「黒船来航」の版間の差分

提供: miniwiki
移動先:案内検索
(1版 をインポートしました)
(内容を「{{テンプレート:20180815sk}}」で置換)
(タグ: Replaced)
 
1行目: 1行目:
{{参照方法|date=2012年4月21日 (土) 13:08 (UTC)}}
+
{{テンプレート:20180815sk}}
[[ファイル:Визит Перри в 1854 году.jpg|thumb|350px|嘉永7年(1854年)横浜への黒船来航<br/><small>ペリーに随行した画家[[ヴィルヘルム・ハイネ]]による[[リトグラフ]]</small>]]
 
[[ファイル:UB Maastricht - Heine 1856 - Perry Commissionarissen.jpg|サムネイル|ペリーとオランダ語を介しての交渉の様子。(場所不明)]]
 
'''黒船来航'''(くろふねらいこう)とは、[[嘉永]]6年([[1853年]])に、[[代将 (アメリカ海軍)|代将]][[マシュー・ペリー]]が率いる[[アメリカ合衆国]][[アメリカ海軍|海軍]][[東インド艦隊 (アメリカ海軍)|東インド艦隊]]の蒸気船2隻を含む艦船4隻が、[[日本]]に来航した事件。当初[[久里浜]]に来航したが、当時久里浜の港は砂浜で黒船が接岸できなかったことから、[[江戸幕府|幕府]]は[[東京湾|江戸湾]][[浦賀]]([[神奈川県]][[横須賀市]]浦賀)に誘導した。[[アメリカ合衆国大統領]]国書が幕府に渡され、翌年の[[日米和親条約]]締結に至った。日本では主に、この事件から[[明治維新]]までを「[[幕末]]」と呼んでいる。
 
 
 
== 背景 ==
 
[[ファイル:Matthew_Calbraith_Perry.jpg|thumb|250px|マシュー・ペリー]]
 
 
 
=== アメリカのアジア市場への進出 ===
 
[[産業革命]]を迎えた[[西ヨーロッパ]]各国は、大量生産された工業品の輸出拡大の必要性から、[[インド]]を中心に[[東南アジア]]と[[中国大陸]]の[[清]]への市場拡大を急いでいたが、後にそれは熾烈な[[植民地]]獲得競争となる。市場拡大競争には[[イギリス]]優勢のもと[[フランス]]などが先んじており、インドや東南アジアに拠点を持たないアメリカ合衆国は出遅れていた。
 
 
 
当時の人口は、アメリカが1833年に約1416万人、清が約4億人、日本が1834年に約2760万人であった<ref>[http://www.populstat.info/ Population statistics: historical demography] 2017年7月30日閲覧 </ref>。
 
 
 
アメリカは[[1833年]]に[[タイ王国|シャム]]と[[マスカット]]との条約を締結することにようやく成功した。[[1835年]]には日本と清との条約締結のために特使を派遣することとし、このときに東インド艦隊が設立されている。この試みは成功しなかったが、[[アヘン戦争]]後の1842年に清との間に[[望厦条約]]を締結し、中国市場へ進出することとなる。この条約の批准のために東インド艦隊司令官[[ジェームズ・ビドル]]が清に派遣されるが、ビドルは日本との条約交渉の任務もおびていた。このため、1846年に浦賀に来航するが、条約を結ぶことはできなかった。
 
 
 
=== 捕鯨船の物資補給を目的とした寄港地の確保 ===
 
産業革命によって欧米の工場やオフィスは夜遅くまで稼動するようになり、その[[潤滑油]]や[[ランプ (照明器具)|ランプ]]の灯火として、主に[[マッコウクジラ]]の[[鯨油]]が使用されていた。この需要を満たすため、欧米の国々は日本沿岸を含み世界中の海で[[捕鯨]]を盛んに行なっていた。日本近海ではジャパン・グラウンドと呼ばれる伊豆諸島・小笠原諸島付近、カムチャツカ・グラウンドと呼ばれるカムチャツカ半島東方が好漁場として知られており、米国東海岸を基地とする[[捕鯨船]]は1年以上の航海を行うのが普通であった<ref>大崎晃 [https://www.jstage.jst.go.jp/article/jgeography/119/4/119_4_615/_pdf 19世紀後半期アメリカ式捕鯨の衰退と産業革命] 地学雑誌 119(4)615—631 2010</ref>。当時の捕鯨船は船上で鯨油の抽出を行っていたため、大量の薪・水が必要であり、長期航海用の食料も含め、太平洋での補給拠点が求められていたが、アメリカも例外ではなかった。
 
 
 
加えて難破船の問題もあった。漂流民の保護は当時のアメリカ海軍の任務の一つであり、[[1849年]]には[[ジェームス・グリン]]が難破した米国捕鯨船乗組員を受け取るために長崎に来航している。その費用の観点からも、太平洋に面する日本と条約を締結することは有利であった。
 
 
 
=== 米墨戦争の影響 ===
 
[[File:Gnomonic Projection Japan.jpg|thumb|200px|[[若狭湾]]沖を中心とする[[心射方位図法|大圏図法]]]]
 
アメリカはすでに1846年にイギリスとの交渉でオレゴンの南半分をその領土としていたが、1846年 - [[1848年]]の[[米墨戦争]]でカリフォルニアを獲得した。これによりアメリカは太平洋国家となり、巨大市場である[[清]]との貿易開拓が国家目標となった。[[アメリカ西海岸]]から[[中国]]に至る最短航路([[大圏コース]])は、西海岸から北上し、[[アリューシャン列島]]・[[千島列島]]沿いに南下、[[津軽海峡]]と[[対馬海峡]]を通過して[[上海市|上海]]付近に至るものである<ref group="†">石井、p20-24。1848年5月4日の下院海軍委員キングの報告に、この航路(津軽海峡経由)のことが言及されており、さらに財務長官ウォーカーが同年12月に同様のことを述べている</ref><ref>函館日ロ交流歴史研究会「会報」No.9 1998.8.11。1807年にアメリカ商船エクリプス号が、広東・アラスカ交易を試み、広東からの帰りに長崎で水・薪を補給した後に日本海を北上し、津軽海峡を西から東に通過した先例がある</ref>。
 
 
 
このため、津軽海峡に面した[[松前]](実際に開港したのは[[函館市|箱館]])に補給拠点をおくことが望まれた。さらに、米墨戦争での勝利により、それまで主力艦隊とされていたメキシコ湾艦隊の必要性が低下し、海軍は組織規模維持のため東インド艦隊の役割を拡大する必要が生じた<ref>加藤、p56-p58</ref>。
 
 
 
=== ペリー来航以前 ===
 
* [[1791年]](寛政3年) - 冒険商人[[ジョン・ケンドリック]]が2隻の船とともに[[紀伊大島]]に上陸。日本を訪れた最初のアメリカ人。
 
* [[1797年]](寛政9年) - [[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]がフランスに占領されてしまったため、数隻のアメリカ船がオランダ国旗を掲げて[[出島]]での貿易を行う。[[1809年]](文化6年)までに13回の来航が記録されている<ref>Bauer, p. 57</ref>
 
