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(内容を「 '''羽田 孜'''(はた つとむ、1935年昭和10年)8月24日 - 2017年平成29年)8月28日) [生] 1935.8.24. 東京,大...」で置換)
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{{出典の明記|date=2017年8月28日 (月) 04:29 (UTC)}}
 
{{政治家
 
|人名 = 羽田 孜
 
|各国語表記 = はた つとむ
 
|画像 =  Tsutomu_Hata_199404.jpg
 
|画像説明 = 羽田孜の肖像写真(1994年4月撮影)
 
|国略称 = {{JPN}}
 
|生年月日 = [[1935年]][[8月24日]]
 
|出生地 = {{JPN}} [[東京府]][[東京市]][[蒲田区]]<br />(現:[[東京都]][[大田区]][[蒲田]])
 
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1935|8|24|2017|8|28}}
 
|死没地 = {{JPN}} 東京都
 
|出身校 = [[成城大学]][[経済学部]]
 
|前職 = [[小田急バス]]社員
 
|所属政党 = ([[自由民主党 (日本)|自由民主党]]→)<br />([[新生党]]→)<br />([[新進党]]→)<br />([[太陽党]]→)<br />([[民政党]]→)<br />([[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]→)<br />[[民進党]]
 
|称号・勲章 = [[従二位]]<br />[[桐花大綬章]]
 
|配偶者 = 羽田綏子
 
|子女 = [[羽田雄一郎]](長男)<br />羽田次郎(次男)
 
|親族(政治家) = [[羽田貞義]](祖父)<br />[[羽田武嗣郎]](父)<br />[[羽田健一郎]](従兄弟の息子)
 
|国旗 = JPN
 
|職名 = 第80代 [[内閣総理大臣]]
 
|内閣 = [[羽田内閣]]
 
|就任日 = [[1994年]][[4月28日]]
 
|退任日 = 1994年[[6月30日]]
 
|元首職 = [[天皇]]
 
|元首 = [[明仁|今上天皇(明仁)]]
 
|国旗2 = JPN
 
|職名2 = [[副総理]]<br />第121代 [[外務大臣 (日本)|外務大臣]]
 
|内閣2 = [[細川内閣]]
 
|就任日2 = [[1993年]][[8月9日]]
 
|退任日2 = 1994年4月28日
 
|国旗3 = JPN
 
|職名3 = 第96代 [[日本の大蔵大臣・財務大臣一覧|大蔵大臣]]
 
|内閣3 = [[宮澤内閣]]
 
|就任日3 = [[1991年]][[11月5日]]
 
|退任日3 = [[1992年]][[12月12日]]
 
|国旗4 = JPN
 
|職名4 = 第12代 [[農林水産大臣]]
 
|内閣4 = [[竹下内閣 (改造)|竹下改造内閣]]
 
|就任日4 = [[1988年]][[12月27日]]
 
|退任日4 = [[1989年]][[6月3日]]
 
|国旗5 = JPN
 
|職名5 = 第9代 農林水産大臣
 
|内閣5 = [[第2次中曽根内閣 (第2次改造)|第2次中曽根第2次改造内閣]]
 
|就任日5 = [[1985年]][[12月28日]]
 
|退任日5 = [[1986年]][[7月22日]]
 
|国旗6 = JPN
 
|その他職歴1 = [[衆議院議員]]
 
|就任日6 = [[1969年]]12月28日
 
|退任日6 = [[2012年]][[11月16日]]
 
}}
 
  
'''羽田 孜'''(はた つとむ、[[1935年]]([[昭和]]10年)[[8月24日]] - [[2017年]]([[平成]]29年)[[8月28日]])は、[[日本]]の[[政治家]]。
+
'''羽田 孜'''(はた つとむ、[[1935年]]([[昭和]]10年)[[8月24日]] - [[2017年]]([[平成]]29年)[[8月28日]]
  
[[衆議院議員]](14期)、[[内閣総理大臣]](第80代)、[[農林水産大臣]](第9代、第12代)、[[日本の大蔵大臣・財務大臣一覧|大蔵大臣]](第88代)、[[外務大臣 (日本)|外務大臣]](第121代)、[[新生党]]党首、[[太陽党]]党首、[[民政党]]代表、[[国民民主党幹事長|民主党幹事長]]、同党特別代表、同党最高顧問などを歴任。[[2012年]](平成24年)に政界引退し、晩年は[[民進党]]長野県連名誉顧問を務めていた。
+
[]&nbsp;1935.8.24. 東京,大田
  
== 来歴・人物 ==
+
[]&nbsp;2017.8.28. 東京,世田谷
=== 生い立ち ===
+
[[東京府]][[東京市]][[蒲田区]](現[[東京都]][[大田区]][[蒲田]])にて[[羽田武嗣郎]]・とし子夫妻の長男として生まれる。父武嗣郎は[[朝日新聞]]記者を経て衆議院議員となった人物であり、母とし子は[[志賀高原]]を命名した[[長野電鉄]]の創設者神津藤平の娘である。名付け親は、武嗣郎の[[東北大学|東北帝国大学]]時代の恩師に当たる[[阿部次郎]]で、「孜孜(しし)として働く」から取られた。
+
政治家。[[内閣総理大臣]](首相。在任 1994.4.~6.)。1958年成城大学経済学部を卒業し,小田急バスに入社。10年勤めたあと,父武嗣郎の後継者として 1969年[[衆議院議員総選挙]]に出馬し初当選。[[自由民主党]]では[[木曜クラブ]](田中派),[[竹下登]]率いる[[創政会]]および[[経世会]]に属し,農林大臣[[政務次官]],党農林部会長,農林水産大臣,大蔵大臣などを歴任。おもに農政畑で活躍するが,党選挙制度調査会長として政治改革にも熱心に取り組み,1992年10月[[小沢一郎]]らとともに政策グループ「改革フォーラム21」を旗揚げした。同年12月グループが経世会から離脱するとみずから会長に就任。翌 1993年6月には政治改革,政権交代を目指して集団離党し,[[新生党]]を結成,党首となる。衆議院議員総選挙後の[[細川連立内閣]]では副首相兼外務大臣を務めた。1994年4月第80代,51人目の首相に就任するが,直後に[[日本社会党]]の連立政権離脱で少数与党となり,6月前政権からの積み残し課題である予算成立後,自民党から提出された内閣不信任案を受けて総辞職。在任期間 64日と史上 2番目の短命内閣となった。1994年12月[[新進党]]設立に伴って副委員長に就任。1996年12月新進党を離脱して[[太陽党]]を結成,党首に就任。1998年1月新進党からの分裂勢力とともに民政党をつくり,代表に就任。同年4月[[民主党]]に合流した。2012年政界引退。
 
+
   
[[1942年]](昭和17年)に第二延山小学校に入学するが、[[戦争]]が激しくなったため、[[1944年]](昭和19年)3月に父の郷里である[[長野県]]に疎開する。[[1946年]](昭和21年)に、父武嗣郎が[[公職追放]]となる。[[1951年]](昭和26年)に、[[上田市立第二中学校|上田第二中学校]]に入学する。この頃から議論好き、世話好きの片鱗を見せ始める。[[長野県上田高等学校]]を受験するが不合格となり、東京の[[成城学園高等学校]]に入学。[[1954年]](昭和29年)に[[成城大学]][[経済学部]]に進学する。大学3年生の時に、[[ハンガリー動乱]]で亡命してきた学生をかくまったことがある。
 
 
 
[[1958年]](昭和33年)に、成城大学を卒業する。父と同じくジャーナリズムに憧れ、[[朝日新聞社]]・[[日本経済新聞社]]などを受験したが失敗。父のコネで、[[小田急バス]]の試験を受け入社した。小田急バスでは、[[小田急バス吉祥寺営業所|吉祥寺営業所]]を経て観光課に配属される。観光課では企画を担当し、春夏秋の観光シーズン以外に顧客を掘り起こすため、武嗣郎の友人である[[野田宇太郎]]の協力を得て、「文学散歩」「史跡散歩」などに力を入れた。その他に学生、老人、会社などの慰安旅行や[[幼稚園]]の遠足や[[学校]]の[[修学旅行]]、更には[[皇族]]の旅行を企画し、時には車掌も務めた。[[1965年]](昭和40年)に綏子夫人と結婚する。羽田は父親の後継者となって政界入りする気持ちはなかったが、[[1963年]](昭和38年)に武嗣郎が[[脳出血]]で倒れたため、後援会から政界入りを打診され、[[1968年]](昭和43年)10月に小田急バスを退職する。
 
 
 
=== 政界入り ===
 
[[1969年]](昭和44年)12月、[[第32回衆議院議員総選挙]]に[[長野県第2区 (中選挙区)|旧長野2区]]から自民党公認で立候補し、7万3325票を獲得しトップ当選を果たした。[[自民党の派閥]]は[[佐藤栄作]]→[[田中角栄]]派に所属した。羽田は、[[郵政省|郵政]][[政務次官]]を経て[[農林水産省|農林]]政務次官となり、[[族議員|農林族]]としてその[[キャリア (国家公務員)|キャリア]]を歩むこととなる。[[衆議院]][[農林水産委員会|農林水産委員長]]、自民党林政調査会長、総合農政調査会長などを歴任した。農林族としての羽田は、それまでのいわゆる「ベトコン議員」に代表される毎年[[米価]]を引き上げて、農村に一方的に利益を傾斜配分するものではなく、国内[[産業]]としての[[農業]]の位置づけや、[[国際経済]]における農業貿易問題を思考するもので、[[加藤紘一]]などとともに、「総合農政族」と呼ばれた。[[1984年]](昭和59年)には、自民党を代表し[[牛肉]]と[[オレンジ]]をめぐる日米農産物交渉解決に取り組んだ。翌年の[[1985年]](昭和60年)12月に、牛肉オレンジ交渉の実績が認められて、[[第2次中曽根内閣 (第2次改造)|第2次中曽根再改造内閣]]で[[農林水産大臣]]として初入閣する。ちなみにこの時[[自治大臣]]として[[小沢一郎]]も初入閣している。農水相としては「タブーへの挑戦」を掲げ、日米間で対立が大きくなってきた[[米|コメ]]の自由化問題に対応する。羽田は、外国米に対して価格の高い日本米に国際競争力をつけるため、農産物価格の引き下げを断行しようとした。しかし[[1986年]](昭和61年)の[[衆参同日選挙]]後、成立した[[第3次中曽根内閣]]で農水相は羽田から[[安倍派]]の[[加藤六月]]に交代し、農協の反対にもあい米価は据え置かれることとなった(農水相在任中、当時農水[[官僚]]だった[[荒井聰]]に対し、初当選同期で党派・[[与党|与]][[野党]]・[[保守|保]][[革新|革]]を超えて個人的な親交があった[[横路孝弘]]が[[都道府県知事|道知事]]時代の[[北海道庁]]への出向を命じている)。しかし、農水相を降りた羽田は、翌年の[[1987年]](昭和62年)に、生産米に関しては、生産者価格を引き下げるという[[日本国政府|政府]]・自民党合意を取り付け、米価の引き下げを断行するに至る。
 
 
 
=== 田中派から竹下派へ ===
 
羽田は田中派の中堅議員として、次第に実力を蓄えていくが、一方で派内の世代交代を意識するようになっていった。[[1985年]](昭和60年)2月、[[竹下登]]による田中派の派中派・[[創政会]]に参加する。田中は[[2月27日]][[脳梗塞]]で倒れるが、最後に政治家として公の場で発言したのは、羽田のパーティーにおいてであった。竹下派結成に際しては、[[竹下派七奉行]]の一人に数えられ、[[金丸信]]から「平時の羽田、乱世の小沢、大乱世の[[梶山静六|梶山]]」と称される。[[1987年]](昭和62年)11月、[[中曽根康弘]]の後継指名を受けた[[竹下登]]が[[自由民主党総裁|自民党総裁]]に就任し、[[竹下内閣]]が成立する。[[1988年]](昭和63年)[[12月27日]]、[[竹下内閣改造内閣|竹下改造内閣]]では再び農水大臣に就任する。しかし[[リクルート事件]]、[[消費税]]導入による[[世論]]の逆風を受け、竹下内閣は[[1989年]](平成元年)に退陣した。
 
 
 
=== 政治改革 ===
 
[[第1次海部内閣]]が成立すると、羽田は[[自由民主党幹事長|自民党幹事長]]となった小沢一郎に、党選挙制度調査会長就任を求められ、これを受けた。自民党内に設置された政治改革推進本部の本部長となった[[伊東正義]]、本部長代理の[[後藤田正晴]]とともに[[政治改革]]推進派の中核となる。羽田は、政治と金の問題と、国際政治に日本が対応するために政治改革を必要と考え、選挙制度改革を中心にした政治改革を主張し、金丸から「熱病にうかされている」とまで言われる。また、党内議論の中で後に自民党幹事長となる[[石破茂]]などの改革派若手とひざ詰めで議論し、若手の信頼を得た。羽田は[[小選挙区比例代表並立制]]の導入を主張するが、[[加藤紘一]]、[[山崎拓]]、[[小泉純一郎]](いわゆる「[[YKK (政治同盟)|YKK]]」)らは、竹下派支配に反対し[[海部内閣]]倒閣を目論み、選挙制度改革を中心とする政治改革に反対して、[[1991年]](平成3年)9月に政治改革関連法案は廃案となった。政治改革が頓挫する中で若手議員は敗北感を覚えるが、羽田はそんな中にあって若手を叱咤し、政治改革は伏流として残ることになる。
 
 
 
1989年半ば、国会改革委員長に就任していた羽田は訪米した際、[[C-SPAN]]を知ることになる。これは、議会のやり取り、ニュースキャスターの討論会など、政治を専門に24時間放送する衛星放送の番組である。ありのままの国会を国民に見せることで、国民の関心が高まり、国会運営の活性化になると考えた羽田は、こうした仕組みの日本への導入を訴えた。
 
 
 
=== 自民党離党、細川連立内閣 ===
 
[[1991年]](平成3年)11月に成立した[[宮澤内閣]]で[[日本の大蔵大臣・財務大臣一覧|大蔵大臣]]に就任し、入閣。[[1992年]](平成4年)、金丸の[[佐川急便事件]]に端を発した竹下派分裂に際しては、派閥会長ポストをめぐり、会長代行の小沢一郎と竹下の最側近である[[小渕恵三]]の間で派を二分する争いが起こる。羽田は、竹下から中立の立場を求められるが、小沢の側に立ち、人の悪口を言わないことで知られる竹下をして「孜がこんなに無定見とは知らなかった」と言わしめる。羽田は、小沢、当選同期の[[奥田敬和]]、[[渡部恒三]]らとともに[[改革フォーラム21]](羽田派)を結成し、代表に就任。党内第5派閥に転落した羽田派は内閣改造で冷遇され、政治改革実現を旗印に集団離党するのではとの観測が流れる。こうした中、[[1993年]](平成5年)4月に病気辞任した[[渡辺美智雄]]の後任として、外相就任を宮澤に打診された。これは羽田を閣内に封じ込めるために[[後藤田正晴]]副総理が考えた天元の一石であった。しかし、羽田は野にあって自由な行動を取ることを選択、外相就任を断った。同年6月、宮澤首相が政治改革関連法案の成立を断念したため、羽田派は[[野党]]から提出された[[内閣不信任決議案]]に賛成した。羽田は[[6月23日]]、自民党を小沢一郎らとともに集団離党。[[新生党]]を結成し、党首に就任した。代表幹事となった小沢による二重権力支配という批判に対しては、自分が表紙で小沢が黒子と反論ともつかぬ主張をした。ともあれ、羽田は新生党党首として全国を遊説し、新党ブームに乗って新生党は55議席を獲得する。これに先立つ、[[6月24日]]に既に、新生党、[[日本社会党|社会党]]、[[公明党]]、[[民社党]]、[[社会民主連合]]の5党首が[[非自民・非共産連立政権]]を目指すことに合意し、羽田は[[連立政権]]の首班候補として最有力視されていたが、[[日本新党]]代表の[[細川護煕]]を連立政権首班とすることに合意する。羽田は[[細川内閣]]に、[[副総理]]兼[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]として入閣した。
 
 
 
=== 改新騒動 ===
 
細川政権は政治改革、[[米|コメ]]の部分的自由化を実現し、新生党は連立与党の中核としてこれを支えたが、細川首相は金銭スキャンダルなどを理由に[[1994年]](平成6年)[[4月8日]]の電撃的に辞意を表明。後継首相について小沢は、自民党の[[渡辺美智雄]]に「渡辺さんの派閥(渡辺派)から多数の同調者を引き連れて合流すれば首相に擁立する」と持ちかけ、渡辺も一時は離党を表明するが同調者が少数にとどまり撤回。結局、連立与党は後継首相に羽田を推すことで合意し、[[4月25日]]国会で羽田が首相に指名された。ところがその直後、連立与党のうち新生党、日本新党、民社党などが衆議院で統一会派「[[改新]]」を結成すると発表。改新は総勢130議席で、[[与党]]第1党であった社会党の74議席を大きく上回るもので、社会党の連立与党内での地位低下を図った動きであった。首相指名後の統一会派発表という事態に社会党の[[村山富市]]委員長は信義に反すると強く反発し、翌[[4月26日]]、社会党は連立政権を離脱すると発表。羽田は懸命に社会党の連立復帰を試みたが功を奏せず、[[4月28日]]に[[羽田内閣]]は少数与党内閣として発足した。元来、小沢は羽田が細川の後継首相となることには、平成6年度[[予算]]成立後の政局を見据え反対ないし消極的であり、渡辺美智雄との提携を企図していたこともあって、羽田と小沢の関係にひびが入り始める。ただ小沢が、細川の後継首相に羽田を擁立するのを躊躇したのは、乱世ゆえに「平時の羽田」のキャリアが傷つくのを避けるためだったという見方もある。
 
 
 
=== 羽田内閣 ===
 
{{Main|羽田内閣}}
 
羽田は「改革と協調」を掲げ、平成6年度予算の成立に全力を挙げた。
 
 
 
[[永野茂門]]法相が「[[南京事件 (1937年)|南京大虐殺]]はでっち上げだと思う」と発言すると直後に更迭した。在任中に[[公共料金]]値上げの年内凍結や、[[総理大臣官邸|首相官邸]]直通の[[ファクシミリ|FAX]]設置などを打ち出していった。[[1994年]](平成6年)[[5月12日]]の[[衆議院]][[本会議]]での「[[1969年]]の日米首脳間で交わされた有事における沖縄への核持ち込みを日本が事実上認めるという密約の真相」に関する[[村山富市]]の質問や同年5月16日の[[参議院]]本会議で「沖縄への核再持ち込み密約について調査すべき」とする[[市川正一 (参議院議員)|市川正一]]の質問に対し、首相として沖縄核再持ち込み密約を否定し、調査の必要は無いと答弁をした<ref>[http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/129/0001/12905120001018a.html 衆議院本会議1994年5月12日議事録]</ref><ref>[http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/129/0010/12905160010017a.html 参議院本会議5月16日議事録]</ref>。
 
 
 
予算案は成立したが、少数与党状態の解消を狙って行われた連立与党と社会党との間の政策協議は決裂し、自民党は内閣不信任案を衆議院に提出した。内閣不信任案の成立が不可避と判断した羽田は、解散総選挙に打って出る構えも見せたが、政治空白と従来の[[中選挙区制]]による総選挙実施を招くということで、結局[[6月25日]]に[[内閣総辞職]]を選択し、羽田内閣は在任期間64日、[[戦後]]2番目([[日本国憲法|現憲法]]下では最短)の短命[[政権]]に終わった。
 
 
 
この頃、[[経済産業省|通産]][[官僚]][[齋藤健]]の[[媒酌人]]を務めた。また当時新生党の新人代議士で、[[新生党]]から民主党まで行動を共にした[[上田清司]]は[[埼玉県知事]]就任後、斎藤を埼玉県[[副知事 (日本)|副知事]]に起用した。
 
 
 
=== 新進党、太陽党、民政党を経て、民主党へ ===
 
[[6月30日]][[自社さ連立政権]]・[[村山内閣]]が発足し、[[野党]]に転落した。小沢の主導によって、旧連立の新生党、民社党、日本新党などは相次いで解党し、1994年12月10日に[[新進党]]が結党。羽田は党首選挙に立候補するが、小沢の支持を得た[[海部俊樹]]に敗れ、小沢らの打診で副党首となった。
 
 
 
