禁闕の変

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禁闕の変(きんけつのへん)は、室町時代嘉吉3年9月23日(1443年10月16日)夜に京都で起こった後花園天皇内裏の襲撃事件。吉野朝廷(南朝)の復興を唱える後南朝とされる勢力が御所に乱入し、三種の神器の一部を奪い比叡山へ逃れたものである。

「禁闕」とは、皇居(京都御所)の内裏の意味。嘉吉の変とも呼ばれるが、嘉吉元年(1441年)に起こった6代将軍足利義教暗殺事件(嘉吉の乱)と混同されることから、「禁闕の変」の名称が用いられる。

経過

建武3年/延元元年(1336年)に後醍醐天皇により開かれた南朝(大覚寺統)は、3代将軍足利義満時代の明徳3年/元中9年(1392年)に明徳の和約が行われて名目上は解消された。しかし、その後も南朝の後胤を擁する後南朝勢力は室町時代を通じて登場し、反幕府勢力とも関係して活動を続ける。一方で、かつての北朝持明院統)側では後小松天皇の直系が断絶して、伏見宮家から後花園天皇が迎えられるという事態が起こっていた。

幕府では嘉吉の乱による混乱もあり、嘉吉3年(1443年)7月に7代将軍足利義勝が死去し、弟の足利義政が8代将軍となった。しかし、その就任までは間があり、事件はその最中の9月23日夜に起きた[1][2]。首謀者は南朝の後亀山天皇あるいはその弟惟成親王の孫とされる通蔵主金蔵主の兄弟、鎌倉時代後鳥羽上皇の後胤を称する源尊秀(鳥羽尊秀とも、尊秀王か?)、日野家嫡流の日野有光とその息子日野資親ら、実行部隊は楠木正秀に率いられた楠木氏和田氏らであった[3]

一味は数百人で内裏を襲撃して火をかけ、後花園天皇は左大臣近衛房嗣の邸に避難した。幕兵との戦闘も行われている。一味は三種の神器の剣と神璽を奪い、後醍醐天皇の先例を模して比叡山に逃れ、根本中堂に立て篭もった[2]。同24日に朝廷から凶徒追討の綸旨(追討令)が出ると、管領畠山持国が派遣した幕府軍や協力を拒んだ山徒によって、25日の夕刻から26日の明け方にかけて鎮圧された[2]。一味のうち金蔵主と日野有光はこの戦闘で討たれた。

幕府は変に関与したものを捕らえて、処刑あるいは流罪にした。28日には六条河原で日野資親以下、捕えていた五十余人を処刑した[2]。通蔵主は四国へ流罪の途中、道中の摂津太田で殺害された。そして、10月2日には勧修門跡の門主である教尊小倉宮聖承の息子)もこの変に関与したとして逮捕され、隠岐島へと追放された[2]

天皇家や将軍家と姻戚関係にあった日野父子が後南朝に与していたこともあって、事件は幕府内に憶測を招き、山名氏細川氏の関与が疑われた記録も残っている[2]

奪われた神器のうち、のちに剣は清水寺で発見され朝廷に返却されたが、神璽は持ち去られたままであった[2]。神爾は約15年の間後南朝のもとにあったが、長禄元年(1457年)に嘉吉の乱で没落した赤松氏の遺臣が再興を目指して後南朝より奪い返し、翌年には北朝の手に戻っている(長禄の変)。赤松氏は赤松政則の家督相続を認められ、加賀半国を与えられて再興を果たした[4]

脚注

  1. 後花園天皇の実父である後崇光院が著した『看聞日記』をはじめとする同時代の日記類による。
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 2.6 禁闕の変
  3. 『十津河之記』
  4. 渡邊大門『赤松氏五代』P264

参考文献

  • 渡邊大門『奪われた「三種の神器」―皇位継承の中世史―』講談社、2009年
  • 渡邊大門『赤松氏五代』ミネルヴァ書房2012年

小説

  • 智本光隆『神剣の守護者』(学研パブリッシング 2013年) 禁闕の変に端を発している歴史小説。神剣は楠木氏の手によって、ひそかに伊勢国に運ばれたとしている。

関連項目