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{{基礎情報 公家
+
'''藤原 時平'''(ふじわら の ときひら)
| 氏名 = 藤原時平
 
| 画像 = Fujiwara no Tokihira01.jpg
 
| 画像サイズ = 200px
 
| 画像説明 = 『北野天神縁起絵巻』承久本第5巻より
 
| 時代 = [[平安時代]]前期
 
| 生誕 = [[貞観 (日本)|貞観]]13年([[871年]])
 
| 死没 = [[延喜]]9年[[4月4日 (旧暦)|4月4日]]([[909年]][[4月26日]])
 
| 改名 =
 
| 別名 = 本院大臣
 
| 諡号 =
 
| 神号 =
 
| 戒名 =
 
| 墓所 =
 
| 官位 = [[正二位]]・[[左大臣]]、[[贈位|贈]][[正一位]]、[[太政大臣]]
 
| 主君 = [[光孝天皇]]→[[宇多天皇]]→[[醍醐天皇]]
 
| 氏族 = [[藤原北家]]
 
| 父母 = 父:[[藤原基経]]、母:[[人康親王]]娘
 
| 兄弟 = 佳珠子、'''時平'''、[[藤原温子|温子]]、[[藤原仲平|仲平]]、[[藤原兼平|兼平]]、<br/>[[藤原忠平|忠平]]、良平、[[藤原穏子|穏子]]、頼子、佳美子、<br/>[[貞元親王]]妃、[[源能有]]室
 
| 妻  = 正室:'''[[本康親王]]娘・[[廉子女王]]'''<br/>[[源湛]]娘、[[在原棟梁]]娘
 
| 子  = '''[[藤原保忠|保忠]]'''、[[藤原顕忠|顕忠]]、[[藤原敦忠|敦忠]]、[[藤原仁善子|仁善子]]、[[藤原褒子|褒子]]、<br/>[[藤原実頼]]室、[[敦実親王]]妃、[[克明親王]]妃
 
| 特記事項 =
 
}}
 
  
'''藤原 時平'''(ふじわら の ときひら)は、[[平安時代]]前期の[[公卿]]。[[藤原北家]]、[[摂政]][[関白]][[太政大臣]]・[[藤原基経]]の長男。[[官位]]は[[正二位]]・[[左大臣]]、[[贈位|贈]][[正一位]]・[[太政大臣]]。'''本院大臣'''と号した。
+
平安時代の廷臣。基経の長子。光孝天皇の擁立に功のあった父のおかげで,仁寿殿で天皇から加冠された。寛平2 (890) 年従三位,昌泰2 (899) 年左大臣。藤原氏の専権抑制のため登用された右大臣[[菅原道真]]を大宰権帥に左遷し,藤原氏の地位を不動にした。『[[日本三代実録]]』『延喜式』の撰修に参与,また律令制の維持に努め,封戸 2000戸を給された。彼が病死すると,世人はこれを道真のたたりとし,「右 (道真) 流,左 (時平) 死」の語が流布した。没後,正一位,太政大臣を追贈。
 
 
藤原北家の嫡子として若くして栄達するが、父・基経の死の時点ではまだ若年であったため、[[宇多天皇]]は[[親政]]を始め、[[皇族|皇親]]である[[源氏]]や学者の[[菅原道真]]を起用した。[[醍醐天皇]]が即位すると道真と共に左右大臣に並ぶが次第に対立し、遂に道真を讒言して[[大宰府]]へ左遷させた。政権を掌握すると意欲的に改革に着手するが、39歳で死去した。その死は[[怨霊]]となった道真の[[祟り]]と噂された。
 
 
 
== 生涯 ==
 
藤原基経の長男として生まれる。父の基経は[[陽成天皇]]を廃し、[[光孝天皇]]を擁立して[[太政大臣]]として朝政を執り絶大な権力を有していた。光孝天皇は常に基経の意を迎えていた。
 
 
 
[[仁和]]2年([[886年]])16歳で[[元服]]する時平に対して、光孝天皇は宮中でも最も重要な[[仁寿殿]]で式を執り行わせ、自ら加冠の役を果たし、この少年に[[正五位|正五位下]]を授ける。その告文は学者で知られた[[参議]]・[[橘広相]]が起草した。仁寿殿の庭には祝いの金銀で飾られた品々が並び、[[雅楽]]が演奏され[[清和天皇]]の第八皇子・[[貞数親王]]を始めとする上卿の子弟が舞を演じた。これは基経の権力の絶大なる事を示す儀式だった。
 
 
 
翌仁和3年([[887年]])正月には早くも[[従四位|従四位下]]・[[近衛府|右近衛権中将]]に叙任され、8月に宇多天皇が即位すると、時平は[[蔵人頭]]に補せられる。天皇は先帝に引き続いて基経に大政を委ね初めて関白に任ずるが、その[[詔]]にあった「阿衡」の文字を巡って紛糾。最後は基経が天皇に自らの誤りを認めさせる詔を出させて、[[藤原氏]]の権勢を示す([[阿衡事件]])。だが、この事件が宇多天皇と[[藤原氏]]との間でしこりとなった。
 
 
 
[[寛平]]2年([[890年]])従四位上次いで[[従三位]]と越階昇叙され、20歳で公卿に列す。寛平3年([[891年]])父・基経が死去するが、時平はまだ21歳と若年のため[[摂関]]は置かれず、宇多天皇の親政となった。また、[[藤氏長者]]は大叔父の[[右大臣]]・[[藤原良世]]が任じられた。天皇は時平を参議とするが、同時に[[仁明天皇]]の孫である[[源興基]]を起用、それ以後も源氏を起用する事で藤原氏を牽制。そして寛平5年([[893年]])時平とは血縁関係のない敦仁親王を東宮に定め、時平が天皇の外戚となる道を封じた。同年、天皇は[[菅原道真]]を参議に起用する。道真は優れた学者として知られ、阿衡事件の際に、基経がなおも詔を起草した橘広相の[[流罪]]を求めた際上書して諫言した人物であった。
 
 
 
しかしながら、[[藤原北家]]の嫡流である時平が排斥される事はなく、寛平5年([[893年]])[[中納言]]兼[[近衛大将|右近衛大将]]、寛平9年([[897年]])[[正三位]]・[[大納言]]兼左近衛大将に叙任される等順調に昇進した。
 
 
 
寛平9年([[897年]])宇多天皇は譲位して敦仁親王が即位した([[醍醐天皇]])。宇多上皇は新帝に「時平は功臣の子だが、年若く素行が悪いと聞く、朕はそれを聞き捨てにしていたが、最近は激励して政治を習わせるようにしている。そのために顧問を備えて、よろしく輔導すべきである」と戒めた。それにより、醍醐天皇は権大納言の[[官職]]にあった道真を起用して、時平と共に[[内覧]]を任せた。またこの年には、前年の藤原良世の致仕(引退)によって空席となっていた藤氏長者に時平は補されている。[[昌泰]]2年([[899年]])時平は[[左大臣]]に任ぜられるが、同時に道真も右大臣となり[[太政官]]の首班に並んだ。
 
 
 
学者の道真と貴公子の時平は気が合わなかった。時平は情に任せて裁決に誤りが多く、その都度に道真が異を唱えて、対立するようになる。道真は後援者である宇多法皇をしきりに訪ねて政務を相談し、法皇は天皇に道真に政務を委ねるよう相談した。これを知った時平の心中は穏やかではなかった<ref>『[[神皇正統記]]』『[[扶桑略記]]』等。</ref>。一方、次の醍醐天皇と時平とは信頼関係が構築されており、宇多法皇と道真、醍醐天皇と時平という二派が形成されたともいわれる。
 
 
 
[[延喜]]元年([[901年]])時平は[[大納言]]・[[源光 (公卿)|源光]]と謀り、道真を讒言。醍醐天皇はこれを信じて道真を[[大宰権帥|大宰員外帥]]に左遷する([[昌泰の変]])。道真は2年後に[[大宰府]]で病死した。
 
 
 
時平は道真を追放して政権を掌握した。政変の直後に同母妹の[[藤原穏子|穏子]]を醍醐天皇の[[女御]]として入内させた。また宇多法皇との関係も改善するよう努めている。時平は意欲的に政治改革に着手し、延喜2年([[902年]])最初の[[荘園整理令]]を出し、史料上で最後といわれる[[班田収授法|班田]]を実行した。また、[[六国史]]の最後となった『[[日本三代実録]]』や『[[延喜式]]』の編纂を行った。醍醐天皇の治世は[[延喜の治]]と呼ばれている。
 
 
 
延喜9年([[909年]])に39歳で死去。道真の[[怨霊]]による祟りと噂された。なお、時平の死後、藤原北家の嫡流は弟・[[藤原忠平|忠平]]とその子孫へ移った。
 
 
 
== 人物・逸話 ==
 
笑い上戸だったらしく、『[[大鏡]]』には職務中、史の放屁に思わず大笑いして、仕事に手が付かなくなってしまった話が残されている。また[[醍醐天皇]]とあらかじめ打ち合わせをしておいてわざと華美な装束で参内、天皇の怒りを買って退出、その後は自邸に閉じ籠って誰とも面会しなかったところ、その噂が広まって都では贅沢が治まったという話も有名。これらの逸話を題材に[[歌舞伎]]作者[[並木五瓶]]が[[安永 (元号)|安永]]6年 ([[1777年]]) に書き上げたのが『[[天満宮菜種御供]]』<small>(てんまんぐう なたねの ごくう)</small>、通称『時平の七笑』<small>(しへいの しちわらい)</small>である。
 
 
 
時平は好色も有名だったようで、『[[今昔物語]]』には次の逸話が載っている。時平の伯父・[[藤原国経]]は[[在原業平]]の孫娘を[[北の方]](室)としていたが、その類い稀なる美貌の噂はすぐに時平の耳に届くところとなり、時平はそれが気になって居ても立ってもいられなくなってしまう。そこである日国経の邸を訪れて酒宴を開かせ、高齢の国経が酔い潰れた隙に北の方の許を訪れ、彼女を「自分の妻にしてしまった」のである。この逸話を題材に[[谷崎潤一郎]]が昭和25年 (1950) に上梓したのが『[[少将滋幹の母]]』である。この北の方と時平の間に生まれたのが三男・[[藤原敦忠|敦忠]]で、国経との間に生まれたのが[[藤原滋幹|滋幹]]である。
 
 
 
[[File:Fujiwara no Tokihira02.jpg|thumb|left|upright|『北野天神縁起絵巻』承久本第6巻より病に伏せる時平。両耳からは[[浄蔵]]を威嚇しようと青竜が出ている]]
 
 
 
政治的には自らが[[権門|権門勢家]]の頭領だったにも関わらず、荘園整理令を出す等意欲的に施政に取り組み、有能な政治家ではあったが、その能力を発揮できた期間は短く、道真の怨霊と噂されたその早逝は、仲平の71歳、兼平の61歳、忠平・穏子の70歳等(いずれも[[数え年]])他の兄弟が当時としては総じて長命だっただけに余計目立った格好となってしまった。そして、その後はあまり仲は良くなかったという弟・忠平及びその系統に政治の実権が移り、時平の系統はいつしか中級下級の官位に甘んじる家格となって歴史に埋もれる事となり、それが道真の比較的早い名誉回復に繋がる一つの要因になったとも見られている。
 
 
 
『大鏡』によれば、雷神の怨霊となって現れた道真に対して、自分の方が生前位が高いのであると、喝破して睨み付け、威厳で道真の怨霊を鎮めたという。ただし、時平の威厳によってではなく道真が、朝廷における決まりや官位の秩序について、道理と道理に反する事とのケジメを示した為である、と附記されている<ref>『日本古代氏族人名辞典』537頁。</ref>。
 
 
 
また、『[[扶桑略記]]』では、時平は、道真の祟りを鎮めるために[[浄蔵]]和尚に頼み祈祷してもらうも、道真が現れ祈祷を制止したので浄蔵は調伏を辞退した。その後、ほどなくして時平は死去したという逸話が語られている。
 
 
 
== 官歴 ==
 
特に典拠があげられていない限り、『[[日本三代実録]]』と『[[公卿補任]]』の記載による。日付は旧暦。
 
 
 
