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{{基礎情報 公家
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'''藤原 仲麻呂'''(ふじわら の なかまろ)
| 氏名 = 藤原仲麻呂
 
| 画像 =
 
| 画像サイズ =
 
| 画像説明 =
 
| 時代 = [[奈良時代]]
 
| 生誕 = [[慶雲]]3年([[706年]])
 
| 死没 = [[天平宝字]]8年[[9月18日 (旧暦)|旧9月18日]]([[764年]][[10月17日]])
 
| 改名 = 仲麻呂→恵美押勝
 
| 別名 = 仲麿、仲丸、'''恵美大臣'''
 
| 諡号 =
 
| 神号 =
 
| 戒名 =
 
| 墓所 =
 
| 官位 = [[正一位]]・[[太政大臣|太師]]
 
| 主君 = [[聖武天皇]]→[[孝謙天皇]]→[[淳仁天皇]]
 
| 氏族 = [[藤原南家]]
 
| 父母 = 父:[[藤原武智麻呂]]<br/>母:[[阿倍御主人]]孫女・貞媛
 
| 兄弟 = [[藤原豊成|豊成]]、'''仲麻呂'''、[[藤原乙麻呂|乙麻呂]]、[[藤原巨勢麻呂|巨勢麻呂]]、南殿
 
| 妻  = [[藤原房前]]女・[[藤原宇比良古|宇比良古]]、[[大伴犬養]]女、<br/>[[新田部親王]]王女・陽候女王、<br/>[[紀麻呂]]女・奈賀岐娘
 
| 子  = [[藤原真従|真従]]、[[藤原真先|真先]]、[[藤原訓儒麻呂|訓儒麻呂]]、[[藤原朝狩|朝狩]]、<br/>[[藤原小湯麻呂|小湯麻呂]]、[[藤原刷雄|刷雄]]、[[藤原薩雄|薩雄]] 、[[藤原辛加知|辛加知]]、執棹、真文、[[徳一]]、児従、[[藤原東子 (藤原南家)|東子]]、額
 
| 特記事項 =
 
}}
 
  
'''藤原 仲麻呂'''(ふじわら の なかまろ)は、[[奈良時代]][[公卿]]。名は'''仲麿'''<ref name="a">『[[尊卑分脈]]』</ref><ref name="kb">『[[公卿補任]]』</ref>または'''仲丸'''<ref name="a" />とも記される。[[淳仁天皇|淳仁]]朝以降は[[改姓]]・[[改名]]し'''藤原恵美押勝'''(ふじわらえみ の おしかつ)。[[左大臣]]・[[藤原武智麻呂]]の次男。[[官位]]は[[正一位]]・[[太政大臣|太師]]。'''恵美大臣'''とも呼ばれた。
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奈良時代の廷臣。藤原南家の祖武智麻呂の次男。一名,恵美押勝。天平6 (734) 年従五位下,同 12年の[[藤原広嗣]]の乱後,政界へ進出,同 15年従四位上,参議。以後光明皇后,皇太子阿倍内親王の信任を得て,大仏の造立や平城還都を推進し,天平勝宝1 (749) 年には大納言。左大臣[[橘諸兄]]の勢力をしのぐようになった。同8 (756) 年,[[養老律令]]の施行を強行するとともに全軍事権を掌握し反対派を一斉に摘発,独裁体制を確立した。天平宝字2 (758) 年太保 (右大臣) となり,同4年従一位大師 (太政大臣) ,同6年正一位となって,唐制を採用した極端な儒教的政治形態を推し進める一方,歴史編纂など文化的事業も企図した。しかし,孝謙上皇が[[道鏡]]と結ぶようになると,前途に不安をいだき,同8年道鏡を除こうとして謀反を起そうとしたが,発覚し近江に逃れた。その地で追撃を受け,激戦の末,捕えられ妻子とともに斬られた。
  
== 経歴 ==
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{{テンプレート:20180815sk}}
[[文武天皇]]末年の[[慶雲]]3年(706年)に[[藤原南家]]の始祖である藤原武智麻呂の次男として生まれる。生まれつき聡明鋭敏であり、大抵の書物は読破していた。また、[[大納言]]・[[阿倍宿奈麻呂]]に[[算術]]を学び、優れた学才を示した<ref>『続日本紀』[[天平宝字]]8年9月18日条</ref>。[[内舎人]]から[[大学寮|大学少允]]を経て、[[天平]]6年(734年)[[従五位|従五位下]]に[[叙爵]]。
 
 
 
=== 藤原四兄弟の死と橘諸兄の台頭 ===
 
天平9年(737年)[[天然痘]]の流行により、[[光明皇后]]の後ろ盾として政権を担っていた父の武智麻呂と叔父の[[藤原房前]]・[[藤原宇合]]・[[藤原麻呂]]のいわゆる[[藤原四兄弟]]が相次いで病死し、[[藤原氏]]の勢力は大きく後退する。替わって光明皇后の異父兄で疫病禍をかわした[[橘諸兄]]が[[参議]]から一挙に[[大納言]]次いで[[右大臣]]に昇進して国政を担うようになった。
 
 
 
兄たちを次々と失った光明皇后は、その不安から[[聖武天皇]]へ大仏建立を強く勧めたとされる。また、天平12年([[740年]])に[[聖武天皇]]が[[河内国]][[大県郡]]の[[智識寺]]を訪ね、その寺の[[毘盧遮那仏|盧舎那仏]]から大いに影響を受けたという。この智識寺は、名が表すとおり[[知識 (仏教)|智識]](同信集団)の[[勧進|勧進銭]]によって建立された寺で、それは東大寺成立の過程にも反映された<ref>五来[1975: 58-59]</ref>。
 
 
 
=== 橘諸兄との対立 ===
 
天平11年(739年)従五位上、天平12年([[740年]])[[正五位|正五位上]]と橘諸兄政権下で仲麻呂は順調に昇進し、天平13年([[741年]])[[従四位|従四位下]]・民部卿に叙任される。また同年4月に[[河内国]]と[[摂津国]]が帰属を争っている川の[[堤]]の調査を<ref>『続日本紀』天平13年4月22日条</ref>、同年9月には[[恭仁京]]に派遣されて人民への宅地の分配を行っている<ref>『続日本紀』天平13年9月12日条</ref>。
 
 
 
天平15年([[743年]])従四位上[[参議]]に叙任され[[公卿]]に列する。天平18年(746年)[[式部省|式部卿]]に転じる。式部卿は[[官吏]]の選叙と考課を握る[[官職]]であり、仲麻呂は大幅な人事異動を行って諸兄の勢力を削ぎ、自らの派閥を形成した<ref>{{Harvnb|木本|2011|loc=「光明・仲麻呂政治体制」再論、40p}}</ref>。仲麻呂は叔母にあたる光明皇后の信任が厚く、従兄妹で[[皇太子]]だった阿倍内親王(後の[[孝謙天皇]])とも良好な関係にあった。
 
 
 
天平16年(744年)閏1月11日、当時17歳の聖武天皇の第二皇子[[安積親王]]が[[難波宮]]に[[行啓]]の途上、桜井頓宮で[[脚気]]になり[[恭仁京]]に引き返すが、わずか2日後に薨去した<ref>『続日本紀』天平16年閏正月13日条</ref>。その死があまりにも急で不自然なところもあったことから、[[藤原仲麻呂]]に毒殺されたという説も根強い<ref>{{cite journal|和書|ref=harv|last=須田|first=春子 (Suda, Haruko)|title=律令制女性史研究|publisher=千代田書房|year=1978|format=snippet|url=http://books.google.co.jp/books?id=Ku00AAAAMAAJ|quote=十七歳で急死した安積王に仲麻呂の毒殺説がある}}(筑波大学文学博士学位論文・昭和58年3月25日授与(乙第122号))</ref>。こののち仲麻呂は天平18年(746年)[[従三位]]、天平20年(748年)には[[正三位]]と急速な昇叙を続け、光明皇后の後ろ盾のもとでその権勢は[[左大臣]]・橘諸兄と拮抗するようになった<ref>{{Harvnb|木本|2011|loc=「光明・仲麻呂政治体制」再論、39p}}</ref>。
 
 
 
=== 孝謙天皇即位と大納言就任 ===
 
[[天平勝宝]]元年([[749年]])7月に聖武天皇が[[譲位]]して阿倍内親王が[[即位]](孝謙天皇)すると、仲麻呂は参議から[[中納言]]を経ずに直接[[大納言]]に昇進。次いで、光明皇后のために設けられた[[紫微中台]]の令(長官)と、[[中衛府|中衛大将]]を兼ねた。光明皇后と孝謙天皇の信任を背景に仲麻呂は政権と軍権の両方を掌握して左大臣橘諸兄の権力を圧倒し、事実上の「光明=仲麻呂体制」が確立された<ref>{{Harvnb|木本|2011|loc=「光明・仲麻呂政治体制」再論、38p}}</ref>。
 