<ref group="†">江戸東京博物館1999年 によると、日本に向けられたアメリカ傭船は次の通り。
 
# 1797年、ウィリアム・ロバート・スチュアート船長のイライザ号
 
# 1798年、同上
 
# 1799年、ジェームズ・デブロー船長のフランクリン号
 
# 1800年、ウィリアム・V・ハッチングス船長のマサチューセッツ号
 
# 1800年、ウィリアム・ロバート・スチュアート船長のエンペラー・オブ・ジャパン号
 
# 1801年、ミッシェル・ガードナー・ダービー船長のマーガレット号
 
# 1802年、ジョージ・スティルス船長のサミュエル・スミス号
 
# 1803年、ジェームズ・マクニール船長のレベッカ号。
 
# 1803年、ウィリアム・ロバート・スチュアート船長のナガサキ号。
 
# 1806年、ヘンリー・リーラー船長のアメリカ号
 
# 1807年、ジョセフ・オカイン船長のエクリブス号
 
# 1807年、ジョン・デビッドソン船長のマウント・バーノン号
 
# 1809年、ジェームズ・マクニール船長のアメリカレベッカ号</ref>。
 
* [[1830年]](天保元年) - [[小笠原諸島]]の[[父島]]に[[ナサニエル・セイヴァリー]]が上陸。
 
* [[1835年]](天保6年) - 大統領[[アンドリュー・ジャクソン]]は、エドマンド・ロバーツ([[:en:Edmund Roberts (diplomat)|Edmund Roberts]])を特命使節とし、清、日本との交渉のためにアジアに派遣したが、ロバーツは中国で死亡した。ロバーツをアジア送り届けるため、東インド艦隊が編成された<ref>{{Cite web
 
| url=http://query.nytimes.com/mem/archive-free/pdf?_r=1&res=9407E2D6133EE733A25755C0A96E9C946497D6CF
 
| title = Edmund Roberts, Our First Envoy to Japan
 
| author = ELLIOT GRIFFIS
 
| publisher = New York Timex
 
| date = 1905-08-06
 
| accessdate = 2010-01-28}}</ref>。
 
* [[1837年]](天保8年) - アメリカ商人チャールズ・キングが商船モリソン号で[[音吉]]など漂流民を日本に送り届けるため浦賀に渡航。[[1808年]]の[[長崎]]での[[イギリス]]軍艦の起こした[[フェートン号事件]]以降の[[異国船打払令]]に基づき、日本側砲台がモリソン号を砲撃した([[モリソン号事件]])。
 
* <span id="1844"></span>1844年(天保15年)、7月29日、オランダ政府はオランダ国王の親書を軍艦で江戸幕府に届ける旨を予め商船船長のヒイトル・アオヘルト・ヒツキから江戸幕府に通知させたうえ、8月15日には軍艦長ハーエス・コープスがこれを届けた。親書は江戸幕府が[[鎖国]]を解くよう、またオランダ船やその船員、日本人に対する待遇を改善するよう求めたもので、美術品や地図、植物図鑑、天文学書などが付されていた<ref>『[{{NDLDC|1081911/53}} 和蘭国使節来朝外交勧告の事]』。[[#岩倉公実記]]。</ref>。
 
 
 
* [[1845年]](弘化2年) - 捕鯨船マンハッタン号が、22人の日本人漂流民を救助し、船長[[マーケイター・クーパー]]は[[浦賀]]への入港を許可され[[浦賀奉行]]と対面した。
 
* [[1846年]](弘化3年)閏5月 - アメリカ[[東インド艦隊 (アメリカ海軍)|東インド艦隊]]司令官[[ジェームズ・ビドル]]が[[コロンバス (戦列艦)|コロンバス号]]、[[ビンセンス (戦闘スループ)|ビンセンス号]]の2隻の軍艦を率いて浦賀に渡航し通商を求めるも拒否される。米軍艦の初の日本寄港であった。
 
* [[1846年]](弘化3年) - アメリカ捕鯨船ローレンス号の乗員、[[択捉島]]に漂着。翌年長崎でオランダ船に引き渡される。
 
* [[1848年]](嘉永元年) - アメリカ捕鯨船ラゴダ号の乗員、西[[蝦夷]]地に漂着。ローレンス号の乗員と同じく長崎に護送されるが、脱走を試みるなどしたため、入牢させられる。これがアメリカには、「アメリカ人が虐待されている」と伝わる。
 
* [[1848年]](嘉永元年) - [[ラナルド・マクドナルド]]、日本人に英語を教えようと、自らの意志で密入国。
 
* [[1849年]](嘉永2年) - 東インド艦隊の[[ジェームス・グリン]]を艦長とするアメリカ軍艦プレブル号が長崎に渡航し、前年に漂着したラゴダ号の船員とマクドナルドを受け取り退去する。この時、グリンの示した「毅然たる態度」が、後のペリーの計画に影響を与える。
 
<!--
 
万次郎の帰国はペリー渡航と直接無関係
 
=== ジョン万次郎の帰国 ===
 
[[ファイル:NakahamaJohnManjiro.jpg|thumb|150px|中濱万次郎]]
 
ジョン・マンこと[[中濱万次郎]]は、[[1841年]](天保12年)に高知沖で遭難し、無人島の[[鳥島 (八丈支庁)|鳥島]]に仲間といたところ、アメリカの[[捕鯨船]]に救助された。当時15歳だった万次郎は、捕鯨船の船長の養子同然となり、その後アメリカにて修学し、アメリカで近代捕鯨の捕鯨船の船員となった。しかし、望郷の念は強く、[[カリフォルニア]]の金鉱で働き得た資金により、捕鯨船を確保し、[[ハワイ]]に残された[[土佐国|土佐]]の清水中浜村の漁師仲間とともに、日本に帰るべく出航した。
 
 
 
[[1851年]](嘉永4年)、当時の[[薩摩藩]][[琉球]]にたどり着いたとき万次郎は25歳であった。その後、紆余曲折はあったが、日米和親条約の平和的締結に向け、[[通訳]]やアメリカの思惑や情勢を詳しく知る者として、時には裏方として尽力した。
 
-->
 
 
 
=== オーリックに対する日本開国指令と解任 ===
 
このような状況の中、1851年5月29日(嘉永4年4月30日)[[アメリカ合衆国大統領|大統領]][[ミラード・フィルモア|フィルモア]]は、[[日本]]の[[開国]]と通商関係を結ぶことを目指し、東インド艦隊司令官の[[代将 (アメリカ海軍)|代将]][[ジョン・オーリック]]に遣日特使としてその任務<ref>カリフォルニアから中国に至る汽船航路を早急に開設すること([[石井孝]] 『日本開国史』 吉川弘文館 2010年復刻版(1972年初版)30ページ)</ref>を与え、1851年6月8日に[[蒸気船|蒸気]][[フリゲート]]「[[サスケハナ (蒸気フリゲート)|サスケハナ]]」は東インド艦隊の[[旗艦]]となるべく極東に向かって出発した。しかし、オーリックはサスケハナの艦長とトラブルを起こしたことで解任され、1852年2月、代将[[マシュー・ペリー|マシュー・カルブレース・ペリー]]にその任が与えられた。<ref group="†">オーリックを日本に派遣することに際しては、三つの目的があった。一つは、中国との貿易に従事する米国汽船に、日本の石炭購入を許すこと。二つ目は、日本政府は、日本沿岸で難破した米国水兵や財産を保護する義務を負うべきこと。三つ目は、米国船が日本の港で積み荷を販売若しくは交換する権利を獲得すること。さらにオーリックは、日本皇帝(将軍)に当てた大統領の親書を預かっていた。</ref><ref>[[石井孝]] 『日本開国史』 吉川弘文館 2010年復刻版 (1972年初版) 30-31ページ</ref>。
 
 
 
== 嘉永6年の来航 ==
 
ペリーは、海軍長官ケネディから1852年11月13日(嘉永5年10月3日)付けで訓令を受けている。その主な内容は、対日使命遂行のため広範な自由裁量権の行使、日本沿岸及び隣接大陸や諸島の探検もし、行く先々の諸国や諸地方の社会・政治・商業状況、特に商業の新しい対象について、できうる限りの情報を収集することなどである<ref>[[石井孝]] 『日本開国史』 吉川弘文館 2010年復刻版 (1972年初版) 31-32ページ</ref>。
 
