高師泰

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高師泰
時代 鎌倉時代末期 - 南北朝時代
生誕 不詳
死没 観応2年/正平6年2月26日1351年3月24日
幕府 室町幕府 初代執事、武蔵・上総守護
主君 足利尊氏
氏族 高氏

高 師泰(こう の もろやす)は、南北朝時代武将高師直の兄弟(『高階系図』ではの師直のとされているが、同時代の史料である『園太暦』では「舎弟師泰」と記されている)。

生涯

足利尊氏に仕え、元弘3年/正慶2年(1333年)の鎌倉幕府に対する挙兵で武功を挙げた。それにより翌年、建武の新政における雑訴決断所の奉行に上杉憲房と共に任じられた。建武2年(1335年)の中先代の乱でも尊氏に従って鎌倉に赴き、北条時行を破る。その後、新田義貞を総大将とする朝廷の尊氏追討軍を三河国で迎撃し、一旦は敗れるが、鎌倉に逼塞していた尊氏の出馬に従い、義貞の軍を箱根・竹ノ下の戦いで撃破した。

京都へ攻め上った尊氏が朝廷軍の反攻に遭って九州へ落ちると、筑前国などの戦いで大いに活躍する。湊川の戦いでは尊氏の弟足利直義の副将として武功を挙げた。その後も金ヶ崎城攻めや北畠顕家討伐で大いに活躍し、室町幕府創設にあたり軍事において大いに貢献した。正平2年/貞和3年(1347年)、楠木正行が挙兵すると、兄師直と協力して翌年これを討ったうえ、南朝の本拠地である吉野に攻め入って同地を焼き払った。

しかし武将としては一流、功績も数え切れぬほどの功労者であるのを良い事に次第に傲慢な態度が目立ち始めた。例えば、東山に山荘を建設しようとして、その地にあった菅原氏の墓所を掘り返し、これに対して菅原在登が異議を唱えると、在登を殺害した。このような公家や寺社と武家との対立を避けようとした直義と、武家の勢力伸張を第一と考えた師直が、幕政の主導権をめぐって対立し始める(「観応の擾乱」を参照)と、師直派の中心人物と見なされる。

師泰・師直は、正平4年/貞和5年(1349年)、直義の追い落としに成功する。だが、一たびは出家して政務を退いた直義は、翌正平5年/観応元年(1350年)、尊氏が直義の養子・足利直冬を討伐するために中国地方へ遠征した隙に京都を脱出して南朝へ帰順し、師直・師泰兄弟討伐を掲げて挙兵した。師泰は、遠征先の石見国から京都に帰還し、尊氏とともに直義と戦ったが、正平6年/観応2年(1351年)、摂津国打出浜で敗れた(打出浜の戦い)。和議の条件として師直と共に出家し、道勝と号する。同年2月26日、直義の手で京都へ護送される途中、復讐のために怒り狂って待ち受けていた直義派の上杉能憲らによって同国武庫川畔において、師直や息子の師世ら一族と共に、殺害された。享年は60代くらい。

武将としては一流であった。政治手腕にも長け、幕府創設期には訴訟奉行を任されている。しかし権勢に奢り高ぶったのが命取りとなり、一族もろとも殺害され、滅ぼされる羽目となった。

偏諱を与えた人物

脚注

  1. 河合正治『安芸毛利一族』(新人物往来社、1984年)P.42、國司由行 「國司家に伝わる元就公からの感状」(『「毛利一族」のすべて』<別冊歴史読本>(新人物往来社、1997年)P.35)。典拠は『毛利家文書』所収 「毛利元春自筆事書案」(掲載:『大日本古文書』毛利家文書之一・第15号)。師泰の死後は元春に改名。尚、師泰が師親元服時の烏帽子親を務めたことが、師泰の子・師武に始まる国司氏が毛利氏の家臣となるきっかけとなったとされる(國司由行、同前)。

参考文献

関連作品

太平記(1991年 NHK大河ドラマ) 演:武内伸一郎→塩見三省