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(ページの作成:「West Germany  第二次世界大戦後、ドイツは東西二つの分裂国家となったが、そのうちの西側のドイツ連邦共和国の略称。1990…」)
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{{基礎情報 過去の国
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West Germany 
|略名 = 西ドイツ
 
|日本語国名 = ドイツ連邦共和国
 
|公式国名 = '''{{lang|de|Bundesrepublik Deutschland}}'''
 
|建国時期 = [[1949年]]
 
|亡国時期 = [[1990年]]
 
|先代1 = 連合軍軍政期 (ドイツ)
 
|先旗1 = Flag of Germany (1946-1949).svg
 
|先旗1縁 = no
 
|次代1 = ドイツ
 
|次旗1 = Flag of Germany.svg
 
|国旗画像 = Flag of Germany.svg
 
|国旗リンク = [[ドイツの国旗|国旗]]
 
|国旗幅 =
 
|国旗縁 =
 
|国章画像 = Coat of Arms of Germany.svg
 
|国章リンク = [[ドイツの国章|国章]]
 
|国章幅 =
 
|標語 = <!--{{lang|de|''Einigkeit und Recht und Freiheit''}}<br/>([[ドイツ語]]: 統一と正義と自由)--><!--明確な出典が必要です。俗説を紹介する必要なし。-->
 
|標語追記 =
 
|国歌 = [[ドイツの歌|{{lang|de|Das Lied der Deutschen}}]]{{de icon}}<br/>''ドイツ人の歌''<br/>{{center|[[ファイル:National anthem of Germany - U.S. Army 1st Armored Division Band.ogg]]}}
 
|国歌追記 =
 
|位置画像 = West Germany 1956-1990.svg
 
|位置画像説明 =
 
|位置画像幅 =
 
|公用語 = [[ドイツ語]]
 
|首都 = [[ボン]]
 
|元首等肩書 = [[連邦大統領 (ドイツ)|連邦大統領]]
 
|元首等年代始1 = [[1949年]]
 
|元首等年代終1 = [[1959年]]
 
|元首等氏名1 = [[テオドール・ホイス]](初代)
 
|元首等年代始2 = [[1984年]]
 
|元首等年代終2 = [[1990年]]
 
|元首等氏名2 = [[リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー]](再統一時)
 
|首相等肩書 = [[ドイツの首相|連邦首相]]
 
|首相等年代始1 = [[1949年]]
 
|首相等年代終1 = [[1963年]]
 
|首相等氏名1 = [[コンラート・アデナウアー]](初代)
 
|首相等年代始2 = [[1982年]]
 
|首相等年代終2 = [[1990年]]
 
|首相等氏名2 = [[ヘルムート・コール]](再統一時)
 
|面積測定時期1 = 1990年
 
|面積値1 = 248,717
 
|人口測定時期1 = 1990年
 
|人口値1 = 63,254,000
 
|変遷1 = 成立
 
|変遷年月日1 = [[1949年]][[5月23日]]
 
|変遷2 = [[ドイツ再統一]]
 
|変遷年月日2 = [[1990年]][[10月3日]]
 
|通貨 = [[ドイツマルク]]
 
|通貨追記 =
 
|時間帯 =
 
|夏時間 =
 
|時間帯追記 =
 
|ccTLD =
 
|ccTLD追記 =
 
|国際電話番号 =
 
|国際電話番号追記 =
 
|注記 =
 
}}
 
'''西ドイツ'''(にしドイツ、{{lang-de-short|Westdeutschland}}、{{lang-en-short|West Germany}})は、[[1949年]][[5月23日]]から[[1990年]][[10月2日]]までの'''[[ドイツ|ドイツ連邦共和国]]'''の通称である。略称、'''西独'''。
 
 
 