=== ペリーの計画 ===
 
ペリーは日本開国任務が与えられる1年以上前の1851年1月、日本遠征の独自の基本計画を[[アメリカ合衆国海軍長官|海軍長官]][[ウィリアム・アレクサンダー・グラハム]]に提出していた<ref>Graham, Volume IV</ref>。そこで彼は、以下のように述べている。
 
 
 
* 任務成功のためには4隻の軍艦が必要で、その内3隻は大型の蒸気軍艦であること。
 
* 日本人は書物で蒸気船を知っているかもしれないが、目で見ることで[[近代国家]]の軍事力を認識できるだろう。
 
* 中国人に対したのと同様に、日本人に対しても「恐怖に訴える方が、友好に訴えるより多くの利点があるだろう」
 
* [[オランダ]]が妨害することが想定されるため、長崎での交渉は避けるべき。
 
 
 
日本開国任務が与えられると、計画はさらに大掛かりになり、東インド艦隊所属の「サスケハナ」、「[[サラトガ (スループ)|サラトガ]]」(帆走[[スループ]])、「[[プリマス]]」([[:en:USS Plymouth (1844)|USS Plymouth]] 同)に加え、本国艦隊の蒸気艦4隻、帆走[[戦列艦]]1隻、帆走スループ2隻、帆走補給艦3隻からなる合計13隻の大艦隊の編成を要求した。しかし、予定した本国艦隊の蒸気軍艦4隻の内、使用できるのは「[[ミシシッピ (蒸気フリゲート)|ミシシッピ]]」のみであった。さらに戦列艦は費用がかかりすぎるため除外され、代わりに西インドから帰国したばかりの蒸気フリゲート「[[ポーハタン (蒸気フリゲート)|ポーハタン]]」が加わることとなった<ref>元綱、p38-40</ref>。
 
 
 
=== オランダによる来航の予告 ===
 
[[ファイル:Masahiro_Abe.jpg|thumb|200px|[[老中]]首座、[[阿部正弘]]]]
 
1852年[[7月21日]]([[嘉永]]5年6月5日)、[[オランダ商館]]長の[[ヤン・ドンケル・クルティウス]]は[[長崎奉行]]に「[[オランダ風説書|別段風説書]]」(幕末出島未公開文書<ref>フォス美弥子</ref>として保存される<ref>[http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2003/00914/contents/0028.htm 日本財団図書館 平成15年度 海事講演会 海・船セミナー2003 ?ペリー来航150周年記念?「黒船来航、その時日本は」]</ref>)を提出した。そこには、アメリカが日本との条約締結を求めており、そのために艦隊を派遣することが記載されており、中国周辺に有るアメリカ軍艦5隻と、アメリカから派遣される予定の4隻の艦名とともに、司令官がオーリックからペリーに代わったらしいこと、また艦隊は陸戦用の兵士と兵器を搭載しているとの噂があるとも告げていた。出航は4月下旬以降になろうと言われているとも伝えた。
 
 
 
1852年9月11日にはオランダ領[[バタヴィア]](ジャカルタ)の裁判官の[[ヤン・ドンケル・クルティウス|トンクル・キュルシュス]]が長崎に来航し、老中[[阿部正弘]]の許可を得た長崎奉行に、『[[大尊君長崎御奉行へ]]』と題する国王の命による6月25日付けのバタヴィア提督からの親書を届けた。この親書は[[公務員|公用方]]のア・フ・プリンスが命を受けて届けたもので、[[アメリカ合衆国]]が蒸気船軍艦で日本を訪れ通商を求めるらしいという風説と、キュルシュスを[[w:Netherlands_Trading_Society|オランダ貿易協会]]([[オランダ東インド会社]]の後身)の[[オランダ商館]]の長に任じたため応対して欲しいことを伝え、また、[[#1844|1844年の親書]]のあとも開国されなかったため国王は失望しているが、もし戦争になればオランダ人にも影響が及びかねないなどの懸念を表していた<ref>『[{{NDLDC|1081911/65}} 和蘭国所領咬𠺕吧督外交勧告書を幕府に奉呈の事]』。[[#岩倉公実記]]。</ref>。
 
 
 
{{要出典|オランダ領東インド総督はバン・トゥイストで、そこにはアメリカ使節派遣に対処するオランダの推奨案として「長崎港での通商を許し、長崎へ駐在公使を受け入れ、商館建築を許す。外国人との交易は江戸、京、大坂、堺、長崎、五ヶ所の商人に限る」など合計十項目にわたる、いわゆる通商条約素案をも示した。|date=2018年6月}}
 
 
 
[[老中]]首座[[阿部正弘]]は、夏ごろには[[伺候席#溜間|溜間]]詰の譜代大名にこれらを回覧した<ref>加藤、p40</ref>。[[海岸防禦御用掛]](海防掛)にも意見を聞いたが、通商条約は結ぶべきではないとの回答を得た。また、長崎奉行もオランダ人は信用できないとしたため<ref>岩下</ref>(以前にオランダ風説書でイギリスの[[香港総督]][[ジョン・バウリング]]の渡航が予告されたがそれはなく、すべての情報が正しいわけではなかった)<ref>福地源一郎、p14-15</ref>、幕府の対応は[[三浦半島]]の防備を強化するために[[川越藩]]・[[彦根藩]]の兵を増やした程度であった。<!-- アメリカ海軍の東インド艦隊は6年前の[[1846年]]([[弘化]]3年)に来航し、通商を求めてきたことがあったが、そのときは[[イギリス海軍]]や[[ロシア海軍]]艦艇のように帰ったため、今回も同じだろうと考えていた。-->加えて、幕府内でもこの情報は奉行レベルまでの上層部に留めおかれ、来航が予想される浦賀の与力等には伝えられていなかった<ref>加藤、p43。後に現場での対応に当たった[[中島三郎助]]や[[香山栄左衛門]]は、情報伝達がなかったことを浦賀奉行に抗議している。</ref>。他方、外様の[[島津斉彬]]には年末までに口頭でこの情報が伝えられようであり<ref>加藤、p42</ref>、斉彬は翌年のアメリカ海軍東インド艦隊の琉球渡航以降の動静を阿部正弘に報告し、両者は危機感を持ったが幕府内では少数派であった。
 
 
 
なお、アメリカ政府はペリーの日本派遣を決めると、オランダのヘーグに駐在するアメリカ代理公使・フォルソムを通じ、通商交渉使節の派遣とその平和的な目的を、オランダ政府が日本に通告してくれるよう依頼した。しかしこの書簡(1852年[[7月2日]]付け)は、クルティウスが日本に向けジャワを出発した後にバン・トゥイストの手元に届いたので、日本には届いていない。ただし翌年、すなわちペリーが来航した[[1853年]]([[嘉永]]6年)提出の別段風説書では、ペリー派遣の目的は通商関係を結ぶことが目的の平和的なものであると述べている。
 
 
 
=== 出航 ===
 
[[ファイル:黒船ミシシッピ号.jpg|thumb|200px|[[ミシシッピ号]]]]
 
[[1852年]][[11月24日]]、58歳の[[マシュー・ペリー|マシュー・カルブレース・ペリー]]司令長官兼遣日大使を乗せた[[蒸気船|蒸気]][[フリゲート]]「[[ミシシッピ (蒸気フリゲート)|ミシシッピ号]]」は、単艦で[[ノーフォーク (バージニア州)|ノーフォーク]]を出港し、一路アジアへと向かった。ペリーはタカ派の大統領[[ミラード・フィルモア|フィルモア]]([[ホイッグ党 (アメリカ)|ホイッグ党]])から、琉球の占領もやむなしと言われていた。
 
 
 
ミシシッピは[[大西洋]]を渡って
 
* [[マデイラ島]]([[12月11日]] - [[12月15日|15日]])
 
* [[セントヘレナ島]]([[1853年]][[1月10日]]・[[1月11日|11日]])
 
* [[南アフリカ]]の[[ケープタウン]]([[1月24日]] - [[2月3日]])
 
* [[インド洋]]の[[モーリシャス]]([[2月18日]] - [[2月28日|28日]])、
 
* [[スリランカ|セイロン]]([[3月10日]] - [[3月15日|15日]])、
 
* [[マラッカ海峡]]から[[シンガポール]]([[3月25日]] - [[3月29日|29日]])、
 
* [[マカオ]]・[[香港]]([[4月7日]] - [[4月28日|28日]])
 
を経て、[[上海市|上海]]に[[5月4日]]に到着した。この間、各港で石炭補給を行った。香港でプリマス(帆走スループ)およびサプライ(帆走補給艦)と合流、上海で蒸気フリゲート[[サスケハナ (蒸気フリゲート)|サスケハナ]]と合流した。このとき、すでに大統領は[[民主党 (アメリカ)|民主党]]の[[フランクリン・ピアース|ピアース]]に代わっていて、彼の下で[[ジェイムズ・コクラン・ドビン (1世)|ドッピン]]海軍長官は侵略目的の武力行使を禁止したが、航海途上のペリーには届いていなかった。
 
 
 
なお、途中マカオにて[[サミュエル・ウィリアムズ]]を漢文通訳として、上海で[[アントン・ポートマン]]をオランダ語通訳として雇用し、日本への航海途中にフィルモア大統領親書の漢文版およびオランダ語版を作成している。
 
 
 
=== 琉球来航 ===
 
[[ファイル:Kurofune.jpg|thumb|200px|サスケハナ号]]
 
[[上海]]で[[サスケハナ (蒸気フリゲート)|サスケハナ]]に旗艦を移したペリー艦隊は[[5月17日]]に出航し、[[5月26日]]に[[琉球王国]]([[薩摩藩]]影響下にある)の那覇沖に停泊した。ペリーは[[首里城]]への訪問を打診したが、琉球王国側はこれを拒否した。しかし、ペリーはこれを無視して、武装した兵員を率いて上陸し、市内を行進しながら首里城まで進軍した。
 
 
 
琉球王国は仕方なく、武具の持込と兵の入城だけは拒否するとして、ペリーは武装解除した士官数名とともに入城した。ペリー一行は北殿で茶と菓子程度でもてなされ、開国を促す大統領[[親書]]を手渡した。さらに場所を城外の大美御殿に移し、酒と料理でもてなされた。ペリーは感謝して、返礼に王国高官を「サスケハナ」に招待し、同行の[[フランス]]人シェフの料理を振舞った。
 
 
 
しかし、王国が用意したもてなしは、来客への慣例として行ったものに過ぎず、[[清]]からの[[冊封]]使に対するもてなしよりも下位の料理を出すことで、暗黙の内にペリーへの拒否([[親書]]の返答)を示していた(多くの国が来客に対して使う手法である)。友好的に振舞ったことで武力制圧を免れたものの、琉球王国はこの後もペリーの日本への中継点として活用された。
 
 
 
この当時の記録は琉球側がまとめた『琉球王国評定所文書』に詳細に記されている。
 
 
 
=== 小笠原探検 ===
 
ペリーは艦隊の一部を那覇に駐屯させ、自らは[[6月9日]]に出航、[[6月14日]]から[[6月18日]]にかけて、まだ領有のはっきりしない[[小笠原諸島]]を探検した。このとき、ペリーは小笠原の領有を宣言したが、即座にイギリスから抗議を受け、[[ロシア]]船も抗議のために小笠原近海へ南下したため、宣言はうやむやになった。後に日本は[[林子平]]著『[[三国通覧図説]]』の記述を根拠として領有を主張し{{要出典|date=2011年6月}}、[[水野忠徳]]を派遣して[[八丈島]]住民などを積極的に移住させることで、イギリスやロシア、アメリカなどの当時の列強諸国に領有権を認めさせることになる。
 
 
 
ペリーは[[6月23日]]に一度琉球へ帰還し、再び艦隊の一部を残したまま、[[7月2日]]に大統領からの親書を手に3隻を率いて[[日本]]へ出航した。
 
 
 
=== 浦賀来航 ===
 
[[ファイル:Kurofune_2.jpg|thumb|200px|サラトガ号]]
 
[[ファイル:Gasshukoku suishi teitoku kōjōgaki (Oral statement by the American Navy admiral).png|thumb|300px|合衆国水師提督口上書(嘉永6年6月8日)<br/>左よりヘンリー・アダムス副使(艦長)、ペリー水師提督、アナン軍使(司令官)]]
 
1853年[[7月8日]](嘉永6年6月3日)に[[浦賀]]沖に午後5時に現れ、停泊した。日本人が初めて見た艦は、それまで訪れていたロシア海軍やイギリス海軍の[[帆船]]とは違うものであった。黒塗りの船体の外輪船は、帆以外に外輪と[[蒸気機関]]でも航行し、帆船を1艦ずつ曳航しながら煙突からはもうもうと煙を上げていた。その様子から、日本人は「'''[[黒船]]'''」と呼んだ。
 
 
 
浦賀沖に投錨した艦隊は旗艦「[[サスケハナ (蒸気フリゲート)|サスケハナ]]」(蒸気外輪[[フリゲート]])、「[[ミシシッピ (蒸気フリゲート)|ミシシッピ]]」(同)、「[[サラトガ (スループ)|サラトガ]]」(帆走スループ)、「[[プリマス]]」([[:en:USS Plymouth (1844)|USS Plymouth]] 同)の4隻からなっていた。大砲は計73門あり、急な日本側からの襲撃を恐れ臨戦態勢をとりながら、上陸に備えて勝手に[[江戸湾]]の測量などを行い始めた。さらに、[[アメリカ独立記念日]]の[[祝砲]]や、号令や合図を目的として、湾内で数十発の空砲を発射した。この件は事前に日本側に通告があったため、町民にその旨のお触れも出てはいたのだが<ref>[http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Suzuran/5198/meibo/index.html 横浜黒船研究会]「神奈川県域のヒストリック・イベント(7)、第二章 横浜村の黒船騒動、一、異国船の接近に驚く住民」 草間俊郎</ref>、最初の砲撃によって江戸は大混乱となったが、やがて空砲だとわかると、町民は砲撃音が響くたびに、花火の感覚で喜んだと伝えられる。
 
 
 
浦賀は見物人でいっぱいになり、勝手に小船で近くまで繰り出し、上船して接触を試みるものもあったが、幕府から武士や町人に対して、「十分に警戒するよう」にとのお触れが出ると、実弾砲撃の噂とともに、次第に不安が広がるようになった。このときの様子をして「泰平の眠りを覚ます上喜撰たつた四杯で夜も眠れず」という[[狂歌]]が詠まれた。[[上喜撰]]とは緑茶の銘柄である「喜撰」の上物という意味であり、「上喜撰の茶を四杯飲んだだけだが([[カフェイン]]の作用により)夜眠れなくなる」という表向きの意味と、「わずか四杯(ときに船を1杯、2杯とも数える)の異国からの蒸気船(上喜撰)のために国内が騒乱し夜も眠れないでいる」という意味をかけて揶揄している<ref group="†">同時代史料においては類似した句が見られるのみで、主に[[明治]]11年([[1878年]])の『[[武江年表]]』や[[大正]]3年([[1914年]])『江戸時代落書類聚』など、明治以降に出典が見られることから、後世に喧伝された歌である可能性が指摘され、近年では教科書から姿を消している。しかし[[平成]]22年([[2010年]])になり、黒船来航直後に詠まれたことを示す書簡(嘉永6年(1853年)6月30日付の山城屋左兵衛から[[色川三中]]への書簡、[[静嘉堂文庫]]所蔵)が見つかっている。上記のとおり、黒船4隻中、蒸気船は2艦のみである。</ref>。
 
