足利義昭

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足利義昭
時代 室町時代後期(戦国時代) - 安土桃山時代
生誕 天文6年旧11月13日1537年12月15日
死没 慶長2年旧8月28日1597年10月9日
幕府 室町幕府
第15代征夷大将軍(在任:永禄11年(1568年) - 天正16年(1588年))
氏族 足利氏将軍家

足利 義昭(あしかが よしあき)は、室町幕府第15代(最後)の将軍[1](在職:永禄11年(1568年) - 天正16年(1588年))。

父は室町幕府第12代将軍・足利義晴。母は近衛尚通の娘・慶寿院。第13代将軍・足利義輝は同母兄。

足利将軍家の家督相続者以外の子として、慣例により仏門に入って覚慶(かくけい)と名乗り一乗院門跡となった。兄・義輝らが三好三人衆らに暗殺されると、三淵藤英細川藤孝ら幕臣の援助を受けて奈良から脱出し、還俗して義秋(よしあき)と名乗る。美濃国織田信長に擁されて上洛し、第15代将軍に就任する。やがて信長と対立し、武田信玄朝倉義景らと呼応して信長包囲網を築き上げる。一時は信長を追いつめもしたがやがて京都から追われ備後国に下向し、一般にはこれをもって室町幕府の滅亡とされている。

信長が本能寺の変によって横死した後も将軍職にあったが、豊臣政権確立後はこれを辞し、豊臣秀吉から山城国槙島1万石の大名として認められ、前将軍だった貴人として遇され余生を送った。

生涯

将軍への道

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足利義昭像(東京大学史料編纂所蔵)。江戸時代に等持院像を粗描したもの

天文6年(1537年)11月13日、第12代将軍・足利義晴の次男として生まれる。幼名は千歳丸。兄に嗣子である義輝がいた。跡目争いを避けるため、あるいは寺社との結びつきを強めるために嗣子以外の息子を出家させる足利将軍家の慣習に従って天文11年(1542年)11月20日、外祖父・近衛尚通猶子となって仏門(興福寺一乗院門跡)に入室し(『親俊日記』『南行雑録』)、法名覚慶と名乗った。のちに興福寺で権少僧都にまで栄進している。このまま覚慶は高僧として生涯を終えるはずであった。

永禄8年(1565年)5月の永禄の変で、第13代将軍であった兄・義輝と母・慶寿院、弟で鹿苑院院主であった周暠松永久通三好三人衆らによって暗殺された。このとき、覚慶も久通らによって捕縛され、興福寺に幽閉・監視された[注釈 1]。 しかし、義輝の側近であった一色藤長和田惟政仁木義政畠山尚誠米田求政三淵藤英細川藤孝および大覚寺門跡・義俊近衛尚通の子)らに助けられて7月28日に脱出し、奈良から木津川をさかのぼり伊賀国[注釈 2]へ脱出した覚慶とその一行は、さらに近江国六角義賢の許可を得た上で甲賀郡の和田城(伊賀 - 近江の国境近くにあった和田惟政の居城)にひとまず身を置き、ここで覚慶は足利将軍家の当主になる事を宣言した。11月21日には和田惟政と仁木義政の斡旋により六角義賢・義治親子の許可を得た上で、甲賀郡から都にほど近い野洲郡矢島村(守山市矢島町)に進出し[注釈 3]、在所とした(矢島御所)。この際に上杉輝虎(謙信)らに室町幕府の再興を依頼している。また輝虎と武田信玄北条氏政の3名に対して和睦を命じたりしている[4]

永禄9年(1566年)2月17日、正統な血筋による将軍家を再興するため、覚慶は矢島御所において還俗足利義秋と名乗った。当時の義昭のことを記した書物には、将軍家当主をさす矢島の武家御所などと呼ばれていたことが記されている。4月21日には従五位下左馬頭(次期将軍が就く官職)に叙位・任官[4][注釈 4]

矢島御所において義秋は、三管領家の一つである河内国畠山高政関東管領の上杉輝虎、能登国守護の畠山義綱(近江滋賀郡在国)らとも親密に連絡をとり、しきりに上洛の機会を窺った。特に高政は義秋を積極的に支持していたとみえ、実弟の畠山昭高を、この頃に義秋に従えさせた。六角義賢は当初は上洛に積極的で、和田惟政に命じて浅井長政織田信長の妹・お市の婚姻の実現を働きかけている[3]。義秋や六角・和田の構想は敵対していた六角氏・浅井氏・斎藤氏・織田氏、更には武田氏・上杉氏・後北条氏らを和解させ、彼らの協力で上洛を目指すものであったと考えられている。実際に和田惟政と細川藤孝の説得で信長と斎藤龍興は和解に応じ、信長は美濃から六角氏の勢力圏である北伊勢・南近江を経由して上洛することになった[5][6]。 この義秋の行動に対して、三好三人衆三好長逸の軍勢3,000騎が突然矢島御所を襲撃してきたが、この時は大草氏などの奉公衆(親衛隊)の奮戦により、からくも撃退することが出来た。

しかし、永禄9年(1566年)8月、先の約束通り上洛の兵を起こした信長の軍は斎藤龍興の襲撃にあって尾張国に撤退[5][6]し、さらに六角義賢・義治父子が三好三人衆と密かに内通したという情報を掴んだため、妹婿である武田義統を頼り、若狭国へ移った[4]。斎藤龍興と六角義賢の離反がほぼ同時に起きているのは三好方による巻き返しの調略があったとみられている[6]。しかし、京都北白川に出城も構え、応仁の乱では東軍の副将を務め隆盛を極めた若狭武田氏も、義統自身が息子との家督抗争や重臣の謀反などから国内が安定しておらず、上洛できる状況でなかった[4][注釈 5]

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越前国一乗谷の足利義昭御所跡

9月には若狭から越前国朝倉義景のもとへ移り、上洛への助力を要請した。義秋は朝廷に義景の母を従二位にすることを上奏して、実現したりしている。朝倉義景は細川藤孝らによる覚慶(義昭)の奈良脱出の黒幕であったとする見方がある[7]一方で、すでに足利将軍家連枝の「鞍谷御所」・足利嗣知足利義嗣の子孫)も抱えており[注釈 6]、仏門から還俗した義秋を奉じての積極的な上洛をする意思を表さなかったため、滞在は長期間となった。この頃、義秋のもとには上野清延大館晴忠などのかつての幕府重臣や諏方晴長飯尾昭連松田頼隆などの奉行衆が帰参する[注釈 7]。 なお、義昭は朝倉氏よりも上杉輝虎を頼りにしていたという。しかし輝虎は武田信玄との対立と、その信玄の調略を受けた揚北衆本庄繁長の反乱、越中の騒乱などから上洛・出兵などは不可能であった[4]。血筋や幕府の実務を行う奉行衆の掌握といった点で次期将軍候補としては対抗馬である従兄弟の足利義栄よりも有利な環境にありながらいつまでも上洛できない義昭に対し、京都の実質的支配者であった三好三人衆が擁する義栄は、義輝によって取り潰された伊勢氏(元政所執事)の再興を約束するなど朝廷や京都に残る幕臣への説得工作を続け、その結果、永禄11年(1568年)2月8日に義栄は摂津国滞在のまま将軍宣下を受けた[9]

永禄11年(1568年)4月15日、義秋は「秋」の字は不吉であるとし、京都から前関白の二条晴良を越前に招き、ようやく元服式を行って義昭と改名した[注釈 8][注釈 9]。 加冠役は朝倉義景が務めている。

やがて、朝倉家の家臣であった明智光秀の仲介により、三管領斯波氏の有力家臣であった織田信長を頼って尾張国へ移る。

幕府の再興

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足利義昭の御所であった旧二条城跡

永禄11年(1568年)9月、北近江の浅井氏などの支持も受けた上で、直接には織田信長軍と浅井長政軍に警護されて上洛を開始した。途中、六角義賢の抵抗もあったが退け、父・義晴が幕府を構えていた桑実寺に遷座、そしてさらに進軍し無事京都に到着した。これをみて、三好三人衆の勢力は京都から後退した。また、9月30日には病気を患っていた14代将軍・足利義栄も死去した(『公卿補任』)[注釈 10]。 10月18日、朝廷から将軍宣下を受けて第15代将軍に就任した。同時に従四位下、参議左近衛権中将にも昇叙・任官された[4]。なお、当時の人々の間では新興勢力である信長は義昭に従う供奉者として認識されており、信長側でも信長は御供衆の1人であるという認識があった(池田本『信長記』)[13]

将軍に就任した義昭は義輝暗殺及び足利義栄の将軍襲職に便宜を働いた容疑で近衛前久を追放し[注釈 11]、二条晴良を関白職に復職させた。近衛家は義昭の生母であった慶寿院以来、将軍の御台所を輩出してきたが、前久追放による関係の冷却化によって正室を迎えることが出来なくなった[注釈 12]。 また、幕府の管領家である細川昭元や畠山昭高、朝廷の関白家である二条昭実偏諱を与え領地を安堵し政権の安定を計り、兄の義輝が持っていた山城国御料所も掌握した。また山城国には守護を置かず、三淵藤英を伏見に配置するなどし治めた。幕府の治世の実務には、兄の義輝と同じく摂津晴門政所執事に起用し、義昭と行動を供にしていた奉行衆も職務に復帰して幕府の機能を再興した。また伊勢氏当主も義栄に出仕した伊勢貞為を弟の貞興に代えさせて義昭に仕えさせたとされる[9][16]。 このように幕府の再興を見て、島津義久喜入季久を上洛させて黄金100両を献上して祝意を表し、相良義陽毛利元就らも料所の進上を行っている[4]

義昭は当初、本圀寺を仮御所としていたが、永禄12年(1569年)1月5日、信長の兵が領国の美濃・尾張に帰還すると三好三人衆の巻き返しに晒され、本圀寺を襲われた(本圀寺の変)。兄・義輝と同様の運命になるかとも思われたが、この時は奉公衆および北近江の浅井長政・摂津国池田勝正・和田惟政・伊丹親興三好義継らの奮戦により、これを撃退した。烏丸中御門御第の再興および増強は、このような理由で急遽行われた。なお、この変事の直後である1月7日、義昭は大友宗麟に毛利元就との講和を勧め、13日には互いに講和して三好氏の本拠である阿波に出兵させようとしたが、この計画は実現しなかった[注釈 13]

義昭は信長に命じて兄・義輝も本拠を置いた烏丸中御門第(旧二条城とも呼ばれる)を整備する。この義昭の将軍邸は、二重の水堀で囲い、高い石垣を新たに構築するなど防御機能を格段に充実させたため洛中の平城と呼んで差し支えのない大規模な城郭風のものとなった。この烏丸中御門第には、室町幕府に代々奉公衆として仕えていた者や旧守護家など高い家柄の者が続々と参勤し、ここに義昭の念願であった室町幕府は完全に再興された。

織田信長との対立

新将軍として幕府を再興した義昭はまず信長の武功に対し幕閣と協議した末「室町殿御父(むろまちどのおんちち)」の称号を与えて報いた。将軍就任直後の10月24日に信長に対して宛てた感状で、「御父織田弾正忠(信長)殿」と宛て名したことはことに有名である。

信長は上洛の恩賞として尾張・美濃領有の公認と旧・三好領であった堺を含む和泉一国の支配を望んだために義昭は信長を和泉守護に任じた。さらに、信長には管領代または管領の地位、そして朝廷への副将軍への推挙を申し入れた。しかし信長は受けず、弾正忠への正式な叙任の推挙のみを受けた。

この時その他の武将にも論功行賞が行われ、池田勝正を摂津守護に、畠山高政・三好義継をそれぞれ河内半国守護に、細川藤賢は近江守護に任じられた。山城国には守護はおかれず将軍家御領(上山城守護代として長岡藤孝、下山城守護代として真木島昭光)となる。後に山岡景友が守護に任ぜられたともされるが、実質は義昭と信長によって共同統治された。

しかし、幕府再興を念願とする義昭と、武力による天下統一を狙っていた信長の思惑は違っていたために、両者の関係は徐々に悪化していくこととなる。永禄12年(1569年)8月に信長は自ら伊勢国の北畠氏を攻め、本拠地である大河内城を包囲して攻撃したものの北畠氏の抵抗で城を落としきれず、信長の要請を受けた義昭が仲介に立つ形で10月に和睦が成立した(大河内城の戦い[17]。ところが、両者の意見の齟齬から、信長が自分の次男(後の織田信雄)を北畠氏の養子に押し付けるなど、義昭の意向に反する措置を取ったことがその不快感を招き、関係悪化の一因になったとされている[13]

信長は将軍権力を制約するために、永禄12年(1569年)1月14日、殿中御掟という9箇条[注釈 14]の掟書を義昭に承認させた[4]。さらに永禄13年(1570年)1月には5箇条が追加され、義昭はこれも承認した。この殿中御掟については近年、信長が単純に将軍権力を制約しようとしたのではなく[注釈 15]、ほとんどの条文が室町幕府の規範や先例に出典が求められるもので、信長が幕府法や先例を吟味した上で幕府再興の理念を示したものだとする説も出されている[18]。 また、義昭期の幕府機構を研究していく中で、義昭が信長の傀儡とは言えず室町幕府の組織が有効に機能しており、むしろ義昭個人の将軍権力の専制化や恣意的な政治判断による問題が浮上し始めていたとする指摘もある[13]。だが、義昭が殿中御掟を全面的に遵守した形跡はなく、以後両者の関係は微妙なものとなっていく。

元亀元年(1570年)4月、信長は徳川家康とともに姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍に勝利する[注釈 16]。 信長は続いて、義昭と共に三好三人衆らを討伐に出るが(野田城・福島城の戦い)、途中で石山本願寺および浅井氏・朝倉氏が挙兵。信長は近江へ引き返したが、浅井・朝倉氏は比叡山延暦寺に立てこもり、さらに伊勢で一向一揆が蜂起するなど連合軍の巻き返しに遭い、12月には信長方から和睦を申し出た。その際、信長から朝倉方との和睦の調停を依頼された義昭は、旧知の関白・二条晴良に調停の実務を要請している。元亀2年(1571年)4月14日、烏丸光宣に嫁いでいた義昭の姉が急死するが、後難を恐れた光宣が出奔してしまう。これに激怒した義昭が同28日に一色藤長らに烏丸邸を襲わせている[15]

信長に不満を持った義昭は、自らに対する信長の影響力を相対化しようと、元亀2年(1571年)頃から上杉輝虎(謙信)や毛利輝元本願寺顕如甲斐国の武田信玄[注釈 17]、六角義賢らに御内書を下しはじめた。これは一般に信長包囲網と呼ばれている。この包囲網にはかねてから信長と対立していた朝倉義景・浅井長政や延暦寺、兄の敵でもあった松永久秀、三好三人衆、三好義継らも加わっている。ただし、松永久秀追討に義昭の兵が参加するなど、義昭と信長の対立はまだ必ずしも全面的なものにまではなっていなかった。この年の11月には、摂津晴門の退任後に空席であった政所執事(頭人)に若年の伊勢貞興を任じる人事を信長が同意[19]し、貞興の成人までは信長が職務を代行することになった[16]

元亀3年(1572年)10月、信長は義昭に対して17条の意見書を送付した[注釈 18][注釈 19]。 この意見書は義昭の様々な点を批判している。

これによって義昭と信長の対立は抜き差しならないものになり、義昭は挙兵。東では武田信玄が上洛を開始し[注釈 20][注釈 21]、12月22日の三方ヶ原の戦いで信長の同盟者である徳川家康の軍勢を破るなどすると、信長は窮地に陥り、義昭は寵臣・山岡景友(六角義賢の重臣で幕府奉公衆でもある)を山城半国守護に任命する。だがその後、朝倉義景が12月3日に越前に撤退してしまったため、義昭は翌年2月に信玄から遺憾の意を示されて義景に重ねて出兵するように求めている(『古証記』)[24]。義昭も義景、あるいは朝倉一族に対して5,000から6,000の兵を京都郊外の岩倉の山本に出兵するように命じている(『牧田茂兵衛氏所蔵文書』天正元年2月29日付義昭文書)[2]

元亀4年(1573年)正月、信長は子を人質として義昭に和睦を申し入れたが、義昭は信じず、これを一蹴した。義昭は近江の今堅田城石山城に幕府の軍勢を入れ、はっきりと反信長の旗を揚げた。しかし攻撃を受けると数日で両城は陥落している。その頃、東では信玄の病状が悪化したため、武田軍は4月に本国への撤退を始める。信玄は4月12日には死去した。

信長は京に入り知恩院に陣を張った。幕臣であった細川藤孝や荒木村重らは義昭を見限り、信長についた。しかし義昭は(おそらく信玄の死を知らなかったため)、洛中の居城である烏丸中御門第にこもり、抵抗を続けた。信長は再度和睦を要請したが、義昭は信用せずこれを拒否した。信長は威嚇として幕臣や義昭の支持者が住居する上京全域を焼き討ちにより焦土化し、ついに烏丸中御門第を包囲して義昭に圧力をかけた。さらに信長はふたたび朝廷に工作した末、4月5日に勅命による講和が成立した。

しかし7月3日、義昭は講和を破棄し、烏丸中御門第を三淵藤英・伊勢貞興らの他に日野輝資高倉永相などの武家昵近公家衆に預けた上で、南山城の要害・槇島城(山城国の守護所)に移り挙兵した。槇島城は宇治川巨椋池水系の島地に築かれた要害であり、義昭の近臣・真木島昭光の居城でもあったが、烏丸中御門第で最後まで籠っていた三淵藤英も10日に降伏し、槇島城も7万の軍勢により包囲された。7月18日に織田軍が攻撃を開始すると槇島城の施設がほとんど破壊されたため、家臣にうながされ、しぶしぶ降伏した。

信長は他の有力戦国大名の手前、足利将軍家追放の悪名を避けるため、義昭の息子である義尋を足利将軍家の後継者として立てるとの約束で義昭と交渉のうえ自身の手元に置いた(人質の意味もあった)が、後に信長の憂慮が去ると反故にされている。

京都から追放

信長は義昭の京都追放を実行し、足利将軍家の山城及び丹波・近江・若狭ほかの御料所を自領とした。続いて7月28日に天正への改元を行う。8月には朝倉氏、9月には浅井氏も滅亡し、信長包囲網は瓦解した。一方で信長は、これまで幕府の政所や侍所が行ってきた業務を自己の京都所司代である村井貞勝に行わせ、続く天正2年(1574年)には塙直政を山城・大和の守護に任じ、畿内の支配を固めた。それまで信長は義昭を擁することで、間接的に天下人としての役割を担っていたが、義昭追放後は信長一人が天下人としての地位を保ち続けた[25]

しかし、義昭が京都から追放されたとは言っても、かつて10代将軍であった足利義稙明応の政変で将軍職を解任された後も大内義興らによって引き続き将軍として支持を受けて後に義興に奉じられて上洛して将軍職に復帰したように、義昭が京都に復帰する可能性も当時は考えられていた。実際に義昭は征夷大将軍であり続けたと公式記録(『公卿補任』)には記されている。また義昭も将軍職としての政務は続け、伊勢氏高氏一色氏上野氏細川氏大館氏飯尾氏松田氏大草氏などの幕府の中枢を構成した奉公衆や奉行衆を伴い、近臣や大名を室町幕府の役職に任命するなどの活動を行っていた[注釈 22]。 そのため近畿周辺の信長勢力圏以外(北陸・中国・九州)では、追放前と同程度の権威を保ち続け、それらの地域の大名からの献金も期待できた。また京都五山住持任命権も足利将軍家に存在したため、その任命による礼金収入は存在していた。

その一方で、所領安堵と引換に信長に従った奉公衆や奉行衆などもおり、その中には最後の政所執事である伊勢貞興、侍所開闔を務めた経験を持つ松田頼隆、他に石谷頼辰小笠原秀清などがいた。ただし、そのほとんどがこれまでの幕府の職務から離れ、細川藤孝や明智光秀などの麾下に置かれた。これは幕臣たち所領の多くが彼らの支配下に置かれた事や個人的なつながりに由来すると考えられる。一方で、京都の統治を担当した村井貞勝の麾下に置かれた名のある幕臣はおらず、旧来の統治のノウハウが室町幕府から織田政権に継承されることはなかった。こうした一連の流れは、室町幕府の幕臣達は信長によって荘園制など中世的な秩序が解体されて将軍・幕府の権威を必要としない支配体制を構築されつつある中で、義昭の再上洛・復権に賭けるか、現実的な京都の支配者である信長に従って所領安堵を図るかの判断に分かれたとみられる。その一方で、信長側からみても幕臣が義昭に従う者と信長に従う者に二分された結果、政所や侍所など幕府機構の維持に必要な人材が不足して機能停止の状態に陥ったため、これらの機構に依拠しない支配体制を構築する方向性に進み、政所や侍所の職員だった幕臣も信長の下で新たな役割を与えられることで、京都における室町幕府の機構は完全に解体されることになった[16]

また、これまでの室町将軍の動座・追放の際にはそれまで将軍を支持して「昵近」関係にあった公家が随伴するのが恒例で、彼らを仲介して朝廷との関係が維持され続けていた。実際に義昭の越前滞在時にも未だに将軍に就任していないにも関わらず前関白(当時)二条晴良や飛鳥井雅敦らが下向し、義昭に追われる形となった前将軍・義栄にも水無瀬親氏が最後まで従っている。ところが、今回の義昭追放においては烏丸中御門第で信長に抵抗した高倉永相や日野輝資のような公家はいたものの、彼らは最終的には信長の説得に応じ、義昭に従って京都を離れた公家は皆無であった。これは義昭の将軍就任以降の5年間に元亀から新元号への改元問題を巡る朝廷との対立や近衛前久の出奔や烏丸邸の襲撃などによる伝統的に足利将軍家と「昵近」関係にあった公家との関係悪化があり、また、信長による公家への所領安堵があったとみられている。そして朝廷では追放後の義昭を従来通りの将軍の別称である「公方」「武家」と呼んで引き続き将軍としての地位を認め、新たに天下人となった信長に対してその呼称を用いることはなかったものの、義昭側に仲介となる公家がいなかったこともあり、両者の間に関係が持たれる事は無かった[15][26]

『公卿補任』によると、関白・豊臣秀吉と共に御所へ参内し、准三后となり正式に征夷大将軍を辞する天正16年1月13日1588年2月9日)まで足利家の源義昭が征夷大将軍であったと正式に記録されている。その一方で、200年余り続いた室町幕府の中で、征夷大将軍が足利家の家職であり「(足利家と同じ清和源氏であったとしても)他家の人間が征夷大将軍に就任する事はありえない」という風潮が確立されており、出家後の義昭をその死去まで将軍とみなす社会認識があったとして、そのことが朝廷が積極的に義昭の解任の動きを見せなかった理由、織田信長が義昭に代わる征夷大将軍の地位を求めなかった理由とする説もある[26]

備後国への下向

京都からの追放後、義昭はいったん枇杷荘(現:京都府城陽市)に退いたが、顕如らの仲介もあり、妹婿である三好義継の拠る河内若江城へ移った。護衛には羽柴秀吉があたったという。しかし信長と義継の関係も悪化したため、11月5日に和泉のに移った。堺に移ると信長の元から羽柴秀吉と朝山日乗が使者として訪れ、義昭の帰京を要請した。この説得には毛利輝元の家臣である安国寺恵瓊林就長もあたっている[27]。しかし義昭が信長からの人質提出を求めるなどしたため交渉は決裂している。

翌・天正2年(1574年)には紀伊国興国寺に移り、ついで田辺の泊城に移った。紀伊は室町幕府管領畠山氏の勢力がまだまだ残る国であり、特に畠山高政の重臣であった湯川直春の勢力は強大であった。直春の父・湯川直光は紀伊出身でありながら河内守護代をも務めたことがある実力者である。

天正3年(1575年)、信長包囲網を再度形成するため、武田勝頼、北条氏政、上杉謙信の三者に対して和睦をするよう呼びかけた(甲相越三和)。これに対する上杉家重臣・直江景綱河田長親の回答は、甲州(武田)との和睦はやぶさかではないが相州(北条)が加わるのは承服しかねるというものであった(『上越市史』)[注釈 23]。北条・上杉間の不和により甲相越三和は実現しなかったものの、武田と上杉の和睦は10月中に成立しており、長篠の戦いの敗戦によって窮地に立たされていた勝頼は外交状況の改善に成功した。11月、義昭がかねてより望んでいた右近衛大将に信長が任官してしまう。

天正4年(1576年)、義昭は毛利輝元の勢力下であった備後国に移った。鞆はかつて足利尊氏光厳天皇より新田義貞追討の院宣を受けたという、足利家にとっての由緒がある場所であった。また第10代将軍・足利義稙が大内氏の支援のもと、京都復帰を果たしたという故事もある足利家にとって吉兆の地でもあった。これ以降の義昭の備後の亡命政府は鞆幕府とも呼ばれる。鞆での生活は、備中国の御料所からの年貢の他、足利将軍の専権事項であった五山住持の任免権を行使して礼銭を獲得できたこと、日明貿易を通して足利将軍家と関係の深かった宗氏島津氏からの支援もあり財政的には困難な状態ではなかったと言われている。一方で、征夷大将軍として一定の格式を維持し、更に対信長の外交工作を行っていく以上、その費用も決して少なくはなく、また恒常的に保証された収入が少ない以上、その財政はかなり困難であったとする見方もあり、天正年間後期には真木嶋昭光・一色昭孝(唐橋在通)クラスの重臣ですら吉見氏山内首藤氏など毛利氏麾下の国衆への「預置」(一時的に客将として与えて面倒をみさせる)の措置を取っている[26]。 近畿東海以外では足利将軍家支持の武家もまだまだ多かった。この地から、義昭は京都への帰還[28]や信長追討を目指し全国の大名に御内書を下している。6月12日には、武田、北条、上杉の三者に甲相越三和を命じる御内書を再度下した。前年とは違い、この時は毛利輝元の副状付きであった。また、毛利氏が上洛に踏み切らないのは、北九州で大友宗麟の侵攻を受けているからだと考えた義昭は島津氏龍造寺氏大友氏討伐を命じる御内書を下した。島津義久はこれを大友領侵攻の大義名分として北上し、日向国伊東義祐を旧領に復帰させるために南下しようとしていた大友宗麟と激突、天正6年(1578年)の耳川の戦いの一因になったとする説もある[29]。 天正5年(1577年)9月の手取川の戦いで織田軍を破った上杉謙信も天正6年(1578年)3月に死去し、天正8年(1580年)には石山本願寺も信長に降伏した。天正10年(1582年)3月には武田勝頼が信長によって滅ぼされた(甲州征伐[注釈 24]

しかし、義昭がまだ鞆に滞在中であった天正10年(1582年)6月2日に信長と嫡子の織田信忠本能寺の変で明智光秀に討たれた。光秀の家臣団には伊勢貞興や蜷川貞周といった、旧室町幕府幕臣が多くいた。同年、義昭は鞆城から居所を山陽道に近い津之郷(現福山市津之郷町)へと移させる[30]

信長の死を好機に、義昭は毛利輝元に上洛の支援を求めた。一方、羽柴秀吉や柴田勝家にも同じような働きかけを盛んに行なっていた。親秀吉派であった小早川隆景らが反対したこともあり、秀吉に接近しつつあった毛利氏との関係は冷却したとも言われるが、天正11年(1583年)2月には、毛利輝元・柴田勝家・徳川家康から上洛の支持を取り付けている。

同年、毛利輝元が羽柴秀吉に臣従し、天正14年(1586年)、秀吉が関白太政大臣となる。その後、「関白秀吉・将軍義昭」という時代は2年間続いた。この2年間は、秀吉が天下を統一していく期間に該当する。

京都への帰還

義昭は将軍として秀吉との和睦を島津義久に対して勧めていた。天正14年(1586年)12月4日には一色昭秀鹿児島に送って和議を勧めている[31]

天正15年(1587年)、秀吉は九州平定に向かう途中に義昭の住む備後国沼隈郡津之郷の御所付近を訪れ、そばにある田辺寺にて義昭と対面した(太刀の交換があったといわれている)。同年4月、義昭は再び一色昭秀を送って島津義久に重ねて和睦を勧めている[4]

島津氏が秀吉の軍門に下った後の10月、義昭は京都に帰還する[30]。その後、天正16年(1588年1月13日に秀吉に従って参内し、将軍職を辞したのち受戒し、名を昌山(道休)と号した。また、朝廷から准三后の称号(待遇)を受けている。

秀吉からは山城国槇島において1万石の領地を認められた。1万石とはいえ前将軍であったので、殿中での待遇は大大名以上であった。文禄・慶長の役には、秀吉のたっての要請により、由緒ある奉公衆などの名家による軍勢200人を従えて肥前国名護屋まで参陣している。

晩年は斯波義銀山名堯熙赤松則房らとともに秀吉の御伽衆に加えられ、太閤の良き話相手であったとされる。毛利輝元の上洛の際などに名前が見られる[32]

慶長2年(1597年)8月、大坂[注釈 25]薨去。死因は腫物であったとされ病臥して数日で没したが、老齢で肥前まで出陣したのが身にこたえたのではないかとされている。義演は日記[35]の中で「近年将軍ノ号蔑也、有名無実弥以相果了」と感想を記している[26]享年61(満59歳没)[4]

年表

人物・逸話

  • 天下統一を実現した秀吉が幕府の創立を目論み、義昭を大名にする代わりに自分を養子としてくれるようにと望んだが、これを拒絶した、という逸話が伝わる[36]が、これは林羅山の説が初出であり、事実と見られていない。
  • 兄・義輝の死後、幕臣に守られながら流浪したり、信長に追放されて諸国を流浪したりして諸大名を頼った経緯から、「貧乏公方」と噂されたといわれる。
  • 義昭は自らが将軍に就任した際、元号を「元亀」と改元するべく朝廷に奏請した。しかし信長はそれが将軍権威の復活につながること、正親町天皇の在位が続いているのに必要ないと反対した。しかし義昭は信長が朝倉氏討伐に出陣した4月23日、改元を実行している。元亀3年(1572年)に朝廷が「元亀」からの改元を決定した際には、義昭が改元費用の献上を拒んだ(『御湯殿上日記』元亀3年3月29日・4月20日条)。また、歴代室町将軍が行っていた禁裏(御所)修繕も行なわなかった。このため、朝廷では義昭への非難が高まり、吉田兼見は「大樹(将軍)所業之事、禁裏其外沙汰如何、公義(公儀)・万民中々無是非次第之間申也」(『兼見卿記』元亀4年4月1日条)と、義昭の評判の悪さを記している。信長も元亀3年秋に出した義昭への意見状で義輝の時代と比較して幕府の朝廷への態度が不誠実であるとして改元や禁裏修繕の件を例に挙げて非難しており、義昭追放の正当な根拠の1つとされた[37]
  • 歴代足利将軍の中では最も長命(61歳)な人物である。足利氏初代の義康からみても3代義氏(67歳)に次ぐ長命を誇る。
  • 『朝倉亭御成記』には足利義昭が美味なるものとしてカズノコを食べていたという記録が残っている。
  • 本能寺の変において、足利義昭黒幕説があるが、以下の理由により黒幕説は成立はしないとされている。まず、6月9日に明智光秀が細川父子に宛てた覚書に、光秀と細川藤孝にとって共通の旧主である義昭の存在が全く見えないことである。義昭が光秀の謀反に何らかの形で関わっていたとしたら、この場面で義昭を引き合いに出さないのは不自然で、信義を尊ぶ細川父子であればなおのこと有効であったはずである。義昭の存在が謀反の名分になっていなかったことを意味するものであるといえる。また打倒信長を目指して行動を続けていた義昭のもとに、信長を自決させたという密書が届けられた形跡はない。それどころか光秀周辺とのつながりを示すような材料も全く見えてこない。このことは毛利氏の場合も同様である。信長の死を知らせる光秀の使者が秀吉の陣営に迷い込んで捕らえられた不手際も、義昭と毛利氏が本能寺の変を全く予測できなかったことの証である。義昭が黒幕として光秀を操っていたのなら、あらかじめ隠密の使者のルートが調えられていたに違いないであろうからである。さらに変報を知った後の毛利氏の対応の仕方である。吉川広家の覚書(案文)には毛利氏は秀吉撤退の日の翌日に本能寺の変報を入手しており、秀吉との和議が成ったことを理由に織田軍の追撃をしなかったというものであり、この事実は義昭と事変との関わりの是非を知るうえで意義深いものである。仮に義昭が黒幕として光秀と通じていたならば、光秀が京都を抑えていた段階で秀吉への追撃を思いとどまることなどありえなかったであろう。むしろ一気に攻勢をかけなければいけなかったはずである。以上のことから、足利義昭を黒幕と見るにはかなりの困難がともない、学問的には全く否定材料しか見当らず肯定する要素はないのが現実であるといえる[38]

系譜

義昭の嫡男・足利義尋は、信長の人質となった後、興福寺大乗院門跡となった。義尋は後に還俗して二人の子をもうけたが、二人とも仏門に入った。このため義昭の正系は断絶した。

大坂の役の際に義昭の子と称する一色義喬が総数563人分の「家臣連判帳」を提出して徳川方として参加しようとして果たせなかったという。その孫・義邵会津松平家に仕え陸奥会津藩士となり、坂本姓を名乗る。仕官の際に足利氏菩提寺の鑁阿寺に相伝の家宝の一部を寄進したという(『足利市史 上巻』)。

「永山氏系図」(『鹿児島県史料 旧記雑録拾遺 伊地知季安著作集』所収)において泉州蟄居の際にできた子として、義在という人物の名が記されている。同史料に寄れば、義在は薩摩藩士となり、舅の姓に改姓して「永山休兵衛」と称したという。ただし、義喬と義在の存在は同時代史料では確認されていない。

明治12年(1879年)には押小路実潔が、名家の子孫を華族に取り立てるよう請願書を提出しているが、この中で「西山義昭将軍裔ニして細川家ニ客タリ足利家」も名家の一つとして数えている[39]。 これは肥後熊本藩士であった尾池義辰の子孫、西山氏を指すものであるが、この西山氏の先祖は義輝という説や義昭の弟という説もあるため明確になっていない。

偏諱を受けた人物

公家

武家

「義」の字

「秋」の字

「昭」の字

脚注

注釈

  1. 久秀らは覚慶が将軍の弟で、なおかつ将来は興福寺別当(興福寺は大和の守護大名でもあった)の職を約束されていたことから、覚慶を殺すことで興福寺を敵に回すことを恐れて、幽閉にとどめたとされる。実際に監視付といっても外出禁止の程度で行動は自由であった。『上杉古文書』では厳重な監視としている[2]
  2. 仁木義政が守護であった。国人の一人である服部氏は、この後も義昭に随行することとなる。
  3. 当時、松永久秀と三好三人衆の間では確執が発生しており、上洛の好機と捉えたとみられている。この時、和田惟政は織田信長に上洛への協力要請を取り付けるために尾張に滞在しており、惟政には無断の移座であった。後日、惟政が激怒していることを知った覚慶は惟政に謝罪の書状を送っている[3]
  4. 叙任時期については疑問視する意見があるが、『言継卿記』によれば永禄11年(1568年)2月に行われた義昭の対抗馬である足利義栄への将軍宣下当日に宣下の使者であった山科言継の屋敷に義昭の使者が現れて従四位下への昇進推薦の仲介を依頼しに来たために困惑した事が書かれており、この以前に叙任を受けていた事は明らかである。
  5. 武田義統は出兵の代わりに実弟の武田信景を義秋に従えさせた。
  6. ただし、「鞍谷御所」は後世の創作で実際の鞍谷氏は、奥州斯波氏の嫡流の系統に属し、斯波一族でも宗家である武衛家に近い、高い格式を持った一族であるとする佐藤圭の説がある[8]
  7. 幕府行政の実務を担当していた奉行衆8名のうち最終的には6名が越前の義昭の下に下向した事が確認でき、対抗相手であった足利義栄が京都に入っても将軍の職務を行うのが困難となり、将軍宣下後も京都に入れなかった一因になったという[9]
  8. 山科言継も招く予定だったが、費用の問題から晴良だけになった[10]
  9. これまで、近衛家が足利義晴―義輝の外戚的存在としてこれを支持して彼らが京都を追われた時期においてもこれに随行し、九条家及び同系の二条家が足利義維―義栄を支持して石山本願寺とも連携する構図となっていたが、永禄の変後が義昭の従兄弟である近衛前久が従前通り近衛家の血を引く義昭の下向には同行せずに義栄を擁する三好三人衆と接近したことによって、義昭からは兄・義輝暗殺への前久の関与を疑わせ、九条稙通や二条晴良からは三好三人衆と義栄が近衛家支持に回ったと疑わせた。その結果、稙通や晴良は義昭を支援することになり、将軍家と摂関家の関係に一種のねじれが生じることになった[11]
  10. 義栄の死去日には異説もあり、実際の死亡時期が判然としないため、義昭が将軍宣下を受けた際に義栄の死去によって将軍職が空席の状態であったのか、義昭が義栄を廃した上での将軍宣下であったのかは定かではない[12]
  11. 前久は自ら京都を退去し、家督を子に譲ったとされる[14]。前久は自ら京都を離れて大坂(石山本願寺)に下り、子の明丸(後の近衛信尹)を出仕させることで義昭の怒りをかわそうとしたが、義昭の怒りは激しく正親町天皇や信長の執り成しにも関わらず、近衛家は闕所扱いにされ、明丸も大坂への在国を命じられて、事実上の追放処分となった。なお、これまで九条家・二条家と懇意であった石山本願寺はこれを機に近衛家と結ぶことになり、石山合戦の遠因となる[11]
  12. 二条晴良には適齢期の娘がいなかった[15]
  13. ただし義昭は御内書において「異論があれば天下に対し不忠になる」と将軍の貫禄を見せている[4]
  14. 2日後には7箇条を追加し、16箇条となった。
  15. 将軍専制の確立と大名権力の抑制を意図する室町将軍とこれを抑えようとする管領ら有力大名の対立はこれまでもたびたび発生しており、義昭と信長に限定された話ではない。
  16. これ以前の浅井氏の寝返り(金ヶ崎の戦い)も義昭の意思を受けてのものだったという説もあるが、史料はなく、見解の分かれるところである。
  17. 信玄は永禄11年(1568年)に今川領国への侵攻(駿河侵攻)を行い、これに対抗した相模後北条氏は上杉氏との越相同盟を結び武田領国への圧力を加えていたが、同年に上洛した義昭は三者の調停を行っている。翌永禄12年(1569年)に信玄は信長や義昭に上杉氏との和睦(甲越和与)の調停を依頼しており、義昭の仲介により和睦が実現している。
  18. この送付の理由は征夷大将軍である義昭と戦うには正義は信長にある事を敵味方から世間に宣伝する必要があったとされている[20]
  19. 写しが各地に残っていることから、あちこちに配られたようである。
  20. 信玄と義昭の関係は公式には元亀元年(1570年)4月に始まった。だが信玄は当時信長と同盟関係にあり、義昭との仲の発展はなかった。元亀3年5月13日付で義昭は信玄に「軍事行動を起こして、天下が平定するよう努力せよ」との御内書を与えており、これが信玄の軍事行動の大義名分となった[22]
  21. この御内書については元亀4年5月13日付のものとする鴨川達夫や柴裕之の説もある。柴は元亀3年10月が信玄が徳川家康領に本格侵攻した時期であり、信玄が家康そしてその盟友である信長に対する軍事行動の正当化のために外交工作を活発化させ、義昭も武田・朝倉・浅井・三好・本願寺の連合軍を前に義昭-信長が管轄する天下の存立(天下静謐)の存続が困難になったと判断し、信玄らの反信長連合を軸とする天下静謐への路線転換を図ったとし、信長包囲網が形成されたのはこの時であったとする。なお、鴨川・柴らの見解に沿えば、義昭は信玄の病没を知ることなく御内書を発給したことになる[23]
  22. 同様に京都から動座して幕府の政務を執った足利将軍には足利義詮足利義尚足利義稙、足利義晴、足利義輝等が存在する。
  23. 謙信は過去に越相同盟を氏政によって一方的に破棄されており、これを不満に持っていたとされる。
  24. 直接兵を率いたのは信長の息子の織田信忠である。
  25. 細川家記』は没地を備後国鞆としており[33]、久野雅司も「名護屋城からの帰途途中に鞆にて病没した」としている[34]

出典

  1. 国史大辞典(吉川弘文館)
  2. 2.0 2.1 奥野 1996, p. 100.
  3. 3.0 3.1 久保尚文「和田惟政関係文書について」、『京都市歴史資料館紀要』創刊号、1984年/所収:久野 2015
  4. 4.00 4.01 4.02 4.03 4.04 4.05 4.06 4.07 4.08 4.09 4.10 奥野 1996
  5. 5.0 5.1 村井祐樹「幻の信長上洛作戦」、『古文書研究』第78号、2014年
  6. 6.0 6.1 6.2 久野 2015, 「足利義昭政権の研究」
  7. 渡辺世祐「上洛前の足利義昭と織田信長」、『史学雑誌』29巻2号、1918年/所収:久野 2015
  8. 佐藤圭「戦国期の越前斯波氏について」、『若越郷土研究』第45巻4・5号、2000年/所収:木下聡編 『シリーズ・室町幕府の研究 第一巻 管領斯波氏』 戎光祥出版、2015年ISBN 978-4-86403-146-2 
  9. 9.0 9.1 9.2 木下昌規、「永禄の政変後の足利義栄と将軍直臣団」、天野忠幸 他編 『論文集二 戦国・織豊期の西国社会』 日本史史料研究会、2012年 /所収:木下 2014
  10. 奥野 1996, p. 130-131.
  11. 11.0 11.1 水野智之「足利義晴~義昭における摂関家・本願寺と将軍・大名」、『織豊期研究』12号、2010年/所収:久野 2015
  12. 木下 2014, p. 356.
  13. 13.0 13.1 13.2 久野雅司「足利義昭政権論」、『歴史評論』第640号、2003年/所収:久野 2015
  14. 奥野 1996, p. 142.
  15. 15.0 15.1 15.2 木下 2014, 「足利義昭期の昵近公家衆と山科言継をめぐって」
  16. 16.0 16.1 16.2 木下 2014, 「京都支配から見る足利義昭期室町幕府と織田権力」(原論文:2010年・2012年)
  17. 谷口克広 『信長と将軍義昭』 中央公論新社〈中公新書〉、2014年。
  18. 臼井進「室町幕府と織田政権との関係について-足利義昭宛の条書を素材として-」、『史叢』54・55号、1995年/所収:久野 2015
  19. 元亀2年11月1日付織田信長書状(「本法寺文書」)
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  21. 『現代語訳 信長公記』- 太田牛一 著、中川太古 訳 - 新人物文庫 - 189 - 194ページ
  22. 奥野 1996, p. 187.
  23. 柴裕之「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」、『武田氏研究』第37号、2007年/柴『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』岩田書院、2014年。
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  25. 戦国期の「天下」観については神田千里「織田政権の支配の論理に関する一考察」『東洋大学文学部紀要』2002、同『戦国乱世を生きる力』中央公論社、2002)
  26. 26.0 26.1 26.2 26.3 木下 2014, 「鞆動座後の将軍足利義昭とその周辺をめぐって」
  27. 谷口克広 『信長と消えた家臣たち』 中央公論新社〈中公新書〉、2007年。ISBN 4-12-101907-5。
  28. 室町最後の将軍・足利義昭、広島・鞆から手紙 帰京の助力求める”. 産経新聞社 (2018年6月22日). . 2018閲覧.
  29. 伊集守道「天正期島津氏の領国拡大と足利義昭の関係」、『九州史学』157号、2010年/所収:新名一仁編 『シリーズ・中世西国武士の研究 第一巻 薩摩島津氏』 戎光祥出版、2014年ISBN 978-4-86403-103-5 
  30. 30.0 30.1 小林定市「足利義昭の上國について」、『山城志』19集、2008年
  31. 奥野 1996, p. 287.
  32. 二木謙一 『秀吉の接待 毛利輝元上洛日記を読み解く』〈学研新書〉2008年。
  33. 奥野 1996, p. 301.
  34. 久野 2015, 「足利義昭政権の研究」.
  35. 『義演准后日記』慶長2年8月10日条
  36. 『義昭興廃記』 畿内戦国軍記集 和泉選書39 1989年1月15日初版第1刷発行 青木晃、加美宏、藤川宗暢、松林靖明編 和泉書院発行。そもそもは、加賀市立図書館聖藩文庫蔵
  37. 神田裕理「織豊期の改元」『戦国・織豊期の朝廷と公家社会』校倉書房、2011年
  38. 宮本義己「足利義昭黒幕説を検証する」(『別冊歴史読本』19巻第25号、1994年)
  39. 塵海研究会 宮中恩典と士族─維新前後の身分再編、京都官家士族の復位請願運動と華族取立運動─

参考文献

  • 桑田忠親 『流浪将軍 足利義昭』 講談社、1985年。ISBN 4-06-201850-0。
  • 奥野高広 『足利義昭』 吉川弘文館〈人物叢書〉、1996年、新装版。ISBN 4-642-05182-1。
  • 木下昌規 『戦国期足利将軍家の権力構造』 岩田書院、2014年。ISBN 978-4-87294-875-2。
  • 久野雅司 編著 『足利義昭』 戒光祥出版〈シリーズ・室町幕府の研究 第二巻〉、2015年。ISBN 978-4-86403-162-2。
  • 丸島和洋 『武田勝頼 試される戦国大名の「器量」』 平凡社、2017年。ISBN 978-4-582-47732-0。

義昭を題材とした作品

小説
  • 松本清張「陰謀将軍」(新潮文庫『佐渡流人行』収録)
  • 岡本好古『御所車 最後の将軍・足利義昭』(文藝春秋1993年) ISBN 4-16-314070-0
  • 水上勉『足利義昭 流れ公方記』(学陽書房人物文庫、1998年) ISBN 4-313-75033-9
  • 宮本昌孝「義輝異聞・遺恩」(徳間文庫『将軍の星 義輝異聞』収録)

関連項目