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|出典の明記=2017年10月
 
|観点=2017年10月
 
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}}
 
{{基礎情報 過去の国
 
|略名 = 日本
 
|日本語国名 =
 
|公式国名 =日本国(連合国軍占領下)
 
|建国時期 = [[1945年]](昭和20年)<br>[[9月2日]]
 
|亡国時期 = <br>[[1952年]](昭和27年)<br>[[4月28日]]
 
|先代1 = 大日本帝国
 
|先旗1 = Merchant flag of Japan (1870).svg
 
|次代1 = 日本
 
|次旗1 = Merchant flag of Japan (1870).svg
 
|次代2 = アメリカ合衆国による沖縄統治
 
|次旗2 = Flag of US Occupied Ryukyu Islands.svg
 
|次代3 = アメリカ施政権下の小笠原諸島
 
|次旗3 = Flag of the United States (Pantone).svg
 
|国旗画像 = Merchant flag of Japan (1870).svg
 
|国旗リンク = [[日本の国旗|国旗]]<ref group="†">[[日本の国旗|日章旗]]は占領初期に掲揚が禁止された。詳細は[[#国旗]]の節を参照。</ref>
 
|国旗幅 =
 
|国章画像 = Imperial Seal of Japan.svg
 
|国章リンク = [[国章]]に準じる紋章
 
|国章幅 =
 
|標語 =
 
|国歌 = [[君が代]]
 
|国歌追記 =
 
|位置画像 = Occupied Japan.png
 
|位置画像説明 =
 
|位置画像幅 =
 
|公用語 = [[日本語]](事実上)
 
|首都 = [[東京都]](事実上)
 
|元首等肩書 = [[天皇]]
 
|元首等年代始1 = [[1926年]](昭和元年)
 
|元首等年代終1 = [[1989年]](昭和64年)
 
|元首等氏名1 = [[昭和天皇]]
 
|首相等肩書 = [[内閣総理大臣]]
 
|首相等年代始1 = [[1945年]](昭和20年)
 
|首相等年代終1 = [[1945年]](昭和20年)
 
|首相等氏名1 = [[東久邇宮稔彦王]]
 
|首相等年代始2 = [[1948年]](昭和23年)
 
|首相等年代終2 = [[1954年]](昭和29年)
 
|首相等氏名2 = [[吉田茂]]
 
|面積測定時期1 =
 
|面積値1 =
 
|人口測定時期1 =
 
|人口値1 =
 
|変遷1 = [[太平洋戦争]]<br>([[大東亜戦争]])終戦
 
|変遷年月日1 = [[1945年]](昭和20年)<br>[[8月15日]]
 
|変遷2 = [[降伏文書]]調印
 
|変遷年月日2 = [[1945年]](昭和20年)<br>[[9月2日]]
 
|変遷3 = [[日本国との平和条約|サンフランシスコ講和条約]]調印
 
|変遷年月日3 = [[1951年]](昭和26年)<br>[[9月8日]]
 
|変遷4 = 日本が[[主権]]を回復(サンフランシスコ講和条約発効)
 
|変遷年月日4 = [[1952年]](昭和27年)<br>[[4月28日]]
 
|通貨 = [[円 (通貨)|円]]
 
|時間帯 =
 
|夏時間 =
 
|時間帯追記 =
 
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|ccTLD追記 =
 
|国際電話番号 =
 
|国際電話番号追記 =
 
|注記 =
 
}}
 
{{日本の歴史|Macarthur hirohito.jpg|180px|画像説明=1945年(昭和20年)[[9月27日]]<br>[[昭和天皇]]と[[ダグラス・マッカーサー]]の会見}}
 
'''連合国軍占領下の日本'''(れんごうこくぐんせんりょうかのにほん)は、[[第二次世界大戦]]における日本の敗戦から[[日本国との平和条約|サンフランシスコ講和条約]]締結までの間、[[連合国軍最高司令官総司令部]] (GHQ/SCAP) の[[占領]]下に置かれた[[日本]]である。
 
 
 
占領の形態について戦時占領説、保障占領説、特殊占領説がある。連合国は日本の占領を戦時占領とも保障占領ともとれる扱いを行っており、純粋な戦時占領や保障占領ではない特殊占領であるという見方が多い<ref>{{Cite book|author=宮崎繁樹|title=法律論叢 占領に關する一考察|date=|year=|publisher=明治大学法律研究所|pages=116-132}}</ref>。
 
 
 
== 概要 ==
 
[[画像:Surrender of Japan - USS Missouri.jpg|thumb|220px|left|降伏文書調印に向かう日本政府全権]]
 
日本政府は、[[1945年]]([[昭和]]20年)[[8月]]の[[日本への原子爆弾投下|原爆投下]]をうけ、[[8月10日]]に短波放送によりポツダム宣言の受諾を報知し、また[[8月14日]]には詔勅により[[ポツダム宣言]]を受諾した旨を[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]に通告した。翌[[8月15日]]正午、[[昭和天皇]]は[[ラジオ]]で[[終戦]]の[[詔書]]を[[日本国籍|日本国民]]に発表した([[玉音放送]])。1945年(昭和20年)[[9月2日]]に、[[日本国政府|日本政府]]代表は[[ミズーリ (戦艦)|戦艦ミズーリ]]の船上で[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]との間で降伏文書に正式に調印した。[[日本の降伏]]により、[[連合国軍最高司令官総司令部]] (GHQ/SCAP) の占領下に入った。総司令官は[[アメリカ陸軍]]の[[元帥 (アメリカ合衆国)|元帥]][[ダグラス・マッカーサー]]であったが、その政治顧問として、国務省からは[[ジョージ・アチソン]]が派遣された<ref name="ndl">{{Cite web|author=国立国会図書館|date=2003-05-03|url=http://www.ndl.go.jp/constitution/etc/jinbutsu.html#s6_1|title=日本国憲法の誕生 人物紹介|publisher=国立国会図書館|language=日本語|accessdate=2010-02-21}}</ref>。
 
 
 
降伏文書の調印に先立ち、連合国軍は[[8月28日]]に[[日本列島|日本本土]]([[北海道]]・[[本州]]・[[四国]]・[[九州]])に到着した[[アメリカ軍]]と[[イギリス連邦占領軍|イギリス連邦軍]]([[イギリス軍]]、[[オーストラリア軍]]、[[ニュージーランド軍]]や[[イギリス領インド帝国]]軍)により日本への進駐を開始した。
 
 
 
当時「連合国は日本本土に対して[[軍政 (行政)|軍政]]を実施する」との情報があり、[[重光葵]][[外務大臣 (日本)|外務大臣]]([[東久邇宮内閣]])は[[9月3日]]にダグラス・マッカーサーに面会し、直接具申しこれを撤回させた<ref name=nagaikazu>[http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/~knagai/GHQFILM/DOCUMENTS/Missouri/sugita2.html 杉田一次の回想-2-杉田一次著『情報なきミズリー号艦上の降伏調印] 映像で見る占領期の日本-占領軍撮影フィルムを見る- 永井和京都大学教授</ref><ref group="†">永井和によれば、重光の具申により方針を撤回させたことは重要であり、[[無条件降伏]]があくまで[[日本軍]]に対するものであって国に対するものではないことに基づくとする。</ref>。
 
 
 
一方[[南西諸島]]および[[小笠原諸島]]は停戦時にすでに[[アメリカ軍]]の占領下ないし勢力下にあり、本土復帰まで被占領の歴史を歩む。大陸や南方、北方の旧領土および占領地の日本軍は[[イギリス軍]]や[[中華民国軍]]、[[ソビエト連邦軍]]や[[フランス軍]]などそれぞれ現地の連合国軍に降伏し、領土および占領地の行政権は剥奪された(日本本土除く)。占領軍は日本の外交権を停止し、日本人の海外渡航を制限し貿易、交通を管理した。漁業活動のための航海は、「マッカーサーライン」を暫定的に引き、講和後に廃止されるまで制限下に置いた。
 
 
 
[[1951年]](昭和26年)[[9月8日]]、日本政府は「サンフランシスコ講和条約」(正式名:[[日本国との平和条約]])に調印した。同条約は[[1952年]](昭和27年)[[4月28日]]に発効し、日本は正式に国家としての全権を回復した。外交文書で正式に戦争が終わった日は1945年(昭和20年)9月2日であるが、講和条約発効まで含めると1952年(昭和27年)4月28日が終戦の日である。
 
 
 
駐留した兵士らは休日になると街へ繰り出したが、その際に当時の日本には珍しいカラー写真や動画などで町並みや人を撮影しており、映像資料の少ない地方の様子を知る資料となっている<ref>[http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201708/20170805_13020.html 米従軍医、1951年に宮城の浜をカラー撮影 貴重な写真ネットで公開 | 河北新報オンラインニュース]</ref>。
 
 
 
== 統治 ==
 
{{Main|日本の分割統治計画|アメリカ合衆国による沖縄統治|アメリカ施政権下の小笠原諸島}}
 
[[第二次世界大戦]]末期に連合国軍は戦後の日本占領方式について、日本政府を通じた間接統治案や、マッカーサーグループによる直接統治案、1国あたりが担当するコストを減らすために[[ドイツ]]と同様に主要連合国による[[日本の分割統治計画|日本本土の分割直接統治]]などが検討されていたが、間接統治の方針に決定した<ref>五百旗頭真『米国の日本占領政策』</ref>。占領下において日本は主権の一部を制限された状態ではあったものの政府が存続し続けた。終戦前に連合国軍により占領されていた[[沖縄県]]や[[小笠原諸島]]はアメリカ施政権下に置かれた。
 
 
 
日本では[[連合国軍最高司令官総司令部]]を'''GHQ''' (General Headquarters) 、稀に'''SCAP''' (Supreme Commander for the Allied Powers) と呼称する。最高機関として[[極東委員会]]を、最高司令官の諮問機関として[[対日理事会]]が設置され、その傘下に置かれたGHQが全面的に業務を行う。連合国はイギリスの[[クレメント・アトリー]]首相や中華民国の[[蒋介石]][[総統]]、ソビエト連邦の[[ヨシフ・スターリン]][[ソビエト連邦共産党書記長|共産党書記長]]やアメリカの[[ハリー・S・トルーマン]]大統領の承認のもとで、アメリカ陸軍のダグラス・マッカーサー元帥を連合国軍最高司令官に任命した。
 
 
 
日本に進駐した連合軍の中で最大の陣容は、約75パーセントの人員を占めるアメリカ軍で、その次に約25パーセントの人員を占めるイギリス軍やオーストラリア軍、ニュージーランド軍をはじめとする[[イギリス連邦占領軍|イギリス連邦の諸国軍]]であった。[[オランダ軍]]や[[中華民国国軍|中華民国軍]]、[[カナダ軍]]や[[フランス軍]]、そして終戦土壇場になり日本へ侵略した[[ソビエト連邦軍|ソ連軍]]は、国力の問題や英米の反対により部隊を置かず、東京など日本国内数か所に駐在武官のみを送るに止めた。
 
 
 
[[主権]]と[[行政権]]を留保した。[[日本の降伏]]に伴い、[[日本国政府|日本政府]]が受諾した[[ポツダム宣言]]の文面では、当時のイギリスの[[ウィンストン・チャーチル]][[イギリスの首相|首相]]の提案によって、「日本領土」ではなく「日本領土内の諸地点」への「[[保障占領]]」となっていた{{要出典|date=2017年10月}}。
 
 
 
== 政策 ==
 
{{See also|連合国軍最高司令官総司令部}}
 
 
 
=== 法制 ===
 
{{See also|日本国憲法}}
 
1945年(昭和20年)[[10月4日]]、マッカーサーの示唆により[[憲法改正]]の作業が開始された。連合国軍総司令部によって作成された草案を基に日本側による修正が加えられ、手続き上は[[大日本帝国憲法]]の全面改正という形態をとり、[[1946年]](昭和21年)[[11月3日]]に新憲法の[[日本国憲法]]が公布。[[1947年]](昭和22年)[[5月3日]]に施行された。また[[民法 (日本)|民法]]など多くの[[法律]](法体系:[[日本法]])が[[戦前#日本史における「戦前」|戦前]]から引き継がれた。
 
 
 
;[[象徴天皇制]]
 
[[画像:Hirohito Signing.JPG|thumb|220px|right|[[昭和天皇]]<br>1946年(昭和21年)11月3日]]
 
:連合国軍は[[皇室]]改革を指令し、天皇は憲法上における統治権力の地位を明示的に放棄し、[[日本国憲法第1条]]の規定により、「日本国および日本国民統合の象徴」となった。ただ、明治憲法と同様に、[[立憲君主制]]は維持された。また、皇室財産が国や自治体等に下賜ないしは特別税として国庫に収容されることになるに伴い<ref group="†">皇室財産の大部を占めたのは山林であり、これは[[農林省]](現:[[農林水産省]])に下賜され国有化された。帝室博物館などの皇室財産は関連省庁に移管され、すべての皇族の財産は[[宮内省]](現:[[宮内庁]])から各[[皇族]]に私的財産として返還され、伝世財産・伝世御陵(伝承された財産:山林・宮殿敷地・農地・建物敷地など)については一回限りの特別税を用いて国有化した。日本政府はGHQによる皇室財産の処分を懸念し、すでに1945年(昭和20年)11月の時点から日本政府と一部の地方自治体に下賜し始めており、具体的には11月3日に箱根・桂・武庫の3離宮を地方自治体に、11月5日に那須金丸ケ原・富士山麓大野ケ原・岡崎郊外高師ケ原の土地や、42万7000石の木材を日本政府に下賜した。そのほか皇室の宝石類を海外に売却して国民のための食糧輸入に当てたい意向をもちその方途を模索していたが、すでに[[日本銀行|日銀]]や日本政府、交易営団などの貴金属はESSにより接収されていたため適わず、ESSからの報告を受けたマッカーサーは天皇や皇室による国民への人気取りに繋がると懸念をみせたため実現しなかった。なお[[桂離宮]]については1947年(昭和22年)に再び皇室財産とされている。またそのほかについては[[皇室財産]]の項も参照。</ref><ref>「憲法制定過程におけるGSとESSの関係」金官正(横浜国際経済法学第16巻1号2007.9)[http://kamome.lib.ynu.ac.jp/dspace/bitstream/10131/6547/1/209_03.pdf]</ref>、多くの[[皇族]]は[[皇籍離脱]]を余儀なくされた。また[[人間宣言]]によって天皇が[[現人神]]であることは否定されたが、多くの[[日本人]]はこの人間宣言と象徴天皇制を平静に受容した。
 
:終戦直後の[[1946年]](昭和21年)に[[毎日新聞]]が実施した[[世論調査]]では、[[象徴天皇制]]への支持が85%、反対が13%、不明2%となっており終戦直後でも国民の多くが[[皇室]]の存続を支持している<ref>[[毎日新聞]] 1946年5月27日</ref><ref>{{cite news
 
|url = http://mainichi.jp/articles/20160208/ddm/004/040/012000c
 
|title = 毎日新聞1946:新憲法の政府草案を歓迎 改憲論争、50年代に原形
 
|newspaper = 毎日新聞
 
|date = 2016-02-08
 
|accessdate = 2016-04-10
 
}}</ref>。
 
;[[平和主義]]([[戦争放棄]])
 
:設立過程、解釈と体制を巡って現在もなお日本国内で論争が続いている。
 
:1945年(昭和20年)10月5日付で[[スイス]][[公使]]のカミーユ・ゴルジェがスイス外務省に送った電報によると、10月2日の会談でマッカーサーは第二次大戦中の「[[日本軍]]の残虐性」を強調し、敗戦後の日本が「軍事的には重要でなくなることを保証する。」と断言し、「国際社会で悲惨な地位を占めることになろう」と公使に語った<ref>2002年(平成14年)8月にスイスから公表された公文書による。2002年8月10日共同通信</ref>。ただしこの頃の連合国は、条約による日本の武装制限あるいは完全非武装を計画してはいたが、方針は明確ではなく、憲法の条項に入れる案は持っていなかった。
 
[[画像:Shidehara cabibet.jpg|thumb|220px|right|[[幣原内閣]]<br>1945年(昭和20年)10月9日]]
 
:1946年(昭和21年)1月7日、[[国務・陸軍・海軍三省調整委員会]] (SWNCC) が日本の憲法改正に関する米国政府の指針を示す文書 ([[:w:国務・陸軍・海軍調整委員会#SWNCC228文書とSWNCC228/1文書|SWNCC228とSWNCC228/1]]) を伝達したが、[[連合軍最高司令官総司令部]]は、[[言論の自由]]に言及したSWNCC228/1指針を文書中に含めなかった<ref>[[国務・陸軍・海軍調整委員会]](SWNCC)によるSWNCC228の原文は、『[https://history.state.gov/historicaldocuments/frus1946v08/d116 Memorandum by the State–War–Navy Coordinating Committee to the Secretary of State]』([[:w:H. Freeman Matthews|H. Freeman Matthews]], 1946年1月7日)の付属書1であり、またこの付属書2は、[[ポツダム宣言]]([[ポツダム会談]])(the Three Power Proclamation issued from Berlin)や[[言論の自由]]に言及している。[[GHQ]]が日本で発表し[[高柳賢三]]が部分的に訳したものは発信者が異なり、国立国会図書館『[http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/059shoshi.html 日本の統治体制の改革(SWNCC228)]』(A. D. Reid, B. L. Austin, R. E. Cox、1946年1月7日)に掲載。</ref>。
 
 
 
:SWNCC228文書には9条に相当する条項を加えるような内容は含まれておらず、諸草案の中で9条に類似する規定を示したのは[[帝国弁護士会]]と日本政府である<ref>憲法調査会事務局『帝国弁護士会の憲法改正案』第12条、『[https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?BID=F0000000000000331486&ID=&LANG=default&GID=&NO=&TYPE=JPEG&DL_TYPE=pdf&CN=1 帝国憲法改正諸案及び関係文書(二)]』、p.p.50(29コマ目)。国立公文書館。「(君民一体に淵源する)統治権の発動として行ふ戦争及び武力による威嚇及び武力の行使を他国との間の紛争解決の具とすることは永久にこれを放棄す 陸海空軍其の他の戦力は之を保持せず国の交戦権は之を行わず」との草案がある。</ref>。また「日本が再び米国の脅威とならぬ」よう「軍部を永久に文官政府に従属させるための正式の措置をとることが、望ましいであろう。」、「天皇の軍事に関する権能はすべて剥奪される。」とSWNCC228指令は指摘しているが、文民条項と天皇と軍の関係に触れたのみであり、明らかに軍を廃止することは念頭にない。[[アメリカ合衆国連邦政府|アメリカ政府]]はこの文書の中で、改革や憲法改正は、日本側が自主的に行うように導かなければ日本国民に受容されないので、改革の実施を日本政府に「命令」するのは、「あくまで最後の手段」であることを強調している。[[イギリス政府|イギリス]]およびアメリカ政府は終戦前から[[東側諸国|東]][[西側諸国|西]]の対立を予測しており、日本の限定的再軍備の必要を論じていた。
 
