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(鳥居家の時代)
 
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'''高遠藩'''(たかとおはん)は、[[信濃国]]南部(現在の[[長野県]][[伊那市]][[高遠町]])に存在した[[藩]]。居城は[[高遠城]]。
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'''高遠藩'''(たかとおはん)
  
== 藩の前史 ==
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江戸時代,[[信濃国]] (長野県) 伊那地方を領有した藩。慶長5 (1600) 年保科氏が毛利氏のあとをうけて下総多古 (千葉県) から2万 5000石で入封,元和4 (18) 年に 5000石を加増されたが,寛永 13 (36) 年保科氏が出羽山形へ転出。次いで,同年鳥居氏が3万 2000石,元禄4 (91) 年内藤清枚 (きよかず) が3万 3000石で入封して廃藩置県にいたった。内藤氏は譜代,江戸城雁間詰。
高遠の地は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]、[[諏訪氏]]の一族であった[[高遠頼継]]が治めていた。頼継が[[武田信玄]](晴信)との戦いで没落した後、高遠は[[武田氏]]の支配下に入る<ref name="高遠藩11">長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P11</ref>。
 
  
後に信玄の5男で[[武田勝頼|勝頼]]の異母弟[[仁科盛信]]が高遠城主となり、[[天正]]10年([[1582年]])2月に[[織田信長]]による[[甲州征伐]]が開始されると、信濃の武田勢は次々と信長の嫡男[[織田信忠|信忠]]率いる織田軍に降伏していくが、高遠城を守る盛信のみは信忠の降伏勧告を拒絶して果敢に抗戦、織田軍は3月2日に高遠を攻撃して1日で落城させ、城主盛信は自害した<ref name="高遠藩12">長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P12</ref>。武田家は盛信の玉砕で総崩れになり、勝頼は3月11日に[[天目山]]で自害し、武田家は滅亡した。
 
 
その3ヵ月後の6月、[[本能寺の変]]が起こって信長・信忠が横死。信濃の織田勢は武田旧臣の一揆で追放されて無主状態になると、[[徳川家康]]・[[北条氏直]]・[[上杉景勝]]らによる旧武田領をめぐる[[天正壬午の乱]]が起こる。高遠は高遠氏の旧臣[[保科氏]]が[[内藤昌月]]の支援を得て奪回し<ref name="高遠藩13">長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P13</ref>、昌月の実父である[[保科正俊]]が城主となった。10月、正俊の子[[保科正直|正直]]は家康に服従し、[[伊那郡]]2万5000石の所領を宛がわれた<ref name="高遠藩13">長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P13</ref>。正直はその後、伊那箕輪の[[藤沢頼親]]を降伏させた<ref name="高遠藩13">長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P13</ref>。天正12年([[1584年]])に[[小牧・長久手の戦い]]が起きると、家康は正直や[[諏訪頼忠]]、[[小笠原貞慶]]ら信濃衆を木曾に派遣したがこの木曾攻めは成果を上げず、正直を抑えに残して撤退した<ref name="高遠藩13">長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P13</ref>。天正13年([[1585年]])、家康と北条氏直の和睦の条件である[[上野国|上野]]沼田領の譲渡問題で[[真田昌幸]]が家康から離反したため、家康は[[大久保忠世]]に正直ら信濃衆をつけて攻撃するも<ref name="高遠藩13">長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P13</ref>大敗して撤退。しかも11月に[[石川数正]]が徳川家から出奔したのを機に松本の小笠原貞慶が高遠に攻撃をかけるが、保科正俊が[[鉾持除の戦い]]で退けた<ref name="高遠藩13">長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P13</ref>。正直はその後、家康の異父妹[[久松氏]]と縁戚となって勢力を伸ばし<ref name="高遠藩13">長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P13</ref>、天正18年([[1590年]])の[[小田原征伐]]でも徳川軍の後備えとして参戦した<ref name="高遠藩14">長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P14</ref>。[[後北条氏]]が滅亡して家康が関東に移封されると、正直は家康に従って[[下総国|下総]][[多胡藩|多胡]]で1万石を与えられた<ref name="高遠藩14">長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P14</ref>。
 
 
[[ファイル:Kyogoku Takakazu.jpg|thumb|180px|豊臣時代最後の領主、京極高知]]
 