[[1995年]](平成7年)12月にも党首選挙に立候補し、小沢と激突した。羽田支持グループは、党内非主流派ともいうべき興志会を結成し、小沢執行部と対立を深めていった。[[1996年]](平成8年)の、[[第41回衆議院議員総選挙]]で自身は新設の長野3区で小選挙区一本で出馬し[[重複立候補]]している[[新党さきがけ]]党首で社民党・自民党推薦する[[井出正一]]に圧勝も新進党自体が敗北すると、小沢執行部に対する更なる不満を強め、新進党を離党し[[太陽党]]を結成、党首となった。
 
 
 
[[1997年]](平成9年)12月に新進党が分党すると、[[1998年]](平成10年)[[1月8日]] に、 [[民主党 (日本 1996-1998)|民主党]]、[[新党友愛]]、[[太陽党]]、[[国民の声]]、[[フロム・ファイブ]]、[[民主改革連合]]が[[院内会派]]「[[民主友愛太陽国民連合]]」(民友連)結成。同年[[1月28日]]、太陽党、国民の声、フロムファイブが統合して[[民政党]]を結成し、代表となった。さらに4月27日には民主党、民政党、新党友愛、民改連が統合し、[[民主党 (日本 1998-2016)|新・'''民主党''']]が結成され、初代幹事長に就任。首相経験者の政党幹事長就任は前例がなく「羽田は首相再登板の目を覗っている」との見方もあったが、その後は事実上の名誉職である特別代表、最高顧問を歴任した。
 
 
 
[[2004年]](平成16年)5月、[[国民年金]]への加入が義務付けられた[[1986年]](昭和61年)4月から首相在任期間を含む[[1995年]](平成7年)7月までの9年間余り未加入であったことを自ら発表し、党最高顧問を辞したがその後再び最高顧問に就任した。
 
 
 
[[2009年]](平成21年)8月、[[脳梗塞]]後遺症等の体調不安が囁かれる中、8月30日に行われる[[第45回衆議院議員総選挙|衆院選]]への立候補を最後に政界を引退する考えを表明した。衆院選について、「大きく考えれば、最後の選挙になるだろうというのが常識的なところだ」「後継者は党や後援会と相談して決めたい」と述べ、また長男の[[羽田雄一郎]]について周辺に「世襲は認めない」と伝え、後継として擁立しない考えを示した<ref>{{Cite web
 
|date=2009-8-3
 
|url=http://www.yomiuri.co.jp/election/shugiin2009/news1/20090803-OYT1T00794.htm?from=y10
 
|title=羽田元首相、今回の衆院選最後に政界引退へ
 
|accessdate=2009年8月8日
 
}}</ref><ref>{{Cite web
 
|date=2009-8-3
 
|url=http://www.jiji.com/jc/zc?k=200908/2009080300786
 
|title=羽田元首相、今回限りを示唆=「最後の選挙」
 
|accessdate=2009年8月8日
 
}}{{リンク切れ|date=2017年10月}}</ref>。
 
 
 
[[2009年]](平成21年)[[9月16日]]に、民主党[[政権]]が発足し長年の宿願であった[[政権交代]]が実現された。この日[[国会議事堂|国会]]で行われた[[内閣総理大臣指名選挙|首班指名投票]]では体調不良により投票箱のある演壇に自力で上り下りすることができなかったため、小沢一郎に片腕を支えられながら投票を行った(以降も投票の際、他の民主党衆議院議員が介添えをしながら行なっていた)。かつて政権交代を目指して自民党を離党した時の盟友同士でありながらその後の政局の流れで訣別した羽田と小沢のツーショットが計らずも政権交代当日に再現された。民主党代表選挙でも投票の際、登壇するのに介添えを必要としていた。
 
 
 
小沢との関係はかなり回復し、[[陸山会]]の土地取引に絡む[[政治資金規正法]]違反事件の渦中になる小沢に対し「俺とお前は一心同体だ、[[政権戦略研究会|羽田グループ]]として全面的に支える」と明言した。また[[2010年9月民主党代表選挙]]でも小沢を支持していた<ref>{{Cite news
 
|url=http://www.topics.or.jp/worldNews/worldFlash/2010/08/2010082601000401.html
 
|title=羽田元首相が小沢氏支持
 
|work=徳島新聞
 
|newspaper=[[徳島新聞]]
 
|date=2010-08-26
 
|accessdate=2010-09-15
 
|language=日本語
 
}}</ref>。
 
 
 
=== 政界引退 ===
 
[[2010年]](平成22年)[[9月28日]]、[[時事通信社]]の取材において、政界引退を表明した<ref>{{Cite news
 
|url=http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2010092800351
 
|title=羽田元首相、今期限りで政界引退へ
 
|work=時事通信
 
|newspaper=[[時事通信社|時事通信]]
 
|date=2010-09-28
 
|accessdate=2010-09-28
 
|language=
 
}}</ref>。
 
 
 
[[2012年]](平成24年)[[11月16日]]の[[近いうち解散|衆議院解散]]で政界引退。「自民党の政治に終止符を打ったのは、今でも歴史の必然、私に課せられた天命だった」とした上で<ref>{{cite news
 
|url=http://www.shinmai.co.jp/news/20121117/KT121116ATI090071000.php
 
|title=羽田元首相が議員活動に幕 連続14期当選
 
|publisher=[[信濃毎日新聞社]]
 
|newspaper=信毎web
 
|date=2012-11-17
 
|accessdate=2012-11-22
 
}}</ref><ref>{{cite news
 
|url=http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20121117-OYT1T00703.htm?from=ylist
 
|title=羽田孜氏「自民党政治に終止符、天命だった」
 
|publisher=[[読売新聞社]]
 
|newspaper=YOMIURI ONLINE
 
|date=2012-11-17
 
|accessdate=2012-11-22
 
}}</ref>、2009年の政権交代は「私なりに満足のいく、改革の成果」であるとした<ref name="shinano121122">{{cite news
 
|url=http://www.shinmai.co.jp/news/20121117/KT121116ATI090071000.php
 
|title=羽田元首相が議員活動に幕 連続14期当選
 
|publisher=[[信濃毎日新聞社]]
 
|newspaper=信毎web
 
|date=2012-11-17
 
|accessdate=2012-11-22
 
}}</ref>。今後の活動については、「多難な時期を迎えた我が国の再生にわずかなりともご奉公できる道を探し続ける」とコメント<ref>{{cite news
 
|url=http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20121117-OYT1T00703.htm?from=ylist
 
|title=羽田孜氏「自民党政治に終止符、天命だった」
 
|publisher=[[読売新聞社]]
 
|newspaper=YOMIURI ONLINE
 
|date=2012-11-17
 
|accessdate=2012-11-22
 
}}</ref>。長年の盟友である小沢は「[[間接民主制|議会制民主主義]]を確立させるべく、長年共に歩んだ同志。勇退は誠に残念だ。政治の第一線を退かれても、引き続きこの国の将来のため、親しく指導していただきたい」と述べた<ref name="shinano121122"/>。
 
 
 
後継には息子の雄一郎に[[参議院]]から鞍替えさせようという意向もあったが、時の首相・[[野田佳彦]]が「反世襲」の方針からこれを認めなかった<ref>{{Cite news
 
|url=http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2012111700178
 
|title=羽田国交相、公認せず=野田首相 - 「脱世襲」自民と差【12衆院選】
 
|newspaper=[[時事通信社|時事通信]]
 
|date=2012-11-17
 
|accessdate=2012-11-17
 
}}</ref>。
 
 
 
2013年(平成25年)4月29日、[[桐花大綬章]]を受章<ref>{{ja icon}} {{cite web
 
|title=羽田元首相に桐花大綬章=倍賞千恵子さん旭日小綬章 - 春の叙勲
 
|publisher=時事ドットコム
 
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|date=2013-04-29
 
|accessdate=2013-04-29 }}</ref>。
 
 
 
2017年(平成29年)8月28日・午前7時6分、[[老衰]]のため死去した。満82歳没<ref>{{ja icon}} {{cite web
 
|title=羽田元首相が死去、82歳=現行憲法で最短
 
|publisher=時事ドットコム
 
|url=https://www.jiji.com/sp/article?k=2017082800506&g=pol
 
|date=2017-08-28
 
|accessdate=2017-08-28 }}</ref><ref>{{Cite news
 
|title=羽田孜・元首相が死去 82歳 非自民連立政権担う
 
|url=http://www.asahi.com/articles/ASK8X4FGDK8XUTFK005.html
 
|publisher=朝日新聞デジタル
 
|date=2017-08-28
 
|accessdate=2017-08-29}}</ref>。9月5日、[[従二位]]追叙が日本政府により決定された<ref>{{ja icon}} {{cite web
 
|title=羽田孜元首相に従二位…政府
 
|publisher=読売新聞
 
|url=http://sp.yomiuri.co.jp/politics/20170905-OYT1T50056.html
 
|date=2017-09-05
 
|accessdate=2017-09-06 }}</ref>。
 
 
 
== エピソード ==
 
* 身長172cm、体重75kg。
 
* 首相在任中、答弁が長い事を[[参議院]][[議院運営委員会]]から注意された。[[田中眞紀子]]からは「多弁にして空疎」と評された。
 
* 語尾に必ずといっていいほど「~というふうに」というフレーズを使用する(羽田語と揶揄された)。ほかに、「アレする」「真正面から」「率直にいって」などのフレーズも多用。
 
* 特徴的な半袖ジャケット『[[省エネスーツ]]』の推進者。[[省エネルック]]の普及に大きく貢献した。
 
* 首相退陣後は、[[人民服]]風の[[マオカラースーツ]]を愛用して20~30着も持ったとされ<ref name=cri071120/>、中国メディアの取材に対して羽田家の先祖が中国からの[[渡来人]]である[[秦氏]]と伝わることが理由と述べてる<ref name=cri071120>{{Cite web|date=2007-11-20|url=http://news.cri.cn/gb/12764/2007/11/20/2945@1847927.htm|title=日前首相羽田爱穿中山装|publisher=[[中国国際放送]]|accessdate=2018年4月19日}}</ref>。また、秦氏が[[徐福]]と所縁があるともされることから[[日本徐福会]]の名誉会長も務めた<ref>{{Cite book|和書|author=鳥居貞儀・徐福友好塾|authorlink=鳥居貞義|year=2005|month=12|title=徐福さん 伝承地に見る徐福像と徐福伝説|publisher=ネスト企画||page=171}}</ref>。
 
* 田中角栄の愛弟子で[[親中派]]議員の代表格であり、日中友好団体である[[日中国際交流協会]]の会長<ref>{{Cite web|url=http://www.jcip.or.jp/aisatu.html|title=理事長挨拶|publisher=一般社団法人日中国際交流協会|accessdate=2018年4月19日}}</ref>なども務めた。[[羽田内閣]]の[[永野茂門]][[法務大臣]]が「[[南京事件 (1937年)|南京大虐殺]]はでっち上げだと思う」と発言すると、即座に永野法相を更迭した。また[[2005年]]6月には、自身の[[政治資金パーティー]]で[[小泉純一郎]][[内閣総理大臣|首相]]の靖国参拝を批判し「([[中華人民共和国|中国]]の反発は)被害者の悲鳴だ。なぜ独り善がりで突っ張っているのか。戦争は絶対やらないという覚悟を持っているなら、何回詫びても限界があるとは思わない」と述べた。小沢一郎の側近であり、自民党から新進党まで羽田とも行動を共にした[[平野貞夫]]は、「羽田さんは歴史観、国家観が社会党的だ」と批判していた。
 
* 上記のように首相在任中の[[靖国神社]]参拝には否定的であるが、羽田の長男で民主党参院国会対策委員長の[[羽田雄一郎]]と羽田自身も[[みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会]]のメンバーに名を連ねており、羽田はかつて同会の会長も務めて靖国神社参拝をしてはいる。
 
* 羽田は小選挙区制導入後は[[長野県第3区|長野3区]]選出代議士だが、自身の自宅は[[東京都第6区|東京6区]]に在る。歴代の東京6区選出代議士は[[岩國哲人]]~[[石井紘基]]~[[小宮山洋子]]~自民党の[[越智隆雄]]~小宮山。岩国は羽田側近、石井・小宮山は成城学園高校の後輩で親密。石井が殺害された後の補選で、当時参院にいた小宮山を担ぎ出し選対本部長をつとめたのは羽田である。
 
* 初入閣の際、[[国務大臣|閣僚]]名簿を発表する[[後藤田正晴]][[内閣官房長官]]に名前を「はだしゅう」と誤読された。
 
* [[1994年]](平成6年)[[11月8日]]、[[森田一義アワー 笑っていいとも!|笑っていいとも!]]の[[テレフォンショッキング]]に[[小池百合子]]からの紹介で出演したことがある。ちなみに翌日ゲストに指名したのは[[山口敏夫]]。
 
* [[三枝成彰]]と親密で俳優・歌手の[[小坂一也]]とも親交があった。
 
* 同郷の[[プロボクサー]]で[[スーパーミドル級]]世界王座挑戦2度の実績有す[[西澤ヨシノリ]]の後援会会長を務める。
 
*[[総理大臣顕彰]]を、引退表明し[[鹿島アントラーズ]]を退団した[[ジーコ]]に与えた。
 
* [[バレーボール]]好きで、全日本チームの試合会場に観戦することも多く、地元・長野県バレーボール協会会長を2007年まで16年間務めた。
 
* [[2007年]](平成19年)7月シンガポールに設立されたマザーズ・キッス・ファウンデーションの名誉総裁を務める。
 
* [[パチンコチェーンストア協会]]政治分野アドバイザー<ref>[http://www.pcsa.jp/member.htm パチンコチェーンストア協会理事・会員リスト]</ref>。
 
* [[北京オリンピックを支援する議員の会]][[天皇陛下御即位二十年奉祝国会議員連盟]][[地下式原子力発電所政策推進議員連盟]]で顧問を務めていた。
 
* 新宗教[[崇教真光]]の46周年秋季大祭(2005年)に出席し、来賓として祝辞を述べている<ref>『崇教真光』誌平成17年12月号」</ref>。
 
* 衆議院議員時代に、[[キリスト教]][[道徳再武装]]運動に基づいた[[イニシアティブス・オブ・チェンジ]]の顧問を務めていた<ref>[http://cauxforum.net/node/32228 IC役員名簿]</ref>。
 
* 日中国会議員書画展へ書画を提供している。<ref>[http://www.syogaten.com/list/1.html]NPO法人[[日中国会議員書画展実行委員会]]</ref>
 
* [[AKB48 32ndシングル選抜総選挙]]において、当時の[[大分市長]][[釘宮磐]]は、市のかっこうの広告塔である[[指原莉乃]]に投票するよう市職員や市民などに広く呼び掛けて行く中で、「政治の師」と仰ぐ羽田サイドにも全面支援の約束を取り付けた<ref>[http://www.sankei.com/politics/news/130413/plt1304130009-n1.html]「ベスト3目指す」大分市長が“さしこ”全面支援宣言 [[サンケイスポーツ]] 2013年4月13日</ref>。このことが、指原を初の総選挙1位に導いたとする見方もある。
 
 
 
== 家族 ==
 
* 長男は、[[参議院議員]]・[[羽田雄一郎]]
 
*次男の羽田次郎は、成城学園中学校、[[アルザス成城学園]]を経て[[ウェイクフォレスト大学]]に留学<ref>[http://profile.ameba.jp/jhata/ プロフィール] はた次郎のブログ、平成21年8月12日閲覧</ref>。2011年(平成23年)に行われた世田谷区議会議員選挙に[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]公認で立候補し、落選、2017年の[[第48回衆議院議員総選挙]]に[[希望の党]][[比例東京ブロック]]で立候補し落選している。
 