[[冷戦]]時代は[[ドイツ民主共和国]](東ドイツ)と対峙する[[分断国家]]だったが、1990年[[10月3日]]、ドイツ民主共和国を併合する[[ドイツ再統一|東西ドイツ再統一]]により、この通称は使われなくなった。東西ドイツ再統一まで[[首都]]は[[ボン]]に置かれたが、再統一後は[[ベルリン]]に移った。[[ドイツ人]]は、かつての西ドイツを「ボン共和国」(die Bonner Republik)と呼ぶこともある<ref>http://www.bpb.de/themen/XGTYH6,6,0,Probleme_der_inneren_Einigung.html</ref>。ドイツ再統一は法的には「旧東ドイツの各州がドイツ連邦共和国に加入」という形式で行なわれたため、厳密にいうと現在のドイツは再統一により再編成された新しい国家ではなく[[領域 (国家)|領域]]を旧東ドイツにも拡大した西ドイツである。
 
 
 
== 占領地から独立へ ==
 
{{main|連合軍軍政期 (ドイツ)}}
 
[[Image:Deutschland Besatzungszonen 8 Jun 1947 - 22 Apr 1949.svg|thumb|left|[[1945年]]以降、ドイツの分割占領]]
 
[[1945年]][[5月8日]]に[[第二次世界大戦]]に敗北した[[国家社会主義ドイツ労働者党]]政権下の[[ドイツ国]]([[ナチス・ドイツ]])は[[ベルリン宣言 (1945年)|ベルリン宣言]]の発表によって完全に滅亡し、7月の[[ポツダム会談]]における決定で[[アメリカ合衆国|米]][[ソビエト連邦|ソ]][[イギリス|英]][[フランス|仏]]の4カ国による分割統治と非武装化・[[非ナチ化]]政策を受けることになった。しかし、[[イデオロギー]]対立による[[冷戦]]の開始と共に、英米仏とソ連は対立を深め、[[イギリス軍]]占領地区と[[アメリカ軍]]占領地区は占領円滑化のため合同して[[バイゾーン]](Bizone、後に[[フランス軍|仏軍]]占領地区とも連合しトライゾーン Trizone となる)を形成、[[ソ連占領地域|ソ連軍占領地区]]との亀裂が深まった。
 
 
 
東西の亀裂が決定的となったのは、[[1948年]][[6月21日]]、英米仏各占領地区で独自に発行されていた[[通貨]]([[ライヒスマルク]]や[[レンテンマルク]])を統合してトライゾーンでの統一通貨([[ドイツマルク]])を発行し、戦後の[[ハイパーインフレーション]]を収拾する通貨改革を発表したときだった。これはソ連側が[[6月24日]]に発行を計画していた新通貨・[[東ドイツマルク]]に対抗する措置でもあった。排除されたソ連側は3日後、予定通り東ドイツマルクを発行し、これが東西分裂の象徴になった。ソ連はドイツマルクを使用する[[西ベルリン]]を経済封鎖し、[[西側諸国|西側]]は大空輸作戦で[[1949年]][[5月12日]]までの11か月間西ベルリンを支えた([[ベルリン封鎖]])。
 
 
 
[[1949年]][[5月23日]]、英米仏の西側統治諸州にボンを首府とする'''連邦共和国臨時政府'''が発足([[テオドール・ホイス|ホイス]]大統領、[[コンラート・アデナウアー]]首相)、[[10月7日]]にソ連統治諸州にドイツ民主共和国([[ヴィルヘルム・ピーク|ピーク]]大統領)が成立して、東西に二つの[[共和国]]が並び立つ事態となった。四カ国共同占領地だったベルリンも分断され、後には[[1961年]]に[[ベルリンの壁]]建設が行われた。
 
 
 
西ドイツは[[1955年]][[5月5日]]に[[主権]]の完全な回復を宣言し、[[ドイツ連邦軍]]を編成して[[再軍備]]を行い、[[北大西洋条約機構]](NATO)に加盟した。ただし大規模なソ連軍が駐留し続ける東ドイツを喉元に突きつけられたかたちの西ドイツは冷戦の最前線となったことから、西ドイツにも米英仏の軍がドイツ再統一の直後まで駐留し続けた。
 
 
 
[[1957年]][[1月1日]]には住民投票でドイツ復帰を選んだ[[ザール (フランス保護領)|フランス保護領ザール]]を[[ザールラント州]]として併合した。
 
 
 
== 経済改革 ==
 
{{ドイツの歴史}}{{see also|ドイツ銀行#分割と再統合|en:Schufa}}
 
[[Image:Koeln 1945.jpg|thumb|200px|left|[[空襲]]で破壊されたケルン市街(1945年)]]
 
[[Image:Fusca estacionado.jpg|thumb|200px|left|世界各国へ輸出された[[フォルクスワーゲン・タイプ1]](ビートル)は西ドイツの経済の奇跡の象徴となった]]
 
西ドイツは[[欧州経済共同体]](EEC)や[[欧州石炭鉄鋼共同体]](ECSC)などへの加盟を通じ、かつて対立した近隣諸国との経済協力や政治協調を進め、欧州の一員かつ中核メンバーとして受け入れられるようになった。それは欧州復興の中心地であったからである。100億ドル単位の[[マーシャル・プラン]]<ref>[[1953年]]から[[1971年]]まで、西ドイツは毎年マーシャル・プランの貸付資金の返済を行わねばならなかった。この債務は[[第二次世界大戦後におけるドイツの戦後補償|戦争の補償]]に上積みされた。</ref>や[[ガリオア資金]]といった援助が[[朝鮮戦争]]特需によって実を結び、[[経済の奇跡]]<ref>Wirtschaftswunder、1950年にイギリスの[[タイムズ]]紙がドイツ復興をこう表現した。</ref>と呼ばれた。西ドイツは[[ヨーロッパ]]のみならず世界有数の[[経済大国]]となった。
 
 
 
戦後の西ドイツの再出発には多数の障害があった。大戦による破壊もさることながら、[[モーゲンソー・プラン]]に基づきドイツを脱工業化するため、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍は1950年まで石炭産業・鉄鋼業を[[財閥解体]]した。国内外にドイツ企業が持っていた高価値の[[特許]]は敵性資産として連合国が没収した<ref>国外に保有する資産に関しては日本も同様の境遇にあった。</ref>。それだけでなく、ドイツ人の研究者がソ連やアメリカに連行された。
 
 
 
なかんずく1948年の'''通貨改革'''は試練であった<ref>ここから西ドイツ成立後の[[市場経済|市場経済主義]]経済政策に至るまで、[[ルートヴィヒ・エアハルト]]が経済大臣・首相を歴任した。</ref>。6月にライヒスマルクが1/10の[[デノミネーション]]をともないドイツマルクへ置き換えられた。また、[[連邦準備制度]]にならったマルチ・リザーブ・システムが同年3月設立の{{仮リンク|レンダー・バンク|en|Bank deutscher Länder|de|Bank deutscher Länder}}を頂点に整備された。そして、現金以外の金融資産の切り替えが行われた。一般の債権債務は通貨と同率の1割となった。公債はすべて破棄された。預貯金は1割にされてから、[[預金封鎖|引き出しがその半額に制限]]された。封鎖分は10月に2割が引き出せるようになり、1割が中長期投資勘定に振り返られた。残り7割は切り捨てられた。したがって、預貯金は1割ではなく6.5%しか保護されなかった。一方、賃金・物価は据え置かれた。このアンフェアな措置は、企業の現実資産に有利であった。インフレ対策としては功を奏し、企業がインフレ期待のもと保有していた金融資産が市場に出回るようになった。格差を是正する措置として1952年に負担調整法が制定された。しかし、これによる現実資産への課税は微々たるものであった。税収は様々な戦争被害に対する補償に使われた。<ref name=post>東京大学社会科学研究所 『国際環境』 東京大学出版会 1974年 pp.128-129.</ref>
 
 
 
復興の積極要因は幾つかあるが、端緒は占領軍による緊縮政策の根負けである。1948年6月23日の法律は[[所得税]]・[[法人税]]率等を平均して2/3に縮小した。翌日の立法では[[消費税]]の統制が撤廃された。11月に賃金の統制が撤廃された。主要食糧が1950年前半までに、石炭・鉄鋼等も1952年頃までに自由化された。また工業に対する連合国の束縛の廃止もある程度の影響を与えた。結果として[[物価]]が実勢値に跳ね上がった。<ref name=post />
 
 
 
1950年に勃発した[[朝鮮戦争]]は世界的に物資の需要を高め、1951年4月3日造船制限が撤廃された。このとき、西ドイツには[[オーデル・ナイセ線]]以東の[[旧ドイツ東部領土]]や東ドイツからの避難民が溢れていた。それで賃金の安い熟練労働者が西ドイツには比較的多かった。これを強みとして西ドイツは諸外国の輸入需要にこたえ、[[輸出]]を急激に伸ばした。労働時間は長くなり仕事は次第にきつくなってきた。第1回[[ドイツ連邦議会|連邦議会]]は、[[カルテル]]を容認する一方、石炭鉄鋼産業における労使対等の共同決定を法制度として認めなかった。そしてこれをきっかけに全国的な社会闘争が起こった。結果として、石炭鉄鋼業については'''[[:de:Montan-Mitbestimmungsgesetz|モンタン共同決定法]]'''が成立した。これは、11人の[[監査役]]に5名ずつの株主監査役員と労働者監査役員が石炭鉄鋼会社の経営に共同参画するものである。1952年には経営組織法が制定されて、労働者数が500以上2000以下の企業に適用された。監査役定員の1/3が労働者監査役員でなくてはならなくなった。そして彼らは労働者に直接選任された。
 
 
 
この朝鮮戦争は西ドイツの国際的地位を回復させた。1951年初頭[[ランツベルク刑務所]]から大量の戦犯が釈放された。1952年9月10日、西ドイツ政府はイスラエルの全般補償請求を認め、15年間で34億5000万ドルを現物により支払うことを約束した([[第二次世界大戦後におけるドイツの戦後補償#ルクセンブルク協定の成立]])。
 
 
 
[[1950年代]]末から[[1960年代]]にかけては[[ガストアルバイター]](Gastarbeiter)として、[[トルコ]]や[[大韓民国|韓国]]など諸外国から[[移民]]が誘致された。彼らは西ドイツの人手不足や経済成長の加速を支えた。1955年イタリアと、1960年スペイン・ギリシャとガストアルバイターの募集協定を結んだが、まだこのときは労働者全体に占める外国人の割合は1%未満であった。1961年に[[ベルリンの壁]]ができてから急増した。外国人労働者数は1960年の28万人が1966年に131万人となり、1974年にピークを迎えて233万人となった。上記3時点において、労働者全体に占める割合はそれぞれ1.3、5.8、11.2%であった。他方、1965年に株式法が多少変わった。これは1897年から続く複数議決権を例外措置とするものであり、[[自然独占]]の観点から[[シーメンス]]をふくむエネルギー企業に認められた<ref>清水忠之 [http://repository.meijigakuin.ac.jp/dspace/bitstream/10723/2512/1/annual_legal_31_39-45.pdf 複数議決権等と株主平等の原則] 2015年 明治学院大学法律科学研究所年報31 pp.39-45.</ref>。
 
 
 
1970年代は波乱であった。1973年1月末に[[ドイツ連邦銀行]]にドルが売り浴びせられ、以降5週間に差し引き240億ドイツマルクが流出した。逆にドルは流入したので、戦前からドル基準の国内物価が上昇した。[[オイルショック]]により1975年上半期の失業者数は90万人にのぼり、11月に[[欧州諸共同体]]以外からの労働者募集を中止した。1974年12月には17.3億ドイツマルクの公共事業を決定した。7.5%の投資補助金が交付されたり、投資減税が行われたりした。1975年1月に所得税法改正により年間160億ドイツマルク分の企業負担を軽減した。1976年、石炭鉄鋼業以外にも労働者2000人超である企業すべてに適用される共同決定法が成立した。この法律は労働者数に応じて株主監査役員と労働者監査役員の定員を決めた。労働者監査役員のうち2名から3名は[[労働組合]]代表者でなくてはならないとした。産業界は束になって違憲訴訟を提起したが、[[連邦憲法裁判所]]は合憲判決を下した。
 
 
 
1983年中ごろ依然として失業者数が230万人(9.3%)であり、ドイツ経済は[[スタグフレーション]]に陥っていた。そこで[[ヘルムート・コール]]首相は[[新自由主義]]路線を打ち出した。しかし、決してフェアな政策ではなかった。西ドイツ史上最大の汚職'''フリック事件'''が発覚し、[[オットー・グラーフ・ラムスドルフ]]経済相が1984年1月27日をもって引責辞任した。
 
