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{{基礎情報 公家
 
| 氏名 = 藤原忠平
 
| 画像 = Fujiwara no Tadahira.jpg
 
| 画像サイズ = 200px
 
| 画像説明 = 藤原忠平([[菊池容斎]]『[[前賢故実]]』)
 
| 時代 = [[平安時代]]前期 - 中期
 
| 生誕 = [[元慶]]4年([[880年]])
 
| 死没 = [[天暦]]3年[[8月14日 (旧暦)|8月14日]]([[949年]][[9月9日]])
 
| 改名 =
 
| 別名 = 小一条太政大臣
 
| 諡号 = 貞信公(漢風諡号)、信濃公(国号)
 
| 神号 =
 
| 戒名 =
 
| 墓所 =
 
| 官位 = [[従一位]]・[[関白]][[太政大臣]]、[[贈位|贈]][[正一位]]
 
| 主君 = [[宇多天皇]]→[[醍醐天皇]]→[[朱雀天皇]]→[[村上天皇]]
 
| 氏族 = [[藤原北家]]
 
| 父母 = 父:[[藤原基経]]、母:[[人康親王]]娘
 
| 兄弟 = 佳珠子、[[藤原時平|時平]]、[[藤原温子|温子]]、[[藤原仲平|仲平]]、[[藤原兼平|兼平]]、<br/>'''忠平'''、良平、[[藤原穏子|穏子]]、頼子、佳美子、<br/>[[貞元親王]]妃、[[源能有]]室
 
| 妻  = [[宇多天皇]]皇女・[[源順子|順子]]、[[源能有]]娘・昭子
 
| 子  = '''[[藤原実頼|実頼]]'''、[[藤原貴子|貴子]]、[[藤原寛子 (藤原忠平女)|寛子]]、[[藤原師輔|師輔]]、[[藤原師保|師保]]、[[藤原師氏|師氏]]、[[藤原師尹|師尹]]、藤原諸房室<br/>養子:''[[藤原忠君|忠君]]''
 
| 特記事項 =
 
}}
 
[[ファイル:Hyakuninisshu 026.jpg|thumb|貞信公([[百人一首]]より)]]
 
[[File:Yoshitoshi Demon in the Night Palace.jpg|thumb|貞信公夜宮中に怪(もののけ)を懼(あや)しむの図([[月岡芳年]]『[[新形三十六怪撰]]』)]]
 
  
'''藤原 忠平'''(ふじわら の ただひら)は、[[平安時代]]前期から中期にかけての[[公卿]]。[[藤原基経]]の四男。
 
  
兄・[[藤原時平|時平]]の早世後に朝政を司り、[[延喜の治]]と呼ばれる政治改革を行った。[[朱雀天皇]]の時に[[摂政]]、次いで[[関白]]に任じられる。以後、[[村上天皇]]の初期まで長く政権の座にあった。兄・時平と対立した[[菅原道真]]とは親交を持っていたとされる。[[平将門]]は忠平の家人として仕えていた時期もあった。
+
'''藤原 忠平'''(ふじわら の ただひら)
  
== 生涯 ==
+
平安時代中期の廷臣。別称,小一条殿。基経の4男。母は人康親王の娘。延喜9 (909) 年に長兄時平が死ぬと氏長者,同 14年右大臣となって朝廷の首座を占めた。延長2 (924) 年左大臣。同5年先に勅命によって時平が編纂を開始した『延喜格』『[[延喜式]]』を完成。同8年朱雀天皇の践祚とともに摂政,天慶4 (941) 年関白となったが,治績にみるべきものはない。貞信公と諡 (おくりな) された。日記『[[貞信公記]]』や『小野宮故実旧例』『貞信公教命』がある。
[[寛平]]年間([[889年]]-[[898年]])に[[正五位|正五位下]]に叙し、[[侍従]]に任じられ、[[備後国#国司|備後権守]]を兼ねる。[[昌泰]]3年([[900年]])[[参議]]に任じられるが奏請して、叔父/
 
[[藤原清経|清経]]と代わり、自らは[[弁官|右大弁]]となる。[[延喜]]8年に参議に還任(右大弁は元の如し)の後、[[春宮坊|春宮大夫]]、[[兵衛府|左兵衛督]]を兼ね、[[検非違使]][[別当]]に補され、次いで[[従三位]]に叙し、[[中納言|権中納言]]に任じられ、[[蔵人別当]]に補され、[[近衛府|右近衛大将]]を兼ねる。
 
 
 
