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|廟=蓮如上人廟所(京都市山科区)、<br />[[大谷祖廟]] (真宗大谷派)他
 
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'''蓮如'''(れんにょ)は、[[室町時代]]の[[浄土真宗]]の[[僧]]。[[浄土真宗本願寺派]]第8世宗主・[[真宗大谷派]]第8代門首。[[大谷本願寺]]住職。[[諱]]は兼壽。[[院号]]は信證院。[[法印]][[権大僧都]]。本願寺[[中興の祖]]。同宗旨<ref>[[浄土真宗#真宗十派(真宗教団連合)|真宗十派]]の内、本願寺派・大谷派のみ蓮如を歴代とする。</ref>では、「蓮如上人」と尊称される。[[明治]]15年([[1882年]])に、[[明治天皇]]より'''慧燈大師'''の[[諡|諡号]]を追贈されている。しばしば'''本願寺蓮如'''と呼ばれる。文献によっては「'''{{JIS2004フォント|&#xF999;}}如'''」と[[チャク部#一点之繞と二点之繞|「{{JIS2004フォント|辶}} 」(二点之繞)]]で表記される場合がある。[[真宗大谷派]]では「{{JIS2004フォント|&#xF999;}}如」と表記するのが正式である<ref>{{JIS2004フォント|&#xF999;}}如…大谷派では、「[[ハス|{{JIS2004フォント|&#xF999;}}]]」の字は「{{JIS2004フォント|辶}}」(二点之繞)を用いて表記するのが正式であるため、「{{JIS2004フォント|&#xF999;}}如」と表記するのが正式である。</ref> 。父は第7世[[存如]]。[[広橋兼郷]]の[[猶子]]。第9世[[実如]]は5男。
+
'''蓮如'''(れんにょ)
  
[[親鸞]]の嫡流とはいえ蓮如が生まれた時の本願寺は、[[青蓮院]]の末寺に過ぎなかった。他宗や浄土真宗他派、特に[[真宗佛光寺派|佛光寺教団]]の興隆に対し、衰退の極みにあった。その本願寺を再興し、現在の本願寺教団([[浄土真宗本願寺派|本願寺派]]・[[真宗大谷派|大谷派]])の礎を築いたことから、「本願寺中興の祖」と呼ばれる。
+
室町時代の[[浄土真宗]]中興の祖。本願寺第8世。第7世存如とその召使の女性との間に生まれ,幼名は布袋丸。17歳のとき青蓮院尊応の室に入り,次いで大谷の草庵で宗義をきわめ,文安4(1447)年に関東に下り,[[親鸞]]の遺跡を巡拝した。長禄1(1457)年に本願寺の宗統を継ぎ,門徒の教化に努め,日常語で宗学の要を説いた。精力的かつ現実に対応するやわらかい頭脳と,人間的魅力によって教化に成功し,教団を拡大した。東北各地の旅ののち文明3(1471)年に越前の吉崎に道場を設け,北陸の教化に努めた。明応5(1496)年大坂に石山別院を営んだ。1882年に慧燈大師と勅諡された。著書『正信偈大意』『[[御文]](御文章)』『[[領解文]]』など。蓮如の教示の文章を[[東本願寺]]では「おふみ」と呼び,[[西本願寺]]では「ごぶんしょう」と呼ぶ。
 
+
== 生涯 ==
 
=== 本願寺の低迷 ===
 
<span style="font-size:90%;">年齢は、[[数え年]]。日付は、『'''[[御文]]'''』(『'''御文章'''』)などの文献との整合を保つ為、いずれも[[旧暦]](宣明暦)表示とする(生歿年月日を除く)。</span>
 
 
 
[[ファイル:Rennyo6700.JPG|thumb|蓮如上人御誕生之地<br />崇泰院]]
 
応永22年2月25日(1415年4月13日<ref name="guregorioreki" />)、[[京都]][[東山 (京都府)|東山]]の本願寺(現在の[[知恩院]][[塔頭]]崇泰院(そうたいいん)付近)にて、本願寺第7世[[存如]]の長子として生まれる。母は存如の母に給仕した女性と伝えられているが、詳細は不明。一説には、信太(現在の[[大阪府]][[和泉市]])の[[被差別部落]]出身だったともいう<ref>[[東上高志]]『川端分館の頃』p.154。</ref><ref>高山秀夫『江戸から東京へ 物語でつづる部落の歴史』p.6(文理閣、1977年)</ref>。幼名は'''布袋丸'''。
 
 
 
応永27年([[1420年]])、蓮如6歳の時、存如が本妻如円尼を迎える。この時点で生母は本願寺を退出しその後の行方は分かっていない。蓮如幼年期の本願寺は、[[佛光寺]]の隆盛に比し衰退の極にあり、参拝者(後に蓮如の支援者となった[[堅田]][[本福寺 (大津市)|本福寺]]の[[法住]]ら)が余りにも寂れた本願寺の有様を見て呆れ、仏光寺へ参拝したほどであった。
 
 
 
[[永享]]3年([[1431年]])17歳の時[[中納言]][[広橋兼郷]]の[[猶子]]となって[[青蓮院]]で[[得度]]し名を'''中納言兼壽'''と改める。その後、本願寺と姻戚関係にあった[[大和国|大和]][[興福寺]][[大乗院]]の[[門跡]][[経覚]](母方が[[大谷家]](本願寺)の出とされ、父存如の従兄弟と推定されている)について修学。父を補佐し門末へ下付するため、多くの聖教を書写した。永享6年([[1434年]])[[5月12日 (旧暦)|5月12日]]の識語をもつ『'''浄土文類聚鈔'''』が、蓮如により書写された現存する最古のものである。永享8年([[1436年]])、祖父の第6世[[巧如]]が住持職を父に譲り、4年後の永享12年[[10月14日 (旧暦)|10月14日]]([[1440年]][[11月17日]])に死去した。
 
 
 
[[嘉吉]]2年([[1442年]])に第1子(長男)[[順如]]が誕生する。[[文安]]4年([[1447年]])父と共に[[関東]]を訪ね、また[[宝徳]]元年([[1449年]])父と北国で布教する。[[享徳]]4年([[1455年]])[[11月23日 (旧暦)|11月23日]]、最初の夫人、如了尼が死去する。[[長禄]]元年([[1457年]])[[6月17日 (旧暦)|6月17日]]、父の死去に伴い本願寺第8代を継ぐ。[[留主職]](本願寺派における[[法主]])継承にあたり、異母弟[[応玄]](蓮照)を擁立する動きもあったが、叔父で[[越中国]][[真宗大谷派井波別院瑞泉寺|瑞泉寺]]住持[[如乗]](宣祐)の主張により蓮如の就任裁定となった。なお、歴代住職が後継者にあてる[[譲状]]の存如筆が現存しないことから、この裁定は如乗によるクーデターともされる。この裁定に対して、応玄と継母如円尼は怒りの余り本願寺財物を持ち出したと伝えられる。
 
 
 
この頃の本願寺は多難で、宗派の中心寺院としての格を失い、青蓮院の一末寺に転落していた。青蓮院の本寺であった[[近江国|近江]][[比叡山]][[延暦寺]]からは、宗旨についても弾圧が加えられた。これに対して蓮如は延暦寺への上納金支払いを拒絶するなどした。
 
 
 