:1月24日、幣原首相がマッカーサーを訪問し、密談。この時、[[幣原喜重郎]][[内閣総理大臣|首相]]が「かねて考えた世界中が戦争をしなくなるには、[[戦争]]を放棄するということ以外にはないと考える。憲法にそういう条項を入れたい」と語ったとされる。幣原の親友の[[大平駒槌]]枢密顧問官が娘の羽室ミチ子に語った内容を、羽室がメモ([[羽室メモ]])を残している。
 
:「戦争放棄」は幣原からの発案だったと後にマッカーサーが回顧録に書き、幣原は自身の回想録『外交五十年』の中で戦争放棄のアイデアは自発的だったと書き記している。しかし[[松本烝治]]は試案を作るまで幣原から指示はなかったと否定し、この条文に関わったケーディスらも「マッカーサーの発案」と否定している。また、委員会もマッカーサーが権力を逸脱し、日本に憲法を押し付けたのではないかと疑い、懸念を表していた。
 
:1946年(昭和21年)2月3日に[[コートニー・ホイットニー]]民政局長に提示された[[マッカーサー三原則]]には、自衛のための戦争まで禁じられており、「今や世界を動かしつつある崇高な理念(発足したばかりの国際連合を指すと思われる)」に防衛と保護を委ねる旨が記されてあった。
 
:[[自衛権]]の禁止は[[チャールズ・L・ケーディス]]によって作られた[[マッカーサー草案]]8条では削除され、後者は[[日本国憲法前文]]に反映された。
 
:最終草案がまとまった頃、[[極東委員会]]の[[中華民国]]代表が[[芦田修正]]を見とがめたが、結局[[ソビエト連邦|ソ連]]代表の提案で[[文民条項]]を要請することで収まった。[[日本国憲法第66条]]に第2項が書き加えられた。
 
:1948年(昭和23年)1月6日、[[アメリカ対日協議会|ジャパン・ロビー]]の[[ケネス・クレイボーン・ロイヤル]]長官が日本の過度の弱体化を進めるGHQの占領政策を批判する。同年2月、米国の[[ジェームズ・フォレスタル]][[アメリカ合衆国国務長官|国防長官]]が[[ケネス・クレイボーン・ロイヤル]][[アメリカ合衆国陸軍長官|陸軍長官]]に「日本と[[西ドイツ]]の再軍備」を検討するよう指示。その3ヶ月後にロイヤル長官は「アメリカの人的資源の節約のためにも日本の再武装が望ましい。そのためには日本人が改憲することが必要だ。」と答弁する。この年から、米政府から日本に改憲と再武装を要求する圧力が強まり、[[警察予備隊]](のちの[[保安隊]]、[[自衛隊]])設立の準備が進む。
 
:サンフランシスコ講和会議に先立っては、ダレス国務長官から「主権回復後は日本も軍事面においても国際社会に貢献するように」と再武装を強く迫られるが、吉田首相はそれを回避し、激しいやり取りが起こった。このときマッカーサーは吉田を弁護したが、離任帰国直後に吉田に対して「日本は再武装すべきである」と書簡を送っている。
 
:1951年(昭和26年)9月、サンフランシスコ講和条約に「日本国が主権国として[[国際連合憲章]]第五十一条に掲げる個別的又は集団的自衛の固有の権利を有すること及び日本国が集団的安全保障取極を自発的に締結することができることを承認する。」と明記される。
 
:晩年のマッカーサーは「[[日本国憲法第9条|憲法9条]]を加えたのは失策だった」「[[日本軍|旧軍]]を部分的に存続させるべきだった」と後悔していたと伝えられている。
 
 
 
=== 政治 ===
 
;民主的傾向の復活
 
:占領を早く終わらせるために、[[満州事変]]以降政界から引退していた[[幣原喜重郎]]を[[内閣総理大臣|総理大臣]]に擁立し、[[幣原内閣]](1945年(昭和20年)10月9日 - 1946年(昭和21年)5月22日)を発足させる。[[ポツダム宣言]]の「[[民主主義]]的傾向の復活を強化し、これを妨げるあらゆる障碍は排除されるべきこと。[[言論の自由|言論]]、[[信教の自由|宗教]]及び[[思想の自由]]並びに[[基本的人権]]の尊重は確立されること。」の条項に従い、占領軍の指示を待たずに[[大正デモクラシー]]時代の幣原の盟友達を集めた。新任挨拶のために総司令部を訪れた幣原首相に、マッカーサーの会談記録および会談の中でマッカーサーが口頭で[[五大改革指令]]を伝えた。(1) [[女性]]の解放 (2) [[労働者]]の[[労働基本権|団結権]]の保障 (3) [[日本の教育|教育]]の[[民主化]] (4) [[特別高等警察|秘密警察]]の廃止 (5) [[日本の経済|経済]]の民主化である。[[女性参政権|婦人参政権]]、[[労働組合法]]、[[農地改革]]などの改革は[[大正デモクラシー|デモクラシー]]時代の政界の懸案でもあり、いくつかは法案化が済み、またすでに閣議決定していた事柄でもあったため、憲法改正案が成立するより早い時期に[[大日本帝国憲法|明治憲法]]下で法制化され、実行に移された。
 
;結党の自由と[[政治犯]]の釈放
 
:[[治安維持法]]が廃止され、これにより「思想犯」として捕らわれていた[[徳田球一]]をはじめとする[[日本共産党|共産党]]員などが解放された。結党の自由も保障されたが、後に元「政治犯」の多くは[[日本共産党]]などの[[左翼]][[政党]]を結成した(日本共産党はこの時再建された)。これに加え国内経済の疲弊による[[労働運動]]の激化、また[[1949年]](昭和24年)の[[中華人民共和国]]の成立([[中国]]における[[共産主義]]政権の樹立)や[[朝鮮半島]]情勢の悪化([[連合軍軍政期 (朝鮮史)|米ソ両軍による南北分割占領]]を経た[[大韓民国|韓国]]・[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]といった[[朝鮮]]における[[分断国家]]成立および[[朝鮮戦争]]の勃発)もあり、その後GHQは共産党員とその支持者を弾圧する方針に転じた([[レッドパージ]]、[[逆コース]])。これら左翼政党は[[右翼]]政党や英米に対し対立姿勢を強めていく。
 
;[[財閥解体]]
 
:「[[太平洋戦争]]遂行の経済的基盤」になった財閥の解体による、第二次世界大戦以前の日本の[[資本家]]勢力の除去が目的とされる経済民主化政策である。これにより多くの新興企業が生まれたが、後に解体された財閥の一部は元の形に戻る。
 
;産業解体
 
:SCAPは[[連合軍軍政期 (ドイツ)|ドイツ]]と同様に日本の脱[[工業化]]を図り、[[重化学工業]]産業を解体した。初期の[[極東委員会]]は賠償金を払う以上の日本の経済復興を認めなかった。マッカーサーも1945年(昭和20年)9月12日の記者会見で「日本はこの大戦の結果によって、四等国に転落した。再び世界の強国に復活することは不可能である。」と発表し、他の[[アジア]]諸国と同様に米国および欧州連合国に従属的な市場に解体するべく、極度な日本弱体化政策をとった。こうして各地の[[研究所|研究施設]]や[[工場]]を破壊し、[[産業機械|工業機械]]を没収あるいはスクラップ化し、研究開発と生産を停止させ、[[農業]]や[[漁業]]や[[衣類]]を主力[[産業]]とする政策をとった。工業生産も、東南アジア諸国などへの賠償金代わりの輸出品の製造を主とした<ref name="syouwa">昭和戦後史・上 復興と挑戦(2006年2月14日 講談社発行)53ページ</ref>。
 
:1945年(昭和20年)に来日した連合国賠償委員会のポーレーは、日本の工業力移転による中間賠償を求め、賠償対象に指定したすべての施設を新品同様の状態に修繕し、移転まで保管する義務を日本の企業に命じた。1946年(昭和21年)11月、ポーレーは最終報告として「我々は日本の[[真珠湾攻撃]]を決して忘れない」と報復的性格を前文で明言し、「日本に対する許容工業力は、日本による被侵略国の生活水準以下を維持するに足るものとする。右水準以上の施設は撤去して有権国側に移す。」とした。[[軍需産業]]と指定されたすべてと平和産業の約30%が賠償施設に指定され、戦災をかろうじて免れた工業設備をも、[[中間賠償]]として[[アジア]]へ次々と強制移転させた。[[大蔵省]](現在の[[財務省]]と[[金融庁]])によると、1950年(昭和25年)5月までに計1億6515万8839円(昭和14年価格)に相当する43,919台の工場機械などが梱包撤去された。受け取り国の内訳は[[中華人民共和国|中国]]54.1%、[[オランダ]]([[オランダ領東インド|東インド]])11.5%、[[フィリピン]]19%、イギリス([[イギリス統治下のビルマ|ビルマ]]、[[イギリス領マラヤ|マライ]])15.4%である。
 
:ポーレーの最終案は極東委員会内でも議論が湧いて意見の一致を見ず、米国内のメディアからさえ非現実的と批判を浴びた。そのため1947年(昭和22年)1月、[[アメリカ合衆国陸軍省|米陸軍省]]派遣のストライク調査団が来日した。調査団は、日本非武装化を目的とした中間賠償はすでに役割を終えているとし、日本がすでに500億ドル以上の在外資産を放棄していることや、日本の自立による東アジアの安定への寄与効果などを重視し「1935年の国民生活水準を考慮し自給自足に足る経済を残す。」として、工業再建の許容水準を引き上げるとともに、賠償計画の見直しを勧告する内容の報告書を GHQ に提出し、ポーレー案の緩和を促した。が、これはドイツに対して行われた過酷な産業解体よりさらに低い水準、つまり[[世界恐慌|大恐慌]]時代の日本のレベルを上限として残りを賠償とする弱体化政策の一環であった。例をあげると、日本の製油所は全部解体・分割して、製品輸入に依存することが初期案には示されていた。1946年(昭和21年)の日本経済は1930年(昭和5年)~34年(昭和9年)の18%のレベルで、47年でもまだ40%にしか回復しなかった。
 
:1947年(昭和22年)3月、マッカーサーが「占領目的はすでに達成している。今後の日本は復興に向かうべき時期である。」と主張し、早期講和条約を提唱した。さらに同年5月、[[ディーン・アチソン]][[アメリカ合衆国国務次官|国務次官]]が「アジアおよびヨーロッパにおける2大工場として、この2大陸の究極の復興を左右する日独両国の復興を促進する」と方針を発表。日本の産業復興と国際社会への復帰に向かう動きが始まる。
 
:1948年(昭和23年)1月6日、米国のロイヤル陸軍長官が「日本を反共の砦にする」と演説。6月、ヨーロッパでは共産勢力の台頭を防ぐため[[マーシャルプラン]]が発令された。また日本については、日本と他のアジアの労働者の質を現実的に比較して、日本の工業施設を戦後賠償としてアジアに移転させてしまうより、役務賠償や日本で生産した工業製品による現物賠償が有力という現実的な判断が深まり、日本製造業の見直しの機運を盛り上げた。さらに、日本の経済的自立の立ち遅れがアメリカの占領費用負担に繋がるという納税者の論理も働いていた。
 
:1948年(昭和23年)3月に来日した[[ウィリアム・ヘンリー・ドレイパー・ジュニア|ドレーパー]]米陸軍次官、 ジョンストンらは日本経済の実情を視察して、日本の産業復興を最大の占領目的として位置づけ、 貿易拡大・賠償削減・財閥解体の緩和などを提唱した報告書を出し、日本の産業復興が自由社会のパワーバランスに寄与し、アジア諸国に益するものと位置づけた。このような経緯を経て占領下の日本は経済復興の道を歩み始めた。同年12月、[[経済安定九原則]]が発表された。1950年(昭和25年)以降、[[朝鮮戦争]]勃発によって米軍航空機の修理の必要などから工業生産規制が緩和され、制限付きではあったが重工業の生産枠が拡大した。
 
:他方で日本政府や実業家たちは敗戦直後から、主権回復後の経済復興に向けて、備蓄されていた技術や経験を生かしつつ「研究の徹底、生産技術の向上、経営の能率化」に重点を置いた長期プランを立てていた。1946年3月に外務省調査局特別調査委員会によってまとめられた「日本経済再建の基本問題」には、既に最先端テクノロジーを基盤とする主権回復後の経済復興の青写真が描かれている。
 
;[[労働運動]]
 
:1945年(昭和20年)10月2日、マッカーサーはカミーユ・ゴルジェ駐日スイス公使と会談した際、日本の工業力がまだ残存しており、戦後の日本が戦前のように安い労働力によって廉価な製品を輸出し、欧米諸国と並ぶ競争力を回復させ、またアジア市場を独占することに懸念を示していた。日本の経済進出を阻止するために、労働組合の組織化を通じて労働者の賃金を上昇させ、日本製品の価格を引き上げれば日本の競争力を低下させることができると、その必要性をスイス公使に力説し、「戦後日本は、国際社会であわれな地位を占めることとなろう。」と語っている<ref>2002年8月にスイスから公表された公文書による。2002年8月10日共同通信</ref>。
 
:この会談から9日後の10月11日、マッカーサーは就任したばかりの幣原喜重郎首相に、[[労働組合]]の結成を含む[[五大改革指令]]を指示したのである。
 
:降伏直後、国内の多くの工場が賠償指定を受け生産を禁じられ、一部は限定された「平和産業」へと転換して生き残りを図ろうとしたが、生産制限を課せられる等、生産量の低下を余儀なくされていた。それによって失業や賃金低下をもたらされたため、全国各地で労働者による[[生産管理闘争]]や生産復興闘争が発生した。1946年(昭和21年)には、毎月平均30件の生産管理闘争が発生した。[[ストライキ]]はほとんど行われなかった。皮肉なことに、占領軍の厳しい言論統制によって、日本の民主化を占領目的とする世論誘導が行われていたので、多くの労働者は、経済復興が遅れているのは、GHQの民主化を妨害するために資本家が生産サボを行っているせいだと信じていた。が、GHQによって弾圧されていった。
 
:1946年(昭和21年)12月、極東委員会は[[労働運動16原則]]を発表し、占領目的を阻害する労働運動を禁じた。
 
:1947年(昭和22年)、食糧輸送と占領軍へのサービスをストライキから除外した[[二・一ゼネスト]]が計画されたが、マッカーサーの介入によって中止される。二・一ゼネストの中止以降、GHQと労働運動家たちの間に深刻な溝が生じる。
 
;[[農地改革]]
 
:地主から土地を強制的に召し上げ、小作人に農地を分け与えた。これによって、資産家は没落した一方、多くの新興農家が生まれ、小作農であった彼らの経済基盤は大幅に向上された。ただし、農地が個人に分散されたため、画一的な大規模農業が不可能となり、日本の[[食料自給率]]低下の原因とされる。また土地を得た農民は[[保守]]政権の強固な支持層となった上、農地の強制収用の過程で、これを違法に逃れるものも多かった。
 
;[[武装解除]]
 
:日本軍は本土と海外領土のみならず、植民地や全ての占領地において武装解除され、植民地や占領地にいた全ての軍人は本土へ戻された他、ソビエト連邦の占領地で捕虜となったものの多くは[[シベリア抑留]]されることとなった。また[[インドネシア]]や[[マレー半島]]などでは、イギリスやオランダからの独立を画策する勢力に加担するために現地に留まることを選択するものもいた。本土だけで1万機以上残存していた航空機は全て廃棄処分とされ、最新のジェット機やロケット機をはじめとする戦闘機、攻撃機、水上飛行機や潜水艦等とその技術文書は、研究のためにすべてアメリカやイギリスに持ち去られた。また一部の植民地や占領地では、これらの航空機や戦車がそのまま中華民国軍やフランス軍などで使用された。本土に残存していた戦艦や空母、潜水艦を含めた艦艇は、一部の空母や輸送船が植民地や占領地からの引き上げに使用された他は、ソビエト連邦や中華民国、アメリカなどの戦勝国に戦利品として持ち去られたり、接収される以前の民間船舶会社に戻された他、スクラップとして廃棄処分とされた。
 
 
 
=== 教育 ===
 
;教育・[[学制改革]]
 
:1947年(昭和22年)3月、[[学校教育法]]が公布され、4月に施行された。
 
:[[学校体系#学校体系の種類|複線教育]]が廃止され、各[[都道府県]]に[[新制大学]]が創設される等、[[教育]]の一般化が行われた。
 
:公立旧制の[[高等教育]]機関としては、[[旧制大学]]、[[大学予科]]、[[旧制高等学校]]、[[旧制専門学校]]と[[教員]]養成の目的で設けられていた[[高等師範学校]]、[[女子高等師範学校]]、[[日本の師範学校|師範学校]]、青年師範学校があったが、単一の[[大学|四年制大学]]となった。
 
:1947年(昭和22年)3月、[[教育勅語]]に代わって[[教育基本法]](旧法)が施行された。[[小学校|小]]・[[中学校]]は原則[[男女共学]]となり、[[国立学校|国]][[公立学校]]での[[宗教]]的中立が規定された。
 
:[[日本の教育]]の[[民主化]]は、日本と連合国の政府間では根源的な認識の差異があった。すなわち「[[有色人種]]蔑視思想に基づき日本弱体化を目的とした、複線教育を廃した民主教育」と「字義通りの民主教育」のギャップである。日本はこの方面では、[[欧米]]の[[植民地]]支配下に置かれ、教育への投資が進んでいなかった[[東アジア]]諸国はむろんのこと[[ヨーロッパ史|西洋史]]的基準で見ても例外的な国で、[[古代]]・[[中世]]から[[女子教育]]や庶民への教育を勧める伝統を持っており、[[近代]]的な[[義務教育]]制度も[[アメリカ合衆国の教育|アメリカ]]や[[ロシアの教育|ソ連]]、[[フランスの教育|フランス]]などより早くから行われていたため、字義通りの民主教育を受容した。
 