[[宇多天皇]]の時代は[[寛平の治]]と呼ばれ、摂関を置かずに[[天皇]]が親政をし、長兄・時平と学者・[[菅原道真]]らが政治を主導した。寛平9年([[897年]])に宇多天皇が譲位して[[醍醐天皇]]が即位すると、時平は[[左大臣]]、道真は[[右大臣]]に並んで朝政を執ったが、やがて政争が起き道真は失脚する([[昌泰の変]])。時平が政権を握り、諸改革に着手するが、延喜9年([[909年]])、時平は39歳で早世した。次兄・[[藤原仲平|仲平]]を差し置いて、忠平が[[藤氏長者]]として嫡家を継ぐ。以後、醍醐天皇の許で出世を重ね、[[大納言]]に転じ、[[近衛府|左近衛大将]]を兼ねる。延喜14年([[914年]])右大臣を拝した。[[延長 (元号)|延長]]2年([[924年]])[[正二位]]に叙し、左大臣となる。延長5年([[927年]])、時平の遺業を継いで『[[延喜格式]]』を完成させた。農政等に関する忠平の政策は、兄・時平の行った国政改革と合わせ「[[延喜の治]]」と呼ばれる。
 
 
 
延長8年([[930年]])9月22日に醍醐天皇は病が篤いため、[[朱雀天皇]]に譲位した。同時に、基経の没後は長く摂政関白が置かれなかったが新帝が幼少であるため摂政に任じられた。9月26日、朱雀天皇が醍醐上皇のいる[[麗景殿]]を訪ねた際、上皇は天皇を[[几帳]]の中に呼び入れ、五つの事を遺言した。その中で、「左大臣藤原忠平の訓を聞くこと」と話した([[延喜御遺誡]])。
 
 
 
[[承平 (日本)|承平]]2年([[932年]])[[従一位]]に叙せられる。承平6年([[936年]])[[太政大臣]]に昇り、[[天慶]]2年([[939年]])[[准三后]]となる。天慶4年([[941年]])朱雀天皇が元服したため摂政を辞すが、詔して引き続き万機を委ねられ、関白に任じられた。記録上、摂政が退いた後に引き続き関白に任命された事が確認できる最初の例である<ref>『[[公卿補任]]』には藤原基経があたかも摂政に引き続いて関白に任命されたように記されているが、同時代に国家が編纂した[[正史]]である『[[日本三代実録]]』には全く触れられておらず、事実とは認められないとされている。</ref>。この間かつての家人、[[平将門]]と遠戚である[[藤原純友]]による[[承平天慶の乱]]が起きたが、いずれも最終的には鎮圧された。
 
 
 
天慶9年([[946年]])[[村上天皇]]が即位すると引き続き関白として朝政を執った。この頃には老齢して病がちになり、しばしば致仕(引退)を願うが、その都度慰留されている。天暦3年([[949年]])、病がいよいよ重くなり、死去した。享年70。正一位が追贈され、'''貞信公'''と[[諡]]された。
 
 
 
室・[[源順子]]は宇多天皇の皇女で「菅原の君」と称されており、宇多天皇女御であった[[菅原道真]]女・菅原衍子所生とも推定されている(実父母について異説あり)。このために、宇多天皇や道真と対立していた長兄・時平からは疎んじられていたという説がある。逆に兄・時平や共に道真を陥れた[[源光 (公卿)|源光]]が亡くなり、醍醐天皇が病気がちとなり、天皇の父である宇多法皇が再び国政に関与するようになると、忠平は法皇の相談役として急速な出世を遂げたと言う。実際に時平や源光の死により、早くも35歳にして臣下最高位となり、死去するまで35年間その地位を維持した事で忠平とその子孫は時平に代わって嫡流となり、[[摂関]]職を[[江戸時代]]まで継承する事となった。そして、道真の名誉回復が早い時期に実現したのも「道真怨霊説」だけでなく、亡き時平と忠平との確執が背景にあったと言われている。
 
 
 
== 人物・逸話 ==
 
幼くして聡明で知られ、父・基経が[[極楽寺]]を建てたとき、忠平は「仏閣を建てるならばこの地しかありません」と一所を指さした。そこの地相はまさに絶勝の地だった。基経はこの時のことを心にとどめたという(『[[大鏡]]』)。
 
 
 
また、醍醐天皇の頃、相工([[人相占い]]師)が宮中に召された。寛明太子(後の朱雀天皇)を見て「容貌美に過ぎたり」と判じた。時平を見て「知恵が多すぎる」と判じた。菅原道真を見て「才能が高すぎる」と判じ、皆全幅の者はなかった。ところが、下座にあった忠平を見て、相工はこれを指さして「神識才貌、全てが良い。長く朝廷に仕えて、栄貴を保つのはこの人であろう」と絶賛し、宇多法皇はかねてから忠平を好んでいたが、この話を聞いて、ますます重んじ、[[皇女]]([[源順子]])を[[降嫁]]せしめたという(『[[古事談]]』)。
 
 
 
忠平はまた、寛大で慈愛が深かったので、その死を惜しまぬものはなかったという(『[[栄花物語]]』)。朝儀、[[有職故実]]について記した日記『[[貞信公記]]』がある。
 
 
 
== 官歴 ==
 
※特に指示の無い限り『[[公卿補任]]』の記載による。日付は旧暦にてあらわす。
 
 
 
{| class="wikitable" width="100%"
 
|-
 
!年紀
 
!年齢
 
!事歴
 
|-
 
|[[寛平]]&nbsp;7&nbsp;年・[[895年]]
 
|nowrap|16歳
 
|&nbsp;8&nbsp;月21日 元服。正五位下(『[[日本紀略]]・[[本朝文粋]]』)。<br />&nbsp;9&nbsp;月15日 雑袍を聴す。昇殿
 
|-
 
|寛平&nbsp;8&nbsp;年・[[896年]]
 
|17歳
 
|&nbsp;1&nbsp;月26日 侍従。
 
|-
 
|寛平&nbsp;9&nbsp;年・[[897年]]
 
|18歳
 
|&nbsp;2&nbsp;月14日 備後権守を兼ぬ。
 
|-
 
|nowrap|寛平10年・[[898年]]
 
|19歳
 
|&nbsp;1&nbsp;月29日 備後権守を兼ぬ(復任か)。
 
|-
 
|[[昌泰]]元年・898年
 
|19歳
 
|11月22日 従四位下。
 
|-
 
|昌泰&nbsp;3&nbsp;年・[[900年]]
 
|21歳
 
|&nbsp;1&nbsp;月28日 参議。侍従元の如し。<br />&nbsp;2&nbsp;月20日 [[宇多天皇]]の命により参議を辞退する(『[[貞信公記]]・[[大鏡]]裏書』)。侍従元の如し。<br />&nbsp;4&nbsp;月23日 昇殿元の如し。<br />&nbsp;5&nbsp;月15日 右大弁を兼ぬ。
 
|-
 
|[[延喜]]&nbsp;3&nbsp;年・[[903年]]
 
|24歳
 
|&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp; &nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;  従四位下。
 
|-
 
|延喜&nbsp;5&nbsp;年・[[905年]]
 
|26歳
 
|&nbsp;1&nbsp;月11日 備後権守を兼ぬ。
 
|-
 
|延喜&nbsp;8&nbsp;年・[[908年]]
 
|29歳
 
|&nbsp;1&nbsp;月12日 参議に還任。右大弁・備後権守元の如し。<br />&nbsp;2&nbsp;月24日 春宮大夫を兼ぬ。<br />&nbsp;3&nbsp;月&nbsp;9&nbsp;日 昇殿元の如し(『貞信公記』)。<br />&nbsp;8&nbsp;月26日 左兵衛督を兼ぬ。右大弁を去る。<br />&nbsp;9&nbsp;月&nbsp;1&nbsp;日 検非違使別当に補す。
 
|-
 
|延喜&nbsp;9&nbsp;年・[[909年]]
 
|30歳
 
|&nbsp;4&nbsp;月&nbsp;9&nbsp;日 従三位。権中納言。氏長者。春宮大夫・検非違使別当・左兵衛督元の如し。<br />&nbsp;5&nbsp;月11日 蔵人所別当に補任。昇殿故の如し(『貞信公記』)。<br />&nbsp;9&nbsp;月27日 右近衛大将を兼ぬ。左兵衛督を去る。<br />10月22日 検非違使別当元の如し(左右衛門督や左右兵衛督を兼ねず、近衛大将で兼ねる例)。
 
|-
 
|延喜10年・[[910年]]
 
|31歳
 
|&nbsp;1&nbsp;月13日 中納言。
 
|-
 
|延喜11年・[[911年]]
 
|32歳
 
|&nbsp;1&nbsp;月13日 大納言。<br />&nbsp;3&nbsp;月&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;  検非違使別当元の如し(大納言の後別当を去らずの例)。<br />12月28日 検非違使別当を止む。
 
|-
 
|延喜13年・[[913年]]
 
|34歳
 
|&nbsp;1&nbsp;月&nbsp;7&nbsp;日 正三位。<br />&nbsp;4&nbsp;月15日 左近衛大将を兼ぬ。
 
|-
 
|延喜14年・[[914年]]
 
|35歳
 
|&nbsp;8&nbsp;月25日 右大臣。
 
|-
 
|延喜16年・[[916年]]
 
|37歳
 
|&nbsp;2&nbsp;月28日 従二位。
 
|-
 
|[[延長 (元号)|延長]]&nbsp;2&nbsp;年・[[924年]]
 
|45歳
 
|&nbsp;1&nbsp;月&nbsp;7&nbsp;日 正二位。<br />&nbsp;1&nbsp;月22日 左大臣。
 
|-
 
|延長&nbsp;3&nbsp;年・[[925年]]
 
|46歳
 
|10月21日 東宮傅を兼ぬ。
 
|-
 
|延長&nbsp;7&nbsp;年・[[929年]]
 
|50歳
 
|12月18日 これ以前に延暦寺検校(『[[西宮記]]』)
 
|-
 
|延長&nbsp;8&nbsp;年・[[930年]]
 
|51歳
 
|&nbsp;9&nbsp;月22日 摂政(東宮傅を止む)。<br />12月17日 左近衛大将を止む。
 
|-
 
|[[承平 (日本)|承平]]&nbsp;2&nbsp;年・[[932年]]
 
|53歳
 
|&nbsp;3&nbsp;月29日 従一位。
 
|-
 
|承平&nbsp;6&nbsp;年・[[936年]]
 
|57歳
 
|&nbsp;8&nbsp;月19日 太政大臣。
 
|-
 
|[[天慶]]&nbsp;2&nbsp;年・[[939年]]
 
|60歳
 
|&nbsp;2&nbsp;月28日 准三宮(年官・年爵を賜うこと三宮に准ず)。
 
|-
 
|天慶&nbsp;4&nbsp;年・[[941年]]
 
|62歳
 
|11月&nbsp;8&nbsp;日 関白(摂政を止む)。
 
|-
 
|天慶&nbsp;9&nbsp;年・[[946年]]
 
|67歳
 
|&nbsp;5&nbsp;月20日 関白元の如し。
 
|-
 
|[[天暦]]&nbsp;3&nbsp;年・[[949年]]
 
|70歳
 
|&nbsp;8&nbsp;月14日 小一条第にて薨去(『日本紀略』)。<br />&nbsp;8&nbsp;月18日 贈正一位。信濃国に封じ、貞信公と謚す。
 
|}
 
 
 
== 系譜 ==
 
* 父:[[藤原基経]]
 
* 母:人康親王の娘
 
* 妻:[[源順子]](傾子?)(?-905以前、または875?-925?)([[宇多天皇]]皇女)
 
** 長男:[[藤原実頼]](900-970)
 
* 妻:源昭子([[源能有]]の娘、875?-925?)
 
** 次男:[[藤原師輔]](909-960)
 
** 四男:[[藤原師氏]](916-970)
 
** 五男:[[藤原師尹]](920-969)
 
* 生母不詳の子女
 
** 三男:[[藤原師保]](910?-?)
 
** 長女:[[藤原貴子]](904-962) - [[保明親王]]御息所、のち[[尚侍]]
 
** 次女:[[藤原寛子 (藤原忠平女)|藤原寛子]](906-945) - [[重明親王]]北方
 
** 女子:藤原諸房室
 
* 養子女
 
** 養子:[[藤原忠君]](?-968)(父:藤原師輔)
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Portal|文学}}
 
{{Wikiquote|藤原忠平}}
 
 
 
{{start box}}
 
{{s-off}}
 
{{Succession box
 
| title = [[左大臣]]
 
| years = 924 - 936
 
| before = [[藤原時平]]
 
| after = [[藤原仲平]]
 
}}
 
{{Succession box
 
| title = [[右大臣]]
 
| years = 914 - 924
 
| before = [[源光]]
 
| after = [[藤原定方]]
 
}}
 
{{s-mil}}
 
{{Succession box
 
| title = [[近衛大将|左近衛大将]]
 
| years = 913 - 931
 
| before = [[源光]]
 
| after = [[藤原定方]]
 
}}
 
{{Succession box
 
| title = [[近衛大将|右近衛大将]]
 
| years = 909 - 913
 
| before = [[平惟範]]
 
| after = [[藤原道明]]
 
}}
 
{{Succession box
 
| title = [[兵衛府|左兵衛督]]
 
| years = 908 - 909
 
| before = [[平惟範]]
 
| after = [[藤原仲平]]
 
}}
 
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{{藤原氏長者|909 - 949}}
 
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{{歴代太政大臣}}
 
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 +
{{テンプレート:20180815sk}}
 
{{DEFAULTSORT:ふしわら の たたひら}}
 
{{DEFAULTSORT:ふしわら の たたひら}}
 
[[Category:良房流|たたひら]]
 
[[Category:良房流|たたひら]]

2018/12/26/ (水) 09:15時点における最新版


藤原 忠平(ふじわら の ただひら)

平安時代中期の廷臣。別称,小一条殿。基経の4男。母は人康親王の娘。延喜9 (909) 年に長兄時平が死ぬと氏長者,同 14年右大臣となって朝廷の首座を占めた。延長2 (924) 年左大臣。同5年先に勅命によって時平が編纂を開始した『延喜格』『延喜式』を完成。同8年朱雀天皇の践祚とともに摂政,天慶4 (941) 年関白となったが,治績にみるべきものはない。貞信公と諡 (おくりな) された。日記『貞信公記』や『小野宮故実旧例』『貞信公教命』がある。



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