足利義尚

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足利義尚
時代 室町時代中期 - 後期
生誕 寛正6年11月23日1465年12月11日
死没 長享3年3月26日1489年4月26日
幕府 室町幕府第9代征夷大将軍
氏族 足利氏足利将軍家
特記事項 次代将軍:足利義材 (※一説に義尚の養子とも)

足利 義尚(あしかが よしひさ)は、室町時代後期の室町幕府第9代将軍(在職:文明5年(1473年) - 1489年)。

尊卑分脈』や『足利家官位記』により、晩年に足利義煕(- よしひろ)と改名したことが確認できるが、一般的には義尚の名で知られる。応仁の乱では、叔父の足利義視と将軍職をめぐる対立候補として擁立された。乱後は衰退した幕府権力を回復すべく、六角征伐などの積極的な幕政改革を行なったが、在陣していた近江国の陣中にて病死した。

生涯

寛正6年(1465年)11月23日、8代将軍・足利義政と正室・日野富子の次男として生まれる。長らく実子のなかった義政は弟の義視を養子にしていたが、義尚が誕生すると富子は義尚を次期将軍に願望して有力守護大名山名宗全と結託する。対する義視も管領細川勝元を後ろ盾としたため、両派は次期将軍の座をめぐって激しく対立する。やがて、勝元と宗全による権力闘争や畠山氏斯波氏の家督争いも重なって応仁の乱に発展した。文明5年(1473年)12月19日には義政から将軍職を譲られ、義尚は9代将軍に就任する。

直前に元服を済ませていたとは言え、就任当時はまだ9歳であり、政務の実質は義政・富子夫妻と富子の兄である日野勝光が中心となって行った。文明11年(1479年)11月になって、御判始・評定始・御前沙汰始を行って本格的な政務を開始するが、義政らが実権を手放さなかったために父子間の確執が生じた。文明14年(1482年)7月に義政は政務を義尚に譲る意思を表明して、翌年6月には東山山荘に退くが依然として義政が実権を握り続けたため確執は収まらず、文明18年(1486年)12月になって義政は改めて政務からの引退を表明したが、それでも対外交渉と禅院に関する事項は依然として義政が実権を握り続けた[2]

応仁の乱後、下克上の風潮によって幕府の権威は大きく衰退してしまった。義尚は将軍権力の確立に努め、長享元年(1487年)9月12日、公家や寺社などの所領を押領した近江守護六角高頼を討伐するため、諸大名や奉公衆約2万もの軍勢を率いて近江へ出陣した(長享・延徳の乱)。高頼は観音寺城を捨てて甲賀郡へ逃走したが、各所でゲリラ戦を展開して抵抗したため、義尚は死去するまでの1年5ヶ月もの間、近江鈎(まがり・滋賀県栗東市)への長期在陣を余儀なくされた(鈎の陣)。そのため、鈎の陣所は実質的に将軍御所として機能し、京都から公家や武家らが訪問するなど華やかな儀礼も行われた。ところで義尚率いる幕府軍には、斯波義寛が従軍していたが、義寛が越前国支配の復旧を求めて、応仁の乱以来、同国を掌握している朝倉貞景を訴えた。この時、朝倉一族の朝倉景冬が幕府軍に従軍して、貞景本人は越前敦賀にとどまっていたが、義尚は朝倉氏の主張をほぼ認め、朝倉氏を将軍の直臣とする裁決を下した。長享2年(1488年[3]、改名して義煕と称する。同年には、加賀一向一揆によって加賀国守護の富樫政親が討ち取られた。政親は長享・延徳の乱では、幕府軍に従軍していたこともあり、義尚は蓮如に一揆に加わった者を破門するよう命じるが、細川政元にいさめられ、蓮如が一揆を叱責することで思いとどまった。文明17年(1485年)に京がある山城国で起きた山城国一揆についても、ただちに武力鎮圧しようとはせず、むしろ一定の権限を認めた。

六角征伐によって幕府権力は一時的に回復したものの、義尚は次第に酒色や文弱に溺れるようになって政治や軍事を顧みなくなった。また、長享2年(1488年)には寵愛する結城尚豊(ひさとよ、「尚」の字は義尚から賜ったもの)を近江守護に任じるなど、側近を重用して専ら政治を任せたため、幕府権力が専横される結果となった。その一方で、義尚の側近や奉公衆が近江の寺社本所領兵粮料所にする名目で事実上の押領を行ったため、荘園領主らは父である義政による関与を求めるようになり、義尚にとっては幕府権限が自分の為にあるのを示す近江出兵が結果的には義政の政治的発言力の復活を生み出すことになった[2]

長享3年(1489年)3月26日巳の刻(午前10時)、近江鈎の陣中で病死した。享年25(満23歳没)。死因は過度の酒色による脳溢血といわれるが、荒淫のためという説もある[4]

義尚には継嗣が無かったため、従弟(義視の子)である足利義材(のちの義稙)が義政の養子となって(一説に義尚の養子になったともいわれる)、延徳2年(1490年)に10代将軍に就任した。

辞世の句

  • ながらへば人の心も見るべきに露の命ぞはかなかりけり
  • もしほ草あまの袖師の裏波にやどすも心あり明の月
  • 出づる日の余の国までも鏡山と思ひしこともいたづらの身や

墓所・肖像

墓所
法号は常徳院悦山道治。没後は相国寺常徳院に葬られたが、後に大光明寺に改葬された。現在も同寺にその墓は現存する。[5]
肖像

人物・逸話

  • 美しい顔立ちから「緑髪将軍」と称された。古記録によると「御容顔いとも美しく、すきのない玉の御姿」とある。
  • 一条兼良から政道和歌などを学ぶなど、文化人としての評価は高い。和歌に熱心で、文明10年(1478年)頃から盛んに歌会を主催した。文明15年(1483年)10月には『新百人一首』を撰定し、さらに姉小路基綱三条西実隆飛鳥井雅親宗祇などの歌人を結集して和歌『撰藻鈔』の編纂を試みたが、義尚の陣没により未完に終わった。文明16年(1484年)には、摂津国の多田院に、『多田院廟前詠五十首和歌』を奉納した。他に『常徳院集』など数種の歌集が伝わる。
  • 母・富子は義尚の諸事に関して過度なまでに干渉したため、義尚は富子を避けるようになったと伝えられる。文明8年(1476年)の室町御所焼失後に富子とともに父の隠居所であった小川殿に移って将軍御所とするが、間もなく父・義政とは側室(徳大寺公有の娘)をめぐって対立したため、義尚は政所執事の伊勢貞宗の屋敷へ移る。その後、義政も文明13年(1481年)に別の山荘に移って翌14年(1482年)に東山山荘(慈照寺)を造営、これを知った義尚は小川殿に戻るが、母との対立で翌年には再度伊勢邸に戻るなど、足利家は家庭内不和であったと見られる。
  • 将軍就任当時、幕府権力の回復に邁進して名君と期待されたものの、晩年は結城政胤・尚豊兄弟や大館尚氏二階堂政行ら一部側近に幕政を委ねたため、側近の専横と将軍権力の弱体化を招いた。一条兼良は、義尚の側近重用に危惧を持ち、「近習者をえらばるべき事」と諫めたとされる。また、晩年は酒色に溺れて「水と酒ばかりを飲んで生活をする不思議な……」と雑事記には記されている。
  • 死後、遺体は管領・細川政元や母・富子に護られ京に帰還したが、さながら凱旋将軍のような隊列であったと記録されている。
  • 義尚は淳和院奨学院の両院別当に就任しているが、左記した両院別当とともに任じられる源氏長者任命の宣旨を受けていないため、正式には源氏長者には就いていない。
  • 義尚の出生に関して、後土御門天皇落胤との噂があったと伝えられる。応仁の乱当時、天皇は将軍御所へ避難するために同居しており、義政と不仲だった日野富子との関係が噂されたことによる。
  • 義尚資性温厚にして文武に練達す。不幸有為の才を抱きて早世す。天下これを惜しむ[6]

経歴

※日付=旧暦

偏諱を受けた人物

義尚時代 (1473年-1487年、※「尚」の読みは「ひさ」。)

公家

(以上は水野、2014年、P.78による。)

武家

義煕時代(1488年-1489年)

脚注

  1. 1.0 1.1 寺伝では足利尊氏像とされているが、特徴的な容貌が地蔵院本と近似しているため、義尚像と考える研究者が多い。
  2. 2.0 2.1 野田泰三「東山殿足利義政の政治的位置付けをめぐって」桃崎有一郎・山田邦和 編著『室町政権の首府構想と京都-室町・北山・東山-』(文理閣、2016年) ISBN 978-4-89259-798-5
  3. 足利家官位記
  4. 『三好長慶』〈人物叢書〉13頁。
  5. 歴史読本スペシャル 特別増刊「臨終の日本史その死の瞬間」」新人物往来社 昭和62年 p.209
  6. 國史大辞典の引く後鑑野史による。 (國史大辞典 大正14年2月25日大増訂p.46。)
  7. 『足利家官位記』に「東山殿御與奪に依る(義政から譲られた)」とある。
  8. 石田善人の説による(松本多喜雄『播州後藤氏の栄光 : 後藤又兵衛基次の系譜』、神戸新聞出版センター、1982年)。後藤尚基についてはこちらも参照のこと。
  9. 9.0 9.1 9.2 こちらより。
  10. 『蔭涼軒日録』長享2年1月30日条に「大内息次郎、相公(足利義尚)賜二字、義興、義字賜者世所稀也」と記されている。

参考文献