 
 
同年10月に[[東大寺]]の[[東大寺盧舎那仏像|盧舎那仏像]] の鋳造が完了する<ref>『続日本紀』天平勝宝元年10月24日条</ref>。藤原仲麻呂自身も[[仏教]]に高い関心を示していたといわれ、仏教信仰に篤い光明皇太后を支援した<ref>岸俊男『藤原仲麻呂』134頁。</ref>。天平勝宝4年([[752年]])[[開眼法要|大仏開眼供養会]]が盛大に催され、その夜女帝は[[内裏]]に帰らず仲麻呂の私邸である[[田村第]]におもむき、しばらくここを在所とした<ref>『続日本紀』天平勝宝4年4月9日</ref>。孝謙天皇は後年も[[平城京]]の修理を理由として田村第に長逗留したことから、この邸宅は「田村宮」とも呼ばれた。
 
 
 
この頃の[[太政官]]では仲麻呂の上位に外伯父の橘諸兄と実兄の[[藤原豊成]]が左右の大臣として並んでいた。仲麻呂は豊成を中傷しようと機会を窺っていたが、仲麻呂をよく知る豊成は乗じる隙を与えなかった<ref>『続日本紀』[[天平神護]]元年11月27日条</ref>。その一方で天平勝宝7歳([[755年]])には諸兄が[[朝廷]]を誹謗したとの[[密告]]があり、聖武上皇はこれ許したものの諸兄は恥じて翌天平勝宝8歳([[756年]])に左大臣を辞官した<ref>『続日本紀』天平勝宝8歳2月2日条</ref>。
 
 
 
同年聖武上皇が[[崩御]]。[[遺言|遺詔]]により[[道祖王]]が[[皇太子]]に立てられた<ref>『続日本紀』天平勝宝8歳5月2日条</ref>。しかし、翌天平勝宝9歳(757年)3月に道祖王は[[喪]]中の不徳な行動が問題視されて皇太子を廃され<ref>『続日本紀』天平勝宝9歳3月29日条[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991092/180]</ref>、仲麻呂の意中であった大炊王(後の[[淳仁天皇]])が立太子される<ref>『続日本紀』天平宝字元年4月4日条</ref>。この王は、仲麻呂の早世した長男・[[藤原真従|真従]]の未亡人([[粟田諸姉]])を妃としており、かねてより仲麻呂の私邸である田村第に身を寄せる身の上であった<ref>『続日本紀』淳仁天皇即位前記</ref>。5月には祖父の不比等が着手した[[養老律令]]を施行するとともに、仲麻呂は[[紫微内相]]に任ぜられ大臣に准じる地位に就いた。
 
 
 
=== 橘奈良麻呂の乱 ===
 
こうした仲麻呂の台頭に不満を持ったのが橘諸兄の子の[[橘奈良麻呂|奈良麻呂]]だった。皇太子廃立をうけて奈良麻呂は[[大伴古麻呂]]らとともに、仲麻呂を殺害して[[天武天皇]]の孫にあたる皇族を擁立する反乱を企てるが、はやくも同年6月に[[上道斐太都]]らの密告により計画が露見。奈良麻呂の一味は捕らえられ、443人が処罰される大事件となった。奈良麻呂と古麻呂をはじめ、新帝擁立の候補者に名が挙がっていた道祖王や[[黄文王]]も捕縛され[[拷問]]を受けて獄死、反乱に関与したとして右大臣藤原豊成も[[左遷]]された([[橘奈良麻呂の乱]])。これによって仲麻呂は太政官の首座に就き、名実ともに最高権力者となった<ref>{{Harvnb|木本|2011|loc=「光明・仲麻呂政治体制」再論、30p}}</ref>。
 
 
 