家康が関東に移ると、旧徳川領は[[豊臣秀吉]]の家臣が入封することとなり、伊那には[[毛利秀頼]]が10万石で入った<ref name="高遠藩14">長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P14</ref>。甲州征伐の功により伊那郡を与えられて信長没後の混乱で失領し、復帰したものである<ref>阿部『戦国人名事典コンパクト版』、P774。</ref>。秀頼は入封した直後に3か条からなる条々を発布して統治方針を示し、[[太閤検地]]も実施したが、実際の政務は勝斎(姓不詳)と[[篠治秀政]]が担当していた<ref name="高遠藩14">長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P14</ref>。秀頼は[[文禄]]2年([[1593年]])に病死<ref name="高遠藩14">長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P14</ref>。その妹婿である[[京極高知]]が跡を継いだ。高知時代には[[岩崎重次]]が城代として統治を担当したが、統治体制には不明な点が多い<ref name="高遠藩14">長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P14</ref>。[[慶長]]5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]で高知は東軍に与力して[[岐阜城]]攻略戦に参加し、9月15日の関ヶ原本戦にも参加した功績から<ref>阿部『戦国人名事典コンパクト版』、P291。</ref>、戦後に[[丹後国|丹後]][[宮津藩|宮津]]に移封され、岩崎も甲斐に帰国した<ref name="高遠藩14">長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P14</ref>。
 
 
== 藩史 ==
 
=== 保科家の時代 ===
 
[[ファイル:Hoshina Masayuki.jpg|thumb|180px|高遠藩第2代、保科正之]]
 
関ヶ原の戦いの後、高遠には正直の子[[保科正光|正光]]が2万5000石で入部したことにより高遠藩が成立した<ref name="高遠藩15">長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P15</ref>。正光は慶長11年([[1606年]])の[[江戸城]]石垣修理や5年後の堀普請、[[大坂の役]]参戦など幕府に奉仕している<ref name="高遠藩16">長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P16</ref>。しかし正光には嗣子が無かったので<ref name="高遠藩17">長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P17</ref>、正光は第2代将軍・[[徳川秀忠]]の隠し子(生母が正室・[[崇源院|於江与]]ではなかったため、その悋気に触れることを恐れた秀忠が正光に預けていた)である幸松こと[[保科正之]]を養育することになった。[[元和 (日本)|元和]]4年([[1618年]])には正之の養育料として[[筑摩郡]]に5000石を加増された<ref name="高遠藩20">長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P20</ref>。[[寛永]]6年([[1629年]])6月に正之は兄の第3代将軍[[徳川家光]]と初対面し、[[寛永]]8年([[1631年]])11月、正光の死により正之が家督と3万石を継いで従五位下肥後守に叙任されたが<ref name="高遠藩20">長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P20</ref>、この頃になると於江与が既に亡く、正之が秀忠の息子であることも周知の事実となったため、徳川家光の計らいにより、正之は寛永13年([[1636年]])7月に[[出羽国|出羽]][[山形藩]]20万石に加増移封された<ref name="高遠藩20">長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P20</ref>。
 
 
=== 鳥居家の時代 ===
 
[[ファイル:Torii Mototada.jpg|thumb|180px|鳥居家勲功の祖、鳥居元忠]]
 
正之と入れ替わりで、山形より[[鳥居忠春]]が3万2000石(3万200石<ref name="高遠藩23">長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P23</ref>)で入る。この忠春は関ヶ原の戦いの前哨戦である[[伏見城の戦い]]で戦死した[[鳥居元忠|元忠]]の孫である。鳥居家は元忠の勲功やその子[[鳥居忠政|忠政]]の功績もあり、24万石まで栄進していた。ところが忠政の子[[鳥居忠恒|忠恒]]は病弱で公務が務まらず、しかも継嗣が無く33歳で病死したので、[[末期養子]]の禁令に触れてしまい、鳥居家は山形24万石を没収された<ref name="高遠藩23">長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P23</ref>。しかし幕府は元忠の勲功を認めて、忠恒の実弟忠春に3万200石を与えることで高遠藩に移封した<ref name="高遠藩25">長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P25</ref>。
 
 
忠春は兄の時代に失った24万石を取り戻そうと幕府の御用に励んだ<ref name="高遠藩28">長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P28</ref>。だがそのために藩財政は大きな負担を伴い、忠春は財源確保のために[[慶安]]2年([[1649年]])に年貢を増徴したため、領民は生活困窮と賦役に耐え切れず、[[承応]]3年([[1654年]])6月に3000人の百姓が[[尾張藩]]領の木曾に逃散する事件も起きた<ref name="高遠藩29">長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P29</ref>。また忠春自らも豪遊したりした<ref name="高遠藩30">長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P30</ref>。寛文2年([[1662年]])、忠春は侍医・[[松谷寿覚]]により斬りつけられ、それが原因で客死した<ref name="高遠藩31">長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P31</ref>。
 
 
忠春の跡を継いだ子の[[鳥居忠則|忠則]]は、[[元禄]]2年([[1689年]])2月に[[江戸城]]馬場先御門の警備を担当していた家臣[[高坂権兵衛]]が職務中、幕府御側衆の[[平岡頼恒]]の屋敷を覗いていたところを、平岡家の家臣に取り押さえられる事件が起こった([[高坂権兵衛事件]])<ref name="高遠藩33">長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P33</ref>(高坂は主家に塁が及ぶことを恐れ、取り調べ中に自害)。この事件で忠則は家中不取締の責任を追及されて[[閉門]]となり、その最中の7月に急死した(自害したといわれる)<ref name="高遠藩33">長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P33</ref>。忠則の死により、鳥居家は再度[[改易]]となった<ref name="高遠藩32">長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P32</ref>。
 
 
忠則の後継者であった[[鳥居忠英|忠英]]は、先祖元忠の勲功により、1万石を与えられて[[能登下村藩]]を立藩している<ref name="高遠藩33">長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P33</ref>。
 
 
=== 内藤家の時代 ===
 
鳥居家改易後、高遠藩は廃藩となり、元禄4年([[1691年]])まで[[天領]]となった<ref name="高遠藩36">長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P36</ref>。その後、[[河内国|河内]][[富田林藩]]より[[内藤清枚]]が3万3000石で入る<ref name="高遠藩36">長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P36</ref>。
 
 
第2代藩主・[[内藤頼卿|頼卿]]の時代から財政難が始まり、藩政改革が試みられた。[[正徳 (日本)|正徳]]4年([[1714年]])3月の[[江島生島事件]]に関わり、高遠に流罪にされた絵島の身柄を預かっている<ref name="高遠藩39">長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P39</ref>。第3代藩主[[内藤頼由|頼由]]は藩士に対して俸禄制を採用して財政問題解決に邁進した<ref name="高遠藩63">長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P63</ref>。第5代藩主の[[内藤長好|長好]]は幼少で藩主になった事情もあるが、自らが頻繁に外出して遠乗りや狩り、花火見物に視察などを繰り返して領民に負担をかけ、諸費用もかなりの額に上った<ref name="高遠藩67">長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P67</ref>。
 
 
第7代藩主・[[内藤頼寧|頼寧]]は博学多才で<ref name="高遠藩67">長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P67</ref>、産物会所設置による産業奨励、学問の奨励、新田開発計画、藩直営の桑園経営などに手腕を発揮して藩政改革に成功を収めた。幕政においても日米関係の上申書を提出したり、兵備を西洋式に改変して藩士に訓練させた<ref name="高遠藩68">長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P68</ref>。
 
 
[[安政]]6年([[1859年]])に最後の藩主となった[[内藤頼直]]は、[[藩校]]である進徳館の設立や[[長州征伐]]参加で活躍した。[[慶応]]4年([[1868年]])の[[戊辰戦争]]では新政府軍に与し、[[北越戦争]]・[[会津戦争]]に参戦した。明治2年([[1869年]])の[[版籍奉還]]で、頼直は藩知事となる。そして明治4年([[1871年]])の[[廃藩置県]]で高遠藩は廃藩となって[[高遠県]]となり、同年12月には[[筑摩県]]に編入された。
 
 
== 社会 ==
 
=== 農民 ===
 
、鳥居家の時代に多数の百姓が逃散して藩内の田畑は無主状態が多くなり、荒廃した<ref name="高遠藩29">長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P29</ref>。このため鳥居家では[[明暦]]2年([[1656年]])から2年がかりで検地を藩全土で実施し、貢租の確保を図った<ref name="高遠藩29">長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P29</ref>。しかし鳥居家の2人の藩主はいずれも豪遊して藩財政を傾かせ、領民には重い賦役を課したようで現在に至るまで数多くの借用証文が残っており<ref name="高遠藩31">長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P31</ref>、田畑を担保にしたり、自分の妻子や家族を質草にして借用した証文も存在している<ref name="高遠藩31">長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P31</ref>。また寛文9年([[1669年]])12月などに年貢が納められないので妻子を担保にするなど、わずかな借金で妻子や家族を質入れして領民の生活が苦しめられていた<ref name="高遠藩32">長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P32</ref>。
 
