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{{脚注の不足|date=2016年6月}}
 
[[Image:Asahina kiridoshi -03.jpg|thumb|right|200px|鎌倉街道の趣を残す[[朝比奈切通し]]付近。]]
 
'''鎌倉街道'''(かまくらかいどう)は、各地より[[鎌倉]]に至る道路の総称。特に[[鎌倉時代]]に[[鎌倉幕府|鎌倉政庁]]が在った鎌倉と各地を結んだ[[古道]]については'''鎌倉往還'''(かまくらおうかん)や'''鎌倉道'''(かまくらみち)とも呼ばれ、また'''鎌倉海道'''(かまくらかいどう)とも書く。一方で、現況の[[道路]]で「鎌倉街道」や「かまくらみち」と[[通称]]される路線も存在する。
 
  
==道路の通称==
+
'''鎌倉街道'''(かまくらかいどう)
* [[東京都道18号府中町田線]]<ref>[http://www.kensetsu.metro.tokyo.jp/douro/tusyodoro/ichiran.pdf 東京都道路通称名一覧表(東京都建設局)]</ref>や[[神奈川県道21号横浜鎌倉線]]の別称<ref>「神奈川県都市地図」昭文社</ref>などの通称名。
 
* [[埼玉県]][[日高市]]大谷沢にある[[国道407号]]の交差点名<ref>「埼玉県都市地図」昭文社</ref>。
 
  
== 古道・鎌倉街道 ==
+
鎌倉時代,鎌倉と各地を結ぶために開かれた道路の総称。そのうち特に上ノ道,中ノ道,下ノ道の3道が知られている。上ノ道は,化粧坂 (けわいざか) から柄沢,飯田,瀬谷,鶴間,木曾,小野路,関戸,分陪などを経て武蔵府中にいたり,ここからさらに上野,下野,信濃に通じた。元弘3 (1333) 年,上野に挙兵した[[新田義貞]]が鎌倉攻めの際に通ったのがこの道である。中ノ道は,山内から大船,永谷,名瀬,二俣川,白根,麻生,是政などを経て府中にいたり,上ノ道に合した。[[奥州征伐]]の際の源頼朝の進路といわれる。下ノ道は永谷で中ノ道から分れ,平間,池上,芝などを経て,房総,奥州方面に通じた。
古道としての鎌倉街道とは、鎌倉時代に幕府のある鎌倉と各地を結んだ道路網で、鎌倉幕府の[[御家人]]が有事の際に「いざ[[鎌倉]]」と[[鎌倉殿]]の元に馳せ参じた道であり、鎌倉時代の関東近郊の主要道の意として用いられている。1192年、[[源頼朝]]が鎌倉に幕府を開くと、支配力強化のために鎌倉と東国の各地域を結ぶ道路整備に力を注ぎ、次々と道路網が建設されたため、鎌倉街道は無数にあった{{sfn|浅井建爾|2001|p=92}}。その中でも、鎌倉街道の幹線道は全国の[[国府]]を通り、街道沿いに[[守護所]]も置かれたが、その数はごく限られていた。主要な幹線道は、鎌倉から[[武蔵国|武蔵]]、[[上野国|上野]]の国府を通り、[[碓氷峠]]を越えて[[信濃国|信濃]]へ行く道、[[東海道]]筋をたどる京鎌倉往還、鎌倉から[[甲斐国|甲斐]]とを結ぶ道、[[下野国|下野]]の国府を通って[[白河関]]を越える道、[[常陸国|常陸]]の国府を通って[[勿来関]]を越えて[[陸奥国|奥州]]へ行く道などがあった{{sfn|浅井建爾|2001|p=92}}。
 
 
 
一方で、鎌倉街道の呼び名が一般的に用いられるようになったのは[[江戸時代]]以降で、鎌倉時代に書かれた鎌倉政庁自らの記録である『[[吾妻鏡]]』をはじめ、当時の諸文献に「鎌倉街道」の呼び名は見られず、[[江戸時代]]の書物である『[[新編武蔵風土記]]』や『[[江戸名所図会]]』(江戸名所圖會)などに鎌倉街道が散見されている。
 
 
 
<!--以下には、現在の鎌倉街道に該当するであろう諸道の文献上での記述を記し、さらに現在の古道・鎌倉街道について説明する。-->
 
=== 吾妻鏡 ===
 
『[[吾妻鏡]]』で「鎌倉との往還道」という意味で用いられている道路名には以下のようなものがある。
 
 
 
# 京や[[駿河国|駿河]]・[[遠江国|遠江]]と鎌倉の間、そして鎌倉よりさらに[[下総国|下総]]・[[常陸国|常陸]]に向かう道として'''[[東海道]]'''
 
# 鎌倉から[[武蔵国|武蔵]]東部や[[下野国|下野]]に向かう'''中路'''
 
# さらに中路を経て[[陸奥国|奥州]]に向かう'''奥大道'''
 
# 鎌倉から武蔵西部や[[上野国|上州]]に向かう'''下道'''
 
# 下道からさらに[[信濃国|信濃]]・[[越後国|越後]]に向かう'''北陸道'''
 
# 下野足利荘から鎌倉に至る経路上の道である'''武蔵大路'''(経路不明)
 
 
 
<!--{{独自研究範囲|date=2016年6月9日 () 14:30 (UTC)|これらは往還道として実際に用いられた呼称と推定できるが、東海道や北陸道には[[律令制]][[五畿七道]]の一道の意味もあり、また大道や中路は元来[[官道]]の規格を表す言葉でもあるから、道路名と断定するものではない。}}-->
 
 
 
以下に、『吾妻鏡』に記述のある道路名について解説する。なお、[[東海道]]と[[北陸道#道路としての北陸道|北陸道]]については各項目を参照のこと。
 
 
 
==== 東海道 ====
 
『吾妻鏡』の[[文治]]5年[[7月17日 (旧暦)|7月17日]]の条に「'''東海道'''大将軍である[[千葉常胤]]と[[八田知家]]は、一族と[[常陸国]]および[[下総国]]の諸氏を率いて宇大、行方を経て岩城、岩崎を廻り[[阿武隈川|遇隈河]]を渡り大手軍(頼朝軍)と合流すること」とある。<!--、{{独自研究範囲|date=2016年6月9日 (木) 14:30 (UTC)|五畿七道のひとつである東海道に属する下総国および常陸国には京から鎌倉を経て下総国、常陸国に通じ奥州へ至る道があった可能性が考えられる。}}-->
 
 
 
==== 中路および奥大道 ====
 
『吾妻鏡』の文治5年7月17日の条に、[[奥州合戦|奥州征伐]]で[[源頼朝]]率いる大手軍が'''中路'''より御下向されると記述されている。鎌倉を発向した頼朝軍は[[下野国]][[宇都宮市|宇都宮(古多橋驛)]]、同[[那須町|那須(新渡戸驛)]]を経て[[白河関]]に至っていることから、中路とは後世の[[日光御成道]]の道筋を通り、[[武蔵国]]東部から下野国を縦断して[[陸奥国|奥州]][[白河市|白川]]に至る古道と推定されている{{要出典|date=2016年6月9日 (木) 14:30 (UTC)}}。
 
 
 
また同じく『吾妻鏡』には、奥州平定後の記述として'''奥大道'''の文字も見え、[[建長]]8年[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]の条に、奥大道に夜盗が出没して往来する旅人が困っているため、沿線の地頭等に警固するよう申し付けたとあり、その地頭等として以下の24名を挙げている。
 
{| style="vertical-align: top;"
 
|
 
* [[小山長村|小山出羽前司]]
 
* [[宇都宮泰綱|宇都宮下野前司]]
 
* [[薬師寺朝村|阿波前司]]
 
* [[島津忠景|周防五郎兵衛尉]]
 
* [[氏家経朝|氏家余三跡]]
 
* [[葛西朝清|壱岐六郎左衛門尉]]
 
* [[葛西時重|壱岐七郎左衛門尉]]
 
* [[小山時朝|出羽四郎左衛門尉]]
 
|
 
* 陸奥留守兵衛尉
 
* 宮城右衛門尉
 
* 和賀三郎兵衛尉
 
* 和賀五郎左衛門尉
 
* 芦野地頭
 
* [[那須資広|福原小太郎]]
 
* 渋江太郎兵衛尉
 
* 伊古宇又次郎
 
|
 
* 平間江地頭
 
* 清久右衛門次郎
 
* 鳩井兵衛尉跡
 
* [[那須資村|那須肥前々司]]
 
* 宇都宮五郎兵衛尉
 
* 岩手左衛門太郎
 
* 岩手次郎
 
* 矢古宇右衛門次郎
 
|}
 
 
 
