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'''読売ジャイアンツ'''(よみうりジャイアンツ、英:Yomiuri Giants、'''読売巨人軍''')は、[[日本]]のプロ野球球団。[[セントラル・リーグ]]に所属しており、日本に現存する12球団の中で最も歴史が長いプロ野球球団でもある。現在の監督は[[高橋由伸]](第18代)、キャプテンは[[坂本勇人]](第19代)。
 
'''読売ジャイアンツ'''(よみうりジャイアンツ、英:Yomiuri Giants、'''読売巨人軍''')は、[[日本]]のプロ野球球団。[[セントラル・リーグ]]に所属しており、日本に現存する12球団の中で最も歴史が長いプロ野球球団でもある。現在の監督は[[高橋由伸]](第18代)、キャプテンは[[坂本勇人]](第19代)。
 
[[親会社]]は[[読売新聞グループ本社]]、運営法人の[[商号]]は「株式会社読売巨人軍」。[[東京都]]を[[プロ野球地域保護権|保護地域]]としている。都内[[文京区]]にある[[東京ドーム]]を本拠地とし、[[専用球場]]としている。また、[[読売ジャイアンツ (ファーム)|二軍・三軍]]は[[イースタン・リーグ]](三軍は[[ホテルルートイン]][[ベースボールチャレンジリーグ|BCリーグ]]交流戦にも参戦)に所属しており、本拠地は[[神奈川県]][[川崎市]][[多摩区]]にある[[読売ジャイアンツ球場]]である。
 
[[親会社]]は[[読売新聞グループ本社]]、運営法人の[[商号]]は「株式会社読売巨人軍」。[[東京都]]を[[プロ野球地域保護権|保護地域]]としている。都内[[文京区]]にある[[東京ドーム]]を本拠地とし、[[専用球場]]としている。また、[[読売ジャイアンツ (ファーム)|二軍・三軍]]は[[イースタン・リーグ]](三軍は[[ホテルルートイン]][[ベースボールチャレンジリーグ|BCリーグ]]交流戦にも参戦)に所属しており、本拠地は[[神奈川県]][[川崎市]][[多摩区]]にある[[読売ジャイアンツ球場]]である。
 
== 球団の歴史 ==
 
{{main|Category:各年の読売ジャイアンツ}}
 
 
=== 誕生 ===
 
{{by|1931年}}、[[読売新聞グループ本社|読売新聞社]]社長の[[正力松太郎]]が中心となって[[メジャーリーグベースボール|メジャーリーグ]]選抜軍を日本に招待し、全日本代表チームや六大学を中心とした強豪大学チームとの試合を行い興行は成功を収めた。これを受けて正力は再度のメジャーリーグ選抜軍の招待、特に前回叶わなかった[[ベーブ・ルース]]の招聘を目論んだ{{Sfn|日本プロ野球40年史|1976|p=30}}が、[[1932年]]に[[文部省]](当時)が発令した[[野球ノ統制並施行ニ関スル件|野球統制訓令]]によってメジャーリーグ選抜を招聘したとしても大学チームを対戦相手とすることはできなくなった{{Sfn|越智正典|1974|p=37}}。
 
 
[[市岡忠男]]、[[浅沼誉夫]]、[[三宅大輔]]、[[鈴木惣太郎]]の4人は、その対策として職業野球チームを結成することを正力に働きかける。その結果{{by|1934年}}[[6月9日]]、日本工業倶楽部で「職業野球団発起人会」が開かれ[[6月11日]]には創立事務所が設けられた。平行して選手獲得も行われプロ契約第1号選手として[[6月6日]]付で[[三原脩]]、第2号選手として[[6月15日]]付で[[苅田久徳]]を獲得する{{Sfn|越智正典|1974|pp=40 - 43}}などチームが形作られていった。この時日米野球の期間中のみ契約するという選手と日米野球後に発足する職業野球団とも契約するという選手とがあった{{Sfn|越智正典|1974|p=45}}。
 
 
[[File:Cradle place stele Yomiuri Giants.jpg|thumb|「読売巨人軍発祥の地」の碑、[[谷津バラ園]]入口脇、[[習志野市]]]]
 
1934年[[10月15日]]、[[千葉県]]の谷津海岸に新設された[[谷津遊園|谷津球場]]に30名{{Refnest|{{harvnb|日本プロ野球40年史|1976|p=33}}。『ジャイアンツの歴史』によれば32名<ref>{{harvnb|越智正典|1974|p=45}}</ref>。}}の選手が集まりチームは結成され[[11月2日]]、横浜にメジャーリーグ選抜チームが来日し全日本代表チームと全国で親善試合興行を行った。試合は全日本代表チームの15戦全敗(他に対全東京が1試合、日米混合が2試合{{Sfn|宇佐美徹也|2000|p=11}})で試合内容も圧倒的だったものの、[[ベーブ・ルース]]、[[ルー・ゲーリッグ]]らを擁した全米代表は[[読売新聞]]の報道もあって大きな注目を集めた。この時の1試合が[[静岡県草薙総合運動場硬式野球場|草薙球場]]にある[[沢村栄治]]像と[[ベーブ・ルース]]像の元となる、沢村が1失点完投した試合である。[[12月26日]]に全日本代表チームの選手を中心にした選手19名で、後に巨人軍の前身となる'''[[1934年の大日本東京野球倶楽部|大日本東京野球倶楽部]]'''(だいにっぽんとうきょうやきゅうくらぶ)が結成された。このことから、「'''読売巨人軍発祥の地'''」の石碑が、かつて谷津球場のあった千葉県[[習志野市]][[谷津]]の谷津公園内に設けられており、[[長嶋茂雄]]、[[王貞治]]、[[原辰徳]]ら歴代の巨人軍の監督や選手らの[[手形]]と[[サイン]]付きの石のプレートが並べられている。現役選手が訪れることもある<ref>{{cite web |url=http://www.giants.jp/G/gnews/news_399144.html |title=澤村、小山両投手が巨人軍発祥の地、習志野市の小学校訪問
 
|website=読売ジャイアンツ公式サイト |access-date=2018月16日}}</ref>。
 
 
{{by|1935年}}[[1月14日]]から[[2月3日]]まで草薙球場で練習を重ね、[[2月14日]]第1次アメリカ遠征に出発する。当時の選手ら総勢18人で[[秩父丸]]に乗船し[[横浜港]]からアメリカに向けて出発、選手たちは船上でも試合に向けての練習をこなした。当初は「大日本東京野球倶楽部」と名乗る予定だったが、現地マネジャーの[[フランク・オドール]]から「『大日本東京野球倶楽部』はわかりにくい」という指摘を受けることになる。元ジャイアンツであったオドールはトーキョージャイアンツという名前を薦め、結局その名称がつかわれることになった。トーキョージャイアンツは全米各地で128日間109試合([[ダブルヘッダー]]17日34試合含む)という日程を戦った。主な対戦相手は[[メジャーリーグ]]の[[マイナーリーグ|マイナークラス]]のチーム。最初は物珍しさもあって観客が集まったものの徐々に減少。その為ダブルヘッダーを開催することで、ファン確保を狙ったが、選手らは体力の負担を強いられるとして反対意見も相次いだという。75勝33敗1引き分けの好成績でアメリカ遠征は終了した。[[7月16日]]に帰国し[[9月6日]]からは国内各地を転戦、これが翌年以降の職業野球団の相次ぐ結成の契機となった。
 
 
帰国後、大日本東京野球倶楽部の名称問題が再燃する。ジャイアンツという名前を使い続けるか、それとも[[金鵄勲章]]から名を取った「金鵄軍」に変えるかというもので、最終的に正力はジャイアンツという名前を選んだ。翌{{by|1936年}}にジャイアンツを巨人と訳した'''東京巨人軍'''(とうきょうきょじんぐん)に正式改称する。こうして巨人軍は始まったのであった。
 
 
=== 戦前期 ===
 
[[File:Eiji Sawamura 2.jpg|right|thumb|日本プロ野球史上初の[[ノーヒットノーラン]]を達成した[[沢村栄治]]]]
 
{{by|1936年}}[[2月5日]]、[[日本野球連盟 (プロ野球)|日本職業野球連盟]]が結成され、9日には、[[名古屋市]]郊外・[[鳴海球場]]で開かれた[[名古屋金鯱軍]]との対戦は現在の日本野球機構にあたる職業野球連盟に所属するチーム同士が行った初めての試合である。この試合は巨人軍の2回目のアメリカ遠征の壮行会と金鯱軍の結成記念を兼ねたもので、第1試合は金鯱軍に3対10で敗れたが、翌日行われた第2戦、第3戦は巨人が連勝した。この直後の[[2月14日]]に前年に続き、第2次アメリカ遠征に出発。アメリカでは1次と同じくマイナーリーグクラスのチームを相手に10州を巡回して89日間で76試合を行い、対戦成績は42勝33敗1分であった。春には日本国内で初の職業野球リーグが開始されたが、巨人は上記のアメリカ遠征のため春季大会を欠場し夏季大会から参加。7月5日に[[大東京軍|大東京]]戦に勝利して、公式戦球団初勝利<ref name="gh">{{Cite web |url = http://www.giants.jp/G/museum/g_history/ |title = 巨人軍年表 |publisher = 読売巨人軍 |accessdate = 2015-10-05 }}</ref>。この夏季大会で計2勝5敗と惨敗を喫し、[[9月5日]]より[[群馬県]][[館林市]]の茂林寺・[[分福球場]]で緊急[[キャンプ (日本プロ野球)|キャンプ]]を張った<ref name="gh" />。猛練習は「茂林寺の千本ノック」という名で知られる。なお、この間、1936年[[7月15日]]に[[中島治康]]が対タイガース戦で放った本塁打が球団第1号本塁打である<ref name="nikkan20170926" />。1936年の秋季大会は6回の小規模リーグ戦の勝ち点制で開催され5回目のリーグ戦までリードしていたが6回目のリーグ戦で[[阪神タイガース|大阪タイガース]]に並ばれる。[[9月25日]]には[[沢村栄治]]が対大阪戦において、日本プロ野球史上初の[[ノーヒットノーラン]]を達成<ref name="gh"/>。[[洲崎球場]]で3戦制の優勝決定戦を行い、[[12月11日]]に第3戦に勝利して2勝1敗で大阪を下し公式戦初優勝球団に輝いた<ref name="usa135">{{Cite book |和書 |author = [[宇佐美徹也]] |title = プロ野球記録大鑑 |year = 1977 |publisher = [[講談社]] |page = 135 }}</ref>。
 
 
{{by|1937年}}[[9月11日]]には[[後楽園球場]]が開場<ref>後楽園における巨人初試合は、翌12日の対大阪戦で、9対8で敗れている。</ref>、以来実質的な本拠地として使用する。春季戦は7月11日に対[[東京セネタース]]戦(後楽園)に勝利して前年に続く2季連続優勝を達成<ref name="usa135" />。秋季戦は首位大阪に9ゲーム差の二位で初めての優勝を逃す。戦前は巨人と大阪の二球団で優勝を分け合うことになった。
 
 
[[File:Victor Starffin00.jpeg|right|thumb|「巨」マークのユニフォームを着る[[ヴィクトル・スタルヒン]]]]
 
{{by|1939年}}より年間通じてのリーグ戦となり、11月9日の対[[福岡ソフトバンクホークス|南海]]戦(後楽園)に勝利して2季連続優勝。1月と12月の2度に渡ってマニラ遠征を行っている<ref name="gh" />。{{by|1940年}}、[[9月13日]]には戦局悪化の影響で、連盟より英語禁止の通達が出て、ジャイアンツのニックネームを使わず、ユニフォームのマークが「G」から「巨」に改められている<ref name="gh" />。[[11月10日]]の対阪神戦(後楽園)に勝利し、3季連続優勝。{{by|1941年}}は[[10月29日]]の対阪神戦(後楽園)に勝利して4季連続優勝。{{by|1942年}}は[[香川県立志度高等学校|志度商業学校]]から[[川畑博]]が入団する。捕手だったが、戦時中ということもあって投手も兼任していた。同年の春季リーグ17歳で球団史上最年少の初出場、初登板、初先発、初奪三振、初打席、初安打・二塁打、初打点の記録を樹立、[[11月1日]]の対[[オリックスバファローズ|阪急]]戦(甲子園)に勝利して、5季連続優勝。{{by|1943年}}は[[10月31日]]の対[[名古屋軍|名古屋]]戦(後楽園)に勝利して、6季連続優勝<ref name="usa135" />。徴兵により3季ぶりの復帰となった沢村栄治は[[10月24日]]の対阪神戦での代打出場を最後に、翌1944年シーズン前に解雇されており、同年3度目の徴兵を受けて12月2日に戦死。
 
 
{{by|1944年}}[[11月10日]]に野球試合不可能として会社は存続するものの営業が中止され、球団は解散となった。[[11月13日]]には国の指導により日本野球連盟が改称していた日本野球報国会がプロ野球の一時休止声明を発表し戦前のプロ野球は終わった<ref name="gh" />。
 
 
1937・1938年戦前は11シーズンで8度の優勝を果たし、3度の[[ノーヒットノーラン]]を達成した沢村、42勝をあげた[[ヴィクトル・スタルヒン]]、2度のノーヒットノーランを達成した[[中尾碩志]]、連続無失点記録62回、シーズン防御率0.73(日本記録)を記録した[[藤本英雄]]、職業野球契約選手第1号であった[[三原脩]]、日本プロ野球史上初の2桁本塁打や三冠王([[1965年]]にプロ野球実行委員会で認定)を記録した[[中島治康]]らを擁して第1次黄金時代を築いた。
 
 
=== 戦後期 ===
 
[[File:Yomiuri Giants4.jpg|right|thumb|第一次巨人黄金時代の打の主力3人。左から川上哲治、千葉茂、青田昇]]
 
{{by|1946年}}のリーグ戦再開より参加、この年は[[福岡ソフトバンクホークス|グレートリング]]と1ゲーム差の2位に終わる([[松竹ロビンス#没収試合第1号]]も参照)。[[1947年]]には[[読売新聞グループ本社|読売新聞社]]が経営に当たることとなり<ref group="注">それまでも読売新聞との関係は深かったが、当時は鉄道事業者である[[京成電鉄]]が筆頭株主であり、球団主要株主に読売新聞社が名を連ねることはなく、経営上も一応独立していた。また、京成電鉄も筆頭株主だったとは言え、球団経営には一切関与せず、株を保有していたに過ぎなかった。現在の読売巨人軍は親会社である読売新聞グループ本社(持株会社)の完全子会社(事業子会社)であり、事実上読売新聞の一事業である。</ref>、球団名を'''東京読売巨人軍'''(とうきょうよみうりきょじんぐん)に改称、ニックネームを'''読売ジャイアンツ'''とする。[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]の台頭や、戦後の混乱で戦力確保への苦慮があり1947年に球団史上初めて勝率5割を切るなど、再開から3シーズン続けて優勝を逃すが、監督・三原脩や「赤バット」の[[川上哲治]]、[[千葉茂 (野球)|千葉茂]]、[[青田昇]]をはじめとする第1次黄金時代の選手が戦地から帰国しチームに復帰、また[[1948年]]オフには南海の[[別所毅彦]]を獲得するなどして徐々に戦力が充実。1リーグ最後の[[1949年]]には戦後初優勝を飾った。1947年[[6月23日]]に[[黒沢俊夫]]が死去、黒沢の[[野球の背番号|背番号]]4と、戦死した沢村栄治の14番は日本プロ野球界初の[[野球界の永久欠番|永久欠番]]となった。1949年シーズンオフ、日本プロ野球は[[セントラル・リーグ]]、[[パシフィック・リーグ]]に分裂、2リーグ制となり、巨人はセ・リーグに所属することになる。{{main|プロ野球再編問題 (1949年)}}
 
 
=== 水原監督時代 ===
 
 
;[[1950年の読売ジャイアンツ|1950年]]
 
 
復帰した[[水原茂]]を監督に据えて、リーグ分立1年目は8球団中3位。
 
 
;[[1951年の読売ジャイアンツ|1951年]]
 
 
シーズン途中に来日し、入団した[[与那嶺要]]の活躍もあって2リーグ分裂後初優勝。
 
 
;[[1952年の読売ジャイアンツ|1952年]]
 
 
[[8月8日]]、対広島11回戦の勝利で日本プロ野球史上初の公式戦通算1000勝。
 
 
;[[1953年の読売ジャイアンツ|1953年]]
 
 
初めての海外キャンプを[[サンタマリア (カリフォルニア州)|サンタマリア]]で行う。このシーズンは、開幕から1回も首位から転落することなくリーグ3連覇を達成。シーズンを通しての首位完全独走で優勝したのは球団史上唯一の記録である。日本シリーズでは、1リーグ時代からの宿敵・南海ホークスを3年連続で下し、日本シリーズ3連覇を達成。第2次黄金時代を築き上げた。
 
 
;[[1954年の読売ジャイアンツ|1954年]]
 
 
[[杉下茂]]擁する中日ドラゴンズが優勝し、2位となる。
 
 
;[[1955年の読売ジャイアンツ|1955年]]
 
 
リーグ優勝。日本シリーズでは南海との対戦となり、1勝3敗から3連勝。4勝3敗で逆転日本一を達成する。この頃から第2期黄金時代を支えた千葉茂、川上哲治らに衰えが目立ち始め、水原は新旧交代をしなければならなくなった。
 
 
;[[1956年の読売ジャイアンツ|1956年]]
 
 
リーグ優勝を果たし、日本シリーズでは水原茂と入れ替わりに巨人を退団した三原脩が監督で率いる[[埼玉西武ライオンズ|西鉄ライオンズ]]との対決となる。以後日本シリーズでは、3年連続で巨人は西鉄との対決となり、両者の戦いは「巌流島の決戦」とマスコミに喧伝された。
 
 
;[[1958年の読売ジャイアンツ|1958年]]
 
 
立教大学から[[長嶋茂雄]]が入団し、初年度から3割29本37盗塁の活躍を見せる。[[1958年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では、第1戦から3連勝するも、第4戦から稲尾和久の力投などで4連敗を喫し、3勝4敗の逆転で3年連続で西鉄に敗退。この年限りで川上哲治が現役引退している<ref>{{Cite web |date = 2011-10-21 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/pro_calendar/1110/kiji/K20111021001864240.html |title = 【10月21日】1958年(昭33)“神様”引退表明川上哲治「16番が泥にまみれぬ前に」|publisher = [[スポーツニッポン]] |accessdate = 2012-10-14 }}</ref>。
 
 
;[[1959年の読売ジャイアンツ|1959年]]
 
 
{{seealso|天覧試合}}
 
[[6月25日]]の阪神11回戦(後楽園)はプロ野球史上初めての[[天覧試合]]となった。この試合で[[王貞治|王]]・長嶋がはじめて2人とも[[本塁打|ホームラン]]を打ち(ONアベック弾第1号)、9回ウラには長嶋が阪神・[[村山実]]からこの日2本目となるサヨナラホームランを放ち、5-4で勝利を収めた。
 
成績はリーグ優勝を果たし4連覇、しかし[[1959年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では南海ホークスと対戦。南海のエース・[[杉浦忠]]の前に打線が沈黙、4連敗のストレート負けで敗退。
 
 
;[[1960年の読売ジャイアンツ|1960年]]
 
 
三原脩が当時6年連続で最下位だった大洋ホエールズの監督に就任し、再び「巌流島の対決」と呼ばれる。大洋は三原の手腕によって巨人と優勝争いを演じ、ついに巨人を破ってリーグ優勝。巨人は大洋と4.5ゲーム差の2位に終わった。シーズン終了後、水原茂は監督を勇退した。
 
 
=== 川上監督時代 ===
 
;[[1961年の読売ジャイアンツ|1961年]]
 
 
[[川上哲治]]がヘッドコーチから昇格して監督に就任する。就任1年目ながら打率と本塁打の二冠を獲得した長嶋を中心に2位中日と1ゲーム差でリーグ優勝、日本シリーズでも南海を破って6年ぶりに日本一を達成。
 
 
;[[1962年の読売ジャイアンツ|1962年]]
 
 
この年から一本足打法を始めた王が本塁打王と打点王を獲得したが、長嶋の低迷と投手の駒不足もあって混戦のセ・リーグで勝率.515ながら4位、2リーグ分立後初めてのBクラスに終わる。
 
 
;[[1963年の読売ジャイアンツ|1963年]]
 
 
長嶋の復活と前年は2名に留まった二桁勝利投手を5名出すなど投手陣が安定してリーグ優勝、[[1963年の日本シリーズ|日本シリーズ]]ではこれまでの対戦でいずれも勝利することができなかった西鉄に4勝3敗で勝利し、日本一になる。王と長嶋で打撃三部門だけでなく打点と本塁打の2位までをも占める。
 
 
;[[1964年の読売ジャイアンツ|1964年]]
 
 
一転して、阪神と大洋の首位争いに加わることができず、王がシーズン記録となる55本塁打を記録するものの、優勝した阪神と11ゲーム差の3位に終わる。
 
 
この頃から巨人の3、4番に固定された(両名の打順は流動的だった)王と長嶋は[[ON砲]]と呼ばれ、実力、人気ともに特別な存在となっていた。また[[牧野茂 (野球)|牧野茂]]、[[荒川博]]ら他球団出身のコーチが招かれた。
 
 
;[[1965年の読売ジャイアンツ|1965年]]-[[1973年の読売ジャイアンツ|1973年]]
 
 
1965年に[[金田正一]]が国鉄から[[フリーエージェント (日本プロ野球)|10年選手制度]]を利用して移籍した。
 
 
==== 9年連続日本一 ====
 
{{main|V9 (読売ジャイアンツ)}}
 
 
ペナントレース及び日本シリーズ9連覇を果たす。この時期は、一般的に「V9」と呼ばれる。
 
 
この間、巨人はカラーテレビ普及による露出増加も相まって絶大な人気を博し、当時の子供が好きなものを表した「巨人、[[大鵬幸喜|大鵬]]、[[卵焼き]]」は流行語となった。また、同時期に連載が開始し、後にアニメ化もされた漫画『[[巨人の星]]』や『[[侍ジャイアンツ]]』も人気を集め、プロ野球選手、特に巨人軍の選手という職業は当時の子供たちの憧れの職業となった。
 
 
V9の間、[[最優秀選手 (野球)|最優秀選手]]を王は5回、長嶋は3回受賞している。また、川上監督や牧野ヘッドコーチのもとで[[ロサンゼルス・ドジャース]]の戦術([[スモールボール]])を取り入れた。またON以外にも、金田正一・[[城之内邦雄]]・[[堀内恒夫]]・[[高橋一三]]、[[渡辺秀武]]などの投手や、[[森祇晶|森昌彦]]、[[土井正三]]、[[黒江透修]]、[[柴田勲]]、[[末次利光]]、[[高田繁]]などの選手が揃っていた。
 
 
しかし、V9期後半になると長嶋など主力選手の高齢化と若手の台頭不足があり、徐々に苦戦することが多くなった。1973年には[[湯口事件]]が露見。球団の工作や川上の非人道発言が次々に社会的バッシングを受け、以降プロ野球界において[[ヒール (プロレス)|ヒール]]のイメージが付きまとうことになる。
 
 
;[[1974年の読売ジャイアンツ|1974年]]
 
 
[[中日ドラゴンズ]]に20年ぶりのリーグ優勝を許し、V10を逃す(この年のチーム成績は、優勝した中日とゲーム差なし、勝率1厘差の2位)。この年を最後に川上が監督を勇退し、同時に長嶋茂雄、黒江透修、森昌彦も現役を引退した。
 
 
=== 第1次長嶋監督時代 ===
 
 
;[[1975年の読売ジャイアンツ|1975年]]
 
 
前年に引退した長嶋茂雄が監督に就任。「クリーン・ベースボール」のキャッチフレーズを挙げたが自身が引退したことによる戦力の穴を埋められず、開幕6試合目で最下位に転落するとそのまま浮上することができず、全球団に負け越した上に9月には球団史上新記録(当時)の11連敗で'''球団史上初の最下位'''([[1975年の読売ジャイアンツ]])に終わる。その年のオフに日本ハムから[[張本勲]]、太平洋から[[加藤初]]をトレードし補強する。
 
 
;[[1976年の読売ジャイアンツ|1976年]]
 
 
前年の最下位から一転してリーグ優勝を果たす<ref group="注">同一監督によるリーグ最下位の翌年にリーグ優勝は、日本プロ野球史上初。</ref>。しかし、[[1976年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では、阪急ブレーブスに3勝4敗で敗れる。
 
 
;[[1977年の読売ジャイアンツ|1977年]]
 
 
[[9月3日]]、王貞治が[[ハンク・アーロン]]を抜く通算本塁打756本の世界新記録を樹立<ref>{{Cite web |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_september/KFullNormal20070820154.html |title = 【9月3日】1977年(昭52)王、世界新756号本塁打1球をめぐるそれぞれの物語 |publisher = スポーツニッポン |accessdate = 2012-10-14 }}</ref>。チームも独走状態で2年連続でリーグ優勝を果たす。[[1977年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では2年連続で阪急と対戦するが1勝4敗で2年連続シリーズ敗退。
 
 
;[[1978年の読売ジャイアンツ|1978年]]
 
 
ヤクルトと優勝争いを繰り広げる。8月末に2位のヤクルトに4.5ゲーム差をつけ首位に立っていたが、9月以降成績が急降下、ヤクルトに逆転を許し2位に終わる。このときの戦いぶりから長嶋に対して監督としての資質に、次第に疑問が投げかけられてゆくようになる。そして1978年オフ、当時[[法政大学野球部]]OBで[[作新学院]]職員として米留学の[[江川卓 (野球)|江川卓]]の獲得を巡って、いわゆる[[江川事件]]が起きる。最終的には[[1979年]]2月に、江川がいったん[[阪神タイガース]]に入団し、その直後に[[小林繁]]と交換トレードをすることで決着がつく。だが、この江川事件はマスコミの総攻撃を受けることになった。
 
 
;[[1979年の読売ジャイアンツ|1979年]]
 
 
5月まで首位に立ったものの、6月以降は成績が次第に降下していき、Bクラス5位に終わる。一方で[[中畑清]]が3塁のレギュラーを獲得するなど若手の台頭も若干見られるようになる。同年オフに、青田昇がヘッドコーチに就任し、伊東での秋季キャンプでは[[松本匡史]]、[[中畑清]]、江川、[[西本聖]]、[[角盈男|角三男]]らを猛練習で特訓した。後に「[[地獄の伊東キャンプ]]」として語られていく。
 
 
;[[1980年の読売ジャイアンツ|1980年]]
 
 
開幕早々ペナントレースから脱落し、長嶋茂雄に対する批判はこれまでにないほど高まっていった。シーズン後半から若手を起用して5割Aクラスを確保した。しかしながら、2リーグ分立後では球団史上初となる3年連続V逸であり、10月21日長嶋はチームの不振の責任を取って「男のケジメ」という言葉を残し辞任する。当日スポーツニッポンが「長島解任」とスクープ報道したように、読売新聞の幹部による事実上の解任だった。この動きに対してファンは激怒し、[[読売新聞]]・[[報知新聞]]([[スポーツ報知]])の購読打ち切りを行うファンが続出した<ref group="注">読売新聞で約30万部、報知新聞で約5万部の売上部数減少。</ref>。同年オフ、王も現役を引退、巨人一筋22年の現役生活にピリオドを打った。
 
 
=== 藤田、王監督時代 ===
 
==== 第1次藤田監督時代 ====
 
 
;[[1981年の読売ジャイアンツ|1981年]]
 
 
[[藤田元司]]が監督に就任、また、前年に現役引退した王貞治が助監督に就任。藤田元司、王貞治、牧野茂(ヘッドコーチ)による「[[トロイカ体制]]」が誕生。この年20勝の江川卓、18勝の西本聖、11勝の[[定岡正二]]、12勝の加藤初ら先発4本柱を形成し4年ぶりのリーグ優勝。[[1981年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では、巨人と同じく後楽園をフランチャイズにする[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ]]と対戦<ref group="注">同一球場での日本シリーズは日本プロ野球史上唯一。</ref>。4勝2敗で8年ぶりの日本一を達成。江川が史上5人目の投手5冠王([[最優秀防御率 (日本プロ野球)|最優秀防御率]]、[[最多勝]]、最高勝率、最多奪三振、最多完封)、西本は沢村賞、角三男が[[最多セーブ投手 (日本プロ野球)|最優秀救援投手]]を獲得するなど、投手タイトル独占を達成、藤田監督の投手中心の守りの野球の成果が十分に発揮された。打者ではルーキーの[[原辰徳]]が新人王を獲得、[[篠塚和典|篠塚利夫]]が3割5分7厘の高打率をマークして阪神の[[藤田平]]と首位打者争いをするなど若手の台頭が目立った。
 
 
;[[1982年の読売ジャイアンツ|1982年]]
 
 
10月まで中日との優勝争いを繰り広げるも、優勝した中日と0.5ゲーム差の2位となっている。
 
 
;[[1983年の読売ジャイアンツ|1983年]]
 
 
[[松本匡史]]が盗塁王(このときの盗塁76はセ・リーグ記録)、原辰徳が打点王(103打点)を獲得するなどしてリーグ優勝するが、[[1983年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]と対戦、3勝4敗で敗れる。
 
 
この時期投手陣の中心となったのは江川卓、[[西本聖]]、[[定岡正二]]である。西本は[[愛媛県立松山商業高等学校]]からドラフト外で入団したものの、持ち前の反骨心で同年齢の定岡、[[法政大学]]卒で米留学経て入団した江川と肩を並べるまでに成長した。藤田の監督在任時の成績は、江川55勝(20-19-16)、西本48勝(18-15-15)、定岡33勝(11-15-7)の成績を残している。
 
 
==== 王監督時代 ====
 
 
;[[1984年の読売ジャイアンツ|1984年]]-[[1988年の読売ジャイアンツ|1988年]]
 
 
藤田政権の「トロイカ体制」で助監督を務めていた王貞治が監督として指揮を執るが、1984年・3位→1985年・3位→1986年・2位(優勝した広島とゲーム差なし、勝率3厘差)→1987年・優勝→1988年・2位と1987年に1度優勝したのみで、[[1987年の日本シリーズ|同年の日本シリーズ]]は西武に2勝4敗で敗退。1988年には本拠地が[[後楽園球場]]から[[東京ドーム]]へと変わったが、[[吉村禎章]]や[[ウォーレン・クロマティ]]のリタイアが響いて結果は2位、優勝した中日に12ゲーム差をつけられる。王はこの年限りで監督を引責辞任。
 
 
1987年、二軍がこの年から始まった[[ファーム日本選手権]]の初代日本一に輝く。
 
 
==== 第2次藤田監督時代 ====
 
 
;[[1989年の読売ジャイアンツ|1989年]]
 
 
藤田元司が監督に復帰。[[斎藤雅樹]](20勝・防御率1.62)、[[桑田真澄]](17勝・防御率2.60)、[[槙原寛己]](12勝・防御率1.79)と三本柱が機能し、チームは2位の広島に9ゲーム差をつけリーグ優勝を達成する。[[1989年の日本シリーズ]]では[[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファローズ]]に3連敗を喫した後、4連勝し逆転で17回目の日本一に輝く{{Refnest|近鉄の第3戦勝利後、先発[[加藤哲郎 (野球)|加藤哲郎]]が「巨人は(当時低迷していた)ロッテより弱い」と発言したことが、巨人を怒らせ逆転のきっかけとなったとされるが、加藤自身はそのような事は言ってないと発言している<ref>{{Cite web |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_octorber/KFullNormal20071016148.html |title = 【10月24日】1989年(平1)加藤哲郎、「巨人はロッテより…」って本当に言った? |publisher = スポーツニッポン |accessdate = 2015-10-05 }}</ref>。}}。
 
 
;[[1990年の読売ジャイアンツ|1990年]]
 
 
2年連続20勝した斎藤を筆頭に桑田・[[宮本和知]](各14勝)、[[木田優夫]](12勝)、[[香田勲男]](11勝)と5人が二桁勝利を挙げ槙原も9勝とこの六人だけで合計80勝を挙げチーム勝利が88勝なので約9割を占め、完投数が70(130試合中)という先発投手中心のチームでペナントをリードし、[[9月8日]]の対ヤクルト戦(東京ドーム)で、吉村のプロ野球史上初となるサヨナラ優勝決定ホームランに<ref group="注">セ・リーグに現存する6球団ではこの時が初で、2000年・2007年の優勝もサヨナラ勝利で決めている。</ref>より史上最速で2年連続のリーグ優勝を果たす。2位・広島とのゲーム差を22ゲーム付けた。しかし、西武と対戦した[[1990年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では、4連敗のストレート負けで敗退している。
 
 
;[[1991年の読売ジャイアンツ|1991年]]
 
 
投手陣では桑田が16勝を上げる大活躍をし、宮本が一定の成績を挙げたものの斎藤、槙原ら他の先発は不調で貯金を作れず前年80勝を上げた6人での合計は56勝に終わる。リリーフ陣はさらに深刻で最多セーブは[[水野雄仁]]の3つが最多。この年優勝した広島、2位中日、3位ヤクルトと盤石のリリーフエースがいるチームとの明暗が別れるシーズンとなった。打撃陣も川相昌弘が犠打で当時の年間犠打数を更新する66個を記録、クリーンナップも原が犠牲フライ数で王貞治の記録を更新するなど数字は出ているが勝利に結びつかず他の打者の不振も響き、特に守備面での失態が多くチーム盗塁阻止率はこの年.156で2年連続12球団ワーストを記録し失策数も前年48個だったのが76個だった。1979年以来12年ぶりのBクラスとなる4位に転落した。シーズン終了後、[[近藤昭仁]]ヘッドコーチ・[[松原誠]]打撃コーチが、不振の責任を取る形で退団した。
 
 
;[[1992年の読売ジャイアンツ|1992年]]
 
 
序盤の不調が響き、5月には9日の対大洋戦に負け8年ぶりに最下位に転落する。特に前年の勝ち頭桑田が出れば打たれるの繰り返しで結局シーズンを通して尽く連勝ストッパーになってしまった。しかしチームはシーズン途中に西武から移籍の[[大久保博元]]と新外国人に[[ロイド・モスビー]]の加入、生え抜きの[[石毛博史]]がリリーフエースとして頭角を現したこと等により大快進撃で、前半戦が終了する頃には首位に立った。しかし8月に入ると失速し、終盤のヤクルト・阪神・広島との大混戦の優勝争いの結果、最終的には阪神と同率2位になるも2年連続のV逸が決定<ref group="注">同率2位の2球団で、前年は巨人は4位・阪神は最下位で、扱いは巨人は2位・阪神は3位である。とはいえ、この2球団で優勝争いから先に脱落したのは巨人の方である。</ref>。この年限りで藤田は監督を勇退。後任には長嶋茂雄が13年ぶりに復帰、[[1992年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|ドラフト会議]]で注目されていた[[松井秀喜]]の交渉権を阪神・中日・ダイエーとの競合の末獲得する。
 
 
この時期投手陣の中心となったのは斎藤雅樹、桑田真澄、槙原寛己。斎藤は安定感、桑田は投球術、槙原は球威と、それぞれ違った持ち味を発揮して白星を積み上げていった。藤田の監督在任時の成績は、斎藤68勝(20-20-11-17)、桑田57勝(17-14-16-10)、槙原42勝(12-9-9-12)の成績を残している。
 
 
=== 第2次長嶋監督時代 ===
 
 
;[[1993年の読売ジャイアンツ|1993年]]
 
 
現役大リーガーの[[ジェシー・バーフィールド]]やヤクルトから[[長嶋一茂]]を獲得して3年ぶりのリーグ優勝を期待されたが、打撃陣の不振(チーム打率は12球団最下位、得点、安打もリーグ最下位)、投手陣も斎藤、桑田の不調から3位に終わった。オフに、この年から導入された[[フリーエージェント (日本プロ野球)|フリーエージェント]] (FA) 制度によりFA宣言をした中日の[[落合博満]]を獲得する。その一方[[駒田徳広]]が同様にFA宣言を行って横浜へ移籍する。その横浜からは自由契約になった[[屋鋪要]]を獲得した。
 
 
;[[1994年の読売ジャイアンツ|1994年]]
 
 
開幕戦で松井・落合のアベックホームランが出てその勢いで前半は首位独走したが、夏場に失速。終盤最大10ゲーム差をつけていた2位・中日が猛烈な勢いで追いつかれ、シーズン最終戦([[10月8日]]の対中日戦〈[[ナゴヤ球場]]〉、いわゆる「'''[[10.8決戦]]'''」)が優勝決定戦となった。史上初の同率チーム同士による最終試合での首位決戦という優勝決定戦は日本全国の注目を集め、各マスコミでも大きく報道。長嶋監督は「国民的行事」と称した。その試合を[[槙原寛己]]、斎藤、桑田の当時のエース「三本柱」の継投で、リーグ優勝を達成。[[1994年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では、4勝2敗で初めて西武ライオンズを破って日本一に輝く<ref group="注">西鉄時代を含めれば、1963年以来31年ぶりの日本シリーズ勝利となる。</ref>。篠塚がこの年引退。
 
 
;[[1995年の読売ジャイアンツ|1995年]]
 
 
近鉄の[[阿波野秀幸]]を香田勲男との交換トレードで獲得。広島の[[川口和久]]、ヤクルトの[[広澤克実|広沢克己]]をFAで獲得。また同じヤクルトを自由契約となった[[ジャック・ハウエル]]、[[ミネソタ・ツインズ]]の[[シェーン・マック]]を獲得し30億円補強と呼ばれものの、阿波野は未勝利、川口は負けが先行でローテーションを守れず、広澤はチャンスで打てずまた6年ぶりの本格的な外野守備、また初の左翼手へのコンバートが慣れず守備でも足を引っ張ってしまった。斎藤は18勝で最多勝・槙原は11勝をあげローテーションを守ったが前年MVPの桑田が序盤戦でプレイ中に大怪我をしてしまい、翌シーズンも全休してしまった。抑え投手も木田・石毛が連日痛打を浴びて敗戦。投打に渡り歯車が噛み合わず優勝争いからどんどん後退していたが、新人の[[河原純一]]、[[高村良嘉]]や若手の[[西山一宇]]、[[後藤孝志]]、[[杉山直樹 (野球)|杉山直輝]]、[[吉岡佑弐]]など二軍からはい上がった生え抜きを使い出してからチームの歯車がかみ合い連勝を重ね最終的には貯金14個作ったが、優勝したヤクルトにはことごとく負けてしまい、結局優勝争いに加わることができず、優勝したヤクルトと10ゲーム差のシーズン3位で終わった。また、同年の最終戦で原が現役を引退した。
 
 
;[[1996年の読売ジャイアンツ|1996年]]
 
 
桑田の全休、槙原・河原のシーズン途中リタイアがあり、さらにシーズン序盤にリリーフ陣が崩壊し序盤Bクラスに落ちていたが、7月9日の対広島16回戦の2回に9連打のプロ野球タイ記録で勝つとチームは一気に加速。斎藤・新外国人の[[バルビーノ・ガルベス]]が共に16勝を上げ最多勝を獲得し、またシーズン中に補強しリリーフエースになった[[マリオ・ブリトー]]や日本ハムからFA移籍してきた[[河野博文]]がチームを支え、松井が1本差で本塁打王は逃したが主軸として成果を上げる。ルーキーの[[仁志敏久]]・[[清水隆行]]らの台頭もあり世代交代も決まった。当時リーグ史上最大の11.5ゲーム差をはね返してリーグ優勝を成し遂げた。「[[メークドラマ]]」とはこの年の大逆転を指すことが多い。[[1996年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では[[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]]と対戦するも、1勝4敗で敗れた。オフに[[岡崎郁]]・[[長嶋一茂]]が戦力外通告を受け、引退した。
 
 
;[[1997年の読売ジャイアンツ|1997年]]
 
 
西武から[[清原和博]]がFA権を行使して入団した。松井とともに、ON(王・長嶋)以来の強打者コンビ「[[MK砲]]」として期待された。この際、清原に押し出されるように落合が「長嶋監督を悩ませることはできない」と異例の会見を開いて日本ハムに移籍。ロッテを自由契約となった[[エリック・ヒルマン]]を獲得し95年の30億円を超える33億円補強を行ったが、開幕戦で3年連続開幕戦完封勝利をあげていた斎藤がノックアウトされたのをきっかけにヒルマンを含め主力選手に故障者・不調者が続出。桑田が復活しカムバック賞は逃したが再起、松井が本塁打王争いを繰り広げていたが一向にチームが浮上できず夏場まで最下位に沈み大苦戦した。優勝争いから脱落してから調子を上げ最終順位は1991年以来6年ぶりのBクラスとなる4位、第2次長嶋監督時代では2度目の借金でのシーズンを終了した。同年オフにはドラフト1順目で[[高橋由伸]]が入団、[[宮本和知]]が現役を引退した。
 
 
;[[1998年の読売ジャイアンツ|1998年]]
 
 
開幕戦、前年にカムバックした桑田が勝ち投手になりスタートダッシュに成功。松井、ルーキー高橋由の活躍もあり横浜や中日との首位争いを繰り広げるが、前半戦の勝ち頭[[趙成ミン|趙成珉]]がオールスターゲームで右肘を故障。さらにガルベスが[[7月31日]]の対阪神戦([[阪神甲子園球場]])において審判に対しボールを投げつける暴挙でチームから離脱するなどアクシデントが響き3位に終わった。松井が2年連続1本差で逃した本塁打王を獲得した。更に打点王、最高出塁率のタイトルも獲得、[[吉村禎章]]・川口が現役を引退した。
 
 
;[[1999年の読売ジャイアンツ|1999年]]
 
 
[[村田真一]]や広澤の離脱、後半戦は清原の故障によるシーズン離脱などもあったが、20勝を上げた新人の[[上原浩治]]や前年西武を解雇され[[ドミンゴ・マルティネス]]をシーズン途中に獲得し清原の穴を埋める活躍もあり2位となったがチームの貯金は15個。上原がこの年挙げた貯金が16と上原以外の投手陣に課題の残るシーズンとなった。シーズンオフ、広澤が自由契約となり阪神に移籍した。
 
 
;[[2000年の読売ジャイアンツ|2000年]]
 
 
20世紀最後の年、FA宣言をしていたダイエーの[[工藤公康]]と広島の[[江藤智 (野球)|江藤智]]、さらに阪神の[[ダレル・メイ]]を獲得するなど大補強を敢行。長嶋監督は、江藤に背番号33を譲り自らが現役時代に付けていた背番号3を25年ぶりに復活させた。松井が4番として定着、5番にマルティネス・清原、6番に高橋由を擁した打線はシーズンで投打ともに他を圧倒。投手陣も工藤・メイ・ルーキーの[[高橋尚成]]の左3枚がしっかりローテーションを守る。[[9月24日]]の対中日戦(東京ドーム)では、0-4で迎えた9回裏に江藤の満塁本塁打で同点に追いつき、直後に二岡がサヨナラ本塁打を放ち4年ぶりのリーグ優勝を劇的に決めた。結果的には2位中日に8ゲーム差をつけた。[[2000年の日本シリーズ|日本シリーズ]]の相手は、長嶋と共にV9時代の主軸を担った王が1995年から率いるダイエーで、2連敗からのスタートだったがその後シーズンで不本意な結果だった上原・斎藤の奮闘もあり4連勝。4勝2敗で19回目の日本一を達成し20世紀の最後を締めた。
 
 
;[[2001年の読売ジャイアンツ|2001年]]
 
 
シーズン終盤までヤクルトと優勝を争ったが2位に終わる。同年限りで長嶋監督は勇退し、「'''終身名誉監督'''」に就任した。それと同時に槙原寛己、斎藤雅樹両投手そして村田真一捕手が引退した。長嶋監督の後任として、ヘッドコーチの[[原辰徳]]が就任した。
 
 
=== 第1次原監督時代 ===
 
 
;[[2002年の読売ジャイアンツ|2002年]]
 
 
原が監督に就任、原監督と[[鹿取義隆]]ヘッドコーチは投手陣を立て直し不振で苦しんでいた上原、桑田が復活。故障がちで一軍に常時いられなかった河原を抑えに抜擢し年間通して活躍。松井が50本塁打を放ち打線を牽引。1年目でセ・リーグの全球団から勝ち越してのリーグ優勝を果たす。また、[[2002年の日本シリーズ|日本シリーズ]]でも西武を相手に球団史上初でシリーズとして12年ぶりの4連勝のストレート勝ちで日本一に輝いた。シーズンオフに松井がFA権を行使してメジャーリーグ・[[ニューヨーク・ヤンキース]]へ移籍した。
 
 
;[[2003年の読売ジャイアンツ|2003年]]
 
 
松井に代わる大砲としてヤクルトから[[ロベルト・ペタジーニ]]を獲得。原監督は守備位置の問題を解決できず、鹿取コーチは一任されていた投手陣が崩壊し整備できず3位に終わった。[[6月27日]]には球団史上初めて6月での自力優勝消滅を記録、シーズン終盤には9連敗を喫するなど、優勝した阪神に15.5ゲーム差をつけられた。また、この頃から巨人戦視聴率の大幅な低下が起こり始めた<ref>{{Wayback|url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/kiji/2003/04/01/04.html|title=G開幕ナイター視聴率史上最低|date=20041211054935}} - スポーツニッポン(2003年4月1日)</ref><ref>{{Wayback|url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/kiji/2003/07/15/02.html|title=巨人戦中継 消化試合は9時打ち切り|date=20041118112426}} - スポーツニッポン(2003年7月15日)</ref><ref>{{Wayback|url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/kiji/2003/09/05/08.html|title=巨人戦レイサムサヨナラ弾も10.8% |date=20041213013922}} - スポーツニッポン(2003年9月5日)</ref><ref>{{Wayback|url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/kiji/2003/09/17/02.html|title=巨人戦神話崩壊 フジテレビが中継中止|date=20041206010507}} - スポーツニッポン(2003年9月17日)</ref>。そして[[9月26日]]、原監督は責任を取り監督を辞任した。辞任をするにあたってのセレモニーも行われなかった<ref group="注">辞任に際してのセレモニーがないことに、阪神の星野仙一監督(当時)がたまたま最終試合は甲子園球場での試合だったために、「せめて花束贈呈をして、花道を飾りたい」と球団に直訴。そして、最後の試合を終えた後、球団史上、前代未聞の相手本拠地での辞任セレモニーが執り行なわれた。星野監督の花束贈呈のあと、原監督は男泣きをし、スピーチをした。そして、阪神ファンに温かく迎えられて無事にセレモニーを終えることが出来た。</ref>。辞任に関して、原監督と[[渡邉恒雄]]オーナーとの確執がマスメディアに報じられた。この混乱が原因で[[川相昌弘]]がコーチ就任要請を辞退して現役引退も撤回、中日に移籍した。後任監督に[[堀内恒夫]]が就任した。
 
 
=== 堀内監督時代 ===
 
 
;[[2004年の読売ジャイアンツ|2004年]]
 
 
V9時代のエースだった堀内が監督に就任、生え抜きの高橋由伸らに加え、前年までで近鉄との契約が終わった[[タフィ・ローズ]]、ダイエーから膝の靭帯を断裂した後出場のなかった[[小久保裕紀]]を獲得した。かねてより所属する清原和博、ペタジーニ、江藤智などのさまざまな球団で活躍した4番打者が1チームに顔をそろえるという超重量打線となった。長嶋終身名誉監督に「[[史上最強打線]]」と名付けられた打線は、事実この年に年間259本塁打のプロ野球新記録<ref group="注">それまでのプロ野球最高記録は1980年の近鉄の239本、セ・リーグ最高記録は1985年の阪神の219本であった。</ref>を樹立。しかし、259本塁打の新記録を達成したものの100打点を挙げた打者が一人もいなかったことやチーム最多盗塁が[[鈴木尚広]]の9と機動力をあまり駆使しなかったことで繋がりを欠いたことや防御率の低下により成績は前年と同じ3位だった。近鉄・オリックスの合併問題に端を発した[[プロ野球再編問題 (2004年)|プロ野球再編問題]]では、球団スカウトが行った[[明治大学]]の投手[[一場靖弘]]への不正な金銭授受の責任を取り渡邉恒雄がオーナー職を辞任した。テレビ視聴率も前年より低下した<ref>{{Wayback|url=http://www.sponichi.co.jp/society/kiji/2004/10/06/04.html|title=巨人戦視聴率最低!中継大幅見直しも|date=20041205092429}} - スポーツニッポン(2004年10月6日)</ref>。
 
 
;[[2005年の読売ジャイアンツ|2005年]]
 
 
ポジション争いをやめさせ、打順を固定することにより1年を戦う打線として「不動明王打線」と名付けたが、高橋由、[[二岡智宏]]らが軒並み故障。この年から始まった「[[セ・パ交流戦]]」では4位(セ・リーグでは阪神に次いで2位)と好調だったものの、抑えとして期待された新外国人の[[ダン・ミセリ]]が極度の不振で4試合に登板したのみで退団するなど、投手陣の崩壊やチームの空中分解により、8年ぶりにBクラスの5位に終わった。また、原監督の辞任騒動から巨人人気が一気に下降した影響により、観客動員数の減少やテレビ視聴率の低下が起こった。そのため[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]でも巨人戦中継の延長が中止されたりその他の放送局でも延長時間の短縮・中止や深夜枠での録画・ダイジェスト版放送に差し替えが起きた。この低迷によって2005年シーズン中から[[ストーブリーグ]]を見越した活動が表面化し、成績不振と怪我の重なったローズや清原が8月頃からチーム編成からはずれ、また初の他球団出身監督として阪神のシニアディレクター[[星野仙一]]の名前があがった。星野シニアディレクター招聘の報道が表面化すると球団出身者のみが監督となってきた伝統を崩すことに一部OBやファンが反発。星野シニアディレクターは[[9月10日]]に会見を開き、阪神に残留することを表明した。[[10月5日]]、堀内監督は成績不振の責任を取って任期を1年残し退任し(堀内自身は解任されたと述べている)<ref>[[週刊ポスト]]2017年7月21日・28日合併号、P144、堀内恒夫から由伸巨人へ</ref>、翌年からの新監督として原が3年ぶりに復帰することを正式に発表した。
 
 
=== 第2次原監督時代 ===
 
第1次では同じ時期に現役として活躍した選手が中心であったコーチ陣容を組んだ原監督だったが、第2次では彼らに加えて他球団での豊富な経験のある人材を求めた。ヘッドコーチに[[近藤昭仁]]、守備走塁コーチに篠塚和典が復帰。投手コーチに[[尾花高夫]]を{{読み|招聘|しょうへい}}、また1994年から2002年まで打撃コーチを務め、2003年より広島に戻っていた打撃コーチ・[[内田順三]]が復帰した。選手補強も積極的に行った。投手陣ではオリックスを自由契約となった[[ジェレミー・パウエル]]、FA宣言した[[豊田清]](西武)、[[野口茂樹]](中日)を獲得した。野手ではロッテの[[李承ヨプ (野球)|李承燁]]を獲得。金銭トレードで過去ゴールデングラブ賞を4度受賞した[[小坂誠]](ロッテ)を獲得した。一方で前年シーズン途中に既に構想から外れていた清原、ローズを自由契約で、豊田の人的補償で江藤を放出した。
 
 
;[[2006年の読売ジャイアンツ|2006年]]
 
 
チーム方針として2005年の[[ワールドシリーズ]]を制した[[シカゴ・ホワイトソックス]]に倣い「スモール・ベースボール」を掲げた。開幕当初は首位を独走していたが、5月に始まったセ・パ交流戦の途中で主力選手に負傷者が続出したことで失速することとなった。これに対して西武を自由契約となり米国挑戦したものの契約を結べず帰国していた[[小関竜也]]を入団テストで、広島の[[木村拓也]]を交換トレードで、前年阪神を解雇されたものの[[メキシカンリーグ]]で好成績を収めていた[[ジョージ・アリアス]]を来日させそれぞれ獲得するなど建て直しを図ったが、6 - 7月には8連敗、10連敗、9連敗と立て続けに大型連敗を喫し、一時は最下位にまで転落した。最終的にチーム防御率は1点以上の改善があったものの野手陣の不調で4位に終わり、いずれも球団史上初の4年連続完全V逸と2年連続Bクラスとなった。この結果を重く見た球団はさらなる改革に着手した。首脳陣ではまず走塁面の強化に西武黄金期に三塁ベースコーチとして活躍した[[伊原春樹]]を野手総合コーチとして招聘。篠塚守備走塁コーチを打撃コーチへ配置転換、[[伊勢孝夫]]スコアラーを打撃コーチ補佐として現場復帰させた。なお近藤ヘッドコーチが退任し、総括ディレクターに就任、それに伴って開幕直前に伊原がヘッドコーチに配置転換することとなった。選手では[[仁志敏久]]を交換トレードで横浜に放出、小久保がFAでソフトバンクに移籍したが、ソフトバンクを戦力外となったベテランの[[大道典嘉]]を無償トレードで、オリックスの[[谷佳知]]を交換トレードで、日本ハムの[[小笠原道大]]をFAでそれぞれ獲得したほか、残留を前提としたFA交渉を打ち切られた横浜の[[門倉健]]も加入する。一方門倉の加入に伴って補償選手として工藤を放出することとなり、逆にソフトバンクから小久保の補償選手として[[吉武真太郎]]を獲得した。
 
