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{{政治家
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[[ファイル:西郷従道.jpg|サムネイル]]
|人名 = 西郷 従道
+
'''西郷 従道'''(さいごう じゅうどう / つぐみち{{refnest|(1) 衆議院・参議院編『議会制度百年史 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年、18頁<ref group="注釈">貴族院の事務局に提出された履歴書並びに貴族院要覧に基づく。</ref>。(2)『日本海軍史 第9巻 将官履歴(上)』財団法人海軍歴史保存会、1995年、27頁<ref group="注釈">終戦まで海軍省が保管整理し、戦後厚生省に移管されていた旧海軍軍人の奉職履歴書正本から、同省の協力を得て所要の事項を転記したもの。</ref>。}}、[[天保]]14年[[5月4日 (旧暦)|5月4日]][[1843年]][[6月1日]]- [[明治]]35年([[1902年]][[7月18日]]
|各国語表記 = さいごう じゅうどう / つぐみち
 
|画像 = Tsugumichi Saigo 2.jpg
 
|画像サイズ = 250px
 
|画像説明 = 西郷従道(『近世名士写真 其1』より)
 
|国略称 = {{JPN}}
 
|生年月日 = [[1843年]][[6月1日]]<br/>([[天保]]14年[[5月4日 (旧暦)|5月4日]])
 
|出生地 = {{JPN}} [[薩摩国]][[鹿児島市|鹿児島城下]][[加治屋町 (鹿児島市)|加治屋町]]
 
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1843|6|1|1902|7|18}}
 
|死没地 = {{JPN}} [[東京府]][[目黒 (目黒区)|目黒]]
 
|称号・勲章 = [[File:元帥徽章.svg|30px]] [[元帥 (日本)|元帥]][[海軍大将]]<br/>[[従一位]]<br/>[[大勲位菊花大綬章]]<br/>[[金鵄勲章|功二級金鵄勲章]]<br/>[[侯爵]]
 
|親族(政治家) = [[西郷吉兵衛]](父)<br/>[[西郷隆盛]](兄)<br/>[[西郷吉次郎]](兄)<br/>[[西郷小兵衛]](弟)<br/>[[市来琴]](姉)<br/>[[西郷鷹]](妹)<br/>[[大山巌]](従兄)<br/>[[西郷従吾]](孫)<br/>[[岩倉具栄]](外孫)<br/>[[岩倉具忠]](外曾孫)<br/>[[楢原陳政]](娘婿)<br/>[[岩倉具張]](娘婿)<br/>[[古河虎之助]](娘婿)
 
|配偶者 = 西郷清子
 
|子女 = 西郷従理(長男)<br/>[[西郷従徳]](次男)<br/>西郷豊彦(三男)<br/>[[上村従義]](四男)<br/> 西郷従親(五男)<br/>西郷豊二(六男)<br/>小松従志(七男)<br/>楢原政子(長女)<br/>平岡栄子(次女)<br/>岩倉桜子(三女)<br/>古河不二子(四女)
 
|国旗 = 日本
 
|職名 = 第18代 [[内務大臣 (日本)|内務大臣]]
 
|内閣 = [[第2次山縣内閣]]
 
|就任日 = [[1898年]][[11月8日]]
 
|退任日 = [[1900年]][[10月19日]]
 
|国旗2 = 日本
 
|職名2 = 第7代-10代 [[海軍大臣]]
 
|内閣2 = [[第2次伊藤内閣]]<br/>[[第2次松方内閣]]<br/>[[第3次伊藤内閣]]<br/>[[第1次大隈内閣]]
 
|就任日2 = [[1893年]][[3月11日]]
 
|退任日2 = 1898年11月8日
 
|国旗3 = 日本
 
|職名3 = 第4代-5代 内務大臣
 
|内閣3 = [[第1次山縣内閣]]<br/>[[第1次松方内閣]]
 
|就任日3 = [[1890年]][[5月17日]]
 
|退任日3 = [[1891年]][[6月1日]]
 
|国旗4 = 日本
 
|職名4 = 初代-第3代 海軍大臣
 
|内閣4 = [[第1次伊藤内閣]]<br/>[[黒田内閣]]<br/>[[第1次山縣内閣]]
 
|就任日4 = [[1885年]][[12月22日]]
 
|退任日4 = 1890年5月17日
 
|国旗5 = 日本
 
|職名5 = 第2代 [[農商務卿]]
 
|就任日5 = [[1881年]][[10月20日]]
 
|退任日5 = 1885年[[12月21日]]
 
|国旗6 = 日本
 
|その他職歴1 = 第4代 [[開拓使|開拓長官]](農商務卿兼務)
 
|就任日6 = [[1882年]][[2月]]
 
|退任日6 = 1882年[[3月]]
 
|国旗7 = 日本
 
|その他職歴2 = 第3代 [[陸軍卿]]
 
|就任日7 = [[1878年]][[12月24日]]
 
|退任日7 = [[1880年]][[2月28日]]
 
|国旗8 = 日本
 
|その他職歴3 = 第3代 [[文部卿]]
 
|就任日8 = 1878年[[5月24日]]
 
|退任日8 = 1878年12月24日
 
}}
 
  
'''西郷 従道'''(さいごう じゅうどう / つぐみち{{refnest|(1) 衆議院・参議院編『議会制度百年史 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年、18頁<ref group="注釈">貴族院の事務局に提出された履歴書並びに貴族院要覧に基づく。</ref>。(2)『日本海軍史 第9巻 将官履歴(上)』財団法人海軍歴史保存会、1995年、27頁<ref group="注釈">終戦まで海軍省が保管整理し、戦後厚生省に移管されていた旧海軍軍人の奉職履歴書正本から、同省の協力を得て所要の事項を転記したもの。</ref>。}}、[[天保]]14年[[5月4日 (旧暦)|5月4日]][[1843年]][[6月1日]]) - [[明治]]35年([[1902年]])[[7月18日]])は、[[日本]]の[[武士]]([[薩摩藩]][[藩士|士]])、[[大日本帝国陸軍|陸軍]]および[[大日本帝国海軍|海軍]][[軍人]]、[[政治家]]。[[軍隊における階級呼称一覧|階級]]は[[元帥 (日本)|元帥]][[海軍大将]]。[[日本の栄典|栄典]]は[[従一位]][[大勲位菊花大綬章|大勲位]][[金鵄勲章|功二級]][[侯爵]]。名前の読みとして「'''つぐみち'''」が広く流布しているが、西郷家によると「'''じゅうどう'''」が正訓である<ref name=sasaki/><ref>『平成新修 旧華族家系大成 上巻』(1996)p.624</ref>。兄の[[西郷隆盛]]を「大西郷」と称するのに対し、従道を「'''小西郷'''」と呼ぶ<ref name=sasaki>佐々木隆(2002)p.96</ref>。
+
軍人,政治家。[[西郷隆盛]]の実弟。[[薩英戦争]][[戊辰戦争]]に従軍,明治初年[[山県有朋]]とともにヨーロッパ諸国を歴訪,兵制を研究したのち帰国。明治3 (1870) 年兵部権大丞に就任,同5年[[兵部省]]を廃し陸海軍2省が設置されるや陸軍省輔となった。 1874年,台湾事件が起り,台湾蕃地事務都督 (台湾征討軍司令官) に任じられ,慎重な政府を引きずって台湾征討を断行した ([[征台の役]] ) 。その後近衛都督,駐伊特命全権公使,参議兼文部卿,陸軍卿,参謀本部長,農商務卿などを歴任したのち,海軍に転じ,海軍卿,第1次伊藤博文内閣の海相をつとめた。 90年内相となり,92年枢密顧問官となったが,93年第2次伊藤内閣の海相に就任,日清戦争を指導した。
  
[[文部卿]](第3代)、[[陸軍卿]](第3代)、[[農商務卿]](第2代)、[[元老]]、[[海軍大臣]]([[第1次伊藤内閣|初]]・[[黒田内閣|2]]・[[第1次山縣内閣|3]]・[[第2次伊藤内閣|7]]・[[第2次松方内閣|8]]・[[第3次伊藤内閣|9]]・[[第1次大隈内閣|10]]代)、[[内務大臣 (日本)|内務大臣]](第[[第1次山縣内閣|4]]・[[第1次松方内閣|5]]・[[第2次山縣内閣|18]]代)、[[貴族院 (日本)|貴族院議員]]を歴任した。
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94年最初の海軍大将に昇進,98年小松宮彰仁親王,山県有朋,大山巌とともに元帥となった。
  
== 経歴 ==
+
{{テンプレート:20180815sk}}
=== 青年期 ===
 
[[薩摩国]][[鹿児島市|鹿児島]][[城下町|城下]][[加治屋町 (鹿児島市)|加治屋町]]山之口馬場(下加治屋町方限)に、[[西郷吉兵衛]]の三男として生まれる([[幼名]]竜助)。[[剣術]]は[[薬丸兼義]]に[[薬丸自顕流]]を、[[兵学]]は[[伊地知正治]]に[[合伝流]]を学んだ。[[海江田信義|有村俊斎]]の推薦で[[薩摩藩]]主・[[島津斉彬]]に出仕し、[[茶坊主]]となって竜庵と[[号 (称号)|号]]する。
 
 
 
[[文久]]元年([[1861年]])[[9月30日 (旧暦)|9月30日]]に[[還俗]]し、[[諱|本名]]を隆興、[[仮名 (通称)|通称]]を信吾(慎吾)と改名。斉彬を信奉する[[精忠組]]に加入し、[[尊王攘夷]]運動に身を投じる。
 
 
 
文久2年([[1862年]])、[[勤王]][[倒幕]]のため[[京都|京]]に集結した精忠組内の[[有馬新七]]らの一党に参加するも、[[寺田屋事件]]で藩から弾圧を受け、従道は年少のため帰藩[[謹慎]]処分となる。文久3年([[1863年]])、[[薩英戦争]]が起こると謹慎も解け、[[西瓜]]売りを装った決死隊に志願。[[戊辰戦争]]では、[[鳥羽・伏見の戦い]]で貫通[[銃創]]の重傷を負うも、各地を転戦した。
 
 
 
=== 維新後 ===
 
[[ファイル:Reception Hall of Tsugumichi Saigos residence.jpg|290px|thumb|旧西郷従道住宅(国の[[重要文化財]]。東京都[[目黒区]]上目黒にあったものを[[博物館明治村|明治村]]へ移設)]]
 
[[明治維新]]後、[[太政官]]に名前を登録する際、「隆道」をリュウドウと口頭で登録しようとしたところ、訛っていたため役人に「ジュウドウ」と聞き取られ、「従道」と記録されてしまった。しかし本人も特に気にせず、結局「従道」のままで通した{{refnest|西郷従宏(1997)<ref group="注釈">本書は参考文献として他箇所にも随時使用している。</ref>}}。兄の隆盛も本名は「隆永」で、「隆盛」とは彼らの[[父親]]である[[西郷吉兵衛]]の[[諱]]であるが、兄の同志であった[[吉井友実]]が勘違いして父の名前を登録してしまったものである。隆盛、従道というのは[[諱]]であり、日常使用するのは[[仮名 (通称)|通称]](隆盛は吉之助、従道は信吾)であった。
 
 
 
明治2年([[1869年]])、[[山縣有朋]]と共に渡欧し軍制を調査。明治3年([[1870年]])7月晦日、[[横浜市|横浜]]に帰着。同年8月22日に[[兵部省|兵部]]権大丞に任じられ、[[正六位]]に叙せられる。明治4年([[1871年]])7月、[[陸軍少将]]となる。
 
 
 
明治6年([[1873年]])には兄の隆盛が[[征韓論]]をめぐり下野する([[明治六年政変]])。薩摩藩出身者の多くが従うが、従道は政府に留まった。明治7年([[1874年]])に[[陸軍中将]]となり、同年の[[台湾出兵]]では蕃地事務都督として軍勢を指揮する。隆盛が明治10年([[1877年]])に[[西南戦争]]を起こした際、従道は隆盛に加担せず、[[陸軍卿]]の[[山縣有朋]]が政府軍を率いて九州へ出征したため、陸軍卿代理に就任し政府の留守を守った。以後は政府内で[[藩閥|薩摩閥]]の重鎮として君臨した。西南戦争が終わった直後には[[近衛 (日本軍)|近衛都督]]になり、[[大久保利通]]暗殺([[紀尾井坂の変]])直後の明治11年([[1878年]])には[[参議]]となり、同年末には[[陸軍卿]]になった。[[明治十四年の政変]]では、[[伊藤博文]]とともに[[大隈重信]]邸を訪ね、大隈に辞表提出を促した。明治15年([[1882年]])1月11日、[[黒田清隆]]が[[開拓使]]長官を辞すると、参議・[[農商務卿]]兼務のまま開拓使長官に任じられる。同年2月8日に開拓使が廃止されるまで、短期間ながら開拓使長官を務めた。明治17年([[1884年]])の[[華族令]]制定に伴い、維新時の偉功によって[[伯爵]]を授けられる。[[甲申政変]]後の[[天津条約 (1885年4月)]]を結ぶ際には、[[伊藤博文]]らとともに、清国へ渡った。
 