これら地頭等の所領を現代の自治体名で[[鎌倉]]側から並べると、[[神奈川県]][[川崎市]][[中原区]]上平間、川崎市[[幸区]]下平間、[[東京都]][[足立区]]宮城、足立区伊興、[[埼玉県]][[川口市]]本郷、川口市三ツ和、[[草加市]][[谷塚町|谷塚]]、[[さいたま市]][[岩槻区]]、[[久喜市]]、[[栃木県]][[小山市]]、[[下野市]]薬師寺、[[河内郡]][[上三川町]]多功、下野市児山、 [[宇都宮市]]([[田川 (利根川水系)|田川]]西岸の市街部){{efn|宇都宮付近では[[栃木県道63号藤原宇都宮線|田原街道]]の田川橋梁が古来「鎌倉橋」と呼ばれており、またこの田原街道を北上すると頼朝[[奥州合戦|奥州征伐]]の際に奉幣した[[宇都宮二荒山神社]]の神官を代々務めた宇都宮一族の中里氏の本領「中里」に至り、中里を東進すると氏家を経て矢板に至ることなどから、田原街道筋は当時の鎌倉街道中路ないしその支路と推察される。}}、[[さくら市]][[氏家町|氏家]]、[[矢板市]]川崎、[[大田原市]]福原、大田原市黒羽、[[那須郡]][[那須町]]芦野{{efn|現在、[[白河関]]は[[那須町]]伊王野から北北東に向かった先の[[福島県]][[白河市]]旗宿にあり、白河神社がその遺物と考えられているが、芦野は伊王野から北北西に向かう現在の[[国道294号]]沿線の地名である。}}となり、奥大道はこれら地域を経て[[陸奥国|奥州]]に至っていたものと考えられている{{要出典|date=2016年6月9日 (木) 14:30 (UTC)}}。
 
 
 
なお、先出の『吾妻鏡』の奥州征伐の記述によると、[[7月19日 (旧暦)|7月19日]]に鎌倉を発った頼朝軍は、中路を経て[[7月25日 (旧暦)|7月25日]]に宇都宮(古多橋驛)に到着、[[7月26日 (旧暦)|7月26日]]に宇都宮を発ち[[7月28日 (旧暦)|7月28日]]に[[那須町|那須(新渡戸驛)]]に到着、翌[[7月29日 (旧暦)|7月29日]]に白河関に至っており、各区間に要した概日数は鎌倉 - 宇都宮間約160kmが6日間、宇都宮 - 那須間約55kmが2日間であったことから、当時の中路の旅程は1日約25 - 30kmであったと見られる{{Synthesis-inline|date=2016年6月9日 (木) 14:30 (UTC)}} 。
 
 
 
==== 下道および北陸道 ====
 
『吾妻鏡』の[[文治]]5年[[7月17日 (旧暦)|7月17日]]の条に、奥州征伐の'''北陸道'''大将軍の[[比企能員]]および[[宇佐美実政]]などが、「[[鎌倉]]から'''下道'''を経て[[上野国]]高山、小林、大胡、左貫の住人を集め[[越後国]]から[[出羽国]]に出る」と記述されており、下道は[[相模国]]から[[武蔵国]]を経て[[上野国]]に至り、さらに北で[[北陸道]]に通じていたものと推察されている{{要出典|date=2016年6月9日 (木) 14:30 (UTC)}}。
 
 
 
==== 武蔵大路 ====
 
『吾妻鏡』の[[養和]]元年[[9月16日 (旧暦)|9月16日]]の条に、[[下野国]][[足利市|足利庄]]の[[桐生六郎]]が幕府の命により追討の命が下された主人の[[足利俊綱|藤原俊綱]]の首を取って武蔵大路よりその首を持参したとある。鎌倉の北西にある「扇谷地区」から源氏山を西へ、梶原谷から藤沢に抜ける道は、かつて「武蔵大路」と呼ばれ、鎌倉街道最大の道筋であった<ref>宮田太郎「鎌倉街道伝説 - 多摩丘陵を中心とした歴史の道」p8</ref>。境川に沿い町田市、多摩市、国府の府中を過ぎて、群馬県、栃木県の北関東へ続いていた。<!--要出典 鎌倉市中の道とする説、あるいは[[上野国|上州]]から武蔵西部経由で鎌倉に至る道(下道)や、[[下野国|野州]]から武蔵東部経由で鎌倉に至る道(中路)との説など所説ある。-->
 
 
 
=== 宴曲抄 ===
 
鎌倉時代に編まれた『宴曲抄』の中の歌謡「善光寺修行」には道中の地名が織りこまれており、『吾妻鏡』でいう下道の経路と推定される。
 
 
 
由比の浜([[鎌倉市]][[由比ヶ浜]]) - 常葉山(鎌倉市大仏坂北西の常葉) - 村岡([[藤沢市]]宮前を中心とした付近) - 柄沢(藤沢市柄沢付近) - 飯田([[横浜市]][[泉区 (横浜市)|泉区]]上飯田町・下飯田町付近) - [[菅原神社 (町田市)|井出の沢]]([[町田市]][[本町田]]) - 小山田の里(町田市[[小野路町 (町田市)|小野路町]]) - [[霞ノ関]]([[多摩市]][[関戸 (多摩市)|関戸]]) - 恋が窪([[国分寺市]]の東恋ヶ窪及び西恋ヶ窪) - 久米川([[東村山市]]と[[所沢市]]との境付近) - 武蔵野(所沢市一帯の地域) - 堀兼([[狭山市]]堀兼) - 三ツ木(狭山市三ツ木) - 入間川(狭山市を流れる[[入間川 (埼玉県)|入間川]]で右岸に宿があった) - 苦林([[毛呂山町]][[越辺川]]南岸の苦林宿) - 大蔵([[嵐山町]]大蔵) - [[槻川]](嵐山町菅谷の南を流れる川で[[都幾川]]と合流する) - 比企が原(嵐山町菅谷周辺) - 奈良梨([[小川町]]の市野川岸の奈良梨) - 荒川([[寄居町]]の荒川) - 見馴川(現在の[[小山川]]) - 見馴の渡(見馴川の渡) - 児玉(本庄市児玉町児玉) - 雉が岡(本庄市児玉町八幡山) - [[鏑川]]([[藤岡市]]と[[高崎市]]の境を流れる) - 山名(高崎市山名町) - 倉賀野(高崎市倉賀野町) - 衣沢(高崎市寺尾町) - 指出(高崎市石原町付近) - 豊岡(高崎市の上・中・下豊岡町) - 板鼻([[安中市]]板鼻) - 松井田(安中市[[松井田町松井田]]) - 臼井山([[碓氷峠]]) - 離山 ([[軽井沢町]]の離山) - 追分([[御代田町]]) - 御影新田([[小諸市]]) - 望月([[佐久市]][[望月宿]])- 布引([[布引観音]]) - 海野([[東御市]][[海野宿]])- 白鳥([[東御市]][[白鳥神社]])- 岩下([[上田市]]岩下)- 塩尻([[上田市]]塩尻)- 坂木([[坂城町]] - 力石の渡し - 佐良科([[千曲市]][[稲荷山]])- 姨捨([[姨捨山]]の麓長谷寺付近) - 筑摩([[千曲川]]) - 篠の井([[長野市]]篠ノ井布施) - [[今井神社]]([[長野市]]今井) - [[川中島]](長野市川中島町四ッ屋) - 犀川([[小市の渡し]]) - 安茂里(長野市安茂里) - 山王 - 後町 - [[善光寺]] - 吉田大銀杏(長野市吉田) - [[稲積一里塚]] - 多古(長野市三才) - 吉一里塚 - 黒川 - 沼辺(野尻湖) - 関川 - 新井 - 越後国府
 
 
 
=== 江戸名所図会 ===
 
[[江戸時代]]に書かれた『江戸名所図会』の「十三」には、「堀兼の井戸」の説明文として鎌倉街道の記述がある。これによると、「堀兼の井戸は[[川越市|河越]]の南、[[堀兼村]]にあり、[[堀兼神社|浅間宮]]の傍にあるため浅間堀兼と称されている。浅間宮の前の道は、古の鎌倉街道で、上州信州への往還道である」とされ、吾妻鏡でいう下道と推定される。
 
 
 
=== 御府内備考 ===
 
江戸時代の[[文政]]年間に[[江戸幕府]]により編纂された[[御府内]]の[[地誌]]で『[[御府内備考]]』の「四十八 関口」には、「[[関口村]]」の総説として鎌倉街道の記述がある。これによると、「関口村は小石川、小日向、牛込等に隣接し、地名の起源は不明であるが、この西に宿坂という地名があり、そこは昔鎌倉街道が通り宿坂の関と言った」とされ、この鎌倉街道とは『吾妻鏡』でいう中路、奥大道と推定される。
 
 
 
=== 南向茶話 ===
 
江戸時代の[[寛延]]4年に[[酒井忠昌]]により著された『南向茶話』によると、「[[王子村]]の脇に[[谷村]]という所があり、畑道の[[間道]]が昔の当国の往還道であったため'''鎌倉海道'''と呼び伝えられているそうですね、と質問した。これに対し、そのとおりです。私(酒井忠昌)もそう聞いています。この谷村という所ではそのように呼ばれており、畑道も鎌倉海道と呼ばれています。谷村の古老の方に拠れば、当国の方には池沼が多くぬかるみの土地柄のため、現在の[[百人町#地名の由来|青山百人町]]の西北の方、[[原宿]]という所を経て、[[八幡神社 (渋谷区千駄ヶ谷)|千駄ケ谷八幡]]の前(この土地では今も地名の小名として「鎌倉海道」と呼んでいる)、[[大久保 (新宿区)|大窪]]を過ぎ、[[高田馬場]]より[[雑司が谷|雜司ケ谷]][[法明寺 (豊島区)|法明寺]]の脇を通り、[[護国寺]]の後ろを通り、現在の[[中山道]]を横切り、谷村、[[滝野川区|滝野川村]]を経て、[[豊島村]]より[[千住宿|千住]]の方へ向かうのが、いにしえの道筋です、とのことです。この説を考察するに、その間の道筋に三箇所も旧名'''鎌倉海道'''が残っていることから、何の根拠も無いことではありません。現在の青山百人町から真っ直ぐに[[相模国]]の[[小田原]]への往還道を俗に'''中道'''と呼び、東海道より二里近く、日本橋より相州小田原まで十八里であり、・・・(後略)」とある。
 
 
 
=== 上道・中道・下道 ===
 
鎌倉街道という言葉は[[江戸時代]]の[[文化 (元号)|文化]]・[[文政]]年間に[[江戸幕府]]により編纂された[[江戸]]および周辺地の[[地誌]]に頻用されており、江戸時代に江戸周辺の住民が鎌倉街道と口伝する道があったことが分かっている。
 
 
 
現在、「鎌倉街道には上道・中道・下道という3つの主要道があった」とされることが多いが、これらの言葉の由来については定かではない。「中道」については『吾妻鏡』にも「中路」(鎌倉から武蔵東部を経て下野、白河へ抜ける道)の記述があり、これが語源となったと推定されている。一方、現在「上道」「下道」とされるルートは『吾妻鏡』ではそれぞれ「下道」「東海道」に相当し、同書の記述とは相違している。「鎌倉街道・上道」は、江戸時代に上洛の道(上道)の一道であった[[中仙道]](木曾街道)と並行しており、いつしか両者が混同し、従来の下道が「鎌倉街道・上道」と呼ばれるようになったとの推定がある。また、奈良の道に上道・中道・下道があったことから、鎌倉街道についても同じように呼ばれるようになった、との説がある。
 
 
 
以下に現在、鎌倉街道「上道・中道・下道」とされているルートを記す。
 
 
 
==== 鎌倉街道上道 ====
 
鎌倉街道上道(かまくらかいどうかみつみち)<ref>[http://www2.mmc.atomi.ac.jp/web01/Flower%20Information%20by%20Vps/Historical%20Matter/s02-Kamakura%20Avenue.htm 跡見学園女子大学 副学長室からの花便り] 歴史散歩(3) 鎌倉街道 「上道 (うえつみち)」</ref>として定説化しているのは、鎌倉から武蔵西部を経て上州に至る古道で、[[高崎市|高崎]]->山名->[[奈良梨宿|奈良梨]]->笛吹峠->入間->所沢->[[府中市 (東京都)|府中]]->(小野路<ref>[http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakura/michi/index.html 玉川学園・玉川大学・協同 多賀歴史研究所 多賀譲治] 海の道・陸の道</ref>)->本町田->瀬谷->[[化粧坂]]->鎌倉のルートである<ref>「旧鎌倉街道 探索の旅 上道編」(芳賀善次郎著、さきたま双書)</ref><ref>[http://kaidouarukitabi.com/rekisi/rekisi/kamakura/uemiti/kamakurauemichi1.html 鎌倉街道上道を歩く]</ref><ref name="izumi">[http://www.city.yokohama.lg.jp/izumi/55miryoku/rekinabi/izimamukasi/michi-03/michikawa-1.html 横浜市泉区] 1.鎌倉への道「かまくら道」『かまくら上の道は、鎌倉の化粧坂(けはいざか)から出て境川沿いを北上し、武蔵国府(東京都府中市)から上野(こうずけ)、信濃方面に至る道で、関東平野を南北に結び、戦時・平時を問わず鎌倉、室町時代に大いに利用された道である。新田義貞の鎌倉攻め(府中市分倍河原の戦い)も、この道を南下したといわれている。』『町田市小野路を経て多摩ニュータウンの中を北上し、多摩市関戸で多摩川を渡って、武蔵の国府があった府中に入り、上野(こうづけ)・信濃方面へと続く。』</ref>。国府付近は、東芝府中工場->分倍->中河原へ抜けるルートとなっている<ref>多摩のあゆみ たましん地域文化財団 ISSN 09139680</ref>。
 
『吾妻鏡』にある下道である。鎌倉政庁の公式記録である『吾妻鏡』には「上道」の記述は無く、現在の鎌倉街道上道は『吾妻鏡』に'''下道'''として記録されているものに近い。上道には「上洛の道」の意味もあり、江戸時代に[[江戸]]から[[京都|京]]に上る『上道』として整備されていた道路のひとつ[[中山道]]の存在などにより、{{独自研究範囲|date=2016年6月9日 (木) 14:30 (UTC)|これに並行していた鎌倉街道の一路線「下道」が「上道」と呼ばれるようになったとの推定も出来る}}。
 
 
 
==== 鎌倉街道中道 ====
 
鎌倉街道中道(かまくらかいどうなかつみち)と呼ばれているのは、鎌倉から[[武蔵国]]東部を経て[[下野国]]に至る古道で、『吾妻鏡』にある'''中路'''である。
 
 
 
経路については、大手中路の鎌倉口として推定されているのが巨福呂坂や亀ヶ谷坂であるが、当時はこれらの道が整備されていなかった可能性もあるとし、[[奥州藤原氏]]の怨霊を鎮めるべく頼朝が建立した[[永福寺跡|永福寺]]の位置などから、二階堂から天園に抜けるハイキングコースを推定する説もある。また、武蔵国南部の経路については、鎌倉から[[巨福呂坂]]あるいは[[亀ヶ谷坂]]を越えて[[戸塚区|戸塚]]方面に向かい、[[中山]]を経えて、[[荏田|荏田宿]]の付近からは、[[二子玉川]]、[[渋谷区|渋谷]]へ続く[[矢倉沢往還]]と同じルートなど所説ある。
 
 
 
==== 鎌倉街道下道 ====
 
鎌倉街道下道(かまくらかいどうしもつみち)と[[定説]]化されている道筋は、鎌倉から[[朝比奈切通し|朝夷奈切通]]を越え、六浦津より房総半島に渡り、東京湾沿いに北上して下総国府、常陸国に向かうとされている{{要出典|date=2016年6月9日 (木) 14:30 (UTC)}}。ほか、房総半島に渡らず、武蔵国側の東京湾沿いを北上する道筋をこう呼称する場合もある。
 
 
 
=== 古道・鎌倉街道の特徴 ===
 
鎌倉は三方を山に囲まれ、南に相模湾が面する要害の地として有意な立地であったことから、鎌倉と諸国を結ぶ街道をつなぐために、鎌倉周囲の山を掘り割って[[切通し]]が作られた{{sfn|浅井建爾|2001|p=92}}。鎌倉には外部に通じる道に7カ所の切通しがつくられたことから、これらは「七切通し」とよばれ{{efn|名越切通し、朝比奈切通し、巨福呂坂切通し、亀ヶ谷坂切通し、化粧坂切通し、大仏坂切通し、極楽寺切通しの7カ所{{sfn|浅井建爾|2001|p=93}}。}}、敵の侵攻に対抗する防御を固める要所でもあった{{sfn|浅井建爾|2001|p=92}}。
 
* なるべく平坦な直線距離を取る。
 
* 見晴らしがいいように丘陵や台地、微高地の尾根を通る。
 
* 尾根道の場合、掘割状の凹型の断面となる。幅は騎馬が2列並んで通れる程度で決して広くはない。
 
 
 
== 現況 ==
 
[[Image:Kamakura_Kaido.jpg|thumb|right|200px|鎌倉街道「駒が橋」。[[鎌倉時代]]、[[源頼朝]]がこの地を通ったとき、駒(馬)を橋の代わりに用いたことからこの名称が付けられた。<br/>[[横浜市]][[港北区]]]]
 
「古道・鎌倉街道」は、鎌倉時代の記録に基づき整理されたものか、[[近世]]以降の地元民の口伝を整理したものであるか、全てが解明されているわけではない。近世以降の地元民の口伝に基づく鎌倉街道は廃れてしまったものもあるが、逆に拡幅されるなどしたものもあると推察されている。以下に現在「鎌倉街道」と呼ばれる道路等について概説する。
 
 
 
=== 歴史の道 ===
 
1996年に文化庁が選定した「歴史の道百選」には、下記の鎌倉街道が含まれている。
 
*24 鎌倉街道上道 [[埼玉県]][[比企郡]][[小川町]]、[[大里郡]][[寄居町]]、[[入間郡]][[毛呂山町]]
 
*26 鎌倉街道上総路 [[千葉県]][[袖ケ浦市]]、[[市原市]]
 
*29 鎌倉街道七口切通 [[神奈川県]][[鎌倉市]]、[[横浜市]]、[[逗子市]]
 
*38 鎌倉街道御坂路 [[山梨県]][[東八代郡]][[御坂町]](現・[[笛吹市]])、[[南都留郡]][[河口湖町]](現・[[富士河口湖町]])
 
 
 
=== 鎌倉街道の現況 ===
 
道路の通称として、'''鎌倉街道'''と呼ばれるものには以下の路線が存在する。詳細は各項目を参照のこと。
 
* [[東京都道18号府中町田線]]および[[神奈川県道・東京都道52号相模原町田線]]
 
* [[神奈川県道21号横浜鎌倉線]]
 
* [[神奈川県道402号阿久和鎌倉線]] - 通称、かまくらみち。
 
 
 
==== 府中街道付近など ====
 
口伝により現在、鎌倉街道と呼ばれる古道・鎌倉往還道のうち、『吾妻鏡』に云う'''下道'''(現在は'''上道'''と呼ばれるもの)に相当する東京都道18号府中町田線(後述)は全体的に旧経路に平行しており、また『吾妻鏡』の'''中路'''ないし'''奥大道'''(現在は'''中道'''と呼ばれるもの)に相当する神奈川県道21号横浜鎌倉線(後述)は、小袋谷付近までは旧経路をほぼ踏襲しているが、それ以遠のルートは中道から大きく外れて横浜市中心部へ北上していると考えられている{{要出典|date=2016年6月9日 (木) 14:30 (UTC)}}。このほかに、市道として断続的に名前が残っている箇所もある(例:横浜市の「かまくらみち」や、東村山市・小平市内などの[[府中街道]]に平行するような形態の狭い幅の道路など。その他関東各地に名称が残る)。
 
 
 
大部分が近代の宅地開発や市街地化、道路環境整備などに伴い姿を大きく変えているが、未舗装のままや宿場の街並みが残り、かつての雰囲気を偲ばせる箇所も一部に残る。
 
*[[国分寺市]]と[[府中市 (東京都)|府中市]]の市境で黒鐘公園付近にある伝鎌倉街道
 
*[[町田市]]の[[本町田|町田宿]]・[[菅原神社 (町田市)|井出の沢]]付近から[[小野路町 (町田市)|小野路宿]]付近にかけての旧経路。このうち[[七国山 (町田市)|七国山]]は「七国山自然歩道(鎌倉古道)」として、「鎌倉井戸」と呼ばれる井戸跡共に保存されている。
 
*上記の小野路宿付近から[[多摩市]]南野の一本杉公園にかけて、'''鎌倉裏街道跡'''およびその切り通しがあり、整備・保存されている。[http://www.pompoco.or.jp/chiikitai/tama_rekishi/20030621_tama_yokoyama.htm]
 
<gallery>
 
File:Old Kamakura Kaidō in Tokorozawa.jpg|thumb|旧鎌倉街道 埼玉県所沢市星の宮
 
File:Fuchu.tokyo.kyuu.kamakurakaido and kyuu kousyukaido.kousatuba.toiyabaato.jpg|thumb|[[高札場|札]]の辻、旧甲州街道(左右)と旧鎌倉街道の交差。東京都府中市宮西町。川越道起点であった。
 
File:Kyuu.kamakurakaido.kokubunji.jpg|thumb|旧鎌倉街道切通。東京都国分寺市西元町4。<ref>[http://www.city.kokubunji.tokyo.jp/shisetsu/kouen/1005196/1004228.html 伝鎌倉街道]【市重要史跡】</ref>
 
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===その他===
 
愛知県(名古屋市、岡崎市など東海道沿い)にも鎌倉街道跡、旧鎌倉街道などと呼ばれる古道の跡が残っている([[東海道]]の項目参照)。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
=== 注釈 ===
 
<references group="注釈"/>
 
=== 出典 ===
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
{{参照方法|date=2016年6月|section=1}}
 
* [[吾妻鏡]]
 
* [[宴曲抄]]
 
* [[江戸名所図会]]
 
* 御府内備考
 
* 南向茶話
 
* [[角川日本地名大辞典]]
 
* {{Cite book |和書 |author=浅井建爾 |edition= 初版|date=2001-11-10 |title=道と路がわかる辞典 |publisher=[[日本実業出版社]] |isbn=4-534-03315-X |ref=harv}}
 
* {{cite book | 和書 | author = [[宮田太郎 (古街道研究家)|宮田太郎]] | title = 鎌倉街道伝説 | id = ISBN 4944237065 | publisher = ネット武蔵野 | year = 2001 | month = 11 | location = 小金井 }}<!-- http://opac.ndl.go.jp/recordid/000003619282/jpn -->
 
* {{cite book | 和書 | editor = 藤原良章 | title = 中世のみちを探る | id = ISBN 4906641830 | publisher = 高志書院 | year = 2004 | month = 6 | location = 東京 }}<!-- http://opac.ndl.go.jp/recordid/000007395665/jpn -->
 
* {{cite book | 和書 | author = [[齋藤慎一]] | title = 中世を道から読む| id = ISBN 4062880407 | publisher = [[講談社]]〈[[講談社現代新書]]〉 | year = 2010 | month = 2 | location = 東京 }}<!-- http://opac.ndl.go.jp/recordid/000007395665/jpn -->
 
* {{cite book | 和書 | author = 北倉庄一 | title = 中世を歩く | id = ISBN 978-4990016531 | publisher = テレコム・トリビューン社 | year = 1998 | month = 2 | location = 東京 }}
 
 
 
* {{cite web | url = http://www.asahi-net.or.jp/~ab9t-ymh/annai/kama1.html  | title = 鎌倉街道上道埼玉編 | accessdate = 2010年1月17日 }}
 
* {{cite web | url = http://yokohama.cool.ne.jp/y_ohata/hodo/hodogaya/kamakuramiti/kamakurakodou.htm  | title = 「古鎌倉道(鎌倉古道)」について | accessdate = 2010年5月12日 | author = 大畠洋一}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[鎌倉七口]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://www.geocities.jp/yaji_kita843/sub7-02-bangai-yusaka.html 『箱根湯坂路・鎌倉古道を歩く』]
 
* [http://yokohama.cool.ne.jp/y_ohata/hodo/hodogaya/hodo_index.htm 『保土ヶ谷宿の成立と交通路の変遷』]
 
  
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[[Category:街道]]
 
[[Category:街道]]

2019/4/27/ (土) 19:42時点における最新版

鎌倉街道(かまくらかいどう)

鎌倉時代,鎌倉と各地を結ぶために開かれた道路の総称。そのうち特に上ノ道,中ノ道,下ノ道の3道が知られている。上ノ道は,化粧坂 (けわいざか) から柄沢,飯田,瀬谷,鶴間,木曾,小野路,関戸,分陪などを経て武蔵府中にいたり,ここからさらに上野,下野,信濃に通じた。元弘3 (1333) 年,上野に挙兵した新田義貞が鎌倉攻めの際に通ったのがこの道である。中ノ道は,山内から大船,永谷,名瀬,二俣川,白根,麻生,是政などを経て府中にいたり,上ノ道に合した。奥州征伐の際の源頼朝の進路といわれる。下ノ道は永谷で中ノ道から分れ,平間,池上,芝などを経て,房総,奥州方面に通じた。



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