 
;[[2007年の読売ジャイアンツ|2007年]]
 
 
[[5月2日]]に行われた[[ナゴヤドーム]]の中日5回戦でプロ野球史上初となる球団通算5,000勝を達成した。これまで主にクリーンナップを打っていた高橋由を1番に、怪我で出遅れていた上原浩治を先発から[[リリーフ#抑え|クローザー]]として起用するなどの大胆な配置転換を行った。これが成功し、前年のような大型連敗もなく安定した戦いを続けた。鬼門だった交流戦も2位でクリア。そして[[9月23日]]の横浜戦に勝利し、この年から導入された[[クライマックスシリーズ]]の出場権をセ・リーグ一番乗りで獲得。中日・阪神との三つ巴のデッドヒートの末、優勝マジックナンバーが1となってむかえた[[10月2日]]のヤクルト戦、9回裏二死満塁から、[[清水隆行]]の遊撃内野安打と、[[宮本慎也]]の一塁悪送球の間に二塁走者が生還し、サヨナラ勝ちで5年ぶりのリーグ優勝を達成した。しかし、同年より導入された[[2007年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]第2ステージで、第1ステージで阪神を2連勝で破った中日に0勝3敗でストレート負け。日本シリーズ出場権を逃し、史上初の「リーグ優勝しながら日本シリーズに出場できないチーム」となっている<ref group="注">2004年と2005年のパリーグでシーズン1位の福岡ダイエー(福岡ソフトバンク)ホークスがプレーオフで敗退し日本シリーズ未出場であるが、これはプレーオフ勝利チームをその年の優勝チームと定めていたためである。なお、その後2010年の福岡ソフトバンク、2017年の広島はいずれもリーグ優勝しながらそれぞれCSで千葉ロッテ、横浜DeNAに敗れ日本シリーズ出場を逃している。</ref>。球団は、期待不足に終わった[[ジェレミー・ゴンザレス]]と[[ジェレミー・パウエル]]、[[デーモン・ホリンズ]]の外国人3選手を自由契約とすると、ロッテから自由契約となった[[藤田宗一 (投手)|藤田宗一]]、横浜から自由契約となった[[マーク・クルーン]]、ヤクルトから自由契約となった[[セス・グライシンガー]]と[[アレックス・ラミレス]]を獲得した。
 
 
;[[2008年の読売ジャイアンツ|2008年]]
 
 
オープン戦から主力選手の故障、台頭した[[坂本勇人]]を除いた若手の伸び悩み等でなかなか満足な試合運びができず、黒星を重ねていった。ペナントレース開幕直後もチームはオープン戦の不調を引きずり、開幕戦となる[[3月28日]]のヤクルト戦(神宮球場)から[[4月2日]]の中日戦(東京ドーム)まで、球団ワースト記録となる開幕5連敗を喫した。開幕戦で4番打者を務めた李承燁、昨年のクローザーから先発に復帰した上原が共に不調で二軍降格するなど戦力が揃わず開幕ダッシュに失敗した。だが、交流戦あたりから調子を上げはじめ、若手の積極的な起用策が功を奏したのに加え、'''オガラミ弾'''と呼ばれる3番・小笠原と4番・ラミレスのアベックホームランが7月8日に阪神に敗れて以降最終戦までの66試合で11試合も記録し、7月9日から最終戦までのホームランが100本と198本のホームランにモノを言わせた強力打線でパ・リーグを制した[[埼玉西武ライオンズ]]をも凌ぐ破壊力<ref>実際のホームラン数は177本にとどまったが、7月9日から最終戦までのホームラン数を144試合で換算すると218本になる計算である。</ref>とリーグ2位の78盗塁を記録する機動力野球を武器に後半戦も順調に勝ち星を重ね、7連勝中の[[9月19日]]から首位阪神に3連勝、最終的に球団32年ぶりの12連勝を記録する等猛追し、同率で迎えた[[10月8日]]の最終直接対決で勝利し単独首位に立ち、10日に接戦の末にセ・リーグ記録となる最大13ゲーム差<ref group="注">7月8日時点でのゲーム差。日本プロ野球全体では[[埼玉西武ライオンズ#14ゲーム差を大逆転|1963年の西鉄ライオンズ]]に次ぐ2番目。</ref>からの逆転優勝を果たし、1989年 - 1990年以来となるリーグ2連覇を達成した。11.5ゲーム差を逆転し「メークドラマ」と呼ばれた1996年の優勝時以上の大差を逆転したことから、マスコミ等は、「メークレジェンド」と呼んだ。[[2008年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]では、第2ステージで昨年ストレートで敗れた中日と対戦、アドバンテージの1勝を含む3勝1敗1分で勝ち抜けし、2002年以来の[[2008年の日本シリーズ|日本シリーズ]]への出場を決めるが、3勝4敗で[[渡辺久信]]監督率いる埼玉西武に敗れた。日本シリーズ後上原がFA宣言してメジャーリーグ・[[ボルティモアオリオールズ]]へ移籍し、トレードで日本ハムから[[マイケル中村]]・[[工藤隆人]]を獲得したが、その2人との交換トレードで坂本の台頭や足の故障、スキャンダルで出番が激減した二岡・[[林昌範]]が移籍した。また清水が金銭トレードで西武へ移籍し第2次長嶋政権時代から主力として支えてきた生え抜き選手が形は違えど相次いでチームを去る形になった。なおヤクルトを自由契約になった[[ディッキー・ゴンザレス]]を獲得した。
 
 
[[File:銀座ー2.JPG|thumb|巨人軍優勝パレード(2009年11月22日撮影)]]
 
[[File:Tatsunori Hara-1.jpg|thumb|優勝パレードの原監督(2009年11月22日撮影)]]
 
 
;[[2009年の読売ジャイアンツ|2009年]]
 
 
シーズンは、創設75周年を迎えた。原監督が[[2009 ワールドベースボールクラシック日本代表]]監督に就任したこともあり、オープン戦は[[伊原春樹]][[ヘッドコーチ]]が監督代行を務めた。シーズンに入ると、坂本を1番打者、[[松本哲也 (野球)|松本哲也]]を2番打者に固定するなど選手起用が当たり、開幕8試合目で首位に立つとそのままシーズンを乗り切り、[[9月23日]]の対中日ドラゴンズ戦に5-3で勝利し、1965年から1973年のV9時代以来となるリーグ3連覇、33回目のセントラルリーグ優勝を決める<ref>{{Cite news |title = 巨人V9以来の3連覇 |newspaper = スポーツニッポン |date = 2009-09-24 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/2009npb/giants/KFullNormal20090924074.html |accessdate = 2009-09-23 }}</ref>。[[2009年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]では、第2ステージで中日と対戦、アドバンテージの1勝を含む3勝1敗で勝ち抜けて日本選手権シリーズに出場を決めた。[[1981年の日本シリーズ|1981年の後楽園シリーズ]]以来となった北海道日本ハムとの[[2009年の日本シリーズ|日本シリーズ]]は、4勝2敗で勝利し2002年以来7年ぶり21回目の日本一を獲得した。11月14日には長崎で行われた韓国シリーズ勝者[[起亜タイガース]]との[[日韓クラブチャンピオンシップ#2009年|日韓クラブチャンピオンシップ]]に勝利し、日韓王者に輝いた。ドラフト会議では巨人を熱望してきた[[長野久義]]を1位指名で獲得した。
 
 
;[[2010年の読売ジャイアンツ|2010年]]
 
 
開幕直後に前年限りで現役を引退しコーチとなっていた[[木村拓也]]が試合前の練習中に[[クモ膜下出血]]で倒れ急死、野手では[[亀井義行]]、投手ではゴンザレスが不調でグライシンガーも故障で長期離脱だったが、ルーキーの[[長野久義]]を加えた強力打線は相変わらずで開幕からしばらくの間は先発投手陣も好調であり、首位に立っている時期も長かったが、7月以降は相次いで好調だった先発投手陣が不調に陥り<ref group="注">この年の7月、球団ワースト新記録となる12試合連続2桁被安打を記録。</ref>、野手陣でも坂本と松本が調子を落としてしまう。また、この年のクローザーの[[マーク・クルーン]]が不振に陥り、抑え投手がたびたび変わるなど中継ぎ投手陣も安定しなかった。それでも最後まで首位争いに絡み続けるが、前述の投手陣の低迷と[[ナゴヤドーム]]の中日ホームゲームで2勝10敗と大きく負け越したのが響き、優勝した中日と1ゲーム差ながら3位に終わり、リーグ4連覇を逃した。[[2010年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]では第1ステージで阪神に2連勝し勝ち上がるものの、続く第2ステージでは中日相手に1勝4敗で敗れ敗退している。この年、[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]を経験した最後の現役選手であった[[大道典嘉]]が引退した。また不安定な投球が目立ったクルーンが翌シーズンの構想から外れ退団した。ドラフト会議では、中央大学の[[澤村拓一]]をドラフト1位で指名し獲得した。
 
 
;[[2011年の読売ジャイアンツ|2011年]]
 
 
この年は[[3月11日]]に発生した[[東日本大震災]]の影響で開幕が3月25日から4月11日に延期。開幕戦は山口県の[[宇部市野球場]]で行われ<ref group="注">これは東京ドームの代替ではなく、震災発生前よりこの日の宇部での試合が決まっていた。</ref>、1952年の[[フランチャイズ制]]導入以後、地方球場で初となる巨人主催試合開幕戦となった。また電力の節電要請で4月の東京ドームの使用を自粛、延期になった分を含めて大幅に試合日程が変更となっている。この年から導入された[[ボール (野球)#硬式球|統一球]]の影響を12球団で一番と言って良い程もろに喰らってしまい、小笠原とラミレスが不調に陥り、打撃陣全体の長打力も2010年までと比べると激減(特に本塁打)する等、打撃陣が不振に陥った。一方で投手陣はルーキーの[[澤村拓一]]が4月21日に初勝利を挙げるなど、先発投手陣が引っ張った。その反面、前半は抑え投手が固定出来なかったこと、[[阿部慎之助]]が開幕時にケガで離脱したこと、獲得した多くの外国人選手が活躍できなかったこともあり、オールスターまでの前半戦はBクラスに低迷することとなった。後半戦に入り抑え投手に[[久保裕也 (野球)|久保裕也]]が固定できたことなどで8月に7連勝するなど調子を上げていく。終盤は阪神との3位争いとなったが、10月の阪神、中日との6連戦を5勝1敗として、クライマックスシリーズ進出を決め、最終的には首位から3.5ゲーム差の3位で終えている。[[2011年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]はヤクルトと対戦するが、先発投手が好投するも継投でつまづき1勝2敗で敗退している。打撃陣では長野が首位打者、[[藤村大介 (野球)|藤村大介]]が[[最多盗塁 (日本プロ野球)|盗塁王]]のタイトルを獲得している。[[11月11日]]、ヘッドコーチ人事を巡って[[清武英利]]球団代表が渡邉球団会長が不当に介入したとして渡邉球団会長を告発する問題が起きた。清武球団代表はこれを理由に18日付で職を解任されている(詳細は[[清武の乱]]参照)。このオフ、FAで[[横浜DeNAベイスターズ]]から[[村田修一]]を、ソフトバンクから[[杉内俊哉]]をそれぞれ獲得した。その一方でラミレス、グライシンガー、[[大村三郎]]、[[鶴岡一成]]らが退団した(ラミレスと鶴岡はDeNAに、大村とグライシンガーはロッテにそれぞれ移籍)。
 
 
;[[2012年の読売ジャイアンツ|2012年]]
 
 
[[3月15日]]、球団が1997年から2004年度に6選手と結んだ契約でこのうち計27億円が最高標準額(2007年までは上限ではなく超えても構わないというのがプロ野球全体の理解であり、超過の場合に制裁措置と定められたのは2007年以降)を超過していたのではないかと[[朝日新聞]]の記事で報じられた。開幕序盤は球団史上初の開幕戦完封負けを喫するなど低迷し、[[4月4日]]の対広島戦(マツダ)に敗れ単独最下位となり<ref>{{Cite news |title = ついに単独最下位…貧打巨人軍 4戦目で2度目の零敗 |newspaper = スポーツニッポン |date = 2012-04-04 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/04/04/kiji/K20120404002973370.html |accessdate = 2015-10-05 }}</ref>、開幕8試合で5度の完封負けで46イニング無得点を記録する<ref>{{Cite news |title = 村田が口火!巨人打線ようやくお目覚め13安打5得点 |newspaper = スポーツニッポン |date = 2012-04-09 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/04/09/kiji/K20120409003008320.html |accessdate = 2015-10-05 }}</ref>など、4月は2度の5連敗を記録した<ref>{{Cite news |date = 2012-04-23 |title = “V率0%”巨人 記録的貧打、5連敗で借金7に |newspaper = スポーツニッポン |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/04/23/kiji/K20120423003103500.html |accessdate = 2015-10-05 }}</ref>。しかし、原監督は「必ず噛み合う様になる」と信じた通り、5月は[[5月6日|6日]]の阪神戦から[[5月25日|25日]]のロッテ戦まで10連勝(3分挟む)を記録、[[5月14日]]に勝率5割としている<ref>{{Cite news |date = 2015-05-14 |title = 借金7から15試合で完済!孝行息子・沢村が立役者 |newspaper = スポーツニッポン |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/05/14/kiji/K20120514003247250.html |accessdate = 2015-10-05 }}</ref>。交流戦に入っても好調は続き、6月6日にリーグ首位に立ち<ref>{{Cite news |title = 交流戦首位の巨人、3連勝でセ・リーグ首位に浮上 |newspaper = スポーツニッポン |date = 2012-06-06 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/06/06/kiji/K20120606003411610.html |accessdate = 2015-10-05 }}</ref>、[[6月16日]]の対楽天戦(Kスタ宮城) に勝利して、セ・リーグ球団初の交流戦優勝を達成<ref>{{Cite news |title = 自力でセ初V決めた!原監督「素晴らしい交流戦になった」 |newspaper = スポーツニッポン |date = 2012-06-16 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/06/16/kiji/K20120616003482940.html |accessdate = 2015-10-05 }}</ref>。その後中日との首位争いとなるが、7月1日に首位に立つと<ref>{{Cite news |title = 原監督 執念の采配!首位攻防3連勝で巨人首位奪取! |newspaper = スポーツニッポン |date = 2012-07-01 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/07/01/kiji/K20120701003585250.html |accessdate = 2015-10-05 }}</ref>、前半戦を中日と4.5ゲーム差、貯金20の首位で折り返す。後半戦に入り8月には6連勝と7連勝を記録、[[8月23日]]に優勝へのマジックナンバー30を点灯させ<ref>{{Cite news |title = 巨人マジック30点灯 杉内離脱もチームで「カバー」 |newspaper = スポーツニッポン |date = 2012-08-24 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/08/24/kiji/K20120824003964880.html |accessdate = 2015-10-05 }}</ref>、[[9月8日]]の対ヤクルト戦(新潟)に勝利してクライマックスシリーズ進出を決め<ref>{{Cite news |title = 巨人CS進出決定!3位以内確保でマジックも13に |newspaper = スポーツニッポン |date = 2012-09-08 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/09/08/kiji/K20120908004075870.html |accessdate = 2015-10-05 }}</ref>、[[9月21日]]の対ヤクルト戦(東京ドーム)で勝利して3年ぶり34度目のリーグ優勝を達成<ref>{{Cite news |title = 巨人3年ぶりV奪回!阿部、豪快先制弾 長野、千金勝ち越し打 |newspaper = スポーツニッポン |date = 2012-09-21 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/09/21/kiji/K20120921004162800.html |accessdate = 2015-10-05 }}</ref>。最終的に86勝43敗15分で、2位中日に10.5ゲーム差。打者では阿部慎之助が[[首位打者 (日本プロ野球)|首位打者]]、[[最多打点 (日本プロ野球)|打点王]]の二冠、長野と坂本が[[最多安打 (日本プロ野球)|最多安打]]を獲得、投手では[[内海哲也]]が[[最多勝利|最多勝]]、杉内俊哉が[[最多奪三振 (日本プロ野球)|最多奪三振]]、[[最高勝率 (野球)|最高勝率]]の二冠を獲得した。チームとしても防御率2.16は、1966年の西鉄ライオンズ(2.13)以来の好成績となった。[[2012年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]ファイナルステージでは2位の中日と対戦するが、3連敗で中日に王手をかけられた後に怒涛の3連勝という、クライマックスシリーズ史上初の3連敗からの3連勝で日本シリーズ進出を決める<ref>{{Cite news |title = 巨人 大逆転突破!3年ぶり日本シリーズ進出 最終戦で中日下す |newspaper = スポーツニッポン |date = 2012-10-22 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/10/22/kiji/K20121022004387880.html |accessdate = 2015-10-05 }}</ref>。日本ハムとの[[2012年の日本シリーズ|日本シリーズ]]は4勝2敗で3年ぶり22度目の日本一を達成<ref>{{Cite news |title = 巨人3年ぶり22度目の日本一!阿部が勝ち越し打! |newspaper = スポーツニッポン |date = 2012-11-03 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/11/03/kiji/K20121103004475170.html |accessdate = 2015-10-05 }}</ref>。[[2012年のアジアシリーズ|アジアシリーズ2012]]では決勝戦で[[台湾]]の[[Lamigoモンキーズ]]に6対3で勝利し、初のアジア王者となった。これで交流戦、セ・リーグ、クライマックスシリーズ、日本シリーズ、アジアシリーズの全てで優勝し、日本プロ野球史上初の5冠を達成した。ドラフト会議では前年日本ハムの1巡目指名を拒否した東海大の[[菅野智之]]を単独指名で獲得した<ref>{{Cite news|url=http://mainichi.jp/sports/news/20121026k0000m050015000c.html |title=プロ野球:中日は福谷、西武は増田、楽天は森…1位指名|publisher=毎日.jp|date=2012-10-25}}{{リンク切れ|date=2015年10月}}</ref>。また東野をオリックスへトレードし、交換で[[阿南徹]]と[[香月良太]]を獲得した。
 
 
;[[2013年の読売ジャイアンツ|2013年]]
 
 
開幕から球団タイ記録の7連勝を飾り<ref>[http://sankei.jp.msn.com/sports/news/130407/bbl13040721590013-n1.htm 【プロ野球】阿部に待望の一発、巨人球団タイの開幕7連勝]{{リンク切れ|date=2015年10月}}</ref>、[[5月5日]]の東京ドームでの対広島戦の試合前に長嶋茂雄終身名誉監督と巨人OBの松井秀喜の国民栄誉賞の授与式が行われている<ref>{{Cite news |title = 松井秀喜氏 国民栄誉賞受与式「光栄だが、同時に恐縮」 |newspaper = スポーツニッポン |date = 2013-05-05 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/05/05/kiji/K20130505005743360.html |accessdate = 2015-10-05 }}</ref>。交流戦は13勝10敗の3位<ref>{{Cite web |url = http://bis.npb.or.jp/2013/stats/std_inter.html |title = 2013年度 交流戦 |publisher = [[日本野球機構]] |accessdate =2015-10-05 }}</ref>。前半戦は2位の阪神と2.5ゲームの首位で折り返し<ref>{{Cite news |title = 巨人 一挙5点で阪神慌てさせた!原監督「よく追い上げた」 |newspaper = スポーツニッポン |date = 2013-07-17 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/07/17/kiji/K20130717006239250.html |accessdate = 2015-10-05 }}</ref>。[[8月9日]]に優勝へのマジックナンバー39が点灯<ref>{{Cite news |title = 巨人、逆転勝ちで4連勝!原政権最速のマジック39点灯! |newspaper = スポーツニッポン |date = 2013-08-09 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/08/09/kiji/K20130809006385890.html |accessdate = 2015-10-05 }}</ref>。9月7日に7年連続で[[2013年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]進出が決定<ref>{{Cite news |title = 巨人 CS進出決定!7年連続での進出が決まる |newspaper = スポーツニッポン |date = 2013-09-07 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/09/07/kiji/K20130907006572720.html |accessdate = 2015-10-05 }}</ref>。9月22日の対広島戦(東京ドーム)の試合開始直後に2位の阪神がヤクルトに6対7で敗れたため、この時点で巨人の2年連続35度目のセ・リーグ優勝が決定した<ref>{{Cite news |title = 原監督 その瞬間冷静に拍手 ファンは興奮「勝って胴上げを見たい」 |newspaper = スポーツニッポン |date = 2013-09-22 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/09/22/kiji/K20130922006668610.html |accessdate = 2015-10-05 }}</ref>。開幕戦以降、6月に阪神が一時首位に立った以外は、巨人は首位を譲らなかった<ref>読売新聞2013年9月23日スポーツ面</ref>。広島との[[2013年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]ファイナルステージは3連勝で日本シリーズ進出を決めた<ref>産経新聞2013年10月18日スポーツ面</ref>。迎えた楽天との[[2013年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では第5戦までに2勝3敗で王手をかけられたものの、第6戦でシーズンから無敗の[[田中将大]]にこの年初の黒星をつけタイに持ち込むが<ref>{{Cite web |date = 2013-11-02 |url = http://nipponseries.npb.or.jp/2013/result/20131102.html#report |title = 第6戦試合結果 |publisher = コナミ日本シリーズ2013公式サイト |accessdate = 2015-10-03 }}</ref>、第7戦で敗れて3勝4敗で敗退した<ref>{{Cite web |date = 2013-11-03 |url = http://nipponseries.npb.or.jp/2013/result/20131103.html#report |title = 第7戦試合結果 |publisher = コナミ日本シリーズ2013公式サイト |accessdate = 2015-10-03 }}</ref>。この年のオフにFAで西武の[[片岡治大]]と広島の[[大竹寛]]、中日を[[自由契約]]となった[[井端弘和]]を獲得。
 
 
;[[2014年の読売ジャイアンツ|2014年]]
 
 
球団創設80周年を迎えた。[[4月19日]]、[[キューバ]]の国内リーグ「[[セリエ・ナシオナル・デ・ベイスボル]]」の中心選手である[[フレデリク・セペダ]]と契約<ref>{{Cite news |title=巨人、キューバ代表セペダ獲得へ WBCで計6発 |newspaper=[[スポーツニッポン]] |date=2013-04-19 |url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/04/19/kiji/K20140419008003630.html |accessdate=2013-04-19}}</ref>。同時に球団はセリエ・ナシオナル・デ・ベイスボルとの友好関係を結ぶことを発表した<ref>{{Cite web |date=2013-04-19 |url=http://www.giants.jp/G/gnews/news_398298.html |title=キューバ選手の入団合意とキューバ野球連盟との友好協定締結について |publisher=読売巨人軍公式サイト |accessdate=2013-04-19 }}</ref>。シーズン序盤より投打ともに勢いに乗りきれず、交流戦に入る段階では首位の広島とは4.5ゲーム差の3位だったが、交流戦ではソフトバンクと優勝を争い、交流戦の最終戦でのソフトバンクとの直接対決に勝利し、2年ぶりに優勝を達成。6月を11勝5敗とし、6月8日に首位に立つと以降は首位から陥落することはなかった。8月には13勝13敗で一時は2位の阪神と0.5ゲーム差となるが、9月に入り4日にはこの年初めて優勝へのマジックナンバー22が点灯、翌日に消滅したものの、11日には16で再点灯。20日の対ヤクルト戦に勝利し、[[2014年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]進出を決め、優勝へのマジックナンバーを2とした9月26日の対DeNA戦に6対3で勝利し、マジック対象チームの広島が阪神に敗れたため、3年連続通算36度目のセ・リーグ優勝が決定した<ref>この年のここまでの記述の出典は産経新聞2014年9月27日付スポーツ面とする。</ref>。なお打線では規定打席に到達しての3割打者がおらず、先発投手においては菅野と[[大竹寛]]を欠いた状態でCSに臨んだことが響き、2位の阪神とのCSファイナルステージではCS史上初の4連敗で敗退し、日本シリーズ進出を逃してしまった<ref>{{Cite news |title = 原G無残…CS史上初4連敗 采配空振り、9回反撃も届かず |newspaper = スポーツニッポン |date = 2014-10-18 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/10/18/kiji/K20141018009127510.html |accessdate = 2015-10-05 }}</ref>。同年オフ、[[東京ヤクルトスワローズ]]から[[相川亮二]]がFA権を行使して入団<ref name="sponichi009600460">{{Cite news |title = 人的補償でヤクルト移籍の奥村が会見「最初は驚きましたが…」 |newspaper = スポニチ Sponichi Annex |date = 2015-01-09 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2015/01/09/kiji/K20150109009600460.html |accessdate = 2015-10-05 }}</ref>、また[[横浜DeNAベイスターズ]]から[[金城龍彦]]も入団した。さらに、[[テキサス・レンジャーズ]]から[[マイルズ・マイコラス]]、[[アーロン・ポレダ]]を獲得した。
 
 
;[[2015年の読売ジャイアンツ|2015年]]
 
 
序盤はDeNAと首位を争う展開となった。[[4月15日]]に原監督が[[B型インフルエンザウイルス]]に感染し、当面自宅で静養となり監督代行を川相ヘッドコーチが務めることが発表された<ref>{{Cite web |date = 2015-04-15 |url = http://www.giants.jp/G/gnews/news_399483.html |title = 原監督のインフルエンザ感染について |publisher = 読売巨人軍 |accessdate = 2015-04-24 }}</ref>。約1週間の休養を経て、4月21日の広島戦で復帰<ref>{{Cite web |date = 2015-04-21 |url = http://www.giants.jp/G/result/digest/201504211digest.html |title = 主軸がタイムリーそろい踏み、原監督の復帰戦を白星で飾る |publisher = 読売巨人軍 |accessdate = 2015-04-24 }}</ref>。4月末、阿部、坂本、亀井が故障離脱、[[タンパベイ・レイズ|レイズ]]から自由契約になっていた[[ホアン・フランシスコ]]を獲得した。交流戦では4年ぶりに負け越し11位に終わった<ref>{{Cite news |title = ロッテの田村がプロ初本塁打 巨人は4年ぶり交流戦負け越し |newspaper = [[日本経済新聞]] |date = 2015-06-13 |url = http://www.nikkei.com/article/DGXLSSXK60380_T10C15A6000000/ |accessdate = 2015-10-05 }}</ref>。6月後半に首位の座を阪神に明け渡すも、7月にはすぐに首位に復帰。しかし前半戦最後のカードの対横浜DeNA戦に3連敗を喫し首位から陥落、前半戦を2位で通過した<ref>{{Cite news |title = セ・リーグ6球団監督が前半戦を総括 |newspaper = nikkansports.com |date = 2015-07-16 |url = http://www.nikkansports.com/baseball/news/1507867.html |accessdate = 2015-10-03 |publisher = [[日刊スポーツ|日刊スポーツ新聞社]] }}</ref>。[[7月18日]]、[[ニューヨーク・メッツ]]3Aから[[アレックス・カステヤーノス]]を獲得した。[[8月5日]]の対ヤクルト戦(神宮)において、公式戦通算10,000試合を達成した<ref>{{Cite news |title = 巨人が1万試合到達 | newspaper = 産経ニュース |date = 2015-08-05 |url = http://www.sankei.com/sports/news/150805/spo1508050041-n1.html |accessdate = 2015-10-05 }}</ref>。阪神、オリックス、中日に次いでプロ野球4球団目となった<ref>{{Cite news |title = 巨人が通算1万試合、プロ野球4球団目 |newspaper = [[日刊スポーツ]] |date = 2015-08-05 |url = http://www.nikkansports.com/baseball/news/1518569.html |accessdate = 2015-10-05 }}</ref>。ちなみに試合は村田のホームランなどもあり、6-5で巨人がヤクルトに勝利。後半戦は阪神・ヤクルトとの熾烈な首位争いを演じていた。しかし、カステヤーノスらを補強しても相変わらず打線が不振で、首位に立つチャンスを幾度となく逃し、終盤はヤクルトや阪神の後塵を拝することになる。そして[[9月27日]]に東京ドームでのヤクルト戦を1-2で落としてヤクルトの優勝マジック3を点灯させたことが決定打となり、[[10月2日]]にヤクルトの優勝が決定したことでリーグ4連覇への挑戦は失敗に終わり、レギュラーシーズンは2位で終えることになった。CS開幕前の[[10月5日]]に[[読売ジャイアンツ所属選手による野球賭博問題|所属選手の野球賭博]]への関与を発表し告発<ref>{{Cite news |title = 【球団リリース全文】借金取り立てが球場にやって来て問題発覚 |newspaper = スポニチ Sponichi Annex |date = 2015-10-06 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2015/10/06/kiji/K20151006011270070.html |accessdate = 2017-02-25 }}</ref>。[[2015年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]のファーストステージは、シーズン3位の阪神と対戦、2勝1敗で勝利する。そして迎えたシーズン1位のヤクルトとのファイナルステージに挑み、初戦こそキャプテン・坂本の2ランホームランなどもあり勝利を挙げたものの、2戦目以降は勝ち頭のマイコラス・菅野で落とし、打線も2戦目以降は規定打席越えの3割打者が1人もいなかったことを象徴する貧打、26イニング連続無得点などもあり3連敗した<ref>{{Cite news |title = 【セCS】巨人、今季を象徴する貧打…2年連続で日本S進出逃す | newspaper = Full-Count |date = 2015-10-17 |url = https://full-count.jp/2015/10/17/post20395/ |accessdate = 2017-02-25 }}</ref>。最終的には1勝4敗(アドバンテージ1敗含む)で、2年連続で日本シリーズ進出を逃す結果となった。なお、巨人が2年連続でCSファイナルステージで敗退したのはこれが初めて。そしてCS終了後、原監督は辞任を表明し<ref>{{Cite news |title = プロ野球・巨人の原監督が辞任申し出 |newspaper = 朝日新聞デジタル |date = 2015-10-17 |url = http://www.asahi.com/articles/ASHBK62PTHBKUTQP03B.html |accessdate = 2015-11-06 |publisher = 朝日新聞社 }}</ref>、[[10月19日]]、記者会見で原監督が監督退任を正式表明し、第2次政権の10年、第1次政権と合わせて12年間の監督生活にピリオドを打った<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/ 「バトン渡す」…巨人の原監督、退任を正式表明]{{リンク切れ|date=2015年11月}}</ref>。次期監督として球団OBで野球評論家の[[江川卓 (野球)|江川卓]]や[[川相昌弘]]ヘッドコーチ<ref>{{Cite news |title = 巨人・原監督が勇退 後任最有力に江川氏、川相ヘッド昇格も |newspaper = スポニチアネックス |date = 2015-10-18 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2015/10/18/kiji/K20151018011340180.html |accessdate = 2015-11-06}}</ref>、[[高橋由伸]]打撃コーチ兼外野手<ref>{{Cite news |title = 巨人の次期監督候補、高橋由伸外野手に一本化 |newspaper = 日本経済新聞 |date = 2015-10-20 |url = http://www.nikkei.com/article/DGXLSSXK20042_Q5A021C1000000/ |accessdate = 2017-02-22}}</ref>などが候補と報道された。[[10月22日]]、2016年シーズンから、一軍、二軍のほかに育成選手を中心とした三軍を編成することを発表<ref>{{Cite web |date = 2015-10-22 |url = http://www.giants.jp/G/gnews/news_3910059.html |title = 三軍の設置について |publisher = 読売巨人軍 |accessdate = 2015-11-06 }}</ref>。[[10月23日]]、高橋由伸の新監督就任および2015年限りの現役引退が発表された<ref>{{Cite news |title = 【巨人】由伸新監督「覚悟持ってまい進」今季限りで現役は引退 |newspaper = スポーツ報知 |date = 2015-10-23 |url = http://www.hochi.co.jp/giants/20151023-OHT1T50100.html |accessdate = 2015-11-06 |publisher = 報知新聞社 }}</ref>。同時に[[井端弘和]]と[[金城龍彦]]が引退し、それぞれ一軍内野守備・走塁コーチ、三軍打撃コーチに就任した。[[10月26日]]、高橋監督の就任会見が行われた。3年契約で背番号は現役時代と同じ「24」<ref>[http://www3.nhk.or.jp/news/html/20151026/k10010283041000.html 巨人 高橋新監督が会見「覚悟を持ってまい進」]{{リンク切れ|date=2015年11月}}</ref>。また、前監督の原辰徳が[[2016年]][[1月1日]]付で、球団特別顧問に就任することが決定<ref>{{Cite web |date = 2015-10-26 |url = http://www.giants.jp/G/gnews/news_3910066.html |title = 原辰徳前監督の特別顧問就任について |publisher = 読売巨人軍 |accessdate = 2015-11-06 }}</ref>。[[11月23日]]、この日行われたジャイアンツ・ファンフェスタ2015において高橋由伸の現役引退および監督就任セレモニーが行われた<ref>{{Cite web |date = 2015-11-23 |url = http://www.giants.jp/G/gnews/news_3910139.html |title = 「高橋由伸 現役引退・監督就任セレモニー」由伸監督あいさつ |publisher = 読売巨人軍 |accessdate = 2015-12-01 }}</ref>。シーズンオフにはリーグ優勝・日本一奪回に向け補強を行った。[[埼玉西武ライオンズ]]から[[脇谷亮太]]が古巣に復帰、長打復活のために[[ニューヨーク・ヤンキース]]から4番候補の[[ギャレット・ジョーンズ]](登録名:ギャレット)、[[千葉ロッテマリーンズ]]から自由契約となった[[ルイス・クルーズ]]を獲得し、打線強化を図った。
 
 
=== 高橋監督時代 ===
 
 
;[[2016年の読売ジャイアンツ|2016年]]
 
 
チームは開幕3連戦(VSヤクルト)において3連勝スタートを切った。なお、巨人が新監督で開幕3連戦を3連勝するのは、1981年の藤田元司監督以来35年ぶり<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2016/03/27/kiji/K20160327012288380.html 由伸巨人 球団新人監督35年ぶり連勝!V打亀井「明るく」チーム変わった ]スポーツニッポン 2016年3月27日</ref>。序盤は阪神・広島と首位争いを繰り広げるも巨人が一歩先を行く展開が続いていたが、前年同様打撃陣の低調で特に代打での打率と失策率が12球団最下位だったことや投手陣の見殺しや中継ぎ陣が打たれたりなどが大きく響いて負けが込むようになった。交流戦は五分で終えるも同時期に広島の快進撃が始まると、首位を奪われてしまう。その後、首位広島を一時4.5ゲーム差まで追いつめたものの、広島が持ち直し再び差を広げ始め、[[8月24日]]に広島との直接対決で敗れたことでマジックを点灯させてしまい、その後負けが続き、広島のマジックを減らす手助けをする形となり、[[9月10日]]の対広島戦で敗戦し広島のリーグ優勝が決まってしまい、2年連続V逸が確定した。その後は終盤はDeNAとの2位争いとなるが、シーズン2位が確定。[[坂本勇人]]が初の首位打者になり、[[菅野智之]]が2年連続で最優秀防御率と最多奪三振を獲得し、[[澤村拓一]]がセーブ王になるも、2桁勝利を達成したのは[[田口麗斗]]のみだった。クライマックスシリーズでは、クライマックス初出場の3位・DeNAと対戦。しかし、1勝2敗で1stステージで敗退し、5年連続のファイナル出場の夢は消えた。[[10月13日]]に足のスペシャリスト[[鈴木尚広]]が現役引退を発表した<ref>[http://www.hochi.co.jp/giants/20161013-OHT1T50037.html 【巨人】尚広引退!「生半可な気持ちでは続けられない」悩み抜いた胸の内独占激白 ]スポーツ報知 2016年10月13日</ref><ref>{{Cite web |date = 2016-10-13 |url = http://www.giants.jp/G/gnews_3911119.html | title = 鈴木尚広選手が現役引退「盗塁は自分が一番輝ける場所」 |publisher = 読売巨人軍 |accessdate = 2016-10-28 }}</ref>。また、オフには、総額30億円をかけた大補強を敢行。ソフトバンクから[[森福允彦]]、DeNAから[[山口俊]]、元楽天の[[ケーシー・マギー]]、日本ハムから[[陽岱鋼]]、抑え候補の新外国人として[[アルキメデス・カミネロ]]を獲得した。
 
 
;[[2017年の読売ジャイアンツ|2017年]]
 
 
開幕5連勝と好スタートを切り、序盤は阪神と2位を争った。しかしこの間に、昨シーズンオフにFAで獲得した山口俊、陽岱鋼らFA補強組が不振や故障で相次いで離脱。5月中旬以降は負けが込みだし、[[5月25日]]の対阪神戦(甲子園)に敗れるとその後広島に3連敗を喫し、4連敗継続中に交流戦を迎えるが楽天に3連敗、オリックスに3連敗、西武に3連敗と負け続け、球団史上ワースト記録となる13連敗を喫した。6月、球団OB初のGMとして、[[鹿取義隆]]が就任した。7月中旬に山口俊が傷害事件を起こし、シーズン終了までの出場停止・罰金・減俸という非常に重い処分が科せられた。また、前半戦終了後、二軍監督の斎藤雅樹が一軍投手コーチ(ベンチ)に、ベンチ担当の[[尾花高夫]]がブルペン担当、ブルペン担当の[[田畑一也]]が前半戦から苦戦している広島専従スコアラー、後任の二軍監督に巡回打撃コーチの[[内田順三]]が就任することを発表した。
 
後半戦以降は二塁にマギーをコンバートするなどの策が功を奏し、DeNAとの3位争いを演じるまで持ち直すも、10月1日の試合で敗れ、DeNAが勝ったため、シーズン4位が確定。Bクラスは11年ぶりで、2007年に導入された[[クライマックスシリーズ|CS]]への出場を球団史上初めて逃した。またセ・リーグで防御率1位のチームがBクラスとなるのは、1973年の[[ヤクルトスワローズ|ヤクルトアトムズ]]以来の2例目である(巨人が143試合終了時点。最終的には阪神タイガースが3.29で1位)。カード別の対戦成績では広島に7勝18敗と大きく負け越した以外、他の4球団には勝ち越しているが、同一リーグの4球団に勝ち越しながらBクラスに転落したのはNPB史上初。打撃陣は2位にマギー(20個)、4位に長野(17個)、6位に坂本(16個)、7位に村田(15個)ワースト10に主力選手がランクインしたのに代表される様に球団史上ワーストの129併殺と攻撃もちぐはぐであと一本が出なかったのに合わせ、投手陣は先発が菅野、マイコラス、田口だけで27の貯金を作った先発陣とは対照的に中継ぎ陣は2006年の62を下回る57ホールドとこちらも球団史上ワースト(12球団断トツのワーストで11位の東京ヤクルトは85ホールドである)。27ホールドのマシソンが安定した一方でマシソンに続くのが10ホールドの西村。昨シーズン19ホールドの山口鉄也が3ホールド、新戦力の森福がソフトバンク最後の年は16ホールドだったのが6ホールドと戦力にならず、勝ちパターンを確立出来なかったのが誤算だった。ちなみに10月1日のゲームも含めて1点差のゲームを27試合も落とした一方でものにしたのはセリーグワーストの13勝。接戦の弱さを露呈する結果となった。シーズン後若返りを図る一環として村田に戦力外通告を行い、また片岡、相川、松本哲、藤村らが現役を引退。先発の一角を担っていたマイコラスもメジャー復帰が決まり退団した。
 
 
なお、9月26日の対ヤクルト戦で内野手の[[中井大介]]が相手投手の[[岩橋慶侍]]から本塁打を放ち、これが球団通算1万号本塁打となった<ref name="nikkan20170926">[https://www.nikkansports.com/baseball/news/201709260000430.html 巨人中井 プロ野球初の球団通算1万号本塁打] [[日刊スポーツ]]、2017年9月26日閲覧。</ref>。
 
 
;[[2018年の読売ジャイアンツ|2018年]]
 
主な補強選手として、西武からFA宣言した[[野上亮磨]]、前中日の[[アレックス・ゲレーロ]]、マイコラスに代わる先発候補として期待される新外国人[[テイラー・ユングマン|テイラー・ヤングマン]]を獲得。さらに、3月上旬には[[上原浩治]]が10年ぶりに巨人復帰。3月中旬には野球賭博問題に関与し、失格処分のち育成選手となっていた[[高木京介]]を2年ぶり支配下登録することが決まった。6月に[[篠原慎平]]、[[河野元貴]]が[[Instagram]]に不適切な動画を投稿し出場停止になり、さらに7月には[[柿沢貴裕]]がチームメイトの野球道具・ユニフォームを盗み転売していたことが判明し契約解除となるなど、前年に続き不祥事が相次いだ。この責任を取る形でオーナーの[[老川祥一]]が辞任し、後任として[[山口壽一]]が新オーナーに就任した<ref>[https://www.daily.co.jp/baseball/2018/07/18/0011456893.shtml 巨人、山口氏が新オーナー就任 読売新聞グループ社長] [[デイリースポーツ]]、2018年7月18日閲覧。</ref>。
 
 
== 所属選手・監督・コーチ ==
 
{{See also|読売ジャイアンツの選手一覧}}
 
{{読売ジャイアンツ|state=expanded}}
 
 
== チーム成績、記録 ==
 
* チームに関する記録に関してのみ記載する、所属選手・監督の個人記録に関しては各個人のページ参照。
 
* 特に断りのない場合は2012年シーズンまでの数値。
 
 
=== 試合、勝敗、勝率に関する記録 ===
 
[[Image:Yomiuri Giants Ranking.svg|thumb|1950年以降の順位の変遷。赤い丸は日本シリーズ優勝を示す]]
 
{{See also|読売ジャイアンツの年度別成績一覧}}
 
* '''優勝(レギュラーシーズン最高勝率) 45回(日本プロ野球記録)'''※2リーグ分立以降36回。
 
:(1936年秋 - 1937年春、1938年秋 - 1943年、1949年、1951年 - 1953年、1955年 - 1959年、1961年、1963年、1965年 - 1973年、1976年 - 1977年、1981年、1983年、1987年、1989年 - 1990年、1994年、1996年、2000年、2002年、2007年 - 2009年、2012年 - 2014年)
 
* '''日本一 22回(日本プロ野球記録)'''
 
:(1951年 - 1953年、1955年、1961年、1963年、1965年 - 1973年、1981年、1989年、1994年、2000年、2002年、2009年、2012年)
 
* セ・パ交流戦優勝 2回
 
:(2012年、2014年)
 
* クライマックスシリーズ優勝 4回
 
:(2008年、2009年、2012年、2013年)
 
* アジアシリーズ優勝 1回
 
:(2012年)
 
* 日韓クラブチャンピオンシップ<ref group="注">アジアシリーズの振り替え大会。</ref>優勝 1回
 
:(2009年)
 
* 連続優勝最長記録・連続レギュラーシーズン最高勝率最長記録 9年(日本プロ野球記録)
 
:(1965年 - 1973年)
 
* Aクラス 74回 ※2リーグ制以降60回。
 
:(1936年秋 - 1946年、1948年 - 1961年、1963年 - 1974年、1976年 - 1978年、1980年 - 1990年、1992年 - 1996年、1998年 - 2004年、2007年 - 2016年)
 
* Bクラス 9回 ※2リーグ制以降8回。
 
:(1947年、1962年、1975年、1979年、1991年、1997年、2005年 - 2006年、2017年)
 
:最下位は1975年の1回のみ。
 
* 連続Aクラス入り最長記録 14年(1948年 - 1961年)
 
* 連続Bクラス最長記録 2年(2005年 - 2006年)
 
* シーズン最多勝利 92勝(1955年)
 
* シーズン最多連勝 15連勝(1951年7月16日 - 8月3日)※1引き分けを挟む
 
* シーズン最多敗戦 80敗(2005年)
 
* シーズン最多連敗 13連敗(2017年5月25日 - 6月8日)
 
* シーズン最多引分 16引き分け(1978年)
 
* シーズン最高勝率 .769(1938年秋)(2リーグ制以降.731 1951年)
 
* シーズン最低勝率 .382(1975年)
 
* 通算試合 9612試合(日本プロ野球記録・2リーグ制以降8391試合)
 
* 通算勝利 5471勝(日本プロ野球記録・2リーグ制以降4688勝)
 
* 通算敗戦 3838敗(2リーグ制以降3428敗)
 
* 通算引分 303引き分け(2リーグ制以降275引き分け)
 
* 通算勝率 .588(日本プロ野球記録・2リーグ制以降.578)
 
* 最小ゲーム差 0.0ゲーム(1974年、1986年)
 
* 最大ゲーム差 27.0ゲーム(1975年)
 
* 最長試合時間 6時間26分(2015年8月21日対広島東洋カープ)
 
* 最短試合時間 1時間14分(1951年3月31日対大阪タイガース)
 
 
=== チーム打撃記録 ===
 
* 通算本塁打 9380本(日本プロ野球記録・2リーグ制以降8941本)
 
* シーズン最多得点 738得点(2004年)
 
* シーズン最多安打 1375本(2009年)
 
* シーズン最多2塁打 221本(1953年)
 
* シーズン最多3塁打 57本(1946年)
 
* シーズン最多本塁打 259本(2004年・日本プロ野球記録)
 
* シーズン最多塁打 2340本(2004年・日本プロ野球記録)
 
* シーズン最少本塁打 1本(1936年秋)
 
* シーズン最多打点 719打点(2004年)
 
* シーズン最多盗塁 212盗塁(1950年)
 
* シーズン最多犠打 144犠打(1990年)
 
* シーズン最多犠飛 43犠飛(1978年)
 
* シーズン最多四死球 591個(1950年・日本プロ野球記録)
 
* シーズン最多三振 1083三振(2004年)
 
* シーズン最高打率 .292(1952年)
 
* シーズン最低打率 .208(1943年)(2リーグ制以降.227 1961年)
 
* ゲーム最多得点 26得点(1946年8月31日対中部日本軍、1948年10月16日対大陽ロビンス)
 
* ゲーム最多安打 27本(1948年10月16日対大陽ロビンス)
 
* ゲーム最多2塁打 11本(1948年10月16日対大陽ロビンス・日本プロ野球記録)
 
* ゲーム最多3塁打 4本(1947年8月16日対阪急ブレーブス、1957年8月27日対大洋ホエールズ)
 
* ゲーム最多本塁打 8本(1984年7月4日対ヤクルトスワローズ、1984年9月4日対中日ドラゴンズ、1985年6月28日対阪神タイガース)
 
* ゲーム最多塁打 59本(1948年10月16日対大陽ロビンス)
 
* ゲーム最多打点 25打点(1948年10月16日対大陽ロビンス)
 
* ゲーム最多盗塁 5盗塁(1943年4月11日対西鉄軍、1951年9月12日対国鉄スワローズ)
 
* ゲーム最多犠打 4犠打(1952年2度、1966年1度、1987年1度)
 
* ゲーム最多犠飛 4犠飛(1939年10月8日・日本プロ野球記録)
 
* ゲーム最多四死球 16個(1946年8月31日対中部日本軍)
 
* ゲーム最多三振 17三振(2004年8月1日対阪神タイガース)
 
* イニング最多得点 13得点(1972年6月23日対ヤクルトアトムズ6回・日本プロ野球記録)
 
* イニング最多安打 10本(1941年5月11日対阪急軍4回、1951年8月8日対広島カープ7回)
 
* イニング最多2塁打 6本(1948年10月16日対大陽ロビンス5回・日本プロ野球記録)
 
* イニング最多3塁打 4本(1947年8月16日対阪急ブレーブス3回・日本プロ野球記録)
 
* イニング最多本塁打 4本(1985年9月9日対横浜大洋ホエールズ4回、1987年5月12日対阪神タイガース7回、1999年7月31日対広島東洋カープ1回、2000年6月21日対中日ドラゴンズ7回)
 
* イニング最多塁打 18本(1948年10月16日対大陽ロビンス5回)
 
* イニング最多打点 13打点(1972年6月23日対ヤクルトアトムズ6回・日本プロ野球記録)
 
* イニング最多盗塁 5盗塁(1937年5月16日対名古屋金鯱軍1回)
 
* イニング最多犠打 3犠打(多数)
 
* イニング最多犠飛 2犠飛(多数)
 
* イニング最多四死球 8個(1959年10月20日対中日ドラゴンズ5回)
 
* イニング最多三振 4三振(2004年8月1日対阪神タイガース2回)
 
* 最多連続得点 10得点(2003年4月27日対横浜ベイスターズ8回)
 
* 最多連続試合得点 174試合(1980年8月4日 - 1981年9月20日)
 
* 最多連続イニング無得点 31イニング(1985年6月5日対阪神タイガース4回 - 6月8日対中日ドラゴンズ7回)
 
* 最多連続打席安打 9打席(1996年7月9日対広島東洋カープ2回・日本記録)
 
* 最多連続打数安打 9打数(1954年9月29日対広島カープ1回、1四球を挟む)
 
* 最多連続イニング安打 21イニング(1985年7月10日対中日ドラゴンズ6回 - 7月16日対横浜大洋ホエールズ1回・日本記録)
 
* 最多連続試合本塁打 33試合(2004年4月2日 - 5月12日、開幕からの連続記録)
 
* 最多連続イニング本塁打 6イニング(1967年10月10日対広島カープ2回 - 7回)
 
* 最多連続本塁打 3人(通算5度)
 
* 最多連続打数本塁打 4人(1四球を挟む)
 
* 最多連続四死球 5人(1963年5月3日対国鉄スワローズ2回、1964年4月7日対国鉄スワローズ9回)
 
* 最多連続試合盗塁 16試合(1951年7月29日 - 8月9日)
 
 
=== チーム投手記録 ===
 
* シーズン最多被安打 1427本(2005年)
 
* シーズン最多被本塁打 193本(2004年)
 
* シーズン最多与四死球 529個(1978年)
 
* シーズン最多奪三振 1123個(2003年)
 
* シーズン最多失点 737点(2005年)
 
* シーズン最高防御率 1.38(1943年)
 
* シーズン最低防御率 4.80(2005年)
 
* ゲーム最多被安打 25本(1994年9月10日対広島東洋カープ)
 
* ゲーム最多被本塁打 8本(1949年4月26日対大映スターズ)
 
* ゲーム最多与四死球 16個(1985年7月30日対広島東洋カープ)
 
* ゲーム最多奪三振 16個(1967年6月7日対大洋ホエールズ、1994年8月13日対阪神タイガース)
 
* ゲーム最多失点 19点(1994年9月10日対広島東洋カープ、2003年6月11日対ヤクルトスワローズ、2003年9月16日対中日ドラゴンズ)
 
* イニング最多被安打 10本(1994,1997,1998,2003に4度)
 
* イニング最多被本塁打 3本(多数)
 
* イニング最多与四死球 10個(1978年7月6日対広島東洋カープ)
 
* イニング最多奪三振 4個(1997年7月4日対阪神タイガース3回、2005年4月6日対横浜ベイスターズ6回)
 
* イニング最多失点 12点(2003年9月16日対中日ドラゴンズ6回)
 
* 最多連続試合完封勝利 4試合(9度・日本記録)
 
* 最多連続イニング無失点 50イニング(1966年6月15日 - 6月22日)
 
* 最多連続試合被本塁打 18試合(2001年8月11日 - 9月2日)
 
 
== チームの特徴 ==
 
{{出典の明記|date=2013年1月|section=1}}
 
 
=== 球団名 ===
 
「'''大日本東京野球倶楽部'''」として設立後、[[1935年]]のアメリカ遠征時、[[レフティ・オドール|フランク・オドール]]の提案により[[サンフランシスコ・ジャイアンツ|ニューヨーク・ジャイアンツ]]をもとにした「'''東京ジャイアンツ'''」というニックネームが使用された<ref name="gh" /><ref>{{Cite web |url = http://menzine.jp/trivia/kyojingun2438/ |title = 「巨人軍」だけなぜ「軍」が付く?ジャイアンツ誕生秘話 |publisher = MEN-ZINE |accessdate = 2017-02-23 }}</ref>。その後正式なチーム名としてジャイアンツを巨人軍と訳した「'''東京巨人軍'''」となった。[[1947年]]に[[日本野球連盟 (プロ野球)|日本野球連盟]]が各球団とも「漢字+ニックネーム」を導入する事になり「'''読売ジャイアンツ'''」となる。
 
 
アメリカの新聞・テレビ・映画や英字新聞などで「Tokyo Giants」と呼称されることもあった。また、球団公式Twitterアカウントのアカウント名は「Tokyo Giants」となっている。
 
