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(歴代君主)
 
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{{Otheruses}}
 
{{周代諸侯国
 
|国名=魯
 
|国姓=姫姓
 
|爵位=侯爵
 
|国都=奄城<br><small>([[山東省]][[曲阜市]])</small><br />曲阜<br /><small>(山東省曲阜市古城村)</small>
 
|分封者=[[成王 (周)|成王]]
 
|始祖=[[伯禽]]
 
|建国年=[[紀元前11世紀]]
 
|滅亡年=[[紀元前256年|前256年]]
 
|滅亡原因=[[楚 (春秋)|楚]]により滅亡
 
|史書の記載=『[[史記]]』<br><small>(巻33 魯世家)</small><br />『[[春秋左氏伝]]』
 
}}
 
[[File:Kyo.png|thumb|240px|魯の位置]]
 
[[File:Chinese plain 5c. BC-en.svg|thumb|400px|right|魯(Lu )の位置]]
 
'''魯'''(ろ)は、[[中国]]の[[王朝]]名・地名。地名としての魯は現在の中国[[山東省]]南部を指す。山東省全体の略称(雅名)としても用いられる。
 
  
王朝としての魯([[紀元前1055年]] - [[紀元前249年]])は、[[中国大陸]]に[[周]]代、[[春秋時代]]、[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]に亘って存在した国である。代々の'''魯公'''(魯の君主)の爵位は[[侯爵]]であり、[[姓]]は'''姫'''(き)である。首府は[[曲阜]]。
+
''''''(ろ)
  
[[周公旦]][[]]王朝の開祖である[[武王 ()|武王]]の弟で、[[武王 (周)|武王]]の子[[成王 (周)|成王]]を補佐した)の子[[伯禽]]が[[成王 ()|成王]]によって封ぜられて成立した。
+
中国,周代の諸侯国の一つ (前 1055~249) で,山東省の曲阜に都した。周の武王の弟の[[周公旦]]が封じられたのに始るが,任地の曲阜におもむいて魯侯となったのは,その子の[[伯禽]] (はくきん) で,その地の統治には多くの労苦があったという。以後 34代 800年あまり続いたが,初期の状況については伝説的要素がほとんどであり,不明な点が多い。[[春秋時代]]の 14代隠公から 25代哀公までのことは孔子が編集したという『[[春秋]]』やその注釈書の『左伝』に詳しい。国内では春秋時代初期の桓公の子の[[三桓]]氏が代々交互に権力を握り,君主の廃立さえ行い,前6世紀後半の昭公は三桓氏に敗れて国外に逃亡し,帰国できないまま亡くなったという例もある。対外的には斉,晋,楚の3強国の勢力にまったく左右されていた。戦国時代にはますます弱小国になり,最後の頃公 (けいこう) が頃公 25 (前 249) 年に楚の考烈王に滅ぼされた。周王の権力が低下した春秋時代に周の文化や制度を保持し続けた国として知られる。
  
春秋時代に入ってからは、[[晋 (春秋)|晋]]・[[斉 (春秋)|斉]]・[[楚 (春秋)|楚]]といった周辺の大国に翻弄される小国となる。しかも、国内では、魯の[[公族]]である[[三桓氏]]が政治の実権を握り、国政はたびたび混乱した。
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しかしながら、この混乱した小国が思想史・文化史に果たした役割は大きい。周王朝の礼制を定めたとされる周公旦の伝統を受け継ぎ、魯には古い礼制が残っていた。この古い礼制をまとめ上げ、[[儒教]]として後代に伝えていったのが、魯の出身である[[孔子]]であり、その一門である。孔子が儒教を創出した背景には、魯に残る伝統文化というものがあったからともいえる。ちなみに孔子が魯に仕えていたのは若年時までと晩年のみで、各国に弟子と共に放浪していた時期も長かった。なお、「[[春秋]]」は、隠公元年([[紀元前722年]])から、哀公14年([[紀元前481年]])までの魯国の年次記録が基になっている。
 
 
 
孔子の死後、国としての魯はますます衰退し、事実上として三桓氏に分割されてしまう。魯公室は細々と生き残るが、[[紀元前249年]]に[[楚 (春秋)|楚]]に併合され、滅亡した。
 

2019/4/27/ (土) 22:53時点における最新版

(ろ)

中国,周代の諸侯国の一つ (前 1055~249) で,山東省の曲阜に都した。周の武王の弟の周公旦が封じられたのに始るが,任地の曲阜におもむいて魯侯となったのは,その子の伯禽 (はくきん) で,その地の統治には多くの労苦があったという。以後 34代 800年あまり続いたが,初期の状況については伝説的要素がほとんどであり,不明な点が多い。春秋時代の 14代隠公から 25代哀公までのことは孔子が編集したという『春秋』やその注釈書の『左伝』に詳しい。国内では春秋時代初期の桓公の子の三桓氏が代々交互に権力を握り,君主の廃立さえ行い,前6世紀後半の昭公は三桓氏に敗れて国外に逃亡し,帰国できないまま亡くなったという例もある。対外的には斉,晋,楚の3強国の勢力にまったく左右されていた。戦国時代にはますます弱小国になり,最後の頃公 (けいこう) が頃公 25 (前 249) 年に楚の考烈王に滅ぼされた。周王の権力が低下した春秋時代に周の文化や制度を保持し続けた国として知られる。



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