:それより前の1945年12月には、GHQの指令により「民主化」の一環として[[教職員組合]]([[日本教職員組合]]など)が編成される。
 
;日本語ローマ字化計画
 
:1946年3月5日、第一次アメリカ教育使節団が来日し、[[日本語]]の[[ローマ字]]化を企てる。教育使節団は[[アメリカの教育]]についての知識は有していたものの、日本の教育や[[日本の文化|文化]]に対する[[情報]]が乏しく、戦前より「[[五大国]]」の一員であり、高い工業力を持っていた日本の[[識字率]]、[[就学率]]は、同じ列強のアメリカや[[イギリスの教育|イギリス]]に比べても高いにかかわらず、無知と[[人種差別]]意識から「日本の民衆は奴隷化され識字率は低いのだろう」と思い込んでいた。それを自分たちが読むことすらできない漢字が障壁と考え、「ローマ字化すれば識字率が高まる」と一方的な推論を立て、日本語ローマ字化計画を企てた。事前調査として15歳から64歳までの国民17,000人を抽出して[[日本における漢字|漢字]]の読み書き能力テストを行ったところ、漢字の読み書きができないのは、わずか2.1%という結果が出た。これはアメリカをはるかに超えるだけでなく、当時の世界水準で見てもかなり高い識字率であったため、これに困ったGHQの担当者ジョン・ベルゼルは、調査官であった[[言語学|言語学者]]の[[柴田武]]に「調査結果を捏造してくれ」と迫った。が、事実を捏造することはできないと柴田は拒否した。この一件があってから、日本語のローマ字化計画は立ち消えとなった。1946年11月に制定された[[当用漢字]]は、こうした動きを受けて、「当面(すなわち漢字を廃止するまで)の間用いる」漢字を選別するために制定されたものであり、結果的に未遂に終わった日本語ローマ字化計画の残滓の一つと言える。
 
;英語公用語化計画
 
:降伏文書調印の直後、占領期間の[[公用語]]を[[英語]]とするという項目を含む[[三布告]]を突きつけられ、翌朝10時までに国民に布告するよう命ぜられた。それらはポツダム宣言の内容に反していたため、[[外務省]]の交渉によって、翌朝の10時までに三布告をすべて白紙撤回させた。
 
 
 
=== 国号 ===
 
{{右|
 
[[画像:Flag of Japan.svg|220px|thumb|none|[[日本の国旗|日章旗]]]]
 
[[画像:Flag of Allied Occupied Japan.svg|220px|thumb|none|日章旗の掲揚禁止を受けて用いられた日本商船管理局旗]]
 
}}
 
[[明治]]期以来現在においても日本の[[国号]]は法定のものではなく、行政上での慣例に従い記述されているが、明治期から[[大正]]期、[[昭和]]初期まで[[大日本帝国]]を主たる国号とし、1935年(昭和10年)7月より外務省は外交文書上「大日本帝國」に表記を統一していたが、第二次世界大戦後、日本政府が1946年(昭和21年)2月8日に連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) に提出した憲法改正要綱に国名を「大日本帝國」のままにしていたところ、2月13日GHQ/SCAPのホイットニーにより、憲法改正要綱の不受理通知とGHQ/SCAP草案が吉田茂外務大臣、松本烝治国務大臣らに手交され、その草案の仮訳からは国名が「日本國」になり、これ以降慣例として[[大日本帝国]]の国号は使用されなくなり、1947年(昭和22年)5月3日日本国憲法施行により憲法上は日本國の名称が用いられる。
 
 
 
=== 国旗 ===
 
[[日本の国旗|日章旗]]掲揚、[[君が代|国歌]]を公的な場で歌うことは1945年に全面禁止された。[[商船旗]]としては[[国際信号旗]]のE旗の端を三角に抜いた[[日本商船管理局]](Shipping Control Authority for JAPan、略してSCAJAP)の旗が代わりに使用された。
 
 
 
また[[イギリス軍]]やアメリカ軍の占領地域ではそれぞれの国旗が掲揚され、GHQがアメリカ軍占領地域の警察署長や市長を通して、日本市民に対し、畏敬の念をもって[[アメリカ合衆国の国旗|星条旗]]に敬礼するよう命令した例が全国各地にある<ref>『[[愛媛新聞]]』 1945年11月22日など。</ref>。1946年(昭和21年)からは特定の祝日や特定の行政機関のみに、国旗掲揚が限定的に許された。
 
 
 
1948年(昭和23年)6月に制限令を知らずに横浜で国旗を掲揚した男性が、アメリカ軍軍事法廷で重労働6か月の判決を受けるなどの判例がある<ref>『日本の百年』1967年、他</ref>が、イギリスの占領地域でこのようなことは行われていなかった。1949年1月、GHQから国旗の掲揚が認められたが、刑罰や「軍国主義者」というレッテル張りを警戒して、実際に国旗を掲揚した日本人は少なかった。学校の教科書の挿絵に国旗があれば、削除の対象となった。児童の文房具に日章旗のデザインがついている場合、学校に監視に来たMPに没収されたり消すことを命じられたりしていた。1946年からの昭和天皇の全国巡行の際には例外的に日章旗が用いられた。
 
 
 
=== 貿易 ===
 
[[画像:MIOJ-HEMMI153.jpg|220px|thumb|right|''[[Made in Japan#Made in Occupied Japan|Made in Occupied Japan]]''(「占領下日本製」)と記された日本製品。1947年2月のSCAP指令で輸出品に表示が義務付けられた。]]
 
{{節stub}}
 
占領期間、1947年(昭和22年)8月15日まで総司令部 (SCAP/GHQ) による全面的・直接的貿易管理が行われた。総司令部の事前の承認なくして、一切の商品輸出入も許可されなかった。しかし、[[冷戦]]によって日本を[[西側諸国]]寄りの国として復興する、つまり[[逆コース]]へ誘導する必要性が出てきた。そのため1947年(昭和22年)6月のマーシャルプラン発表とともに、同年8月15日より対日経済封鎖を緩和し、制限付民間貿易を再開した<ref>「戦時・戦後復興期の日本貿易 ─1937年~1955年─」奥和義(関西大学商学論集 第56巻第3号(2011年12月))[http://kuir.jm.kansai-u.ac.jp/dspace/bitstream/10112/6020/1/KU-1100-20111225-02.pdf]</ref>。その決済手段として、[[ロックフェラー|ナショナル・シティ銀行]]に[[JPモルガン#ケミカル|SCAP勘定]]が設定された<ref>伊藤正直 『戦後日本の対外金融』 名古屋大学出版会 2009年 p.72.</ref>。
 
 
 
=== 戦犯裁判 ===
 
[[画像:IMTFE defendants.jpg|220px|thumb|right|極東国際軍事裁判]]
 
;[[極東国際軍事裁判]](東京裁判)
 
:1945年(昭和20年)8月8日に英米仏ソの連合国4国が[[ロンドン]]で調印した国際軍事裁判所憲章に基づき、極東国際軍事裁判所条例(極東国際軍事裁判所憲章)が定められ、同年1月19日、連合国軍最高司令官マッカーサー元帥が極東国際軍事裁判所設立を宣言した。裁判は1946年(昭和21年)5月3日から1948年(昭和23年)11月12日にかけて行われ、憲章第6条A項が規定する「平和に対する罪」に違反したとされる政治家や軍関係者をA級戦犯容疑で約100人を逮捕、そのうち28人を起訴した。裁判の結果、7名が死刑、16名の終身刑の判決を受けて処罰された。
 
:当初55項目の訴因が挙げられたが、[[ポツダム宣言]]6項にある「日本、イタリア、ドイツの3国による世界支配の共同謀議」と「タイ王国への侵略戦争」の2つについては証拠不十分のため退けられ、残りの43項目については他の訴因に含まれるとされ除外され、最終的には「1928年から1945年に於ける侵略戦争に対する共通の計画謀議」、「 満州事変以後の対中華民国への不当な戦争」、「米・英・仏・蘭に対する侵略」の計4項目、その他合計10項目の訴因にまとめられた。
 
:なお、敗者である日本が、勝者である連合国軍に裁かれた極東軍事裁判は、ドイツで行われた[[ニュルンベルク裁判]]同様、法律家や歴史研究者のみならず、[[右派]]や[[国粋主義]]からも批判されている。当時では[[イギリス領インド帝国]]の[[ラダ・ビノード・パール]]が「裁判の体を成していない」「復讐目的の裁判」「[[事後裁判]]だ」と批判した。
 
;[[BC級戦犯]]
 
:約5,600人がBC級戦犯として各地で逮捕された。横浜、上海、シンガポール、ラバウル、マニラ、マヌス島等々南方各地の50数カ所の牢獄に抑留され、約1,000名が軍事裁判の結果、死刑に処された。
 
:BC級戦犯の中には、日本の海外領土であった朝鮮人が148人、台湾人が173名が含まれていた。
 
 
 
=== 文化・思想 ===
 
;[[言論統制]]
 
:1945年(昭和20年)[[10月8日]]に、SCAPは「自由の指令」を出し思想・言論規制法規の廃止を命令すると、翌日から[[朝日新聞]]、[[毎日新聞]]、[[読売新聞|讀賣報知]]、[[日本経済新聞|日本産業経済]]、[[東京新聞]]の在京5紙に対して事前[[検閲]]を開始した<ref name=ndlhistory01/>。GHQは言論及ビ新聞ノ自由ニ関スル覚書 ([[SCAPIN]]-16) や[[プレスコード]]、[[ラジオコード]] (SCAPIN-43) 等を発して[[民間検閲支隊]]などにより地方紙も含めた新聞、雑誌などあらゆる出版物、学術論文、放送、手紙、電信電話、映画などへの検閲を行った。それらに携わった日本人スタッフへの給与およびすべての経費は日本政府が負担し、『終戦処理費』あるいは『その他』経費として計上され、国民には秘匿された。
 
:連合国の批判、占領軍の政策への批判、[[極東国際軍事裁判]]を批判したもの、戦時中の連合軍の虐待行為、原爆に関する情報、占領軍兵士による殺人・強盗・強姦事件・売春、満州国や中華民国、ソ連における日本人処遇への批判、欧米諸国における有色人種差別、冷戦の高まり、文学作品ですら飢餓の表現や戦災がもたらした死や破壊の悲しみの表現は禁じられるなど、報道・出版を許されない項目は多岐にわたった。報道規制は海外から日本に配信されたニュースにも及んだ。沖縄県の報道も禁じられていた。連合国への批判の禁忌は中世や近世にまで及び、ヨーロッパ近世においてイギリスやフランス、オランダによってアジア各地で行われ、戦争勃発の原因となった植民地支配について触れた記述も削除を命じた。
 
:第二次世界大戦中に日本により独立がなされた、もしくは確約されたものの、戦後にイギリスやオランダ、アメリカやフランスなどの連合国によって再植民地化されたアジア各地で勃発した独立闘争も、一切の報道を禁じられた。
 
:連合国の威信を傷つける記述はすべて削除された。占領軍の行進の写真に子犬が写っているだけでも発行禁止とされた。日本の雑誌や映画に性的表現を「自由化」するよう命じられる一方、アメリカのポルノグラフィについては言及するだけでも削除を命じられた<ref>ダワー著『敗北を抱きしめて』参照</ref>。
 
:SCAPが[[日本国憲法]]を起草したこと、SCAPが作成に関与したことも、国民に知らせないよう命じられた。SCAPの憲法作成関与に対する批判も処分の対象となった。日本のメディアは「変な日本語」と言及することによって検閲を逃れた。
 
:また日本政府が連合国軍に支払っている巨額の占領軍維持経費を報道することも許されなかった。1946年(昭和21年)、GHQ検閲局はどうしても経費に触れなければならない場合は「終戦処理費」と呼ぶように命じ、1947年(昭和22年)は「その他」経費とするよう命じた。
 
:また[[軍国主義]]的とされるもの、[[戦前]]・戦中の日本を擁護するもの、日本の[[価値観]]を肯定するもの、[[検閲]]が行われていることへの言及などは[[発行禁止]]や記述の削除、書き換えを行い、言論を統制。
 
:検閲指針に違反した社は廃刊や発行停止、記者等は解雇を命じられるか、連合国軍の軍事法廷で裁判が行われ、有罪者は[[アメリカ合衆国による沖縄統治|沖縄]]で強制重労働3~5年に処せられた。[[強制労働]]は主に占領軍基地づくりである。
 
:GHQによる検閲は秘匿される一方、日本政府による統制を廃止させ、言論の自由を強調した。新聞、ラジオ、雑誌の事前検閲は1948年(昭和23年)7月までに廃止され、事後検閲に切り替わり、新聞、ラジオの事後検閲は1949年(昭和24年)10月をもって廃止されたが、プレスコードによる[[言論統制]]は依然として存在した。事後検閲になってからは出版停止や回収などの経済的リスクを負うことを恐れ、記者、編集者や作家らはかえって用心するようになり、自己検閲が進んだ。が、ジャーナリズムの活動は広がりつつあった。こうして、戦後日本の世論に、大勢順応的な姿勢が形成されていった<ref name="中正樹">{{Cite web
 
|author = 中正樹
 
|url = http://www.kushima.org/is/wp-content/uploads/2014/08/Naka.pdf
 
|title = 用語としての「客観報道」の成立
 
|publisher = [[武蔵大学]]
 
|format = PDF
 
|date = 2003
 
|accessdate = 2015-07-15
 
}}</ref>。
 
;[[伝統]][[文化]]の排斥
 
:GHQは[[軍国主義]]思想の復活を防止するという名目で[[剣道]]や[[歌舞伎]]、[[神道]]など伝統文化のうち「好戦的」あるいは「[[民族主義]]的」とされるもの(例:[[国家神道]])について活動停止や組織解散や教則書籍の[[焚書]]などを行った。これらの措置の大部分は、連合国軍、特に[[アメリカ人]]による[[日本の文化|日本文化]]に対する無知、無理解を元にした措置であり、一部は占領中に、また主権回復後におおむね旧に復している。[[日本の文学|文学]]作品に[[日本神話]]について記述したものは検閲により削除された<ref>[http://www.asahi.com/culture/update/0802/SEB200908010056.html 太宰治の7作にGHQ検閲の跡、削除指示も 米大に資料] 朝日新聞 2009年8月2日</ref>。
 
:占領当初は[[靖国神社]]を焼き払ってドッグレース場にする計画が立てられており、実行までにはGHQ内で賛否両論に分かれた。が、駐日[[ローマ法王庁]]・[[バチカン]]公使代理のブルーノ・ビッテル[[神父]]の反対で中止した。
 
;[[世論]]対策
 
:「戦争についての罪悪感と、現在および将来の日本の苦難と窮乏に対する軍国主義者の責任を、日本人の心に植えつけるための宣伝計画」いわゆる[[ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム]]が組まれたとする[[江藤淳]]らの主張がある。
 
:江藤によると、1945年10月2日にGHQは一般命令第四号において「各層の日本人に、彼らの敗北と戦争に関する罪、現在および将来の日本の苦難と窮乏に対する軍国主義者の責任、連合国の軍事占領の理由と目的を、周知徹底せしめること」と勧告したというが、史的実証が不十分なまま議論が続いている<ref>江藤1989,p226</ref>。
 
:ともあれ[[民間情報教育局]]の本部はNHKの内部に設置し、日本の各所にラジオを普及させた。新聞では民間情報教育局が作成した『[[太平洋戦争史]]』と題する企画を連載させられている。この宣伝文書は、新聞連載が終了したのち、1946年に高山書院から刊行され、4月から各学校で教材と使用するように、各学校の教育長と学校長に宛ての「新学期授業実施に関する件」の中で命令が出された。社会人向けの教育には、『太平洋戦争史』を劇化したラジオ番組『[[眞相はかうだ]]』<ref group="†">[http://cgi2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi%3Fdas_id=D0009060068_00000 真相はこうだ  -NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス]</ref>を10週間にわたって放送させた。[[民間情報教育局]]は放送と同時に視聴者からの質問を集め『[[質問箱]]』という番組を作成させた。
 
:GHQは学校教育現場でのラジオ放送教育と校内放送を奨励して立ち入り監視と指導・勧告を行った。戦争末期からアメリカのコーデル・ハルは「日本人をアジア解放に殉じたと思わせてはならない」とルーズベルトに進言していた。米政府は、連合国軍の平和目的を伝え、「外国人」への尊敬を持たせ、「外国人」と交流を持つことが「honor」であるよう印象付けるように占領後の教育方針を組んでいた<ref>1944年7月1日に国務省極東局日本担当のローリーが起草した「日本・軍政下の教育制度」</ref>。
 
[[画像:Call of the Yukon in Japan 1945.JPG|220px|thumb|right|日劇小劇場で上映された外国映画「ユーコンの叫び」]]
 
:日本から連合国への敵対心をなくし、特に親英米的な国に作り替える方針の下、アメリカ軍占領区域では占領軍として進駐していたアメリカに対して好感を持つような世論誘導が行われ、その一例としてアメリカ軍の兵士が、[[ガム]]や[[チョコレート]](これらの菓子代も占領経費として計上され、日本政府が負担していた)を食糧難に喘ぐ少年たちに与えることにより、「無辜の民を殺戮した」残虐な日本軍と、「食べ物を恵んでくれた寛大なアメリカ軍」という図式を作り、[[親米]]感情の醸成を試みた。なおこのようなことはイギリス占領地域ではほとんど行われていなかった。なお報復行為を避けるため、対日戦に参加したアメリカ兵は極力日本に駐屯させないようにした。特に沖縄県では、沖縄を日本から分断させるために同種の世論操作が熱心に行われた。
 
:また同時期に[[アメリカ映画]]や[[イギリス映画]]の上映や、[[ラジオ]]における[[英語]]講座の開設<ref group="†">[http://cgi2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi%3Fdas_id=D0009060071_00000 英語会話  -NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス]</ref>など、[[メディア]]を使ったキャンペーンを展開した。否定的なイメージを取り除くために「占領軍」を「進駐軍」と呼ばせた。
 
