「領主」の版間の差分

提供: miniwiki
移動先:案内検索
(1版 をインポートしました)
(内容を「 '''領主'''(りょうしゅ、{{lang-de|der Lehnsherr}}) 1 領国を支配している人。領土の持ち主。 2 平安時代以後、特...」で置換)
(タグ: Replaced)
 
1行目: 1行目:
{{出典の明記|date=2018年7月}}
 
  
'''領主'''(りょうしゅ、{{lang-de|der [[:de:Lehnsherr|Lehnsherr]]}})とは、一定の[[土地]]と其処に生活する人々([[領地]])の封建的な支配権を有する者。
+
'''領主'''(りょうしゅ、{{lang-de|der [[:de:Lehnsherr|Lehnsherr]]}}
  
== 概要 ==
+
1 領国を支配している人。領土の持ち主。
領主は、[[封建制]]の時代における[[政治]]ないし[[地方自治]]の形態で、その多くは世襲制による。[[ヨーロッパ]]地域では[[近世]]から[[中世]]にかけ[[国家]]という単位が発生する過渡期的に多くの領主が[[貴族]]として国家に編入されていった。
 
  
元々は[[開墾]]などで土地を[[自然]]のままの単なる荒地や原野から[[食料]]などの[[生産]]([[農業]])に即した状態(→[[穀倉地帯]]・[[治水]])に整備するのは、個人や小集団の手には余る仕事であったし、まして近隣地域からの[[侵略]]から守ることは、[[民兵]]を組織化するにしても困難が生じた。こういった事業を手掛けていったのが、領主である。領主は領地を得て、其処からの産品で財を成したが、この中には[[交易|交易網]]の整備や[[外交]]、また領内の住民(領民)に対する生活保護に絡んだ様々な問題解決が仕事となった。
+
2 平安時代以後、特定の土地を所有し、かつその土地と在住民を直接的あるいは代官などによって間接的に支配し収益する者。
  
ただ多くの伝承が伝えるように、こういった領主が増長して領民を苦しめたり、或いは周辺地域を侵略したりといった時代もあり、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]のような時代には[[戦争]]に明け暮れ、その負担は領民を苦しめることとなった。これらの領主はやがて[[大衆|民衆]]から遊離し、その[[権力]]を絶対のものとして代々受け継いでいったが、その中にはいわゆる[[名君]]と謳われ伝承に残るような善良ないし優秀な者たちもいた。
+
3 江戸時代、土地を所有し人民を支配する権力を持つ大名・小名や旗本などの称。
 
 
後に領主は国という形態が自己組織化の圧力もあって、次第に極大で各々の民衆の想像を絶するほどの政治的システムに変化する過程で取り込まれていったが、その多くは幾らかの[[自治権]]を保持し続け、地域の様々な産業に関与、地域の繁栄も困窮も領主の腹一つで決まる部分も根強く残った。
 
 
 
今日、様々な地域に残る市や県などの土地の区分けは、そういった領地の支配範囲の名残であることも多く、封建制から他の政治システムに移行した後でも、各々の政治システムの地域的な区分けに利用されている。
 
 
 
== ヨーロッパにおける領主 ==
 
{{main|封建領主#ヨーロッパにおける封建領主}}
 
 
 
== 日本における領主 ==
 
=== 本家、領家、開発領主 ===
 
[[ファイル:Enryakuji Konponchudo04n4272.jpg|thumb|right|240px|多くの荘園を領有し、[[僧兵]]によって武装していた[[延暦寺|比叡山延暦寺]](根本中堂)]]
 
 
 
[[開発領主]](かいほつりょうしゅ)とは、[[平安時代]]中期以降、墾田開発をさかんにおこなって領地を確保した者の総称であり、元来は有力農民([[田堵]])である。彼らは[[国衙]]から田地の私有が認められたものの、その権利は危ういものであったため、開発した土地を[[荘園]]として[[受領]]層に[[寄進]]した。受領層は彼らを下司や公文などの[[荘官]]に任命し、その土地の実効支配を認める代わりに、一定の税収を受け取る。こうして荘園を持つようになった受領層を[[領家]]と呼ぶ。領家は次第に、国衙領を私領化するようになった[[国司]]と対立するようになり、自らの荘園をさらに[[権門勢家]]や大[[寺院]]に寄進し、保護を求める代わりに一定の税収を納めた。こうして荘園を集積した権門層や[[寺社]]を[[本家]]と呼んでいる。このようにして、平安後期には本家、領家、開発領主の各層から成る領主層が形成された。また、開発領主は、一方では[[在庁官人]]でもあり、国衙と結びつくことが有利な場合はそのまま国衙領にとどまった。
 
 
 
=== 武家政権のなかの領主 ===
 
==== 地頭の領主化 ====
 
[[ファイル:Genpei kassen.jpg|300px|right|thumb|1180-1185年、[[治承・寿永の乱|治承寿永の戦い]]『源平合戦図屏風』([[赤間神宮]]所蔵)]]
 
平安中期以降、[[摂関政治]]にみられる[[藤原北家]]の官位独占などにより、中央政界からあぶれた下級貴族の多くが、地方へ下向した。開発領主はこれらの貴族と主従関係を結ぶことにより、荘園をめぐる紛争解決に役立てようとすることが多く、自らは武装して[[武士]]となり、また下級貴族のなかには、これらを[[武士団]]として組織して、その[[棟梁]]と呼ばれることも少なくなかった。これら武家の棟梁のなかから、やがて[[奥州藤原氏|奥州藤原政権]]、[[平氏政権]]が生まれ、[[12世紀]]末葉には[[鎌倉幕府]]の成立をみた。
 
 
 
[[鎌倉時代]]では[[地頭]]の存在が知られるが、本来は地頭とは荘官の名称のひとつであり、[[文治の勅許]]の際にも、[[源行家]]・[[源義経]]追討を名目として荘園・公領から[[兵糧米]]を徴収する権限が与えられたにすぎず、土地の支配権を得たわけではなかった。また、その設置も当初は[[平氏没官領]]<ref>[[治承・寿永の乱]]で滅んだ[[桓武平氏]]一族の旧所領。</ref>に限られていた。
 
 
 
しかしながら、幕府に忠誠を誓った武士すなわち[[御家人]]は、この地頭職の補任ないし安堵というかたちで論功行賞その他がおこなわれ、荘園・公領における[[年貢]]の徴収や土地の管理、[[治安]]の維持にあたって現地支配の実権をにぎった。鎌倉時代を通じて地頭による荘園侵略がさかんにおこなわれ、荘園領主との間に土地に関する紛争が激化した。そこで荘園領主は、[[地頭請|地頭請所]]の契約を結んで、荘園管理の一切を地頭にまかせるかわりに年貢の納入を約束させたり、[[下地中分]]のとりきめをおこなって、荘園の土地そのものを領主と地頭で折半したりした。しかし、この結果、荘園領主のねらいとはうらはらに、地頭の荘園支配はいっそう進んだ。
 
 
 
==== 守護の領主化 ====
 
[[ファイル:Uesugi Kenshin.jpg|right|thumb|200px|守護代から戦国大名となった長尾景虎([[上杉謙信]])。(江戸時代画)]]
 
 
 
[[守護]]は、地頭と同時期([[1185年]])に設置されたが、その性格はまったく異なっていた。地頭が徴税人として荘園ごとに置かれたのに対し、守護は幕府の地方官として[[令制国|国]]ごとに置かれ、国内の治安維持と[[大番役]]を柱とする[[大犯三箇条]]がその任務であった。[[14世紀]]前半に[[京都]]に[[室町幕府|幕府]]を建てた[[足利尊氏]]は、[[南北朝時代 (日本)|南北朝]]の争乱を有利に進めるために従来の守護よりも強い権限を守護に与えた。鎌倉時代の大犯三箇条に加え、[[刈田狼藉]][[検断権]]を認め、また[[使節遵行権]]を守護に与えた。さらに、本来、領主に納入すべき荘園の年貢や知行国主に納めるべき国衙領の年貢のうち、半分は領主に届けるものの、残り半分は兵糧米として現地の武士に与えてよいとする[[半済]]や分国内の荘園管理を守護に任せる[[守護請]]などがおこなわれた。このような権限の強化を背景に、守護による地頭の[[被官]]化がさらに進行し、[[守護大名]]として軍事・警察権能だけでなく、経済的権能をも獲得して、分国内での領域的な支配を強化していった。これを[[守護領国制]]と呼び、複数の国の守護に任じられて大勢力となる例もあった。
 
 
 
しかし、守護はもともと幕府権力を背景にして成長したものであり、もしも、この背景が何らかの理由で崩れる怖れのあるときは、守護自体の存立が危うくなる。守護が多くの場合[[邸宅]]を京内に構え、任地には[[守護代]]を派遣したのもそのためである。また、守護大名は、荘園内のさまざまな権利に基礎をおいており、荘園体制がくずれることは自らの経済基盤を失うことでもあった。さらに、分国内の武士との主従関係も、所領そのものの授受ではなく軍事・警察における指揮権を通じての関係から始まったものであった。「守護の領主化」といってもそこには限界があり、[[室町時代]]が、南北朝の争乱後も常に中央、地方問わず波乱含みで政治的に不安定だった理由ともなっていた。
 
 
 
==== 戦国時代以降の領主層 ====
 
[[ファイル:Sekigaharascreen.jpg|280px|right|thumb|1600年、[[関ヶ原の戦い]]]]
 
[[ファイル:Himeji Castle The Keep Towers.jpg|280px|right|thumb|[[姫路城]]]]
 
 
 
[[荘園制]]がくずれ、地方の政治に一定の責任をもつという意味での領主層の誕生は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]にはじまる。それは、守護大名とは異なり[[戦国大名]]が基本的には現地に居住したこと、また、それぞれ[[分国法]]と呼ばれる法令を公布し、通用させたこと、さらに、それぞれの大名が鉱山開発や農業用水の整備など[[殖産興業]]と[[富国強兵]]を目指したことに端的にあらわれている。戦国時代には、大名を君主として土地そのものを媒介とする主従関係が発達し、これが[[江戸時代]]の[[地方知行]]制のもととなっていった。
 
 
 
戦国時代を終息させた農民出身の[[豊臣秀吉]]は、[[1582年]](天正10年)に[[太閤検地]]を開始し、1つの土地に数人のもの者が権利をもつ、複雑な土地所有関係を整理し、土地制度を一新させた。ここに荘園制度を完全に崩壊し、[[石高制]]による近世的土地所有を実現し、農民には耕作権を認めるとともに[[年貢]]を納める義務を負わせるとともに、大名には所領をあてがうとともに、[[改易]]や[[国替]]を可能とした。
 
 
 
秀吉はまた、[[1588年]]に[[刀狩]]を実施して、百姓身分から帯刀権を奪い、武器使用を規制して兵農分離を完成させたいっぽうで、近世的な武士身分を創出した。武士は、[[苗字帯刀]]を許され、[[城下町]]に住まわせることとした。これに前後して武士の間では[[家紋]]の研究が流行している。
 
 
 
江戸時代の封建領主としては、[[江戸幕府|幕府]]の[[徳川将軍家]]をはじめとして、[[藩]]を単位とする1万石以上の[[大名]]、1万石未満だが[[御目見|将軍御目見]]の特権を有する[[旗本]]、御目見の特権のない[[御家人#江戸時代の御家人|御家人]]、また石高の高い大名の上級家臣があった。
 
 
 
江戸初期には、大名は一定の土地を有力武士(給人)にあたえる地方知行制がとられていたが、給人が勝手に年貢を徴収することもあったため、大名は自ら治める支配領域を拡大し、[[1690年]]頃には俸禄制度が一般的となった。これ以後、知行制度をのこす藩の数は全体の17%となった。
 
 
 
その知行制度も、[[明治維新]]後の[[廃藩置県]]によって中央政府が任命した[[府知事]]・[[県令]]の派遣によって終わり、武士の特権も[[廃刀令]]と[[秩禄処分]]によって完全に廃止された。
 
 
 
== インド・東南アジアにおける領主 ==
 
{{main|ラージャ}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
*[[領地]]
 
*[[封建領主]]
 
*[[ラージャ]]、[[マハラジャ]]
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{Reflist}}
 
  
 
{{DEFAULTSORT:りようしゆ}}
 
{{DEFAULTSORT:りようしゆ}}
 
[[Category:封建制]]
 
[[Category:封建制]]
<!-- [[:de:Kategorie:Lehnsherr]] -->
+
 
{{History-stub}}
+
{{テンプレート:20180815sk}}

2019/5/10/ (金) 09:45時点における最新版

領主(りょうしゅ、ドイツ語: der Lehnsherr

1 領国を支配している人。領土の持ち主。

2 平安時代以後、特定の土地を所有し、かつその土地と在住民を直接的あるいは代官などによって間接的に支配し収益する者。

3 江戸時代、土地を所有し人民を支配する権力を持つ大名・小名や旗本などの称。



楽天市場検索: