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'''英蘭戦争'''(えいらんせんそう、{{lang-en-short|Anglo-Dutch Wars}})は、[[17世紀]]後半の3次にわたる[[イングランド王国|イングランド]]と[[ネーデルラント連邦共和国]](オランダ共和国)の[[戦争]]であるが、[[18世紀]]の戦争も同様に呼ばれる。イギリス・オランダ戦争とも呼ばれる。
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'''英蘭戦争'''(えいらんせんそう、{{lang-en-short|Anglo-Dutch Wars}}
  
17世紀始めには英蘭両国は[[カトリック教会|カトリック]]の[[スペイン]]・[[ポルトガル王国|ポルトガル]]勢力に対して協力関係にあったが、[[オランダ東インド会社]]の実力が[[イギリス東インド会社]]を上回り、[[1623年]]の[[アンボイナ事件]]を契機に、イングランドは[[東南アジア]]や[[東アジア]]から撤退せざるを得なくなった。香料貿易を独占したオランダには[[アジア]]の富が流入し<ref>[[チューリップ・バブル]]([[1637年]])の解説も参照。</ref>、イングランドでは反オランダ感情が高まった。
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蘭英戦争とも呼ばれる。 17世紀後半に世界貿易の優越権と漁業問題をめぐり,イギリスとオランダの間で3回にわたって行われた戦争。 (1) 第1次 (1652.5.~54.4.)  イギリスが「[[航海法]]」を公布し,オランダの中継貿易の独占を破ろうとしたことを背景とし,オランダ船への臨検捜索権の主張を発端として開戦。オランダの M.トロンプ,イギリスの R.ブレークが指揮官として活躍したが,貿易上の損害の大きかったオランダは,[[ウェストミンスター条約]]を結んで講和。「航海法」を認め,賠償金を払った。 (2) 第2次 (65.3.~67.7.)  王政復古後のイギリスが「航海法」の更新,アメリカのニューネーデルラントの攻撃などを行なったのが原因で開戦。オランダの海軍力は強化され,[[M.デ・ロイテル]]提督はテムズ川に侵入,ロンドンを封鎖した。イギリスは[[ブレダの和約]]を結び,東インドの2島を放棄,ニューヨークなどを獲得して終結させた。オランダの譲歩はフランスへの警戒が働いていた。 (3) 第3次 (72.6.~74.2.)  スペイン領ネーデルラントの併合をオランダの計略ではばまれたフランスのルイ 14世が,イギリスのチャールズ2世と密約を結び (70) ,不意にスペイン領フランドルからオランダの国境を目指して侵入したことによって開戦。オランダの 1660年代の指導者 [[J.デ・ウィット]]は失脚し,オランニェ公ウィレム3世が中心となり抵抗。イギリスにも国民の不満が高まり,第2ウェストミンスター条約で終結した。
 
 
戦争は海戦が中心で双方とも相手方の本土に侵攻することはなく、いずれも中途半端な結果に終わった。イングランドは3次にわたってオランダと開戦し、オランダ経済に大打撃を与えたが、皮肉にも[[1688年]]の[[名誉革命]]により、かつて敵対したオランダ統領ウィレム3世をイングランド王ウィリアム3世として迎えることとなる。<!--名誉革命は国際関係からみれば、クロムウェルが提唱した英蘭合邦案の実現と言えなくもない。--><!--論証不足と思われたので隠しています。-->
 
 
 
18世紀に行われた第四次英蘭戦争により、オランダの[[国力]]は疲弊し、海上交易における優勢を失った。[[:en:MacMillan Center for International and Area Studies|マクミラン国際地域研究センター]]所長を務める[[:en:Steven Pincus|スティヴン・パインクス]]のような多くの高名な歴史家達は、この戦争を17世紀の一連の戦争と原因が異なるので、一緒にしないほうが良いとしている。
 
 
 
歴史家によっては、イギリスと[[バタヴィア共和国]]の戦争、および[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]時代の[[ホラント王国]]との戦争を、それぞれ第五次、第六次英蘭戦争と呼んでいる。
 
 
 
== 第一次英蘭戦争 ==
 
{{Infobox Military Conflict
 
| conflict    = 第一次英蘭戦争
 
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| image      = [[ファイル:Beerstraaten, Battle of Scheveningen.jpg|150px]]
 
| caption    = [[1653年]][[8月10日]]に行われた第一次英蘭戦争の最後の戦い、スヘフェニンゲンの海戦。([[:en:Jan Abrahamsz Beerstraaten|Jan Abrahamsz Beerstraaten]]画)
 
| date        = [[1652年]] - [[1654年]]
 
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| commander2  = [[マールテン・トロンプ]]{{KIA}}<br>[[ミヒール・デ・ロイテル]]<br>[[w:Witte Corneliszoon de With|ウィッテ・コルネリスゾーン・デ・ウィット]]<br>[[w:Johan van Galen|ヨハン・ファン・ガレン]]
 
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}}
 
{{main|第一次英蘭戦争}}
 
[[1651年]]に制定された[[航海条例]]をきっかけに、[[1652年]]から[[1654年]]にかけて[[オリバー・クロムウェル]]の[[イングランド共和国]]と[[ネーデルラント連邦共和国]](オランダ)の間で戦われた。イングランド艦隊は[[東インド]]などから[[アジア]]の富を満載して帰国するオランダ船団を[[イギリス海峡]]で襲撃し、拿捕し始めた。このため当初はイギリス海峡の[[制海権]]が焦点となった。
 
 
 
当時オランダの造船能力は世界最高水準にあり、オランダ製の大型軍艦は既に輸出商品として確立されていたが、常設の大艦隊を保有しない方針であること、小型艦中心のオランダ艦隊は大型艦中心のスペイン艦隊に常に勝利し続けたこと、通商ルートの保護のためには小型艦の数をそろえた方が便利である等の理由により、[[ブルジョワジー|ブルジョワ]]政治家たちは大型軍艦建造を承認しなかった。また、オランダの沿岸は水深が浅いため、喫水が深くなる大型艦が運用しづらいという事情もあった。
 
 
 
これに対してイングランド側はよく装備された大型軍艦を投入、[[単縦陣]]という戦術でオランダ海軍と拮抗した。[[ヨハン・デ・ウィット]]ら一部の進歩的政治家や現場の海軍士官たちは大型艦の必要性に気づいていたが、対応は遅れた。[[1652年]]から[[1653年]]にかけてオランダの[[マールテン・トロンプ]]提督は、[[ロバート・ブレイク]]率いる優勢なイングランド海軍に対して奮戦したものの装備の差はどうすることもできず、{{ill2|グッドウィンサンズの戦い|en|Battle of Goodwin Sands|label=ドーバーの海戦}}や{{ill2|プリマスの戦い|en|Battle of Plymouth}}や{{ill2|ケンティッシュノックの戦い|en|Battle of the Kentish Knock|label=ケンティッシュ・ノックの海戦}}ではイングランド側優勢であった。オランダは{{ill2|ダンジュネスの戦い|en|Battle of Dungeness|label=ダンジュネスの海戦}}で勝利したものの、{{ill2|ポートランドの戦い|en|Battle of Portland|label=ポートランド沖海戦}}では敗れた。重傷を負ったブレイクと交代した[[ジョージ・マンク (初代アルベマール公)|ジョージ・マンク]]が{{ill2|ガッバードの戦い|en|Battle of the Gabbard|label=ガッバードの海戦}}でオランダ海軍を破り、[[デン・ハーグ]]沖の{{ill2|スヘフェニンゲンの海戦|en|Battle of Scheveningen}}でトロンプ提督が戦死してオランダはイギリス海峡の制海権を失った。オランダ船団は[[スコットランド]]の北を大きく迂回してオランダ本国に帰国しなければならなくなった。
 
 
 
イギリス海軍はオランダ諸港の封鎖を続け、貿易立国のオランダは大打撃を受けたといわれているが、実際のところ、大した損害は蒙っていない。イングランドの[[護国卿]]となっていたクロムウェルは、理想主義的なプロテスタント英蘭の対等な合邦論を唱えたが、1654年に和議に応じ[[ウェストミンスター条約]]が成立、戦争は終わった<ref>友清、P22 - P24、小林、P174 - P187。</ref>。
 
 
 
== 第二次英蘭戦争 ==
 
[[ファイル:Storck, Four Days Battle.jpg|thumb|300px|第2次英蘭戦争中の1666年6月11日から14日にかけて海戦が行われた(エイブラハム・ストーク画)]]
 
{{main|{{仮リンク|第二次英蘭戦争 (英蘭戦争)|en|Second Anglo-Dutch War|label=第二次英蘭戦争}}}}
 
[[1665年]]から[[1667年]]にかけて[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]を戴く[[王政復古]]後の[[イングランド王国]]と、デ・ウィットの率いるオランダの間で展開された。イングランド軍が[[北アメリカ]]におけるオランダ植民地[[ニューアムステルダム]]を占領したことが発端となった。前回同様イングランド艦隊はオランダ商船の拿捕やオランダ諸港の封鎖を行おうとしたが、財政難で失敗した。
 
 
 
イングランド海軍はチャールズ2世の弟で海軍卿の[[ヨーク公]][[ジェームズ2世 (イングランド王)|ジェームズ]](後のジェームズ2世)と、ヨーク公の従兄の[[カンバーランド公]][[ルパート (カンバーランド公)|ルパート]]、共和政でイングランド海軍の提督だった[[サンドウィッチ伯爵]][[エドワード・モンタギュー (初代サンドウィッチ伯爵)|エドワード・モンタギュー]]が指揮を執っていた。オランダは陸軍出身で政治的人事で登用されたオブダム提督が司令官として海軍を率いてイングランド海軍と戦うことになる。
 
 
 
1665年、ヨーク公率いるイングランド海軍は[[ローストフトの海戦]]で勝利したが、ここでオブダム提督が戦死したため、アフリカから帰国したデ・ロイテルがオランダ艦隊司令長官となり、却ってヤブヘビとなる。ヨーク公はチャールズ2世の後継者でもあるため、万が一の危険を恐れたチャールズ2世の命令で後方に回され、サンドウィッチが不正疑惑で左遷されると、第一次英蘭戦争で活躍したマンクが復帰してルパートと共に戦った。
 
 
 
[[1666年]]、[[フランス王国|フランス]]がオランダと同盟を結んで宣戦布告したことを知ったイングランドは、ルパート艦隊をフランス艦隊に差し向けたが、戦力を分散したままオランダ海軍に遭遇、マンクはオランダ海軍より少ない艦隊で交戦する羽目になった({{仮リンク|4日間の戦い|en|Four Days' Battle|label=4日海戦}}[[6月11日]]から[[6月14日|14日]]([[旧暦]]では[[6月1日 (旧暦)|6月1日]]から[[6月4日 (旧暦)|4日]]))。4日目にはルパートの艦隊が合流し、イングランド側が戦力的に優位に立ったが、それでもイングランド海軍は大損害を受けて敗北した。オランダ海軍の損害は僅かだったが、マンクは戦果を過大に報告した。
 
7月に起こった{{仮リンク|聖ジェイムズ日の戦い|en|St. James's Day Battle|label=聖ジェイムズ日の海戦}}では、イングランド海軍は前回の反省からマンクとルパートが共同戦線を張りオランダ海軍と対決、一応は勝利を飾った。またもマンクは戦果を誇大に報告したが、実際の損害は英1隻、オランダ2隻で、双方ともごくわずかであった。余勢を駆った8月のオランダ沿岸襲撃([[ホームズの焚火]])も成功を収めたが、その翌月にはオランダ艦隊は再び海峡に進出しており、イングランド優勢とはならなかった。しかし、オランダ側はゼーラント海軍司令部の名将ヨハン・エベルトセンを始めとする5人の将官が戦死する痛手を受けた上に、命令無視をとがめられたコルネリス・トロンプ(マールテン・トロンプの息子)が解任された。
 
この後、オランダ側はイングランドの同盟国であるドイツの小諸邦からの陸軍の侵入や、艦隊司令官デ・ロイテルの病気療養などもあって、海上において積極的な行動は取らなかった。
 
 
 
この戦争が始まるとイングランドでは[[ペスト]]が流行したり、[[ロンドン大火]]が起こったりして財政難に陥り厭戦気分が漂った。翌[[1667年]]、和平を考えていたデ・ウィットはロイテルと兄[[コルネリス・デ・ウィット]]を乗せたオランダ艦隊を[[テムズ川]]に侵入させて[[チャタム (イングランド)|チャタム]]周辺に停泊中の軍艦を焼き討ちにし、イングランド艦隊総旗艦[[ネイズビー (戦列艦)|ロイヤル・チャールズ]]を含めた数隻を捕獲した([[メドウェイ川襲撃]])。
 
 
 
イングランドは決定的敗北を遂げたのだが、フランス軍の[[南ネーデルラント]](現在の[[ベルギー]]・[[ルクセンブルク]])侵攻([[ネーデルラント継承戦争]])に対処するため、オランダ側がイングランドと協力する方針に転換した。そのため1667年[[7月31日]]、講和の条件をかなり譲歩した[[ブレダの和約]]が結ばれ、戦争は終結した(フランスとも和睦)。オランダはこの和約で[[ニューアムステルダム]](現在の[[ニューヨーク]])を含む北米植民地[[ニューネーデルラント]](現在の[[ニューヨーク州]]。[[毛皮貿易]]の中心地)をイングランドに割譲したが、[[バンダ諸島]]の[[ラン島]]([[香辛料貿易]]の中心地)などをオランダが占領し、[[南アメリカ]]の[[ギアナ]]地方の一部は、そのまま[[オランダ領ギアナ]](現在の[[スリナム]])となった<ref>友清、P55 - P80、小林、P199 - P210。</ref>。
 
 
 
== 第三次英蘭戦争 ==
 
{{Main|{{仮リンク|第三次英蘭戦争 (英蘭戦争)|en|Third Anglo-Dutch War|label=第三次英蘭戦争}}|仏蘭戦争}}
 
当初フランスの[[ネーデルラント継承戦争|侵略]]意図が明らかになると、[[ヨハン・デ・ウィット|デ・ウィット]]は[[1668年]]に英瑞蘭の間で[[三国同盟 (1668年)|三国同盟]]を結び、これを脅威と見たフランスは[[アーヘンの和約 (1668年)|アーヘンの和約]]でネーデルラント継承戦争を終わらせた。しかしルイ14世はオランダの妨害を根に持つと、絶世の美女[[ルイーズ・ケルアイユ]]を与えてチャールズ2世を籠絡し、イングランドを味方につけた。[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]はフランスの[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]と[[ドーヴァーの密約]]を締結。密約が発覚して三国同盟が破綻すると、1672年には[[仏瑞同盟]]が締結された。
 
 
 
1672年、フランス軍はオランダに侵攻して国土の大部分を占領したが、オランダ側は堤防を決壊させて[[洪水線]]でオランダを水浸しにし、何とかフランス軍によるアムステルダム占領を防いだ。危機に瀕した国内では[[オラニエ=ナッサウ家]]の[[オランダ総督|統領]](総督)職復帰を望む声が強まり、若いオラニエ公[[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィレム3世]](後のウィリアム3世)が軍最高司令官、次いで統領に就任した。その後で発生した暴動によりデ・ウィット兄弟は民衆に惨殺された。ウィレム3世は[[ハプスブルク帝国|オーストリア]]、[[スペイン]]と同盟を結んでフランスを包囲し、フランス軍を撤退させている。
 
 
 
[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]は[[1672年]]から[[1674年]]にかけて、フランスの始めた[[仏蘭戦争]]に予定通り協力する[[局地戦]]の形で第三次英蘭戦争を開始した。戦争初期の1672年にイングランドはヨーク公・サンドウィッチが艦隊を指揮、フランスとの連合大艦隊を組織してオランダ上陸作戦の準備を開始したが、停泊中にロイテルに奇襲され、大損害を受けて72年中のオランダ上陸作戦は実行不可能となった([[ソールベイの海戦]])。サンドウィッチは戦死、ヨーク公は政争の煽りを受けて辞任してルパートが艦隊の指揮を受け継いだ。[[1673年]]にルパートは{{仮リンク|スホーネヴェルトの戦い|en|Battle of Schooneveld|label=スホーネヴェルトの海戦}}、[[テセル島の海戦]]でオランダ海軍に挑んだが、いずれもロイテル艦隊に敗北したためオランダ侵攻は不可能になり、フランスとの連携が出来なくなった。
 
 
 
一方、[[イギリスの議会|イングランド議会]]では、オランダがフランスの手に落ちればイングランドはフランス[[重商主義]]によって経済的に屈服させられると言う声が高まり、チャールズ2世に親仏路線撤回を求めるようになった。このため、1674年にチャールズ2世は[[ウェストミンスター条約 (1674年)|ウェストミンスター条約]]でオランダと和睦、[[1677年]]には姪でヨーク公の娘メアリー(後の[[メアリー2世 (イングランド女王)|メアリー2世]])をウィレム3世に嫁がせて同盟を結び、国内の不満の沈静化に努めることになった<ref>友清、P158 - P177、小林、P211 - P220。</ref>。
 
 
 
== 第四次英蘭戦争 ==
 
{{main|{{仮リンク|第四次英蘭戦争 (英蘭戦争)|en|Fourth Anglo-Dutch War|label=第四次英蘭戦争}}|ウィレム5世 (オラニエ公)}}
 
この戦争は[[1780年]]に始まり、[[1784年]]に終わった。
 
 
 
1688年の名誉革命は、ウィリアム3世をメアリー2世と共に共同統治者に据えることで両国の問題に終止符をうった。しかし、オランダの大商人達はロンドンを新たな貿易拠点として使用するようになり、オランダの経済成長は緩慢になってきた。また、ウィリアム3世がいかなる英蘭艦隊もみなイギリスの指示に従い、オランダ海軍がイギリス海軍の60パーセントに抑えることにしたため、[[1720年]]頃よりオランダ経済は発展しなくなってきた。
 
 
 
[[1780年]]頃には、イギリス王国の総生産量は、オランダ共和国のそれを上回るようになった。17世紀のオランダの商業上の成功はイギリスの競争をあおったが、18世紀後半におけるイギリスの成長は、オランダの憤りに火をつけた。オランダが[[アメリカ独立戦争]]でアメリカを援助し始めた時に第四次英蘭戦争が勃発し、イギリスとの同盟の喪失はフランスからの侵攻を促すことに繋がった。これは、政権の交代を意味した。
 
 
 
オランダ海軍は以前と違い20隻程度の船しか保有しておらず、艦隊はなかった。イギリスは[[プロイセン王国|プロイセン]]の軍事圧力があることを理由に、共和国をイギリスの保護国化することにつとめており、オランダの持つ[[植民地]]までも影響下にいれようとしていた。それでもオランダは、[[ケープ植民地|ケープ・コロニー]]、[[セイロン島]]や[[マラッカ]]のようなアジアとヨーロッパをつなぐ交易の上での重要拠点を保持していた。戦争が始まると、オランダは18世紀の最後の25年間に、95隻の戦艦を建造したが、イギリスはそれに倍する艦隊を保有しており、数的優勢を維持していた。
 
 
 
== その後の戦争 ==
 
{{main|フランス革命|ナポレオン戦争|英蘭協約|海峡植民地}}
 
 
 
