羽生善治

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テンプレート:Infobox 将棋棋士 羽生 善治(はぶ よしはる、1970年9月27日 - )は、日本将棋棋士十九世名人永世竜王永世王位名誉王座永世棋王永世王将永世棋聖の称号資格保持者、及び名誉NHK杯選手権者の称号保持者[注 1]二上達也九段門下。棋士番号は175。埼玉県所沢市出身。

概要

1985年に中学生でプロ棋士となり、1989年、初タイトルとして竜王位を獲得。1996年2月14日将棋界で初の全7タイトル(竜王、名人、王位、王座、棋王、王将、棋聖)(当時のタイトル数は7[注 2])の独占を達成。

2017年12月5日第30期竜王戦で14年ぶりに竜王位を獲得し、通算7期の条件を満たして永世竜王の資格保持者となり、初の永世七冠(永世竜王、十九世名人、永世王位、名誉王座、永世棋王、永世王将、永世棋聖)を達成。さらに名誉NHK杯選手権者の称号を保持しており、合計8つの永世称号の保持も史上初[注 3]。タイトル戦ではないNHK杯は、一度奪取しても防衛戦はなく、また最初からトーナメントを勝ち進まなければならないこともあり、68回目の開催を数える2018年でも唯一の達成者である。

通算優勝回数151回、公式戦優勝回数143回、タイトル獲得99期、タイトル戦登場134回、同一タイトル戦25回連続登場(王座)、同一タイトル獲得通算24期(王座)は歴代単独1位、一般棋戦優勝回数44回は大山康晴と並んで歴代1位タイの記録である。また、非タイトル戦優勝回数52回、非公式戦優勝回数8回、最優秀棋士賞22回、獲得賞金・対局料ランキング首位22回も歴代1位である。詳細は主な成績を参照。

羽生とほぼ同じ年齢は森内俊之(十八世名人資格保持者)や佐藤康光(永世棋聖資格保持者)らトップクラスの実力者が集中しており、彼らは「羽生世代」と呼ばれる。

プロデビューまで

埼玉県所沢市で生まれ、幼稚園に入る頃から東京都八王子市に移り住んだ[book 1]

小学校1年生のとき、近所に住む同級生から将棋のの動かし方を教わった[book 1][注 4]。2年生(1978年)の夏、将棋に熱中している我が子の姿を見ていた母が将棋道場「八王子将棋クラブ」の「第1回夏休み小中学生将棋大会」に出場を申し込み、大会デビュー(1勝の後2連敗で失格)[book 1]。それがきっかけで、同年10月28日から毎週末に同道場に通うようになった[book 1]。家が新興住宅地にあったため周囲にまだあまり店がなく、週末に両親が車で八王子市街に出かけて買いだめをするたび、道場の席主に母があいさつして羽生を預けた[book 1]

道場のいちばん下は7級であったが、昇級の楽しみを与えるため席主が与えた段級は14級であった[book 1]。その後、棋力は急速に向上していき、翌年の小学3年生の時に初段、4年生の10月に四段、5年生の10月に五段となり[book 1]、いわゆるアマ強豪のレベルとなった。なお、家でも将棋を指し、それは両親と妹の計3名による「連合軍」と羽生1名が対戦して、連合軍が不利な展開になったときは将棋盤を180度回転して指し継ぐという家族内ルールであったが、羽生の上達が速かったため長続きしなかった[book 1]

1979年、3年生で4級のとき、日本橋東急デパートの「よい子日本一決定戦・小学生低学年の部」で準優勝(優勝は先崎学)をし、その翌年も関東各地のデパートの大会で準優勝や3位入賞をする[book 1]。将棋大会出場時は、母が我が子を見つけやすくするため、いつも広島東洋カープの赤い野球帽である赤ヘルを被らせていた(羽生自身は読売ジャイアンツファンであった)[book 2][book 1]

1981年1月7日、「第1回小田急将棋まつり小学生大会」でデパート大会での初優勝した。このとき、準決勝で森内俊之を、決勝で小倉久史を破っている[book 1]。森内とのライバル関係は、この頃から始まった。ある将棋大会では、先手・森内の初手▲5八飛という珍しい手に対して後手の羽生が△5二飛と返すというきわめて珍しい序盤を見せることもあった[book 3]。同年、5年生に上がると、アマ名人戦の都下予選(7月12日)を史上最年少で通過[book 1]。8月には東京の4つの小学生大会で優勝する[book 1]

5年生のとき、奨励会への入会を志し、道場の師範代である中嶋克安指導棋士(二上の最初の弟子)[注 5]に相談をしたが、中嶋は「小学生将棋名人戦で優勝をすること」という厳しい条件を突きつけた[注 6][book 1]。しかし、6年生の春(1982年4月3日)、羽生は見事優勝し条件をクリアした。このとき森内は3位、NHKテレビ解説者は3日後に二十歳の誕生日を迎える谷川浩司だった。母は対局が行われたNHKのスタジオから、すぐに二上に電話を入れた[book 1]。小学生将棋名人戦に出演していた大山康晴は優勝した羽生と谷川を見て将来はこの若い2人が将棋界を引っ張っていくライバルになっていくであろうと述べている。

同年、奨励会入会試験に合格。以降、1年あまりで6級から初段に昇段するなど驚異的な速度で昇級・昇段(後述)を重ね、1985年12月18日に三段での13勝4敗を記録。この成績をもって、当時の規定[注 7]により四段に昇段してプロに昇格。加藤一二三、谷川浩司に続く史上3人目の中学生棋士となる[web 1]

戦績

末尾の年表も参照。

デビュー

デビューから年度が明け、実質の初年度となる1986年度に全棋士中1位の勝率0.741(40勝14敗)を記録し、将棋大賞の新人賞と勝率一位賞を受賞する。羽生に追随してデビューしてきた同年代の強豪棋士達とともに、いわゆる「チャイルドブランド[注 8]と呼ばれる新世代のグループを形成し、羽生は、その代表的存在として勝ち進む。1987年12月5日、17歳2か月で天王戦優勝。

羽生が知られるようになったのは、五段時代の第38回(1988年度)NHK杯戦である。大山康晴(3回戦)、加藤一二三(4回戦 = 準々決勝)、谷川浩司(準決勝)、中原誠(決勝)と、当時現役の名人経験者4人をすべて破るという、まるで作った舞台設定[注 9]のような勝ち上がりで優勝した。対・加藤戦では終盤61手目に加藤陣に▲5二銀(右図は1手前の局面。打った銀を飛車で取っても金で取っても加藤の玉が詰む)を打った。加藤は仕方なく△4二玉としたが、その5手後(67手目)に投了に追い込まれた。後に加藤はこの対局について、「▲5二銀自体は奨励会員でも指せる」と述べているが、中盤戦で攻められている側に玉将を上がった▲4八玉を高く評価している[book 4]

この1988年度は、対局数、勝利数、勝率、連勝の記録4部門を独占(80局、64勝、0.800、18連勝[注 10])をし、将棋大賞の最優秀棋士賞を史上最年少(18歳)で受賞した。無冠の棋士が受賞したのも、史上初である。

1989年、第2期竜王戦で3組優勝者として挑戦者決定トーナメントを勝ち上がって挑戦権を獲得し、タイトル戦に初登場した。七番勝負の相手は、研究会「島研」での恩師であり前年に初代竜王の座に就いた島朗であった。持将棋1局を含む全8局の熱闘を4勝3敗で制し、初のタイトル獲得。棋界で名人位と並んで序列トップの竜王位に就いた。19歳2か月でのタイトル獲得は、当時の最年少記録であった(最年少タイトルの記録は、翌年、18歳の屋敷伸之によって塗り替えられる)。この年度は、先手番での勝率が0.9355(29勝2敗)であった[web 2]

1990年11月に谷川に竜王位を奪取され、無冠となり肩書として「前竜王」を名乗るが[注 11]、4か月後の1991年3月に棋王位を獲得し、それ以降、一冠以上を保持する状態が27年間続いている(2018年4月現在)。よって、羽生が肩書として段位を名乗ったのは竜王挑戦時の「六段」が最後である(2018年4月現在)[注 12][注 13]

七冠独占

1992年度、第40期王座戦福崎文吾から奪取して、初めて複数冠(王座・棋王)となる。ここから長い王座戦連覇が始まり、後に、大山が持つ同一タイトル連覇記録を塗り替えることとなる。同年、第5期竜王戦で谷川竜王(三冠)との三冠対二冠の天王山対決を制し、森下卓曰く「タイトル保有の図式が逆転」[注 14]した。

1993年度、谷川から棋聖を、郷田真隆から王位を奪取して五冠王(大山、中原に次いで3人目)となる。羽生はこのときに「初めて七冠を意識した」[book 5]と述べた。しかし、竜王戦で佐藤康光に敗れ四冠に後退する。

一方順位戦では、1991年度(第50期)のB級2組から2期連続昇級でA級に昇格。そして迎えた第52期(1993年度)A級順位戦では、谷川と並んで7勝2敗で1位タイの成績で終え、プレーオフで谷川に勝ち、A級初参加にして名人挑戦権を得る。この第52期(1994年度)名人戦七番勝負の相手は、前年から初めて名人位に就いていた50歳の米長邦雄名人であった。羽生は3連勝・2連敗[注 15]の後の第6局で勝ち、奪取。

同年度、さらに竜王位を佐藤から奪還して史上初の六冠王となる。残るタイトルは、谷川が保持する王将位ただ一つとなった。王将リーグでは郷田と5勝1敗同士で並びプレーオフとなったが、これに勝利して王将挑戦権を獲得し、1995年1月からの王将戦七番勝負で、全冠制覇をかけて谷川王将に挑むことになる。この第44期王将戦七番勝負はフルセットの戦いとなり、その間に同時進行していた棋王戦五番勝負では森下卓に対し3-0で早々と防衛をしていた。

そして最後の第7局(1995年3月23-24日)は、青森県奥入瀬で行われた。相矢倉の戦形となったが、2日目に千日手が成立。先手・後手を入れ替えての指し直し局は同日中に行われたが、40手目まで千日手局と同じ手順で進行。つまり、相手の手を真似し合ったような格好であった[注 16]。41手目に先手の谷川が手を変え、以降、矢倉の本格的な戦いとなったが、最後は谷川の111手目を見て羽生が投了。阪神淡路大震災で被災[注 17]したばかりの谷川によって、七冠制覇を目前で阻止された。羽生がタイトルに挑戦して敗れたのは、これが初めてである。この第7局の2日目当日、対局場のホテルには、将棋界の取材としては異例の数の報道陣が大挙して詰めかけていた(約150名[book 6])。敗れた羽生は「もう2、3年は、(七冠の)チャンスは巡ってこないだろう」と思った[book 5]

ところが、それから1年間、羽生は王将戦第7局の前に既に防衛していた棋王戦(対・森下卓)を含め、名人戦(対・森下卓)、棋聖戦(対・三浦弘行)、王位戦(対・郷田真隆)、王座戦(対・森雞二)、竜王戦(対・佐藤康光)と六冠の防衛に全て成功する。なお、これらの防衛戦の間に通算タイトル獲得数が谷川の20期(当時)を超え、大山、中原に次ぐ歴代3位となっている。その傍ら、第45期王将リーグは対・中原戦で1敗を喫したものの、村山聖森内俊之丸山忠久、郷田真隆、有吉道夫に勝って5勝1敗の1位となり、2期連続で谷川王将への挑戦権を勝ち取る。なお、これらの防衛戦、リーグ戦の中では、終盤戦で相手の悪手に助けられた逆転勝ちがいくつもあった[注 18]

第45期王将戦七番勝負の決着は、前年とは異なりあっさりとやって来た。羽生は開幕から3連勝し、山口県マリンピアくろいでの第4局(1996年2月13日2月14日)を迎える。報道陣の数は1日目から170名を超え、2日目には250名近くに達した[book 6]。羽生の後手番で戦形は横歩取りの激しい将棋となり、82手で羽生の勝利(右図は投了図)。4-0のストレートで王将位を奪取し、ついに七冠独占を達成した。横歩取りは、谷川が低段の頃に愛用しており、それに影響を受けた小学生時代の羽生少年が好んで指していた戦法であったため、その戦形で七冠を達成できたことは、感慨深かったという[book 5]

タイトル戦の数が6つ以上になった1975年度以降、全冠制覇は初の出来事だった。

なお、第4局1日目の前日から風邪を引いて熱を出していた。これについては、本人いわく「体調管理が悪いことは褒められたものではない」としながらも、「いい状態ではないから、負けてもしょうがないと思ったことが、逆に、プレッシャーを低減させた一面があった」とのことである[book 7]。しかし、この第4局が終わって自室に戻ったときは、ベッドに倒れこみ、頭の中は真っ白。それは竜王や名人を初めて獲ったときとは全く異なるものであった[book 5]

直後に第21期棋王戦(七冠王としての最初の防衛戦)で高橋道雄を相手に防衛に成功。これで年度の全7タイトル制覇も達成したことになる。また、この年度は、テレビ棋戦のNHK杯戦、早指し将棋選手権でも優勝した。年度勝率は、タイトル戦の番勝負での対局が主であったにもかかわらず、当時歴代2位の0.8364(46勝9敗)[注 19]という数字であった。

新年度(1996年度)の最初のタイトル防衛戦(七冠王として2つ目の防衛戦)は、小学生時代からのライバル(上述)でタイトル戦初登場の森内俊之との名人戦(第54期)であり、4勝1敗で防衛に成功した。フルセットの戦いではなかったが、「(森内に)色々な作戦を持って来られたり、封じ手時刻ぎりぎりで指されたりして、ハードな名人戦だった」という[book 8]。これで名人3連覇となったが、永世名人資格(通算5期)までの残り2期獲得まで12年もかかることになる。

七冠から一冠へ陥落、再び四冠

次の防衛戦(七冠王としての3つ目の防衛戦)は、2期連続で三浦弘行[注 20]を挑戦者に迎えた第67期棋聖戦であった。フルセットの戦いとなったが、最終第5局で相掛かり2八飛車引き[注 21]の趣向を見せた三浦に敗れ、七冠独占は167日で幕を降ろした(1996年2月14日=王将奪取日-7月30日=棋聖失冠日)。しかし羽生は、「通常に戻れるのでほっとした」と語っている[book 9]

三浦から棋聖位を奪われたのと同年の第9期竜王戦と、翌1997年第55期名人戦という2つのビッグタイトル戦で、いずれも谷川に敗れ四冠に後退。この名人戦で谷川は名人位獲得通算5期となり、永世名人(十七世)の資格を得た。獲得賞金・対局料ランキングでは羽生は1位が‘指定席’であるが、1997年は谷川竜王・名人にその座を譲った。

第47回(1997年度)NHK杯戦決勝(対局日は1998年2月28日)は、村山聖との最後の対戦となった(約5か月後の1998年8月8日に村山が死去)。最終盤、村山が悪手(68手目△7六角[book 10])を指し、急転直下で3手後に村山の投了となった。羽生は4度目の優勝。これで、二人の通算対戦成績は羽生の7勝6敗となった[注 22]

第38期(1997年度)王位戦七番勝負(対・佐藤康光)から第48期(2000年度)王座戦五番勝負(対・藤井猛)にかけて、登場した15回のタイトル戦で全て獲得に成功(防衛14、奪取1)。第13期竜王戦(2000年度)七番勝負で藤井猛竜王に挑戦敗退して止められる(藤井はこれをもって竜王戦史上初の3連覇)。

2003年度、第51期王座戦では、10代で羽生より一回り以上若い挑戦者・渡辺明を迎える。1勝2敗とされてからの2連勝で辛くも防衛。最終第5局では、終盤で勝ちが確実となったときに手が激しく震え、駒をまともに持てなかった。

同年度の竜王戦、王将戦、そして翌2004年度の名人戦で、いずれも森内に立て続けに3つのタイトルを奪われ、永世竜王資格獲得(竜王通算7期)と永世名人資格獲得(名人通算5期)の両方を阻止される。竜王戦は自身初のタイトル戦ストレート負けであった。これで羽生のタイトルは王座だけとなる。羽生が一冠のみとなったのは11年9か月ぶりのことである。この時点で、タイトル保持者は、森内竜王・名人(王将と合わせて三冠)、谷川王位・棋王(二冠)、佐藤(康)棋聖(一冠)、羽生王座(一冠)となった。しかし、その2004年度中に次々とタイトル挑戦権を得る。まず王位戦で谷川王位に挑戦して奪取し、王座一冠の時期は89日で終わる(2004年6月11日-9月8日)。さらに王座戦で森内の挑戦を退けて防衛した後、冬には王将戦と棋王戦で、森内王将・谷川棋王それぞれにストレート勝ちし、あっという間に再び7タイトルの過半数の四冠を占める。

永世名人獲得成功と永世竜王獲得失敗

2004年度は、A級順位戦でも7勝2敗で1位となり森内名人への挑戦権を得るが、その名人戦(2005年4月-6月)ではフルセットの戦いの末に敗れ、前年に続き永世名人の資格獲得を逸する。結果的にこの2年後、森内は羽生より一歩先に永世名人に到達することとなる。

2005年度のA級順位戦では8勝1敗の成績だったにもかかわらず同星の谷川とのプレーオフとなり、結果敗れて名人挑戦を逃した。8勝して名人挑戦できなかったのは、順位戦史上、唯一のケースである[注 23]

2006年、王座を防衛した時点で通算タイトル獲得数を65期とし、中原誠の通算64期を抜いて歴代単独2位となる。

2007年12月20日、第66期A級順位戦6回戦・対久保利明戦で勝ち、史上8人目の通算1000勝(特別将棋栄誉賞)を史上最年少、最速、最高勝率で達成。その2か月後の2008年2月28日には、第57期王将戦で防衛に成功し、史上2人目の棋戦優勝100回(タイトル獲得68期、一般棋戦優勝32回)を達成。


2008年6月17日、第66期名人戦第6局で森内名人を破り、名人位と三冠に復帰。通算5期獲得により永世名人(十九世名人)の資格を得る。これにより史上初のいわゆる「永世六冠」(永世名人、永世棋聖、永世王位、名誉王座、永世棋王、永世王将)を達成。大山康晴と中原誠の「永世五冠」を抜いた。そして、残る1つの永世位獲得をかけ、第21期竜王戦で渡辺明竜王への挑戦権を得る。渡辺が勝てば連続5期で初代永世竜王、羽生が勝てば通算7期で初代永世竜王という、タイトル戦史上初の初代永世位決定戦となった。七番勝負は羽生が開幕3連勝。しかし、そこから3連敗してフルセットとなり、2008年12月17日-18日に山形県天童市で行われた最終第7局でも渡辺に敗れる。羽生は将棋界初の3連勝4連敗を喫して奪取を逃した[注 24]。なお、この最終局は矢倉の戦形からお互い早めに動く展開で、中・終盤のねじり合いの内容が素晴らしく、将棋大賞の名局賞受賞局となった。羽生にとっては同賞創設から3年連続3回目の受賞で、いずれも敗局での受賞である。

大山の記録を超えて

2010年6月1日、第51期王位戦白組プレーオフで戸辺誠に勝ち、通算1100勝を達成。同年、タイトル戦登場100回目となった第81期棋聖戦は、深浦を3勝0敗のストレートで下して防衛し、記録に花を添える(2010年6月26日)。また、第58期王座戦では藤井猛を相手に3勝0敗で防衛(2010年9月29日)。同一タイトル19連覇、同一タイトル6回連続ストレート防衛という2つの歴代1位の記録を樹立した[注 25]

第58回(2008年度)-第60回(2010年度)のNHK杯戦で史上初の3連覇を達成。同棋戦での通算優勝回数を一気に9へと伸ばし、大山康晴の記録(8回)を抜き去って歴代単独トップに立つ。なお、第59回・第60回の決勝の相手は、2年続けて「関西若手四天王」[web 3]の一人と呼ばれる糸谷哲郎であった。

2011年、森内俊之を挑戦者に迎えた第69期名人戦で3連敗後3連勝するも、最終局で敗れ失冠。しかし、同年の第52期王位戦で広瀬章人王位に挑戦し、4勝3敗で奪取(2011年9月13日)して通算タイトル獲得数を80期とし、40歳にして大山康晴の持つ歴代1位の記録に並んだ。しかし、第59期王座戦で挑戦者の渡辺にストレート負けを喫し、20連覇を逸する。なお、同年、初出場の第19回富士通杯達人戦(非公式戦)で優勝している。

2012年2月11日、第5回朝日杯将棋オープン戦で、2年ぶり2度目の優勝。第70期順位戦(2011年度)で史上3人目のA級順位戦全勝優勝を達成。第61回(2011年度)のNHK杯戦では3月18日放送の決勝で渡辺を破り、自身の連覇記録をさらに更新するNHK杯戦4連覇[注 26]を果たすとともに通算優勝回数10回を達成。将棋界では初の名誉NHK杯選手権者の称号を獲得した[注 27][web 4]。これによって七つ目の永世称号の獲得となり、自身の記録を更新する歴代最多記録となった。この時点で通算優勝回数が124回(タイトルと一般棋戦、非公式戦の合算)となり、大山康晴の最多記録に並ぶ。

第70期名人戦(2012年)で森内に敗北(2勝4敗)。A級全勝者挑戦の名人奪取失敗は史上初。しかし、直後の第83期棋聖戦で新鋭・中村太地(タイトル初挑戦)を3連勝で退け、通算タイトル獲得数を81期として歴代単独1位となる[web 5]。8月17日の対局(銀河戦決勝収録・対阿久津主税)で勝利し、史上5人目の通算1200勝を史上最年少、最速、最高勝率で達成[web 6]

2012年度、渡辺から前年奪われた王座を奪還。その最終第4局は千日手指し直しの末深夜2時までもつれる熱戦で、第40回将棋大賞の名局賞に選ばれた(羽生にとっては初の勝局での受賞)。

第71期A級順位戦(2012年度)で優勝し、2年連続で名人挑戦。その第71期(2013年度)名人戦は3年連続で森内との対決となったが、1勝4敗で敗退。一方、渡辺の挑戦を受けて史上初の三冠同士対決となった第84期(2013年度)棋聖戦では3勝1敗でタイトルを防衛し、通算公式戦優勝回数を25回として歴代単独1位となる。

第61期(2013年度)王座戦で中村太地に対して1勝2敗からの2連勝で辛くも防衛。このシリーズは200手超あり、千日手あり、打ち歩詰め筋ありという白熱したシリーズだった。これにより、同一タイトル通算獲得数を歴代単独1位の21期とする(従来の記録は大山の王将通算20期)。第7回朝日杯将棋オープン決勝戦(2014年2月8日)で渡辺二冠を下し、3度目の優勝。また、渡辺王将に挑戦した第63期(2013年度)王将戦ではフルセットにもつれ込むも惜敗(四冠を逃す)。

3度目の名人復位と4年ぶりの四冠復帰

第72期名人戦(2014年度)で4年連続・9回目の顔合わせとなった森内名人を4連勝のストレートで破り名人に復位。約4年ぶりに四冠に復帰した。3期連続の挑戦、および3度の復位はともに名人戦史上初である。3度の復位は全て森内から、3度の失冠のうち2度は森内によるものである。第85期棋聖戦では、森内竜王を挑戦者に迎え、名人戦とは立場を変えての番勝負となった。結果は羽生の3連勝で防衛。大山の記録に並ぶ棋聖7連覇、13期目の獲得となった。

第55期(2014年度)王位戦では、挑戦者に木村一基を迎え、第3局に王位戦史上初(タイトル戦では22年ぶり)となる持将棋が成立した。結果は羽生の4勝2敗1持将棋で防衛(4連覇、16期目)。なお、タイトル戦での持将棋は、羽生自身にとっては、初タイトルを獲得した第2期(1989年)竜王戦第2局(対島朗竜王)以来2度目である。

第62期(2014年度)王座戦では、2回目のタイトル挑戦となった豊島将之を迎えた。開幕2連勝のあと2連敗しフルセットになったが防衛し、同一タイトル獲得記録を22に更新、四冠を堅持した。またこれにより、タイトル通算獲得数が90期になった。また第64期王将戦挑戦者決定リーグ戦対三浦弘行九段戦に勝利し、史上4人目の1300勝を、最年少・最速・最高勝率で達成した。

第40期(2014年度)棋王戦で渡辺に挑戦するも、3連敗で奪取失敗。なお、2014年度は2つのタイトル挑戦者決定戦で敗れ(竜王挑戦者決定三番勝負・対糸谷1勝2敗、王将リーグプレーオフ・対郷田)、年度全てのタイトル戦登場を逃した。

第73期(2015年度)名人戦は行方尚史を挑戦者に迎え、4勝1敗で防衛。これにより名人通算9期、名人位獲得数が歴代3位となった。なお、羽生が制した第1局は名人戦史上最短手数となる60手での決着であった[web 7]

2015年から始まった第1期叡王戦には参加しなかった。

第86期(2015年度)棋聖戦では豊島将之を迎えての防衛戦であった。2年連続挑戦で勢いに乗る豊島七段を3勝1敗で退けて防衛。大山十五世名人の棋聖7連覇の記録を塗り替え8連覇を達成。また元王位の広瀬章人を挑戦者に迎えた第56期王位戦では、4勝1敗で盤石の防衛。そして第63期王座戦ではタイトル戦初登場の佐藤天彦を3勝2敗のフルセットで退けた。

第9回朝日杯将棋オープン戦の決勝(2016年2月13日)で森内に勝利し、3連覇を達成。また、一般棋戦の通算優勝回数が44回となり、大山の記録に並んだ。

第74期(2016年度)名人戦は佐藤天彦を挑戦者に迎え、1勝4敗で失冠。名人通算10期とはならなかった。

その後、第87期(2016年度)棋聖戦では羽生が苦手としていた永瀬拓矢を挑戦者に迎え、3勝2敗で防衛。自身の持つ棋聖戦連覇記録を9へと伸ばす。その後初タイトルを目指す木村一基を挑戦者に迎えた第57期(2016年度)王位戦七番勝負もフルセットで防衛。これにより25年連続の年度複数冠を達成。第64期王座戦戦五番勝負ではストレートで挑戦者の糸谷哲郎を破り、自身の持つ同一タイトル獲得記録を24期に伸ばした。第2期叡王戦に初参加、九段予選を勝ち上がり本戦に進出、準決勝で佐藤天彦名人に敗れた。

13年ぶりの一冠後退と竜王挑戦、そして永世七冠

第88期(2017年度)棋聖戦では若手のホープ斎藤慎太郎七段を挑戦者に迎え、3勝1敗で防衛。自身の持つ棋聖戦連覇記録を10へと伸ばすとともに、自身3つ目のタイトル2桁連覇(王座・棋王・棋聖)を達成した。

第58期王位戦では棋聖戦挑戦者の斎藤慎太郎と共に順位戦でB級1組へ昇級した菅井竜也七段を挑戦者に迎えた。菅井の振り飛車に苦戦し1勝4敗で失冠。続けて、第65期王座戦では3年振り2回目の挑戦となる中村太地六段を挑戦者に迎え、1勝3敗で失冠。自身13年ぶりとなる一冠に後退した。

第30期竜王戦では挑戦者決定戦に進出し松尾歩八段を相手に2勝1敗で勝利。自身7年ぶりの竜王戦七番勝負登場を決めた。七番勝負では渡辺竜王を4勝1敗で破り16年振りに竜王位に復位し、永世竜王を獲得するとともに史上初の永世七冠となった[web 8]。また史上初の永世七冠を達成したことにより安倍晋三内閣総理大臣から棋士として初の国民栄誉賞を、囲碁棋士の井山裕太七冠と共に授与された。

また、竜王位の獲得により既に防衛していた棋聖と合わせて55日振りに二冠となり、26年連続の年度複数冠を達成。

第76期順位戦では、最終局を終えて6人が6勝4敗で並び、史上初の6人でのプレーオフとなった。A級2位の羽生は4回戦で豊島将之、5回戦(挑戦者決定戦)で稲葉陽を破り、自身17回目となる名人戦への出場を決めた。佐藤天彦名人との七番勝負は、第1局を98手にて勝利して、大山康晴十五世名人に次ぐ2人目の通算1400勝を最年少・最速・最高勝率で達成[web 9]するも、番勝負の結果は2勝4敗に終わり、名人復位はならなかった。また、第66期王座戦では、決勝トーナメント1回戦で深浦康市九段に敗退し、26年続いた連続番勝負出場記録が途切れた[web 10]。第89期ヒューリック杯棋聖戦では2勝3敗の末、豊島将之八段に敗れ棋聖位を失冠し再び竜王の一冠となった[web 11]

棋風・評価

攻守ともに優れた居飛車党であり、急戦・持久戦問わず指しこなす。時折、振り飛車を採用することもある[web 12]

好きな駒は銀将。攻め、受けの要であるため。羽生が研究用に使っていた駒を譲り受けたライターによれば、柘植製の使い込まれた駒のうち、銀だけがすり減っていたという[web 13]

また、対局の中の様々な面で強さを発揮する。勝又清和は「大山の力強い受け、中原の自然流の攻め、加藤(一)の重厚な攻め、谷川の光速の寄せ、米長の泥沼流の指し回し、佐藤(康)の緻密流の深い読み、丸山の激辛流の指し回し、森内の鉄板流の受け、といった歴代名人の長所を状況に応じて指し手に反映させる‘歴代名人の長所をすべて兼ね備えた男’」としている[book 11]

終盤での絶妙の勝負手あるいは手渡し、他の棋士が思いつかないような独特な寄せ手順から逆転することは、主に若手時代、「羽生マジック」と呼ばれ、それを表題とした書籍も複数出版されている。

金銀を2三(後手なら8七)や8三(後手なら2七)に打った対局の勝率が高いと言われている。ここに金銀を打つのは、通常は勝ちづらいと考えられている手法である。このため棋界の一部では、これらのマス目は「羽生ゾーン」と呼ばれている[book 12]

著書『決断力』で「成長するために逃げずに敢えて相手の得意な戦型に挑戦する」との旨の発言をしている。

長年のライバルである森内俊之は、「彼の凄さは、周りのレベルも上げつつ、自分のレベルも上げるところにある。勝負の世界にいながら、周りとの差を広げることだけにこだわっていない」と語る[book 13]。これに関しては他に、観戦記者が「感想戦で羽生などは別の手順をすべて明らかにします。今後の対局もあるからバラすと損になるなどと考えない」などがある[web 14]

渡辺明は、「佐藤棋聖に敗れA級の羽生-谷川戦を観戦。あまりの名局に感動し動けない。トップ棋士の力を見た一日」、「羽生名人はどんな戦法も指せる」、「情熱大陸」の竜王戦密着取材では、第1局の羽生の勝ちに関して「あの状態(渡辺は羽生が攻めきれないと読んでいた)から勝てると読んでいたのは恐らく羽生さんだけじゃないかな…」と、ナレーションの「差を見せ付けられた」との声とともに語った[1]

深浦康市は2003年に、「(二冠に後退したが)羽生さんは今も最強だと思っています。羽生さんに比べると自分はまだまだ」と語っている[web 15]

パーソナルデータ

  • 身長は172cm[book 14]。血液型はAB型[book 5][book 15]
  • 妻は元女優NHK連続テレビ小説京、ふたり』のヒロイン役を務めた畠田理恵。婚約発表は1995年7月。1996年2月19日に畠田が駅で暴漢に襲われる事件が発生。この事件は七冠達成から僅か5日後であったため、マスコミで大きく取り上げられた。挙式は1996年3月28日。1997年7月に長女、1999年11月に二女が誕生。
  • 両親は、互いの祖母が姉妹という再従姉弟の関係にあり、しかも同じ会社の出身者である[book 1]
  • お笑いタレントハブサービス(本名:羽生幸次郎)は従弟にあたる[web 16]
  • 八王子桑の実幼稚園卒園、八王子市立恩方第一小学校入学、2年生に上がるときに近くに新設の同市立元木小学校へ転校[book 1]
  • プロ棋士となってからも一時東京都立富士森高等学校に通う多忙な生活を送っており、試験は持ち前の記憶力で突破していたが出席日数が足りず、東京都立上野高等学校通信制に転入し、卒業。母は「将棋に専念させず高校に通わせたことを後悔した」と述べている[web 17]

対局関連の逸話

重要な対局

  • 初タイトルの竜王を失った1990年の竜王戦七番勝負は、谷川3連勝の後に羽生が1勝を返し、最終的に4-1で谷川が奪取した展開であったが、角番で1勝を挙げた第4局は、入玉模様ではなく攻め合いであったにもかかわらず、203手という長手数の激戦であった。この一局のことを、羽生は「それまでは、昇級・昇段・タイトル獲得という上だけを見ていたが、初めて後ろ向きで対局したという意味で、(将棋観を変えた最も)印象に残る一局」[book 7]と語り、一方、谷川は「どちらが勝ってもおかしくない名局」、「4-0か4-1かというのは、その後のことを考えれば大きかったかもしれない」[book 16]という旨を述べている。
  • 永世称号資格の獲得では、棋界で序列最上位の竜王・名人の2つのみ、あと一歩となると足踏みしていた。永世名人資格の獲得は森内に2年連続で阻止され、その森内の方が先に獲得した(森内が十八世、羽生が十九世)。永世竜王資格の獲得は2002年に通算6期獲得で永世竜王まで残り1期としたが、その後森内に1度、渡辺に2度阻止された。2008年渡辺明と戦った竜王戦は勝った方が初代永世竜王となるシリーズであったが、将棋史上初の3連勝4連敗で敗れた。著書『決断力』で「3連勝すると不安になり気の緩みが出る」との旨を述べている。しかし2017年に渡辺明から4勝1敗で奪取し、15年ぶりの竜王復位とともに永世竜王の資格を獲得した。
  • 通算タイトル獲得期数の従来記録(大山の80期)更新に際しても足踏みを見せた。通算81期の新記録達成まであと一歩とするも、渡辺(2011年王座戦)、森内(2012年名人戦)に連続阻止される。
  • 第67期名人戦七番勝負第1局の2日目(2009年4月10日)、対局中の羽生に対して観戦記者が扇子へのサインを求めるという珍事があった。羽生は44手目を考慮中であったが、記者の扇子にサインをした。この記者は朝日新聞社の嘱託を長くつとめた東公平で、この対局の観戦記の執筆を同社から委託されていた。同社は東に厳重注意をした。東は羽生とは昔から顔見知りであったため、その気安さのこともあってのことと言われている[web 18]

所作・習性

  • 2003年の第51期王座戦では、タイトル戦初登場で19歳の渡辺明五段の挑戦を受け3-2で防衛したが、最終の第5局の終盤で羽生の手が震えて駒をまともに持てなかった[book 17][book 18]。その後、一手のミスも許されない終盤で羽生の手が震えることが度々見られるようになったが、ほとんどの場合羽生の勝利が決定的になった局面のため、将棋界では「手が震えるのは羽生が勝ちを確信した時」と言われている[web 19]。羽生自身も2008年の第66期名人戦第3局・対森内俊之名人戦での大逆転劇の際の話として「このように指せば勝てると道筋が見えた時、手が震えるようになった」と語っている[book 19]
  • プロデビューして間もない低段時代には、上目で相手をにらみつける(ように見える)「ハブにらみ」が相手を恐れさせたとされる[book 20]
  • 初めて竜王位に就いた1989年頃は、先輩棋士(自分より段位や実績が上の棋士)と対局する際、上座に座るべきか下座に座るべきか、毎局悩んでいたが、1990年に1期で竜王位を失って以降は、席次に関しては、タイトル保持者としてふさわしい行動をとるよう努め、それで反感を買っても仕方がない、という考えをとるようになった[book 21]。その後1994年に、A級順位戦8回戦で中原誠(当時の肩書きは前名人で当該棋戦の準称号保持者)と対戦した際、羽生(当時王位・王座・棋王・棋聖の四冠)が上座についたことで物議をかもした。この件は「上座事件」と呼ばれることもある。これについて羽生は、それまでのリーグ戦の成績が、自分の方がよかったので勘違いした、と語っている[web 20]
  • 相手が悪手を指すと不機嫌になると言われており、羽生が勝利した第57期王座戦第2局ではまだ難解な将棋を投了した挑戦者の山崎隆之に厳しい言葉を投げかけたと言われる。このときの姿は『将棋世界』2009年12月号(日本将棋連盟)の観戦記にも「羽生には勝利を喜ぶ、あるいは勝利に安堵するといった雰囲気は微塵もなく、がっかりしたように、いやもっと言えば、怒っているようにも見えたからだ。」と記されている。また、本人も「相手でも自分でも、どちらかが悪い手を指すと、もっとすごいものを作り出せそうなチャンスがなくなってしまった、ということですから。」と発言している[book 22]。しかし、第25期竜王戦第2局(渡辺明-丸山忠久)の解説を務めた際に、視聴者からの質問としてこの件が取り上げられ、「私自身としてはそんなに厳しい口調で言ったというつもりは全くなかった。対局後に主催者が入室するまでの2~3分の間に、簡単な感想として「こういう手があったのではないか?」と軽く聞いたつもりだった。秒読みの緊迫した後だったので、見る人によってはそういう風に見えたのではないか」と発言している[web 21]

諸対局内容

  • 初めての五冠王の頃は振り駒で先手を引き当てることが多く、「振り駒も強い」と言われた。1992年度と1993年度のタイトル戦における振り駒(第1局および最終局)は12回行われたが、すべて羽生が先手となった。
  • 若手時代、NHK杯戦で先手番となったとき、▲2六歩△8四歩▲2五歩△8五歩という相掛かりの出だしの後、常識とされる5手目▲7八金を指すまでに若干の時間を使ったことがある[注 28]
  • 1993年12月24日の対谷川戦(第63期棋聖戦五番勝負第2局)において、序盤で4四の歩のタダ取りを許す△4二角、さらには、いったん敵玉に迫っていた7九のと金を、香車を取るだけのために2手をかけて△8九、△9九と「退却」させるという、将棋の常識からかけ離れた奇手を指した。売られた喧嘩に谷川が応じる展開の乱戦となり、さらに終盤だけで80手ほどもある激戦となったが、結果、羽生が勝利している。
  • 1994年、初めて名人位を獲得した直後のNHK杯戦・対畠山鎮戦で、先手・畠山の初手▲2六歩に対して2手目△6二銀と指した。そして、10手目で△3四歩とするまで羽生の歩が1つも動かないという、極めて珍しい出だしとなった。まさに「名人に定跡なし」である(結果、勝利した)。また、ほぼ同時期に、先手の初手▲7六歩に対する2手目△6二銀も指しており、こちらは一度ならず何度も指している。これは、相手が振り飛車党の場合に、たまに用いられる作戦ではあるが、羽生が実戦で試した相手は、谷川浩司、郷田真隆、森下卓といった居飛車党である。羽生は「2手目△6二銀は損だが、どれぐらい損であるかを見極めるために指した。どれだけ損であるかがわかったので、もう指すことはない。」という旨を語っていた[book 23]。なお、2手目△6二銀は、2018年の名人戦第6局・対佐藤天彦戦で、佐藤の初手▲2六歩に対して久々に指したものの、145手で羽生が敗れた[web 22]
  • 2007年10月14日放送のNHK杯戦、対中川大輔戦は、羽生が七冠のときのNHK杯戦決勝と同じ顔合わせとなったが、終盤で中川が自分の玉のトン死の筋に気づかず、羽生の逆転勝ちとなった。最後は歩1枚さえも余らない、ぴったりの詰み。解説の加藤一二三は「NHK杯戦史上に残る大逆転じゃないかな」と述べた[book 24]。この時点で羽生が視聴したかは明確ではなかったが、「棋士 羽生善治」のロングインタビューの中で、ニコニコ動画の映像を視聴したと明かした。
  • 2008年の第66期名人戦第3局(2008年5月8日-9日)において、検討陣の棋士達が森内俊之の勝ちと判断して検討を打ち切った後、敗勢から驚異的な粘りを見せて、最後の最後で森内のミス[注 29]を誘い、大逆転勝利を挙げる。羽生自身はその後のインタビューの中で「ずっと不利を感じていて気持ちが萎えていたが、それからひたすら最善手を続けた結果、勝利を引き寄せたのではないか」と語っている[book 25]
  • 史上初のネット公式棋戦である大和証券杯ネット将棋・最強戦の第2回、1回戦・渡辺明竜王との対局(2008年5月11日)において、マウス操作のミス[注 30]によって、時間切れ負けをする[注 31]。時間切れとなった局面は68手目、中盤から終盤への入り口でいちばん面白くなるところであり、しかも羽生優勢[注 32]の局面であった[注 33]。なお、これは羽生にとってデビュー以来初めての反則負けとしてマスコミに注目され、翌日の朝刊では一般紙や地方紙でも取り上げられた[注 34]

趣味

チェス

チェスにおいては国際チェス連盟(FIDE)のタイトル(称号)グランドマスター(GM)、国際マスター(IM)に次ぐ、FIDEマスター(FIDE Master, FM)位を有する、日本国内屈指の強豪である。現在では選手として競技会への参加は少なくなったが、国内でのチェスの普及や親善としてのイベント対局をこなしている。

海外のチェス大会に一人で出場するため、多忙な中で英語を勉強し、アメリカ、フランス、ドイツ、UAEなど各国の大会に出場した。2006年6月にフィラデルフィアで行われた「World Open」では、英語の取材に羽生自らが英語で応じており、その模様は公式サイトで公開されている。

チェスの魅力を将棋棋士の室岡克彦に22歳で教えられ、本でルール等を覚えた。実際にチェスをプレイし始めたのは七冠制覇前後の1996年頃、26歳とかなり遅く、日本在住のフランス人チェス講師、ジャック・ピノーに一から教わった。プレイといっても多忙のため月に1、2度の練習であった。将棋とチェスに関して羽生は「当初似ていると思っていたが、全然違う」と語った[web 23]

現在はチェスプレーヤーの小島慎也(IM、レーティング2400)と月に数回集中的な練習対局を行っている。

上記の将棋との混乱やチェスの開始時期が遅い事、月1、2度という僅かな練習にもかかわらず、2年後の1998年3月に全日本百傑戦で単独優勝、9月のジャパンオープンでは1局敗れたものの4者同率優勝した。

1999年6月には、非公式の自由対局ながらIMのアルミラ・スクリプチェンコに2戦2勝。しかし、その夫(当時)であるGMのジョエル・ローティエに森内俊之、佐藤康光とともに3面指しで挑むも3人とも敗れた。2000年は将棋界で記録的な活躍をしていたにかかわらず、暇を見つけてシカゴで開催された「Chicago Open」に参加、これが海外大会初参加である。

また2002年10月には再来日したGMのジョエル・ローティエに再び森内、佐藤とともに3面指しで挑むも羽生は敗れた(森内のみ引き分け)。

2004年には日本人として3人目となるFMの称号を獲得。以降、2007年5月までにほぼ年2回のペースで13回の海外大会に参加(うち2回は早指し戦)、2006年の「World Open」では5勝2分2敗で237人中38位となり、IM獲得への第一歩となる1度目のIMノームを達成した(日本人として3人目)。これらの大会で30分前後の早指し戦ではGMに3勝2敗1分と勝ち越している(但し、当時、早指しはレイティング対象とならなかった。現在は長時間のゲームとは別枠として計算されるようになった)。

2007年5月の時点でレイティングは2404と日本国内1位、世界ランキングは2796位、アジア圏のランキングは260位、日本チェス協会の国内称号である段位は六段とした。少ないながらも定期的に大会に出ては順調にレイティングを上げていたが、2007年5月から長期間、チェス大会へ出場しなくなり、2014年までFIDEからは「active player」(活動中の選手)の認定を受けなくなった。

これ以降もイベントでの対局は時折行い、2011年10月にはフランスで開催された国際将棋フォーラムで、アンドル=エ=ロワール県ヴィランドリー城でフランス国内チャンピオンのマキシム・バシエラグラーブ(対局時の世界ランキング29位、レーティング2715)と、森内とともに2面指しの親善対局を行い、黒番(後手、一般的に不利とされる)を持ったが、チェックメイトの順を逃しての引き分けとなった(森内は敗れた)。バシエラグラーブは両者について、「日本にこんな強い選手がいることにびっくりした」と感想を述べた[web 24][web 25]

2012年3月、全日本百傑戦に参加し単独優勝(5勝1分、5.5P/6R)を果たす。4月22日には都内で小島慎也とともに、GMで世界王者への挑戦経験もあるナイジェル・ショート(対局時の世界ランキング49位、レーティング2697)と、2面指しのエキシビション対局を行い、後手黒番を持って引き分けになった[web 26]

2012年9月14日、神戸で開催されたチェス・プロブレムの世界大会「WCCC2012」で、2011年に対局したバシエラグラーブ(対局時の世界ランキング50位、レーティング2697。将棋は一年前から始めた[web 27])と、将棋とチェスを同時に指すという変則ルールで公開対局を行った。ハンデとして羽生は将棋が飛車落ち、チェスは先手白番で、将棋に勝ちチェスは負けた。羽生はインタビューに「頭を切り替えて考える面白さがあった」とし、バシエラグラーブは「チェスと将棋が影響を及ぼし合えば面白い」と答えた[web 28][web 29]

2013年11月、ジャパンオープンで総合3位(5勝1分2敗、5.5P/8R)。12月には年末年始の休みを利用してポーランドに渡り、クラクフで開催された「第24回クラクフ国際チェスフェスティバル2013」に参加。6勝1分2敗(6.5P/9R)の成績を残し2度目のIMノームを達成した[web 30]。6勝の中には、GMのBartłomiej Heberla(対局時のレーティング2561)から後手黒番で上げた1勝が含まれている。これにより2014年2月のFIDEレーティングで2415となり、「active player」へ復帰した(世界2459位、アジア230位)[web 31]

2014年11月28日電王戦の特別企画で元世界王者のガルリ・カスパロフと先手後手を入れ替える早指し(25分)の二番勝負で対局したが、カスパロフが2連勝した[web 32]

AbemaTVの企画番組にて、持ち時間配分で「フィッシャールール」を採用した将棋トーナメント戦を羽生が提案。「AbemaTVトーナメント Inspired by 羽生善治」として放送されることになった[web 33]

エピソード

  • 普段は自然体で喋るが、インタビューなどでは「そうですね、あーのー、まぁー」などとゆっくり前置きをしながら、受け答えをする場合がある[web 34]
  • 対局時の寝癖がトレードマークとされる[web 35]。結婚後は一時頻度が少なくなったが[web 36]、2013年の王座戦第4局では「後頭部に見事な寝癖がついている。」と日本将棋連盟王座戦中継サイトに記録が残るなど[web 37]、2010年代に入り再び寝癖が現れる機会が多くなった[web 35]演歌歌手長山洋子の歌「たてがみ」は、寝癖になぞらえたタイトルのオマージュソングである。
  • チャトランガ系統のゲームは一通り出来る[book 26]囲碁は小学生の時にやっており、5級からは苦戦したものの初段になりやめた[book 27]。ただ、プロ棋士になってから再度ルールを覚えており、酒の席などでたまに知り合いと碁を打つことがある[web 36]
  • 漫画作品『月下の棋士』の主人公・氷室将介の圧倒的な強さと対局時のオーラは羽生をモデルにしていると、作者の能條純一が単行本最終巻に記している。但し、「羽田」という名前の眼鏡をかけた少年もスポットで登場している。
  • 2006年11月に八王子市より八王子観光大使を委嘱される[web 38]
  • 子供の頃公文式をしていたため、CMに起用されていたこともある。また、その頃から六冠になるまでを書いた本(マンガ形式)もある[book 28]
  • 将棋を題材にしたテレビゲームの監修及びアドバイスを度々行っており、自身が登場するゲームソフトもある。詳細は下記節を参照。
  • 好きな映画は小津安二郎監督の『東京物語[book 29]。また小説では『氷点』(三浦綾子)を一時愛読していた[book 29]

昇段履歴

  • 1982年12月2日(12歳) - 6級で奨励会入会
  • 1983年2月3日(12歳) - 5級 (9勝3敗)
  • 1983年3月28日(12歳) - 4級 (6連勝)
  • 1983年5月11日(12歳) - 3級 (6連勝)
  • 1983年7月7日(12歳) - 2級 (6連勝)
  • 1983年8月24日(12歳) - 1級 (6連勝)
  • 1984年1月11日(13歳) - 初段 (12勝4敗)
  • 1984年9月10日(13歳) - 二段 (14勝5敗)
  • 1985年4月25日(14歳) - 三段 (12勝4敗)
  • 1985年12月18日(15歳) - 四段 (13勝4敗)[注 7] = プロ入り(当時史上3人目の「中学生棋士」)
  • 1988年4月1日(17歳) - 五段 (順位戦C級1組昇級)
  • 1989年10月1日(19歳) - 六段 (竜王挑戦)
  • 1990年10月1日(20歳) - 七段 (前年の竜王位獲得による)[注 35]
  • 1993年4月1日(22歳) - 八段 (順位戦A級昇級)
  • 1994年4月1日(23歳) - 九段 (タイトル3期)[注 36]