 
 
一方、原子力企業{{仮リンク|ヌーケム|en|Nukem Energy|de|Nukem}}がパキスタン・スーダン・リビアの3カ国へ核燃料を密輸、1985年に原爆188個分、1986年で70個分の核物質が行方不明となっていた<ref>[[:de:Stern (Zeitschrift)|シュテルン]] 1988年1月21日号</ref>。1960年4月ヌーケムの主要株主は、52.5%を保有する[[デグサ]]と22.5%の[[リオ・ティント]]であった。1965年は、デグサが45%に保有率を下げ、[[RWE]]が25%を占めるようになり、そしてリオ・ティントも18%に保有率を下げた。1969年にシーメンスと合弁で<ref>出資割合シーメンス6に対しヌーケム4</ref>原燃会社を設立。2006年、''[[:en:Advent International|Advent International]]'' に、2013年、[[カメコ]]に買収された。<ref>ヌーケム [http://www.nukem.de/fileadmin/nukem/mediapool/PDFs/NUKEM_History.pdf NUKEM History or the Roots of NUKEM] Alzenau, August 2013</ref>
 
 
 
1988年後半まで失業者数は220万ほどであったが、[[ベルリンの壁崩壊]]直前の1989年末に200万の大台を割った。
 
1989年1月には国際協定の調印により、[[上海]]へ地下鉄を建設するために[[ドイツ復興金融公庫]]が4億6千万マルクを供与することとなった<ref>''IDSA News Review on East Asia'', vol. 3, Institute for Defence Studies and Analyses, 1989, p. 143.</ref>。
 
1990年3月、欧州女性の富豪ランキングで、1位と2位は[[エリザベス2世]]と[[ベアトリクス (オランダ女王)|ベアトリクス女王]]であったが、3位は[[ヨハンナ・クヴァント]]であった<ref>''[[:en:Harpers & Queen|Harpers & Queen]]'', March, 1990</ref>。
 
1991年前半には失業者数が160万人ほどへ落ち着き、国内への投資も増加した。
 
 
 
== 政治 ==
 
[[Image:Berlinermauer.jpg|thumb|200px|[[ベルリンの壁]]]]
 
西ドイツには、「東ドイツとの統一後に憲法を持つことにする」との意志から[[憲法]](Verfassung) がなく、[[ドイツ連邦共和国基本法|基本法]](Grundgesetz)のみがあった(これは基本法146条に明記されていた)。
 
 
 
東西冷戦の最前線に立つ国だったことからアメリカへの政治的・軍事的依存が高く、多くの米軍基地が国内におかれていた。また東ドイツとの対立から、再軍備直後の[[1956年]]以来、18歳から45歳までの男子国民に[[徴兵制度|徴兵制]]が敷かれていた。しかし第二次世界大戦への反省から、西ドイツ時代のドイツ連邦軍の役割は抑制されたものだった。[[環境保護運動]]同様に[[反戦運動]]も盛んであり、[[1983年]]には、[[1979年]]調印の[[第二次戦略兵器制限交渉]](SALT II)にもかかわらず西ドイツに[[核ミサイル]]が持ち込まれたことを受けてヨーロッパ全土へ波及する大規模な[[反核運動]]が起こっている。
 
 
 
=== 対東ドイツ政策 ===
 
[[Image:Willy-brandt-und-richard-nixon 1-588x398.jpg|thumb|200px|[[ヴィリー・ブラント]]と[[リチャード・ニクソン]]]]
 
対東ドイツ政策では、[[1970年代]]以前は[[ハルシュタイン原則]]に基づき、西ドイツがドイツ地域で唯一[[民主主義|民主]]的に選出され、ドイツ人民を代表する正統性を持つ国家であると位置づけ、ソ連以外の国で東ドイツを[[国家の承認|承認]]して[[国交]]を持った国とは、国交を断絶する政策を採った。しかしこの原則は東ドイツが[[第三世界]]の多くと国交を結ぶ中で実効性を失った。
 
 
 