[[1793年]]から[[1815年]]までの[[フランス革命]]から[[ナポレオン戦争]]の時期、[[フランス帝国]]は[[ネーデルラント連邦共和国]](オランダ共和国)を衛星国化し([[バタヴィア共和国]]、[[ホラント王国]])、[[1810年]]には併合した。[[1797年]]の[[キャンパーダウンの海戦]]でオランダ艦隊はイギリスに破れた。フランスは、オランダ艦隊の存在と、大きな造船能力の両方が非常に重要な資産であると考えていたが、[[トラファルガーの海戦]]の後、オランダ・ロビーの強力な後押しにもかかわらず、イギリスに対抗する努力を諦めた。イギリスは、オランダの植民地の大部分を取得した。
 
 
 
[[1815年]]の[[ウィーン会議]]において[[ネーデルラント連合王国]]([[1815年]] - [[1839年]])が設置される。[[1824年]]にイギリスとオランダの間で[[英蘭協約]]が結ばれたときに、オランダが保有する海外領土は、[[オランダ領東インド]](現[[インドネシア]])、[[オランダ領ギアナ]](現[[スリナム]]。西側に[[イギリス領ギアナ]]が出来て縮小した)と、[[オランダ商館|商館]]である日本の[[出島]]だけとなった。一方、イギリスが[[海峡植民地]](現[[マレーシア]]、[[シンガポール]])を形成することに成功すると、オランダ以上の海軍力によって東アジアの軍事バランスが崩れ、[[1840年]]の[[アヘン戦争]]で[[清|清朝]]中国へ進出して三角貿易を開始した。欧州列強の[[東方問題]]や[[グレートゲーム]]がアジアを巻込むきっかけになった。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* [[友清理士]]『イギリス革命史(上)』[[研究社]]、2004年。
 
* [[小林幸雄]]『図説イングランド海軍の歴史』[[原書房]]、2007年。
 
 
 
== 関連項目 ==
 
*[[ギプス]](従軍したオランダの軍医が1852年に現在のギプスの原案を考案した)
 
*[[ウェストミンスター条約]]
 
*[[ドーヴァーの密約]]
 
  
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[[Category:英蘭戦争|*]]
 
[[Category:英蘭戦争|*]]

2019/4/27/ (土) 17:27時点における最新版

英蘭戦争(えいらんせんそう、: Anglo-Dutch Wars

蘭英戦争とも呼ばれる。 17世紀後半に世界貿易の優越権と漁業問題をめぐり,イギリスとオランダの間で3回にわたって行われた戦争。 (1) 第1次 (1652.5.~54.4.)  イギリスが「航海法」を公布し,オランダの中継貿易の独占を破ろうとしたことを背景とし,オランダ船への臨検捜索権の主張を発端として開戦。オランダの M.トロンプ,イギリスの R.ブレークが指揮官として活躍したが,貿易上の損害の大きかったオランダは,ウェストミンスター条約を結んで講和。「航海法」を認め,賠償金を払った。 (2) 第2次 (65.3.~67.7.)  王政復古後のイギリスが「航海法」の更新,アメリカのニューネーデルラントの攻撃などを行なったのが原因で開戦。オランダの海軍力は強化され,M.デ・ロイテル提督はテムズ川に侵入,ロンドンを封鎖した。イギリスはブレダの和約を結び,東インドの2島を放棄,ニューヨークなどを獲得して終結させた。オランダの譲歩はフランスへの警戒が働いていた。 (3) 第3次 (72.6.~74.2.)  スペイン領ネーデルラントの併合をオランダの計略ではばまれたフランスのルイ 14世が,イギリスのチャールズ2世と密約を結び (70) ,不意にスペイン領フランドルからオランダの国境を目指して侵入したことによって開戦。オランダの 1660年代の指導者 J.デ・ウィットは失脚し,オランニェ公ウィレム3世が中心となり抵抗。イギリスにも国民の不満が高まり,第2ウェストミンスター条約で終結した。



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