:その一方で、アメリカ軍人やイギリス軍人を中心とした占領軍兵士による[[強盗]]や[[強姦]]、[[殺人]]などの重大事件に対しては報道管制を敷いてこれを隠ぺいし、反連合国軍感情が起こることを防いだ。占領軍兵士による性犯罪を防ぐために占領軍兵士のための[[慰安所]]を各地に作った。
 
;郵便物、電報および電話通話の検閲
 
:GHQは郵便局に検閲局を置き、市民の郵便物を検閲した。多いときで約8700人の日本人を動員し、郵便物の検閲を行わせた。学生が多かったとされる。日本人検閲官は事前に和文英訳のテストを受けレベルごとに振り分けられ、郵便局に集まった私信を英訳した上で検閲局の許可を仰いだ。特に占領軍への批判や意見、アメリカ軍やイギリス軍、ソ連軍兵士の動向のほか、復員、物価や食料難、公職追放のその後の動向、労働組合、企業の経営状態、政治や共産党の動きなどを翻訳対象とした。検閲の仕事については秘匿とされた。検閲官の給与も日本政府が負担するよう命じられた。
 
:1952年(昭和27年)3月、「連合国占領軍の為す郵便物、電報及び電話通話の検閲に関する件を廃止する法律」が国会で可決、サンフランシスコ講和条約効力発生と同時に施行された。
 
;[[戦争花嫁]]
 
:当時の欧米諸国には厳格な有色人種差別があった。特に多種多様な人種からなるにもかかわらず、当時法の下で有色人種に対する差別が保証されていたアメリカ軍では異人種間の結婚は禁止され、概ね白人と黒人からなるアメリカ兵は、被占領国民でかつ黄色人種である日本人女性に産ませた子供を認知する義務すらなかった。また[[排日移民法]]のために日本人妻子のアメリカ入国は不可能だった。
 
:1946年(昭和21年)6月29日、アメリカ軍においては[[GIフィアンセ法]]の制定により、日本人女性とアメリカ軍兵士・軍属との結婚が可能になり、1947年にはアメリカ軍兵士との国際結婚の届け出数が822組を記録する。これで認められたのはアメリカ軍兵士と日本人女性との姻戚関係のみ。
 
:1950年、アメリカ軍兵士と日本人女性間の結婚禁止令が解かれる。[[GIフィアンセ法]]が改正され、アメリカ軍兵士の妻子が人数制限なしに、アメリカに入国可能になる。
 
;焚書
 
:GHQの指令により[[東京大学大学院人文社会系研究科・文学部|東京大学文学部]]の教授陣数名が中心になり選抜した8,000冊弱の歴史関係の文献が没収された。
 
;[[宗教]]の自由
 
:第二次世界大戦まで禁止されていた[[新宗教]]が解禁され、治安維持法により逮捕されていたこれらの[[宗教]]の開祖などの指導者も釈放された。[[神道指令]]により厳格な[[政教分離]]が指示された。この結果として文化財保護政策に空白が生じ、1949年(昭和24年)に[[文化財保護法]]が制定されたが、保護対象の物の多くは、政教分離原則に抵触しかねないものばかりであった。
 
 
 
=== 占領軍への労務と物資の調達 ===
 
1945年(昭和20年)9月3日、[[SCAPIN]]2「日本政府は連合軍の必要とするすべての資材を供給しなければならない。日本政府は各地の占領軍司令官の指示された時と所に、必要な技能を備えた労働者を提供しなければならない。日本政府は占領軍の要求に従い、適切なすべての建物を提供しなければならない」が発令された。
 
:1945年(昭和20年)9月22日に米国務省から発表された「降伏後二於ケル米国ノ初期ノ対日方針」には、占領軍の必要とする物資および役務の調達に関しては、そのため日本国民に「[[飢餓]]、広範囲の[[病気|疾病]]及び甚だしき肉体的苦痛を生じない範囲」において、日本政府が提供するよう指示している。
 
:日本政府の占領軍向け支出は、1946年(昭和21年)度で一般会計予算の3分の1を超えていた。この費用は、占領軍の命令で「[[終戦処理費]]」あるいは単に「その他の費用」と粉飾して呼ばされていた<ref>J.ダワー著『敗北を抱きしめて』1999年</ref>。「終戦処理費」は約50億ドル(当時)に達した。
 
;物資とサービスの調達例
 
[[画像:Ernie Pyle Theater.jpg|220px|thumb|right|強制接収され「[[アーニー・パイル]]劇場」と改称された[[東京宝塚劇場]]]]
 
[[画像:Yasuura House.jpg|220px|thumb|right|「[[特殊慰安施設協会]]」が運営した売春施設]]
 
:連合国軍は使用する兵舎、工場、飛行場、病院、通信、倉庫、学校、宿泊施設、交通機関、ビルディング、市民の土地家屋や娯楽施設を強制接収した。さらに、占領軍の兵舎や住宅の建設工事、施設や飛行場の清掃・整備、道路、橋梁の修理、舗装あるいは軍需品の運搬作業、日常生活上のサービス、娯楽提供者、家政婦など、多岐にわたる労働力を要求した。
 
:1945年(昭和20年)10月2日に出されたSCAPIN80から例を挙げると、「建築資材、燃料、布、家具、事務機材、石鹸、ろうそく、氷」などの23の物資、「娯楽(音楽・演劇・レスリングなど)、設備の修繕、洗濯、ドライクリーニング、靴の修繕、洋服の仕立て」などの19のサービスが列挙されている。
 
:調達命令の形式がはっきりしなかった占領初期は、調達命令書を発行せず、各部隊や個人が自分の必要で勝手に注文をしてきた。物資は強制的に強奪されることも多かった。民家に押し入って勝手に物資を奪うことは普通であり、気に入った家に赤札を張って強制的に土地家屋を接収して住民を追い出した。日本人民間人を捕まえて「マネー、マネー」と言って金品を奪う例も多かったが、それら事件の報道は禁じられた。
 
:連合国軍将兵の[[買春]]のための女性調達と施設の建設も命じられており、都内の花柳界はあらかた連合国軍、その中でも関東を占領地域としていたアメリカ軍専用に接収された。
 
;連合国軍のゴミ処理
 
:1947年(昭和22年)2月27日に出されたSCAPIN1548で、日本政府に占領軍の施設と住居から出たゴミと廃棄物の収集と処理の責任を負うように命じている。
 
:命令書には、「日本帝国政府が受け取る占領軍のゴミは、収集処理の費用と同等以上の価値があるため、これは占領軍へのサービスとは認められない。それゆえに、調達命令書は一切発行しない」とある。
 
;占領初期の労務調達の実態
 
:イギリス軍やアメリカ軍は日本全国で基地や連合国軍の住居の建設を政府に命じた。また日本民間人から強制接収した住居の改造や修理、さらに接収した住居内で働かせるメイドや料理人や下男、占領軍へのサービス従事者等、占領軍が必要とする日本人労働者を差し出すよう日本政府に命じた。占領軍が日本人に給与を支払わずに済むのを良いことに、占領軍の一家屋につき複数名の日本人をメイドや下男として召し抱え、権力を誇示することが通例となっていた。占領初期は、占領軍への不安から進んで就労に応じる日本市民はほとんどいなかったため、占領軍から直接に労務提供の命令を受けた地方庁、市町村、警察を通じ、強制的に行わせていた。
 
:この間、占領軍が[[現金]]ではなく[[チョコレート]]や[[食事]]などの物品を[[賃金]]の代わりに支給したり、占領軍が日本人労働者の逃亡を防ぐために身体に「マーク」を付けるなどの事例が報告されている<ref>防衛施設行政45年の軌跡</ref>。占領軍は基本的に日本人労働者を無報酬で働かせ、代わりに日本の自治体が米一合などを配給していた<ref>「道新」10月19日</ref>。1946年(昭和21年)3月18日のSCAPIN764A、日本政府は占領軍に雇われている日本人と外国人への賃金支払いを日銀を通して行うよう命じられている。
 
;[[特別調達庁]]の設置
 
:1947年(昭和22年)5月10日 、[[特別調達庁法]](昭和22年法律第78号)が施行され、占領軍が必要とする施設(土地・建物)・物資・役務の調達・管理を任務とする[[特別調達庁]]の設立準備が始まり、9月1日に発足する。以降、労動力や物資の占領軍への調達は特別調達庁を仲介して行われることになった。労働の形態としては、日本政府が雇用し給与を支払ってやり、占領軍や占領軍の住居で働く間接雇用である。
 
:1947年(昭和22年)のアメリカ軍[[三沢基地]]建設工事開始時には、全国各地から1万5千人の労働者が集められた。総事業費は当時で1500億円の負担を強いられ、のべ300万人の日本人労働者が建設に従事させられた。
 
:朝鮮戦争勃発時には、調達局を仲介せずに、占領軍が直接に所有者から土地建物を強制接収するという混乱が、再び起こった。
 
:[[サンフランシスコ講和条約]]締結後、旧安保条約と日米行政協定に基づいて、不動産および労務以外の工事、役務、需品などについては、アメリカ軍やイギリス軍が国内業者と直接契約をすることにより調達することとなった。しかし旧日米安保条約では占領期の法的状況が継続され、陸海空軍の基地を日本中どこでも何ヵ所でも設定・維持することができ、必要な物資および労働者を調達することになった。1960年(昭和35年)の[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約|新安保条約]]によって条件が改善されたが、今でも[[在日米軍]]基地問題、[[日米地位協定]]など、多くの論争を残している。
 
 
 
=== 日本への食糧・物資援助と貸与 ===
 
第二次世界大戦後、日本本土では燃料不足や交通および流通網の損害、さらに友好国や占領地を含む諸外国からの輸入が途絶えたことなどによる食糧不足が進み、海外からの食料援助や貸与を受け入れることを余儀なくされた。日本が受けた支援は、ユニセフからの援助と、[[ララ物資]]、[[ケア物資]]の民間団体などである。アメリカ政府からはGARIOA2、EROA3に代表されるGHQを経由した物資輸出(貸与)が挙げられる。アメリカから食料支給は、日本が輸入禁止を解きアメリカの要望を受け入れたことへの見返りでもあり、[[1954年]](昭和29年)に施行されたアメリカの[[余剰農産物処理法]]の最大対象先に日本が指定されたためである<ref name=matsuoka>[http://1000ya.isis.ne.jp/1541.html ラーメンと愛国]松岡正剛の千夜千冊1541夜、2014年04月15日</ref>。しかし間もなく農業や漁業、交通網が復興したことでこのような援助は必要なくなった。
 
;初期対日方針
 
:連合国は占領目的の巨額な財政支出(例:[[終戦処理費]]として約50億ドル)と労働力を日本政府に負担させる一方で、日本の経済的困窮は日本の責任であると切り捨て、日本国民の努力でまかなうこととした。1945年(昭和20年)9月22日「降伏後二於ケル米国ノ初期ノ対日方針」には、「日本国民の経済上の困難と苦悩は日本の自らの行為の結果であり、連合国は復旧の負担を負わない。日本国民が軍事的目的を捨てて平和的生活様式に向かって努力する暁にのみ国民が再建努力すべきであり、連合国はそれを妨害はしない」との旨を明記してある。
 
:1945年(昭和20年)11月1日の「日本占領及び管理のための連合国最高司令官に対する降伏後における初期の基本指令」にも、占領軍最高司令官は「日本にいずれの特定の[[生活水準]]を維持し又は維持させるなんらの義務をも負わない」と記されている。1945年(昭和20年)12月3日の指令では「日本人に対して許される生活水準は、軍事的なものの除去と占領軍への協力の徹底にかかっている」と記載されている。
 
;食料輸入禁止
 
:占領期の日本は海外との自主的な貿易や渡航を禁じられており、海外からの寄付を含む輸出入はすべてGHQが統括していた。
 
:1945年(昭和20年)9月29日に「本土に於ける食糧需給状況」をGHQに提出。日本政府は、1945年産米の収穫量を5,500万石と予想し、穀類約 300万トン、砂糖100万トン、[[コプラ]]30万トン、[[ヤシ油]]5万トンの輸入を要請したが、極東委員会の対日食糧輸出不要論に遭い、食糧や物資の輸入は許されなかった。本国が大きな戦争被害を受けていたイギリスや中華民国、ソ連などは日本に食料を輸出する余裕はなく、またアメリカは世界的食糧不足で解放地域からの援助要請の殺到していたため対日輸出には消極的で、1946年(昭和21年)2月、「日本にはいかなる食糧も輸出できない」と回答する。
 
;食糧メーデー
 
:1946年(昭和21年)5月19日、食糧を求めるデモが東京の各地で繰り広げられた。およそ25万人の民衆が皇居前に結集。「食糧メーデー」と呼ばれる大規模なデモと発展する。民衆の食糧飢餓への批判は日本政府と天皇に向けられていたが、民主化革命を信じる民衆にとって予想外だったのは「無規律な暴民デモ」とSCAPやGHQが厳しい弾圧や声明で抑圧したことであった。
 
;米国からの食糧輸出解禁
 
:1946年(昭和21年)2月、GHQは日本への食糧輸出禁止に対し、「輸入食糧によって日本の食糧配給制度を持続しなければ、占領政策が困難な事態に直面する」とアメリカ政府に抗議した。3月にアメリカの[[アメリカ合衆国農務長官|農務長官]][[クリントン・プレスバ・アンダーソン]]の特別使節としてレーモン ド・L・ハリソン大佐を団長とする食糧使節団や、アメリカ飢餓緊急対策委貞会(委員長フーバー元大統領)が来日調査しGHQの要請を支持し、1946年(昭和21年)5~10月、日本に対して長年月に及んだ経済封鎖が解かれ、68万トンの食糧が輸出されることになった。この輸出量は、日本側が当初要望していた量の25%弱であった。
 
:1946年(昭和21年)7月から[[エロア資金]]による援助プログラムが始まり、1948年(昭和23年)からは[[ガリオア資金]]に吸収される。アメリカ政府が国内で余剰物資を買い付け、その資金は貸与である。ガリオア物資による援助の対象品目としては、米 (110,566t)、小麦 (5,059,307t)、塩 (516,312t)、砂糖 (796,956t)、缶詰 (161,935t) などの食糧に加え、パルプ・紙 (3,254t)、肥料 (3,135,360t)、化学医薬品 (10,990,988t)、牛など動物(10,179頭)。
 
:1954年(昭和29年)のアメリカの余剰農産物処理法により、日本への輸出が増え、とくに小麦は日本人の常食を米食からパン食に移行させる日米の方針により、日本が引き受けた余剰物資の約半分に上った<ref name=matsuoka/>。しかしこの頃には日本の農業や漁業、流通網は完全に回復しており援助としての食糧輸入は不要であった。なおアメリカからの援助目的の輸入総額は1961年(昭和36年)の通産省の認定では17億ドルから18億ドルとされ、1962年(昭和37年)1月、日本政府は西ドイツの返済率にならって4億9000万ドルを15年かけて返済することに同意した。
 
;ララによる支援
 
{{See also|ララ物資}}
 
:1946年(昭和21年)11月から1952年(昭和27年)6月までに行われた救援物資。アメリカ国内で[[反日感情]]の根強い中、[[サンフランシスコ]]在住の[[日系アメリカ人]]浅野七之助によって生まれた日本向けの支援団体。アメリカ国内の日系宗教団体、労組、社会事業団体等13団体により組織されていた。アメリカのみならず[[カナダ]]や[[ブラジル]]、[[アルゼンチン]]など多数の国にまたがり、多くの民間人、民間団体からの資金や物資の提供であったためその救援総額は不明であるが、推定で当時の金額で400億円とされている。
 
:南北[[アメリカ大陸]]在住の[[日系人]]が寄付の中心であったが、日本国内での物資配付にあたってはGHQの意向により日系人の関与については秘匿され、「アメリカからの援助物資」として配付されていた。ララ物資の贈呈式を記念して、12月24日を[[学校給食記念日]]としている。
 
;ケアによる支援
 
:元々は1945年に、やはり戦災に見舞われた[[ヨーロッパ]]の困窮者に食糧や衣料などの援助物資を発送するために、アメリカの22の団体が協力して設立されたNGO。日本に対する支援は1948年(昭和23年)から始まり、1955年(昭和30年)までの8年間、学童、青少年を対象に食糧、衣料、医薬品、学用品、寝具類などを無償配布した。8年間にわたった日本への援助総額は約290万ドル(当時)。
 
;ユニセフによる支援
 
:1949年(昭和24年)からユニセフミルクとユニセフ原綿や衣料品が送られ、児童の給食や衣服に加工して配給した。ユニセフからの支援は主権回復後も続き、1964年(昭和39年)までに約65億円(当時)の支援を受けた。
 
 
 
=== 住宅事情 ===
 
1945年(昭和20年)に入り激化した[[日本本土空襲|空襲]]により都市部の家屋の多くが焼失して約420万人が住居を失った上、大陸からの引き揚げ者や強制帰国を命じられた日系移民らが[[難民]]となって帰国したこと、さらにはその後[[ベビーブーム]]が到来したために住居不足に陥った。さらに、都市部のみならず、占領軍とその家族のためにビル、商業・娯楽施設、学校、病院、市民公園、住宅、土地など連合国軍に、家財もろとも強制接収された。接収対象の住民は、行くあての有無にかかわらず強制的に立ち退かされた。接収地はフェンスを張り巡らされ、日本人は立ち入り禁止となった。家財を取りに帰ろうとすれば威嚇射撃を浴びせられた。さらに戦後の極度の物資不足のため建築資材を欠いた状態で、家屋を失った国民の多くは雨露を防ぐための粗末なバラック小屋生活や仮住まい生活を強いられていた。1948年(昭和23年)になっても、約370万世帯が住居のない状態だった。
 
 
 
サンフランシスコ講和条約による日本の主権回復以降も多くの接収地域が連合国軍およびその家族に占拠・支配されたままで、元住民の元には講和条約締結から数十年たってからやっと、更地にされた上で返還された。米軍は原状復帰の義務を持っていなかった。
 