1970年代初頭、[[東側諸国]]との関係改善を図る[[ヴィリー・ブラント]][[ドイツの首相|連邦首相]]の'''[[東方外交]]'''により、東西ドイツは相互承認へと進んだ。さらにモスクワ条約(1970年、[[ソビエト・西ドイツ武力不行使条約]])、西ドイツ・[[ポーランド]]間の[[ワルシャワ条約 (1970年)|ワルシャワ条約]](1970年)、東西ベルリンの相互通行を促進する米ソ英仏の四カ国合意([[1971年]])、西ベルリンと西ドイツ間の通行を保障する[[通過合意]]([[1972年]])、[[東西ドイツ基本条約]](1972年)と続いた諸条約は東西ドイツの関係正常化につながり、両国が同時に[[国際連合]]へ加盟する道を開いた。
 
 
 
=== 欧州の協調と対独抑止 ===
 
第二次世界大戦直後、東西冷戦と並ぶ欧州の大きな問題は、ドイツが三度戦争を起こさないようにするにはどのように抑え込めばいいかというものだった。当初はアメリカなどの一部でドイツの徹底した脱工業化・非ナチ化が構想されていた([[モーゲンソー・プラン]]も参照)。また連合軍占領下ではドイツは武装解除され、小規模な[[国境警備隊]]や機雷掃海部隊以外の国軍を持つことは許されず、米ソ英仏の四カ国が治安に責任を持っていた。
 
 
 
こうした流れは冷戦の開始とともに変わることとなる。ソ連に対抗すべく西ドイツ経済の復興が求められると同時に、西ドイツの再軍備も検討されるようになった。主権回復後の[[1950年]]、西ドイツは再軍備の基本構想策定を解除され新たな「[[ドイツ連邦軍]]」の創設準備を始めた。
 
 
 
一方、周辺の西欧諸国は[[ブリュッセル条約 (1948年)|ブリュッセル条約]]を締結して対独抑止を図ったほか、ヨーロッパが西ドイツを制御できなくなることを防ぐため、[[欧州石炭鉄鋼共同体]](ECSC)によって軍需物資である石炭と鉄鋼の産出を西欧諸国で共同管理する仕組みが作られた。また西欧とアメリカは[[北大西洋条約機構]](NATO)を結成することでソ連・東欧への対抗とドイツ抑え込みを行うことになる。しかしフランスはドイツ連邦軍の創設と西ドイツのNATO加盟に反対し、西ドイツも含む西欧諸国が超国家的な汎ヨーロッパ軍を構成する「[[欧州防衛共同体]]」(EDC)構想を打ち出した。この構想では西ドイツが作る部隊は西ドイツ政府ではなくEDCの指揮のもとに置かれ、西ドイツの防衛はEDCが責任を持つこととなっていた。この構想は[[1952年]]に西ドイツを含む西欧各国間で調印されたが、主権を侵されることをよしとしない[[ド・ゴール主義|ド・ゴール主義者]]たちの反対により[[1954年]]に当のフランス議会で否決され、[[批准]]に至らなかった。結果、フランスも西ドイツの再軍備とNATO加盟を認め、ドイツ連邦軍は[[1955年]][[11月12日]]に正式に誕生した。
 
 
 
=== 国内政治 ===
 
西ドイツの政治は、小政党が乱立し結果として[[ファシズム]]の台頭を招いた[[ヴァイマル共和政]]期の反省から、一定の得票率(5%)を議席獲得の条件とする(「[[阻止条項]]」)、[[議会制民主主義]]を否定する政党の結党を禁止する(「[[戦う民主主義]]」)などの措置を講じていたため、非常に安定した。議会では[[キリスト教民主主義]]の元に右派諸勢力が結集した[[ドイツキリスト教民主同盟|キリスト教民主同盟]](CDU)と19世紀以来の左派政党[[ドイツ社会民主党]](SPD)の二大政党が左右に並んでいた。
 
 
 
建国後、西ドイツ再建と社会福祉の充実を指揮した[[コンラート・アデナウアー|アデナウアー]]政権([[1949年]] - [[1963年]])のあと、短い[[ルートヴィヒ・エアハルト|エアハルト]]政権([[1963年]] - [[1966年]])と[[クルト・ゲオルク・キージンガー|キージンガー]]政権([[1966年]] - [[1969年]])が続いた。
 
 
 
1966年までの政権は[[ドイツキリスト教民主同盟|キリスト教民主同盟]](CDU)と[[キリスト教社会同盟]](CSU)の二つの保守政党の連立であり、これに中道の[[自由民主党 (ドイツ)|自由民主党]](FDP)が加わっていた。1966年のキージンガー政権ではキリスト教民主同盟・キリスト教社会同盟とドイツ社会民主党の「[[大連立]]」が成立したが、この時期に社会民主党は現実主義路線に移り政権運営が可能な能力を得た。
 
 
 
大連立下の議会では、論議の的となってきた[[非常事態宣言]]法など憲法上の権利を制限する法律が成立した。この法律に対し[[学生運動]]や[[労働組合]]は反対の声を上げた。[[1967年]]には学生デモに参加していた学生[[ベンノ・オーネゾルク]]の射殺により運動が過熱し、1968年には学生運動の指導者[[ルディ・ドゥチュケ]]に対する暗殺未遂事件が発生した。
 
 
 
[[1960年代]]にはナチス時代に対する直面を促する学生らによる大規模行動も起こった。また経済成長とともに激しくなったドイツの環境破壊を背景に、ルディ・ドゥチュケら学生運動家、[[ペトラ・ケリー]]、[[ハインリヒ・ベル]]、[[ヨーゼフ・ボイス]]ら社会運動家は環境保護運動に結集し[[緑の党 (ドイツ)|緑の党]]が結成された。[[1979年]]の[[ブレーメン州]]選挙で、緑の党はついに得票率5%を超えたため議席を確保している。こうした動きの中で[[環境保護主義]]と[[反国家主義]]が西ドイツの基本的な価値観となった。
 
 
 
[[Image:DBP 1974 812 Fußball-Weltmeisterschaft.jpg|thumb|200px|[[1974 FIFAワールドカップ|1974年のサッカーワールドカップ]]は西ドイツおよび西ベルリンで開催され、[[サッカードイツ代表|西ドイツ代表]]が優勝した]]
 
同じ1960年代の学生運動のうち、過激化した運動家らが1968年以降[[ドイツ赤軍]](Rote Armee Fraktion、RAF)を結成し、[[1970年代]]の間、西ドイツの[[政治家]]や[[財界|財界人]]に対する[[テロリズム|テロ]]攻撃を加え続けた。特に[[1977年]]の「[[ドイツの秋]]」と呼ばれる一連の事態(ドイツ経営者連盟会長の[[ハンス=マルティン・シュライヤー]]に対する[[誘拐]][[殺人]]、および[[ルフトハンザ航空181便ハイジャック事件]]など)は西ドイツを震撼させた。
 
 
 
[[1969年]]の選挙で[[ヴィリー・ブラント]]が党首を務める社会民主党は大きな議席を確保し、自由民主党との連立で政権を獲得することに成功し政権交代が起きた。ブラント政権は[[1974年]]まで続き東方外交など外交上の成果をあげたが、彼の秘書が東ドイツ国家保安省([[シュタージ]])の[[スパイ]]だったというスキャンダルからブラントは首相を辞任した。財務大臣[[ヘルムート・シュミット]]が以後[[1982年]]まで、自由民主党の党首[[ハンス・ディートリヒ・ゲンシャー]]の助けのもと政権をとった。[[オイルショック|石油ショック]]後の景気維持のほか、[[欧州共同体]](EC)への支持、[[全欧安全保障協力会議]]の創設など、[[欧州統合]]と米欧間の協力強化に尽力した。
 
 
 
[[1982年]]には社会民主党と自由民主党の連立が崩壊し、シュミット政権に建設的内閣不信任案を出したキリスト教民主同盟が自由民主党を引き入れて政権を奪取し、[[ヘルムート・コール]]が第6代首相となった。翌年の選挙でコール政権は支持を得たが、緑の党の躍進と連邦議会議席獲得によりキリスト教民主同盟・キリスト教社会同盟は絶対過半数の獲得には失敗した。1989年のベルリンの壁崩壊にともない東西ドイツ統一の好機が訪れると、コール政権は統一ドイツもEU統合や米欧同盟維持を支持するとして各国の了解をとり、一気に東ドイツを吸収し、東ドイツに数か月前に成立したばかりの五つの州をドイツ連邦共和国の一部とした。
 
 
 
=== 地域分散 ===
 
戦前に欧州有数の大都市だったベルリンが実質的に[[飛地|飛び地]]となった西ドイツでは、政治の中心は暫定首都のボンに置かれたものの、多くの権限を各州が持ち、中央銀行・[[フランクフルト証券取引所|証券取引所]]など経済政策の中心が[[フランクフルト・アム・マイン]]に置かれ、[[連邦憲法裁判所]]と連邦最高裁判所といった司法の中心が[[カールスルーエ]]に置かれるなど政治・経済面での地域分散化が進んだ。この点では、[[東ベルリン]]への一極集中を進め地方都市の弱体化が進んだ東ドイツとは対照的だった。ベルリンは名目上は西ドイツの首都でありながらドイツの中心としての地位を喪失したものの、[[西ベルリン]]は三カ国占領下で徴兵制もない政治的にあいまいな状態のため、西ドイツや世界各地からの若者が流入し、[[コスモポリタニズム|コスモポリタン]]的な文化が栄えた。
 
 
 
== ドイツ再統一(東ドイツ併合) ==
 
[[画像:Berlin-wall.jpg|thumb|200px|[[ベルリンの壁]]([[1989年]][[11月16日]])]]
 
[[1989年]]の[[ベルリンの壁崩壊]]以後、東西ドイツは[[通貨同盟|通貨]]・[[関税同盟]]を1990年7月に結び、1990年10月3日の東ドイツが西ドイツ(ドイツ連邦共和国)に併合(法的に東ドイツ全土も西ドイツになること)されることをもって東西分断は終わりを迎えた。
 
 
 
欧州の中央に強大な統一ドイツが誕生することに対する警戒心も周辺諸国にはあったが、東西ドイツ政府と米英仏ソ連合国との「[[ドイツ最終規定条約]]」(別名「2プラス4条約」、第二次世界大戦後結ばれることのなかった講和条約の代替となる事実上の[[平和条約]])により、再統一後のドイツの地位と[[国境]]が確定、ここにドイツの主権が完全に回復した。1990年10月3日の再統一の後、[[1991年]][[3月15日]]、米英仏ソ四カ国の軍はドイツから撤退した。
 
 
 
== 脚注 ==
 
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== 関連項目 ==
 
* [[冷戦]]
 
* [[ドイツ民主共和国]]
 
* [[ドイツ再統一]]
 
* [[ドイツの政治]]、[[ドイツの歴史認識]]
 
* [[ドイツ連邦共和国基本法]]
 
  
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第二次世界大戦後、[[ドイツ]]は東西二つの分裂国家となったが、そのうちの西側のドイツ連邦共和国の略称。1990年10月、東ドイツを併合して、ドイツは統一国家となった。
 
== 外部リンク ==
 
== 外部リンク ==
* [http://www.germany.info/relaunch/culture/history/marshall.html "Marshall Plan 1947-1997 A German View" by Susan Stern]
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* [https://www.amazon.co.jp/s/ref=as_li_ss_tl?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&url=search-alias=aps&field-keywords=%E8%A5%BF%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84&linkCode=ll2&tag=mkjoa54a-22&linkId=7b60883e596e962f36b0ee657163cd91 Amazon.co.jp_ 西ドイツ]
* [http://www.econlib.org/library/enc/GermanEconomicMiracle.html German Economic "Miracle" by David R. Henderson]
 
* [http://www.germannotes.com/hist_west_overview.shtml History of West Germany (1949 - 1990)]
 
  
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2018/7/24/ (火) 22:47時点における版

West Germany 

第二次世界大戦後、ドイツは東西二つの分裂国家となったが、そのうちの西側のドイツ連邦共和国の略称。1990年10月、東ドイツを併合して、ドイツは統一国家となった。

外部リンク