長禄2年([[1458年]])[[8月10日 (旧暦)|8月10日]]、第8子(5男)[[実如]]誕生([[寛正]]5年([[1464年]])とも)。[[寛正]]6年([[1465年]])[[1月8日 (旧暦)|1月8日]]、 延暦寺は本願寺と蓮如を「仏敵」と認定、翌[[1月9日 (旧暦)|1月9日]]、同寺西塔の衆徒は[[大谷廟堂|大谷本願寺]]を破却する。[[3月21日 (旧暦)|3月21日]]、再度これを破却。蓮如は祖像を奉じて近江の[[金森 (守山市)|金森]]、[[堅田]]、[[大津市|大津]]を転々とする。更に蓮如と親友の間柄であった[[専修寺]]([[真宗高田派]])の[[真慧]]が、自己の末寺を本願寺に引き抜かれた事に抗議して絶縁した([[寛正の法難]])。[[文正]]2年([[1467年]])3月、延暦寺と和議<ref>青蓮院は延暦寺大衆による本願寺の破却に反対して仲裁に奔走したが両者の折り合いが付かず、本願寺を延暦寺西寺塔の末寺とする契約を結ばせることで事態の収拾を図った(大田壮一郎「初期本願寺と天台門跡寺院」大阪真宗史研究会 編『真宗教団の構造と地域社会』(清文堂出版、2005年)) ISBN 4-7924-0589-0 p15-17)。</ref>。条件として、蓮如の隠居と順如の廃嫡が盛り込まれた。廃嫡後も有能な順如は蓮如を助けて行動する。
 
 
 
[[応仁]]2年([[1468年]])、北国、東国の親鸞遺跡を訪ねる。三河に本宗寺を建立する。応仁3年([[1469年]])、[[園城寺|三井寺]]の庇護のもとに大津南別所に[[顕証寺]]を建立、順如を住持として祖像を同寺に置く。[[文明 (日本)|文明]]2年([[1470年]])[[12月5日 (旧暦)|12月5日]]、第二夫人蓮祐尼が死去する。
 
 
 
=== 本願寺の興隆 ===
 
文明3年([[1471年]])4月上旬、[[越前国|越前]]吉崎に赴く。付近の河口荘は経覚の領地で、[[朝倉孝景 (7代当主)|朝倉孝景]]の横領に対抗するため蓮如を下向させたとされる。[[7月27日 (旧暦)|7月27日]]、同所に[[吉崎御坊]]を建立し、荒地であった吉崎は急速に発展した。一帯には坊舎や多屋(門徒が参詣するための宿泊所)が立ち並び、[[寺内町]]が形成されていった。信者は奥羽からも集まった。
 
 
 
文明6年([[1474年]])、[[加賀国|加賀]][[守護]][[富樫氏]]の内紛で[[富樫政親]]から支援の依頼を受ける。蓮如は対立する[[富樫幸千代]]が真宗高田派と組んだ事を知ると、同派の圧迫から教団を維持するために政親と協力して幸千代らを滅ぼした。だが、加賀の民衆が次第に蓮如の下に集まる事を政親が危惧して軋轢を生じた。更に蓮如の配下だった[[下間蓮崇]]が蓮如の命令と偽って一揆の扇動を行った(但し、蓮如ら本願寺関係者が蓮崇の行動に対して全く関知していなかったのかどうかについては意見が分かれている)。
 
 
 
[[ファイル:Tyoufukuj3.jpg|thumb|蓮如上人(銅像)<br />真宗大谷派山科別院長福寺境内]]
 
文明7年([[1475年]])[[8月21日 (旧暦)|8月21日]]、吉崎を退去。一揆を扇動した下間蓮崇を破門。小浜、[[丹波国|丹波]]、[[摂津国|摂津]]を経て[[河内国|河内]]出口に居を定めた。文明10年([[1478年]])[[1月29日 (旧暦)|1月29日]]、山科に坊舎の造営を開始。[[8月17日 (旧暦)|8月17日]]、第三夫人如勝尼が死去。文明13年([[1481年]])、[[真宗佛光寺派]][[佛光寺]]の法主であった[[蓮教|経豪]]が佛光寺派の48坊のうちの42坊を引き連れて蓮如に合流。蓮如から蓮教という名を与えられて改名し、[[興正寺]]([[真宗興正派]])を建立する。これによって佛光寺派は大打撃を受けた。
 
 
 
文明14年([[1482年]])には[[真宗出雲路派]][[毫摂寺]]第8世で[[真宗山元派]][[證誠寺 (鯖江市)|證誠寺]]の住持でもあった[[善鎮]]が門徒を引き連れて合流してきた。
 
 
 
文明15年([[1483年]])[[8月22日 (旧暦)|8月22日]]、[[山科本願寺]]が落成する。同年、長男順如が死去。
 
 
 
文明18年([[1486年]])、[[紀伊国|紀伊]]に下向。後の[[鷺森別院]]の基礎ができる。同年、第四夫人宗如尼が死去。
 
 
 
[[長享]]2年([[1488年]])5月、[[加賀一向一揆]]が国人層と結びついて決起。同年6月9日、加賀の宗徒は守護富樫政親を[[高尾城 (加賀国)|高尾城]]にて包囲し、自刃に追い込む。7月、蓮如は消息<ref>消息…「御叱りの御書」、「騒動しずめの御書」と呼ばれる。([[#参考文献|参考文献]]『蓮如上人の生涯と教え』57~58頁)</ref>を送って一揆を諌めた。[[延徳]]元年([[1489年]])、75歳。寺務を5男の実如に譲り、実如が本願寺第9世となる。
 
 
 
[[明応]]2年([[1493年]])、[[真宗木辺派]][[錦織寺]]の第7代[[慈賢]]の孫[[勝恵]]が[[伊勢国]][[伊賀国]]・[[大和国]]の40ヶ所の門徒を引き連れて本願寺に合流した。
 
 
 
蓮如は山科南殿に隠居して「信證院」と号する。明応5年([[1496年]])9月、大坂石山の地に石山御坊を建立し、居所とした(後の[[石山本願寺]])。
 
 
 
[[ファイル:Rennyo3.jpg|thumb|蓮如上人御廟所]]
 
明応8年(1499年)[[2月20日 (旧暦)|2月20日]]、死に際し石山御坊より山科本願寺に帰参。[[3月20日 (旧暦)|3月20日]]、下間蓮崇を許す。3月25日(1499年5月14日<ref name="guregorioreki" />)、山科本願寺において85歳で没した。
 
 
 
妻の死別を4回に渡り経験し、生涯に5度の婚姻をする。子は男子13人・女子14人の計27子を儲ける。死の直前まで公私共に多忙を極めた。
 
 
 
== 布教 ==
 
蓮如の布教は、教義を消息(手紙)の形で分かりやすく説いた『'''御文'''』(『'''御文章'''』)<ref>『御文』という呼び方は、[[真宗大谷派|大谷派]]にて用いられ、『御文章』という呼び方は[[浄土真宗本願寺派|本願寺派]]にて用いられる。</ref>を中心に行われた。後に蓮如の孫、[[円如]]がこれを収集して五帖80通(『'''五帖御文'''』)にまとめた。これに含まれない消息は『帖外御文』と言われ、倍くらいの数の消息が数えられている。
 
 
 
また、これまで本願寺は毎日の[[勤行]]に[[善導]]著作の『[[往生礼讃]]』を用い、1日を6つに分けてそれぞれの時間帯に読経を行う[[六時礼讃]]を行っていた。しかし、蓮如は吉崎滞在中に越前で三門徒が親鸞著作の『'''[[三帖和讃]]'''』を頻繁に唱えていた事からこれを取り入れると同時に、勤行のやり方を全面的に改正し、朝・夕に親鸞著作の『'''[[正信念仏偈]]'''』(『'''正信偈'''』)と『'''三帖和讃'''』を唱える方式に制定、一般の門徒に広く受け入れられるようにした。こうして文明5年([[1473年]])3月、吉崎にて『'''正信念仏偈'''』・『'''三帖和讃'''』の開版、印刷が行われ、さらなる布教に邁進していった。
 
 
 
また、門徒個人が所有する「道場」、村落ごとに形成された「惣道場」の本尊に「十字名号」(文明期以降は、「六字名号」や「阿弥陀如来絵像」)を与えた<ref>本尊に関する[[#参考文献|参考文献]]『蓮如上人の生涯と教え』67~68頁、『蓮如上人ものがたり』105~109頁</ref>。
 