* [[羽田貞義]]師範学校校長は祖父
 
* [[羽田武嗣郎]]元衆議院議員は父
 
* 神津藤平・[[長野電鉄]]創立者・元社長は祖父
 
* 妻は元[[カルピス]]会長・津下紋太郎の孫、元[[オカモト]]副社長・津下綱平の子
 
* [[羽田健一郎]][[長和町]]長は従兄弟の息子で、孜本人の最後の後援会長
 
 
 
== 系譜 ==
 
; '''羽田家([[長野県]][[小県郡]][[長和町]]、[[東京都]])
 
<pre>
 
羽田貞義━━羽田武嗣郎━━羽田孜━━羽田雄一郎
 
</pre>
 
 
 
== 略歴 ==
 
* [[1935年]](昭和10年)
 
** 8月24日 出生する(父・武嗣郎、母・とし子)。
 
* [[1969年]](昭和44年)
 
** 12月 第32回衆議院議員総選挙に旧長野2区から自由民主党公認で立候補して、初当選。
 
* [[1985年]](昭和60年)
 
** 12月28日 農林水産大臣。
 
* [[1988年]](昭和63年)
 
** 12月27日 農林水産大臣。
 
* [[1991年]](平成3年)
 
** 11月5日 大蔵大臣。
 
* [[1993年]](平成5年)
 
** 6月23日 自民党を離党。新生党党首。
 
** 8月9日 副総理兼外務大臣。
 
* [[1994年]](平成6年)
 
** 4月25日 内閣総理大臣に指名。直後に改新騒動があった。
 
** 4月28日 内閣総理大臣。羽田内閣が成立。社会党の連立離脱により少数与党内閣として発足。
 
** 6月25日 自由民主党による内閣不信任案の提出を受け、内閣総辞職。
 
** 12月10日 新進党副党首。
 
* [[1995年]](平成7年)
 
** 12月27日 第2代新進党党首選挙で小沢一郎に敗れる。
 
* [[1996年]](平成8年)
 
** 新進党を離党し小沢と決別(その後和解)。太陽党党首。
 
* [[1998年]](平成10年)
 
** 1月 民政党代表。
 
** 4月28日 民主党初代幹事長。以後、特別代表、最高顧問を歴任する。
 
* [[2000年]](平成12年)
 
** 9月 民主党特別代表。
 
* [[2002年]](平成14年)
 
** 12月 民主党最高顧問。
 
* [[2009年]](平成23年)
 
** 10月 民主党最高顧問。
 
* [[2012年]](平成24年)
 
** [[11月16日]] 政界引退。
 
* [[2013年]](平成25年)
 
** [[4月29日]] [[桐花大綬章]]受章。
 
* [[2017年]](平成29年)
 
** [[8月28日]] 老衰のため死去。従二位叙位。
 
 
 
== 出典 ==
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[民主党の閣僚経験者一覧]]
 
* [[竹下派七奉行]]
 
* [[ネオ・ニューリーダー]]
 
* [[民主党娯楽産業健全育成研究会]]
 
{{-}}
 
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{{s-off}}
 
{{succession box
 
| title = {{Flagicon|日本}} [[内閣総理大臣]]
 
| before = [[細川護煕]]
 
| years = 第80代:1994年
 
| after = [[村山富市]]
 
}}
 
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| title = {{Flagicon|日本}} [[国務大臣]]([[副総理]])
 
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{{succession box
 
| title = {{Flagicon|日本}} [[外務大臣 (日本)|外務大臣]]
 
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| title = {{Flagicon|日本}} [[農林水産委員会|衆議院農林水産委員長]]
 
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2019/4/23/ (火) 16:00時点における最新版

羽田 孜(はた つとむ、1935年昭和10年)8月24日 - 2017年平成29年)8月28日

[生] 1935.8.24. 東京,大田

[没] 2017.8.28. 東京,世田谷

政治家。内閣総理大臣(首相。在任 1994.4.~6.)。1958年成城大学経済学部を卒業し,小田急バスに入社。10年勤めたあと,父武嗣郎の後継者として 1969年衆議院議員総選挙に出馬し初当選。自由民主党では木曜クラブ(田中派),竹下登率いる創政会および経世会に属し,農林大臣政務次官,党農林部会長,農林水産大臣,大蔵大臣などを歴任。おもに農政畑で活躍するが,党選挙制度調査会長として政治改革にも熱心に取り組み,1992年10月小沢一郎らとともに政策グループ「改革フォーラム21」を旗揚げした。同年12月グループが経世会から離脱するとみずから会長に就任。翌 1993年6月には政治改革,政権交代を目指して集団離党し,新生党を結成,党首となる。衆議院議員総選挙後の細川連立内閣では副首相兼外務大臣を務めた。1994年4月第80代,51人目の首相に就任するが,直後に日本社会党の連立政権離脱で少数与党となり,6月前政権からの積み残し課題である予算成立後,自民党から提出された内閣不信任案を受けて総辞職。在任期間 64日と史上 2番目の短命内閣となった。1994年12月新進党設立に伴って副委員長に就任。1996年12月新進党を離脱して太陽党を結成,党首に就任。1998年1月新進党からの分裂勢力とともに民政党をつくり,代表に就任。同年4月民主党に合流した。2012年政界引退。