 
==== 呼称について ====
 
[[日本プロフェッショナル野球協約|野球協約]]第38条に書かれている構成球団は「株式会社読売巨人軍」、球団呼称は「読売ジャイアンツ」となっている。NPB所属球団は球団呼称のうちの企業名の部分が略称として各種メディアで使われているが、読売ジャイアンツについては例外的に「読売」ではなく「'''巨人'''」が一般的な略称とされている<ref>なお、読売ジャイアンツ以外の例外として、「広島カープ」が「広島東洋カープ」に改称した後もそれまでの呼び方を引き継いで「東洋」ではなく「広島」という略称で一般的に呼ばれている。</ref>。これは球団名が「東京巨人軍」だった時代から使われていた略称(当初は「東京セネタース」や「大東京軍」という東京を名乗るチームが他にもあったため、「東京」ではなく「巨人」が略称とされたのは当然である)が「読売ジャイアンツ」になったあとも、慣習としてそのまま使われ続けているものである<ref group="注">{{Cite web |url = http://www.baseball-museum.or.jp/showcase/storage/poster/index.html |title = プロ野球ポスター 1リーグ時代図録 |publisher = 野球殿堂博物館 |accessdate = 2017-05-07 }}収蔵されているポスターをみると、戦前、戦中、チーム名変更以降も「巨人」という略称が使われているのがわかる。</ref>(なお本球団を指して「巨人」と言った場合、アクセントは「きょじん」の「'''きょ'''」に置かれる)。「巨人」という略称は、テレビ、新聞、ニュースサイト、チケットの印字などで幅広く用いられる。なお、これらのメディアにおいて一文字で球団名を略する場合も「読」ではなく「'''巨'''」となる。
 
一方、[[日本野球機構]](NPB)では公式な略称として「'''読売'''」を使用することがある。一般的な略称とは異なり、「東京ヤクルト」「横浜DeNA」「広島東洋」というように機械的に球団名からニックネーム部分を省いたものを略称としているためである。例えば、NPB公式ウェブサイトにおける所属球団の表記<ref>例として{{Cite web |url = http://npb.jp/bis/players/41745137.html|title = 個人年度別成績 【菅野智之 (読売ジャイアンツ)】 | NPB.jp 日本野球機構|accessdate = 2017-11-22}}</ref>や[[プロ野球ドラフト会議]]などでは「読売」が使用される。
 
また、球団、所属選手、OBなどは「'''巨人軍'''」という略称を一般的に使用しているが<ref>{{Cite web |date = 2014-10-14 |url = http://mainichi.jp/articles/20141014/mog/00m/050/005000c |title = ミスター「巨人軍は永久に不滅です」から40年 |publisher = 毎日新聞 |accessdate = 2017-05-07 }}</ref><ref>{{Cite web |date = 2015-11-23 |url = http://www.giants.jp/G/gnews/news_3910139.html |title = 「高橋由伸 現役引退・監督就任セレモニー」由伸監督あいさつ |publisher = 読売巨人軍公式サイト |accessdate = 2017-05-07 }}</ref>、メディア、他球団がこの略称を使う頻度はそれほど多くない<ref>{{Cite web |date = 2016-06-13 |url = https://www.daily.co.jp/baseball/2016/06/13/0009180405.shtml |title = 巨人軍が脱帽…王者ソフトに6連敗 |publisher = デイリースポーツ |accessdate = 2017-05-07 }}</ref><ref>{{Cite web |date = 2017-02-23 |url = https://baseballking.jp/ns/104426 |title = 巨人軍の伝統が復活した日 |publisher = ベースボールキング |accessdate = 2017-05-07 }}</ref><ref>{{Cite web |title = 阪神タイガース・読売巨人軍共同プロジェクト「伝統の一戦~THE CLASSIC SERIES~」について |url = http://hanshintigers.jp/news/topics/info_4185.html |publisher = 阪神タイガース公式サイト |accessdate = 2017-02-23 }}</ref>。
 
 
=== マスコット ===
 
* 初代マスコットはミスタージャイアンツ。[[ペットマーク]]として、当時のジャンパーの右胸部分に大きいワッペンが貼り付けられていた<ref group="注">長嶋茂雄が「ミスタープロ野球」と呼ばれているのは、敬意の他にこのマスコットと混同しないという目的も当初あったが現在ではそう呼ばれることが自然となっている。</ref>。ミスタージャイアンツは長嶋茂雄の太い眉、王貞治の大きな目、川上哲治の太鼓腹がモチーフになったと言われている<ref>読売巨人軍公式HPより[http://www.giants.jp/G/gnews/news_39570.html]{{リンク切れ|date=2015年10月}}</ref>。デザインを手掛けたのは、[[相沢光朗]]<ref group="注">[[画家]]([[1919年]]生まれ)。日本水彩画会審査委員、日展水彩作家協会委員。 </ref>。後に[[漫画家]]の[[森田拳次]]が[[少年 (雑誌)|雑誌『少年』]]で、このキャラを主人公とする[[漫画]]([[漫画化|コミカライズ版]])を手掛けた(1965年4月号から1967年頃まで連載)。連載中は[[ロッテ]](当時はプロ球団を持たず)から「ミスタージャイアンツガム」という風船ガムを発売、またトミー(現:[[タカラトミー]])から「おはなしミスタージャイアンツ」という人形玩具が発売された。漫画はアニメ化はされなかったが、[[1965年]][[7月22日]]に[[朝日ソノラマ|朝日ソノプレス社(現 - 朝日ソノラマ)]]から[[ソノシート]]が発売、主題歌「レッツゴー! ミスタージャイアンツ」(作詞 - [[若林一郎]] / 作曲 - [[小林亜星]] / 歌 - [[西六郷少年少女合唱団]])とドラマが収録され、ミスタージャイアンツ役は当時アニメ『[[スーパージェッター]]』に主演した[[市川治]]、また巨人軍から王貞治・長嶋茂雄・金田正一、野球解説者の[[佐々木信也]]、当時日本テレビアナウンサーの[[大平和夫]]が本人役で出演した。
 
* 2代目はバットに乗りボールに帽子と顔と手足を足した「バットに乗った少年」で、1980年から1991年までの12年間の長きにわたりペットマークとして使用された。
 
* 3代目は1992年から使われている「[[ジャビット]]」である。これはチームのロゴマークであるYGの組み合わせに、[[ウサギ]]を絡ませたものである。ペットマークとして使用。また、着ぐるみキャラクターでは「ジャビットファミリー」として5人のキャラクターが登場する。2007年からそれぞれ個別のキャラに愛称がつけられた([http://www.giants.jp/G/gnews/news_20070407_0004.html]{{リンク切れ|date=2015年10月}}を参照)。
 
* 2006年からペットマークを変更、東京の街並み(東京ドームや[[東京都庁舎]]など)のシルエットの中に「G-KING」という巨人が描かれたものになった。マスコットはジャビットのままである。
 
* 2011年1月11日からペットマークを「ウイニングジャビット」に変更した。普通のジャビットを強さや格好良さのイメージを盛り込んだスマートなデザインにしたもの。2017年シーズンまで使用された。
 
 
=== マスコットガール ===
 
* 1994年、球団創立60周年を期に結成された。現在の名称は「[[ヴィーナス (マスコットガール)|ヴィーナス]]」
 
* 広島カープ以外の11球団にチアが存在するが、球団と同じくジャイアンツのチアが最も長い歴史を持つ(1978年、阪神タイガースにチアが存在したが、チームが球団史上初の最下位に沈んだこともあり、スタンドからの野次の嵐や物を投げ込まれるなどして1年で解散している)
 
* 古くは[[斉藤舞子]]([[フジテレビジョン|フジテレビ]]アナウンサー)、最近では[[中川絵美里]]([[セント・フォース|セントフォース]])など有名人も多く輩出している
 
 
=== 応援スタイル ===
 
{{See also|東京読売巨人軍応援団|読売ジャイアンツ応援団|G-FREAKS}}
 
ジャイアンツの応援は、それぞれの地域の私設応援団の先導によって行われる。声援とメガホンか手拍子で応援するスタイルとなっている。ただし、応援団としてはメガホンを使用しない応援スタイルを採用している。2010年シーズンまで活動していた[[東京読売巨人軍応援団]](東京)は、東京団員1名が、[[ダフ屋行為|野球観戦チケットの不正転売]]を行い、試合観戦契約約款や特別応援許可規程に違反していたことがわかり、その責任を取って東京の応援団は自主解散した。新設される[[読売ジャイアンツ応援団]]は[[東京読売巨人軍応援団]]の伝統とスタイルを引き継いで応援活動を行うとしている。これにより関東圏は[[読売ジャイアンツ応援団]]・北海道は[[東京読売巨人軍応援団|東京読売巨人軍応援団北海道]]・関西圏は[[読売ジャイアンツ応援団|読売ジャイアンツ応援団大阪]]・中国や四国及び九州は読売巨人軍応援団GLOVE(広島・九州)がそれぞれの地域を先導する。
 
 
応援時の格好は[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]を除いた他球団同様、ホームゲームにおいてビジター用のユニフォームやシャツを着ていたり、すでに退団した監督・コーチ([[木村拓也]]など)・選手(特に[[松井秀喜]])のユニフォームやシャツ、松井が2009年まで所属していたニューヨーク・ヤンキース(松井の背番号・55が入っているもの)のユニフォームやシャツを着ていることも多くその統一性はあまり高くなかったが、2012年以降橙魂と称した特定の試合日にオレンジ色の特別ユニフォームのレプリカを配布しているため、通常のユニフォームやオレンジユニフォームの比率が高まっている。
 
 
=== 営業・ファンサービス ===
 
==== CLUB G-Po ====
 
2007年よりサービスが開始された公式ファンクラブ。2013年現在で会員数は30万人を突破している。
 
 
サービスはポイント制となっており、巨人軍の主催公式戦(一軍は全試合。二軍は東京ドームでの開催試合のみ)に来場し、ファンクラブ加入時に入手できるカードを持参し専用ブースに行くと「来場ポイント」が加算され、その日の試合での巨人軍のチーム・選手の記録等によってポイントが付き、最終的な合計がその日の「ゲームポイント」として加算される。また、オンラインショップ「GIANTS SHOP ONLINE」([[#外部リンク]]参照)や、[[東京ソラマチ]]内の「ジャイアンツオフィシャルストア」での商品購入、[[BS日本|BS日テレ]]で中継される巨人戦の視聴、他球団主催公式戦としての巨人戦(不定期)への来場等でもポイントを貯めることができる。ポイントを貯めると、達成ポイントごとにオリジナルグッズや観戦チケット等と交換ができ、抽選で東京ドームのスイートルームやエキサイトシート等での巨人戦観戦に招待される。貯めたポイントは、2013年までは交換しても消滅せずに累積で加算され(つみあげ方式)、1シーズンごとにリセットされていたが、2014年からはグッズ等と交換すると、交換分のポイントが消滅し(引き換え方式)、翌シーズンの11月30日まで有効となった。
 
 
会員はプライム・ジュニア(いずれも有料)・エンジョイ(無料)の3種類があるが、会員の種類によって受けられるサービスが異なる<ref>{{Cite web |url = http://www.club-g-po.jp/about/status.html |title = 会員ステイタス |publisher = 読売巨人軍公式ファンクラブ |accessdate = 2015-10-05 }}</ref>。
 
 
==== セ・リーグ首都圏3球団合同企画 ====
 
[[2012年]]から、読売ジャイアンツ・[[東京ヤクルトスワローズ]]・[[横浜DeNAベイスターズ]]との3球団合同で「'''[[セントラル・リーグ首都圏3球団合同企画 GSDB〜Get Stamp&DeKA Badge!|GSDBプロジェクト]]'''」を立ち上げファンクラブ会員に限りヤクルト・DeNA主催の巨人戦で来場ポイント付与の他会員限定イベントの実施や該当試合の前売りチケット優先販売や球場DJ・チアチーム・マスコットキャラクターの相互訪問を行っている。
 
 
==== 伝統の一戦 〜THE CLASSIC SERIES〜 ====
 
読売ジャイアンツと[[阪神タイガース]]の共同プロジェクト。
 
 
80年以上の歴史を持つ日本プロ野球の創世期より、読売ジャイアンツと阪神タイガースの両球団は、球史に残る幾多の名勝負を繰り広げており「永遠のライバル」、また、両者の対決を「伝統の一戦」と呼ばれていた。これに因み、[[2016年]]、巨人・[[高橋由伸]]、阪神・[[金本知憲]]の両新監督を迎え、新体制となったことを契機に、あらためて両球団の戦いを盛り立て、多くのファンに、より一層の夢・感動を与えられるよう、両球団が共通ビジュアル、シリーズロゴの旗のもとに共同で様々な取り組みを実施する<ref>[http://www.sanspo.com/baseball/news/20160203/npb16020320090029-n1.html GTが合同で伝統の一戦プロジェクト]サンケイスポーツ 2016年2月3日</ref>という企画。なお、両球団が共同企画を行うのはこれが初めて。
 
{{Main|伝統の一戦 〜THE CLASSIC SERIES〜}}
 
 
=== その他 ===
 
* 監督は創立当初を除けば全てチームの生え抜き選手が就任しており、他球団OBが監督になっていない唯一の球団であり、また生え抜き選手でも、国内他球団への移籍やコーチを歴任していない、巨人一筋の人物がほとんどである。2リーグ制になってからは他球団に在籍経験のない人物しかいない(球団創立時の初代監督:[[藤本定義]]はプロ選手の経験がないので他球団OBではなく、巨人軍生え抜き扱いになる。なお例外として、[[藤田元司]]は巨人監督に就任する以前に大洋のコーチを務めていたことがある)。ただし、コーチや二軍・三軍の監督は生え抜きではない人物でも務めている。
 
* 他球団にはあるシーズン途中での監督の長期休養や解任・辞任が皆無である(1リーグ制時代の1947年において[[中島治康]]が辞任している。それ以降、2リーグ制になってからはそのような事態がない状態となっている)。
 
* [[1949年]]の[[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]成立以降、[[1950年]]から[[2009年]]の60回のうちリーグ制覇は33回。[[川上哲治]]監督の下で[[V9 (読売ジャイアンツ)|V9]]を達成した第三期黄金時代([[1965年]] - [[1973年]])以降、長嶋茂雄第一次監督時代から2010年代後半までの原辰徳第二次監督時代までの35年間、セ・リーグを13回(そのうち日本シリーズ制覇は6回)制覇している。
 
* パ・リーグで大映が毎日に吸収合併され大映が消滅し大毎となり6球団制となった1958年から近鉄がオリックスに吸収合併されて近鉄が消滅した2004年までの47年間、パ・リーグの当時の6球団全てと日本シリーズで対戦していた(日本一も6球団全てで経験)。巨人が日本シリーズで敗北したことがあるのは西鉄・西武と阪急・オリックス、南海、楽天の4球団。西鉄・西武との相性は悪く、対戦成績は3勝7敗と大きく負け越している。2005年に活動を開始した[[東北楽天ゴールデンイーグルス|楽天]]との日本シリーズの対戦も[[2013年の日本シリーズ|2013年]]に初めて実現し、2013年現在現存するパ・リーグ球団と全て対戦経験がある、初めて(そして唯一)のセ・リーグ球団となった。
 
* 最下位になったのは1975年の1回だけでこれは現存する12球団の中では最少であり、最下位が1回しかないのは巨人だけである。また、2016年も最下位を回避したことにより、阪急・オリックスが持っていた39年連続最下位回避(1964年 - 2001年)の最長記録を、40年連続(1976年 - )として最長記録保持球団となった。この記録は2017年に41年連続に伸びている。
 
* 国外へのポスティング移籍は認めておらず、前例がない。巨人から国外球団に移籍するには、戦力外などの自由契約者となるか海外FA権を取得しなければならず、松井や上原や高橋尚成もFA取得後に移籍している。
 
* 巨人から国内FAを行使して移籍した生え抜き選手は1994年に[[横浜ベイスターズ]]に移籍した[[駒田徳広]]だけである。
 
* 他球団がリーグ優勝をしたにも関わらず[[クライマックスシリーズ]]のファイナルステージおよび[[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]に敗退をしていても優勝パレードは行うことがあるが、巨人の場合は日本一にならないと優勝パレードは開かないという条件が付いている。
 
* 2015年3月の[[読売新聞]]の調べによると、セ・パ全12球団のうち、災害などの回避の対策で、地方開催などを除き原則として2便に分かれて移動している、唯一の球団であるという<ref>{{Cite news |title = 選手移動 リスクを意識 |newspaper = 読売新聞 |date = 2015-03-26 |page = 24 }}</ref>。
 
* 巨人の地方球場での試合は主催ゲームが多く、ビジターでは1972年以降は開催することはなかったが、2004年と2005年に1回ずつ開催されると2010年以降はヤクルト、DeNAの試合でビジターで地方開催する試合が増えてきている。
 
* 巨人の右打者においてシーズン40本塁打を打ったのは[[小久保裕紀]]と[[アレックス・ラミレス]]だけである。日本人選手の右打者は小久保だけで生え抜きの右打者に至っては未だに打っていない。
 
* セ・パ交流戦で2012年と2014年の2回優勝している。それ以外の年はすべて[[パシフィック・リーグ|パ・リーグ]]のチームが優勝しており、巨人は[[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]で交流戦優勝経験のある唯一のチームである(2017年交流戦終了時点)。
 
* 2007年に導入された[[クライマックスシリーズ]]では、導入年の2007年から2016年まで10年連続でシリーズ進出を果たした。これはセ・パ両リーグ全12球団のうち唯一の記録であったが、2017年は4位に終わり、球団史上初めてクライマックスシリーズ進出を逃した<ref>{{Cite news|title=巨人、球団史上初めてCS進出逃す 4位確定 連続出場10年で途切れる|url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2017/10/01/kiji/20171001s00001173296000c.html|newspaper=[[スポーツニッポン]]|date= 2017-10-01|accessdate=2017-10-01}}</ref>。
 
 
== ユニフォームの変遷 ==
 
{{出典の明記|date=2013年1月|section=1}}
 
 
=== 球団創立 - 水原監督時代 ===
 
* [[1935年]] 球団創立(大日本東京野球倶楽部)時の第一次米国遠征では、背番号を漢数字にした'''[[野球ユニフォーム|ユニホーム]]'''が使われた。左胸には「日の丸」をあしらったマークで「TOKYO」の文字が入り、右袖に(背)番号、左袖に漢字で「日本」と入る。色はグレー地。帽子は濃紺色でマークはオレンジで「T」。
 
* [[1936年]] - [[1937年]] 球団名が「東京巨人軍」になり、第二次米国遠征<ref name="gh" />。背番号はアラビア数字に、胸のレターが花文字(一般に[[早稲田大学|早稲田]]型ロゴという)で上に「TOKYO」下に「GIANTS」の2段組になっている。色はグレー地。帽子は濃紺色でマークは金糸で「G」<ref>{{Cite web |date = 2009-07-07 |url = http://www.zakzak.co.jp/spo/200907/s2009070711_all.html |title = G伝説の沢村ユニホームが復活…球界は復刻景気狙い |publisher = ZAKZAK |accessdate = 2017-2-25 }}</ref>。帰国後は白地で胸に黒で「GIANTS」、帽子は白に濃紺のつばに黒の「G」マーク<ref>{{Cite web |url = http://www.baseball-museum.or.jp/showcase/storage/museum/study_033.html |title = その33 1936年の巨人のユニフォーム |publisher = 野球殿堂博物館 |accessdate = 2017-2-25 }}</ref>。グレー地で同じ物が作られ、これを着用するときは帽子は濃紺色、「G」マークは赤に白を縁取った[[七宝焼き]]で出来ていた。どちらも袖に黒のダブルライン、パンツはシングルのサイドラインになっている。
 
* [[1938年]] - [[1940年]] 白いユニフォームをマイナーチェンジし、パンツのサイドラインをダブルに変更。このユニフォームが戦後V9を達成したときのユニフォームの原型となる。
 
* [[1941年]] [[太平洋戦争]]勃発の年、軍事色が濃くなりユニフォームの胸のレターも「GIANTS」から漢字の「巨」に変更された。白地とグレー地の二種類があり、帽子のマークも「巨」、国防色の戦闘帽タイプも作られた。
 
* [[1945年]] - [[1947年]] 白地に胸にエンジ色ないしは黒で「GIANTS」と入った二種類のユニフォームが作られ、左袖には[[読売新聞社]]の当時の[[社章]](丸に「賣言賣」と入る)が付いた。
 
* [[1947年]] - [[1949年]] 戦前のユニフォームに近いスタイルに戻る。1936年 - 1937年に使用されたユニフォームに近いが、パンツのサイドラインがダブルになっている。白地とグレー地があるがグレー地のパンツには腰に番号(背番号と同じ)が入る。
 
* [[1950年]] 日本で初めて野球ユニホームに[[ラグラン袖|ラグランスリーブ]]を採用する<ref group="注">このラグランスリーブのユニホームを製作したのは、スポーツ用品店でなく、「[[銀座テーラー]]」という老舗の紳士服専門店であった。</ref>。
 
* [[1951年]] - [[1952年]] 白地に胸ロゴ・背番号とも赤色の、子供受けを狙ったデザインが使用される。1951年途中から戦後から続いていた前立てラインが消えシンプルになった。ビジター用の左袖に初めて「TOKYO」の文字が入る。
 
* [[1953年]] - [[1960年]] 巨人軍のチームカラーになるオレンジ・黒を採用する。1953年、初めての海外キャンプを行うために渡米した際、ユニフォームを[[ウイルソン・スポーティング・グッズ|ウィルソン社]]に発注。出来上がったものは[[メジャーリーグベースボール|MLB]]の[[サンフランシスコ・ジャイアンツ|ニューヨーク・ジャイアンツ]](NYG)とデザイン、使用色等ほぼ同じものであった<ref>{{Cite web |date = 2016-11-24 |url = http://www.hochi.co.jp/giants/20161123-OHT1T50301.html |title = 【【巨人】1953年が“原点回帰”の理由 チームカラーが「黒とオレンジ」になった年だから |publisher = スポーツ報知 |accessdate = 2017-2-20 }}</ref><ref>{{Cite web |date = 2014-3-12 |url = http://www.47news.jp/topics/sportscolumn/2014/03/post_342.php |title = 巨人軍、西部開拓、ワイン 日系人の街サンタマリア |publisher = 47NEWS |accessdate = 2017-2-20 }}</ref>。胸のロゴも従来の花文字からNYGと同じ書体に変わったが、このユニフォームはウィルソン社製のもの(戦前、第二次米国遠征に使用したものと同じく、二段組みで「TOKYO GIANTS」と表記した胸ロゴが入ったものも作られた)だけで、日本社製のものは従来の花文字が使用された。この年からビジター用の胸に「TOKYO」のロゴが入り、左袖に「GIANTS」と入ったユニフォームがお目見えした。ホームは白地、ビジターはグレー地だった(先述のウ社製のホーム用には、胸に「TOKYO」が入ったものも使用された)。この年の帽子のマークは東京の「T」とジャイアンツの「G」を組み合わせた「TGマーク」だったが、翌年に現在まで使用され続けているYGマーク(YとGを重ねたマーク)が登場する。
 
* [[1959年]]、9月に、ライン・背番号・胸マークの縁を赤色にしたホーム用を採用。シーズン終了まで使用。翌年開始予定のカラーテレビ放送の試験放送に合わせての採用。
 
* [[1960年]]、[[6月11日]]の対広島カープ戦からシーズン終了まで、カラーテレビ用として、帽子のつばに朱色、胸のロゴ・背番号に赤色・白縁・黒縁を取り入れたユニフォームが使用された。またこのユニフォームより胸ロゴの下に胸番号が付いた。
 
** ホーム用は、白地のままだと、当時のカラーテレビでは[[ハレーション]]を起こすため、[[ベージュ]]地のユニフォームが採用された。
 
 
=== 川上 - 第2次藤田監督時代 ===
 
* [[1961年]] - [[1974年]] 最も長期間にわたって使用されたデザイン([[2016年]]現在)。黒とオレンジの組み合わせに戻り、ホーム用がクリーム地、ビジター用がブルーグレーになり、首、パンツに黒とオレンジのダブルのラインが入る。また首、ベルトループに黒とオレンジのラインが入り、川上哲治監督率いる[[V9 (読売ジャイアンツ)|V9時代(1965〜1973年)]]<ref group="注">銀座テーラー製→[[スポーツ玉澤|玉澤]](TAMAZAWA)製→デサント製と時期により異なる。</ref>に象徴される常勝巨人のシンボルとなる。長嶋茂雄引退、川上哲治監督勇退の[[1974年]]まで使用された。[[1972年]]頃、伸縮性に優れた[[ニット]]生地に切り替わっている。
 
* [[1975年]] - [[1980年]] 長嶋茂雄(第一次)監督就任に伴い、「GIANTS」「TOKYO」(胸ロゴ・左袖ロゴ)の書体が[[サンフランシスコ・ジャイアンツ]]と同タイプのものになり、胸番号・背番号の書体も変わる。さらに首のライン、両袖およびパンツのラインがシングルになり太くなる。
 
** [[1976年]]より、ホーム用の左袖の「TOKYO」ロゴが「YOMIURI」に変わり、背番号の上に英文表記([[ローマ字]])の選手名が入る。
 
* [[1981年]] - [[1992年]] 藤田元司監督就任に伴い、V9時代のタイプに戻るが、引き続き選手名が入り、ホーム用の左袖が「YOMIURI」となっている。マイナーチェンジを繰り返し、基本デザインは[[1992年]]まで使用された。
 
** [[1984年]]のみ、球団創立50周年エンブレムが右袖に入る。
 
** [[1986年]]より、ボタン式からプルオーバー式のVネックになる。
 
** [[1990年]]より、ホーム用がクリーム地からオフホワイト地に変わる。
 
 
=== 第2次長嶋 - 堀内監督時代 ===
 
* [[1993年]] - [[2005年]] 長嶋茂雄監督復帰により、モデルチェンジ。プルオーバー式からボタン式に戻り、首元から胸にかけてのラケットラインが入り、ベルトループのラインが消える。また、ビジター用がグレー地に変更され、帽子も黒からミッドナイトブルー(濃紺)に変更される。
 
** [[1994年]]は球団創立60周年エンブレム、[[1995年]]・[[1997年]]は前年のリーグ優勝を記念したエンブレム、[[1996年]]はチームスローガン(チャレンジ)エンブレムをそれぞれ右袖に入れた。これらは全て、マスコットのジャビットをあしらったものである。
 
** [[1997年]] - [[2001年]]頃、[[読売ジャイアンツ (ファーム)|二軍]]のみ、[[コナミ]]が[[スポンサー]]についたため、左袖の「YOMIURI」ロゴの上に、コナミのロゴが入ったワッペンがついた。
 
** [[2001年]]、ホームゲーム3連戦の2日目に背部の選手名を外す「バックナンバーデーユニフォーム」を採用。
 
** [[2002年]] - [[2004年]] オープン戦や公式戦の試合前の練習用に限定したセカンドユニフォームをホーム、ビジター共に[[2004年]]まで使用。2003年から背部に選手名が入る{{Refnest|協約上は正式に公式戦でも使用可能なユニフォームとして登録されていた<ref>{{Cite book |和書 |author = [[綱島理友]] |title = プロ野球ユニフォーム物語 |year = 2005 |publisher = [[ベースボール・マガジン社]] |pages = {{要ページ番号|date=2015年10月}} |isbn = 4583038070 }}</ref>}}。さらに2002年7月1日より、読売グループの組織変更に伴い、球団を運営する会社が株式会社[[よみうり]]から'''株式会社読売巨人軍'''に移行([[#球団運営会社|詳細は後述参照。]])したため、ビジター用の胸ロゴが「TOKYO」から「YOMIURI」に変わり、胸番号・背番号の書体がImpact体に変わる。
 
** [[2004年]]、ビジター用の胸番号・背番号の書体が従来の物に戻る。
 
** [[2005年]]、ビジター用の胸ロゴが「YOMIURI」から、帽子と同一のYGマークが左胸につき、胸番号は右腹部に移る。
 
 
=== 第2次原監督時代 - 高橋監督時代 ===
 
* [[2006年]] - [[原辰徳]]監督復帰に伴い、[[1972年]]のニット生地化以来34年続いた[[デサント]]社製から[[アディダス]]社製になる。同時にデザイン変更。ホーム、ビジター共パンツに[[アディダス]]の3本線、右胸にアディダスのブランドロゴが入り、細めのストライプシャドー(3本線の縦縞)が入る。胸ロゴが早稲田書体から角ばった書体へ変更になり、同時に選手名も同様の書体に変わり、背番号の大きさがやや小ぶりになる。また帽子のツバのふちがオレンジ色になる。
 
** ホーム用は、書体以外の基本的なデザインは変わらない。
 
** ビジター用は、上着が黒、パンツがライトグレー(白色に近い)になり、ビジター用の胸ロゴもホーム用と同書体の「GIANTS」となり、胸ロゴ・胸番号・背番号がグレーに白の縁取りとなり、左袖は「GIANTS」からホーム用と同じ「YOMIURI」に変更。
 
** [[2007年]]より、主将の右袖にキャプテンマーク(オレンジの丸に黒文字の「C」、横にオレンジ縁に黒のライン)が入る。
 
*** [[2006年]] - [[2007年]]、日曜日・祝日のホームゲーム限定で、デザインは白色ベースに「Giants」の筆記体文字(2002年 - 2004年に採用されたビジター用セカンドユニフォームで使われたものと同じロゴ)が取り入れられて、胸番号・背番号がゴシック風斜体のユニフォームを併用して使用。
 
** [[2008年]]、当初交流戦のビジターゲーム限定で、ホーム用に似た、上下とも白に近いライトグレーのものを使用。両腋部に黒のカッティングが施されている。交流戦終了以降のビジターゲームでも使用され、2009年より正式に採用されることになった。
 
** [[2010年]]のビジター用は上下ともにダークグレーとなり、脇のカッティング部も同色となった。この地色は前年に着用された「75周年記念ユニホーム」(後述の限定版ユニホーム参照)に使用されたものをベースとしている。
 
** [[2011年]]からはビジター用の地色が「ライトオニキス」と呼ばれる明るいグレー色を採用。
 
*** 2011年のみ、原辰徳監督自身の発案により[[東日本大震災]]犠牲者追悼と被災地復興への祈りを込めてホーム・ビジター両方のユニホーム左袖に黒のリボン(喪章)を縫い付けることとなった<ref>[http://hochi.yomiuri.co.jp/giants/news/20110405-OHT1T00159.htm 原監督提案、巨人が全試合喪章縫いつけ戦う!]{{リンク切れ|date=2015年10月}} スポーツ報知 2011年4月5日閲覧</ref>。
 
*** [[2013年]]、前年度のセ・リーグ優勝を記念して、ユニホームの右袖に[[チャンピオン・エンブレム]]が貼り付けられた<ref>{{Cite web |date = 2013-01-17 |url = http://www.giants.jp/G/gnews/news_396713.html |title = 2013年プロコレクション受付開始! |publisher = 読売巨人軍 |accessdate = 2013-01-17 }}</ref>。
 
** [[2014年]]より、球団創設80周年の節目として、ホーム用の胸ロゴの「GIANTS」が創設から70年間使用してきた字体(早稲田書体)に戻り、背ネームも2005年以来のゴシック体を採用(以前の字体より若干小さくなった)。左袖には日本一回数22回を表す大小2つずつの星マークが刺繍されている。ビジター用は、地色をグレーから1961年から1992年までの32年間使われた薄いブルー地に変更となる。ただし、胸ロゴの「GIANTS」は2006年より使用しているものをそのまま使用。
 
*** 2014年、前年度のセ・リーグ優勝を記念して、ユニホームの右袖にチャンピオン・エンブレムが貼り付けられた<ref>{{Cite web |date = 2013-12-19 |url = http://www.giants.jp/G/gnews/news_397925.html |title = 創設80周年記念 新ユニホーム発表 |publisher = 読売巨人軍 |accessdate = 2015-10-05 }}</ref>。
 
** [[2015年]]より、アメリカの「[[アンダーアーマー]](Under Armour)」製作のユニフォームに変更(ホーム用右胸に Under Armour のブランドロゴ入り)。1953年、戦後初めて胸に「TOKYO」の文字をあしらった当時のユニフォームをモチーフに、1993年から続いた胸のラケットラインと1960年から採用した胸番号を無くし、パンツのサイドラインがシングルになり、よりシンプルなユニフォームとなった。特にビジター用は、昨年同様薄いブルー地そのままに、2002年以来13年振りに胸に「TOKYO」(早稲田型ロゴ)の文字が復活(ホーム用の書体は早稲田型ロゴのまま)、さらに背番号の書体が若干変更となり、ホーム用の背ネームは角張った書体に戻した<ref>{{Cite web |date = 2014-12-22 |url = http://www.giants.jp/G/gnews/news_399183.html |title = ドーム社とパートナーシップ契約 UAの新ユニホーム発表 |publisher = 読売巨人軍 |accessdate = 2015-10-05 }}</ref>。また主将のユニフォームには前年までのキャプテンマークのデザインを一新し、それまでの右袖から左袖の「YOMIURI」の上に刺繍された<ref>{{Cite web |date = 2015-02-01 |url = http://www.giants.jp/G/gnews/news_399249.html |title = 坂本主将の新キャプテンマーク決定 「力強さ」と「躍動」 |publisher = 読売巨人軍 |accessdate = 2015-10-05 }}</ref>。
 
*** 2015年、前年度のセ・リーグ優勝を記念して、ユニホームの右袖にチャンピオン・エンブレムが貼り付けられた。
 
*** 2017年、マイナーチェンジ。"1953〜原点回帰〜"をコンセプトに、1953年当時のユニホームにより近付けたものに変更。ビジター用が4年ぶりにライトグレー地に戻り、帽子つばのオレンジラインを廃止した<ref>[http://www.hochi.co.jp/giants/20161123-OHT1T50135.html 【巨人】来季の新ユニホームは超ハイテク仕様 ビジターは4年ぶりグレー基調に] スポーツ報知 2016年11月23日</ref>。
 
 
=== 限定版ユニフォーム ===
 
==== 復刻ユニフォーム ====
 
* [[2007年]]、5000勝達成記念企画として[[東京ドーム]]で[[6月8日]] - [[6月11日]]に行われた[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]・[[北海道日本ハムファイターズ]]との[[セ・パ交流戦|交流戦]]で9年連続日本一を決めた時代のユニフォームをモチーフにした復刻ユニフォームを着用した。
 
** 当時のユニフォームとの違いは、右袖に5000勝記念ワッペンが入っていること。また、ヘルメットは通常のものをそのまま使用。
 
* [[2009年]]、球団創立75周年記念行事の一環として、大日本東京野球倶楽部時代の第二次[[アメリカ合衆国]]遠征で採用されたユニホームを復刻し、7月7日 - 7月9日の対[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]3連戦において着用して試合に臨んだ<ref>[http://www.giants.jp/G/gnews/news_391711.html 復刻ユニホームが完成!]{{リンク切れ|date=2015年10月}} 読売巨人軍ニュース 2009年6月25日閲覧</ref>。
 
** 当時のユニフォームとの違いは、シャドウストライプが入っていることと、右袖にアディダスのロゴマーク(黒色)が入っていること。また、ヘルメットは2009年現在のものをそのまま使用する。
 
* [[2010年]]8月にセ・リーグ主催で行なわれる「[[「GREAT CENTRAL」〜オールドユニホームシリーズ2010〜|オールド・ユニフォーム・シリーズ]]」では、2リーグ分裂後の1950年当時のものが復刻された。
 
* [[2012年]]8月 - 9月にセ・リーグ主催で行なわれる「[[「GREAT CENTRAL」〜レジェンドユニフォームシリーズ2012〜|レジェンド・ユニフォーム・シリーズ]]」において当時の監督、原辰徳が入団した1981年当時のホーム用ユニフォームを復刻。
 
 
==== その他 ====
 
* [[2010年]]、[[7月19日]]からの対[[東京ヤクルトスワローズ]]3連戦限定で、中学生以下のファンによるユニホームデザインコンテストでグランプリを獲得したものを基にしたユニホームを採用する。
 
** 採用されたデザインは「ジャイアンツ スターズ」で、星と稲妻がちりばめられている。左胸に番号に入り、その下に「GIANTS」ロゴが入る。
 
* [[2012年]]、読売巨人軍と読売新聞社は、巨人のオフィシャルパートナーである[[アディダスジャパン]]株式会社とともに、新たなプロジェクト「橙魂(とうこん)2012」を実施。公式戦(交流戦含む)の主催7試合でオレンジのユニホームを着用して試合を行う。なお、原監督や選手が実際に着用したユニホームは、慈善オークションに出品して震災復興のための義援金とする。
 
**デザインとしては、普段使用するホーム用ユニフォームの上半身の部分のベースが白からオレンジ色。脇からわき腹の部分が白。「GIANTS」ロゴおよびロケットラインは、白縁に黒。なお、ズボンは普段のものを使用。
 
* [[2013年]]、「橙魂(とうこん)2013」として、限定ユニホームが主催する9試合で限定使用される。デザインはオレンジ色をベースに両方の肩口から袖の部分が白。なお、原監督や選手が実際に着用したユニホームは、2012年同様慈善オークションに出品され、震災復興支援の義援金となる<ref>{{Cite web |url = http://www.giants.jp/G/gnews/news_396782.html |title = 日本一連覇へ。ふたたび、魂をオレンジに燃やせ! 「橙魂2013」 |publisher = 読売巨人軍 |accessdate = 2015-10-05 }}</ref>。
 
* [[2014年]]、「橙魂2014」として、限定ユニホームが主催する8試合で限定使用される。デザインはオレンジ色、ラケットラインが黒・白・黒。なお、原監督や選手が実際に着用したユニホームは、慈善オークションに出品され、震災復興支援の義援金となる<ref>{{Cite web |date = 2014-01-30 |url = http://www.giants.jp/G/gnews/news_398000.html |title = 東京ドームをオレンジ色で埋め尽くせ!「橙魂2014」 |publisher = 読売巨人軍 |accessdate = 2015-10-05 }}</ref>。
 
* [[2015年]]、「橙魂2015」として、限定ユニホームが主催する7試合で限定使用される。デザインはオレンジ色をメインに両脇腹に白、衿と袖口に黒・白・黒のライン、「GIANTS」ロゴは白縁に黒<ref>{{Cite web |date = 2015-01-21 |url = http://www.giants.jp/G/gnews/news_399234.html |title = 「橙魂2015」 実施概要が決定 |publisher = 読売巨人軍 |accessdate = 2015-10-05 }}</ref>。
 
* [[2016年]]、「橙魂2016」として、限定ユニホームが主催する7試合で限定使用される。デザインは全面オレンジ色で、衿と袖口に黒・白・黒のライン、「GIANTS」ロゴは白縁に黒<ref>[http://www.giants.jp/G/event/31270.html 橙魂2016]</ref>。
 
* [[2018年]]、「橙魂2018」として、限定ユニホームが主催する7試合で限定使用される。デザインは、袖が黒でほかは前面オレンジ色<ref>[http://www.giants.jp/G/event/31270.html 橙魂2018]</ref>。
 
 
== 球団旗の変遷 ==
 
{{出典の明記|date=2013年1月|section=1}}
 
* 1935年 - 1940年:えんじ色地に白文字で「G」
 
* 1940年 - 1944年:戦時中に軍部より英語禁止令が出たため、「G」の部分を漢字の「巨」に変更。えんじ色地に白文字で「巨」
 
* 1946年 - 1949年:白地にえんじ色の文字で「G」
 
* 1950年 - 1959年:2リーグ分裂を機に球団旗を変更。えんじ色地に白文字で中央に「G」、「讀賣」の文字が加わる。「讀 G 賣」
 
* 1960年 - 現在:えんじ色地に白文字。左上に「読売」、右下に大きく「G」
 
 
== ユニフォーム等のスポンサー ==
 
{{出典の明記|date=2013年1月|section=1}}
 
* セ・リーグでは2006年からホーム用ユニホームにスポンサーロゴの掲示を認めているが、ジャイアンツでは同年より2014年まではユニホームサプライヤーである[[アディダス]]がスポンサーとなり、ロゴを右胸(限定ユニホームなどでは右袖に掲示する場合あり)に掲示していた。2015年からは同社に代わり[[アンダーアーマー]]がユニホームサプライヤーとなる為、代わりにそのロゴが入る。
 
* 2016年7月まで12球団で唯一、ヘルメットにスポンサー掲示をしていない球団であった(代わりにチームスローガン「GIANTS PRIDE」が入る)。同年7月26日から、[[日本電産]]がヘルメットスポンサーとなる。[http://www.giants.jp/G/gnews/news_3910848.html] チームスローガン「GIANTS PRIDE」の掲示も引き続き行われている。
 
* 公式戦主催試合は全試合を球団のオフィシャルスポンサーとなる企業・団体の冠を付けている。2016年は[[JCB]]・[[アットホーム]]・[[日本大学]]がオフィシャルスポンサー。
 
* 後楽園時代の1986年までは[[明治製菓]]がスポンサーを担当。後楽園球場には「Meijiチョコレート」などの広告看板を掲げており、公式戦主催試合のチケットや後楽園球場のバックネット裏の看板にも「'''明治スイートシリーズ'''」と銘打たれた。
 
* その後後楽園最終シーズンの1987年から2012年までは「'''[[伊藤ハム]]シリーズ'''」と題して開催し、「小さな時からジャイアンツ・小さな時から伊藤ハム」を合言葉に、東京ドームの1・3塁側1階席と2階席の仕切りにある広告看板に伊藤ハムの商品の広告看板を掲げていた。かつては中畑清らをCMモデルに起用した。最終年の[[2012年]]には「[[2012年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ・セ・ファイナル]]」の冠スポンサーに就いた。
 
*2013年から全試合を「'''[[アットホーム]]シリーズ'''」と題して開催。2012年と同様に、[[2013年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|2013年]]・[[2014年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|2014年]]の「クライマックスシリーズ・セ・ファイナル」、[[2015年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|2015年]]・[[2016年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|2016年]]の「クライマックスシリーズ・セ・ファースト」の冠スポンサーにもなっている他、レギュラーシーズン・クライマックスシリーズを通して、巨人主管全試合(リーグ戦72試合およびクライマックスシリーズ主管試合分〈最大6〉)を対象とした、ファン参加型月間MVP[http://アットホームヒーロー.jp/ 「アットホームヒーロー賞」]{{リンク切れ|date=2018-05-23}}も2017年シーズンまで提供していた。
 
*また、2016年シーズンから学校法人・私立大学である[[日本大学]]が2016年3月24日に読売ジャイアンツのオフィシャルスポンサーの契約を交わした。これにより、日本大学は名実ともに『スポーツ日大』というブランドをさらに強めた。年間で数試合「日本大学デー」と称し、巨人の日大出身選手をモチーフにした記念品が配布されたり、日大在学生による[[始球式]]が行わたりなどされる。しかし、[[日本大学フェニックス反則タックル問題]]の影響により、2018年シーズン中の5月22日の試合後、ヒーローインタビュー用の背景ボードから「日本大学」のロゴが消えており<ref>{{Cite news|url=https://www.sankei.com/photo/story/news/180522/sty1805220023-n1.html|title=「日本大学」が〝消えた〟 プロ野球・巨人のインタビューボード|date=2018-05-22|newspaper=産経フォト|accessdate=2018-05-23}}</ref>、巨人公式サイトのスポンサー一覧からも日本大学の名前が外されている。そして2018年5月28日に日本大学は読売ジャイアンツとのスポンサー契約を解除したと発表した。
 
*2017年、輸入車の「[[ジャガー (自動車)|ジャガー]]・[[ランドローバー]]」(ジャガーランドローバージャパン)とオフィシャルカー契約を交わした。監督・コーチ・選手・職員向けにジャガー車およびランドローバー車が70台貸与される。
 
 
== 歴代本拠地 ==
 
{{multiple image
 
|footer = 後楽園競輪場(左写真中央)の跡地に東京ドームは建設された。
 
|align = right
 
|width = 150
 
|image1 = Kourakuen suidobashi 1974.jpg
 
|caption1 = 後楽園球場(写真右下)
 
|image2 = Tokyo-dome air.jpg
 
|caption2 = 東京ドーム(写真中央)
 
}}
 
* 1937年 - 1987年 - [[後楽園球場]]
 
: [[1937年]]の後楽園球場の開場より実質的な本拠地として使われているが、[[プロ野球地域保護権|フランチャイズ制]]導入による本拠地としての指定は2リーグ分裂後の1952年である。
 
* 1988年 - 現在 - [[東京ドーム]]([[都市対抗野球]]が行われる際には別の球場で主催試合を行う)
 
; [[読売ジャイアンツ (ファーム)|二軍]]の本拠地
 
* [[多摩川緑地広場硬式野球場|巨人軍多摩川グラウンド]](1955年 - 1985年)
 
: 多摩川緑地広場内([[東京都]][[大田区]][[田園調布]])
 
* [[読売ジャイアンツ球場]](1986年 - 現在)
 
: [[よみうりランド]]内([[神奈川県]][[川崎市]][[多摩区]])
 
 
== 歴代監督 ==
 
* 1934年 - 1935年 : [[三宅大輔]]<ref group="※">1954年にコーチ、1955年に技術顧問。</ref>
 
* 1936年 : [[浅沼誉夫]]
 
* 1936年 - 1942年 : '''[[藤本定義]]'''
 
* 1943年 : '''[[中島治康]]'''<ref group="※">応召で退任。</ref>
 
* 1944年 - 1946年 : [[藤本英雄]]<ref group="※">選手兼任。中島就任後は選手専任に復帰、1956年・1957年にコーチ・二軍監督。</ref>
 
* 1946年 - 1947年 : 中島治康(第2次)<ref group="※">選手兼任。</ref><ref group="※">ここから読売ジャイアンツ</ref>
 
* 1947年 - 1949年 : '''[[三原脩]]'''<ref group="※">1949年4月15日から7月23日は中島治康が代行。</ref>
 
* 1950年 - 1960年 : '''[[水原茂]]'''<ref group="※">1950年は選手兼任。1960年10月は川上哲治が代行。</ref>
 
* 1961年 - 1974年 : '''[[川上哲治]]'''
 
* 1975年 - 1980年 : '''[[長嶋茂雄]]'''
 
* 1981年 - 1983年 : '''[[藤田元司]]'''<ref group="※">1981年7月1日は王貞治が代行。</ref>
 
* 1984年 - 1988年 : '''[[王貞治]]'''
 
* 1989年 - 1992年 : '''藤田元司'''(第2次)
 
* 1993年 - 2001年 : '''長嶋茂雄'''(第2次)
 
* 2002年 - 2003年 : '''[[原辰徳]]'''
 
* 2004年 - 2005年 : [[堀内恒夫]]
 
* 2006年 - 2015年 : '''原辰徳'''(第2次)<ref group="※">2014年5月5日、2015年4月15日 - 19日は[[川相昌弘]]が代行。</ref>
 
* 2016年 -:[[高橋由伸]]
 
※'''太字'''は優勝達成監督
 
 
{{Reflist|group="※"}}
 
 
== 終身名誉監督 ==
 
* '''[[長嶋茂雄]]'''
 
*: 現在、プロ野球界で[[名誉監督]](長嶋茂雄は終身名誉監督)の名誉称号を贈られたのは全球団で長嶋茂雄と[[野村克也]](元[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]名誉監督)のみである<ref group="注">野村克也は2012年に名誉監督を退任した。</ref>。
 
 
== 永久欠番 ==
 
* '''1''':[[王貞治]](1989年 - )
 
*: 本塁打世界新記録(868本)の功績を称えて決定。巨人では選手、助監督そして監督と通算30年使用していた。
 
* '''3''':[[長嶋茂雄]](1974年 - )
 
*: 第二次監督時代の[[2000年]]から2年間復活した。
 
* '''4''':[[黒沢俊夫]](1947年 - )
 
*: 現役中に[[腸チフス]]で死去。後述の沢村と共に日本プロ野球初の永久欠番となった。
 
* '''14''':[[沢村栄治]](1947年 - )
 
*: 太平洋戦争で戦死。戦後[[今泉勝義]]と[[坂本茂 (野球)|坂本茂]]がつけていたが、上記黒沢と同時に永久欠番となった。なお2014年3月10日、沢村の故郷である[[三重県]][[伊勢市]]の[[伊勢市倉田山公園野球場]]で65年ぶりに行われた[[阪神タイガース|阪神]]とのオープン戦において、[[原辰徳]]監督はじめ全選手が永久欠番「14」をつけ、阪神は[[OB・OG|OB]]で沢村と同郷の[[西村幸生]]投手の背番号「19」を全選手がつけて試合が行われた。
 
* '''16''':[[川上哲治]](1965年 - )
 
*: 引退後も着用していたが、1965年1月の野球殿堂入り決定後に永久欠番になった。当時監督だった川上はこの年から背番号を「77」に変更。
 
* '''34''':[[金田正一]](1970年 - )
 
*: 球界初の通算400勝の功績を称え制定。
 
なお、2006年シーズン開幕よりこれら永久欠番の選手のユニフォームをかたどった(背番号のみで選手名ローマ字表記は無し)像を東京ドームの外野スタンド後方部の支柱部に設置。除幕式が同年開幕戦に行われ、本人や遺族等が招かれた<ref group="注">当時[[福岡ソフトバンクホークス]]監督だった王は現場を離れられないということで次女の[[王理恵]]が代理出席。なお、黒沢の遺族は消息がつかめなかったという。</ref>。
 
 
== 完全試合、ノーヒットノーラン達成投手 ==
 
巨人ではこれまでに球団史上2人の投手が[[完全試合]]を、球団史上10人の投手が延べ13回[[ノーヒットノーラン]]を達成している。また、継投によるノーヒットノーランを1回達成している。
 
; 完全試合達成投手
 
{| class="wikitable" style="text-align:cente"
 
|-
 
! 年月日 !! 投手名 !! スコア !! 対戦相手 !! 野球場
 
|-
 
! 1950/06/28
 
| [[藤本英雄]] || 4-0 || [[西日本パイレーツ]] || 青森市営
 
|-
 
! 1994/05/18
 
| [[槙原寛己]] || 6-0 || [[広島東洋カープ]] || 福岡ドーム
 
|}
 
; ノーヒットノーラン達成投手
 
{| class="wikitable" style="text-align:cente"
 
|-
 
! 年月日 !! 投手名 !! スコア !! 対戦相手 !! 野球場
 
|-
 
! 1936/09/25
 
| [[沢村栄治]] || 1-0 || [[阪神タイガース|大阪タイガース]] || 甲子園
 
|-
 
! 1937/05/01
 
| 沢村栄治 || 4-0 || 大阪タイガース || 洲崎
 
|-
 
! 1937/07/03
 
| [[ヴィクトル・スタルヒン]] || 4-0 || [[大和軍|イーグルス]] || 洲崎
 
|-
 
! 1939/11/03
 
| [[中尾碩志|中尾輝三]] || 1-0 || [[翼軍|東京セネタース]] || 後楽園
 
|-
 
! 1940/07/06
 
| 沢村栄治 || 4-0 || [[名古屋金鯱軍]] || 西宮
 
|-
 
! 1941/07/16
 
| 中尾輝三 || 3-0 || [[中日ドラゴンズ|名古屋軍]] || 後楽園
 
|-
 
! 1943/05/22
 
| [[藤本英雄]] || 3-0 || 名古屋軍 || 後楽園
 
|-
 
! 1952/07/26
 
| [[大友工]] || 17-0 || [[松竹ロビンス]] || 大阪
 
|-
 
! 1967/10/10
 
| [[堀内恒夫]] || 11-0 || [[広島東洋カープ|広島カープ]] || 後楽園
 
|-
 
! 1968/05/16
 
| [[城之内邦雄]] || 16-0 || [[横浜DeNAベイスターズ|大洋ホエールズ]] || 後楽園
 
|-
 
! 1970/05/18
 
| [[渡辺秀武]] || 2-0 || 広島東洋カープ || 後楽園
 
|-
 
! 1976/04/18
 
| [[加藤初]] || 5-0 || 広島東洋カープ || 広島
 
|-
 
! 2012/05/30
 
| [[杉内俊哉]] || 2-0 || [[東北楽天ゴールデンイーグルス]]([[セ・パ交流戦]]) || 東京ドーム
 
|}
 
; 参考記録
 
{| class="wikitable" style="text-align:cente"
 
|-
 
! 年月日 !! 投手名 !! スコア !! 対戦相手 !! 野球場 !!
 
|-
 
! 1971/09/06
 
| [[菅原勝矢]] || 4-0 || [[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトアトムズ]] || 神宮 || 7回表1死降雨コールドゲームのため。
 
|-
 
! 2017/06/14
 
| [[山口俊]]<br />[[スコット・マシソン|マシソン]]<br />[[アルキメデス・カミネーロ|カミネロ]] || 3-0 || [[福岡ソフトバンクホークス]](セ・パ交流戦) || 東京ドーム || 継投によるノーヒットノーラン。
 
|}
 
 
=== 史上初のノーヒッター ===
 
[[ノーヒットノーラン]]の日本プロ野球第1号達成者は東京巨人軍から誕生した。巨人の当時の豪腕投手だった[[沢村栄治]]が[[1936年]][[9月25日]]に[[阪神甲子園球場|甲子園]]で開いた秋季大阪1次リーグ戦・[[阪神タイガース|大阪タイガース]]との対戦で達成したもので、沢村は翌[[1937年]][[5月1日]]に[[洲崎球場|洲崎]]で開かれた春季戦・大阪タイガース戦、更に[[1940年]][[7月6日]]に[[阪急西宮スタジアム|西宮]]で開かれた[[中日ドラゴンズ|名古屋軍]]戦の都合3回ノーヒットノーランを達成。これは戦後達成した[[外木場義郎]]([[広島東洋カープ|広島カープ→広島東洋カープ]])と並ぶ日本プロ野球最多タイ記録である。
 
 
=== 完全試合 ===
 
日本プロ野球において[[完全試合]]を達成した投手はわずかに15人だけであり、1936年の日本プロ野球発足時から存続している4球団の一つである巨人で完全試合を達成したのは2人だけである。
 
 
日本プロ野球初の完全試合を決めたのは、藤本英雄。[[1950年]][[6月28日]]、[[青森市営野球場]]で開催された[[西日本パイレーツ]]との一戦で自身2回目(戦前かつ1リーグ時代の[[1943年]]にも[[中日ドラゴンズ|名古屋軍]]戦で達成)のノーヒットノーランを完全試合で飾った。日本プロ野球初の偉業でありながら、北海道遠征の帰路だったため試合を取材した記者が4人、カメラマンは1人もいなかった事もあって報道の扱いは小さく、また新聞も製紙事情からページを割くことができず、写真も掲載されなかった。
 
 
そして2016年シーズン終了時点で最後に完全試合を達成したのが槙原寛己である。[[1994年]][[5月18日]][[福岡ドーム]]での[[広島東洋カープ]]戦において史上15人目、[[1978年]]の[[今井雄太郎]]([[オリックス・バファローズ|阪急ブレーブス]])以来の完全試合を達成した([[槙原寛己の完全試合]])。この試合は球団創立から7000試合目の公式戦であった。
 
 
余談だが、藤本と槙原の両投手は背番号#17を着用して完全試合を達成した。
 
 
逆に、巨人が対戦相手に完全試合を許したケースは1回もない。
 
 
== 主な歴代の球団歌、応援歌 ==
 
読売ジャイアンツには球団歌と応援歌の2つの定義があり、球団歌は現在までに3曲が制定されている。それに対して応援歌は球団が作成する応援歌もあるが広義に捉えれば私設応援団による選手別応援歌も応援歌といえるので数は非常に多い。その為ここでは球団歌のみを紹介する。
 
 
曲名は球団公式サイトに掲載された年表においては全て「[[巨人軍の歌]]」とされているが、区別のため括弧内に通称を記載する。初代巨人軍の歌の作詞・作曲コンビは、阪神タイガースの応援歌「[[阪神タイガースの歌|大阪タイガースの歌(六甲おろし)]]」も作っている。
 
* 初代「巨人軍の歌(野球の王者)」[[1939年]]発表(作詞:[[佐藤惣之助]]、作曲:[[古関裕而]])
 
* 2代目「巨人軍の歌(ジャイアンツ・ソング)」[[1949年]]発表(作詞:岡野青志、補作詞:[[藤浦洸]]、作曲:[[米山正夫]])
 
* 3代目「巨人軍の歌(闘魂こめて)」[[1962年]]発表(作詞:[[椿三平]]、補作詞:[[西條八十]]、作曲:古関裕而)
 
 
本拠地東京ドームの最寄り駅である[[水道橋駅|JR水道橋駅]]では[[2006年]][[7月4日]]から[[発車メロディ]]に「闘魂こめて」を流すようになった。
 
 
== 主なキャンプ地 ==
 
=== 現在 ===
 
* [[宮崎県総合運動公園硬式野球場]](KIRISHIMAサンマリンスタジアム宮崎) - メイングラウンド
 
* [[宮崎県総合運動公園第二硬式野球場]](KIRISHIMAひむかスタジアム) - サブグラウンド
 
* [[那覇市営奥武山野球場]](沖縄セルラースタジアム那覇)<ref>[http://www.sanspo.com/baseball/news/081211/bsa0812111822003-n1.htm 巨人が2011年から那覇を第二キャンプ地に]{{リンク切れ|date=2015年10月}} サンケイスポーツ 2008年12月11日閲覧</ref> - 2011年 -
 
* [[読売ジャイアンツ球場]]
 
 
=== 過去 ===
 
* [[松山高等学校 (旧制)]][[グラウンド]] - 1946年
 
* [[別府市民球場|別府市営球場]] - 1946年 - 1947年
 
* [[明石公園野球場]] - 戦前 - 1959年まで
 
* [[宮崎県営野球場]] - 1960年 - 1974年
 
* [[宮崎市清武総合運動公園|清武町総合運動公園野球場]] - 二軍のみ
 
* [[アメリカ合衆国]]・[[カリフォルニア州]][[サンタマリア (カリフォルニア州)|サンタマリア]] - 1953年
 
* [[アメリカ合衆国]]・[[フロリダ州]][[:en:Vero Beach, Florida|ベロビーチ]] - 1961年、1967年、1971年、1975年、1981年
 
* [[中華民国]](台湾)[[台中野球場]] - 1968年
 
* [[アメリカ合衆国]]・[[グアム島]]パセオ球場 - 1980年 - 1990年代
 
* [[アメリカ合衆国]]・[[グアム島]][[レオパレスリゾート・グアム|マネンガンヒルズ野球場]] - 2004年
 
 
== 出来事 ==
 
=== 日本シリーズ終了後に公式戦 ===
 
[[1955年]]、この年の公式戦は大洋との3試合が天候不順の中止による順延が続いたため、日本シリーズの対南海戦の開幕までに全て消化し切れなかった。そのため、日本シリーズ、更にその後にも[[日米野球]]・[[ニューヨーク・ヤンキース]]を招待した親善試合が組まれていたこともあって、それらの大会が終了した11月下旬にようやく残った大洋戦3試合を消化。最終戦の開催は11月23日となった。
 
 
なお巨人は以下のシーズンに未消化試合を残したままペナントレースを終了している。
 
* 1937年秋季は[[10月27日]]の[[翼軍|東京セネタース]]戦がきっかけとなる。
 
*: 1-2とリードされた9回裏1死1・3塁の巨人の攻撃で、水原茂の打球は[[投手]]ゴロ。投手→[[二塁手]]→[[一塁手]]と転送されるも、一塁がセーフとなる。この時にセネタースの二塁手・[[苅田久徳]]が「一塁走者の[[平山菊二]]が送球を妨害した」と抗議。これが認められ一塁もアウトとなり、試合が終了した。ジャイアンツはこの判定を不服として[[日本野球連盟 (プロ野球)|日本野球連盟]]に提訴(プロ野球初の[[提訴試合]])。[[11月30日]]の連盟理事会でこの試合を無効として再試合を行うことを決定したが、すでに大阪タイガースの年度優勝が決まっており、仮にこの試合が行われたとしてもシーズンの順位に影響が及ばないことから、[[12月9日]]に中止が決定された。
 
* 1949年は日米野球に伴う公式戦一時中断に加え、2リーグ分立のあおりを受けて11月26日に日本野球連盟が解散したため、11月29日にペナントレースを打ち切った。このため6試合(阪急戦・[[大映ユニオンズ|大映]]戦・阪神戦各1試合、[[松竹ロビンス|大陽]]戦3試合)を未消化のまま終了した。
 
* 1951年は120試合の予定だったが、日米野球の日程が迫っていたので10月9日をもって打ち切りとなり、6試合(国鉄戦2試合、広島戦4試合)を消化しないままで公式戦を終了。この時は9月23日に「打ち切り」が決定したことを受けてリーグ優勝が確定した。
 
* 1953年も国鉄との5試合の対戦が未消化だったが、これも日本シリーズ、さらには日米野球がこの年は2チーム(エド・ロパット・全米オールスターチームと[[サンフランシスコ・ジャイアンツ|ニューヨーク・ジャイアンツ]])が招待されており、残り試合の日程調整が付かなかったため、その5試合の開催を打ち切った。この年のジャイアンツは海外キャンプを行っていて、帰国が4月4日となり、3月28日のセ・リーグ開幕に間に合わなかったことも大きい。
 
* 2004年は[[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]]と[[大阪近鉄バファローズ]]の合併に端を発した一連の球界再編問題で2日間(中日戦2試合(ナゴヤドーム))がストライキの対象となった。この2試合の代替日が設定されなかったため、138試合でリーグ戦を終えている。
 
 
=== 史上初の2日またぎの試合 ===
 
[[1961年]][[9月7日]]の対[[東京ヤクルトスワローズ|国鉄]]戦(後楽園)で、史上初めての2日間またぎの試合が行われた。事の発端は延長11回表の国鉄の攻撃。3塁ゴロを捕球した長嶋茂雄がベースを踏んでアウトにしたはずが、2塁走者・[[土屋正孝]]の脚が早かった。ところが、アウトと思っていた土屋は三塁コーチスボックスに入っていた[[砂押邦信]]監督に促されてホームに向って走った。これを見た長嶋が土屋を追いかけ三本間で交錯、そこへ長嶋からの送球を受けた捕手[[藤尾茂]]が土屋にタッチした。[[島秀之助]]球審は一旦はアウトと宣告したものの国鉄側が長嶋の走塁妨害を主張、審判団協議の結果判定が覆ってホームインが認められることになったため、今度はジャイアンツ側が土屋はラインアウトだったと主張するなど両チームが論争になった。更に興奮したファンがスタンドに火を付けたり物をグラウンドに投げ込んだりするなどの行為を行い、2人のファンが公務執行妨害の現行犯で逮捕された。2時間近くの中断の末、土屋のホームインが認められ試合が再開されたのは23時53分で、結果的に試合終了は翌[[9月8日]]の0時11分となり史上初の2日間またぎの試合となった。
 
 
2日間またぎの試合はセ・リーグの大会規定で[[1990年]]から[[2000年]]に「時間無制限・延長15回・引き分け再試合」という取り決めがあった際、15回フルイニングス戦ってそうなった事例が数例あった。
 
 
=== 疑惑の本塁打 ===
 
1990年の開幕戦・ヤクルトスワローズとの地元・東京ドームでの試合で、[[篠塚和典|篠塚利夫]]が[[内藤尚行]]から放った打球が、1塁[[塁審]]を務めていた[[大里晴信]][[プロ野球審判員|審判員]]によってホームランと判定された。この判定に対して、「打球はライトポールより前方で通過し、ファールスタンドへ入った」と、ヤクルト[[野村克也]]監督は抗議したが、判定が覆ることはなかった。同日放送された各局のスポーツニュースではこの打球の[[ビデオテープレコーダ|VTR]]を再三放送し、「打球はライトポールより前方で切れ、ファールスタンドへ入った」と結論付けるものが多かった。この年からセントラル・リーグでは[[外審|外野審判]]を廃止して4人制で行っていた。この疑惑後、東京ドームのポールは打球がわかるように黄色に塗装され、その後オレンジ色に変更された<ref group="注">この映像はCS放送の「GIANTS IN 東京ドーム」(1990年)にて視聴できる。</ref>。
 
 
=== 所属選手による賭博 ===
 
2015年10月、所属選手の[[福田聡志]]が野球賭博をしていることが発覚。その後、同じく所属選手の[[笠原将生]]と[[松本竜也]]の2人も野球賭博を行っていたこともわかった。11月に[[日本野球機構]](NPB)の[[コミッショナー]]・[[熊崎勝彦]]は、3選手を失格処分とし、それを受けた球団は3選手との契約を解除(事実上の解雇)。また球団に対しては指導、管理が不十分であったとされ1000万円の制裁金が科せられた。NPBコミッショナーによる野球賭博事件による選手の処分は1969年に西鉄ライオンズ(現・[[埼玉西武ライオンズ]])の投手の八百長に端を発した『[[黒い霧事件 (日本プロ野球)|黒い霧事件]]』以来のことである。
 
 
また球団は、今回の事件の責任を明確化するため、3選手の解雇のほか、原沢敦専務取締役兼球団代表が引責辞任、[[桃井恒和]]会長・[[久保博]]社長が取締役報酬の50%返上(無期限)、[[白石興二郎]]オーナー・[[渡邉恒雄]]特別顧問が取締役報酬の全額返上(2か月)といった独自の処分を決定した。
 
 
3選手以外にも巨人の一部選手間において[[麻雀#賭け麻雀|賭け麻雀]]や賭け[[トランプ]]、[[日本の高校野球|高校野球]]を使った[[ギャンブル]]を読売ジャイアンツ球場の[[更衣室|ロッカールーム]]でしていたことや、賭け麻雀には野球賭博に関与した3人の投手を含むおよそ10人が参加していたこと、賭けトランプは11人の選手が参加し大富豪やポーカーといったトランプゲームに1回1万円を賭けていたこと、守備練習でミスした選手から罰金を徴収していたことなど、球団内で賭け事が日常的に横行していた事実も発表した<ref>[http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00308038.html 野球賭博問題 川崎市のジャイアンツ球場でも11人が賭けトランプ]{{リンク切れ|date=2016年5月}}</ref>。現金を賭けることは賭博罪に該当するが、球団は関わった選手の名前は隠したまま厳重注意処分とした<ref>{{Cite news|title=【巨人】福田、笠原、松本竜3投手を解雇!野球賭博に厳罰|newspaper=スポーツ報知|date=2015-11-10|url=http://www.hochi.co.jp/giants/20151109-OHT1T50173.html|accessdate=2015-11-11|publisher=報知新聞社}}</ref><ref name="asahi1110">[http://www.asahi.com/articles/ASHCB41F8HCBUTIL01G.html 巨人の3投手、任意で事情聴取 野球賭博問題で警視庁] 朝日新聞 2015年11月10日13時52分配信 2015年12月12日閲覧</ref>
 
 
[[2016年]]3月8日、巨人は緊急会見を開き、新たに[[高木京介]]が野球賭博に関わっていた疑いがあることが新たに判明。球団は同日付で高木京を謹慎処分にし、野球賭博を禁じた野球協約に違反したとして、NPBに告発した<ref>{{Cite news | title = プロ野球・巨人、野球賭博4人目関与の疑いで最高顧問ら辞任表明| newspaper = FNNNEWS | date = 2016-03-08 | url =http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00318321.html}}</ref>。4人目が発覚したことにより、一連の野球賭博問題の責任を取る形で、巨人の渡邉恒雄最高顧問、白石興二郎オーナー、桃井恒和球団会長が辞任<ref>{{Cite news | title = 巨人渡辺恒雄最高顧問、白石オーナー、桃井会長辞任| newspaper = 日刊スポーツ | date = 2016-03-08 | url = http://www.nikkansports.com/baseball/news/1614226.html}}</ref>。3月22日にNPBの調査委員会は高木京を1年間の失格処分とし、球団に500万円の制裁金を課す処分案を発表した<ref>{{Cite news | title = 高木京投手に1年間の失格処分、球団に500万円の制裁金 | newspaper = サンケイスポーツ| date = 2016-03-22 | url = http://www.sanspo.com/baseball/news/20160322/gia16032214210005-n1.html }}</ref>。その後、熊崎コミッショナーは調査委員会案と同じ処分を正式に下す<ref>{{Cite news | title = 高木京は1年間失格 コミッショナー裁定…3元投手と「相当な差異」 | newspaper = スポーツニッポン| date = 2016-03-22 | url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2016/03/22/kiji/K20160322012262080.html }}</ref>。これを受けた読売巨人軍は高木京介に対し即日、事実上の解雇となる「契約解除」を通達<ref>{{Cite news | title = 巨人が高木京介に契約解除を通達 | newspaper = デイリースポーツ | date = 2016-03-22 | url = http://www.daily.co.jp/newsflash/baseball/2016/03/22/0008917179.shtml}}</ref>。
 
 
2016年4月、上記4選手以外に1名が違法カジノへの出入りがあることが確認された。しかし、日本の法律では闇カジノが違法であるにも関わらず、野球協約内では闇カジノで金銭を賭けても違反とされていないため、名前の公表はされなかった。また、3月に再度賭博調査を行ったところ、賭け麻雀は14名が参加、賭けトランプは23名が参加をしており、前年11月調査時よりも賭博への参加者が増加していた<ref>{{Cite news | title = 巨人でも違法カジノ出入り確認、無期失格処分3選手 | newspaper = 日刊スポーツ| date = 2016-04-07 | url = http://www.nikkansports.com/baseball/news/1628119.html }}</ref>。
 
 
{{Main|読売ジャイアンツ所属選手による野球賭博問題}}
 
 
== キーワード ==
 
{{出典の明記|date=2013年1月|section=1}}
 
 
=== 常に紳士たれ ===
 
==== スタイル ====
 
[[正力松太郎]]が「'''巨人軍は常に[[紳士]]たれ'''」という言葉<ref group="注">「'''巨人軍憲章'''」とも呼ばれる遺訓のうちの1つで、残りは「巨人軍は常に強くあれ」「巨人軍はアメリカ野球に追いつけ、そして追い越せ」で計3か条である。</ref>を残したように、巨人の選手は社会人、そして人間として模範となることを求められており、テレビ出演や移動の際は[[背広|スーツ]]と[[ネクタイ]]着用が義務付けられてきた<ref group="注">もっとも近年では、テレビ番組出演時には、場合により私服での出演も行っている。</ref><ref group="注">2012年シーズン時は、[[節電#東日本大震災に関連する節電|日本の現在の電力事情]]を考慮し、ノーネクタイでの遠征も認められた。</ref>。
 
[[清原和博]]の著書『反骨心』によると、荷物の持ち方も決まっている。
 
 
ヒゲを生やすこと、染髪、長髪も好ましくないとされる。しかし、ヒゲに関しては容認されることも多く、特に第2次長嶋監督時代は[[屋鋪要]]、[[村田真一]]、[[入来祐作]]、[[杉山直樹 (野球)|杉山直輝]]、[[門奈哲寛]]などのほか、[[ロイド・モスビー]](長嶋就任の前年より所属)、[[ジェシー・バーフィールド]]、[[ヘンリー・コトー]]、[[ダン・グラッデン]](ヒゲに加え長髪)、[[シェーン・マック]]、[[バルビーノ・ガルベス]]、[[ドミンゴ・マルティネス]]など多くの選手がヒゲを生やしプレーした。第2次長嶋監督時代以外では[[仁村薫]]、日ハム時代ヒゲがトレードマークだった[[小笠原道大]]、外国人選手では大洋時代に「ライオン丸」と形容される顎ヒゲがトレードマークの[[ジョン・シピン]]や、[[サンフランシスコ・ジャイアンツ]]から移籍してきた[[MLB]]通算314[[本塁打]]の[[レジー・スミス]]、近鉄バファローズから移籍してきた[[タフィ・ローズ]]の[[コーンロウ]]とヒゲを例外として認めた(シピンはキャンプ前に短髪にしヒゲを剃り<ref>{{Cite news | title = 消えたプロ野球選手「あれからの人生」 輝きは一瞬だったかもしれない。しかし、確かにあの時、輝いたのだ・・・ | newspaper = 週刊現代 | date = 2012-02-09 | url = http://gendai.ismedia.jp/articles/-/30732}}</ref><ref>{{Cite news | title = 第3回 ジャイアンツ史上はじめて? 入来、杉山のバッテリー | newspaper = ほぼ日刊イトイ | date = 1999-05-03 | url = http://www.1101.com/baseball/1999-05-03.html}}</ref>、小笠原は入団会見前に男のけじめと語りヒゲを自ら剃った<ref>{{Cite news | title = サムライがけじめ! FA小笠原がヒゲ剃り巨人入団会見! | newspaper = SANSPO.COM | date = 2006-12-04 | url = http://www.sanspo.com/sokuho/1204sokuho050.html}}</ref><ref>{{Cite news | title = 「移籍Gメン」査定表 良いG、ダメG、普通のG 写真特集 | newspaper = 時事ドットコム | url = http://www.jiji.com/jc/d4?p=gia890ogasawara&d=d4_cc}}</ref>)。
 
シーズンオフ限定という条件付きによる球団からの許可で、[[高橋由伸]]が金髪やヒゲ、[[元木大介]]が茶髪にしたことがあった。
 
 
刺青も推奨されていない。両腕に刺青のある[[ディッキー・ゴンザレス]]は夏場でも常に長袖のアンダーシャツを着用し、見えないようにしていた。
 
 
また、清原が巨人在籍時代ピアスを付けていたが、OBを中心に「外すべきだ」という意見が存在した。
 
現在、メジャーリーグに移籍した[[上原浩治]]は巨人在籍時、宮崎キャンプへ出発する際にスーツ着用ではあったが、百貨店の紙袋に荷物を詰め込んでいた。
 
 
[[野村克也]]は自著『巨人軍論』で、上記のような「紳士野球」については肯定的見解を示し、自身が監督を勤める際も茶髪、ピアス、入れ墨他を禁じている。また、[[堀内恒夫]]が監督就任後に茶髪やピアスのみを承認した<ref group="注">なお、堀内自身も監督就任後にチームの気分転換を図るため、ひげを蓄えた時期があった。</ref>時はかなり否定的な意見を発した。野村曰く「強いチームを作るには厳しいルールが必要で、選手は茶髪・ピアス・入れ墨ではなく、プレーでこそ目立つべきだ」と主張している。また、厳しいルールの下で人間性が鍛えられ、それが野球に良い影響を与えるとしている。
 
 
==== 登録名 ====
 
巨人では、登録名は原則として本名およびそれに類する芸名・通名<ref group="注">縁起担ぎなどのため戸籍を改めずに改姓・改名した場合(改名時点での篠塚利夫→[[篠塚和典]])や、[[在日コリアン]]・[[華人]]など定住外国人の通名としての日本名(張勲→[[張本勲]])が主な例。</ref>のみであり、[[イチロー]](本名:鈴木一朗)などに代表される愛称の使用は認められておらず<ref>[http://www.daily.co.jp/baseball/2011/06/30/0004223542.shtml デイリースポーツonline サブロー、巨人では登録名「大村」濃厚]{{リンク切れ|date=2015年10月}}</ref>、カツノリ([[野村克則]])や[[サブロー]](大村三郎)も巨人への移籍にあたって登録名を本名に戻している。
 
 
1996年に当時の長嶋茂雄監督の発案で、特例として[[河野博文]]の登録名を「ゲンちゃん」で申請したことがある。この時は、当時のセ・リーグ会長により却下されている。
 
 
その他特例が認められた例としては、[[ジェレミー・ゴンザレス]]が、すでに在籍していた[[ルイス・ゴンザレス (内野手)|ルイス・'''ゴンザレス''']]および[[ジェレミー・パウエル|'''ジェレミー'''・パウエル]]と混同しないように「GG」(読みは「ジー・ジー」)となった例や、[[マイケル中村]]が登録名を日本ハム時代と同じ「MICHEAL」に変更した例、[[ギャレット・ジョーンズ]]が、「ジョーンズ」だと登録例が多いことから、よりインパクトを強める形で「ギャレット」となった例などがある。
 
 
==== ジャイアンツタイム ====
 
「ジャイアンツタイム」という定刻の30分前に選手・スタッフが集合する暗黙のルールが存在する<ref>{{Cite news | title = 定刻30分前に集合の“ジャイアンツタイム” 新顔たちが初のチーム便移動 | newspaper = ZAKZAK | date = 2014-01-29 | url = http://www.zakzak.co.jp/sports/baseball/news/20140129/bbl1401290719003-n1.htm}}</ref>。遅刻魔<ref>{{Cite news | title = 今日出揃う2015年オールスター 記憶に残る20年前の松井「遅刻」伝説 | newspaper = Full-count | date = 2015-07-02 | url = https://full-count.jp/2015/07/02/post13496/}}</ref>と評される[[松井秀喜]]はほとんどがこの「ジャイアンツタイム」に遅れていたとの指摘もある<ref>{{Cite news | title = 松井秀喜氏の遅刻伝説 実際は「たまにしかしてない」証言も | newspaper = NEWSポストセブン | date = 2013-05-05 | url = http://www.news-postseven.com/archives/20130505_186024.html}}</ref>。
 
 
=== 伝統の一戦 ===
 
主にマスコミなどで、対[[阪神タイガース]]戦を「'''[[伝統の一戦]]'''」と表現されることがある。
 
 
=== 球団運営会社 ===
 
{{基礎情報 会社
 
|社名 = 株式会社読売巨人軍
 
|英文社名 = Yomiuri Giants
 
|ロゴ =
 
|種類 = 株式会社
 
|市場情報 =
 
|略称 = 読売ジャイアンツ、読売、ジャイアンツ、巨人、巨人軍
 
|国籍 = {{JPN}}
 
|郵便番号 = 100-8151
 
|本社所在地 = [[東京都]][[千代田区]][[大手町 (千代田区)|大手町]]一丁目7番1号<br />([[読売新聞ビル]])<ref>{{Cite news |title = 巨人、読売新聞社ビルの新社屋に球団事務所移転 |newspaper = サンケイスポーツ |date = 2014-01-28 |url = http://www.sanspo.com/baseball/news/20140128/gia14012805000000-n1.html |accessdate = 2015-10-05 }}</ref>
 
|設立 = [[2002年]][[7月1日]]
 
|業種 = 9050
 
|統一金融機関コード =
 
|SWIFTコード =
 
|事業内容 = プロ野球競技の運営並びに選手の指導、養成など
 
|代表者 = [[取締役]][[オーナー]] [[老川祥一]]<br />[[社外取締役]]オーナー代行 [[松田昇 (検察官)|松田昇]]<br />[[代表取締役]][[社長]] [[久保博]]<br /><!--球団代表は空席-->[[取締役]][[ゼネラルマネージャー|GM]]兼編成本部長 [[鹿取義隆]]<br />[[非常勤]][[取締役]] [[山口寿一]]
 
|資本金 =
 
|発行済株式総数 =
 
|売上高 =
 
|総資産 =
 
|従業員数 = 143名
 
|決算期 =
 
|主要株主 = [[読売新聞グループ本社]] 100%
 
|主要子会社 =
 
|関係する人物 = [[正力松太郎]](創立者)、[[正力亨]](2代目オーナー)、[[長嶋茂雄]](専務取締役終身名誉監督)
 
|外部リンク = [http://www.giants.jp/top.html 読売巨人軍オフィシャルウェブサイト]
 
|特記事項 = 創立は[[1934年]][[12月26日]](株式会社大日本東京野球倶楽部として)。2002年7月1日に株式会社よみうり(当時の読売ジャイアンツの運営会社)を[[会社分割]]して設立。
 
}}
 
 
ジャイアンツの運営会社は複雑な変遷を辿っている。1934年に大日本東京野球倶楽部が発足したとき、読売新聞は大いにバックアップを行ったが、実際の出資額は僅少で、あくまで正力松太郎の関係による独立企業であった(筆頭株主は正力も一時期出向で在籍していた[[京成電鉄]]。[[東芝]]、[[阪神電気鉄道]]<ref group="注">[[阪神タイガース|大阪タイガース]]の親会社であったが、戦前は球団の親会社が他球団に出資しても問題はなかった。</ref><ref group="注">1934年に開催された日米野球の阪神甲子園球場の未払使用料(阪神側から見ると未収入金)を出資金に振り替えたもの。</ref>、[[東京急行電鉄]]、[[吉本興業]]がこれに続いていた)。1947年[[2月]]、読売新聞社が全株式を買収し、完全に系列下。球団旗の右肩に「讀賣」の二文字が入り、社名を「大日本東京野球倶楽部」から「読売興業」に改めたが、1950年[[1月]]に「読売巨人軍」(第1期)として分離。しかし僅か1年2か月で読売興業に吸収されている。
 
 
[[1963年]]、読売新聞は[[九州]]に進出するに当たり、読売興業に読売会館(当時の[[有楽町]][[そごう]]〈現[[ビックカメラ]]有楽町店〉や当時の読売新聞東京本社ビル〈現[[プランタン銀座]]〉の保有・管理会社)を合併させ、読売興業内に事業本部としての「読売新聞西部本社」を設けた。先が見えない九州での新聞事業の赤字をプロ野球興業と不動産の収入で補填するとの意図であったが、この結果読売興業はプロ野球、不動産、新聞の3事業を抱える[[コングロマリット]](複合型企業)となった。1988年には経営不振の中部読売新聞社から東海地方での新聞事業を受け継ぎ、「読売新聞中部本社」としている。2002年[[7月]]の読売新聞グループの再編により、「[[よみうり]]」([[1992年]][[6月]]に読売興業から改称)は新聞事業を読売新聞東京本社中部支社(中部本社が読売新聞社改め[[読売新聞東京本社]]に吸収)と[[読売新聞西部本社]]に分割してプロ野球専業となり「'''読売巨人軍'''」(第2期)の社名が復活した。これに伴いビジター用ユニフォームの胸マークも「'''TOKYO'''」から「'''Y<small>OMIURI</small>'''」に変更となった(2004年まで使用)。
 
 
=== 当初の背番号 ===
 
戦前の巨人軍は基本的に、ニューヨーク・ヤンキースに倣って打順によって[[野球の背番号|背番号]]を決めていた。
 
 
例えば[[1936年]]夏季の場合、1番・[[田部武雄]](上層部との対立により公式戦参加前に退団したので、その後は[[林清一]]が受け継いだ)、2番・[[津田四郎]]、3番・[[中島治康]]、4番・[[永沢富士雄]]、5番・[[伊藤健太郎 (野球)|伊藤健太郎]]までは背番号と打順が一致する。当時の巨人軍には背番号6の選手がいなかったため、6番は背番号7の[[筒井修]]、7番は背番号8の[[白石勝巳|白石敏男]]が「繰り上がり」、8番は捕手、9番は投手が入るのが基本オーダーだった。背番号9の[[山本栄一郎]]をはさんで捕手の背番号は10番から始まり、10番が[[中山武]]、11番が[[内堀保]]、12番が[[倉信雄]]と続いていた。13番からが投手の背番号で、[[青柴憲一]](13番)、沢村栄治(14番)、畑福俊英(15番)と続く。再び16番が欠番でヴィクトル・スタルヒン(17番)、前川八郎(18番)と続いた。秋季以降に加入した選手はヤンキース方式の背番号が適用されず、19番は田部と同様に上層部との対立により退団したもののその後復帰した[[水原茂]]、林が1番に変更して空き番となった20番は青森林友から入団したチーム初の左腕投手・成田友三郎、21番は助監督として入団したものの夏季のチームの不甲斐なさに現役復帰を決意した三原修がつけ、藤本定義監督がチーム最大となる22番をつけた。
 
 
選手が増えたため[[1938年]]以降はこの基本から外れることが多くなったが、川上哲治が16番をつけたのはヤンキース方式の背番号の名残で、川上が投手として入団した証拠とも言える。
 
 
=== カラーテレビ用ユニフォーム ===
 
[[1957年]]、[[正力松太郎]]オーナーが会長を務める[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]が[[カラーテレビ]]試験放送を開始した。正力はカラーテレビを普及させるためのアイディアとして、巨人のユニフォームを変更した。
 
 
最初の変更は[[1959年]][[9月]]。袖のオレンジ×黒×オレンジのライン、背番号、胸の「GIANTS」の縁取りが赤に変更された。しかしこの変更はホーム用のみでビジター用は従来通りのユニフォームが使われたため、ファンにも気付かれることのないままこの年の公式戦終了と同時に元のユニフォームに戻された<ref group="注">南海ホークスとの[[1959年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では元のユニフォームが使用された。</ref>。
 
 
次にカラーテレビ用ユニフォームが登場したのは[[1960年]][[6月11日]]。ホーム用・ビジター用ともに帽子のつば・胸のロゴ・背番号が赤いユニフォームで、それまでの巨人のチームカラーを覆すものだった。当時のカラーテレビは白いものが映るとハレーションが起こったため、ホーム用の地色もドーラン効果を狙ってベージュに変更された。
 
 
しかしこのユニフォームは選手の評判も悪く、全員で号令をかけあって一斉に着替えたとも伝えられている。反対意見を言う選手はいなかったもののその声を代弁したのが解説者たちで、[[三宅大輔]]は「考え方が逆。これではカラーテレビのためにプロ野球があるようなものだ」、また[[小西得郎]]も「[[クリーブランド・インディアンス]]か[[アトランタ・ブレーブス|ミルウォーキー・ブレーブス(現:アトランタ・ブレーブス)]]の真似で、ジャイアンツらしくない」と批判した。
 
 
このようにカラーテレビ用ユニフォームは世間の評判が悪かった上、前年まで6年連続最下位だった大洋ホエールズにリーグ優勝をさらわれたこともあって、このユニフォームもこの年限りでお役御免となった。当時の[[東京都|東京23区]]にはカラーテレビが100台ほどしかなく、当初の目的だった「カラーテレビの普及」にも貢献することが出来なかった(カラーテレビが普及するきっかけとなったのは[[1964年]]の[[前東京オリンピック|東京オリンピック]]である)。
 
 
=== 50番トリオ ===
 
1983年に若手選手として成長目覚ましい槙原寛己、駒田徳広、吉村禎章の3人が[[野球の背番号|背番号]]にちなんで50番トリオと呼ばれた。背番号'''50'''の駒田は4月10日に日本プロ野球史上初の'''初打席満塁本塁打'''を放つ衝撃的デビューを飾って[[規定打席]]未到達の199打席で打率.286・12本塁打を放ち、特に満塁機で10打数7安打と強く、'''満塁男'''の異名を取った。背番号'''54'''の槙原は初登板で初[[完封]]勝利を収め、12勝を挙げる活躍で新人王を受賞した。背番号'''55'''の吉村は104打席に留まったが、プロ1号本塁打から3打席連続本塁打を放つなど打率.326・5本塁打の成績を残した。この年に巨人はセ・リーグ優勝を果たし、期待の若手として注目された。吉村は86年から背番号7、槙原は87年から背番号17、駒田は88年から背番号10に変更した。
 
 
=== 主催ゲーム開催方法関連 ===
 
==== 地方球場開催 ====
 
{{main2|本拠地以外の主催試合に関しては[[読売ジャイアンツ主催試合の地方球場一覧]]を}}{{main2|本拠地以外の主催試合(オープン戦)に関しては、[[読売ジャイアンツ主催のオープン戦使用球場一覧]]を}}
 
 
かつては地方都市の球場での開催も積極的に行い、特に[[北海道]]シリーズ([[札幌市円山球場|円山]]、[[旭川スタルヒン球場|旭川]]、[[札幌ドーム]]での2 - 3連戦)、九州シリーズ([[平和台野球場|平和台]]、[[北九州市民球場|北九州]]、[[福岡ドーム]]、[[藤崎台県営野球場|熊本]]など)、隔年で[[北陸地方|北陸]]シリーズ([[石川県立野球場|金沢]]、[[富山県営球場|富山県営]]、[[富山市民球場|富山市民(アルペンスタジアム)]]、[[福井県営球場|福井]]などでの2 - 3連戦。富山が正力松太郎の出身地であることから継続して開催されてきた)、[[東北地方|東北]]シリーズ([[岩手県営野球場|盛岡]]、[[宮城球場|仙台]]、[[郡山市営開成山野球場|郡山]]などでの2 - 3連戦)を率先的に実施してきた。また[[秋田大学野球場|秋田]]、[[青森市営球場|青森市営]]なども開催していた。
 
 
東京ドームが開場してからは東京ドームでの試合(かつナイトゲーム)を中心に編成したため、東北シリーズ・北陸シリーズは廃止となり、さらに北海道や九州のシリーズも会場を1カ所(福岡ドーム・札幌ドームでナイターのみ)に絞る形にして試合数を減らしていた(2004年度には九州シリーズの1試合に、ジャイアンツのキャンプ地である宮崎での開催がある)。
 
 
ただ、地方開催をほぼ廃止したことが災いし、ファン離れが深刻になったことから、2005年以降は東北シリーズ・北陸シリーズを復活させるなど、再び地方都市での開催を増やしている。ただし、このうち札幌と福岡に関しては、2005年以後は[[セ・パ交流戦]]が組まれ、パ・リーグ側の球団が主催する試合で(ビジターとしてではあるが)遠征することが恒例になったため、巨人主催によるこれらの地域での試合は[[2010年]]以後開催されていない。ただし、球団側は廃止ではなく『休止』扱いとしている<ref group="注">かつてはこれら札幌、福岡(一時的)をフランチャイズとする球団がなく、また「テレビ中継と言えば巨人」の時代であったため、札幌や福岡での巨人戦のチケットはプラチナチケットで争奪戦となっていた。だが、後にそれらでフランチャイズとする球団が現れてからは、地元の球団に人気が集中する傾向となったことから、相対的に巨人の人気が下がったこと、観客動員にも影響したために開催するメリットが薄れたことで休止となった。</ref>。また、東北シリーズのうち仙台での試合においても、2008年以降はこちらもフランチャイズとする球団が現れたこともあり、同じように交流戦で対処できるため、開催されていない。
 
 
近年では、ほぼ毎年[[大阪ドーム|大阪]]で1カードが組まれている他、毎年ないし隔年で東北シリーズ(宮城球場以外)と北陸シリーズが、またそれ以外にも稀に中国([[MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島|広島]]以外)・四国・九州(福岡ドーム以外)でも組まれることがあり、これらで年間7 - 8試合程度(2015年と2017年は8試合、2016年は7試合、2018年は9試合)が地方開催として行われている。
 
 
===== 長期ロード =====
 
東京ドームで[[都市対抗野球大会]]が開催されるため、開催期間中とその前後の2週間近くで、毎年長期ロードが毎年組まれている。この間、巨人は主催試合を地方球場で行う。特に、同大会が8月下旬から9月初旬の開催([[2002年]] - [[2010年]]<ref group="注">[[2011年]]は[[東日本大震災]]のため、10月に延期したうえで会場を[[大阪ドーム|京セラドーム大阪]]に変更。</ref>)だった時には必ず1カードは巨人主催による地方遠征が行われた。例として2007年は、札幌ドームでの主催ゲームを含め、11試合を東京ドーム以外で行った(8月24日 - 9月6日)。
 
 
都市対抗が7月下旬から8月初旬の開催だった頃も長期遠征があったが、この時は[[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスター]]を間に挟んだり、また自宅から球場へ通うことができる関東圏の他のビジターでの試合も行われることも頻繁にあったため、主催試合はなかった<ref group="注">2012年より都市対抗は7月(中旬から下旬)の開催に戻っている。</ref>。
 
 
===== 大阪ドームでの主催ゲーム =====
 
関東以東の球団が[[近畿地方|近畿圏]]各地でホームゲームを行う機会は[[1952年]]に[[プロ野球地域保護権|フランチャイズ]]制度が確立してからはまれで、確立当初、球場難等を理由に[[京都市西京極総合運動公園野球場|西京極]]、[[大阪スタヂアム|大阪]]などでいくつかのチームが試合をした程度であった。特に[[1955年]]の[[大映ユニオンズ|大映スターズ]]は西京極で15試合を開催し、事実上準本拠としていた(親会社の[[大映 (映画)|大映]]が京都太秦に撮影所を持っていたことも関係している)。
 
 
ジャイアンツもフランチャイズ確立前は近畿圏の球場でもホーム扱い(後攻)となる試合がまれにあったが、それが確立されてからは近畿圏でのホームゲームを行う機会は[[京都市西京極総合運動公園野球場|西京極球場]]でのオープン戦(主に対阪神戦)を除き、ほとんどなかった。しかし[[1997年]]に[[大阪ドーム]]が竣工し、その年には[[読売新聞大阪本社]]の創刊45周年も重なって、ヤクルトを帯同した公式戦2試合を同球場で開いた。その後大阪ドームでは年1回もしくは隔年で開催している。2002年以後は東京ドームで開く[[都市対抗野球]]の開催時期が8月下旬から9月初めに移動したためによる処置であった。2006年、2007年及び2010年、2013年は4月に、2012年は7月に開催され、現在も都市対抗開催期間中の長期ロード中の7月下旬に組まれている。また、2007年と2013年に関しては、同一リーグである[[阪神タイガース|阪神]]がフランチャイズとする兵庫県下([[神戸総合運動公園野球場|神戸]])でも組まれた。
 
 
なお、対阪神戦は公式戦に限れば大阪・神戸では巨人・阪神のいずれの主催でも開催実績がない。
 
 
==== 本拠地でのデーゲーム開催 ====
 
後楽園球場時代は、夏場を除き日曜日や大型連休中にはデーゲームが開催されていたが、東京ドームが開業した1988年以降は、初期に開幕シリーズや大型連休中などで部分的に開催したことはあるものの、地上波でのテレビ中継による多額の放映権料収入が見込めるためデーゲームで開催されることは無くなり、地方開催も含めてほぼ全ての主催試合がナイトゲームとなった。デーゲームはナイター設備がない札幌円山球場・旭川スタルヒン球場<ref group="注">2013年に照明設置。</ref>での北海道シリーズ(現在は札幌ドーム)と、優勝チーム決定後の消化試合で組まれる程度となっていた<ref group="注">2002年度の北海道シリーズ(札幌ドーム)では、[[FIFAワールドカップ]]日韓大会(札幌ドームが会場の1つ)の関係で3試合ともデーゲーム開催だった。また、2004年9月23日の対横浜ベイスターズ戦([[横浜スタジアム]])もデーゲームで開催された。</ref>。
 
 
その後は、視聴率の低下で地上波によるテレビ中継が減少したことでナイター開催のメリットが減少したことや、ファンサービスのため、週末と休日には再びデーゲームでの開催が増加しており、現状では概ね年間20試合程度がデーゲーム開催となっている。なお、東京ドームは屋内球場であるため、夏場でもデーゲームが組まれている。
 
 
====ナイターの6時半開始====
 
巨人軍のナイター開催は長年午後6時に設定されてきたが、[[2012年]][[7月25日]]に行われた[[横浜DeNAベイスターズ|DeNA]]戦で試行的に7時開始で行った。これは、この前日まで[[第83回都市対抗野球大会]]が開催され、その会場の応援ステージの撤去などの諸作業を行うのと、ファンから「会社帰りでも試合開始から試合が見たい」との意見があったことから、この1試合限定で行った。
 
 
[[2013年]]についても、7月から8月の5試合で「630ナイター」と銘打って、6時30分からの試合開始に設定した。これも前日の7月23日まで[[第84回都市対抗野球大会]]が行われたための撤収作業と、ファンからの要望によるもの。特に期間中の2試合で生ビールを800円から400円に半額とするサービスも行われる<ref>{{Cite news |title = 【巨人】開始30分遅らせ ビール半額も |newspaper = nikkansports.com |date = 2013-05-24 |url = http://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20130524-1132294.html |accessdate = 2013-07-24 |publisher = [[日刊スポーツ|日刊スポーツ新聞社]]}}</ref>。
 
 
[[2014年]]も、7月の5試合で「630ナイター」として継続し、6時30分からの試合開始に設定。これも、[[第85回都市対抗野球大会]]の開催準備とファンからの要望に応えたもの。
 
 
ただし過去にもナイター黎明期のころは午後7時開始が多く存在した。
 
 
== 主催ゲームの中継 ==
 
{{Main|読売ジャイアンツの主催試合の中継}}
 
{{see also|Fun!BASEBALL!!}}
 
基本的に、地上波ではナイトゲームは19:00 - 20:54、デーゲームは15:00 - 17:00頃(放送日による)での中継である。
 
 
長年、主催ゲームのテレビ中継は読売新聞系列である[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]による独占状態が続き([[1959年]][[6月25日]]の天覧試合・阪神戦だけ[[NHK総合テレビジョン]]との併用中継)、全国の系列局へネットされていた事から、全国に多数の巨人ファンを獲得した。ただ、2002年から日本テレビによる独占が崩れ、地上波では土曜日のうちナイトゲームの数試合がNHK総合テレビジョンによる中継となった他、他局による中継([[テレビ朝日]]・[[テレビ東京]])も行われるようになった。それに併せて地上波では中継試合が大幅に削減されており、テレビ朝日・テレビ東京はともに撤退、また日本テレビでもナイトゲームの中継に限ると年間数試合程度に留まっている。併せて、開幕戦や優勝決定試合など特別な事情がある場合を除き、ナイトゲーム中継では中継時間の延長オプション(21:24までの最大30分)<ref>2002年~2004年までの間は21:54までの最大60分だった。</ref>も廃止された。
 
 
地上波が減少した代わりに、現状では[[日本における衛星放送#BSデジタル放送|日本における衛星放送]]である[[BS日本|BS日テレ]]にて、延長オプションも含めてほとんどの試合で放送されている(上記のようにNHKで中継する試合などで放送されないこともある)。
 
 
== 主な舞台とする作品 ==
 
* [[巨人の星]]([[梶原一騎]]、[[川崎のぼる]])
 
* [[巨人の星|新巨人の星]](梶原一騎、川崎のぼる)
 
* [[巨人の星|新巨人の星II]](梶原一騎、川崎のぼる)
 
* [[黒い秘密兵器]]([[福本和也]]、[[一峰大二]])
 
* [[ちかいの魔球]](福本和也、[[ちばてつや]])
 
* [[侍ジャイアンツ]](梶原一騎、[[井上コオ]])
 
* [[ミラクルA(エース)]]([[貝塚ひろし]])<ref group="注">当初のタイトルは「九番打者」として[[少年サンデー]]([[小学館]]刊)に連載された。</ref>
 
* [[ロボット長島]](貝塚ひろし)
 
* [[忍者投手X(エックス)]]([[荘司としお]])
 
* [[リトル巨人くん]]([[内山まもる]])
 
* [[悪たれ巨人]]([[高橋よしひろ]])
 
* [[マツイ日記は知っている!]](荒木ひとし)
 
* [[ゴーゴー!ゴジラッ!!マツイくん]]([[河合じゅんじ]])<ref group="注">前身の『[[かっとばせ!キヨハラくん]]』においても「東京カイアンツ」というパロディで登場している。</ref>
 
* [[モリモリッ!ばんちょー!!キヨハラくん]](河合じゅんじ)
 
* [[ミラクルジャイアンツ童夢くん]]([[石ノ森章太郎]])
 
* ばっくれ一平!([[竜崎遼児]])
 
* [[消えた巨人軍]]([[西村京太郎]])
 
<!-- * [[ワルG]]([[片山誠]]) -->
 
* 長嶋茂雄誘拐事件 つかこうへい
 
 
== 応援番組 ==
 
* [[ビバ!ジャイアンツ]]([[日本テレビ]])
 
* [[好きやねん、ジャイアンツ]]([[読売テレビ]])
 
 
== ギャラリー ==
 
<gallery>
 
Cradle place stele Yomiuri Giants left view.jpg|「読売巨人軍発祥の地」の碑、左側から撮影
 
Cradle place stele Yomiuri Giants right view.jpg|「読売巨人軍発祥の地」の碑、右側から撮影
 
</gallery>
 
 
== 関連書籍 ==
 
* 項目全般
 
** {{Cite book |和書
 
|author    = [[越智正典]]
 
|title    = 新版ジャイアンツの歴史
 
|year      = 1974
 
|publisher = 恒文社
 
|ref      = harv
 
}}
 
** {{Cite book |和書
 
|editor    = ベースボール・マガジン社 編
 
|title    = 日本プロ野球40年史
 
|year      = 1976
 
|publisher = [[ベースボール・マガジン社]]
 
|ref = {{SfnRef|日本プロ野球40年史|1976}}
 
}}
 
** {{Cite book |和書
 
|author    = [[宇佐美徹也]]
 
|title    = 宇佐美徹也の記録巨人軍65年 栄光の巨人軍65年の歩み
 
|year      = 2000
 
|publisher = 説話社
 
|isbn      = 4916217098
 
|ref      = harv
 
}}
 
** {{Cite book |和書
 
|editor    = 巨人軍歴史新聞編纂委員会 編
 
|title    = 巨人軍歴史新聞 1934 - 2000栄光の球団史を発掘スクープ 2000年優勝記念号
 
|year      = 2000
 
|publisher = [[日本文芸社]]
 
|isbn      = 453725016X
 
|ref = {{SfnRef|巨人軍歴史新聞|2000}}
 
}}
 
** {{Cite book |和書
 
|editor    = ベースボール・マガジン社 編
 
|title    = プロ野球70年史 歴史編
 
|date      = 2004-12
 
|publisher = ベースボール・マガジン社
 
|isbn      = 4583038089
 
|ref = {{SfnRef|プロ野球70年史|2004}}
 
}}
 
 
**{{G5000}}
 
* チーム成績・記録節については以下のとおり
 
** 読売巨人軍広報部『2007年 メディアガイド』、2007年
 
  
 
== 脚注 ==
 
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
 
 
{{Reflist|group="注"|2}}
 
{{Reflist|group="注"|2}}
 +
----
 +
{{Reflist}}
  
=== 出典 ===
 
{{Reflist|2}}
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Portal|野球}}
 
* [[読売ジャイアンツ主催試合の地方球場一覧]]
 
* [[読売ジャイアンツ歴代4番打者一覧]]
 
* [[全日本中学野球選手権大会 ジャイアンツカップ]]
 
* [[月刊ジャイアンツ]]
 
* [[ヴィーナス (マスコットガール)|ヴィーナス]] - 読売巨人軍公式マスコットガール
 
* [[アンチ巨人]]
 
* [[東京ドーム]]
 
* [[東京ドームホテル]]
 
* [[東京読売巨人軍応援団]] - 大阪と北海道の応援団(以前は東京・名古屋・広島にも応援団があった)
 
* [[読売ジャイアンツ応援団]] - 2011年から応援活動をする東京の応援団
 
* [[G-FREAKS]] - 2002年まで応援活動をしていた東京の応援団
 
* [[三重巨勝会]] - 2003年まで活動をしていた中京地区の応援団
 
* [[ドリーム☆アゲイン]] - 巨人がドラマの制作に協力した。ちなみに制作局は、巨人と同じ読売グループの日本テレビ。
 
* [[ミスター・ベースボール]] - 中日ドラゴンズの相手球団として登場している。
 
* [[ニューヨーク・ヤンキース]] - 伝統、実績、戦力、財力の強さ、規律の厳しさが酷似していることから、巨人は「日本のヤンキース」と呼ばれることが少なくない。
 
* [[サンフランシスコ・ジャイアンツ]] - 現在まで着られているオレンジの縁入りユニフォームの原型チーム。
 
  
 
== 外部リンク ==
 
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Yomiuri Giants}}
 
 
* {{Official|http://www.giants.jp/top.html}}
 
* {{Official|http://www.giants.jp/top.html}}
* {{Facebook|yomiurigiantsofficial}}
 
* {{Twitter|TokyoGiants|読売ジャイアンツ(Giants)}}
 
* {{Facebook|giabbit|ジャビット【公式】}}
 
* {{Instagram|yomiuri.giants}}
 
* [http://www.giants-goods.com/ GIANTS SHOP ONLINE]
 
 
{{読売ジャイアンツ歴代オーナー}}
 
{{各年の読売ジャイアンツ}}
 
{{日本プロ野球}}
 
{{読売新聞グループ本社}}
 
{{東京ドーム}}
 
{{日本テレビ放送網}}
 
{{リダイレクトの所属カテゴリ
 
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2018/8/6/ (月) 06:23時点における最新版

チーム名 読売ジャイアンツ
会社名 株式会社読売巨人軍
加盟団体 セントラル・リーグ
創設年度 1934年(90年前) (1934
チーム名の遍歴

大日本東京野球倶楽部(1934年
東京巨人軍(1935年 - 1946年

読売ジャイアンツ(1947年 - 現在)
本拠地 東京ドーム東京都文京区
収容人員 約46,000人[1](東京ドーム)

読売ジャイアンツ(よみうりジャイアンツ、英:Yomiuri Giants、読売巨人軍)は、日本のプロ野球球団。セントラル・リーグに所属しており、日本に現存する12球団の中で最も歴史が長いプロ野球球団でもある。現在の監督は高橋由伸(第18代)、キャプテンは坂本勇人(第19代)。 親会社読売新聞グループ本社、運営法人の商号は「株式会社読売巨人軍」。東京都保護地域としている。都内文京区にある東京ドームを本拠地とし、専用球場としている。また、二軍・三軍イースタン・リーグ(三軍はホテルルートインBCリーグ交流戦にも参戦)に所属しており、本拠地は神奈川県川崎市多摩区にある読売ジャイアンツ球場である。

脚注



外部リンク