近藤勇

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近藤勇
時代 江戸時代末期(幕末
生誕 天保5年10月9日1834年11月9日
死没 慶応4年4月25日1868年5月17日
幕府 江戸幕府
主君 松平容保
会津藩預新選組局長、幕臣甲陽鎮撫隊隊長
氏族 宮川氏嶋崎氏近藤氏

近藤 勇(こんどう いさみ)は、江戸時代末期の武士新選組局長。後に幕臣に取り立てられ、甲陽鎮撫隊隊長。勇は通称で、昌宜(まさよし)という。慶応4年(1868年)からは大久保剛を名乗り、後にさらに大久保大和と改めた。家紋は丸の内に三つ引。天然理心流、豪傑の剣の使い手。

生涯

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壬生寺にある近藤勇の像
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生家の隣にある近藤神社[注釈 1]

出生から試衛場入門

天保5年(1834年)、武蔵国多摩郡上石原村(現在の東京都調布市野水)に百姓宮川久次郎と母みよ(ゑい)の三男として生まれる[1]幼名勝五郎、後に勝太と改める[1]。久次郎には勝五郎の他に、長女・リエ(天保3年(1832年)に死去)、長男・音五郎(音次郎)、次男・粂蔵(くめぞう、粂次郎、惣兵衛)がいる。ほか、祖父の源次郎がいる[2]。天保9年の上石原村の宗門人別改帳に拠れば、宮川家は多摩郡大沢村(三鷹市)の龍源寺の檀家で、高七石一升二合の6人家族[3]。石高から中流クラスの上層の家庭環境であったと判断される[2] 。

嘉永元年(1848年)11月11日、勝五郎は江戸牛込(東京都新宿区)に所在する天然理心流剣術道場・試衛場に入門する。勝五郎が入門した道場は「試衛館」として知られるが、多摩郡蓮光寺村(多摩市)の名主・富沢政恕日記および小島鹿之助『両雄士伝』に拠れば「試衛」は号で、「試衛場」と記されている[4]

翌嘉永2年6月には目録を受ける[2]。同年10月19日には近藤周助(近藤周斎)の養子となり、周助の実家である嶋崎家へ養子に入り、嶋崎勝太と名乗る[2]。のちに正式に近藤家と養子縁組し、嶋崎勇と名乗ったのちに、近藤勇を名乗った。安政5年(1858年)には日野宿日野市)の牛頭天王社(八坂神社)の奉納額に「島崎勇藤原義武」と記している[2]

万延元年(1860年)3月29日に御三卿・清水徳川家の家臣である松井八十五郎の長女である松井つねと結婚[5]

翌年8月27日には府中六所宮にて、天然理心流宗家四代目襲名披露の野試合を行い、晴れて流派一門の宗家を継ぎ、その重責を担うこととなった[5]。また、文久2年(1862年)には、つねとの間に長女・たま(瓊子)が誕生した。勇の死後、明治9年(1876年)に勇の長兄である音五郎の次男・勇五郎を近藤家の養子に迎え、娘・たまは勇五郎の妻となった[5]

勇は天然理心流の門人同士で独自の交流を持ち、上京後も江戸や多摩の有力門人と書簡を介して交流し、金策の要請などを行っている[6]

中でも勇が密接に交流した人物に兄の音五郎や惣兵衛、寺尾安次郎、佐藤彦五郎、小島鹿之助、沖田林太郎、粕谷良循らがいる[7]。佐藤彦五郎は日野宿の名主で、天然理心流の門人となり屋敷内に稽古場も持っていた[8]。小島鹿之助も多摩郡小野路村(町田市)の名主の家庭に生まれ、同じく門人となり屋敷に道場を持っていた[9]。時期は不明であるが、勇、彦五郎、鹿之助の三人は『三国志演義』にならい義兄弟の契りを結んだという[9]。また、鹿之介は漢学を修める教養人で、勇への思想的影響があったとも言われる[9]。佐藤彦五郎や小島鹿之助は農兵隊を組織し、一部は後に甲陽鎮撫隊と名を改めた新選組に合流した[9]

浪士組参加から清河派との決裂

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松平容保(写真)