=== 淳仁天皇の時代 ===
 
天平宝字2年(758年)8月に孝謙天皇が譲位して大炊王が即位(淳仁天皇)する。淳仁天皇を擁立した仲麻呂は独自な政治を行うようになり、[[中男]]と[[正丁]]の年齢繰上げや[[雑徭]]の半減、[[問民苦使]]や[[平準署]]の創設など徳治政策を進めるとともに、[[官職の唐風改称|官名を唐風に改称]]させる唐風政策を推進した。そして仲麻呂自身は太保(右大臣)に任じられる。さらに、仲麻呂の一家は姓に恵美の二字を付け加えられるとともに、仲麻呂は押勝の名を賜与された。また[[鋳銭]]と[[出挙]]の権利も与えられ、藤原恵美家には私印を用いることが許された<ref>『続日本紀』天平宝字2年8月25日条</ref>。
 
 
 
=== 新羅征討計画 ===
 
この年[[唐]]で[[安史の乱]]が起きたとの報が日本にもたらされると、仲麻呂は[[大宰府]]をはじめ諸国の防備を厳にすることを命じる。天平宝字3年(759年)には[[新羅]]が日本の使節に無礼をはたらいたとして、仲麻呂は新羅征伐の準備をはじめさせた。軍船394隻、兵士4万700人を動員する本格的な遠征計画が立てられるが、この遠征は後の孝謙上皇と仲麻呂との不和により実行されずに終わる<ref>岸俊男『藤原仲麻呂』261-292頁。</ref>。
 
{{See also|新羅の入寇}}
 
 
 
=== 光明皇太后の崩御 ===
 
天平宝字4年([[760年]])仲麻呂は皇族以外で初めて太師([[太政大臣]])に任じられるが、同年光明皇太后が崩御。皇太后の信任厚かった仲麻呂にとってこれが大きな打撃となる。さらにこの年には弟の乙麻呂も失っている。
 
 
 
天平宝字5年(761年)淳仁天皇と孝謙上皇を[[近江国]]の[[保良宮]]に行幸させ、唐の制度にならって保良宮を「北宮」とした。
 
 
 
天平宝字6年(762年)1月、仲麻呂は子の[[藤原真先|真先]]を[[塩焼王|氷上塩焼]]とともに参議に任じてたが、6月には[[尚蔵]]・[[尚侍]]を務めて仲麻呂と上皇の間のパイプ役になっていた正室の[[藤原袁比良]]を失い、続く7月と9月には仲麻呂の腹心から議政官になった参議[[紀飯麻呂]]と中納言[[石川年足]]も失って、仲麻呂の政治的基盤は弱体化した。そこで仲麻呂は12月には2子[[藤原訓儒麻呂|訓儒麻呂]]・[[藤原朝狩|朝狩]]と女婿の[[藤原弟貞]]を石川年足の弟の[[石川豊成]]とともに参議に任じ、同時に白壁王(後の[[光仁天皇]])を参議を経ずに中納言に抜擢、[[中臣清麻呂]]も参議に任じて政権の補強を図った。しかし1年のうちに近親者4名を参議に任じた仲麻呂の人事はくすぶる反対派に油を注ぐ結果となっていく。
 
 
 
=== 道鏡 ===
 
一方、この頃病になった孝謙上皇は自分を看病した[[道鏡]]を側に置いて寵愛するようになった。仲麻呂は淳仁天皇を通じて、孝謙上皇に道鏡との関係を諌めさせた。これが孝謙上皇を激怒させ、上皇は[[出家]]して[[尼]]になるとともに天皇から大事・賞罰の大権を奪うことを宣言するが、これが実現したかどうかについては研究者のあいだでも見解が分かれる。孝謙上皇の道鏡への寵愛は更に深まり、天平宝字7年([[763年]])には道鏡を[[少僧都]]とした。
 
 
 
=== 藤原仲麻呂の乱 ===
 
孝謙上皇・道鏡と淳仁天皇・仲麻呂との対立は深まり危機感を抱いた仲麻呂は、天平宝字8年([[764年]])自らを[[都督|都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使]]に任じ、さらなる軍事力の掌握を企てる。しかし謀反の密告があり、上皇方に先手を打たれて天皇のもとにあるべき[[御璽]]や[[駅鈴]]を奪われると、仲麻呂は[[平城京]]を脱出する。子の[[藤原辛加知|辛加知]]が[[国司]]を務めていた[[越前国]]に入り再起を図るが、官軍に阻まれて失敗。仲麻呂は近江国[[高島郡 (滋賀県)|高島郡]]の三尾で最後の抵抗をするが官軍に攻められて敗北する。敗れた仲麻呂は妻子と[[琵琶湖]]に舟をだしてなおも逃れようとするが、官兵[[坂上石楯|石村石楯]]に捕らえられて斬首された。僅か1週間前には完全に軍権を把握して意気揚々たる状態だったが、将棋倒しのように不運な敗戦と誤算が相次ぎ急転直下の滅亡となった。
 
{{main|藤原仲麻呂の乱}}
 
 
 
== 死後 ==
 
仲麻呂の一族はことごとく殺されたが、六男の[[藤原刷雄|刷雄]]は死刑を免れて[[隠岐国]]への[[流罪]]となり、のちに赦されて[[桓武天皇]]の時代に[[大学頭]]や[[陰陽頭]]を歴任している。また十一男と伝わる[[徳一]]も処刑されず[[東大寺]]に預けられて出家し、のちに[[大御堂 (つくば市)|筑波山知足院中禅寺]]の[[開山]]となり、やがて[[最澄]]や[[空海]]の論敵としてその名を馳せることになる。
 
 
 
仲麻呂の滅亡によって彼が推進してきた政策は、官名の唐風改称こそは廃されて旧制に戻されたものの、養老律令はじめとする先進的な政策の多くは一部修正を加えられながらもその後の政権によって継続されていくことになる。
 
 
 
== 官歴 ==
 
注記のないものは『続日本紀』による。
 
*時期不詳 - [[正六位|正六位下]]、[[内舎人]]、[[大学寮|大学少允]]
 
*[[天平]]6年(734年)- 1月17日 [[従五位|従五位下]]
 
*天平11年(739年)- 1月13日 従五位上
 
*天平12年(740年)- 1月13日 [[正五位|正五位下]]、10月23日 前騎兵将軍(聖武天皇行幸)、11月14日 正五位上
 
*天平13年(741年)- 閏3月5日 [[従四位|従四位下]]、7月3日 [[民部卿]]
 
*天平15年(743年)- 5月5日 従四位上・[[参議]]・民部卿如元<ref name="kb" />、6月30日 兼[[京職|左京大夫]]
 
*天平17年(745年)- 1月7日 [[正四位|正四位上]]<!--(越階)-->、9月4日 兼[[近江国#国司|近江守]]
 
*天平18年(746年)- 3月5日 兼[[式部省|式部卿]]<ref>『公卿補任』では3月1日</ref>、4月5日 兼[[東山道]][[鎮撫使]]、4月22日 [[従三位]]<ref>『公卿補任』では4月15日</ref>
 
*天平20年(748年)- 3月22日 [[正三位]]<ref>『公卿補任』では3月3日</ref>
 
*[[天平勝宝]]元年(749年)- 7月2日 [[大納言]]<!--(不経[[中納言]])-->、8月10日 兼[[紫微中台|紫微令]]・中衛大将<ref>『公卿補任』では7月12日</ref><ref name="kb" />
 
*天平勝宝2年(750年)- 1月16日 [[従二位]]<ref>『公卿補任』では1月7日</ref>、日付不詳 [[中務省|中務卿]]<ref name="kb" />
 
*[[天平宝字]]元年(757年)- 5月20日 紫微内相<ref>『公卿補任』では5月19日</ref>
 
*天平宝字2年(758年)- 8月25日 [[右大臣|太保]]、兼[[近衛大将|鎮国太尉]]、藤原恵美朝臣押勝に改姓改名
 
*天平宝字4年(760年)- 1月4日 [[従一位]]<ref>『公卿補任』では1月7日</ref>、[[太政大臣|太師]]<ref>『公卿補任』では1月11日</ref>
 
*天平宝字6年(762年)- 2月2日 [[正一位]]
 
*天平宝字8年(764年)- 9月3日 兼[[都督|都督使四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使]]、9月11日 [[氏姓]][[官位]]剥奪
 
 
 
==系譜==
 
*父:藤原武智麻呂
 
*母:阿倍貞媛 - [[阿倍御主人]]孫女
 
*妻:[[藤原宇比良古]](?-762)- [[藤原房前]]女
 
**長男:[[藤原真従]](?-750年代前半?)
 
**次男:[[藤原真先|藤原真先(執弓)]](?-764)
 
**三男:[[藤原訓儒麻呂|藤原訓儒麻呂(久須麻呂)]](?-764)
 
**四男:[[藤原朝狩]](?-764)<ref>ただし母は陽候女王という説もある</ref>
 
**十男:藤原真文(?-764)
 
**長女:藤原児従 - [[藤原御楯]]室
 
*妻:大伴氏(?-764)- [[大伴犬養]]女
 
**六男:[[藤原刷雄]]
 
**十一男:[[徳一]](749?-824?)
 
*妻:陽候女王(?-764) - [[新田部親王]]王女
 
**八男:[[藤原辛加知]](?-764)
 
*妻:紀奈賀岐娘 - [[紀麻呂]]女
 
*生母不明の子女
 
**五男:[[藤原小湯麻呂]](?-764)
 
**七男:[[藤原薩雄]]<ref>刷雄と同一人物説もある</ref>
 
**九男:藤原執棹(?-764)
 
**次女:[[藤原東子 (藤原南家)|藤原東子]](?-?)
 
**三女:藤原額
 
 
 
== 出典 ==
 
*[[岸俊男]]『藤原仲麻呂』 吉川弘文館、1969年<!--3月-->
 
*[[木本好信]]『藤原仲麻呂政権の基礎的考察』 高科書店、1993年<!--6月-->
 
*木本好信『万葉時代の人びとと政争』 おうふう、2008年<!--4月-->
 
*木本好信『藤原仲麻呂』 ミネルヴァ書房、2011年<!--7月-->
 
*木本好信『藤原仲麻呂政権とその時代』 岩田書院、2013年<!--5月-->
 
*{{cite journal|和書|last=木本|first=好信|title=「光明・仲麻呂政治体制」再論 -その異形な政治体制|format=pdf link|url=http://ci.nii.ac.jp/naid/110008434452|journal=Koshien Junior College bulletin of general education|volume=6|pages=40-29|year=2011}}
 
*[[宇治谷孟]]監修『[[続日本紀]]』(上中巻) [[講談社]]〈[[講談社学術文庫]]〉、1992年
 
*『[[公卿補任]]』第一篇  [[吉川弘文館]]、1982年
 
*『[[尊卑分脈]]』第二篇  吉川弘文館、1987年
 
 
 
== 補注 ==
 
{{Reflist|3}}
 
 
 
== 関連作品 ==
 
*漫画『[[火の鳥 (漫画)|火の鳥 鳳凰編]]』 [[手塚治虫]]、1986年にアニメ映画化
 
*テレビドラマ『[[唐招提寺1200年の謎〜天平を駆けぬけた男と女たち]]』 2009年、TBS、演:[[永島敏行]]
 
*テレビドラマ『[[大仏開眼 (テレビドラマ)|大仏開眼]]』 2010年、NHK、演:[[高橋克典]]
 
 
 
== 関連項目 ==
 
*[[藤氏家伝]]
 
*[[騎兵大将軍]]
 
*[[栄山寺]]
 
*[[律令制#日本の律令制]] - [[租庸調#日本の租庸調]]
 
 
 
{{歴代太政大臣}}
 
{{Normdaten}}
 
  
 
{{DEFAULTSORT:ふしわら の なかまろ}}
 
{{DEFAULTSORT:ふしわら の なかまろ}}

2019/4/28/ (日) 18:55時点における最新版

藤原 仲麻呂(ふじわら の なかまろ)

奈良時代の廷臣。藤原南家の祖武智麻呂の次男。一名,恵美押勝。天平6 (734) 年従五位下,同 12年の藤原広嗣の乱後,政界へ進出,同 15年従四位上,参議。以後光明皇后,皇太子阿倍内親王の信任を得て,大仏の造立や平城還都を推進し,天平勝宝1 (749) 年には大納言。左大臣橘諸兄の勢力をしのぐようになった。同8 (756) 年,養老律令の施行を強行するとともに全軍事権を掌握し反対派を一斉に摘発,独裁体制を確立した。天平宝字2 (758) 年太保 (右大臣) となり,同4年従一位大師 (太政大臣) ,同6年正一位となって,唐制を採用した極端な儒教的政治形態を推し進める一方,歴史編纂など文化的事業も企図した。しかし,孝謙上皇が道鏡と結ぶようになると,前途に不安をいだき,同8年道鏡を除こうとして謀反を起そうとしたが,発覚し近江に逃れた。その地で追撃を受け,激戦の末,捕えられ妻子とともに斬られた。



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