華国鋒

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華国鋒
各種表記
繁体字 華國鋒
簡体字 华国锋
拼音 Huà Guófēng
和名表記: か こくほう
発音転記: ホワ・クオフォン
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華 国鋒(か こくほう、ホワ・クオフォン、1921年2月16日 - 2008年8月20日)は、中華人民共和国の政治家、毛沢東死後の中国の最高指導者で、中国共産党中央委員会主席中央軍事委員会主席、国務院総理(首相)などを務めた。原名は蘇鋳

経歴

初期の政治活動

山西省交城県で生まれた華国鋒は、日中戦争が始まると抗日活動に身を投じ、1938年に交城県犠牲同盟抗日遊撃隊に参加。このとき、彼が属した「中華抗日救国先鋒隊」にちなんで、本名の蘇鋳から華国鋒へ改名している。同年、中国共産党に入党。1940年、故郷で抗日救国連合会の主任を務め、後に共産党の同県書記となった。

1949年の中華人民共和国成立後は、毛沢東の故郷である湖南省湘潭県などで党委員会書記を務め、農業問題の論文が毛沢東に気に入られ[1]、その忠実な部下として昇進した。

党主席兼首相就任

1969年4月の第9回党大会では中央委員[2]となった華国鋒は、1970年11月には湖南省委員会第一書記に選出され、併せて省軍区第一政治委員、省軍区党委員会第一書記に任ぜられた[3]

1971年には中央に引き上げられ、党政治局会議に参加した[1]1973年8月30日の第10期党中央委員会第1回全体会議(第10期1中全会)で中央政治局委員に昇格[4]。同年、公安部長(大臣)に就任した。

毛沢東に信頼され、1975年には国務院副総理(副首相)に昇進。1976年1月8日に周恩来総理が死去すると、毛沢東の意向により国務院総理代行とする決定がなされ、2月2日に党中央の「1号文件」として通知された[5]

4月7日、毛沢東の指示に基づいた党政治局会議の決議により、華国鋒は後継の国務院総理党中央委員会第一副主席に任命され、毛に次ぐ序列第2位の地位に抜擢された[6][7]

1976年4月30日、毛沢東から「あなたがやれば、私は安心だ(你办事,我放心)」という遺言にあたる自筆メモを入手したとされている[8]

同年9月9日、毛沢東が党主席在任のまま死去。10月6日文化大革命の主導者であった江青張春橋らの四人組を逮捕。これにより、毛沢東の死後に激化していた党内対立を一気に解決し、文化大革命を事実上終結させた。翌10月7日中央政治局決議により党中央委員会主席および党中央軍事委員会主席に就任し[9]、これは1977年7月21日の第10期党中央委員会第3回全体会議で追認された[10][11]。同年8月の第11回党大会において、1966年以来11年にわたった文化大革命の終結を宣言した。

権力基盤の脆弱な華国鋒は、常に毛沢東の威光を借りようとした。1976年11月には毛主席紀念堂を着工して、翌年9月の死去1周年に完成させており、建物の正面に「毛主席紀念堂」の金文字の揮毫を自ら行っている。1977年10月には「二つのすべて两个凡是)」の方針を示し、文化大革命には是々非々の立場を表明したが、かつて実権派として失脚・迫害された鄧小平らからの強い批判を浴びた。

失脚

1978年12月に行われた第11期3中全会で、中国共産党のトップとしての実権を鄧小平に奪われ、1980年9月に首相を[12]、そして翌1981年には党主席を辞任した。当初序列6位の副主席に降格されていたが、1982年に党主席ポストが廃止された際にそれも退任した。四人組ほど急進的でなかったものの、「文革色」の残る政治家であった華国鋒は、鄧小平らと権力闘争を展開し、最終的に追い落とされて失脚させられたといわれる。

その後も、2002年11月に引退するまで中国共産党中央委員を務めた(結果的には鄧小平ら八大元老よりも遅くまで中央委員を務めることとなった)。外国メディアとの接触は断ち、中国国内でその動静を伝えられることは極めて稀であったが、ある程度の政治的活動は認められていたと考えられている。これは、鄧小平らとの権力闘争に敗れることを予測してからは泥沼の争いをせずに身を引いたことが中国の混乱を防止したとして、鄧らから一定の評価を受けたためとされる。

引退後

2004年2月、中国共産党に離党届を提出したと一部メディアが報道したが、2007年10月、「中共元老」として第17回党大会に招待され参加していることから、実権を失ってからも一定の待遇を受けていたと考えられる。

2008年8月20日午後0時50分ごろ(中国標準時)、病気のために北京市内の病院で死去した[13]

指導者としての評価

内政

党主席や政府首相に就任した時は文化大革命の末期で、混乱した中国社会の再建が急務であった。最初の行動が四人組の逮捕であり、その後も共産党の指導性を維持しつつ、社会の安定を取り戻そうとする試みを続けた。

ただし、彼自身が文化大革命の時期に台頭し、毛沢東思想の信奉者であったため、四人組に連なる党内左派の排除は緩やかであり、その一方では鄧小平ら右派の台頭も抑え込めなかったため、党内では不安定な立場のままだった。その曖昧さは経済運営にも反映され、人民公社の解体は慎重に進められた。この時期は、中国が鄧小平の指導で改革・開放政策による急速な経済発展へと進む、前段階であったとも言える。