 
内藤家の時代では藩主長好の領国生活が原因で灯油など不必要な経費が浪費されて町民や農民の負担が増した<ref name="高遠藩67">長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P67</ref>。このため[[文政]]5年([[1822年]])に[[わらじ騒動]](興津騒動)と称される藩領一揆にまで発展した<ref name="高遠藩158">長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P158</ref>。
 
 
=== 軍隊 ===
 
内藤頼寧は幕末の情勢を見て藩内の軍備を西洋化して藩士に訓練させ、領内で演習させた<ref name="高遠藩68">長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P68</ref>。また[[江川英龍]]、[[肥田金之助]]、[[斎藤弥九郎]]、[[木戸孝允|桂小五郎]]らを高遠に招聘したり藩士を派遣して訓練させている<ref name="高遠藩180">長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P180</ref>。内藤頼直の時、調練された軍隊は[[長州征伐]]、[[戊辰戦争]]における会津・越後戦争で官軍として出兵、越後戦争では若き日の[[西園寺公望]]の危急を救った<ref name="高遠藩180">長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P180</ref>。
 
 
== 文化 ==
 
頼寧の時代に文化が大いに発展した。頼寧は[[文政]]年間に領民の教化策から学問所設立の必要性を痛感し<ref name="高遠藩93">長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P93</ref>、頼直の時代に[[藩校]][[進徳館 (高遠藩)|進徳館]]が設立された<ref name="高遠藩94">長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P94</ref>。また多くの文人・学者らを頼寧は招聘した。茶道・調理術・能楽・書画など多芸に通じ、高遠藩は頼寧の時代に全盛になり、次代の頼直にも受け継がれた。
 
 
== 産業・経済 ==
 
農民の生活は困窮し藩財政も逼迫した。このため年貢増徴などを試みるも、譜代内藤家は幕府の公務に参加することが多くそのために出費は多かった<ref name="高遠藩158">長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P158</ref>。さらに文政3年([[1820年]])の旱魃、翌年の天候不順などで計2万5000石の損害を受け、財政は破綻に近い状態にまで追い込まれていた<ref name="高遠藩158">長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P158</ref>。このため農民に御用金を課すことで解決を図るもわらじ騒動が発生して失敗し、藩は不正を働いた[[郡代]]興津紋左衛門を処分した<ref name="高遠藩163">長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P163</ref>。
 
 
重臣[[岡村忠輔]]は[[天保]]3年([[1832年]])2月に産物会所を設置して殖産興業政策を図る<ref name="高遠藩79">長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P79</ref>。農閑期に薬草を採取させて他国に売り出し、木綿業を製作させて資金の乏しい者には貸付を行なった<ref name="高遠藩80">長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P80</ref>。また[[弘化]]年間には[[高遠焼]]を再興させた<ref name="高遠藩80">長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P80</ref>。産物会所には機織所を設けて絹織業の発展に寄与している<ref name="高遠藩80">長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P80</ref>。
 
 
内藤家の石高は3万3000石であるが、これは高遠の農業生産力の限界に近い値であった<ref name="高遠藩114">長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P114</ref>。このため年貢率は4割5分から5割を推移し<ref name="高遠藩114">長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P114</ref>、豪商農層からの御用金、領内の林にかかる税金など諸税で財政は支えられていた<ref name="高遠藩115">長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P115</ref>。このため藩士の俸禄を下げたり、[[検見法]]から[[定免法]]への転換も行なわれている<ref name="高遠藩124">長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P124</ref>。文政9年([[1826年]])には財政再建のために豪農四名を採用しての藩財政再建政策が試みられるも失敗し、[[幕末]]にも[[和宮]]降嫁による負担などで高遠は苦しかった。
 