;GHQの無関心
 
:戦後の[[ドイツ]]とヨーロッパ諸国が住宅復興に重点を置いたこととは対照的に、占領期の日本の住宅復興対策は放置されていた。日本の政策を管理していたGHQは、全占領期間を通して、なぜか日本人の住宅事情に対してまったくといっていいほど関心を向けなかった。食糧事情には一定の関心を向けたにも関わらず、GHQから日本政府に出された住宅に関する指令は、物資の横流しを防ぐために建築制限が課せられたぐらいで(これによって日本にバラック小屋が乱立することになった)、もっぱら占領軍とその家族のための住宅の強制接収と建築資材供給および建設・改築命令だけで占められている。日本政府はその対応だけで予算の相当部分をつぎ込まされ、国民の住宅復旧にまで手が回らない状態だった。占領軍のための物資の確保すらままならず、また納期期限が厳格であり、政府自ら建築資材を闇市から調達するなど奔走していた。
 
:多くの日本人が家屋を失い物資に事欠いていたが、占領軍はそれらを顧みることは一切せずに、焼け残った民間人の住居や家財を接収していった。
 
:連合国軍は日本人から接収した住宅の池をプールに造り替えたり、茶室をトイレに改造するなどの改装を、日本行政機関に命じた。気晴らしにガラス窓を銃で撃ち割って日本人労働者に交換させたり、桂離宮などの歴史的建築物のペンキ塗りを命じるなどの改築命令もあった。
 
:1950年(昭和25年)には、[[連合国軍人等住宅公社法]](1952年(昭和27年)に廃止)が成立した。連合国軍人等住宅公社の運営には[[対日援助見返り資金]]が使われた。
 
;住宅営団の解散
 
:終戦直後は[[同潤会]]を前身とする[[住宅営団]]が公共住宅の建設に取り組んでいた。だが連合軍の占領下に入ってからは国策営団とみなされ、GHQから1946年(昭和21年)に閉鎖指令を受けた。同年12月に閉鎖し、それ以降は建設計画の断念を余儀なくされる。まだ建築途中の住宅については、しばらく整理委員会の管理下に取り扱われることとなった。
 
:占領期間は、航空産業はじめその他の重工業と同様、日本の建築業界にとっても著しい立ち遅れを余儀なくされた『空白の7年間』であった。
 
;住宅金融公庫法と公団住宅法等の成立
 
:1950年(昭和25年)に入り、数々の建築関連法案が議会で可決する。政府主導による政策よりも議員立法の方がGHQの認可が下りやすいという占領期の特殊な背景が手伝い、[[田中角栄]]らの国会議員が担ぎ出され、多くの法案が国会議員によって発議されるという筋道を作り、住宅復興を徐々に推進させた。同年[[日本住宅公団]]、[[建築基準法]]が誕生し、一定の文化的な生活をするための住宅の基準が定められた。占領期のこの基準が、高度経済成長を迎えてもそのまま継続されていった。
 
 
 
=== 交通事情 ===
 
;道路交通
 
:終戦と同時に自動車の国内生産が原則停止し、海外からの輸入車も途絶。バスの走行粁は1936年度の10%程度でしかなかった<ref name="400p">『富山地方鉄道50年史』(昭和58年3月28日、富山地方鉄道株式会社発行)400ページ</ref>。
 
:日本の警察再編により、再び道路交通法を作成する必要が生じたが、「警察による車検は必要ない」とGHQがいうので、運輸省の管轄となった。イギリス式の左車線道路についても、アメリカ軍の占領地域においては右側通行に変更するよう厳しい要請があったが、財政難と物資不足のため路線バスの改造や停車場の変更は不可能だと反論し、左側通行が認められた。
 
:1950年には自動車による輸送トン数が戦前の水準まで回復し、主権回復後の1952年7月1日の石油類の統制撤廃を以て自動車関係の諸統制は全て廃止された<ref name="400p" />。
 
;幻の戦災復興計画
 
:敗戦前年の1944年(昭和19年)9月、敗戦の可能性を察知した大橋武夫は、「勝っても負けても日本の復興は必要」と、災害に強い都市の復興計画を密かに主導していた。1945年(昭和20年)11月5日、大橋の立案によって、事業推進のために[[戦災復興院]](計画・土地・建築・特別建設の4局)が設立された。同年12月30日[[戦災復興計画基本方針]]<ref> 戦災復興誌 第3巻 建設省編 都市計画協会 1958 pp.1-4 </ref>を閣議決定し、[[経済安定本部]]とともに、国策として計画推進を図った。
 
:計画は画期的かつ水準の高いもので、戦前より都市部を中心に進んできていた車社会の到来を予想した上で、主要幹線道路の幅員は大都市では50メートル以上、中小都市でも36メートル以上とし、さらに必要な場合には緑地帯と防火帯を兼ねた100メートル幅での道路建設を促した。電線は地下埋設とし、また、都市公園の拡充を考え、緑地面積の目標を市街地面積の10%以上としていた<ref>『日本経済新聞』2011年8月10日朝刊「戦災復興 日本再生の記憶と遺産 ①」</ref>。
 
:戦災都市として指定されたのは全国の115都市で、復興事業へはその費用の9割を国庫補助するという極めて積極的な財政措置が取られた<ref>『日本経済新聞』2011年8月10日朝刊「戦災復興 日本再生の記憶と遺産 ①」</ref>。
 
:しかしGHQは、復旧計画に対して厳しい制限措置をとった。占領軍は、日本のインフラ整備と都市復興が進んで近代化することをまったく歓迎していなかった。せいぜい昭和初期の復旧程度しか許さず、日本の復興計画には極めて冷淡な態度をとった。そのため多くの復興工事は、主権回復まで待たなければならなかった。特に100メートル道路の建設については「戦勝国の記念道路のようだ」と許可しなかった<ref>越澤明「戦災復興計画の意義とその遺産」『都市問題』第96巻第8号</ref>。
 
:さらに1949年(昭和24年)、ドッジラインで公共費が削減され、1949年(昭和24年)6月「戦災復興都市計画の再検討に関する基本方針」が閣議決定され、115都市すべての復興計画の規模縮小を余儀なくされた。100m道路建設が実現したのは、名古屋と広島だけとなった。
 
;自動車の生産
 
:終戦直後、GHQは自動車の生産を禁止するとともに、賠償工場指定にしたが、1945年(昭和20年)9月には、年間生産数量を限定した上で国産トラックの生産が許可されることになった<ref name="sengojidousya">[http://www.erca.go.jp/yobou/taiki/siryou/siryoukan/pdf/W_A_006.pdf#search='1947%E5%B9%B46%E6%9C%88+%E9%99%90%E5%AE%9A+%E8%87%AA%E5%8B%95%E8%BB%8A+%E8%A8%B1%E5%8F%AF' 戦後復興期の自動車産業 産業復興から新産業政策まで]</ref>。1947年6月、1500CC以下の小型車の生産が在庫部品で300台の数量限定で許可され<ref name="syouwa" /><ref name="sengojidousya" />、同年8月には自動車の輸出が再開された<ref name="sengojidousya" />。1949年10月、すべての乗用車の生産制限が解除された<ref name="sengojidousya" />。
 
;鉄道
 
[[画像:Gate for AMP Only.JPG|thumb|220px|[[東京駅]]にあった連合軍専用出入口]]
 
[[画像:Mitaka Incident at Mitaka Station.jpg|220px|thumb|right|「[[三鷹事件]]」の現場]]
 
[[画像:JAL Aircraft Mokusei-go.JPG|220px|thumb|right|日本航空の[[マーチン2-0-2]]]]
 
:占領軍は、鉄道の支配権も確保した。優等客車、食堂車、寝台車を重点において[[連合軍専用列車]]とし、約10%を接収した。また国鉄の貨物輸送量の10%以上を占領軍に優先的に輸送すべく命令した。駅舎に連合国軍専用の窓口と出入り口を設け、日本人利用者との差別化を図った。
 
:戦災の被害に加えて占領軍に接収されたため日本の鉄道輸送力は著しく低下し、日本政府は急いで復興作業に取り組もうとした。
 
:日本では、第一次世界大戦終結当時から、鉄道電化によって石炭エネルギーに代えようという計画があり、戦後の[[新幹線]]計画の基となった「[[弾丸列車計画]]」すなわち主要幹線および山岳線区の大規模な電化計画が立てられ、すでに一部で工事を進めていたが、軍部に反対されて中断していた。空襲被害によって発電所や変電所が破壊されると交通がマヒしてしまうというのがその理由だった。平和国家としての再出発に際し、政府はこの計画を復活させ、戦前に着工していたトンネルを利用して長期的な新幹線計画を再編することになった。
 
:ところがGHQはここでも厳しい制限を課し、電化工事のほとんどが禁止された。GHQは新車両の製造にも制限を加え、フィリピンからアメリカ製SLを移送させたりした。GHQは日本にもディーゼル化を勧めた上で日本にアメリカ製の在庫のディーゼル機関車を購入させようとしていた。ただし、これは日本の発展を阻害するというよりもむしろ、GHQが電化計画自体に理解がなかったことが原因となっていたようである。オーストラリアでは鉄道はほとんど使用されていなかったし、イギリスやアメリカではまだディーゼル機関車が主流だった。
 
:電化による動力分散を計画していた日本にとっては、アメリカ製SLもディーゼル機関車もありがた迷惑であったが、電化計画と新幹線計画は主権回復後を待たざるを得ず、それまでの期間はSLで場を繋いでやり過ごすことにした。
 
:1949年(昭和24年)7月、国鉄初代総裁[[下山定則]]が謎の死を遂げる[[下山事件]]が発生、一か月以内に[[三鷹事件]]、[[松川事件]]が連続発生している。
 
;航空
 
:1945年(昭和20年)[[10月10日]]に終了した[[緑十字飛行]]を最後に、連合国令により日本企業および政府による航空機の開発および運航は全面的に禁止され、さらに[[大日本航空]]によって定期運航されていた[[バンコク]]や[[新京]]、[[サイパン]]などへの国際線の運航も全面的に禁止された。
 
:1947年以降に[[東京国際空港]]などに[[パンアメリカン航空]]や[[英国海外航空]]、[[ノースウェスト航空]]や[[カナダ太平洋航空]]などの定期旅客および貨物便の乗り入れが開始されたものの、[[1951年]](昭和26年)に[[フラッグキャリア]]の[[日本航空]]が運航を開始するまで、日本企業による国内及び国際線の定期旅客及び貨物便の運航は禁止されていた。しかしこの際も委託先のノースウェスト航空のアメリカ人運航乗務員による運航で、日本人の運航乗務員による運航は、[[1953年]]の日本航空株式会社(特殊会社)設立に伴う自主運航開始まで行われなかった。
 
;船舶
 
{{節stub}}
 
:日本人の商用による海外渡航は全面的に禁止され、戦前に[[日本郵船]]や[[商船三井]]などによって行われていた[[上海]]や[[サンフランシスコ]]、[[マルセイユ]]や[[サントス]]などへの定期旅客便の運航も禁止された。
 
 
 
=== 占領軍等の犯罪 ===
 
{{See also|占領期日本における強姦}}
 
連合軍の統治下、外地から引き揚げようとしていた民間人が、満州国や日本の占領地域に侵略してきたソ連兵や朝鮮人や中国人から、虐殺や強姦、強制拉致、監禁、強奪などの激しい被害を受け続けていた。また日本から分断されていた[[沖縄県]]だけでなく、日本本土内においてもアメリカ軍兵士による夥しい暴行、殺人、強奪、レイプ事件が日常的に発生していた。占領初期の1か月、[[神奈川県]]下だけで2900件の強姦事件が発生し、神奈川県では女学校を閉鎖するなどの処置をとって強姦の防御に努めた。7年の占領期間中、本土だけでも少なくとも2536件の占領軍による殺人と3万件以上の強姦事件が発生したとされている。
 
 
 
イギリス軍やオーストラリア軍を中心としたイギリス連邦の占領地域でも、「狩り」と称して日本女性がジープ等で拉致され、女性が助けを求める声がキャンプ周辺から絶える日がなかったと記録されている。
 
 
 
ソ連の占領下にあった北方領土内では、1947年(昭和22年)まで日本人が本土に移住することが許されず、約1万7千人の日本人が無防備のまま、ソ連兵によって殺害され、強姦や強奪の被害にさらされていた。多くの日本兵は、ポツダム宣言に反して帰還を許されず、現地でリンチにあったり虐殺され、シベリア、朝鮮半島、中国などに抑留され、強制労働を課せられた。
 
;特殊慰安施設
 
{{See also|特殊慰安施設協会}}
 
:アメリカ軍が日本に進駐したわずか最初の10日間に、神奈川県下で1336件の強姦事件が発生した。[[沖縄戦]]でも目を覆うような強姦事件が繰り返されており、日本政府はそれらの被害報告を受け、アメリカ兵の強姦対策として銀座に慰安施設を設け、特殊慰安婦を集めた。同年9月28日、今度は連合国軍医総監から東京都衛生局に対し、慰安施設の増設を指示された。9月の同じ時期、[[千葉県]]と神奈川県でもアメリカ軍司令部から慰安所を設けるように要請を受けた。東京都や神奈川県の慰安所では、開業前日にアメリカ兵が大挙して押し寄せ、無差別に強姦を行った。神奈川県の慰安所では、抵抗した慰安婦をアメリカ兵が絞殺する事件も起こっている。また中国地方においてもイギリス連邦軍兵士向けの慰安施設を設けたほか、性病が蔓延したためイギリス軍による性病対策の講義が開かれている。
 
:慰安所設置によって、確かに強姦事件は減少したと考えられている。実際に特殊慰安施設協会が廃止される前の強姦事件と婦女暴行の数は1日平均数は40件だった一方、廃止後の強姦事件と婦女暴行の数は1946年前半の1日平均数で330件に増えている。
 
:1945年(昭和20年)の12月25日、東京都の渉外部長(占領軍司令部の命令にサービスを提供する部署)だった[[磯村英一]]は、SCAPの将校から呼び出され、当時焦土と化していた「ヨシワラ」に宿舎を造営して復活させ、占領軍の兵隊のための「女性」を集めるよう命令された。東京都はすでに女性や子供をできるだけ田舎に避難させる政策をとっていたが、占領軍の命令には抗う術もなく、磯村自ら焼け跡地区で困窮生活をしていた一般女性に、食糧を支給すると約束して集める苦渋の決断を下した。都内の焼け残った花柳界も東京をはじめとする関東地域の占領業務に当たっていたアメリカ軍専用に接収された。
 
;レイプ記録に日米間の差異
 
:アメリカ軍の[[ロバート・アイケルバーガー]]将軍は、[[特殊慰安施設協会]]に乗り込んだ数百人のアメリカ軍兵士が女性たちをレイプしたことを[[ダグラス・マッカーサー|マッカーサー]]元帥と話し合ったことや、アメリカ軍兵士による日本女性への暴行を防ぐために日本人が設立した自警団を武装した戦闘車両で鎮圧し、自警団幹部らを長期間にわたって刑務所に監禁したことなどを回顧録に残しているが<ref>Terese Svoboda [http://www.japanfocus.org/-terese-svoboda/3148 U.S. Courts-Martial in Occupation Japan: Rape, Race, and Censorship - See more at: http://www.japanfocus.org/-terese-svoboda/3148#sthash.J2EixRRr.dpuf] The Asia-Pacific Journal: Japan Focus</ref>、占領初期のGHQによる1945年9月の「月例報告」では、「日本人はアメリカ兵に協力的であり、占領は秩序正しく、流血なしで行なわれた」などと記載されている。また、GHQ外交局長W.J.シーボルドは「アメリカ兵たちはジャップの女なんかには、手を出す気もしない」と記していた。『敗北を抱きしめて』の著者[[ジョン・ダワー]]も、アメリカ軍自身が日本人慰安婦および施設を要請したことについては言及していない。
 
:他方、特別高等警察(1945年(昭和20年)10月4日に解散させられ、記録は焼却、一部没収済み)の現存するファイルによれば、1945年8月30日から9月10日の間、占領軍による強姦事件は9、ワイセツ事件6、警官に対する事件77、一般人に対する強盗・略奪など424件の記録が残っている。
 
:[[防衛施設庁|調達庁]]の資料では、7年の占領期間中にアメリカ軍兵士に殺された者が2536人、傷害を負った者が3012人とある。警察資料では、アメリカ軍兵士が日本人女性を襲った事件は2万件記録されている。なおイギリス軍兵士やそれ以外の将兵による事件記録は残されていない。
 
;緘口令
 
:1945年(昭和20年)9月19日、GHQから[[プレスコード]]が発令され、占領軍の犯罪行為の報道が日本のメディアから消えた。検閲の存在そのものにも緘口令が敷かれていた。連合国軍兵士の凶悪犯罪は「大男」と記すことによって検閲を免れていたことが、暗黙の了解となっていた。
 
;私生児
 
:アメリカ軍兵士による強姦などにより「[[GIベビー]]」と呼ばれる占領軍兵士と日本人女性との混血児が大量に生まれる。混血児の多くは父親が誰か分からず、むろん母親からも歓迎されず、母親の親族や地域社会からも排斥されたため、線路脇などに遺棄されたり、嬰児の遺体を電車の網棚に遺棄するなどされていた。1948年(昭和23年)には混血児に対する民間の救済施設「[[エリザベス・サンダースホーム]]」が設立された。しかし同様の施設を日本政府やアメリカ軍が作ることはなかった。同1948年(昭和23年)に[[優生保護法]]が施行され、戦前は禁止されていた人工妊娠中絶が法的に認められた。1953年(昭和28年)に厚生省が行った調査によると、国内で4972人のGIベビーが確認されている。
 
{{See also|二日市保養所}}
 
;朝鮮人の犯罪
 
:日本の敗戦を受けて、日本の領土であった朝鮮半島人等の中には「戦勝国民」を自称する者が多く現れ、出稼ぎ先の日本国内において数々の犯罪を犯した。彼らは組織的かつ広範囲に、警察を襲撃し、土地家屋や鉄道などの公共施設を強奪し、市民に暴行をふるい、闇市に関与した。市民社会でも恒常的に、殺人、強盗、強姦事件が多発した。しかし朝鮮人や中国人の犯罪の事実は、SCAPの検閲によって控え目な報道をするように命じられていた。GHQの資料によると、日本国内だけで最低4000人の日本人市民が朝鮮人の犠牲となり殺害されたとある。これは氷山の一角に過ぎないという説もある。吉田首相は朝鮮人の犯罪傾向について言及しつつ、朝鮮人は日本の再建に利さないため帰国させるべきとマッカーサーに書簡で訴え、大半の朝鮮人を帰還させた。
 
:日本が去った朝鮮半島南部に建国されたばかりの[[大韓民国]]の李承晩は、「李承晩ライン」を引いて竹島を占拠した上で日本人漁民を殺害・抑留し、抑留者の返還と引き換えに重大犯罪を犯した朝鮮人472人を放免し、さらに日本にとどまった朝鮮人に日本在留特別許可を与えるよう要求した。
 
;[[サンフランシスコ講和条約]]締結以降
 
:サンフランシスコ講和条約19条によって、「日本国と日本国民は、戦争から生じ、又は戦争状態が存在したためにとられた行動から生じた連合国及びその国民に対するすべての請求権を放棄し、占領軍又は当局の存在、職務遂行又は行動から生じたすべての請求権を放棄。占領時代の指令や法律下での連合軍の作為・不作為による行為は民事又は刑事の責任に問ういかなる行動もとらない」とされた。
 
:連合国軍による占領終了後の1958年においても、アメリカ軍兵士の日本における一年間の犯罪は公式に記録されていたものだけでも9998件、婦女暴行事件の件数は1878件だった。
 
:1971年(昭和46年)までアメリカ軍軍政下にあった沖縄県でのアメリカ軍人・軍属による刑事事件は、1953年(昭和28年)から1971年(昭和46年)までの18年間で1万5220件(このうち死亡222件、傷害560件)が記録されている。沖縄が日本に返還された後も沖縄県でのアメリカ軍人・軍属による刑事事件は多発している。
 
:1961年(昭和36年)11月11日、日本政府は『[[連合国占領軍等の行為等による被害者等に対する給付金の支給に関する法律]]』を定め、「連合国占領軍等の行為等により負傷し、又は疾病にかかつた者、及び連合国占領軍等の行為等により死亡した者の遺族」に対し、日本政府から給付金を支給するように法制化した<ref>http://hourei.hounavi.jp/hourei/S36/S36HO215.php</ref>。
 
 
 
=== 領土 ===
 
;[[外地]]など[[領土]]の剥奪
 
:[[ポツダム宣言]]には「日本國ノ主權ハ本州、北海道、九州及四國竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ」とされ、日本が統治していた地域のうち、[[外地]]([[日本統治時代の台湾|台湾]]・[[日本統治時代の朝鮮|朝鮮]])・[[租借地]]([[関東州]])・[[委任統治|委任統治区域]]([[南洋群島]])を失った。
 
:また[[内地]]についても、ソ連の侵攻によって[[南樺太]]・[[千島列島]]が占領され、[[SCAPIN]]第677号では[[北緯30度線|北緯30度]]以南の[[南西諸島]]および[[小笠原諸島]]、[[伊豆諸島]]についても暫定的に施政権が停止された(後に施政権を回復)。
 
:旧領土の放棄の時点はいつであるかについては降伏当初より論点であったが<ref>帝国議会議事録 第89回 貴族院 昭和二十年勅令第五百四十二号(承諾を求むる件)特別委員会1号(昭和20年11月29日)発言者番号17以降</ref>、ポツダム宣言受諾は義務の発生であって領土権の喪失は(現実には台湾や朝鮮が軍事占領され別の国として取り扱われており、連合国の意向次第で流動的であるが)法律上の立場としては領土の帰属が確定する時点(すなわち講和条約締結時点)と解釈されていた。結果として[[サンフランシスコ講和条約]]、[[日本国と中華民国との間の平和条約|中華民国]]との平和条約により朝鮮・台湾・南樺太・千島列島の領土権を正式に放棄した(台湾ならびに[[北方領土問題|南樺太および千島についての帰属]]は未定)。
 
;戦時占領下の国々
 
:第二次世界大戦で日本軍が連合国軍(英、米、蘭、仏)を追い出し、その後釜に座る形で日本軍の占領下に置かれた国々、もしくは独立に向かった[[東南アジア]]の国々は、日本軍が敗れた後、宗主国である勝戦国(英、米、蘭、仏)が再度植民地とした。しかし、これらの国からの独立を目指して戦い続けていた独立指導者が中心となって、各地で独立宣言が行われた。連合国はほとんどのアジアの植民地の独立を認めず軍隊を送り込んできたため、独立戦争が勃発した。日本本土に引き上げず、現地に留まっていた[[残留日本兵]]が協力するケースもあった。これらの戦争によって1960年代までにほぼ全ての植民地が独立を勝ち取ったが、イギリスと[[ポルトガル]]は[[1990年代]]後半に至るまでアジアに植民地を持ち続けた。なお現在に至るまで[[フランス]]は[[南太平洋]]に植民地を持ち続けている。
 
;朝鮮半島
 
:ポツダム宣言受諾後、朝鮮総督府政務総監の遠藤柳作は民衆保護のため朝鮮人による政府樹立を、人望のあった呂運亨に要請した。呂は[[8月15日]]、ただちに朝鮮建国準備委員会(建準)を設置し、朝鮮総督府から行政権の事実上の移譲を受けることとなり、翌月の[[9月6日]]には[[朝鮮人民共和国]]として建国宣言を行った。発表された閣僚名簿には[[金日成]]と[[李承晩]]が含まれていた。[[9月8日]]、朝鮮半島に上陸した連合国軍(実質的にアメリカ軍)は臨時政府を認知せず、アメリカ軍政庁を設置した。その後、臨時政府はアメリカとソ連の冷戦により短期間で瓦解した。また[[テヘラン会談]]、[[ヤルタ会談]]によって数十年間連合国の信託統治下に置かれることになっていたが、信託統治プランについても冷戦の影響で決裂した。またソ連は朝鮮半島の統一を望まず、アメリカも朝鮮半島の分断を容認した。[[1948年]][[8月15日]]に[[李承晩]]を大統領として[[大韓民国]]が、[[9月9日]]に[[金日成]]を国家元首として[[朝鮮民主主義人民共和国]]が建国された。
 
:李承晩は[[大韓民国]]を建国させてすぐに、「戦勝国」としての地位を連合国に要求し、さらにまだ連合国の部分占領下にあった日本に対馬の領有を要求したが、これらの荒唐無稽な要求は連合国によって却下され、さらに1949年4月に、連合国は[[大韓民国]]の[[国際連合|国連]]加盟を否決するに至った。また朝鮮戦争時に、アメリカ経由の韓国からの要望として、外務省から[[山口県]]に6万人規模の亡命政権設置を打診する電報があった。施設等の用意も依頼された<ref>[http://www.nids.mod.go.jp/publication/mh_tokushu/pdf/mh012.pdf 庄治潤一郎 「朝鮮戦争と日本の対応—山口県を事例として—」] </ref>。山口県の田中知事は「わが県民にも半月以上、米の配給が滞っている。朝鮮の仮政府受け入れなんて、とんでもない話である」としてGHQ現状の報告をしたと語っている<ref>山口県史 資料編 現代2</ref>。またGHQへの予算支援のため「山口県に20の避難キャンプを作り、臨時テント1か所に200人ずつ、合わせて250のテントに5万人を受け入れる」といった計画をGHQへ提出している<ref>[http://world.kbs.co.kr/japanese/news/news_Po_detail.htm?No=55261 李承晩政権 韓国戦争勃発直後に日本への亡命を打診か|KBS WORLD RADIO]</ref>。亡命政権候補地は他にハワイなども候補地となっていた<ref>[http://www.sankei.com/west/news/150919/wst1509190081-n3.html 朝鮮戦争直前「韓国の亡命政権、難民に備えよ」…国防意識高めた山口県 楽観する国とは別に情報収集|産経WEST]</ref>。
 
 
 
:[[サンフランシスコ講和条約]]では、日本が放棄すべき地域として「済州島,巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮」と規定。条約の草案が作られる段階で、韓国政府は独島(竹島)もこれに加えるように要求していたが、ラスク極東担当国務次官補から梁大使へ、竹島に関する韓国の主張は認められないとする書簡([[ラスク書簡]])が送られ、韓国の主張は退けられた。
 
:なお国際法上の朝鮮半島の正式な独立は、サンフランシスコ講和条約発効日である。
 
:[[サンフランシスコ講和条約]]発効直前の1952年(昭和27年)1月18日、[[大韓民国]]は国際法に反して「[[李承晩ライン]]」を一方的に設定し竹島を武装占拠した。多くの日本漁船が拿捕され、日本人漁民の44人が死傷し、3,929人が抑留された。船や漁獲物は強奪された<ref name="isibashigeru">[http://ishiba-shigeru.cocolog-nifty.com/blog/files/H18TakeshimaRPT.pdf 竹島領有権問題について] 自民党領土に関する特別委員会委員長[[石破茂]] 2006年5月16日</ref>。
 
;北方領土
 
:終戦間際にソ連軍によって侵略され、その後も占領された北方領土については、アメリカは「[[サンフランシスコ講和条約]]は[[ヤルタ会談]]の密約を放棄したものである(ジョン・フォスター・ダレス国務長官)」という立場をとっている。
 
 
 
== キーパーソン ==
 
歴史学者ハワード・B. ショーンバーガーは戦後日本の占領政策の[[キーパーソン]]として[[ダグラス・マッカーサー]]、[[ジョセフ・グルー]]、[[トーマス・アーサー・ビッソン]]、[[ジェームス・S・キレン]]、'''[[アメリカ対日協議会|ハリー・カーン]]''' (Harry F. Kern)、[[ウィリアム・ヘンリー・ドレイパー・ジュニア]]、[[ジョゼフ・ドッジ]]、[[ジョン・フォスター・ダレス]]の8人を挙げている<ref>Howard B. Schonberger,Aftermath of War: Americans and the Remaking of Japan, 1945-1952.翻訳:ハワード・B. ショーンバーガー『占領1945~1952―戦後日本をつくりあげた8人のアメリカ人』[[宮崎章]]訳、時事通信社、1994</ref>。
 
 
 
== マッカーサーへの手紙 ==
 
占領期を通じて、内閣総理大臣を始めとする日本国民から連合国軍への手紙は50万通に及んだ。手紙の内容は[[在日韓国・朝鮮人]]送還を望むもの、[[復員]]に関する要望・嘆願、[[天皇制]]や[[民主主義]]に関する意見、などであった。
 
;吉田茂首相からの手紙「在日朝鮮人の全員送還を望む」
 
[[吉田茂]]首相は在日朝鮮人の送還費用は日本政府が負担するとした上で、将来世代の負債となること、日本経済の再建に貢献しないこと、犯罪割合が高く経済法規を破る常習犯であり投獄者が常に7,000人を超えることなどから朝鮮人全員の送還を求めた。
 
<blockquote>
 
;市民による書簡の一例
 
:一九四六年三月三〇日 ○○行平 三重県志摩郡[[磯部村 (三重県)|磯部村]]
 
:拝啓 小生昨年以来度々低級な投書を致して御迷惑をお掛け申せし処此の度は却つておとがめも無く礼状を頂きまして誠に限りなき御同情に感謝致して居ります。つきましては最近日本政府の発表しました憲法改正草案は私の今後の生活に重大関係を有しますので参考のため意見を申上げて見たいと存じます。
 
:天皇制の存続に就いて私は絶対反対では有りませんが日本政府の今日の計画のみでは甚だ危険と思つて居ります。何故かと申せば天皇は従来と同じく政治責任者或は官吏の忠誠心に対する確認の機関として依然日本天皇の特権が元首に於て遂行されるからであります。故に結局狂人でない限り時勢の波に乗つて政権を獲得すれば天皇も同じく時勢の動向に左右されて単純なる忠誠心に元首としての役割を制約されるからであります。(以下略)
 
</blockquote>
 
 
 
== 離日後のマッカーサーの米議会証言 ==
 
;[[1951年]](昭和26年)[[4月19日]]、[[ワシントンD.C.]]の[[アメリカ合衆国議会合同会議|上下院の合同会議]]におけるマッカーサー離任演説より<ref>[http://aboutusa.japan.usembassy.gov/pdfs/wwwf-majordocs-macarthur.pdf [[アメリカ合衆国議会|連邦議会]]での離任演説(1951年)]([[駐日アメリカ合衆国大使館|在日米国大使館]]ウェブサイト-About the USA)</ref>
 
:「(前略)戦後、日本国民は、近代史に記録された中では、最も大きな改革を体験してきました。見事な意志と熱心な学習意欲、そして驚くべき理解力によって、日本人は、戦後の焼け跡の中から立ち上がって、個人の自由と人間の尊厳の優位性に献身する殿堂を日本に打ち立てました。そして、その後の過程で、政治道徳、経済活動の自由、社会正義の推進を誓う、真に国民を代表する政府が作られました。
 
:今や日本は、政治的にも、経済的にも、そして社会的にも、地球上の多くの自由な国々と肩を並べています。世界の信頼を裏切るようなことは2度とないでしょう。最近の戦争、社会不安、混乱などに取り巻かれながらも、これに対処し、前進する歩みをほんの少しも緩めることなく、共産主義を国内で食い止めた際の見事な態度は、日本がアジアの趨勢に非常に有益な影響を及ぼすことが期待できることを立証しています。私は占領軍の4個師団をすべて朝鮮半島の戦場に送りましたが、その結果、日本に生じる力の空白の影響について、何のためらいもありませんでした。結果はまさに、私が確信していた通りでした。日本ほど穏やかで秩序正しく、勤勉な国を私は知りません。また、人類の進歩に対して将来、積極的に貢献することがこれほど大きく期待できる国もほかに知りません。」
 
:「(中略)私は今、52年にわたる軍務を終えようとしています。今世紀に入る前に私が陸軍に入隊したとき、それは私の少年時代の希望と夢が成就した瞬間でした。私がウェストポイント(陸軍士官学校)で兵士になる宣誓をして以来、世界は何度も向きを変え、希望や夢はずっと前に消え失せてしまいました。しかし、当時兵営で最も人気が高かったバラードの一節を今でも覚えています。それは誇り高く、こう歌い上げています。『老兵は死なず。ただ消え去るのみ』と。
 
:そしてこのバラードの老兵のように、私もいま、私の軍歴を閉じ、消え去ります。神が光で照らしてくれた任務を果たそうとした1人の老兵として。
 
:さようなら。」
 
;1951年5月3日、米国議会上院の軍事外交合同委員会の質疑応答より
 
:" Yes sir. In the Pacific we bypassed them. We closed in.
 
:You must understand that Japan had an enormous population of nearly 80 million people, crowded into 4 islands. It was about half a farm population. The other half was engaged in industry.
 
:Potentially the labor pool in Japan, both in quantity and quality, is as good as anything that I have ever known. Some place down the line they have discovered what you might call the dignity of labor, that men are happier when they are working and constructing than when they are idling.
 
:This enormous capacity for work meant that they had to have something to work on. They built the factories, they had the labor, but they didn't have the basic materials.
 
:There is practically nothing indigenous to Japan except the silkworm.
 
:They lack cotton, they lack wool, they lack petroleum products, they lack tin, they lack rubber, they lack a great many other things, all which was in the Asiatic basin.
 
:They feared that if those supplies were cut off, there would be 10 to 12 million people unoccupied in Japan. Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security.(後略)"
 
 
 
== 年表 ==
 
;凡例
 
*月日 日本に関係のある出来事、日本国内の出来事。
 
**月日 直接日本には関係しない世界の出来事。
 
 
 
=== 1945年(昭和20年) ===
 
[[画像:USS Missouri (BB-63) at anchor, circa in August 1944.jpg|180px|thumb|[[戦艦]][[ミズーリ (戦艦)|ミズーリ]]]]
 
[[画像:Shigemitsu-signs-surrender.jpg|180px|thumb|[[東京湾]]に停泊する戦艦ミズーリ上で[[降伏文書]]調印。中央で署名を行っているのは[[重光葵]][[外務大臣 (日本)|外務大臣]]、左後方に侍しているのは[[加瀬俊一 (1925年入省)|加瀬俊一]]。]]
 
*[[8月14日]] 日本政府が[[ポツダム宣言]]を受諾する旨、中立国スイスを通じて通告し、勅語を発布する。
 
*[[8月15日]] 国民に向けての[[玉音放送]]。[[支那派遣軍]]と[[南方軍 (日本軍)|南方軍]]がこれに抗議。[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍は攻撃停止。しかしアメリカ軍はこの日まで攻撃を続けていた。[[鈴木貫太郎内閣]]、総辞職。
 
*[[8月16日]] 日本政府、[[大日本帝国軍|陸海軍]]に停戦を命じる([[中国大陸]]では9月半ばまで[[中華民国軍]]と戦闘が続く)。[[ソビエト連邦]]軍が[[ヤルタ会談|ヤルタ協定]]に基づいて南[[樺太]]と[[満州]]へ侵攻を開始し、日本軍抗戦(停戦令出る)。
 
*[[8月17日]] [[東久邇宮内閣]]、成立。天皇、支那派遣軍と南方軍に停戦の勅旨。連合国軍の許可を得て皇族を[[サイゴン]]、[[シンガポール|昭南]]、[[南京市|南京]]・[[北京市|北京]]、[[新京]]に派遣。
 
**[[8月17日]] [[インドネシア]]が[[オランダ]]から独立宣言([[インドネシア独立戦争]] - [[1949年]])。
 
*[[8月18日]] ソ連軍が[[千島列島]]へ侵略を開始。[[占守島]]で日本軍交戦(21日停戦令出る)。[[満州国]]消滅。
 
*[[8月19日]] [[関東軍]]とソ連極東軍が停戦交渉開始。[[フィリピン]]に停戦命令が届く。[[河辺虎四郎]]参謀次長と米サザランド参謀長による降伏手続打合せの会合が[[マニラ]]で行われる。
 
*[[8月26日]] [[終戦連絡中央事務局]]設置。この頃、満州での戦闘が終わる。
 
*[[8月28日]] テンチ[[アメリカ陸軍|米陸軍]]大佐以下150名が[[横浜市|横浜]]に初上陸し、横浜に連合国軍本部を設置。以後、全国で人員と物資の上陸相次ぎ、進駐兵力は最大で43万人となる。[[特殊慰安施設協会]]が設立される。
 
**[[8月28日]] [[中華民国]]で[[中国国民党]]の[[蒋介石]]らと[[中国共産党]]の[[毛沢東]]・[[周恩来]]が会談([[10月10日]]に[[双十協定]]が成立)。
 
*[[8月30日]] [[ダグラス・マッカーサー|マッカーサー]]・[[アメリカ陸軍]][[元帥]]が[[神奈川県]][[厚木飛行場]]に到着。車両で当初の予定地である[[葉山御用邸]]を変更し、[[長後街道]]、[[国道1号]]経由で横浜に入る。
 
*'''[[9月2日]]''' '''日本政府が[[戦艦]][[ミズーリ (戦艦)|ミズーリ]]で[[降伏文書]]調印'''。[[第二次世界大戦]]が正式に終結。通称「[[三布告]]」発令。GHQ指令第一号(陸海軍解体、軍需生産の全面停止等)が出る。[[朝鮮]]の日本軍に対し、北緯38度を境に対米ソ降伏を命令。[[台湾島]]は中華民国、旧満州国と千島列島・南樺太は[[ソビエト連邦]]、[[南洋諸島]]はアメリカがそれぞれ併合または信託統治へ。[[東南アジア]]占領地は旧宗主国により植民地へ。
 
**[[9月2日]] [[ベトナム]]が[[フランス]]からの独立を宣言。
 
*[[9月3日]] フィリピンの日本軍降伏。重光・マッカーサー会談により間接統治の方向性を確認。
 
*[[9月5日]] 第88回帝国議会臨時会議を召集。ソ連軍が[[歯舞群島]]までを不当占領(後に[[北方領土問題]]となる)。[[瀬島龍三]]など関東軍首脳部がハバロフスクへ送られ、将兵57万人が[[シベリア抑留]]となる。
 
*[[9月6日]] 帝国議会がマッカーサーに対し「[[天皇]]と日本政府の統治の権限は貴官の下に置かれる」と通達。
 
*[[9月8日]] 連合国軍、[[東京都|東京]]に進駐する。以後、都内の建物600箇所以上を接収。
 
*[[9月10日]] 「言論及ビ新聞ノ自由ニ関スル覚書」 ([[SCAPIN]]-16) 発令。連合国軍が[[検閲]]を始める。『在日朝鮮人連盟』中央準備会が設立される。
 
*[[9月11日]] マッカーサー、東條英機らA級戦犯容疑者39人の逮捕を命令(東條、自決に失敗)。
 
*[[9月13日]] [[大本営]]を廃止。
 
*[[9月14日]] GHQ、[[同盟通信社]]に業務停止命令。
 
*[[9月15日]] 東京・日比谷の[[第一生命保険|第一生命]]相互ビル(現、DNタワー21、第一・農中ビル)を接収。[[民間検閲支隊]]長、同盟通信社の海外放送禁止、100%の検閲実施を表明。
 
*[[9月16日]] '''連合国軍本部が横浜から第一生命相互ビルに移転'''。
 
*[[9月17日]] マッカーサー、東京の本部に入り、日本進駐が順調なことから「進駐兵力は20万人に削減できる」と声明(米国の許可無く発言し、[[ハリー・S・トルーマン|トルーマン]]大統領が疑念を抱く)。
 
*[[9月18日]] GHQ、[[朝日新聞]]に対する2日間の発行停止を命令 (SCAPIN-34)
 
*[[9月19日]] [[プレスコード]]が出される。
 
*[[9月20日]] 緊急勅令『「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ發スル命令ニ關スル件』公布、即日施行。
 
*[[9月22日]] 放送に対する検閲、ラジオコード(SCAPIN-43)を指令。米国政府、「降伏後ニ於ケル米國ノ初期ノ對日方針」発表。
 
*[[9月27日]] [[昭和天皇]]、マッカーサーを訪問(直立不動の天皇と楽な姿勢のマッカーサーの2人が並んだ写真が新聞に公開された)。日本の漁獲水域を指定、いわゆる'''[[マッカーサー・ライン]]'''(北緯45度東経145度から北緯45度30分東経145度、歯舞群島を避けて東経150度、北緯26度東経150度、北緯26度東経123度、北緯32度東経125度、対馬を経て北緯40度東経135度、北緯45度東経140度を結ぶ線内)。
 
*[[9月29日]] 内務省による[[検閲]]制度の廃止を指示。
 
*[[9月30日]] 進駐軍、「朝鮮人連盟発行の鉄道旅行乗車券禁止に関する覚書」を通達。
 
*[[10月1日]] 進駐軍、「連合国、中立国、敵国の定義に関する覚書」を通達。朝鮮・台湾など旧植民地出身者が日本国籍から離脱。<!--
 
*[[10月2日]] '''連合国軍最高司令官総本部(GHQ/SCAP)設置'''。一般命令第4号により日本人に敗北と戦争に関する罪、責任などを周知徹底せしめることを勧告([[ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム]])。
 
存在の真偽について争いあり-->
 
*[[10月4日]] '''自由の指令'''(「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の除去の件(覚書)」、「政治警察廃止に関する覚書」)発令。“絶対主義天皇制批判者への[[治安維持法]]適用と処罰”を明言した[[内務大臣 (日本)|内務大臣]][[山崎巌]]の[[罷免]]を要求。同日、マッカーサーは東久邇内閣の[[国務大臣]]である[[近衛文麿]]に憲法改正を示唆。
 
*[[10月5日]] 東久邇宮内閣は内務大臣・山崎巌の罷免を不信任と受け総辞職。
 
*[[10月8日]] 進駐軍、「自由の指令」(思想・言論規制法規の廃止、内務大臣らを罷免、特高の廃止、政治犯の釈放等)思想・言論規制法規の廃止<ref name=ndlhistory01/>。
 
*[[10月9日]] 進駐軍が[[朝日新聞]]、[[毎日新聞]]、[[読売新聞|讀賣報知]]、[[日本経済新聞|日本産業経済]]、[[東京新聞]]の在京5紙に対して[[事前検閲]]を開始<ref name=ndlhistory01>[http://www.ndl.go.jp/constitution/etc/history01.html 詳細年表 1 1939年9月1日~1945年10月25日] [[国立国会図書館]] </ref>。
 
*[[10月9日]] [[幣原喜重郎]]内閣発足。
 
*[[10月10日]] [[徳田球一]]ら[[日本共産党|共産党]]員など政治犯10数名が釈放。人民大会がデモ行進と総司令部前で万歳。
 
*[[10月11日]] 女性の解放と参政権の授与、労働組合組織化の奨励と児童労働の廃止、学校教育の自由化、秘密警察制度と思想統制の廃止、経済の集中排除と経済制度の民主化を指示。
 
*[[10月15日]] [[治安維持法]]廃止。国内の日本軍、[[武装解除]]を完了。
 
*[[10月20日]] [[日本共産党]]が機関紙「[[しんぶん赤旗|赤旗]]」再刊。
 
[[画像:Flag of the United Nations.svg|160px|thumb|[[国際連合]]が発足]]
 
**[[10月24日]] [[国際連合憲章]]によって[[国際連合]]が発足する。
 
*[[10月31日]] GHQ、[[軍国主義]]を唱える教員の追放および[[同盟通信社]]の解体を指令。
 
*[[11月2日]] [[日本社会党]]結党。GHQ、財閥資産の凍結および解体を指令。
 
*[[11月6日]] [[日本自由党 (1945-1948)|日本自由党]]結党(旧[[政友会]]系)。持株会社解体令([[三井財閥|三井]]、[[三菱財閥|三菱]]、[[住友財閥|住友]]、[[安田財閥|安田]]の四大[[財閥]]を解体するという政府案をGHQ/SCAPが承認、いわゆる「財閥解体指令」)。
 
*[[11月16日]] [[日本進歩党]]結党(旧[[立憲民政党|民政党]]系)。
 
*[[11月18日]] 皇族[[資産凍結]]の指令。
 
*[[11月30日]] [[陸軍省]]・[[海軍省]]を廃止。
 
[[画像:Establishment of Second Ministry for the Demobilized.JPG|160px|thumb|海軍省が廃され第二復員省が発足]]
 
*[[12月1日]] 陸軍省改め[[第一復員省]]・海軍省改め[[第二復員省]]が発足。日本共産党が第4回党大会を開催。
 
*[[12月6日]] [[近衛文麿]]や[[木戸幸一]]など民間人9人の逮捕を命令。
 
*[[12月7日]] いわゆる農地解放指令(農地の小作人への分配)。[[マニラ軍事裁判]]において[[山下奉文]]大将の死刑判決。
 
*[[12月8日]] [[太平洋戰爭史]]を全国の新聞へ連載させる。
 
*[[12月9日]] [[農地改革]]を指示。GHQによる「[[眞相はかうだ]]」の放送が始まる。
 
*[[12月15日]] [[神道指令]]を指示(国教分離など)。
 
*[[12月16日]] 近衛文麿が服毒自殺。
 
*[[12月18日]] 日本協同党結党。幣原内閣、[[衆議院]]を解散。
 
*[[12月22日]] [[昭和天皇]]が史上初の記者会見。
 
*[[12月31日]] 「修身、日本歷史及ビ地理停止ニ關スル件」(覚書)([[SCAPIN]]-519) を発令。[[修身]]、[[国史]]、[[地理]]の授業は中止、教科書は蒐集される。
 
 
 
=== 1946年(昭和21年) ===
 
*[[1月1日]] 天皇神格否定の勅諭。(「[[人間宣言]]」)
 
*[[1月4日]] [[軍人]]・[[戦争犯罪人|戦犯]]および[[軍国主義者]]とみなした政治家・大学教授・企業経営者などの[[公職追放]]を指示。
 
*[[1月25日]] 幣原首相、マッカーサーと会談。
 
*[[1月29日]] GHQより[[SCAPIN|SCAPIN-677]]が指令される。日本政府の行政区域が北海道、本州、四国、九州およびその付属島嶼と[[対馬]]、[[大隅諸島]]までに限られ、[[北緯30度線|北緯30度]]以南の[[南西諸島]]と[[伊豆諸島]]、[[小笠原諸島]]に対する日本の施政権が停止される<ref name=scapin>[http://www.hoppou.go.jp/gakushu/data/document/doc19460129/ 連合軍最高司令部訓令(SCAPIN)第677号  独立行政法人 北方領土問題対策協会]</ref>。
 
*[[2月1日]] [[毎日新聞]]が政府の新[[憲法]]草案を[[スクープ]]。英連邦軍、日本への進駐を開始。
 
*[[2月2日]] ソ連が全[[樺太]]と全[[千島列島]]の領有を宣言。
 
*[[2月3日]] マッカーサー、[[民政局]]長[[コートニー・ホイットニー]]に自作の憲法案のメモを渡し、憲法モデルを作成するよう命じる。
 
*[[2月13日]] ホイットニー局長、新憲法モデル文章を[[吉田茂]]らに見せる。
 
*[[2月19日]] [[昭和天皇]]が[[川崎市]]・[[横浜市]]の市民を訪問。以後、全国を訪問する。
 
*[[2月20日]] ソ連、樺太・千島の領有を宣言する。
 
*[[2月25日]] 新旧[[円 (通貨)|円]]の交換開始。
 
*[[2月26日]] [[極東委員会]]発足。
 
*[[3月5日]] [[第一次教育使節団|第一次アメリカ教育使節団]]来日。
 
**3月5日 [[イギリス|英]]元首相[[ウィンストン・チャーチル|チャーチル]]が「'''鉄のカーテン'''」発言([[冷戦]]の始まり)。
 
*[[3月6日]] 日本政府、「憲法改正草案要綱」(戦争の放棄、象徴天皇、主権在民)を公表。
 
*[[3月22日]] 伊豆諸島に対する施政権停止が解除される。
 
*[[4月4日]] 2~300人のアメリカ兵は[[大森]]の中村病院に乱入し、約100人の妊婦や看護婦らを強姦した。生まれたばかりの子供も殺害された。
 
*[[4月5日]] [[対日理事会]]発足。
 
*[[4月10日]] 新選挙法に基づく[[衆議院]]議員総選挙。投票率73パーセント、自由党が第一党となるも過半数に届かず。[[加藤シヅエ]]・[[山口シヅエ]]・[[戸叶里子]]・[[園田天光光|松谷天光光]]・[[近藤鶴代]]ら、日本初の女性国会議員が39名当選。
 
*[[4月17日]] 幣原内閣、新憲法草案を発表。
 
*[[4月22日]] 幣原内閣総辞職。
 
*[[4月29日]] [[天皇誕生日]]にA級戦犯29名を起訴。
 
*[[5月1日]] 11年ぶりの[[メーデー]]。およそ100万人が集まる。
 
*[[5月3日]] [[極東国際軍事裁判]](東京裁判)開廷。
 
*[[5月4日]] 鳩山[[日本自由党 (1945-1948)|自由党]][[総裁]]が追放される。
 
*[[5月19日]] 宮城([[皇居]])前で25万人が[[飯米獲得人民大会]]を開催(食糧メーデー、[[プラカード事件]])。共産党・社会党がデモ隊をつれて吉田を訪問。デモ隊一部は皇居内に侵入。翌日、マッカーサー声明「暴民デモ許さず」。
 
*[[5月22日]] [[吉田茂]]内閣(自由党)成立。
 
*[[6月]] [[中国大陸]]で内戦が再燃([[国共内戦]]、1949年まで)。
 
*[[6月15日]] 第一復員省と第二復員省が統合して[[復員庁]]となる。
 
*[[6月19日]] 国連原子力委員会でソ連代表が核技術の廃絶を提案。
 
*[[6月20日]] 衆議院に新憲法草案を提出。
 
*[[6月22日]] 日本の漁獲域を拡張(歯舞群島の東の東経150度から北緯45度東経165度、北緯24度東経165度、北緯24度東経123度を結ぶ線内)。
 
*[[6月25日]] 衆議院本会議に憲法草案が上程。
 
*[[7月1日]] アメリカが旧[[南洋諸島]][[ビキニ環礁]]で4基目の[[原子爆弾]]を実験爆発。
 
*[[7月4日]] [[フィリピン]]がアメリカから独立。
 
<!--*[[7月6日]] 国号が「'''日本国'''」に統一される<ref>富山県民とともに 北日本新聞100年史(1984年10月15日、[[北日本新聞|北日本新聞社]]発行)492ページ</ref>。--><!--『大日本帝国』の記事では出典先の社史の情報を出典に用いるのは不適切とされ削除となっているため、こちらもコメントアウト。より信頼できる情報源が入り次第コメントアウト解除をお願いします。-->
 
**[[10月1日]] [[ドイツ]]で[[ニュルンベルク裁判]]判決。12人が死刑。
 
*[[11月3日]] '''[[日本国憲法]]'''公布。
 
*[[11月16日]]「ポーレー最終報告」が発表される。
 
**[[12月]] [[フランス]]軍が共産ベトナムを攻撃開始([[第一次インドシナ戦争|インドシナ戦争]]勃発、- [[1954年]])。
 
*[[12月18日]] ワシントンの[[極東委員会]]、日本の労働運動16原則を決定(占領目的を阻害する労働運動の禁止)。
 
*[[12月20日]] [[在日朝鮮人]]により首相官邸が襲撃される([[首相官邸デモ事件]])
 
*[[12月21日]] [[南海地震]]が発生。[[紀伊半島]]沿岸と[[四国]]沿岸などを津波が襲い、1443名が死亡。
 
 
 
=== 1947年(昭和22年) ===
 
*[[1月1日]] 吉田茂、労組運動者を「不逞の輩」と非難。
 
*[[1月4日]] GHQ、第二次公職の追放を指令。
 
*[[1月11日]] 全官公庁労組共闘委員会(組合員260万)4万人が皇居前でデモ。委員長伊井弥四郎がゼネスト決行宣言。
 
*[[1月18日]] 伊井、ゼネスト決行を2月1日と発表。
 
*[[1月31日]] マッカーサー、[[二・一ゼネスト]]中止命令。伊井、NHKでスト中止を発表(後に占領政策違反で逮捕)。共闘委員会解散。
 
*[[2月10日]] [[イタリア]]・[[フィンランド]]・[[ハンガリー]]・[[ルーマニア]]・[[ブルガリア]]が連合国と講和。各国が領土割譲と賠償を認める。
 
*[[2月18日]] 第一次ストライク調査団報告書提出。
 
**[[3月12日]] トルーマン・ドクトリン。トルーマン大統領、「共産主義との対決」を宣言し、米ソ対立が表面化。
 
*[[3月17日]] マッカーサー声明「日本進駐は速く終わらせ、対日講和を結んで総司令部を解消するべき。講和は1年以内が良い」対して国務次官ディーン・アチソン「日本より欧州が先」。
 
*[[3月31日]] 吉田内閣、衆議院を解散。[[教育基本法]]、[[学校教育法]]公布。
 
*[[4月22日]] 第一回[[参議院]]議員選挙。社会党が第一党になるも過半数に届かず。
 
*[[4月25日]] 衆議院選挙。社会党が第一党になるも過半数に届かず。当選者の半数弱が新人で、[[田中角栄]]、[[中曽根康弘]]、[[鈴木善幸]]らが初当選。
 
*[[4月]] [[独占禁止法]]公布。
 
*[[5月]] 総司令部内に賠償局を設置。
 
*[[5月]] GHQ、日本政府に対し「[[帝国]]」の語の使用を禁じる。
 
*[[5月2日]] 外国人登録令(朝鮮人、台湾人などの外地人は日本籍を取り消され外国人になる)。
 
*'''[[5月3日]]''' '''[[日本国憲法]]施行'''。
 
*[[5月20日]] 第一回[[特別国会]]召集。吉田内閣総辞職。
 
*[[5月24日]] 社会党書記長[[片山哲]]がマッカーサーを訪問し、片山が[[キリスト教徒]]であることを喜ぶ声明。また片山に「日本は東洋の[[スイス]]となるべきだ」と言い、「東洋のスイスたれ」が流行する。
 
*[[6月1日]] 片山哲内閣(社会党・民主党・国協党連立)成立。
 
*[[6月5日]] 「ヨーロッパ危機に対するアメリカの行動([[マーシャル・プラン]])」を発表。
 
*[[7月]] [[極東委員会]]、対日政策指導原則を発表。
 
*[[7月]] 国連、日本が国際連盟によって委任統治していた[[南洋諸島]]をアメリカの[[信託統治]]とする。
 
*[[7月11日]] マッカーサーの進言により、米国政府が連合国に対し、対日講和会議の開催を提案。
 
*[[7月12日]] 欧米16カ国のパリ会議開催(マーシャル・プラン受け入れ決定)
 
*[[7月13日]] マッカーサー声明「日本処理の基本的な方針である軍の撤廃と非武装化は完全に達成されており、向こう100年間、日本は近代戦を行うための再軍備はできないだろう」米本国の欧州重視に反発した模様。
 
*[[7月22日]] ソ連が米国提案の対日講和会議に反対。
 
*[[8月]] ラジオにおける事前検閲が廃止され、事後検閲になる<ref name="中正樹"/>。
 
**[[8月14日]] [[パキスタン]]がイギリスから独立([[イギリス連邦]]内)。
 
**[[8月15日]] [[インド]]がイギリスから独立(イギリス連邦内)。
 
*[[9月]] [[カスリーン台風]]の被害甚大。
 
**[[9月]] 欧州の共産党が[[ワルシャワ]]で[[コミンフォルム]]を結成。
 
**[[10月]] パリ講和条約によって欧州の旧[[枢軸国]]と連合国の間で講和成立。
 
*[[10月26日]] [[刑法 (日本)|刑法]]を改正。
 
*[[11月]] 雑誌における事前検閲が廃止され、事後検閲となる<ref name="中正樹"/>。
 
*[[12月22日]] [[民法 (日本)|民法]]を改正。
 
*[[12月31日]] [[内務省 (日本)|内務省]]を廃止。
 
 
 
=== 1948年(昭和23年) ===
 
この年に[[アメリカ対日協議会]]が発足して、[[逆コース]]が始まる。
 
*[[1月4日]] [[ミャンマー|ビルマ]]が[[イギリス連邦]]を離脱して独立宣言。
 
*[[1月6日]] 米陸軍長官ロイヤル、演説中「日本を反共の壁にする」と発言(反共・封じ込め政策開始)。
 
*[[1月26日]] [[帝国銀行]]椎名町支店で行員12名が殺害され、18万円(当時)が強奪される([[帝銀事件]])。
 
**[[2月4日]] セイロン([[スリランカ]])がイギリスから独立。
 
*[[2月]]第二次ストライク調査団報告書提出。
 
*[[2月10日]] 片山内閣総辞職。
 
*[[2月25日]] 米陸軍長官ロイヤル、陸軍省作戦計画局に日本の再軍備計画について検討するよう指示。
 
**同日 [[チェコスロバキア]]に共産党内閣が成立。
 
*[[3月10日]] [[芦田均]]内閣(民主党・社会党・国協党)成立。
 
**[[3月17日]] [[イギリス|英]]・[[フランス|仏]]・[[オランダ|蘭]]・[[ベルギー]]・[[ルクセンブルク]]が西欧連合条約に調印。
 
*[[4月]] 祝祭日のみ[[日本の国旗|日章旗]]掲揚を許可。
 
**[[4月1日]] ソ連、[[ベルリン]]の東西通行を遮断([[6月24日]]に完全封鎖、翌年[[5月12日]]解除)。
 
*[[4月6日]] 米国ドレーパー使節団、「日本再建四ヶ年計画」を発表。
 
*[[4月8日]] [[東宝]]が1200人の人員整理を発表。15日から労組が撮影所に篭城([[東宝争議]])。
 
*[[4月27日]] [[庭坂事件]]勃発。
 
*[[4月28日]] [[夏時間]]が導入される。
 
*[[5月]] [[海上保安庁]]を設置。
 
*[[5月18日]][[ドレーパー報告書]]が発表される。
 
**[[6月]] マッカーサー、[[共和党 (アメリカ)|共和党]]の予備選挙に惨敗し、大統領候補から外れる。
 
*[[6月28日]] [[福井地震]]が発生。3736名が死亡し、戦災から復興しかけた[[福井市]]は再度壊滅した。
 
*[[7月]] GHQ、新聞の事前検閲を廃止。事後検閲となる<ref name="中正樹"/>。
 
*[[7月31日]] [[政令201号]]発令(公務員の団体交渉権・スト権を否定)。
 
*[[8月15日]] [[朝鮮半島]][[北緯38度線]]以南に[[大韓民国]]成立(アメリカによって旧宗主国である日本は無視された)、独立式典。
 
*[[8月19日]] 13日の東京地裁仮処分を受けて[[東宝争議]]に米軍介入(「来なかったのは軍艦だけ」とまで評された)。
 
*[[9月9日]] 朝鮮半島北緯38度以北に[[朝鮮民主主義人民共和国]]成立。
 
*[[10月7日]] 芦田内閣、[[昭和電工事件]]の影響で総辞職。
 
*[[10月19日]] 第二次[[吉田茂]]内閣([[民主自由党 (日本)|民主自由党]])成立。
 
*[[11月12日]] 東京裁判が25人に有罪判決。うち[[板垣征四郎]]、[[木村兵太郎]]、[[土肥原賢二]]、[[東條英機]]、[[広田弘毅]]、[[武藤章]]、[[松井石根]]が死刑。
 
*[[11月30日]] 政令201を受け[[国家公務員法]]改正。公務員の団体行動権を否定([[労働基本権#日本の公務員の労働基本権]])。
 
*[[12月7日]] 芦田元首相を贈収賄容疑で逮捕。
 
*[[12月8日]] 民政局次長[[チャールズ・ケーディス]]大佐が対日政策転換を阻止するため帰国([[昭電事件]]の余波から逃れるためと噂される)。
 
*[[12月18日]] GHQ/SCAP、対日自立復興の9原則を発表(対日政策転換する)。
 
*[[12月23日]] 吉田内閣、衆議院解散([[馴れ合い解散]])。同日、東条英機ら旧指導者7人に死刑執行。
 
*[[12月24日]] [[岸信介]]などのA級戦犯容疑者を釈放。
 
 
 
=== 1949年(昭和24年) ===
 
*[[1月1日]] GHQ、[[日章旗]]の自由掲揚を認める。
 
*[[1月1日]] 年齢のとなえ方に関する法律施行、書類に用いる年齢が[[数え年]]から[[満年齢]]へ変わる。
 
*[[1月23日]] 衆議院総選挙。民主自由党が大勝利、共産党躍進。[[池田勇人]]・[[佐藤栄作]]・[[岡崎勝男]]ら、高級官僚の大量政界進出。
 
*[[2月16日]] 第3次吉田内閣(民主自由党)成立。
 
*[[3月1日]] GHQ/SCAP経済顧問[[ジョゼフ・ドッジ]]、超均衡予算、補助金全廃、復興金融金庫の貸出禁止など、収支均衡予算の編成を指示([[ドッジ・ライン]])。
 
*[[3月30日]] [[名立機雷爆発事件]]の発生。
 
*[[4月4日]] [[北大西洋条約機構]] (NATO) 発足。
 
*[[4月23日]] 1ドル360円の単一為替レート設定、25日より実施。
 
**[[5月6日]] ドイツ連邦共和国([[西ドイツ]])臨時政府成立。ドイツの分断決定。
 
*[[5月12日]][[マッコイ声明]]。賠償のための日本の経済施設撤去の中止を宣言。
 
*[[5月9日]] [[予讃線事件]]発生。
 
*[[6月1日]] [[電波三法]]が施行。民間へ電波が開放される。
 
*[[国鉄三大ミステリー事件]]発生。([[7月6日]]に[[下山事件]](国鉄総裁変死)、同15日に[[三鷹事件]](国鉄無人電車暴走)、[[8月17日]]に[[松川事件]](国鉄列車脱線転覆)
 
*[[9月15日]] シャウプ税制使節団、税制の抜本的改編を発表([[シャウプ勧告]])
 
*[[9月21日]] 日本の漁獲域を東へ拡張(北緯40度東経165度、北緯40度東経180度、北緯24度東経180度、北緯24度東経165度の線内)。
 
**[[10月1日]] [[国共内戦]]に勝利した[[毛沢東]]が[[北京]]を[[首都]]とする[[中華人民共和国]]成立を宣言。後に[[蒋介石]]の中国国民党が、広州から[[台湾]]へ逃亡。
 
*[[10月]] 新聞、ラジオにおける事後検閲が廃止される<ref name="中正樹"/>。
 
**[[10月7日]] [[ドイツ民主共和国]](東ドイツ)成立。
 
*[[11月1日]] 米国務省、「対日講和条約について検討中」と声明。講和案に賠償・領土割譲が無いことが報道される。これ以降、国内では西側との「単独講和論」と東側を含めた「全面講和論」が対立(世論調査では全面講和が優位)。
 
*[[11月3日]] [[湯川秀樹]]が[[ノーベル物理学賞]]受賞。
 
**[[12月27日]] [[インドネシア独立戦争|戦争]]の結果オランダがインドネシア独立を承認。
 
 
 
=== 1950年(昭和25年) ===
 
*1月 地方政治が進駐軍政から離れる。
 
*[[2月14日]] ソ連が中華人民共和国と[[中ソ友好同盟相互援助条約]]を締結し、条文で日本を仮想敵国と名指しする。
 
*この頃、日本との講和を推進する[[アメリカ国務省|米国務省]]と、米軍の日本駐留を継続するために日本再独立に反対する[[アメリカ国防総省|米国防総省]]が対立。
 
*[[4月25日]] [[池田勇人]]蔵相が[[白洲次郎]]らと共に税法問題交渉のため渡米。[[ジョゼフ・ドッジ]]と面談し、講和後の米軍駐留を日本から提案する旨を通達(池田ミッション)。
 
*[[5月12日]] 日本の漁獲水域を南へ拡大(北緯24度東経123度、赤道の東経135度、赤道の東経180度、北緯24度東経180度を結ぶ線内)。
 
*[[6月6日]] マッカーサー、[[日本共産党]]中央委員24名を公職追放。
 
*[[6月16日]] [[国家地方警察]]、全国のデモ・集会禁止を発令。
 
*[[6月25日]] [[朝鮮戦争]]勃発([[1953年]]まで)。[[アメリカ合衆国軍|在日占領軍]]が韓国を支援するため出動し、日本が前線基地となる。
 
*7月 [[北九州市|小倉]]で朝鮮派遣を控えた黒人米兵達が完全武装で集団脱走。強姦や略奪を繰り返すが、全員が[[憲兵]]に逮捕され、戦線に送られた(ほぼ全員が戦死したという)。情報統制の結果、ほとんどの日本国民が事件を知らなかった([[小倉黒人米兵集団脱走事件]])。
 
*[[7月8日]] マッカーサー、[[吉田茂|吉田首相]]に警察力強化(警察予備隊7万5000名の創設と[[海上保安庁]]8000名増員)を求める書簡を送る。
 
*[[7月24日]] GHQ/SCAP、共産党幹部逮捕と新聞協会代表に共産党員の追放を勧告([[レッドパージ]])。共産党書記長[[徳田球一]]、中国へ亡命。
 
*[[8月10日]] 警察予備隊令を公布。[[総理府]]の機関として、[[警察予備隊]]が置かれる。
 
*[[8月23日]] 警察予備隊第一陣7000名が入隊。
 
*[[8月27日]] 第2次アメリカ教育使節団来日。
 
*[[9月14日]] トルーマン大統領、対日講和と安全保障条約交渉の開始を指令。
 
*[[10月]] 海上保安庁が朝鮮半島に[[日本特別掃海隊|特別掃海隊]]を派遣(国民には秘匿)。
 
*[[11月10日]] [[日本放送協会|NHK]]東京テレビジョン実験局、[[テレビ]]の定期実験放送を開始。
 
*[[11月24日]] 米国政府、「対日講和7原則」を発表。日本への請求権放棄と、日本防衛を日米共同で行う旨を明記。
 
 
 
=== 1951年(昭和26年) ===
 
[[画像:Matthew Ridgway.jpg|200px|thumb|マシュー・バンカー・リッジウェイ将軍]]
 
*[[1月]] マッカーサー、日本政府に再軍備の必要性を説く。
 
*[[4月11日]] マッカーサー、朝鮮戦争で旧[[満州]]空爆を巡りトルーマン大統領と対立し更迭される。
 
*[[4月16日]] マッカーサー、アメリカへ帰国。[[マシュー・リッジウェイ]]中将が第二代最高司令官に就任(就任後に大将へ昇進)。
 
*[[4月24日]] [[桜木町事故]]。死者106名。
 
*[[9月1日]] 日本初の[[民間放送]][[ラジオ]]局、[[CBCラジオ|中部日本放送(現・CBCラジオ)]]と新日本放送(現・[[毎日放送]])開局。
 
*[[9月8日]] [[サンフランシスコ]]で[[日本国との平和条約]](サンフランシスコ講和条約)を調印。続いて[[日米安全保障条約]]に調印。
 
*[[12月24日]] [[リビア]]が[[イタリア]]から独立。[[アフリカ]][[植民地]]の連続独立始まる。
 
*[[12月25日]] 東日本初の民放ラジオ局、ラジオ東京(現 [[TBSラジオ&コミュニケーションズ|TBSラジオ]])が開局。
 
 
 
=== 1952年(昭和27年) ===
 
*[[1月18日]] 韓国が一方的に海洋主権宣言を発表([[李承晩ライン]])。
 
*[[1月23日]] [[国会中継]]放送が始まる。
 
*[[2月10日]] [[トカラ列島]]が日本に復帰する。
 
*[[2月28日]] [[日米行政協定]]締結。
 
*[[4月9日]] [[もく星号墜落事故]]。
 
*[[4月25日]] 漁獲水域指定([[マッカーサー・ライン]])を廃止。
 
*[[4月26日]] [[海上保安庁]]に[[海上警備隊]]が置かれる。
 
*'''[[4月28日]]''' '''[[日本国との平和条約|サンフランシスコ講和条約]]が発効、日本主権回復。GHQ/SCAPの進駐が終わる。'''占領軍のうちアメリカ軍は、講和成立と共に締結された「[[日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約]]」(旧日米安全保障条約)に基づいて駐留継続([[在日米軍]]へ衣替え)。
 
 
 
48ヶ国と講和し国交を回復する。なお、[[ブラジル]]や[[メキシコ]]など、連合国として対日宣戦したものの、日本と一度も戦っていない国も名を連ねている。
 
 
 
日本は北緯29度以南の[[南西諸島]]と[[小笠原諸島]]を残存主権を保持しつつも、アメリカから国連への提案があった場合にはアメリカの信託統治に置くことを認め、南[[樺太]]、[[千島列島]]、[[朝鮮半島]]、[[台湾]]、[[南洋諸島|南洋群島]]を放棄した。
 
 
 
[[1953年]](昭和28年)に[[奄美群島]]、[[1968年]](昭和43年)に小笠原諸島、[[1972年]](昭和47年)に[[琉球諸島]]([[沖縄返還]])が日本に返還された。また、ソ連に不当占領された[[北方地域|北方領土]]は放棄していないと主張している<ref group="†">これに対して旧ソ連、[[ロシア連邦政府]]は「降伏文書が調印された9月3日までは戦争中であり、その過程において占領したのだから何ら不当ではない。」と主張している</ref>。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
 
 
=== 注釈 ===
 
{{Reflist|group="†"|}}
 
 
 
=== 出典 ===
 
{{Reflist}}
 
 
 
=== 参考文献 ===
 
*[[江藤淳]] 『閉された言語空間 占領軍の検閲と戦後日本』 文藝春秋、1989年 / 文春文庫、1994年
 
*吉田恒昭「連合軍占領下における日本の平和構築とインフラ整備の経験」[http://www.jica.go.jp/jica-ri/publication/archives/jica/kyakuin/pdf/200703_dev_08.pdf]
 
* 秋尾沙戸子 『ワシントン・ハイツ GHQが東京に刻んだ戦後』新潮社、2009年(平成21年)、ISBN 978-4104370023
 
* 土持ゲーリー法一 『戦後日本の高等教育改革政策 「教養教育」の構築』玉川大学出版部、2006年
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Commonscat|Occupied Japan}}
 
;日本の連合軍占領期
 
*[[連合国軍最高司令官総司令部]]
 
**[[民間情報教育局]]
 
*[[日本の降伏]]
 
*[[ガリオア資金]]
 
*[[領土問題]]
 
*[[アメリカ合衆国による沖縄統治]]
 
*[[アメリカ施政権下の小笠原諸島]]
 
*[[:Category:日本の戦後処理]]
 
*[[日本の戦後改革]]
 
;外国の連合軍占領期
 
*[[連合軍軍政期 (ドイツ)]]
 
*[[連合軍軍政期 (朝鮮史)]]
 
*[[連合軍軍政期 (オーストリア)]]
 
 
 
== 外部リンク ==<!-- リンク切れ
 
*[http://www.ndl.go.jp/jp/data/kensei_shiryo/senryo_hassei_kikan.html 国会図書館・憲政資料室・日本占領期資料 発生機関別索引] -->
 
*[http://www.lib.umd.edu/prange/index.jsp メリーランド大学図書館プランゲ文庫] - [http://www.lib.umd.edu/prange/education/index.html 教育図書目録](占領期に日本で出版された教育関係図書・パンフレット約1万点の書誌情報)
 
*[http://20thdb.jp/ 占領期の雑誌・新聞情報1945-1949]([http://www.waseda.jp/prj-m20th/db/index.html 20世紀メディア研究所])
 
*[http://enpaku.waseda.ac.jp/db/kenetsuk/ 九州地区劇団占領期GHQ検閲台本(ダイザー・コレクション)早稲田大学]<!-- リンク切れ
 
*[http://plng.p.u-tokyo.ac.jp/text/senryoki/index.html 占領期図書館史プロジェクト(東京大学)] -->
 
*[http://nagaikazu.la.coocan.jp/GHQFILM/index.html 映像で見る占領期の日本-占領軍撮影フィルムを見る-]
 
*[http://ccdl.libraries.claremont.edu/cdm/ref/collection/khp/id/1964 写真で見る占領期の日本] - Frank A. Polkinghorn撮影、[[クレアモント・カレッジズ]]電子図書館
 
*[http://www.lpthe.jussieu.fr/~roehner/ocj.pdf Relations Between Allied Forces and the Population of Japan] 関係連合軍と日本の人口の間に(英語)
 
*[http://www.history.northwestern.edu/people/documents/HeintransOccJ2011.pdf 日本占領を再考する]Laura Hein([[ノースウェスタン大学]]歴史学部・教授/社会科学研究所)、2011年10月11日
 
 
 
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[[Category:占領下の日本|*]]
 
[[Category:冷戦]]
 
[[Category:日本の時代区分]]
 
[[Category:昭和時代戦後]]
 

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