主な成績

※2018年6月20日現在

タイトル・永世称号

    は2024年4月現在の在位。登場・連覇の 太字 は歴代最多記録。

詳細は末尾の年表タイトル戦戦績一覧を参照。他の棋士との比較は、タイトル獲得記録将棋のタイトル在位者一覧を参照。

タイトル 獲得年度 登場 獲得期数 連覇 永世称号(備考)
竜王 89(第2期), 92, 94-95, 01-02,17 14 7期
(歴代2位)
2 永世竜王資格
名人 94(第52期)-96, 03, 08-10, 14-15 17 9期
(歴代3位)
3
(※2度)
十九世名人資格
叡王 0
王位 93(第34期)-01, 04-06, 11-16 23 18期
(歴代1位)
9
(歴代2位)
永世王位資格
王座 92(第40期)-10, 12-16 26 24期
(歴代1位)
19
(歴代1位)
名誉王座資格
棋王 90(第16期)-01, 04 17 13期
(歴代1位)
12
(歴代1位)
永世棋王資格
王将 95(第45期)-00, 02, 04-08 18 12期
(歴代2位)
6
(歴代2位タイ)
永世王将資格
棋聖 93前(第62期)-95(第66期),
00, 08-17
20 16期
(歴代1位タイ)
10
(歴代1位)
永世棋聖資格
旧タイトル 獲得年度 登場 獲得期数 連覇 永世称号(備考)
十段 0
登場回数合計135(歴代1位)[注 37]、獲得合計99期(歴代1位)[注 38]

一般棋戦優勝

通算44回 = 歴代1位タイ[注 39]

詳細は、末尾の年表を参照。

なお、プロデビュー(1985年12月18日)以降に存在した棋戦のうち、新進棋士の棋戦を除けば、優勝経験がない棋戦(タイトル戦を含む)は、下記の3つだけである(但し、前身の棋戦は同一の棋戦と見なす[注 41])。

非公式戦優勝

通算8回 = 歴代1位

  • 達人戦 2回(2011年度(第19回)、2012年度(第20回))
  • 銀河戦(非公式戦時代) 2回(1997年度(第5回)、1998年度(第6回))
  • 若駒戦 1回(1985-1986年(第8回)、準々決勝以降対局は四段昇段後)
  • IBM杯 1回(1992年度(第4回))
  • 全日空杯 1回(1992年度)
  • 獅子王戦 1回(2016年度(第零期))

在籍クラス

竜王戦と順位戦のクラスは、将棋棋士の在籍クラスを参照。

将棋大賞

詳細は末尾の年表を参照。記録は次項を参照。

記録(歴代1位)

  • タイトル戦関連
    • 通算タイトル獲得 - 99期
    • タイトル戦登場回数 - 135回
    • 連続タイトル保持 - 27年超 (1991年3月18日棋王獲得- ) ※継続中
    • 連続年度複数タイトル保持 - 26年超 (1992年度- ) ※継続中
    • 同一タイトル獲得 - 24期(王座:1992-2010、2012-2016年)
    • 同一タイトル連覇 - 19期(王座:1992-2010年)
    • 同一タイトル戦連続登場回数 - 26期(王座:1992年-2017年)
    • 同一タイトル連勝 - 19連勝(王座:2004-2010年)
    • 同一タイトル連続ストレート獲得 - 6期(王座:2005-2010年)
    • 最高同時タイトル - 7冠(1996年2月14日-1996年7月30日) ※史上唯一
    • 最多永世称号獲得 - 8冠(永世竜王、永世名人、永世王位、名誉王座、永世棋王、永世棋聖、永世王将、名誉NHK杯選手権者) ※史上初
    • 名人復位最多回数 - 3回(第61期(2003年度)、第66期(2008年度)、第72期(2014年度)) ※史上初
    • A級順位戦全勝 - 9戦全勝(第70期(2011年度)) ※史上3人目[注 42]
    • 竜王戦1組通算在籍期数[注 43] - 28期(第3期-第4期、第6期-31期) ※継続中
    • 竜王戦1組連続在籍期数 - 26期(第6期-31期) ※継続中
  • 優勝関連
    • 通算優勝回数 - 151回(タイトル戦99・一般棋戦44・非公式戦8)
    • 通算公式戦優勝回数 - 143回(タイトル戦99・一般棋戦44)
    • 通算非タイトル戦優勝回数 - 52回(一般棋戦44・非公式戦8)
    • 通算一般棋戦優勝回数 - 44回(大山康晴とタイ)
    • 通算非公式戦優勝回数 - 8回(銀河戦2・達人戦2・若駒戦1・IBM杯1・全日空杯1・獅子王戦1)
    • NHK杯優勝回数 - 10回(1988(第38回)、1991、1995、1997-1998、2000、2008-2011年度) ※名誉NHK杯選手権者
    • NHK杯連続優勝 - 4連覇(2008(第58回)-2011年度)
    • オールスター勝ち抜き戦 - 16連勝(2000年(第20回))[注 44]
    • 銀河戦優勝回数 - 7回(1997(第5回)-1998、2000-2001、2004、2006、2012年度)
    • 朝日杯優勝回数 - 5回(2009(第3回)、2011、2013、2014、2015年度)
  • 将棋大賞関連
    • 最優秀棋士賞 - 22回
    • 最年少最優秀棋士賞 - 18歳(1988年度)
    • 最多勝利賞 - 14回
    • 年度最多勝利 - 68勝(2000年度)
    • 最多対局賞 - 12回
    • 年度最多対局 - 89局(2000年度)
    • 勝率第一位賞 - 7回
    • 連勝賞 - 5回
    • 名局賞 - 7回
    • 年度記録4部門賞独占(最多対局、最多勝利、勝率一位、連勝) - 4回(1988、1989、1992、2000年度)[注 45]
  • 高記録達成回数
    • 年度勝数60勝以上 - 4回(1988年度-64勝、1992年度-61勝、2000年度-68勝、2004年度-60勝)[注 46]
    • 年度勝率8割以上 - 3回(1987年度-0.820、1988年度-0.800、1995年度-0.836)[注 47]
  • 通算記録
    • 1200勝所要年月最速 - 26年8か月
    • 最年少1200勝 - 41歳10か月20日
    • 1200勝達成時までの最高通算勝率 - 0.7233
    • 1300勝所要年月最速 - 28年11か月
    • 最年少1300勝 - 44歳1か月20日
    • 1300勝達成時までの最高通算勝率 - 0.7226
    • 最年少1400勝 - 47歳6か月[web 39]
    • 1400勝所要年月最速 - 32年3か月[web 40]
    • なお、通算600勝・800勝・1000勝到達も最速・最年少・最高勝率記録を保持している。
  • 珍記録
    • 最年少竜王戦1組降級 - 20歳11か月23日(1991年9月20日)
    • タイトルホルダーでの最年少竜王戦1組降級 - 20歳11か月23日(1991年9月20日、当時棋王)
    • 将棋のタイトル戦七番勝負史上初の3連勝4連敗(2008年12月18日、第21期竜王戦第7局)
    • 名人戦史上初のA級順位戦全勝者が名人位奪取失敗(2012年6月13日、第70期名人戦第6局)
    • 名人戦史上初の3期連続挑戦(2012(第70期)-2014年度)
  • 賞金関連
    • 獲得賞金・対局料ランキング首位 - 15年連続を含む22回(1993-1996、1998-2012、2014-2016年)[注 48]

その他表彰

著書

  • 『羽生の頭脳』シリーズ<全10巻> (日本将棋連盟、1992-1994年) ISBN 978-481970310-9 ほか
  • 『盤上の海、詩の宇宙』 ※吉増剛造との共著 (河出書房新社、1997年) ISBN 4309263194
  • 『羽生の法則』シリーズ<全6巻> (日本将棋連盟、2003-2007年) ISBN 978-4819703727 ほか
  • 『羽生善治の終盤術』<全3巻> (浅川書房、2005-2006年) ISBN 978-4-8613-7011-3 ほか
  • 『変わりゆく現代将棋』<上・下> (毎日コミュニケーションズ、2010年) ISBN 978-4839934408、ISBN 978-4839934415
  • 『決断力』<角川oneテーマ21> (角川書店、2005年) ISBN 978-4047100084
  • 『先を読む頭脳』 ※松原仁・伊藤毅志との共著 (新潮社、2006年) ISBN 978-4103016717
  • 『勉強について、私たちの考え方と方法』 ※小山政彦との共著 (PHP研究所、2007年) ISBN 978-4-569-69352-1
  • 『勝ち続ける力』 ※柳瀬尚紀との共著 (大和書房、2010年) ISBN 978-4-10-301672-4
  • 『自分の頭で考えるということ』 ※茂木健一郎との共著 (新潮社、2009年) ISBN 978-4479391999
  • 『結果を出し続けるために(ツキ、プレッシャー、ミスを味方にする法則)』 (日本実業出版社、2010年) ISBN 978-4534047786
  • 『羽生善治の思考』 (ぴあ、2010年) ISBN 978-4835617770
  • 『大局観 自分と闘って負けない心』<角川oneテーマ21> (角川グループパブリッシング、2011年) ISBN 978-4047102767
  • 『40歳からの適応力』 (扶桑社、2011年) ISBN 978-4594063924
ほか多数

関連書

  • 飛矢正順 『四人の名人を破った少年』 (評伝社、1990年) ISBN 978-4893718150
  • 月刊将棋世界編 『月刊将棋世界 臨時増刊号 竜王、羽生善治。』 (日本将棋連盟、1990年)
  • 森雞二 『羽生善治妙技伝』 (木本書店、1993年) ISBN 978-4905689430
  • 大矢順正 『羽生善治 天才棋士、その魅力と強さの秘密』 (勁文社、1994年) ISBN 978-4766921052
  • 高橋美幸原作・まきのまさる画 『まんが羽生善治物語』 (くもん出版、1995年) ISBN 978-4875769934
  • 田中寅彦 『羽生善治 神様が愛した青年』 (ベストセラーズ・ワニ選書、1996年) ISBN 978-4584191286
  • 大崎善生他編 『月刊将棋世界 臨時増刊号 七冠王、羽生善治。』 (日本将棋連盟、1996年)
  • 炬口勝弘 『七冠王 羽生善治 α波頭脳の秘密』 (マガジンハウス、1996年) ISBN 978-4838707379
  • 万代勉他 『しなやかな天才たち イチロー武豊・羽生善治』 (アリアドネ企画、1996年) ISBN 978-4384023152
  • 日浦市郎 『羽生善治名人位防衛戦の舞台裏 羽生vs森内 七番勝負での強さの秘密』 (エール出版社、1996年) ISBN 978-4753915903
  • 大矢順正 『羽生善治・頭の鍛え方-いかにして「考える力」「集中力」をつけるか』 (三笠書房・知的生きかた文庫、1996年) ISBN 978-4837908197
  • 七冠研究記者会 『強すぎる天才・羽生善治の謎』 (本の森出版センター、1996年) ISBN 978-4876932931
  • 大内延介 『子どものための「超」集中記憶術-羽生善治に学ぶ』 (講談社、1997年) ISBN 978-4062086509
  • 保坂和志 『羽生 21世紀の将棋』 (朝日出版社、1997年) ISBN 978-4255970141
  • 小室明 『天才羽生善治神話 谷川光速流との対決』 (三一書房・三一将棋シリーズ、1997年) ISBN 978-4380972881
  • 椎名龍一 『羽生善治 夢と、自信と。』 (学習研究社、2006年) ISBN 978-4052026447
  • 梅田望夫 『シリコンバレーから将棋を観る 羽生善治と現代』 (中央公論新社、2009年) ISBN 978-4120040283
  • 山田史生 『最強棋士 羽生善治-天才の育ちと環境』 (思文出版、2009年) ISBN 978-4898063347
  • 別冊宝島1666 『羽生善治・考える力-人生を変える史上最強棋士の「思考法」』 (宝島社、2009年) ISBN 978-4796674157
  • 梅田望夫 『どうして羽生さんだけが、そんなに強いんですか?-現代将棋と進化の物語』 (中央公論新社、2010年) ISBN 978-4120041778
ほか多数

ゲーム

出演

テレビ番組

ほか多数

CM

羽生善治の戦績

脚注

注釈

  1. 襲位(就位)は原則引退後。名誉NHK杯選手権者のみ即日就位。
  2. のち、2017年度から叡王戦が加わり、タイトル戦は8となった。
  3. タイトル戦の数が6つ以上になってからの「永世六冠」も羽生が初めて(タイトル戦が5つの時代には大山康晴が「永世五冠」を達成している)。また、名誉NHK杯選手権者の称号を得たのも羽生が史上初であり、2018年現在において唯一の保持者である。
  4. 羽生に将棋を教えたこの同級生は小学校3年のときに山形県に引っ越し、以来、音信不通であったが、1995年にタイトル就位式で再会を果たす。(『将棋世界[4月臨時増刊号]七冠王、羽生善治。』 日本将棋連盟、1996年、171頁
  5. 中嶋克安指導棋士は、父が病気で倒れたため奨励会を退会して家業を継ぎ、そのかたわら道場(のちの八王子将棋クラブ)を開いた。
  6. 小学生将棋名人戦には3年生のときから参加し、2年連続1回戦負けの後、前年の5年生時はベスト8であった。
  7. 7.0 7.1 当時は、三段リーグの制度がなかった。
  8. 島朗による命名。
  9. これについて谷川浩司は「まず抽選をするわけですから」と述べた上で、「(羽生が)持って生まれた運」と表現している。(『別冊宝島380 将棋王手飛車読本 - 将棋の神に選ばれし者たちの叫びを聞け』 宝島社、1998年、16頁 ISBN 978-4796693806)。
  10. 18連勝のうち10勝は前年度からの繰越し。連勝を止めたのは大山康晴。
  11. 「前竜王」はタイトルに準じる称号。「棋戦 (将棋)#竜王と名人」を参照。
  12. 同様の事例としては、棋聖位再挑戦時の「八段」を最後にタイトル称号・前名人・永世十段・十六世名人を名乗り、名人在位中に昇段した「九段」の段位を称することがなかった中原誠がいる。また、現役棋士では、2004年竜王挑戦時の「六段」を最後に2018年3月末時点まで13年以上のタイトル保持を続ける渡辺明がいる。
  13. 第1期・第2期叡王戦では、棋戦運営の都合上、タイトル保持者もタイトル称号ではなく段位で呼称されていたため、羽生が参加した第2期では「羽生善治九段」と呼称されていた。
  14. 森下は「もしも谷川が竜王を防衛していたとしたら、羽生は七冠どころか四冠も難しかったのではないか」とも述べている(『将棋マガジン』1996年6月号 日本将棋連盟、16頁)。
  15. 米長は、もしもストレート負けしたら引退すると心の中で決めていたが、3連敗の後に2勝を返した(日本将棋連盟「米長邦雄の本」)。
  16. このことを谷川は「お互いの意思がピッタリ合った」と表現している(日本将棋連盟書籍編『谷川vs羽生100番勝負-最高峰の激闘譜!』日本将棋連盟、2000年。ISBN 978-4819702102)。
  17. 谷川は、第1局と第2局の間に阪神淡路大震災で被災していた。谷川は後に「(逆に)もしも震災がなかったら、このとき敗れていたのかもしれない」という旨を語っている(『別冊宝島380 将棋王手飛車読本 - 将棋の神に選ばれし者たちの叫びを聞け』 宝島社、1998年、20-21頁 ISBN 978-4796693806)。
  18. 第53期名人戦第1局の108手目、森下は悪手△8三桂(△6七飛成で王手をしながら金を取れば勝勢)を指して羽生の逆転勝ちとなった。第43期王座戦第2局の98手目、森は△6九銀からの詰み(立会人の内藤國雄曰く「1秒でわかる詰み」)を見逃して受けに回り、羽生の逆転勝ち。谷川王将への挑戦権を争う王将リーグでも、森内が95手目に悪手▲9二竜(単に▲5八香として馬を取れば大優勢)を指したことによってもつれた結果、羽生の勝ちとなった(以上、「将棋マガジン」1996年3月号「さわやか流・米長邦雄のタイトル戦教室」より)。
  19. 46勝9敗のうち、タイトル戦だけでは25勝5敗(0.833)。この年度の最終戦となった対屋敷伸之戦に勝っていれば、1967年度に中原誠の記録した歴代最高勝率(0.8545、47勝8敗)に並ぶことができていた。なお、羽生のこの記録は2011年度の中村太地の勝率(0.8511、40勝7敗)に抜かれ、現在では歴代3位となる。但し、中原、中村ともに比較的低段位者と当たることの多い若手時代の記録であるのに対して、この年度の羽生は7度ものタイトル戦を戦いながらの記録である(1967年度の中原は後期の棋聖戦のみに登場、2011年度の中村はタイトル戦登場なし)。
  20. 羽生の全冠独占後に『将棋マガジン』(日本将棋連盟)の中で「羽生から最初にタイトルを奪取するのは誰?」というアンケートが行われ、大抵の人が谷川浩司や佐藤康光の名を挙げた中、三浦と答えたのは僅か4人であった。
  21. 相掛かりの先手で、飛車を「浮き飛車」(2六飛)にせず「引き飛車」(2八飛)にする指し方は当時としては珍しかったため、力戦と呼ばれた。しかし、これをきっかけにプロ間で流行するようになる。
  22. この後の村山の休場による4月の不戦勝を含めると8勝6敗。
  23. この谷川とのプレーオフの一局は結果的に(羽生が谷川の玉を)「詰ましにいって詰まなかった」ものだったが、内容は高く評価され、第34回将棋大賞で創設されたばかりの「名局賞」を、谷川とともに受賞している。
  24. 囲碁のタイトル戦では3連敗4連勝は、すでに何度も発生していた。
  25. 2005年度、第53期王座戦で佐藤(康)の挑戦を退け王座戦14連覇を果たした時点で大山康晴が名人戦で樹立した同一タイトル連覇記録(1959年-1971年、名人13連覇)を抜いた。
  26. 翌年の決勝での敗退まで、羽生は5年間をかけてこのトーナメントで24連勝している。この記録は佐藤康光評するに自身の13連勝など問題にならない(『NHK杯伝説の名勝負』p.196)、決勝戦で羽生の五連覇を阻んだ渡辺明評するに「1回負けたら終わりのトーナメントで5年で24連勝したのだから、信じられない記録です。」、「羽生さんは信じられない記録をたくさんもっているけど、その中でも一番信じられない記録といってもいいかもしれない。」(『NHK杯伝説の名勝負』p.223 より引用)とのことである。
  27. 囲碁界では坂田栄男が名誉NHK杯選手権者の称号を獲得している。
  28. 解説役で出演していた内藤國雄は、▲2四歩と指しても先手が僅かに悪いとされているだけであり、羽生ならば何かやってくるかもしれないと相手に思わせる、との旨の解説をした。
  29. 羽生が打った飛車を森内が3枚の銀で捕獲したと思われた直後、羽生が桂馬を動かした142手目が王手銀取り(飛車の空き王手)となり、森内が今打ったばかりの銀が桂馬で取られてしまった。そして、森内の金・銀がぼろぼろと取られていき、その金・銀で森内の玉が寄せられる形となった。
  30. 2度クリックをしないと指し手が確定されない設定(操作ミスによる指し間違いを防ぐ設定)を対局途中から解除するつもりだったが、解除するのをうっかり忘れたままであったという。時間がぎりぎりになり、着手確認の際誤った操作をしてしまい、着手が間に合わなかったという。直後の公開された感想戦および後日の公式ウェブサイト(第2回大和証券杯ネット将棋・最強戦 渡辺明竜王対羽生善治二冠戦の時間切れ負けについての追加2(5/16) 日本将棋連盟 2008年5月16日 )上での発表による。
  31. 3か月前に中井広恵もネット対局で時間切れ負けをしている。
  32. 直後の公開された感想戦での渡辺・羽生両者の見解
  33. 翌日、日本将棋連盟の公式ウェブサイト(同上。第2回大和証券杯ネット将棋・最強戦 渡辺明竜王対羽生善治二冠戦の時間切れ負けについての追加2(5/16) 日本将棋連盟 2008年5月16日 )で、対局者への注意徹底を行うこと、そして、万一同様の事態が起こった場合に指し継ぎの感想戦を行えるようなシステム(ソフトウェア)に変えることにより、ファンサービスを向上する旨が発表された。
  34. この反則負けの3日前-2日前には名人戦で森内に勝利して2勝1敗とし、2日後は棋聖戦の挑戦者決定戦を控えている、という過密スケジュールであった。
  35. 当時は、竜王戦の昇段規定であっても、1年以内に2つ昇段できない規定であったため。
  36. 八段昇段前にタイトル3期は達成していたが、当時は、1年以内の飛び昇段ができない規定であったため。
  37. 番勝負終了前を含む。
  38. 番勝負終了前を除く。
  39. 大山康晴に並ぶ。
  40. 永世称号のうち名誉王座以外は原則として引退後に名乗ることになるが(名誉王座のみ満60歳になると現役でも名乗れる)、「名誉NHK杯選手権者」の称号はNHK杯通算10回目の優勝時に与えられる。
  41. たとえば、朝日杯将棋オープン戦の前身の前身は全日本プロ将棋トーナメント。タイトル戦では竜王戦の前身は十段戦
  42. 第31期(1972年度)の中原誠(8戦全勝)、第62期(2003年度)の森内俊之(9戦全勝)に続く記録。
  43. 竜王在位を含む。
  44. 「オールスター勝ち抜き戦」は終了棋戦のため、羽生の16連勝の記録は破られないことが確定。谷川浩司と中原誠が12連勝で2位タイ。
  45. 羽生以外には、藤井聡太が2017年度に4部門賞を独占している。
  46. 羽生以外には、森内俊之(1991年度-63勝)、木村一基(2001年度-61勝)、藤井聡太(2017年度-61勝)が1度ずつ達成している。
  47. 2回は中原誠。
  48. 1997年は谷川浩司、2013年は渡辺明に次いで2位。2017年は3位。
  49. 史上8人目。
  50. 将棋界では大山康晴十五世名人に次ぐ史上2人目。
  51. 1996年6月の販売開始当時。

出典

書籍

  1. 1.00 1.01 1.02 1.03 1.04 1.05 1.06 1.07 1.08 1.09 1.10 1.11 1.12 1.13 1.14 1.15 1.16 将棋世界[4月臨時増刊号]七冠王、羽生善治。』日本将棋連盟、1996年、168-175頁 「羽生善治、生い立ちの記」(記・炬口勝弘)
  2. 田中寅彦 『羽生善治 神様が愛した青年』ベストセラーズ、1996年 ISBN 978-4584191286
  3. 将棋マガジン』1996年6月号 日本将棋連盟、37頁
  4. 『将棋世界』2007年11月号 日本将棋連盟、102頁 「加藤一二三九段、1000敗を語る」
  5. 5.0 5.1 5.2 5.3 5.4 『将棋世界[4月臨時増刊号]七冠王、羽生善治。』(日本将棋連盟、1996年) 68-69頁 「七冠を得た喜び」(記・羽生善治)
  6. 6.0 6.1 将棋マガジン』1996年4月号 日本将棋連盟、14-16頁
  7. 7.0 7.1 羽生善治 著『才能とは続けられること(100年インタビュー)』PHP研究所。
  8. 将棋マガジン(日本将棋連盟)1996年8月号でのインタビュー
  9. 『日本将棋用語事典』118頁下段。
  10. 『将棋世界』1998年5月号 日本将棋連盟、「第47回NHK杯トーナメント 四冠羽生善治vs八段村山聖 痛恨の△7六角」
  11. 『将棋世界』2008年10月号 日本将棋連盟、68頁 「これならわかる! 最新戦法講義」
  12. 『将棋世界』2008年3月号 日本将棋連盟、63-65頁 「進化する羽生将棋」(記・鈴木大介勝又清和
  13. 『将棋世界』2006年10月号 日本将棋連盟、18-19頁
  14. 平成10年版「将棋年鑑」(日本将棋連盟)
  15. 『別冊宝島380 将棋王手飛車読本 - 将棋の神に選ばれし者たちの叫びを聞け』 宝島社、1998年、巻末 ISBN 978-4796693806
  16. 『別冊宝島380 将棋王手飛車読本 - 将棋の神に選ばれし者たちの叫びを聞け』 宝島社、1998年、17頁 ISBN 978-4796693806
  17. 『将棋世界』2007年1月号、日本将棋連盟
  18. 『わたしの失敗 III: 著名35人の体験談』産経新聞文化部、2008年、123頁。
  19. 『脳を活かす生活術: 希望の道具箱』(茂木健一郎著、PHP研究所2009年)「07 涙とは自分自身を更新させる道具」
  20. 将棋世界special vol.2『羽生善治―将棋史を塗り替えた男―』(将棋世界編集部 編)28ページなど
  21. 羽生善治『決断力』 角川書店〈角川oneテーマ21〉、2005年、5-6頁。
  22. 梅田望夫『シリコンバレーから将棋を観る』中央公論新社、2009年。
  23. 『将棋世界』2006年8月号 日本将棋連盟、22頁
  24. 加藤一二三 著『羽生善治論 「天才」とは何か』59ページなど
  25. 『プロフェッショナル 仕事の流儀 羽生善治 棋士 直感は経験で磨く』(茂木健一郎 編集、NHK「プロフェッショナル」制作班 編 NHK出版)98ページなど
  26. 著書『決断力』 角川書店(角川oneテーマ21)、199頁 ISBN 978-4047100084
  27. 『先を読む頭脳』(松原仁・伊藤毅志と共著) 新潮社、2006年、147頁 ISBN 978-4103016717
  28. 高橋美幸著『まんが羽生善治物語』くもん出版、1995年6月。ISBN=9784875769934。
  29. 29.0 29.1 『NHK将棋講座テキスト』2015年6月号、6-7頁。

オンライン

  1. 新四段誕生のお知らせ *藤井聡太(史上最年少四段)・大橋貴洸”. 日本将棋連盟 (2016年9月3日). 2016年9月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。. 2016閲覧.
  2. 玲瓏:羽生善治(棋士)データベースの年度別成績を参照。
  3. 倉沢鉄也 (2011年6月9日). “羽生世代がもたらした、速さと若さの時代”. WEBRONZA. http://astand.asahi.com/magazine/wrnational/2011060800010.html?iref=webronza 
  4. 羽生善治二冠、名誉NHK杯に!”. 日本将棋連盟 (2012年3月19日). . 2017閲覧.
  5. 羽生、通算タイトル獲得数歴代単独1位に”. 日本将棋連盟 (2012年7月6日). . 2017閲覧.
  6. 羽生二冠、1200勝を達成!”. 日本将棋連盟 (2012年8月17日). . 2017閲覧.
  7. “名人戦:羽生、充実の指し回し…粘る行方にすき与えず”. 毎日新聞. (2015年5月29日). http://mainichi.jp/graph/2015/05/30/20150530k0000m040084000c/001.html 
  8. “羽生善治が竜王戦で勝利、史上初「永世七冠」に。“天才”が歩んだ足跡をたどる”. ハフポスト. (2017年12月5日16時24分(日本時間)). http://www.huffingtonpost.jp/2017/12/05/yoshiharu-habu-legend_a_23297098/ . 2017閲覧. 
  9. “名人戦:羽生、反撃決め先勝 史上2人目の1400勝” (ja-JP). 毎日新聞. (2018年4月12日). 2018-4-12. オリジナル2018年4月15日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20180415042716/https://mainichi.jp/articles/20180413/k00/00m/040/057000c . 2018閲覧. 
  10. “羽生竜王の王座戦連続出場、26年でストップ”. (2018年5月24日). https://www.asahi.com/articles/ASL5S7KP1L5SUCVL02H.html . 2018-6-1閲覧. 
  11. “羽生竜王 タイトル獲得100期お預け 初タイトルの豊島棋聖誕生で31年ぶり「群雄割拠」時代に”. (2018年7月17日). https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2018/07/17/kiji/20180717s000413F2275000c.html . 2018-7-17閲覧. 
  12. 玲瓏:羽生善治(棋士)データベースの戦型別対局成績によると、振り飛車の採用率は約1割である(2015年2月24日閲覧)。
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  41. 東京都文化賞・都民文化栄誉章 東京都生活文化局
  42. 羽生善治将棋で鍛える「決断力」DS アイデス
  43. i羽生将棋 〜初心者、初級者向け将棋総合アプリ〜
  44. i羽生将棋 アイデス
  45. 初心者向け良アプリ 「羽生善治の将棋のお手本」
  46. 羽生善治 プロフェッショナル 仕事の流儀 番組公式サイト

その他

  1. DVD『情熱大陸×羽生善治・渡辺明・佐藤康光・谷川浩司』(ジェネオンエンタテインメント)収録

参考文献

関連項目

外部リンク

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