 
== 年表 ==
 
* [[1545年]] - 高遠頼継、武田晴信に敗れて追放。高遠は武田領に。
 
* [[1582年]] - 織田信忠に攻められて高遠城落城。城主仁科盛信自害。
 
* [[1590年]] - 豊臣秀吉家臣の毛利秀頼が入封。
 
* [[1593年]] - 秀頼病死。婿の京極高知が入封。
 
* [[1600年]] - [[関ヶ原の戦い]]で高知は丹後宮津へ。徳川家臣の保科正光が入封し高遠藩成立
 
* [[1631年]] - 正光死去。養子正之が新藩主に。
 
* [[1636年]] - 正之、出羽山形20万石に移封。鳥居忠春が入封。
 
* [[1689年]] - 高坂権兵衛事件。鳥居忠則急死して改易。天領に。
 
* [[1691年]] - 内藤清枚、3万3000石で入封。
 
* [[1714年]] - 絵島生島事件で絵島を預けられる。
 
* [[1822年]] - わらじ騒動
 
* [[1869年]] - 版籍奉還で内藤頼直、知藩事に。
 
* [[1871年]] - 廃藩置県。高遠藩消滅。
 
 
== 歴代藩主 ==
 
=== 保科家 ===
 
[[譜代大名|譜代]] 2万5000石→3万石
 
#[[保科正光|正光]](まさみつ)従五位下。肥後守。
 
#[[保科正之|正之]](まさゆき)正四位下。肥後守。左近衛中将。
 
 
=== 鳥居家 ===
 
譜代 3万2000石
 
#[[鳥居忠春|忠春]](ただはる)従五位下。主膳正。
 
#[[鳥居忠則|忠則]](ただのり)従五位下。左京亮。
 
 
=== 内藤家 ===
 
譜代 3万3000石 
 
#[[内藤清枚|清枚]](きよかず)従五位下。丹後守。
 
#[[内藤頼卿|頼卿]](よりのり)従五位下。伊賀守。
 
#[[内藤頼由|頼由]](よりゆき)従五位下。大和守。
 
#[[内藤頼尚|頼尚]](よりたか)従五位下。伊賀守。
 
#[[内藤長好|長好]](ながよし)従五位下。大和守。
 
#[[内藤頼以|頼以]](よりもち)従五位下。大和守。
 
#[[内藤頼寧|頼寧]](よりやす)従五位下。大和守。
 
#[[内藤頼直|頼直]](よりなお)従五位下。大和守。
 
 
== 幕末の領地 ==
 
* [[信濃国]]
 
** [[筑摩郡]]のうち - 7村
 
** [[伊那郡]]のうち - 80村
 
 
== 脚注 ==
 
=== 注釈 ===
 
<references group="注釈"/>
 
=== 引用元 ===
 
{{Reflist|2}}
 
 
== 参考文献 ==
 
* {{Cite book|和書|editor=[[阿部猛]]|others=西村圭子|title=戦国人名事典コンパクト版|publisher=[[新人物往来社]]|date=1990年9月|isbn=4-404-01752-9}}
 
* {{Cite book|和書|author=[[長谷川正次]]|title=高遠藩|series=シリーズ藩物語|publisher=[[現代書館]]|date=2005年11月|isbn=4-7684-7103-X}}
 
* {{Cite book|和書|author=長谷川正次|title=大名の財政|series=同成社江戸時代史叢書|publisher=[[同成社]]|year=2001|isbn=4-88621-219-0}}
 
*:信濃国高遠藩の事例を取り上げ、いかに財政難に対処したのかを検討し、大名の経済事情にせまる。
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[内藤新宿]](藩の中屋敷が存在していた)
 
* [[新宿御苑]]
 
* [[高遠石工]]
 
  
 
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[[Category:藩]]
 
[[Category:藩]]

2018/10/18/ (木) 15:36時点における最新版

高遠藩(たかとおはん)

江戸時代,信濃国 (長野県) 伊那地方を領有した藩。慶長5 (1600) 年保科氏が毛利氏のあとをうけて下総多古 (千葉県) から2万 5000石で入封,元和4 (18) 年に 5000石を加増されたが,寛永 13 (36) 年保科氏が出羽山形へ転出。次いで,同年鳥居氏が3万 2000石,元禄4 (91) 年内藤清枚 (きよかず) が3万 3000石で入封して廃藩置県にいたった。内藤氏は譜代,江戸城雁間詰。


先代:
信濃国
行政区の変遷
1691年 - 1871年 (高遠藩→高遠県)
次代:
筑摩県


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