文久3年(1863年)正月、江戸幕府は旗本の松平忠敏出羽国庄内藩出身の清河八郎の献策を容れ、14代将軍・徳川家茂上洛警護をする浪士組織「浪士組」への参加者を募った[10]。永倉新八『新撰組顛末記』に拠れば、浪士募集を受け斎藤一を除く近藤ら試衛館の8人はこれに参加することを決める。正月16日に近藤は小野路村の小島家で鎖帷子を借りている[10]。2月8日、浪士組一行と共に京都に向けて出発した。一行は江戸小石川(東京都文京区)の伝通院を発して中山道を進み、子母澤寛『新選組始末記』に拠れば近藤は取締付・池田徳太郎の手伝役として道中の宿割りを命じられ、本隊より先行して出立したという[11]。また、『新撰組顛末記』では2月9日に本庄宿埼玉県本庄市)に止宿した際に宿の手配に漏れが生じ、水戸藩芹沢鴨が激怒して大篝火を焚き、近藤と池田が詫びたとする逸話を伝えている[11]。一行は同年2月23日に京都に到着すると、壬生村京都府京都市中京区)の民家や寺社に分宿した[11]。近藤は壬生村の郷士八木源之丞邸や周辺の寺社に分宿した[11]

一行が京都に到着した23日夜、清河は新徳寺(中京区)において浪士組上京の真の目的は朝廷に尊皇攘夷の志を建白することであると宣言し、浪士組の江戸帰還を提案した[11]。翌24日に清川は学習院国事参政掛に建白書を提出した[11]。これにより浪士組は清河ら江戸帰還派と近藤・芹沢ら京都残留派に分裂し、異議を唱えた近藤や芹沢ら24人は京に残留する[11]。文久3年3月の近藤勇書簡に拠れば、近藤は清河と同じ尊皇攘夷派に属しつつも、清河が幕府よりも朝廷を優先する思想であるのに対し、近藤は朝廷と幕府を一体化させ政局を安定させる公武合体論的な思想であったことが指摘される[12]

壬生浪士組の発足と芹沢鴨暗殺

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近藤勇(写真)

同年3月10日、二条城において京都守護職を務める会津藩主・松平容保は幕府老中から京都の治安維持のため浪士を差配することを命じられ、近藤・芹沢ら17名の京都残留組は会津藩に嘆願書を提出し、3月12日に受理され会津藩預かりとして将軍在京中の市中警護を担う「壬生浪士組」が結成された[13]。浪士組24名のうち試衛場出身者は近藤ら8名が占めている[14]

結成当初の壬生浪士組は運営がスムーズに行かず、近藤は3月25日に四条大橋(京都市下京区東山区)において下総浪士の殿内義雄を暗殺した[15]。殿内らは幕府から伝達を受け浪士組の探索を行っていたが、殿内の暗殺、根岸友山の一派と粕谷新五郎は脱退し、阿比類鋭三郎は病死(暗殺説あり)し、家里次郎切腹した。殿内派3人のグループはこれにより瓦解し、浪士組は近藤派と芹沢派5名の二派閥体制となった[15]

『世話集聞記』に拠れば、3月25日に近藤・芹沢ら浪士組は壬生屯所の裏手で狂言を見物し、この際にはすでに会津藩の手付金で揃いの羽織を着ていたという[16]。文久3年2月、将軍家茂の上洛に随行して上京していた井上源三郎の兄・井上松五郎は4月17日に壬生屯所で土方・沖田・井上源三郎から「近藤天狗になり候」とする相談を受けている[17]。この「天狗」に関しては近藤の慢心と見る説と、天狗=水戸天狗党と解し芹沢鴨の同類と理解する説がある[17]。同年3月5日頃には近藤、芹沢、新見らは隊内の法度を定めている[18]

文久3年8月18日長州藩を京都政局から排するために中川宮朝彦親王(尹宮)、会津藩、薩摩藩主導の八月十八日の政変が起こると、壬生浪士組は御花畑門の警護担当となるが、目立った活躍もなく長州勢の残党狩りに出動する。その後、働きぶりが認められ、武家伝奏より「新選組(新撰組)」の隊名を下賜された。近藤・土方らはまず、副長の新見錦を自殺させた[19]。また、新見錦は水戸浪士新家粂太郎と同一人物で、長州で死亡したとする説も存在している[20]。9月13日には近藤の意に応じないとして田中伊織を暗殺した[21]。さらに9月16日に芹沢らを暗殺すると[22]、近藤勇主導の新体制が構築された。10月10日には祇園料亭「一力」(京都市東山区)」において会津藩が主催して諸藩を招いた集会が開かれ、近藤もこれに招かれている[23]