 
 
その他の著作に『'''正信偈大意'''』『正信偈証註釈』、信仰生活の規範を示した[[改悔文|「改悔文」(「領解文」)]]などがある。
 
 
 
また蓮如の死後、弟子達が蓮如の言行録を写し継いだ書物として『'''蓮如上人御一代記聞書'''』(『蓮如上人御一代聞書』)全316箇条が残されている。
 
 
 
== 妻子 ==
 
* 第1夫人:[[如了]](1424年 - 1455年) - [[伊勢貞房]]の娘
 
** 1男:[[順如]](1442年 - 1483年) - [[河内国|河内]]出口[[光善寺 (枚方市)|光善寺]]開基
 
** 1女:如慶(1446年 - 1471年) - 京都[[常楽寺]][[蓮覚|蓮覚光信]][[室]]
 
** 2男:[[蓮乗]](1446年 - 1504年) - 兼鎮、[[越中国|越中]][[真宗大谷派井波別院瑞泉寺|井波瑞泉寺]]・[[加賀国|加賀]]若松[[本泉寺]]
 
** 2女:見玉(1448年 - 1472年) - 出家・京都摂受庵見秀尼弟子
 
** 3男:[[蓮綱]](1450年 - 1531年) - 兼祐、加賀波佐谷[[松岡寺]]開基、鮎蔵坊開基
 
** 3女:寿尊(1453年 - 1516年) - 出家・京都摂受庵見秀尼弟子、後に[[摂津富田]][[教行寺 (高槻市)|教行寺]]
 
** 4男:[[蓮誓]](1455年 - 1521年) - 加賀滝野坊、九谷坊、山田[[光教寺]]、越中中田坊開基
 
* 第2夫人:[[蓮祐]](1438年 - 1470年) - 伊勢貞房の娘・如了<span style="font-size:80%;">(第1夫人)</span>妹
 
** 5男:'''[[実如]]'''(1458年 - 1525年) - '''本願寺第9世'''
 
** 4女:妙宗(1459年 - 1537年) - 出家・知恩院椿性禅尼弟子、左京義政[[妾]]
 
** 5女:妙意(1460年 - 1471年) - 早逝
 
** 6女:如空(1462年 - 1492年) - [[越前国|越前]]大谷興行寺[[蓮助|蓮助兼孝]]室
 
** 7女:祐心(1463年 - 1490年) - [[白川資氏王]]室
 
** 6男:[[蓮淳]](1464年 - 1550年) - [[近江国|近江]]大津顕証寺、河内久宝寺[[顕証寺 (八尾市)|顕証寺]]・[[伊勢国|伊勢]]長島[[願証寺]]開基
 
** 8女:了忍(1466年 - 1472年) - 早逝
 
** 9女:了如(1467年 - 1541年) - 越中井波瑞泉寺[[蓮欽]]妾
 
** 7男:[[蓮悟]](1468年 - 1543年) - 加賀崎田坊、中頭坊、清沢坊、若松本泉寺創建
 
** 10女:祐心(1469年 - 1540年) - [[中山宣親]]室、第11世[[顕如]]の曽祖母
 
* 第3夫人:[[如勝]](1448年 - 1478年)
 