{| class="wikitable"
 
|-
 
!年紀
 
!年齢
 
!事歴
 
|-
 
|[[仁和]] 2 年<br />([[886年]])
 
|16歳
 
|[[1月2日 (旧暦)|&nbsp;&nbsp;1月&nbsp;&nbsp;2日]]<!--([[2月13日]])--> 元服、正五位下。<br />[[4月1日 (旧暦)|&nbsp;&nbsp;4月&nbsp;&nbsp;1日]]<!--([[5月12日]])--> 次侍従。
 
|-
 
|仁和 3 年<br />([[887年]])
 
|17歳
 
|[[1月10日 (旧暦)|&nbsp;&nbsp;1月10日]]<!--([[2月10日]])--> 従四位下。右近衛権中将。<br />[[2月17日 (旧暦)|&nbsp;&nbsp;2月17日]]<!--([[3月19日]])--> 右近衛権中将。<br />[[8月26日 (旧暦)|&nbsp;&nbsp;8月26日]]<!--([[9月21日]])--> 蔵人頭に補す(『蔵人補任』)。<br />[[9月8日 (旧暦)|&nbsp;&nbsp;9月&nbsp;&nbsp;8日]]<!--([[10月2日]])--> 昇殿。<br />[[9月21日 (旧暦)|&nbsp;&nbsp;9月21日]]<!--([[10月15日]])--> 重ねて禁色を聴す。
 
|-
 
|仁和 5 年<br />([[889年]])
 
|19歳
 
|[[1月16日 (旧暦)|&nbsp;&nbsp;1月16日]]<!--([[2月23日]])--> 讃岐権守を兼ぬ。
 
|-
 
|[[寛平]] 2 年<br />([[890年]])
 
|20歳
 
|[[1月7日 (旧暦)|&nbsp;&nbsp;1月&nbsp;&nbsp;7日]]<!--([[2月4日]])--> 従四位上。<br />[[11月26日 (旧暦)|11月26日]]<!--([[891年]][[1月14日]])--> 従三位(越階)。
 
|-
 
|寛平 3 年<br />([[891年]])
 
|21歳
 
|[[3月19日 (旧暦)|&nbsp;&nbsp;3月19日]]<!--([[5月5日]])--> 参議に任ず。讃岐権守元の如し。<br />[[4月11日 (旧暦)|&nbsp;&nbsp;4月11日]]<!--([[5月26日]])--> 右衛門督を兼ぬ。
 
|-
 
|寛平 4 年<br />([[892年]])
 
|22歳
 
|[[2月21日 (旧暦)|&nbsp;&nbsp;2月21日]]<!--([[3月27日]])--> 左衛門督を兼ぬ。<br />[[5月4日 (旧暦)|&nbsp;&nbsp;5月&nbsp;&nbsp;4日]]<!--([[6月6日]])--> 検非違使別当を兼ぬ。
 
|-
 
|寛平 5 年<br />([[893年]])
 
|23歳
 
|[[2月16日 (旧暦)|&nbsp;&nbsp;2月16日]]<!--([[3月11日]])--> 中納言。検非違使別当・左衛門督元の如し。<br />[[2月22日 (旧暦)|&nbsp;&nbsp;2月22日]]<!--([[3月17日]])--> 右近衛大将を兼ぬ。<br />[[4月2日 (旧暦)|&nbsp;&nbsp;4月&nbsp;&nbsp;2日]]<!--([[4月25日]])--> 春宮大夫を兼ぬ。
 
|-
 
|寛平 9 年<br />([[897年]])
 
|27歳
 
|[[6月19日 (旧暦)|&nbsp;&nbsp;6月19日]]<!--([[7月26日]])--> 大納言。左近衛大将を兼ぬ。氏長者。<br />[[7月3日 (旧暦)|&nbsp;&nbsp;7月&nbsp;&nbsp;3日]]<!--([[8月8日]])--> 皇太子敦仁親王践祚([[醍醐天皇]])に依りて、春宮大夫を止む。<br />      [[菅原道真]]と共に天皇年少の間、奏請宣行(内覧)の詔が下る(『[[日本紀略]]』)。<br />[[7月7日 (旧暦)|&nbsp;&nbsp;7月&nbsp;&nbsp;7日]]<!--([[8月12日]])--> 蔵人所別当を兼ぬ。<br />[[7月13日 (旧暦)|&nbsp;&nbsp;7月13日]]<!--([[8月18日]])--> 正三位。
 
|-
 
|[[昌泰]]元年<br />([[898年]])
 
|28歳
 
|[[10月8日 (旧暦)|10月&nbsp;&nbsp;8日]]<!--([[11月26日]])--> 東大寺俗別当に補す(『[[東大寺別当次第]]』)。
 
|-
 
|昌泰 2 年<br />([[899年]])
 
|29歳
 
|[[2月14日 (旧暦)|&nbsp;&nbsp;2月14日]]<!--([[3月31日]])--> 左大臣。<br />[[5月14日 (旧暦)|&nbsp;&nbsp;5月14日]]<!--([[6月27日]])--> 東大寺俗別当に補す(『東大寺別当次第』『東南院文書』)。
 
|-
 
|昌泰 4 年<br />([[901年]])
 
|31歳
 
|&nbsp;&nbsp;1月&nbsp;&nbsp;7日<!--([[2月1日]])--> 従二位。
 
|-
 
|[[延喜]] 7 年<br />([[907年]])
 
|37歳
 
|&nbsp;&nbsp;1月&nbsp;&nbsp;7日<!--([[2月26日]])--> 正二位。
 
|-
 
|延喜 9 年<br />([[909年]])
 
|nowrap|39歳
 
|[[4月4日 (旧暦)|&nbsp;&nbsp;4月&nbsp;&nbsp;4日]]<!--([[5月1日]])--> 薨去。<br />[[4月5日 (旧暦)|&nbsp;&nbsp;4月&nbsp;&nbsp;5日]]<!--([[5月2日]])--> 贈正一位太政大臣。
 
|}
 
<!--わざわざ「日付は旧暦」とことわってあるのだから新暦の表示は不要かと-->
 
 
 
== 系譜 ==
 
* 父:[[藤原基経]]
 
* 母:[[人康親王]]の娘
 
* 妻:[[廉子女王]]([[本康親王]]の娘)
 
** 長男:[[藤原保忠]](890-936)
 
** 女子:[[藤原褒子]] - [[宇多天皇|宇多法皇]]御息所
 
** 女子:[[藤原仁善子]](?-946) - [[保明親王]]御息所、[[慶頼王]]母
 
* 妻:[[源湛]]の女<ref group="注釈">『[[尊卑分脈]]』によると[[源昇]]の女。</ref>
 
** 次男:[[藤原顕忠]](898-965)
 
* 妻:[[在原棟梁]]の女
 
** 三男:[[藤原敦忠]](906-943)
 
* 妻:不明
 
** 女子:[[藤原実頼]]室 - [[藤原頼忠|頼忠]]母
 
** 女子:[[敦実親王]]妃 - [[源雅信]]・[[源重信|重信]]母
 
** 女子:[[克明親王]]妃 - [[源博雅]]母
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
===注釈===
 
{{reflist|group="注釈"}}
 
===脚注===
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* [[坂本太郎 (歴史学者)|坂本太郎]]・[[平野邦雄]]『日本古代氏族人名辞典(普及版)』、[[吉川弘文館]](2010年) ISBN 978-4-642-01458-8
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[藤原氏]]
 
* [[藤原氏の人物一覧]]
 
* [[昌泰の変]]
 
* [[延喜の治]]
 
* [[菅原伝授手習鑑]]
 
* [[二宮神社 (船橋市)]]
 
 
 
{{藤原氏長者|897-909}}
 
{{Normdaten}}
 
  
 +
{{テンプレート:20180815sk}}
 
{{DEFAULTSORT:ふしわら の ときひら}}
 
{{DEFAULTSORT:ふしわら の ときひら}}
 
[[Category:良房流|ときひら]]
 
[[Category:良房流|ときひら]]

2019/4/27/ (土) 20:25時点における最新版

藤原 時平(ふじわら の ときひら)

平安時代の廷臣。基経の長子。光孝天皇の擁立に功のあった父のおかげで,仁寿殿で天皇から加冠された。寛平2 (890) 年従三位,昌泰2 (899) 年左大臣。藤原氏の専権抑制のため登用された右大臣菅原道真を大宰権帥に左遷し,藤原氏の地位を不動にした。『日本三代実録』『延喜式』の撰修に参与,また律令制の維持に努め,封戸 2000戸を給された。彼が病死すると,世人はこれを道真のたたりとし,「右 (道真) 流,左 (時平) 死」の語が流布した。没後,正一位,太政大臣を追贈。



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