この頃に養父の近藤周斎の病状が悪化し、長兄の宮川音五郎から江戸帰還を求められているが、近藤は京の政情不安を理由にこれを断っている[24]

池田屋事件と禁門の変における活動

八月十八日の政変により京都政局は公武合体派が掌握し、一橋慶喜・松平容保(会津藩主)・松平定敬桑名藩主)の三者による「一会桑政権」が形成され、新選組はその一角を担った[25]元治元年(1864年)正月15日には将軍徳川家茂が入京し二条城へ入った[26]。松平容保は陸軍総裁職・軍事総裁職となり、2月25日には福井藩主・松平慶永が京都守護職に就任している[27]。幕府では新選組を松平慶永に預ける案が浮上したが、近藤はこれを断っている[27]。5月7日に将軍家茂は江戸へ帰還するが、近藤は将軍の在留を求めて憤激する書簡を残している[28]

同年5月末頃、近藤の養父周斎宛の書簡に拠れば、近藤は備中国松山藩主・板倉勝静の家来で新選組隊士の谷三十郎から弟の昌武(周平)を養子に迎えたことを伝えている[29]。なお、周平は慶応3年(1867年)に養子関係を解消し旧姓に戻り、翌年に江戸へ戻る途中で脱走している[30]

6月1日、新選組は熊本藩士・宮部鼎蔵下僕である忠蔵を捕縛し、ほか不審者二名を捕縛した[30]。拷問により謀反の計画を知り、6月5日に四条通小橋西入ル真町(京都市下京区)で薪炭商・枡屋喜右衛門(古高俊太郎)を捕縛した[31]。古高の供述から中川宮邸放火計画を知った新選組は直ちに探索を開始し、一味が潜伏していた池田屋に突入して宮部一派を壊滅させた(池田屋事件)。この働きにより、新選組は朝廷と幕府から感状と褒賞金を賜った。

禁門の変出動を経て、近藤は隊士募集のために帰郷する。ここで伊東甲子太郎ら新隊士の補充に成功した。

京都政局と近藤の広島出張

慶応元年(1865年)9月16日、将軍・徳川家茂上洛して二条城に入り、9月21日には京都御所へ参内して長州再征の勅許を得る[32]。再征勅許の獲得により幕府では大目付・永井尚志を長州訊問使として派遣することを決定し、長州側との会見場所が安芸国広島の国泰寺広島県広島市中区)に決定した[33]。近藤は会津藩を通じて訊問使への同行を願い出て許可された[33]。なお、同年11月4日付の佐藤彦五郎宛書簡では訊問使随行のことなどが記されているほか、天然理心流の後継者を沖田総司とすることなども記されている[34]

近藤は武田観柳斎伊東甲子太郎ら隊士8名とともに11月7日に大坂を立ち、11月16日に広島へ到着する[35]。11月20日に永井は近藤らを自らの家臣として長州派遣を要請するが長州側にこれを拒否され、さらに11月22日には永井は近藤らを長州側との折衝役とし、近藤らは長州藩側の宿舎に赴いているが面会を拒否されている[36]。近藤らは11月23日に長州藩士との面会を果たし、12月11日には長州入りを要請するが、再び拒否されている[37]。12月15日に近藤らは長州藩の支藩岩国藩領の新湊(山口県岩国市新港町)において岩国藩との会談を要請するが、これも拒否されている[37]。近藤らは長州入りを断念し、12月22日に京都に帰還している[37]

慶応2年(1866年)正月22日、幕府は長州藩に対する処分を決定し、老中・小笠原長行を広島へ派遣する[38]。正月27日に近藤は伊東、篠原泰之進尾形俊太郎とともにこれに随行し、2月3日に広島へ到着した。2月16日に近藤は広島藩士と交流のある伊東を介して岩国藩士・塩谷鼎助との会談を要請するが、これを拒否されている[38]。同年6月7日には第二次幕長戦争が勃発するが、7月20日に将軍家茂が大坂城で急死したため、8月21日に勅命で長州征伐が停止される[39]

新選組の幕臣化と伊東甲子太郎の分離・暗殺

同年9月26日、伊東甲子太郎と篠原泰之進が近藤の妾宅を訪れ、近藤と時局を論じたという[40]。篠原の日記によれば伊東が勤王を説き孝明天皇(同年12月25日に死去)の衛士になることを主張したのに対し、近藤は徳川幕府の趨勢を論じ議論は平行線となり、近藤は伊東らの分離を警戒したという[40]

慶応3年(1867年)正月18日、伊東らは九州遊説のため太宰府へ赴き、そのまま新選組から分離した御陵衛士(高台寺党)となった[41]。伊東らは3月12日に帰京、翌13日に近藤・土方らに分離を申し出て、了承された[41]。この際に藤堂平助斎藤一(近藤派の間者との説あり)らがこれに加わった。

同年6月10日、新選組は会津藩預かりから隊士全員が幕臣となる[42]。近藤は御目見得以上の格(三百俵旗本)となる[42]。これにより近藤は幕府代表者の一員として各要人との交渉を行い、同年6月17日には幕府親藩の集会で演説を行っている[43]。近藤は征長論を主張し、6月24日には近藤の建白書議奏柳原前光正親町三条実愛に提出される[44]。土佐藩士の日記によれば、この時期、近藤は永井尚志の紹介で土佐藩の参政である後藤象二郎を紹介され、さらに同年9月27日には岡山藩家老の日置帯刀を紹介され、長州征伐について会談したという[45]。同年6月15日には屯所を西本願寺から不動堂村(京都市下京区)に移転しており、新選組の任務には要人警護も加わった[46]

同年8月8日には伊東ら御陵衛士も建白書を提出し、近藤の征長論に対し長州寛容論を主張した[47]。同年10月13日・14日に薩摩藩、長州藩に対して討幕の密勅が下ると、14日に将軍徳川慶喜は大政奉還を行いこれを回避する[48]。近藤は14日に正親町三条実愛を訪ね、大政奉還を尾張・越前の策謀として批判したという[48]

同年10月18日夜、近藤は国事議論を目的に醒ケ井通木津屋橋(京都市下京区)に伊東甲子太郎を呼び、酒宴の後に七条油小路(下京区)において大石鍬次郎らに伊東を暗殺させた[49]。さらに他の御陵衛士たちを誘い出して夜襲し、藤堂らを殺害した(油小路の戦闘)[49]

同年12月9日には王政復古の号令が発せされ、京都の旧幕府勢は撤退を命じられた[50] 。新選組は将軍不在の二条城警護を命じられていたが、12月13日に近藤は水戸藩士と二条城警護を巡り対立したという[51]

12月18日、近藤は伏見の陣から二条城へ出向き、公卿らに薩長・尊王派を除こうと上京する[52]。篠原泰之進の日記に拠れば、御陵衛士の鈴木三樹三郎・篠原ら8名は竹田街道墨染(京都市伏見区)において近藤を待ちぶせ、馬上の近藤を銃撃する[53]。近藤は肩を負傷し、島田魁日記に拠れば伏見城へ逃れたという[53]。近藤は新選組の検診医でもあった幕府典医・松本良順の治療を受けるため、沖田総司とともに大坂城で療養している。[54]

慶応4年(/明治元年、1868年)1月3日には旧幕府軍と新政府軍の間で鳥羽・伏見の戦いが発生する。新選組は会津兵らと伏見奉行所におり、近藤負傷のため土方が隊を指揮した[55]

戊辰戦争から処刑まで

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錦絵「勝沼駅近藤勇驍勇之図」(1880年、東京江戸博物館蔵)
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三条河原での晒し首の様子

鳥羽・伏見の戦いにおいて敗れた新選組は、幕府軍艦で江戸に戻る。近藤・土方は富士山丸に乗艦している。江戸鍛冶橋門外(東京都千代田区)の秋月種樹邸を屯所とする[56]。永倉新八「浪士文久報国記事」『新選組日記』に拠れば、近藤は江戸帰還後に徳川慶喜に対して甲斐国甲府の甲府城(山梨県甲府市)の委任を要請する建白書を提出した[56]

2月28日、近藤は幕府から「甲陽鎮撫」を命じられ、幕府から武器弾薬を、幕府や会津藩から資金を与えられると3月、近藤は「大久保剛」の変名を用いて新選組は甲陽鎮撫隊と改名した[57]。また、日野宿では佐藤彦五郎が一行に加わっている[58]。一行は3月1日に江戸鍛冶橋屋敷を出立すると甲州街道を甲府へ向かうが、一方の新政府軍も岩倉具定が東山道先方総督軍を率いて信濃国諏訪から中山道甲州街道に分かれて江戸へ進軍していた[58]。近藤は3月4日に花咲宿(山梨県大月市)において東山道先鋒総督参謀・板垣退助の率いる迅衝隊が甲府を制圧したことを知り[59]、3月6日に甲州市勝沼町において勃発した甲州勝沼の戦い(柏尾戦争)で迅衝隊と戦うが敗れて敗走する[60]

近藤らは敗走し、3月8日には八王子宿(東京都八王子市)において江戸引き上げを宣言した[61]。この頃、永倉新八原田左之助らは勢力を結集して会津において再起を図る計画を立て、3月11日には江戸和泉橋医学所において近藤と面会するが、近藤は永倉・原田らの計画に対して近藤の家臣となる条件を提示したため両者は決裂し、永倉・原田は離脱した[62]。近藤・土方は会津行きに備えて隊を再編成し、旧幕府歩兵らを五兵衛新田(現在の東京都足立区綾瀬四丁目)で募集し、隊士は227名に増加した。近藤は変名をさらに「大久保大和」と改めた[63]

4月には下総国流山(千葉県流山市)に屯集するが、新政府軍は3月13日にすでに板橋宿(東京都板橋区)に入っていた[62]。新選組は4月1日・2日には流山の光明院・流山寺に分宿し、近藤・土方は長岡七郎兵衛宅を本陣としていた[62]。新政府軍は総督内参謀の香川敬三が大軍監となり、下野国宇都宮の宇都宮城占拠を企てる会津・桑名勢に対抗するため日光街道を進軍し、4月2日には糟壁(埼玉県春日部市)に至っている[62]。新政府軍は流山に集結した新選組が背後を襲う計画を知り、4月3日には近藤を捕縛する[64]。近藤捕縛は史料により状況が異なり、越谷の政府軍本営に出頭したとする記録もある。

しかし、大久保が近藤勇と知る者が政府軍側におり、そのため総督府が置かれた板橋宿まで連行される。近藤は大久保の名を貫き通したが、元隊士で伊東甲子太郎率いる御陵衛士だった加納鷲雄清原清に近藤であると看破され、結局捕縛された。その後、土佐藩(谷干城)と薩摩藩との間で、近藤の処遇をめぐり対立が生じたが、結局土佐藩(谷干城)が押し切り、4月25日、中仙道板橋宿近くの板橋刑場横倉喜三次石原甚五郎によって斬首された。享年35(満33歳没)。首は京都の三条河原で梟首された。その後の首の行方は不明である。

墓所

東京都三鷹市龍源寺(先述の出身地、現・調布市野水のすぐ近く)や処刑場の近隣であるJR板橋駅前(寿徳寺)にも旧同士だった永倉新八により建立された墓所がある。福島県会津若松市天寧寺には土方歳三が遺体の一部を葬ったとされる墓があり、山形県米沢市高国寺にも近藤勇の従兄弟 近藤金太郎が首をひそかに持ち帰り埋葬したとされる墓がある。毎年、民間団体が近藤勇を弔う為に「近藤勇忌」を流山市会津若松市等で行っている。戒名は貫天院殿純義誠忠大居士。

辞世の句は漢詩(七言律詩)で作られており、この句が刻まれた句碑が龍源寺境内の墓所にある。

: 孤軍援絶作囚俘 顧念君恩涙更流
一片丹衷能殉節 睢陽千古是吾儔
(書き下し文)
孤軍 援(たす)け絶えて俘囚となる 顧みて君恩を思へば涙 更に流る
一片の丹衷 能(よ)く節に殉ず 睢陽(すいよう)は千古是れ吾が儔(ともがら)
 其二
靡他今日復何言 取義捨生吾所尊
快受電光三尺劔 只將一死報君恩
(書き下し文)
他に靡き今日復た何をか言はん 義を取り生を捨つるは吾が尊ぶ所
快く受けん電光三尺の剣 只に一死をもって君恩に報いん

子孫

近藤の刑死後である1876年(明治9年)に近藤の長兄である宮川音五郎の次男・勇五郎が近藤家の養子に迎えられる[5]。近藤と妻・つねとの間に生まれた娘・たまは勇五郎に嫁し[5]、後に長男・久太郎を産み、25歳で亡くなっている。その久太郎も明治38年(1905年)に日露戦争で戦死したため、近藤の嫡流子孫は絶えている。

しかしながら、子はたまの他に、妾の駒野との間に男子(後に僧籍)、同じく妾のお考との間に娘のお勇、同じく妾のおよしとの間に男子がいる。孫は久太郎の他に、お勇が朝鮮人貿易商との間に儲けた男子3人がいる。