** 11女:妙勝(1477年 - 1500年) - [[山城国|山城]]勝林坊[[勝恵|勝林坊勝恵]]妾
 
* 第4夫人:[[宗如]](? - 1484年) - [[姉小路昌家]]の娘、[[姉小路基綱]]の妹
 
** 12女:蓮周(1482年 - 1503年) - 越前超勝寺[[蓮超]]室
 
** 8男:[[蓮芸]](1484年 - 1523年) - 摂津富田教行寺・摂津名塩教行寺
 
* 第5夫人:[[蓮能]](1465年 - 1518年) - [[畠山政栄]]の娘、[[畠山家俊]]の姉
 
** 13女:妙祐(1487年 - 1512年) - 山城勝林坊勝恵室
 
** 9男:[[実賢]](1490年 - 1523年) - 近江[[堅田]][[称徳寺]]
 
** 10男:[[実悟]](1492年 - 1583年) - 河内古橋[[願得寺]]
 
** 11男:[[実順]](1494年 - 1518年) - 河内久宝寺[[顕証寺 (八尾市)|西証寺]]
 
** 12男:[[実孝]](1495年 - 1553年) - [[大和国|大和]]飯貝[[本善寺 (吉野町)|本善寺]]
 
** 14女:妙宗(1497年 - 1518年) - 京都常楽寺[[実乗|実乗光恵]]室
 
** 13男:[[実従]](1498年 - 1564年) - 河内枚方[[順興寺]]
 
== 成仏させた大蛇の骨 ==
 
[[大阪府]][[八尾市]]の[[顕証寺 (八尾市)|顕証寺]]に「蓮如上人ご救済の大蛇骨」と呼ばれる頭骨が伝わっている。伝承では蓮如の夢に女性が現れ「[[龍|龍女]]に変えられて苦しんでいる」と訴えた。顕如はこれを供養したところ、海にその死体が上がったとされ、その龍(大蛇)の骨を大切に祀った。
 
 
 
[[平成]]30年([[2018年]])、[[大阪大学総合学術博物館]]の伊藤謙特任講師らがこの顕証寺に伝わる骨を調査したところ、[[完新世]]期(約1万年前~現在)[[シャチ]]の頭骨で、頭骨の全長は1.6m、推定される全長は7mである。しかも普通のシャチの頭骨ではなく、[[化石]]化した可能性が高いものであることが判明した。この骨は[[石山本願寺]]創設後の([[1496年]])頃、[[真宗大谷派難波別院]](現・[[大阪府]][[大阪市]][[中央区 (大阪市)|中央区]][[久太郎町]])付近で発掘されたものとも伝わり、同地では戦後の[[高度成長期]]の開発時に[[クジラ]]類の化石が大量に発掘されている。<ref>蓮如上人ゆかりの伝承頭骨はシャチだった 大阪・八尾の顕証寺 https://www.sankei.com/west/news/180623/wst1806230050-n1.html</ref>
 
== 脚注 ==
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
<!-- 本項目を編集する際に出典として用いた文献 -->
 
*{{Cite book|和書
 
|author=浄土真宗教学研究所浄土真宗聖典編纂委員会編
 
|year=1999
 
|title=蓮如上人御一代記聞書
 
|publisher=本願寺出版社
 
|series=浄土真宗聖典
 
|isbn=978-4-89416-641-7
 
|volume=現代語版
 
}}
 
*{{Cite book|和書
 
|author=真宗大谷派教学研究所編
 
|year=1994
 
|title=<small>真宗再興の人</small> 蓮如上人の生涯と教え
 
|publisher=真宗大谷派宗務所出版部
 
|isbn=4-8341-0225-4
 
}}
 
*{{Cite book|和書
 
|author=[[青木馨]]
 
|year=1995
 
|title=蓮如上人ものがたり
 
|publisher=真宗大谷派宗務所出版部
 
|isbn=978-4-8341-0227-7
 
}}
 
*{{Cite book|和書
 
|author=[[東澤眞静]]
 
|year=1986
 
|title=蓮如の生涯
 
|publisher=[[法藏館]]
 
|isbn=4-8318-2302-3
 
}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Commons|Category:Rennyo}}
 
*[[吉崎御坊]]
 
*[[名号]]
 
*[[一休宗純]]
 
*[[白骨 (御文)|『御文(御文章)』「白骨」]]
 
*[[蓮如賞]]
 
 
 
=== 関連文献 ===
 
*{{Cite book|和書
 
|author=[[大谷暢順]]編
 
|year=1989
 
|title=蓮如上人全集 言行篇
 
|publisher=[[中央公論新社]]
 