 
 
内閣制度発足で初代[[海軍大臣]]に任命されると、[[山本権兵衛]]を[[海軍省]]官房主事に抜擢して大いに腕を振るわせ、[[日本海軍]]を[[日清戦争|日清]]・[[日露戦争|日露]]の戦勝に導いた。西郷は従兄の[[大山巌]]と同じく、細かい事務は部下に任せて殆ど口を出さず、失敗の責任は自らが取るという考えを持っており度量が大きかった。[[軍政]]能力に長けた山本が、その手腕をいかんなく発揮できたのは、西郷自身の懐の大きい性格のお陰だとも言われている。[[井上馨]]から海軍拡張案のことで尋ねられた際、「実はわしもわからん。部下の山本ちゅうのがわかっとるから、そいつを呼んで説明させよう」と言い、井上は山本の説明を受け納得したというエピソードがある。
 
 
 
西郷隆盛や大山巌と同じく鷹揚で懐の深い人物であったとされるが、[[内務大臣 (日本)|内務大臣]]在職中に起こった[[大津事件]]に際しては犯人の[[津田三蔵]]の[[死刑]]を強硬に主張し、[[大審院]]長の[[児島惟謙]]を恫喝するなど大変な圧力をかけた。これは津田を死刑にしなかった場合必ず[[ロシア帝国]]による日本本土攻撃を招き、その結果日本の敗北・滅亡となる事を危惧した西郷の強い憂国ゆえの勇み足であったといわれている。
 
 
 
明治25年([[1892年]])には[[元老]]として[[枢密院 (日本)|枢密顧問官]]に任じられる。同年、[[品川弥二郎]]とともに[[国民協会 (日本 1892-1899)|国民協会]]を設立。明治27年([[1894年]])に[[海軍大将]]となり、明治28年([[1895年]])には[[侯爵]]に陞爵。明治31年([[1898年]])に海軍軍人として初めて[[元帥 (日本)|元帥]]の称号を受ける。[[内閣総理大臣]]候補に再三推されたが、兄・隆盛が逆賊の汚名を受けたことを理由に断り続けた([[大山巌]]も同様)。明治35年(1902年)、[[胃癌]]のため目黒の自邸で死去<ref>[[服部敏良]]『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)132頁</ref>。
 
 
 
== 栄典 ==
 
;位階
 
* 明治4年
 
** [[7月28日 (旧暦)|7月28日]] - [[従五位]]<ref name="dsfgdsd">{{アジア歴史資料センター|A06051166000|西郷従道}}</ref>
 
** [[12月12日 (旧暦)|12月12日]] - [[正五位]]<ref name="dsfgdsd"/>
 
* [[1873年]](明治6年)[[11月15日]] - [[従四位]]<ref name="dsfgdsd"/>
 
* [[1879年]](明治12年)[[12月25日]] - [[正四位]]<ref name="dsfgdsd"/>
 
* [[1884年]](明治17年)[[12月27日]] - [[従三位]]<ref name="dsfgdsd"/>
 
* [[1886年]](明治19年)[[10月19日]] - [[従二位]]<ref name="dsfgdsd"/><ref>『官報』第993号「叙任及辞令」1886年10月20日。</ref>
 
* [[1895年]](明治28年)[[12月20日]] - [[正二位]]<ref>『官報』第3746号「叙任及辞令」1895年12月21日。</ref>
 
* [[1902年]](明治35年)[[7月18日]] - [[従一位]]<ref>『官報』第5712号「叙任及辞令」1902年7月19日。</ref>
 
 
 
;勲章等
 
* [[1874年]](明治7年)[[4月6日]] - 馬具一脊・短銃一組<ref name="dsfgdsd"/>
 
* [[1876年]](明治9年)[[2月22日]] - [[勲一等]]・[[賞杯|一等賞杯]]・[[賞杯|従台湾役軍牌]]<ref name="dsfgdsd"/>
 
* [[1884年]](明治17年)[[7月7日]] - [[伯爵]]<ref name="dsfgdsd"/><ref>『官報』第307号「叙任及辞令」1884年7月8日。</ref>
 
* [[1889年]](明治22年)[[11月25日]] - [[記念章|大日本帝国憲法発布記念章]]<ref name="dsfgdsd"/><ref>『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。</ref>
 
* [[1895年]](明治28年)[[8月5日]] - [[ファイル:JPN Kinshi-kunsho 2Class BAR.svg|40px]][[金鵄勲章|功二級金鵄勲章]]・[[勲一等旭日桐花大綬章|旭日桐花大綬章]]・[[侯爵]]<ref>『官報』第3631号「授爵・叙任及辞令」1895年8月6日。</ref>
 
* [[1902年]](明治35年)
 
**[[6月3日]] - [[ファイル:JPN Daikun'i kikkasho BAR.svg|40px]]  [[大勲位菊花大綬章]]<ref>『官報』第5673号「授爵・叙任及辞令」1902年6月4日。</ref>
 
 
 
;外国勲章佩用允許
 
{| class="wikitable"
 
|-
 
!受章年
 
!国籍
 
!略綬
 
!勲章名
 
!備考
 
|-
 
|[[1880年]](明治13年)[[6月15日]]<ref name="dsfgdsd"/>
 
|{{FRA1870}}
 
|[[File:Legion Honneur GO ribbon.svg|70px]]
 
|[[レジオンドヌール勲章]]グランドフィシェ
 
|
 
|-
 
|[[1882年]](明治15年)[[2月2日]]<ref name="dsfgdsd"/>
 
|{{RUS1883}}
 
|[[File:Order of Saint Anne Ribbon.png|70px]]
 
|1等{{仮リンク|聖アンナ勲章|en|Order of St. Anna}}
 
|
 
|-
 
|[[1887年]](明治20年)[[7月5日]]
 
|{{RUS1883}}
 
|[[File:POL Order Orła Białego BAR.svg|70px]]
 
|{{仮リンク|白鷲勲章 (ポーランド)|en|Order of the White Eagle (Poland)|label=白鷲勲章}}<ref>『官報』第1205号「叙任及辞令」1887年7月6日。</ref>
 
|
 
|-
 
|1887年(明治20年)[[7月11日]]
 
|{{DEU1871}}
 
|[[File:Ord.Aquilarossa-GC.png|70px]]
 
|{{仮リンク|赤鷲勲章|en|Order of the Red Eagle|label=赤鷲第一等勲章}}<ref>[{{NDLDC|2944445}} 『官報』第1211号「叙任及辞令」1887年7月13日。]</ref>
 
|
 
|-
 
|1887年(明治20年)[[8月30日]]
 
|{{ITA1861}}
 
|[[File:Cavaliere di Gran Croce OCI Kingdom BAR.svg|70px]]
 
|{{仮リンク|イタリア王冠勲章|en|Order of the Crown of Italy}}グラン・クローチェ<ref name="hy">『官報』第1265号「叙任及辞令」1887年9月14日。</ref>
 
|
 
|-
 
|1887年(明治20年)8月30日
 
|{{BEL}}
 
|[[File:Grand Crest Ordre de Leopold.png|70px]]
 
|{{仮リンク|レオポルド勲章 (ベルギー)|en|Order of Leopold (Belgium)|label=レオポルド勲章}}グランドコルドン<ref>『官報』第1211号「叙任及辞令」1887年7月13日。</ref>
 
|
 
|-
 
|1887年(明治20年)[[10月30日]]
 
|{{PRT1830}}
 
|[[File:PRT Order of Christ - Grand Cross BAR.png|70px]]
 
|[[キリスト勲章]]大十字章<ref>『官報』第1282号「叙任及辞令」1887年10月5日。</ref>
 
|
 
|}
 
 
 
== エピソード ==
 
* ある会議で、某閣僚がわかりきったことを延々と述べて議論が行き詰まった際のこと。その閣僚が座ろうとした時に、隣席の西郷が椅子を引いたために尻餅をつき皆が大笑いしてしまい、これ以上議論をする空気ではなくなってしまったので、椅子を引かれた当人も苦笑いの内に引き下がり、会議は無事まとまったという。
 
 
 
* 相手の話をよく聞いて「成程、成程」と相槌を打ったことから「成程大臣」と渾名された。
 
 
 
* 面影が兄・隆盛に似ているとされ、[[エドアルド・キヨッソーネ]]が隆盛の肖像画を作成する際、彼の顔写真が参考にされた。(首から上は従道を、体の部分は大山巌を参考にしたといわれている)
 
 
 
* [[静岡県]][[駿東郡]][[楊原村]](現[[沼津市]])に[[別荘]]を所有していた(ちなみに、別荘の沖合に存する島を通称 '''西郷島''' という)。
 
 
 
* 横浜に設けられた[[日本レース・倶楽部]]で日本人としてはじめて参加が認められた日本人最初の[[馬主]]で、明治8年([[1875年]])には愛馬ミカンに騎乗して日本人馬主による初勝利をあげた。そのときの風刺漫画が残っている。
 
 
 
* 西郷農場のあった[[栃木県]][[大田原市]]加治屋に、明治36年([[1903年]])建立の[[西郷神社 (大田原市)|西郷神社]]に祭られている。
 
 
 
* 陸軍と海軍の両方で将官や閣僚を経験した人物は、西郷従道のみである。(陸軍中将と海軍大将、陸軍卿と海軍大臣)
 
 
 
*従兄の[[大山巌]]と、会津出身の[[山川捨松]]の結婚が実現できるよう、従道が山川家の説得に尽力した。
 
 
 
== 家族・子孫 ==
 
* 両親
 
** 父:[[西郷吉兵衛]]
 
** 母:政子。
 
* 兄弟・姉妹:[[西郷隆盛]] / [[西郷吉二郎]] / [[西郷小兵衛]] / [[市来琴|琴]] / [[西郷鷹|鷹]] / 安
 
* 従兄弟:[[大山巌]]等。
 
* 妻:清子([[得能良介]]の長女)
 
* 子女
 
** 長男:西郷従理(1874年10月9日 - 1884年12月10日)
 
**: 駐日ロシア公使シャール・ド・スツルヴェに従って7歳で渡露、皇后[[マリア・フョードロヴナ (アレクサンドル3世皇后)|マリア・フョードロヴナ]]や、皇弟{{仮リンク|アレクセイ・アレクサンドロヴィチ|label=アレキシス親王|ru|Алексей Александрович|en|Grand Duke Alexei Alexandrovich of Russia}}([[アレクサンドル3世]]の弟)に可愛がられ、皇弟と皇后を[[代父母]]として[[正教会]]の[[洗礼]]まで受けた([[聖名]]:アレキセイ)<ref name="nikonaka444">ニコライ・カサートキン (著), 中村 健之介 (編集, 翻訳) 『ニコライの日記(上)―ロシア人宣教師が生きた明治日本』444頁・445頁、編訳者中村による注 岩波文庫 ISBN 9784003349311 </ref>。その後、スツルヴェが駐米公使に転任したのに伴い、[[ワシントンD.C.|ワシントン]]に移ったが、[[腸チフス]]に感染し、明治17年(1884年)12月10日、ワシントンで死去した(10歳2ヶ月)。死去の前日、従叔父の大山巌が欧米視察の途中に見舞いに来ており、従理死去の急報を受けて再度駆けつけた大山は枕頭で号泣したとされる。従理の遺体は、大山の手配によって日本へ送られ、[[埋葬式]]は神田駿河台の正教会で[[ニコライ (日本大主教)|ニコライ主教]]によって執り行われた(当時まだ同地に[[ニコライ堂]]は建設されていない)。[[植村正久]]は西郷家が従理を正教会式に葬送したことについて、葬儀における信教自由が認められていない世相の中で、社会に与えた影響が小さく無かったと言及している<ref name="nikonaka444" />。視察を終えて帰国した大山は真っ先に西郷家へ駆けつけ、弔辞を述べるとともに、従理の最期の模様を従道と清子へ語った。その際、従道と清子は「あいがと、あいがと」と大山の配慮に感謝しながら泣き続けたという。
 
** 次男:[[西郷従徳]]([[陸軍大佐]]、貴族院議員)
 
*** 孫:[[西郷従吾]](陸軍大佐)
 
**** 曾孫の西郷從節は、[[富士通]]、[[富士通総研]]、[[ファミリーマート]]取締役等を経て、株式会社イープラット(現存しない)代表取締役を務めた。
 
** 三男:[http://omugio.exblog.jp/17479690/ 西郷豊彦]([[陸軍少将]]、[[貴族院 (日本)|貴族院]]議員)
 
*** 孫:[https://ci.nii.ac.jp/author?q=%E8%A5%BF%E9%83%B7+%E5%85%89%E5%BD%A6 西郷光彦](東京農業大学理事長 農学博士)
 
**** 曾孫の[http://www.hi-ho.ne.jp/~saigou/ 西郷和寿](大学非常勤講師 [http://www.hi-ho.ne.jp/~saigou/sugaku.htm 数学系])
 
***** 玄孫:西郷力丸は現在、神奈川県鎌倉市の[[鎌倉学園]]で英語教諭をしている。
 
*** 孫:西郷正彦(東京銀行)
 
**** 曾孫:[[西郷正道]](元[[農林水産省]][[技術総括審議官]]、[[ネパール]]大使<ref>[https://www.jiji.com/jc/article?k=2018041700260&g=pol ネパール大使に西郷氏]2018年4月17日時事通信、2018年5月13日閲覧</ref>)
 
***** 玄孫:西郷真悠子<ref>[http://news.livedoor.com/article/detail/14116865/ スポニチアネックス(2018年1月5日)]</ref><ref>{{twitter|315don315don}}</ref>は女優として、[[NHK大河ドラマ]]で西郷櫻子役を演じた。
 
** 四男:[[上村従義]]([[海軍大佐]]、[[上村彦之丞]][[海軍大将]]養嗣子)
 
** 五男:西郷従親(海軍機関大佐)
 
** 六男:西郷豊二
 
** 七男:小松従志(伯爵[[小松重春]]の養子)
 
** 娘:政子(外交官[[楢原陳政]]の妻)
 
** 娘:栄子(平岡良助の妻)
 
** 娘:桜子(公爵[[岩倉具張]]の妻)
 
**  外孫:[[岩倉具栄]](英文学者、[[法政大学]][[教授]])
 
*** 外曾孫:[[岩倉具忠]](イタリア文学者、[[京都大学]][[名誉教授]])
 
** 娘:不二子(男爵・実業家[[古河虎之助]]の妻)
 
 
 
== 系譜 ==
 
* '''[[西郷氏]]'''
 
<pre>
 
従道━┳従理
 
   ┣政子
 
   ┣従徳━━━┳従吾━━━従節━┳従洋
 
   ┣豊彦   ┣古河従純    ┗従英
 
   ┣上村従義 ┣従竜
 
   ┣従親   ┣従宏
 
   ┣豊二   ┣古河従靖
 
   ┣小松従志 ┗黒木従達
 
   ┣栄子
 
   ┣桜子
 
   ┗不二子
 
</pre>'''[[萬朝報]]''' 明治31年09月01日(日刊新聞記事から
 
 
 
侯爵西郷従道は永田町岡田吉右衛門の娘ナカを妾とし、
 
 
 
政子・従親・豊二・栄子・不二子の5人を挙ぐ。
 
 
 
ナカは新橋の桃太郎とて有名の芸妓なりき。
 
 
 
== 西郷従道が登場する作品 ==
 
;映画
 
* 『[[天皇・皇后と日清戦争]]』([[1958年]] 演:[[江川宇禮雄]])
 
 
 
;テレビドラマ
 
* 『[[海は甦える]]』([[1977年]] [[TBSテレビ|TBS]]3時間ドラマ 演:[[若山富三郎]])
 
* 『[[田原坂 (テレビドラマ)|田原坂]]』([[1987年]] [[日本テレビ放送網|日本テレビ]][[年末時代劇スペシャル]] 演:[[西郷輝彦]])
 
* 『[[翔ぶが如く (NHK大河ドラマ)|翔ぶが如く]]』([[1990年]] [[日本放送協会|NHK]][[大河ドラマ]] 演:[[緒形直人]])
 
* 『[[篤姫 (NHK大河ドラマ)|篤姫]]』([[2008年]] NHK大河ドラマ 演:[[水谷百輔]])
 
* 『[[花燃ゆ]]』([[2015年]] NHK大河ドラマ 演:[[飯田基祐]])
 
* 『[[西郷どん (NHK大河ドラマ)|西郷どん]]』([[2018年]] NHK大河ドラマ 演:[[錦戸亮]])
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
=== 注釈 ===
 
{{Notelist}}
 
=== 出典 ===
 
{{Reflist|2}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
*『平成新修 旧華族家系大成 上巻』社団法人[[霞会館]]、1996年。
 
* 西郷従宏『元帥・西郷従道伝』芙蓉書房出版、1997年。ISBN 4-8295-0183-9
 
* [[佐々木隆 (歴史学者)|佐々木隆]]『日本の歴史21 明治人の力量』講談社、2002年8月。ISBN 4-06-268921-9
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[西郷山公園]]
 
* [[明治の人物一覧]]
 
* [[鹿児島県出身の人物一覧]]
 
* [[大日本帝国海軍軍人一覧]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
{{commons category|Saigo Judo}}
 
* [http://www.ndl.go.jp/jp/data/kensei_shiryo/kensei/saigoutsugumichi.html 国立国会図書館 憲政資料室 西郷従道関係文書(MF:個人蔵)]
 
* [http://www2.harimaya.com/sengoku/html/saigo.html 西郷氏系譜]
 
* [http://www2.harimaya.com/sengoku/html/hi_saigo.html 肥前西郷氏系譜]
 
* [http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/S/saigou_jt.html 西郷従道の墓(歴史が眠る多磨霊園)]
 
* [http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/S/saigou_jr.html 西郷従理(歴史が眠る多磨霊園)]
 
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{{Succession box
 
| title  = {{flagicon|JPN}} [[内務大臣 (日本)|内務大臣]]
 
| years  = 第4・5代:1890年 - 1891年<br />第18代:1898年 - 1900年
 
| before = [[山縣有朋]]<br />[[板垣退助]]
 
| after  = [[品川弥二郎]]<br />[[末松謙澄]]
 
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| title  = {{flagicon|JPN}} [[海軍大臣]]
 
| years  = 初 - 第3代:1885年 - 1890年<br />第7 - 10代:1893年 - 1898年
 
| before = 創設<br />[[仁礼景範]]
 
| after  = [[樺山資紀]]<br />[[山本権兵衛]]
 
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2018/12/29/ (土) 11:45時点における最新版

西郷従道.jpg

西郷 従道(さいごう じゅうどう / つぐみち[1]天保14年5月4日1843年6月1日) - 明治35年(1902年7月18日

軍人,政治家。西郷隆盛の実弟。薩英戦争戊辰戦争に従軍,明治初年山県有朋とともにヨーロッパ諸国を歴訪,兵制を研究したのち帰国。明治3 (1870) 年兵部権大丞に就任,同5年兵部省を廃し陸海軍2省が設置されるや陸軍省輔となった。 1874年,台湾事件が起り,台湾蕃地事務都督 (台湾征討軍司令官) に任じられ,慎重な政府を引きずって台湾征討を断行した (征台の役 ) 。その後近衛都督,駐伊特命全権公使,参議兼文部卿,陸軍卿,参謀本部長,農商務卿などを歴任したのち,海軍に転じ,海軍卿,第1次伊藤博文内閣の海相をつとめた。 90年内相となり,92年枢密顧問官となったが,93年第2次伊藤内閣の海相に就任,日清戦争を指導した。

94年最初の海軍大将に昇進,98年小松宮彰仁親王,山県有朋,大山巌とともに元帥となった。



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  1. (1) 衆議院・参議院編『議会制度百年史 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年、18頁[注釈 1]。(2)『日本海軍史 第9巻 将官履歴(上)』財団法人海軍歴史保存会、1995年、27頁[注釈 2]