宮川家は代々農家を続けており、現在の末裔も都内で農家を営んでいる。一族の宮川清蔵は天然理心流9代宗家となっている(近藤勇は4代宗家)。

評価

  • 江川太郎左衛門 「武勇と豪胆とは、麾下九万の士人中、勇ぞその第一位を占めたりける。されば、まだうら若き身をもって、新撰組の頭領として、海内同様の中心たりし京城鎮護の命を受け、一時その独力をもて、驚悍狂躁の浮浪ばらを打鎮め、幕廷鎮護の干将莫邪とは成りたりけり。勇は容貌魁偉にして、音吐さながら洪鐘の如く、紅顔あたかも棗を重ね、気躁あたりを沸ひしとぞ。去れども、その人寡黙にして能く辞譲の道をば守り、和気自ずから四筳に薫て、彼の武人一通りの弱点たる、峻厲人と犯すが如き事は絶えて無かりしとぞ。さればこそ、若冠にして多数の虎豹を引纏め、儼然として一敵国をば構えたりけれ」[65]

脚注

注釈

  1. 在・東京都調布市野水。

出典

  1. 1.0 1.1 大石 2004, p.21
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 大石 2004, p.22
  3. 大石 2004, pp.21-22
  4. 大石 2004, p.6
  5. 5.0 5.1 5.2 5.3 5.4 大石 2004, p.24
  6. 大石 2004, pp.34-35
  7. 大石 2004, pp.42-44
  8. 大石 2004, p.41
  9. 9.0 9.1 9.2 9.3 大石 2004, p.42
  10. 10.0 10.1 大石 2004, p.65
  11. 11.0 11.1 11.2 11.3 11.4 11.5 11.6 大石 2004, p.66
  12. 大石 2004, p.72
  13. 大石 2004, p.73
  14. 大石 2004, p.74
  15. 15.0 15.1 大石 2004, p.77
  16. 大石 2004, p.78
  17. 17.0 17.1 大石 2004, p.80
  18. 大石 2004, p.81
  19. 松村巌『近藤勇』、内外出版協会 p32
  20. 『京都新聞』、2015年2月19日 「壬生浪士幹部?の借用証発見 同一人物説の新家粂太郎連署」
  21. 西村兼文「新撰組始末記」、維新史料野史台30
  22. 『風説都の錦 八』、早稲田大学図書館
  23. 大石 2004, p.91
  24. 大石 2004, p.90
  25. 大石 2004, p.95
  26. 大石 2004, p.93
  27. 27.0 27.1 大石 2004, p.94
  28. 大石 2004, pp.96-97
  29. 大石 2004, pp.101-102
  30. 30.0 30.1 大石 2004, p.102
  31. 大石 2004, p.103
  32. 大石 2004, p.150
  33. 33.0 33.1 大石 2004, p.152
  34. 大石 2004, pp.152-153
  35. 大石 2004, p.153
  36. 大石 2004, p.153-154
  37. 37.0 37.1 37.2 大石 2004, p.154
  38. 38.0 38.1 大石 2004, p.155
  39. 大石 2004, p.156-157
  40. 40.0 40.1 大石 2004, p.158
  41. 41.0 41.1 大石 2004, p.159
  42. 42.0 42.1 大石 2004, p.160
  43. 大石 2004, p.161
  44. 大石 2004, p.161-263
  45. 大石 2004, pp.163-164
  46. 大石 2004, pp.161-164
  47. 大石 2004, p.163
  48. 48.0 48.1 大石 2004, p.165
  49. 49.0 49.1 大石 2004, p.167
  50. 大石 2004, p.172
  51. 大石 2004, pp.172-173
  52. 大石 2004, p.174
  53. 53.0 53.1 大石 2004, p.175
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  56. 56.0 56.1 大石 2004, p.188
  57. 大石 2004, p.190
  58. 58.0 58.1 大石 2004, p.192
  59. 大石 2004, p.193
  60. 大石 2004, pp.196-199
  61. 大石 2004, p.199
  62. 62.0 62.1 62.2 62.3 大石 2004, p.202
  63. 大石 2004, pp.201-202
  64. 大石 2004, p.203
  65. 『活文字』明26.1

参考文献

関連項目

外部リンク

先代:
近藤周助
天然理心流宗主4代目
1834年 - 1868年
次代:
近藤勇五郎