}}
 
*{{Cite book|和書
 
|author=大谷暢順編
 
|date=1998年 - 2001年
 
|title=蓮如上人全集
 
|publisher=[[河出書房新社]]
 
|volume=全5巻
 
}}
 
 
 
=== 歴史小説 ===
 
蓮如を描いた[[歴史小説]]
 
*[[五木寛之]]『蓮如 -われ深き淵より-』
 
*五木寛之『蓮如物語』 - [[松方弘樹]]プロデュース、主演、[[東映アニメーション|東映動画]]制作でアニメ映画化
 
*[[丹羽文雄]]『蓮如』全8巻
 
*[[岳宏一郎]]『蓮如 夏の嵐』上・下
 
===映画===
 
*[[川本喜八郎]]監督『蓮如とその母』(「蓮如とその母」映画製作推進委員会、1981年) - 母が被差別部落民と伝えられる蓮如の生涯を部落問題を背景に描いた作品。
 
*アニメ『なぜ生きる -蓮如上人と吉崎炎上-』(2016年) - [[明橋大二]]と伊藤健太郎の共著(監修:[[高森顕徹]])が原作。蓮如の声は[[里見浩太朗]]が演じる。
 
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://www.honganjifoundation.org/rennyo/ 吉崎御坊蓮如上人記念館]
 
* [http://www.saginomori.or.jp/index.htm 鷺森別院]([[本願寺鷺森別院]]〈本願寺派〉)
 
* [http://www.geocities.jp/suiun_an/newpage275.html 本願寺蓮如の略歴]
 
* [http://kimassi.net/rennyo/rennyo.html 蓮如上人墓]
 
  
 
{{本願寺}}
 
{{本願寺}}
 
{{浄土教2}}
 
{{浄土教2}}
{{Normdaten}}
+
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{{DEFAULTSORT:れんによ}}

2018/10/23/ (火) 08:57時点における最新版

蓮如[1]

応永22年2月25日 - 明応8年3月25日
1415年4月13日 - 1499年5月14日
1415年4月4日 - 1499年5月5日

上段・旧暦 中段・グレゴリオ暦換算[2]下段・ユリウス暦
幼名 布袋丸
法名 蓮如
院号 信證院
兼壽
諡号 慧燈大師
尊称 蓮如上人
生地 京都・大谷本願寺
(現、知恩院塔頭 崇泰院)
没地 京都山科本願寺
宗旨 浄土真宗
宗派 (後の本願寺系諸派)
寺院 吉崎御坊、山科本願寺、
大坂石山御坊(後の石山本願寺)
著作御文』、『正信偈大意』
蓮如上人廟所(京都市山科区)、
大谷祖廟 (真宗大谷派)他

蓮如(れんにょ)

室町時代の浄土真宗中興の祖。本願寺第8世。第7世存如とその召使の女性との間に生まれ,幼名は布袋丸。17歳のとき青蓮院尊応の室に入り,次いで大谷の草庵で宗義をきわめ,文安4(1447)年に関東に下り,親鸞の遺跡を巡拝した。長禄1(1457)年に本願寺の宗統を継ぎ,門徒の教化に努め,日常語で宗学の要を説いた。精力的かつ現実に対応するやわらかい頭脳と,人間的魅力によって教化に成功し,教団を拡大した。東北各地の旅ののち文明3(1471)年に越前の吉崎に道場を設け,北陸の教化に努めた。明応5(1496)年大坂に石山別院を営んだ。1882年に慧燈大師と勅諡された。著書『正信偈大意』『御文(御文章)』『領解文』など。蓮如の教示の文章を東本願寺では「おふみ」と呼び,西本願寺では「ごぶんしょう」と呼ぶ。





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  1. 文献によっては、「蓮」の「」(一点之繞)の部分が「」(二点之繞)で「如」と表記される場合もある。(一点之繞と二点之繞を参照。)
  2. グレゴリオ暦換算。本願寺派では、グレゴリオ暦に換算した生没年を用いる。