 
 
[[7月9日]](嘉永6年6月4日)幕府は、船上のペリーに対してまず浦賀奉行所[[与力]]の[[中島三郎助]]を派遣し、ペリーの渡航が将軍に[[アメリカ合衆国大統領]]親書を渡すことが目的であることを把握したが、ペリー側は幕府側の与力の階級が低過ぎるとして親書を預けることを拒否した。続いて[[7月10日]](嘉永6年6月5日)浦賀奉行所[[与力]][[香山栄左衛門]]が浦賀奉行と称して訪ねた。ピュカナン・アダムス両艦長およびコンティーと会見した。が対応は変わらず、親書は最高位の役人にしか渡さないとはねつけられた。香山は上司と相談するために4日の猶予をくれるように頼んだが、ペリーは3日なら待とうと答え、さらに「親書を受け取れるような高い身分の役人を派遣しなければ、江戸湾を北上して、兵を率いて上陸し、将軍に直接手渡しすることになる」と脅しをかけた。
 
 
 
ペリーは、香山と会見が行われた日([[7月10日]](嘉永6年6月5日))、艦隊所属の各艦から一隻ずつの武装した短艇を派遣して、浦賀湾内を測量させた。この測量は幕府側に威圧を加えるという効果をもたらした。浦賀奉行は、当然ながら抗議した。その回答は、鎖国体制下の不平等な国際関係を排除するという考えであり、日本に対して不平等な国際関係を強いようとする考えが含まれていた<ref>[[石井孝]] 『日本開国史』 吉川弘文館 2010年復刻版 (1972年初版) 48ページ</ref>。翌[[7月11日]](嘉永6年6月6日)早朝から測量艇隊は湾内深くに侵入した。その護衛にミシシッピ号が付いていた。その行動の裏には、ペリーの「強力な軍艦で江戸に接近する態度を示せば、日本政府(幕府)の目を覚まさせ、米国にとってより都合の良い返答を与えるであろう」との期待があった。この行動に幕府は大きな衝撃を受け、[[7月12日]](嘉永6年6月7日)「姑く耐認し枉げて其意に任せ、速やかに退帆せしめ後事をなさん」との見地から国書を受領し、返事は長崎オランダ商館長を通じて伝達するよう、浦賀奉行井戸弘道に訓令し、交渉に当たらせた<ref>[[石井孝]] 『日本開国史』 吉川弘文館 2010年復刻版 (1972年初版) 49-50ページ</ref>。
 
 
 
この時第12代[[征夷大将軍|将軍]][[徳川家慶]]は病床に伏せていて、国家の重大事を決定できる状態には無かった。老中首座[[阿部正弘]]は、[[7月11日]](嘉永6年6月6日)に「国書を受け取るぐらいは仕方ないだろう」との結論に至り、[[7月14日]](嘉永6年6月9日)にペリー一行の[[久里浜]]上陸を許し、[[下曽根信敦]]率いる部隊の警備の下、浦賀奉行の[[戸田氏栄]]と[[井戸弘道]]がペリーと会見した。
 
 
 
ペリーは彼等に開国を促す大統領フィルモアの親書<ref group="†">大統領フィルモアから「日本皇帝」(将軍)にあてた親書には、ペリーを日本へ派遣した目的として、両国間における自由貿易を許すこと、難破船員を優遇しその財産を保護すること、船舶に石炭・食料及び水を供給する寄港地として、日本南岸における一港を指定すること、を上げている。そして貿易については、5年ないし10年間試験的に実施し、利益がないことが分かれば、旧法に復することもできると述べるなど、慎重な表現が為されていることが注目される</ref><ref>[[石井孝]] 『日本開国史』 吉川弘文館 2010年復刻版 (1972年初版) 52ページ</ref>、提督の信任状、覚書などを手渡したが、幕府は「将軍が病気であって決定できない」として、返答に1年の猶予を要求したため、ペリーは「返事を聞くために1年後に再来航する」と告げた。ここでは文書の受け渡しのみで何ら外交上の交渉は行われなかった。日本側の全権である浦賀奉行の戸田と井戸の二人は一言も発しなかった。
 
日本側は、会見終了して2、3日したら退去するものと考えていたが、ペリーは7月15日(嘉永6年6月10日)ミシシッピー号に移乗し浦賀より20[[マイル]]北上して江戸の港を明瞭に望見できるところまで進み、将軍に充分な威嚇を示してから小柴沖に引き返した。
 
 
 
艦隊は[[7月17日]](嘉永6年6月12日)に江戸を離れ、琉球に残した艦隊に合流してイギリスの植民地である[[香港]]へ帰った。
 
ペリーは本国政府訓令の精神を貫徹することに成功した<ref>[[石井孝]] 『日本開国史』 吉川弘文館 2010年復刻版 (1972年初版) 58ページ</ref>。
 
 
 
嘉永6年来航の艦艇の概要は以下の通りである。
 
 
 
{| class="wikitable"
 
|-
 
! 艦名 !! 艦種 !! 建造年 !! トン数 !! 乗組員 !! 機関出力 !! 備砲
 
|-
 
| [[サスケハナ (蒸気フリゲート)|サスケハナ]]<br>Susquehanna || 蒸気外輪フリゲート || 1850年 || 積載量2450トン([[ビルダーズ・オールド・メジャメント|bmトン]])<br>排水量3824英トン || 300 || 420NHP<br>795IHP || 150ポンド[[パロット砲]]x2<br>9インチ[[ダルグレン砲]]x12<br>12ポンド砲x1
 
|-
 
| [[ミシシッピ (蒸気フリゲート)|ミシシッピ]]<br>Mississippi || 蒸気外輪フリゲート || 1841年 || 積載量1692トン(bmトン)<br>排水量3220英トン || 260 || 434NHP<br>650IHP || 10インチ[[ペクサン砲]]x8<br>8インチペクサン砲x2
 
|-
 
| [[サラトガ (スループ)|サラトガ]]<br>Saratoga || 帆走スループ || 1843年 || 積載量882トン(bmトン) || 260 || 無 || 8インチ砲x4<br>32ポンド砲x18
 
|-
 
| プリマス<br>[[:en:USS Plymouth (1844)|Plymouth]] || 帆走スループ || 1844年 || 積載量989トン(bmトン) || 260 || 無 || 8インチ砲x8<br>32ポンド砲x18
 
|}
 
 
 
=== ペリー退去後の幕府の動向 ===
 
ペリー退去からわずか10日後の[[7月27日]](嘉永6年6月22日)に将軍家慶が死去した。将軍後継者の[[徳川家定|家定]](嘉永6年11月23日に第13代将軍に就任)は病弱で国政を担えるような人物ではなかった。しかし老中等にも名案はなく、国内は異国排斥を唱える[[攘夷]]論が高まっていたこともあって、老中首座の[[阿部正弘|阿部]]は開国要求に頭を悩ませた。
 
 
 
7月1日、[[阿部正弘|阿部]]は、広く各大名から旗本、さらには庶民に至るまで、幕政に加わらない人々にも、外交についての意見を求めたが、これは開幕以来初めてであった。国政に発言権の無かった[[外様大名]]は喜んだが、名案は無かった。これ以降は国政を幕府単独ではなく合議制で決定しようという「[[公議政体論|公議輿論]]」の考えだけが広がり、結果として幕府の権威を下げることとなった。
 
 
 
=== 軍備増強 ===
 
さらに阿部はアメリカ側と戦闘状態になった時に備えて、江戸湾警備を増強すべく[[8月26日]](嘉永6年7月23日)に[[江川英龍|江川太郎左衛門]]等に砲撃用の[[お台場|台場]]造営を命じた。江川は、[[富津]]-[[観音崎]]、[[本牧]]-[[木更津]]、[[羽田]]沖、品川沖の4線の防御ラインを提案していたが、予算・工期の関係からまず品川沖に11箇所の台場が造営されることとなった<ref>淺川2009、p55-p61。品川沖は遠浅であるため大口径砲を搭載した大型艦は接近できず、小型艦に対抗できれば十分と考えられた。また、正面だけでなく、突破された場合のことも考慮して背面にも砲台が設けられた。</ref>。
 
 
 
[[12月14日]](嘉永6年11月14日)には建造途中の1~3番台場の守備に川越藩、会津藩、忍藩が任ぜられた<ref>淺川2009、p64</ref>。また、[[大船建造の禁]]も解除され、各藩に軍艦の建造を奨励、幕府自らも洋式帆船「[[鳳凰丸]]」を10月21日(嘉永6年9月19日)に[[浦賀船渠|浦賀造船所]]で起工した。オランダへの艦船発注も、ペリーが去ってからわずか一週間後の[[7月24日]](嘉永6年6月19日)には決まっている<ref>翌嘉永7年9月21日(1854年11月11日)、実際に 蒸気軍艦2隻([[咸臨丸]]及び[[朝陽丸]])が発注されている</ref>。12月7日(嘉永6年11月7日)には、2年前にアメリカから帰国し[[土佐藩]]の藩校の教授となっていた[[ジョン万次郎]]を旗本格として登用し、アメリカの事情等を述べさせた。
 
 
 
== 嘉永7年(1854年)の来航 ==
 
[[ファイル:Kurofune_3.jpg|thumb|200px|[[ポーハタン (フリゲート)|ポーハタン号]]]]
 
1854年[[2月13日]](嘉永7年1月16日)、ペリーは琉球を経由して再び浦賀に来航した。幕府との取り決めで、1年間の猶予を与えるはずであったところを、あえて半年で決断を迫ったもので幕府は大いに焦った。ペリーは香港で将軍家慶の死を知り、国政の混乱の隙を突こうと考えたのである。ここにペリーの外交手腕を見て取ることもできる。
 
 
 
[[2月11日]](嘉永7年1月14日)に輸送艦「サザンプトン」(帆船)が現れ、[[2月13日]](嘉永7年1月16日)までに旗艦「[[サスケハナ (巡洋艦)|サスケハナ]]」、「ミシシッピ」、「[[ポーハタン (蒸気フリゲート)|ポーハタン]]」(以上、[[蒸気船|蒸気]][[外輪船|外輪]][[フリゲート]])、「マセドニアン」、「ヴァンダリア」(以上、帆走[[スループ]])、「レキシントン」(帆走補給艦)の6隻が到着した。なお、江戸湾到着後に旗艦は「ポーハタン」に移った。[[3月4日]](嘉永7年2月6日)に「サラトガ」(帆走スループ)、[[3月19日]](嘉永7年2月21日)に「サプライ」(帆走補給艦)が到着して計9隻の当時としては大規模な艦隊が江戸湾に集結し、江戸は大きな動揺を受けた。一方で、やはり浦賀には見物人が多数詰め掛け、観光地のようになっていた。また、勝手に舟を出してアメリカ人と接触する市民もいた。
 
 
 
突然の大艦隊の来航に幕府は驚いたものの、前回の来航の時同様に日本側もアメリカ側も敵対的な行動を取ることはなく、アメリカ側は船上で日本側の使いに対しフランス料理を振舞って歓迎した。日本人は[[鯛]]を喜ぶ、という情報を仕入れていたアメリカ側は鯛を釣って料理する、などの日本側を意識した部分が料理にあった。一方、日本側の招待された面々は、[[十手]]と[[孫の手]]を[[ナイフ]]と[[フォーク (食器)|フォーク]]に見立てて作法の練習をしたという。アメリカ側の記述によると、最後に本来ならメニューを持ち帰るべきところを料理その物を[[懐紙]]に包んでもって帰り、しかも、様々な料理を一緒くたに包んでいたことに驚いたという。ただしこの振る舞いは[[本膳料理]]には『硯蓋』という揚げ菓子があり、それを持って帰るのが作法であることに由来したものであった。
 
 
 
その応饗として、横浜の応接所で最初の日米の会談が行われた後、日本側がアメリカ側に本膳料理の昼食を出した。料理は江戸浮世小路百川が2000両で請負い、300人分の膳を作った<ref>『[[大日本古文書]]』の幕末関係資料に「右御料理百川に被仰付之」とあり、安政元年頃のかわら版『武州横浜於応接所饗応之図』にも百川とあるが、「大日本古文書」には賀宮ノ下岩井屋富五郎が請け負ったとする資料も含まれている</ref>。2000両を現代の価値に計算すると約1億5千万円近く、一人50万円になる。最上級の食材を使い、酒や吸い物、肴、本膳、二の膳、デザートまで100を超える料理が出された。しかし、「肉料理が出ないのは未開だから」、という偏見や、総じて生ものや薄味の料理が多かったのと、一品あたりの量がアメリカ人にとっては少なかったようで、ペリーは「日本はもっといいものを隠しているはずだ」と述懐している。ただし、「日本は出来る限りのことをやった」と述べたアメリカ側の人物もいる。その後、日本側は何かにつけてアメリカ側に料理を食べに行ったとされる。
 
 
 
約1か月にわたる協議の末、幕府は返答を出し、アメリカの開国要求を受け入れた。[[3月31日]](嘉永7年3月3日)、ペリーは約500名の将官や船員とともに[[武蔵国]][[神奈川宿|神奈川]]近くの横浜村(現[[神奈川県]][[横浜市]])に上陸し日本側から歓待を受け、その後[[林復斎]]を中心に交渉が開始され全12箇条に及ぶ'''[[日米和親条約]]'''(神奈川条約)が締結されて日米合意は正式なものとなり、3代将軍[[徳川家光]]以来200年以上続いてきた、いわゆる[[鎖国]]が解かれた(直後の[[4月25日]]に[[吉田松陰]]が外国留学のため密航を企てポーハタン号に接触している)。その後、5月下旬(嘉永7年4月下旬)に視察のため[[函館港|箱館港]]に入港、[[松前藩]]家老格・[[松前勘解由]]に箱館港に関する取り決めを求めるが、権限がないとして拒絶される<ref>{{Cite web |url=http://www.lib-hkd.jp/hensan/hakodateshishi/tsuusetsu_01/shishi_03-05/shishi_03-05-01-02-01.htm |title=『函館市史』通説編第1巻  |publisher=[[函館市]] |accessdate=2014-08-06 }}</ref>。箱館から戻った後、[[伊豆国]]下田(現[[静岡県]][[下田市]])の了仙寺へ交渉の場を移し、[[6月17日]](嘉永7年5月22日)に和親条約の細則を定めた全13箇条からなる'''下田条約'''を締結した。
 
 
 
ペリー艦隊は[[6月25日]](嘉永7年6月1日)に下田を去り、帰路に立ち寄った[[琉球王国]]とも正式に通商条約を締結させた。ペリーはアメリカへ帰国後、これらの航海記『日本遠征記』(現在でもこの事件の一級資料となっている)をまとめて議会に提出したが、条約締結の大役を果たしたわずか4年後の[[1858年]]に63歳で死去した。その後、アメリカは熾烈な[[南北戦争]]に突入し、日本や清に対する影響力を失い、結局[[イギリス]]や[[フランス]]、[[ロシア]]が日本と関係を強めた上に、清に対する影響力を拡大してしまった。
 
 
 
[[昭和]]20年([[1945年]])9月2日、東京湾の戦艦ミズーリ艦上で日本の降伏文書調印式が行われた際、この時のペリー艦隊の旗艦「ポーハタン」号に掲げられていたアメリカ国旗が本国より持ち込まれ、その旗の前で調印式が行われた。1854年7月に琉球からペリー艦隊に送られた梵鐘は[[海軍兵学校 (アメリカ合衆国)|アナポリス海軍兵学校]]に飾られ、同学校[[フットボール]]優勝祝賀会で鳴らされていたが、1987年、沖縄に返還されている<ref name="mlit_a">{{cite web |url=http://www.mlit.go.jp/common/000146872.pdf |title=沖縄県立博物館・美術館 通訳案内士研修資料 |format=PDF |publisher=[[国土交通省]] |accessdate=2014-06-07 |page=149 |quote=その後、1987年に沖縄へ戻りました}}</ref><ref>[[#次席将校]]p.66</ref>。この鐘は正式名称を「旧大安禅寺鐘」、通称「護国寺の鐘」といい、1456年製造という<ref name="mlit_a" />。
 
 
 
嘉永7年来航の艦艇の概要は以下の通り。
 
 
 
{| class="wikitable"
 
|-
 
! 艦名 !! 艦種 !! 建造年 !! トン数 !! 乗組員 !! 機関出力 !! 備砲
 
|-
 
| [[ポーハタン (蒸気フリゲート)|ポーハタン]]<br>Pawhatan || 蒸気外輪フリゲート || 1852年 || 積載量2415トン([[ビルダーズ・オールド・メジャメント|bmトン]])<br>排水量3765英トン || 289 || 420NHP<br>795IHP || 11インチ[[ダールグレン砲]]x1<br>9インチダールグレン砲x10<br>12ポンド砲x5
 
|-
 
| [[サスケハナ (蒸気フリゲート)|サスケハナ]]<br>Susquehanna || 蒸気外輪フリゲート || 1850年 || 積載量2450トン(bmトン)<br>排水量3824英トン || 300 || 420NHP<br>795IHP || 150ポンド[[パロット砲]]x2<br>9インチ[[ダルグレン砲]]x12<br>12ポンド砲x1
 
|-
 
| [[ミシシッピ (蒸気フリゲート)|ミシシッピ]]<br>Mississippi || 蒸気外輪フリゲート || 1841年 || 積載量1692トン(bmトン)<br>排水量3220英トン || 260 || 434NHP<br>650IHP || 10インチ[[ペクサン砲]]x8<br>8インチペクサン砲x2
 
|-
 
| [[サラトガ (スループ)|サラトガ]]<br>Saratoga || 帆走スループ || 1843年 || 積載量882トン(bmトン) || 260 || 無 || 8インチ砲x4<br>32ポンド砲x18
 
|-
 
| マセドニアン<br>[[:en:USS Macedonian (1836)|Macedonian]] || 帆走スループ || 1852年改造 || 積載量1341トン(bmトン) || 489(改造前) || 無 || 8インチ砲x6<br>32ポンド砲x16
 
|-
 
| バンダリア<br>[[:en:USS Vandalia (1828)|Vandalia]] || 帆走スループ || 1848年改造 || 積載量770トン(bmトン) || 150 || 無 || 8インチ砲x4<br>32ポンド砲x16
 
|-
 
| サウサンプトン<br>[[:en:USS Southampton (1841)|Southampton]] || 帆走補給艦 || 1845年 || 積載量567トン(bmトン) || 不明 || 無 || 42ポンド砲x2
 
|-
 
| レキシントン<br>[[:en:USS Lexington (1825)|Lexington]] || 帆走補給艦 || 1843年改造 || 積載量691トン(bmトン) || 190(改造前) || 無 || 32ポンド砲x6
 
|-
 
| サプライ<br>[[:en:USS Supply (1846)|Supply]] || 帆走補給艦 || 1846年購入 || 積載量547トン(bmトン) || 60 || 無 || 24ポンド砲x4
 
|}
 
 
 
==事例==
 
[[File:招魂社岩倉.jpg|thumb|岩倉具視「招魂社を建設する事」<ref>1906年の『岩倉公実記』。国立国会図書館 {{NDLJP|781064/251}}</ref>。]]
 
=== ミシンの伝来 ===
 
1830年代から50年代にかけ、アメリカでは衣服製造用の[[ミシン]]が発達していたが、1854年(嘉永7年)の2度目の来航のときには、ペリーから[[徳川将軍家]]にはミシンが送られたとされている。
 
 
 
=== 招魂社(靖国神社)の設立 ===
 
[[岩倉具視]]の著述記録のうち「招魂社を建設する事」によれば、1869年に[[招魂社競馬|招魂社]]([[靖国神社]]の前身)が設立されたのは、黒船来航以来の殉国者と[[鳥羽・伏見の戦い|伏見戦争]]([[戊辰戦争]])の殉国者を併せて慰霊するためである。
 
 
 
同文書は「五月十日癸丑以来殉国者の 霊魂を慰し [[東山]]に祠宇を建て 之を合祀せしむ」としており、五月十日癸丑は一度目の来航のあった1853年の6月16日に当たる。この慰霊に伴い[[東京府]][[麹町区]][[九段]]には招魂社が設置され、その境内に日本で初めての西洋式の[[競馬場]]が作られた<ref>Nikkei Style『[https://style.nikkei.com/article/DGXBZO37293640V11C11A2000000/ 靖国神社は昔、競馬場!]』、2011年12月16日。[http://archive.is/nT6Es アーカイブ]</ref>。
 
 
 
== 疑問視される事例 ==
 
特定の資料によってのみ伝えられるため、日本史の専門家から疑問視されている。
 
 
 
=== 白旗伝説 ===
 
ペリーは最初の浦賀来航の際に幕府に旗を2本贈っているが、旗の種類及び贈った目的は不明。この件に関して高麗環文書では、「開国か降伏か」を迫る文書を同時に渡したとされる。「2本の旗のうちひとつは白旗であり、降伏の際に用いる旗である」と説明されていたという。ただし同文書に記載された内容は当時の状況と矛盾する点が多く、日本史の専門家からは一部の人を除き[[偽書]]と判断されている。なお、[[香山栄左衛門]]と応接した際にサスケハナの[[フランクリン・ブキャナン]]艦長は「白旗」について言及しているが、「降伏勧告」については記録にはない。
 
 
 
=== 砲撃戦 ===
 
ペリーの『日本遠征記』によると、2度の来航で100発以上の空砲を祝砲、礼砲、号砲の名目で撃っており、日本側史料には、事前に日本側にこれらが行われることが伝えられ、さらに市民にもお触れが出ていたにもかかわらず、これが大混乱を巻き起こしたことが記録されているが、いずれも空砲であり被害は無い。ところが、来航した「ポーハタン」以下7隻の内、蒸気船2隻と帆船3隻が[[安房国]]([[千葉県]])洲崎を砲撃した、と{{要出典|日本側の古文書にある|date=2015年4月}}。
 
 
 