党主席に就任した後は、毛沢東の肖像画の隣に自らの肖像画を飾った。また、個人崇拝の絵が存在している(鄧小平の肖像画や絵はほとんど存在しない)[1]

一方、彼が行った四人組の逮捕と文化大革命の終結がなければ、後の改革開放は数年は遅れていたものと考えられている。また金銭的には清廉で、権力を利用して利益を自らに誘導することはなかったとされている。そのため、後に官僚の腐敗が横行する中で、一部で根強い人気を維持した。

外交

毛沢東・周恩来時代の末期の外交路線を踏襲し、アメリカ合衆国との接近とソビエト連邦との対決を進めた。

1979年1月にはアメリカ(ジミー・カーター大統領)との国交を樹立し、中華人民共和国が「中国を代表する唯一の正統政府」であるという立場を認めさせて、台湾中華民国政府との外交関係を断絶させた。ただしアメリカは、中華民国との実質的な協力関係を維持し、中華人民共和国は、アメリカによる中華民国への軍事援助などを止めさせることはできなかった。

また、日本福田赳夫首相)との間では、1978年日中平和友好条約を締結し、戦争状態を完全に終結させた。1980年には、中華人民共和国のトップとして初めて日本を公式訪問した。東京での公式行事のあと、京都市嵐山亀山公園に前年に建立されたばかりの周恩来の詩碑を訪問している。なお、同年7月にも大平正芳首相の葬儀参列のため、再び訪日している。

一方、ソビエト(レオニード・ブレジネフ共産党書記長)との対立は依然として厳しく、国境では人民解放軍の大軍がソビエトの侵攻に備えた。日中平和友好条約締結の際には、中国側がソビエトを念頭に「覇権主義への反対」を条文として盛り込むように要求し、「第三国」という表記で決着するという事態になった。

また、1979年1月にソビエトの支援を受けたベトナムが、カンボジアに侵攻してポル・ポト政権(民主カンボジア)を倒すと、ポル・ポト政権と関係の深かった中国は激しく反発し、すぐさま「懲罰」と称してベトナムに侵攻した(中越戦争)。ただし人民解放軍は大きな損害を出し、中途半端な状態で戦争を終わらせてしまい、軍事・外交の両面で得るものはなく終わった。その後も、カンボジア内戦ではポル・ポト派を支援し、ベトナムとの外交関係は断絶したままであった。

四人組逮捕と華国鋒

これまで四人組の逮捕については、葉剣英中央軍事委員会副主席が中心となって画策し、逡巡する華国鋒に決断を迫ったという見方があった(『毛沢東秘録』産経新聞社)。。ただし、四人組逮捕について積極的な評価が定まってからの発言であることにも留意しなくてはならない。

脚注

  1. 1.0 1.1 産経新聞・下(1999年)、299ページ。
  2. 中国共産党第九届中央委員会委員和候補委員名単 (中国語)
  3. 華国鋒同志生平 (中国語)
  4. 中国共産党第十届中央委員会第一次全体会議公報 (中国語)
  5. 産経新聞・下(1999年)、300ページ。
  6. 中共中央関于華国鋒同志任中国共産党中央委員会第一副主席、中華人民共和国国務院総理的決議 (中国語)
  7. 産経新聞・下(1999年)、319-321ページ。
  8. このことについて中国共産党中央文献研究室の『毛沢東伝』では否定されている。これは当時毛沢東の私設秘書であった張玉鳳の手記を引用したもので、国際問題について尋ねた華国鋒に「既定の方針にしたがってやれ」「あなたがやれば私は安心だ」と言ったに過ぎず、事実に合わないとの見解を党は示している。一方で、上述の毛沢東の言葉は、華国鋒が四人組の攻撃に耐え切れずに毛沢東に辞意を示したときに、声の出なくなった毛沢東が紙に書き、その後の政治局会議でその紙を政治局員らに見せ、攻撃を乗り切ったとする説もある。
  9. 中共中央関于華国鋒同志任中国共産党中央委員会主席、中国共産党中央軍事委員会主席的決議(一九七六年十月七日) (中国語)
  10. 関于追認華国鋒同志任中国共産党中央委員会主席、中国共産党中央軍事委員会主席的決議(一九七七年七月十七日通過) (中国語)
  11. 中国共産党第十期中央委員会第三回総会の公報
  12. 第五届全国人民代表大会第三次会議関于接受華国鋒辞去国務院総理職務的請求和接受鄧小平、李先念、陳雲、徐向前、王震、王任重辞去国務院副総理職務的請求的決議 (中国語)
  13. 華国鋒氏の告別式、党指導者が最後の別れ」『人民網日本語版』 2008年9月1日

参考文献

  • 産経新聞「毛沢東秘録」取材班 『毛沢東秘録<下>』 産経新聞社、1999年


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先代:
毛沢東
中央軍事委員会主席
1976年 - 1981年
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先代:
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次代:
葉剣英
(副主席筆頭)