「農地改革」の版間の差分

提供: miniwiki
移動先:案内検索
(関連項目)
 
 
(同じ利用者による、間の3版が非表示)
1行目: 1行目:
'''農地改革'''(のうちかいかく)は、[[農地]]の所有者の変更や法制度の変更など、農地を巡る改革運動のひとつ。
+
'''農地改革'''(のうちかいかく)
 
 
== 日本の農地改革 ==
 
一般的には[[1947年]]([[昭和]]22年)、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の指揮の下、[[日本政府]]によって行われた農地の所有制度の[[改革]]を指す。<!--'''農地解放'''ともいう。-->もともと日本の官僚の間には農村の疲弊を除くために[[寄生地主制|地主制度]]を解体する案はもとよりあったが、[[開拓使官有物払下げ事件#北海道庁官有物払下げ事件|財界人や皇族・華族といった地主層]]の抵抗が強く実施できなかったものをGHQの威を借りて実現したといえる<ref>ただし帝国政府の考えた方針とGHQの改革内容には大きな違いがある</ref>。
 
 
 
1945年(昭和20年)12月9日、[[GHQ]]の最高司令官[[ダグラス・マッカーサー|マッカーサー]]は日本政府に[[SCAPIN#一覧|SCAPIN-411]]「農地改革に関する覚書」を送り、「数世紀にわたる封建的圧制の下、日本農民を奴隷化してきた経済的桎梏を打破する」ことを指示した。これ以前に日本政府により国会に提案されていた第一次農地改革法はこの後[[GHQ]]に拒否され、日本政府は[[GHQ]]の指示により、より徹底的な第二次農地改革法を作成、同法は1946年(昭和21年)10月に成立した。
 
 
 
この法律の下、以下の農地は政府が強制的に安値で買い上げ、実際に耕作していた小作人に売り渡された。
 
*不在地主の小作地の全て
 
*在村地主の小作地のうち、北海道では4[[町 (単位)|町歩]]、都府県では1町歩を超える全小作地
 
*所有地の合計が北海道で12町歩、都府県で3町歩を超える場合の小作地等
 
また、小作料の物納が禁止(金納化)され、農地の移動には[[農地委員会]]の承認が必要とされた。
 
 
 
農地の買収・譲渡は1947年(昭和22年)から1950年(昭和25年)までに行われ、最終的に193万町歩の農地が、延237万人の地主から買収され、延475万人の小作人に売り渡された。しかも、当時の急激なインフレーションと相まって、農民(元小作人)が支払う土地代金と元地主に支払われる買上金はその価値が大幅に下落し、実質的にタダ同然で譲渡されたに等しかった。譲渡された小作地は、1945年(昭和20年)11月現在の小作地(236万町歩)の8割に達し、農地に占める小作地の割合は、46%から10%に激減し<ref>農地改革資料編纂委員会編『農地改革資料集成』第11巻 35~54頁</ref>、耕地の半分以上が小作地である農家の割合も約半数から1割程度まで減少した。この結果、戦前日本の農村を特徴づけていた地主制度は完全に崩壊し、戦後日本の農村は自作農がほとんどとなった。このため、農地改革はGHQによる[[戦後改革]]のうち最も成功した改革といわれることがある。
 
 
 
一方で、水田、畑作地の解放は実施されたが、[[林業|林野]]解放が行われなかったことから、不徹底であったとされる。
 
 
 
この農地改革を巡っては、[[施行]]されたばかりの[[日本国憲法]]の第29条3項(財産権の保障)に反するとして、一部の地主が正当な価格での買取を求め[[訴訟]]を起こしたが、第29条3項で言う正当な補償とは、市場価格とは異なるという解釈がされ請求は[[棄却]]された。
 
 
 
また、この農地改革は当時日本の有職者の約半数が農業従事者であり同時期に施行された選挙権の大幅拡大に連動されていた側面もあった、当事者によれば[[ナチス・ドイツ]]の世襲農場法も範とした[[反共]]政策として意図されており<ref>農地改革資料編纂委員会編『農地改革資料集成』第1巻 104~110頁</ref>、政府やGHQもその勢力拡大を警戒していた[[日本共産党]]や[[共産主義]]の力を大幅に削ぐことになった。従来、賃金労働者と並んで共産党の主要な支持層であった水田および畑作地の小作人の大部分が自作農、つまり土地資本を私有財産として持つようになり、その多くが保守系政党や戦後保守に取り込まれたためである(当時の[[共産主義]]諸政党の政策方針では集団化(農地は自給用の田畑のみが[[コルホーズ]]の協同組合経営として認められ、残りは[[ソフホーズ]]として国有化され、農業従事者は国から土地を借りて耕作するという形)を目指していたため)。
 
 
 
<gallery>
 
ファイル:Farm_bond.jpg|農地被買収者国庫債券{{要説明|date=2015年5月}}
 
</gallery>
 
 
 
== 中国の農地改革 ==
 
中国では1946年5月に中国共産党中央執行委員会が「土地政策に関する指令」を出して農地改革に着手<ref name="tokyo-u">{{Cite book |和書 |author=東京大学社会科学研究所 |year=1975 |title=農地改革 |page=164 |publisher=東京大学出版会 }}</ref>。同年9月13日には従来の富農等に対し生計維持に特に必要な財産の保有のみを認め、地主の土地所有権を無効とし、地主や富農等の所有していた家畜、農具、食糧その他の財産を没収する処分が行われた<ref name="tokyo-u" />。
 