事件は[[1854年]][[2月20日]](嘉永7年[[1月23日 (旧暦)|1月23日]])丑の下刻、洲崎を警護する[[備前国|備前]]岡山藩陣地への砲撃であった。艦船の砲弾は陣地の手前10メートルほどの海中に落下した。備前藩は非常召集を行って大砲5門を以って砲撃、蒸気船2隻は逃走したが、帆船3隻に命中した。備前の守備隊は舟艇で帆船への乗船を試み、反撃を受けて300名ほどが死傷したが、3隻を「御取り上げ」(拿捕)した。しかし、この事件は[[2月27日]](旧暦[[2月1日 (旧暦)|2月1日]])の記録を最後に途絶えている。
 
 
 
この日の事件を受けて[[土佐藩]]では、[[1854年]][[2月21日]](嘉永7年[[1月24日 (旧暦)|1月24日]])、[[土佐]][[武士|藩士]]の[[明神善秀]]が[[山内容堂]]より、[[安芸郡 (高知県)|安芸郡]][[郡代|奉行]]を仰せ付けられ、[[異国船打払令]]に基づき、'''異国船打払い御用'''を仰せ付けられている<ref>『御侍中先祖書系圖牒』「[[明神善秀]]」項による。</ref>。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
=== 注釈 ===
 
<references group="†" />
 
 
 
=== 出典 ===
 
{{Reflist|2}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
*<span id="岩倉公実記">多田好問『[[s:岩倉公実記|岩倉公実記]]』、1906年 - ウィキソース</span>
 
* William Alexander Graham (Author), "The Papers of William Alexander Graham. Volume IV, 1851-1856." Raleigh: State Department of Archives and History, 1961. ASIN: B000LLC9GQ
 
* K. Jack Bauer, "A Maritime History of the United States: The Role of America's Seas and Waterways", University of South Carolina Press (July 1, 1989), ISBN 978-0872496712
 
*松永市郎 『次席将校 『先任将校』アメリカを行く』、光人社、1991年 ISBN 4-7698-0556-X
 
*元綱数道 『幕末の蒸気船物語』、成山堂書店、2004年 ISBN 978-4425302512   
 
*フォス美弥子編訳『幕末出島未公開文書 ドンケル・クルチウス覚え書』、新人物往来社、1992年、ISBN 440401905X
 
*[[松方冬子]]『オランダ風説書―「鎖国」日本に語られた「世界」』、中央公論新社〈中公新書〉、2010年
 
* 東京都江戸東京博物館『日米交流のあけぼの‐黒船きたる‐』1999年発行
 
* 岩下哲典『予告されていたペリー来航と幕末情報戦争』、洋泉社(2006年)。ISBN 978-4862480286
 
* [[加藤祐三]]『幕末外交と開国』、ちくま新書(2004年)。ISBN 978-4480061539 
 
* [[石井孝]]『日本開国史』、吉川弘文館(2010年)。ISBN 978-4642063616。初版は1972年
 
* 淺川道夫『お台場 品川台場の設計・構造・機能』、錦正社(2009年)。ISBN 978-4764603288
 
* 淺川道夫『江戸湾海防史』、錦正社(2010年)。ISBN 978-4764603325
 
* [[福地源一郎]]『幕府衰亡論』、平凡社(1967年)。ISBN 978-4582800845
 
* [http://hakodate-russia.com/ 函館日ロ交流史研究会]『会報 No.9 1998.8.11』[http://hakodate-russia.com/main/letter/09-01.html 津軽海峡を封鎖した異国船]
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[黒船]]
 
* [[日米関係史]]
 
* [[アヘン戦争]]
 
* [[アロー戦争]]
 
* [[グレート・ホワイト・フリート]]
 
* [[琉米修好条約]]
 
* [[ペリー上陸記念碑]]
 
* [[黒船祭]]
 
* [[林復斎]] 黒船来航時の日本側の交渉責任者
 
* [[存在の概念がない世界]] 黒船来航時にその姿を認識できなかった事象
 
*[[幕末の砲艦外交]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
{{Commonscat|Perry Expedition}}
 
*[https://www.kufs.ac.jp/toshokan/perry/perry_frame1.htm 黒船来航と日本]京都外大付属図書館、2003
 
* [http://ci.nii.ac.jp/naid/110006474823 松方冬子 アヘン戦争・オランダ・風説書(第二会場(近世),日本史部会,第一〇四回史学会大会報告) 史學雜誌 116(1), 110, 2007-01-20]
 
* [http://ci.nii.ac.jp/naid/110002366427 松方冬子 オランダ国王ウィレム二世の親書再考 : 一八四四年における「開国勧告」の真意 A Re-Examination of King Willem II's Letter : The Real Purpose in "Advising Japan to Open Up" in 1844 史學雜誌 114(9), 2005-09-20]
 
* [http://www.hh.em-net.ne.jp/~harry/komonzyotop.html 古文書を楽しむ(別段風説書など)]
 
* [http://www.japanusencounters.net/ 日米交流史サイト]
 
* [http://ci.nii.ac.jp/naid/110000468881 幕末開国前後の日米関係 <Articles>Japan Meets the United States : The Opening of Japan and the Final Years of the "Bakufu" 江戸川女子短期大学紀要 14, 129-141, 1999-03-31]
 
* [http://ci.nii.ac.jp/naid/110007472119 岩井大慧 日本開國史上の一新史料 史学 17(1), 1-48, 1938-08 慶應義塾大学]
 
* {{PDFlink|[http://www.bunkyo.ac.jp/faculty/lib/slib/kiyo/Int/it2001/it200109.pdf 瀧澤道夫 黒船は何を目指したか?~太平洋航路の先駆けを考える What was intended by the black ship?~ The pioneer for steamship in the Pacific Ocean 文教大学国際学部紀要 第20巻 1号2009年7月]}}
 
* [http://ci.nii.ac.jp/naid/110002238451 都築博子 日本開国への「海の道」:米国太平洋捕鯨の視点から Voyages to the Pacific Region : The Opening of Japan by the Expansion of the American Foreign Relations with Whaling 太平洋学会誌 (95), 19-26, 2005]
 
* [http://hdl.handle.net/10110/1567 神徳昭甫 日本開国-異文化交錯の劇空間 The Opening of Japan to the Western World-A Cross-Cultural Study of the Surprise Visits of Kurofune, an American Squadron 010b40 富山大学人文学部紀要40]
 
* {{PDFlink|[http://libw01.kokushikan.ac.jp/data/1002025/0000/registfile/1884_6963_001_11.pdf 永橋弘价 開国に至る外交経緯について-阿部正弘の対外姿勢を中心に 政治研究 創刊号 212-231]}}
 
* [http://hdl.handle.net/2261/32521 富澤達三 黒船かわら版とそれ以前 The Kurofune Kawaraban and Before 東京大学大学院総合文化研究科附属アメリカ太平洋地域研究センター アメリカ太平洋研究. 5, 2005.3,pp. 31-40]
 
* {{PDFlink|[http://klibredb.lib.kanagawa-u.ac.jp/dspace/bitstream/10487/6620/1/10%20143-152coe.pdf 富澤達三 「黒船かわら版」の情報 神奈川大学 ]}}
 
* [http://kurihama.info/event/perry/ 久里浜ペリー祭(久里浜観光協会)]
 
 
 
{{デフォルトソート:くろふねらいこう}}
 
[[Category:幕末の事件]]
 
[[Category:1853年の日本]]
 
[[Category:幕末の日米関係]]
 
[[Category:東京湾の歴史]]
 
[[Category:訪日外国艦隊]]
 
[[Category:浦賀]]
 
[[Category:横須賀市の歴史]]
 
[[Category:1853年のアメリカ合衆国]]
 

2018/12/24/ (月) 08:33時点における最新版



楽天市場検索: