001|publisher=海人社|journal=世界の艦船 |number=739 |pages= }}</ref>
 
}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
{{参照方法|date=2017年11月27日 (月) 01:05 (UTC)}}
 
* {{Cite book|和書|author=YS-11エアラインの記録編集委員会|title=YS-11エアラインの記録 国産旅客機を現場で育てた整備技術者、パイロット、スチュワーデス|publisher=日本航空技術協会|year=1998|isbn=4930858682|ref=エアライン}}
 
* {{Cite book|和書|title =YS-11 - 上 国産旅客機を創った男たち|editor=前間孝則|publisher=[[講談社]]・α文庫|year=1999|isbn=4062563169|ref=YS11上}}
 
* {{Cite book|和書|title=YS-11 - 下 苦難の初飛行と名機の運命|editor=前間孝則|year=1999|publisher=講談社・α文庫|isbn=4062563207|ref=YS11下}}
 
* 前間孝則『最後の国産旅客機 YS-11の悲劇』 講談社・α新書 2000年 ISBN 4-06-272015-9
 
* {{Cite book|和書|title=国産旅客機が世界の空を飛ぶ日|editor=前間孝則|year=2003|publisher=講談社|isbn=4062120402|ref=国産旅客機}}
 
* {{Cite book|和書|title=日本はなぜ旅客機を作れないのか|editor=前間孝則|year=2002|publisher=[[草思社]]|isbn=4794211651|ref=なぜ}}
 
* {{Cite book|和書|title=ものがたり日本の航空技術|editor=杉浦一機|year=2003|publisher=[[平凡社]]|isbn=4582852076|ref=ものがたり}}
 
* 横倉潤『翔べ!YS-11 世界を飛んだ日本の翼』 [[小学館]] 2004年 ISBN 4-09-387520-0
 
* 『日本航空機製造YS-11-2006年、完全退役!』 [[イカロス出版]] 2004年 ISBN 4-87149-597-3
 
* {{Cite journal ja-jp|author=|year=2001|title=YS11特集|journal=[[月刊エアライン]]|volume=|issue=|serial=9月号|publisher=イカロス出版|ref=月刊}}
 
* {{Cite book|和書|title=YS-11 世界を翔けた日本の翼|editor=中村浩美|year=2006|publisher=[[祥伝社]]|isbn=4-396-11048-0|ref=翼}}
 
* {{Cite book|和書|title=YS-11物語|author=エアーライナークラブ|year=2006|publisher=[[JTBキャンブックス]]|isbn=4-533-06504-X|ref=物語}}C2026
 
* 阿川弘之『あひる飛びなさい』 [[集英社文庫]]1976 絶版 YS-11開発者をモデルとした小説 同書を原作としたTVドラマ『[[あひるの学校]]』
 
* 谷川一巳『旅客機・航空会社の謎と不思議』 [[東京堂出版]] 2006年 ISBN 4-490-20591-0
 
* NHKプロジェクトX〜挑戦者たち制作班「プロジェクトX挑戦者たち 3〜翼よ、よみがえれ」 [[日本放送出版協会]] 2000年 ISBN 978-4-14-080531-2
 
* {{Cite journal ja-jp|author=真山良文|year=2011|title=さよなら!YS11-A|journal=[[世界の艦船]]|volume=第739集|issue=|serial=4月号|publisher=[[海人社]]|ref=艦船}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[日本製航空機の一覧]]
 
* [[日本航空機製造]]
 
* [[大韓航空機YS-11ハイジャック事件]]
 
* [[YX]] - [[YXX]] - [[YSX]]
 
* [[MRJ]]:40年ぶりに日本で開発される旅客機。なお、技術的には直系ではないものの、組み立て及び初飛行はYSと同じ名古屋にて行われている。
 
* [[リージョナルジェット]]
 
* [[マッハの恐怖]]
 
* [[航空事故]]
 
* [[三菱MC-20]]
 
* [[中島AT-2]]
 
* [[プロジェクトX〜挑戦者たち〜]] - YS-11開発が前後編の2回に分けて放送され、その次の回は前述の海保YS-11による[[コンスタンティン・スコロプイシュヌイ|サハリンからの全身火傷患者]]の搬送の話であった
 
 
 
== 外部リンク ==
 
{{Commons|Category:NAMC YS-11}}
 
* [http://www.jac.co.jp/entertainment/ys-11/ ありがとう日本の翼YS-11キャンペーン(日本エアコミューター)]
 
* [http://www.k2.dion.ne.jp/~hako-da/banndai.html 東亜国内航空 ばんだい号 墜落事故]
 
* [http://goodbyeys-11.com/ さようならYS-11]
 
* [http://www.kagakueizo.org/movie/industrial/382/ YS-11〜新しい日本の翼〜] - 1963年の科学映画、カラー32分。[[科学映像館]]ウェブサイトより
 
* [http://www.tokyo-np.co.jp/hold/2008/anohi/CK2007062702027505.html 1971年9月27日 日の丸旅客機YS11の挫折 早すぎた量産打ち切り] - [[東京新聞]]
 
  
 
[[Category:日本の旅客機]]
 
[[Category:日本の旅客機]]
 
[[Category:航空自衛隊の装備品]]
 
[[Category:航空自衛隊の装備品]]

2018/10/10/ (水) 05:23時点における最新版

YS-11

第2次世界大戦後,日本で初めて開発製造された中型ターボプロップ旅客機。 1957年輸送機設計研究協会が発足,開発計画が始まった。 YSは,この協会の輸送と設計の頭文字をとったもの。 1959年基礎設計が終わり,実機を製作するため日本航空機製造株式会社が設立された。試作1号機の初飛行は 1962年8月 30日。続いて同年 12月には2号機も飛んだ。就航は 1965年4月1日,日本国内航空の東京-徳島-高知線であった。 YS-11は全金属製,低翼単葉の双発プロペラ機で,旅客 60人乗り。エンジンはロールスロイス・ダート・ターボプロップ (3060馬力) 2。プロペラの直径を特に大きくし,離陸滑走路長 1110m,着陸 1100mと離着陸距離を短くしたのが特徴。全長 26.3m,全幅 32m,自重 15.4t,総重量 24.5t。速度は最大時速 600km,巡航時速 470km。航続距離 1200km。生産は 1973年 182機で打ち切られたが,日本国内では民間航空のほか自衛隊や海上保安庁が採用,国外へも 76機が輸出され,アメリカ合衆国,カナダ,ブラジル,アルゼンチン,ギリシア,フィリピン,インドネシアなどで使われた。



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