 
 
== ドイツの農地改革 ==
 
第二次世界大戦後、ドイツでは[[ユンカー]]が所有していた農地を[[ソビエト連邦|ソ連]][[赤軍]]に占領されたことで徹底的な農地改革が行われ、ユンカーも完全に解体されるに至った<ref name="世界大百科事典(1988)ユンカー">[[#世界大百科事典(1988)|世界大百科事典(1988年版)]]「ユンカー」の項目</ref>。
 
 
 
== 問題点 ==
 
=== 経営規模の小規模化 ===
 
政治的には成功したかに見えた政策であったが、大規模経営が世界的に主流になる中で土地の所有者が大幅に増加した日本の農業は、機械の稼働能率が低く、兼業農家が多くを占めるようになり、先進的な農業の担い手となり得る中核的農家が育たなかった。戦後の食料自給率は大幅に低下し先進国の中では最低水準となっている。
 
 
 
また、都市化優先政策と[[食糧管理制度|食管制度]]温存による米優先農政により、次第に日本農業は国際競争力を低下させていくこととなる<ref>[[中村政則]]編「占領と戦後改革」1994年 [[吉川弘文館]]より 鈴木邦夫「初期占領改革」</ref>。
 
 
 
=== 土地所有者の細分化 ===
 
農地改革で大地主が減り、面積あたりの土地の所有者が増えたことで、都市開発や道路建設等の用地買収交渉の困難化や長期化を招き、経済の停滞につながった。
 
 
 
=== 民族間の土地所有権移転 ===
 
「地主」と「小作農」の民族が異なる場合は、土地所有権が他民族に移ることになった。
 
 
 
中国の[[内モンゴル]]・[[綏遠省]]などの[[モンゴル人]]地域では、モンゴル人の[[放牧地]]だった土地を(モンゴル人小作農もいたが)[[漢民族]]入植者が借地して農地として開墾していた。これらの土地は農地改革により、モンゴル人から漢民族へ土地所有権が移ることになった。
 
  
 +
第2次世界大戦後,占領軍の強力な指導によって日本で行われた農地制度の改革。幣原内閣は 1945年 12月に第1次農地改革を提案したが,その不徹底さは占領軍および農民の納得するところとならず,46年 10月,第2次農地改革案の作成となった。これは自作農創設特別措置法と農地調整法の再改正案に基づき,[[地主制]]の解体と自作農業創設のために小作地の解放,小作料の引下げと金納化,不在地主の一掃をおもな内容とした。在地地主の貸付保有地を1町歩 (北海道は4町歩,1町歩は約 0.99ha) に制限し,それを超える貸付地と不在地主の農地は農業委員会の手で小作農に売渡された。農地改革は 50年にほぼ完了したが,これによって小作地の 80%を超える約 200万町歩が 250万の地主から 470万余の小作農に移り,牧野など約 45万町歩と未墾地 130万町歩余が解放された。この結果,戦前 70%を占めた小作農は 40%となり,自作地をもたない農家は 26%から4%に減少した。その後,旧地主層は土地の価格が不当に安すぎたとして補償要求を展開,65年に農地報償法を成立させた ([[農地補償]] ) 。
 +
 
== 脚注 ==
 
== 脚注 ==
 
{{Reflist}}
 
{{Reflist}}
 
== 参考文献 ==
 
{{参照方法|date=2015年5月|section=1}}
 
*[[R・P・ドーア]]著、[[並木正吉]]、[[高木径子]]、[[蓮見音彦]]訳『日本の農地改革』[[岩波書店]]、1965年、{{全国書誌番号|65000263}}
 
  
 
== 関連項目 ==
 
== 関連項目 ==
58行目: 13行目:
 
*[[農地法]]
 
*[[農地法]]
 
*[[アシエンダ制]]
 
*[[アシエンダ制]]
 
+
{{テンプレート:20180815sk}}
  
 
{{DEFAULTSORT:のうちかいかく}}
 
{{DEFAULTSORT:のうちかいかく}}

2018/9/25/ (火) 00:50時点における最新版

農地改革(のうちかいかく)

第2次世界大戦後,占領軍の強力な指導によって日本で行われた農地制度の改革。幣原内閣は 1945年 12月に第1次農地改革を提案したが,その不徹底さは占領軍および農民の納得するところとならず,46年 10月,第2次農地改革案の作成となった。これは自作農創設特別措置法と農地調整法の再改正案に基づき,地主制の解体と自作農業創設のために小作地の解放,小作料の引下げと金納化,不在地主の一掃をおもな内容とした。在地地主の貸付保有地を1町歩 (北海道は4町歩,1町歩は約 0.99ha) に制限し,それを超える貸付地と不在地主の農地は農業委員会の手で小作農に売渡された。農地改革は 50年にほぼ完了したが,これによって小作地の 80%を超える約 200万町歩が 250万の地主から 470万余の小作農に移り,牧野など約 45万町歩と未墾地 130万町歩余が解放された。この結果,戦前 70%を占めた小作農は 40%となり,自作地をもたない農家は 26%から4%に減少した。その後,旧地主層は土地の価格が不当に安すぎたとして補償要求を展開,65年に農地報償法を成立させた (農地補償 ) 。

脚注

関連項目



楽天市場検索: