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'''禁中並公家諸法度'''(きんちゅうならびにくげしょはっと)
'''禁中並公家諸法度'''(きんちゅうならびにくげしょはっと)は、[[江戸幕府]]が、[[天皇]]及び[[公家]]に対する関係<br>を確立するため<br/>に定めた[[制定法]]。'''禁中并公家中諸法度'''、'''禁中竝公家諸法度'''、'''禁中方御条目'''とも。
 
  
== 概要 ==
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『公家諸法度』ともいう。元和1 (1615) 年7月 17日,江戸幕府によって制定された法令。 17ヵ条。起草者は金地院[[崇伝]]。幕府が「天子は御学問のこと第一」以下朝廷,公家の地位を確定したもので,朝廷の権威に対して武家の権威を確立した基本法。『[[武家諸法度]]』の場合と違って幕末まで改訂されることはなかった。
禁中並公家諸法度は、[[徳川家康]]が[[以心崇伝|金地院崇伝]]に命じて起草させた法度である<ref>ただし、当時[[宮中席次#伝統的宮中座次|宮中の席次]]や紫衣の手続を巡って論争があり、[[朝廷]]からその仲裁を要請されていた事情も背景にあった。実際に[[大坂冬の陣]]の最中の[[慶長]]19年[[12月 (旧暦)|12月]]以降、家康は戦時中にも関わらず側近の[[日野輝資]]や武家伝奏である[[広橋兼勝]]と[[三条西実条]]を大坂の陣中に呼んで「古今礼義式法之相違」に諸公家の意見を集約するように度々促しており、公布直前の[[5月16日 (旧暦)|5月16日]]には[[二条城]]滞在中の家康から有力[[公家]]に原案が提示されてその意見をもとに修正が加えられている(橋本、2002年、P540-554)。</ref>。慶長20年[[7月17日 (旧暦)|7月17日]]<ref>実際にはこの法度の発布される4日前の7月13日に「慶長」から「元和」に[[改元]]されているが、現存する法度の写本は「慶長廿年七月」の日付が記載されている。まさにこの改元において、当法度第8条に規定されている改元権を巡り、朝幕間で諍いがあった。詳細は[[元和 (日本)#出典|元和(年号)]]を参照。</ref>([[1615年]][[9月9日]])、[[二条城]]において[[大御所 (江戸時代)|大御所]](前将軍)[[徳川家康]]、二代[[征夷大将軍|将軍]][[徳川秀忠]]、前[[関白]][[二条昭実]]<ref>当時の関白は[[鷹司信尚]]であるが、「国家安康」の鐘銘で問題になった[[方広寺]]の大仏供養に参列しようとした件を巡って家康に忌避され、慶長19年11月1日の摂関家による家康への挨拶の際に家康から会見を拒否されて以降は謹慎状態となって大坂の役後に辞表提出に追い込まれており、法度公布直前の[[7月10日 (旧暦)|7月10日]]に[[二条昭実]]に次期関白の内示が出され、[[7月28日 (旧暦)|同28日]]に正式に任命されている。つまり昭実は事実上の現関白の立場として法度に署名している(橋本、2002年、P551-555)。</ref>の3名の連署をもって公布された。署名は、二条昭実、秀忠、家康の順である。漢文体、全17条。[[江戸時代]]を通じて、一度も改正されなかった<ref>法度の内容自体は幕末まで変更されなかったものの、細かい字句については万治4年(1661年)の原本焼失による復元の際に変更された可能性もあるとされる(橋本、2002年、P556-565)。</ref>。
 
 
 
この法度の制定に先立ち、幕府は朝廷への干渉を強めていた。その端緒は、慶長14年([[1609年]])に発覚した女官らの密通事件([[猪熊事件]])である。事件後の慶長16年([[1611年]])、[[豊臣政権]]から徳川幕府への過渡期の朝廷をたくみに采配した[[後陽成天皇]]が退位し、[[後水尾天皇]]が即位した。慶長18年[[6月16日 (旧暦)|6月16日]]([[1613年]][[8月2日]])には、「[[公家衆法度]]」「[[寺院諸法度|勅許紫衣之法度]]」「[[大徳寺]][[妙心寺]]等諸寺入院法度」が定められた。さらに、慶長20年(1615年)の禁中並公家諸法度に至って、公家のみならず[[天皇]]までを包含する基本方針を確立した。以後、この法度により、幕府は朝廷の行動を制約する法的根拠を得て、[[江戸時代]]の公武関係を規定することとなった。
 
 
 
また、[[寛永]]8年[[11月17日 (旧暦)|11月17日]]([[1632年]][[1月8日]])には、[[後水尾天皇|後水尾上皇]]の主導で、青年公家の風紀の粛正と朝廷行事の復興の促進を目的とする「[[若公家衆法度]]」が制定された。この制定過程に幕府は間接的な関与しか行わなかったものの、その役割は禁中並公家諸法度を補完して、公家の統制を一層進めるものとなった。
 
 
 
== 各条の内容 ==
 
全文は17条からなり、その内容は[[武家諸法度]]と異なり、幕末まで変わらなかった。1条から12条が[[皇室]]および[[公家]]が厳守すべき諸規定、13条以下が[[僧]]の官位についての諸規定となっている。原本は[[万治]]4年[[1月15日_(旧暦)|1月15日]]([[1661年]][[2月14日]])の御所火災で焼失し、その後副本を元にして復元された。また、[[公家]]などの写本もいくつも存在するものの、現存する本によって細かい語句などで違いがある。
 
{|class="wikitable"
 
|-
 
!width="10%"|法条
 
!width="20%"|主な内容
 
!width="70%"|原文・現代語訳<ref>原文には、適宜句読点を付した。</ref>
 
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!第1条
 
|[[天皇]]の主務
 
|一 天子諸藝能之事、第一御學問也。不學則不明古道、而能政致太平者末之有也。[[貞観政要|貞觀政要]]明文也。[[寛平御遺誡|寛平遺誡]]、雖不窮經史、可誦習[[群書治要]]云々。[[和歌]]自[[光孝天皇]]未絶、雖爲綺語、我國習俗也。不可棄置云々。所載[[禁秘抄]]御習學専要候事。<br/>([[天子]]が修めるべきものの第一は学問である。<ref>ここで言う「学問」は政治の参考になる書や天皇としての心得や作法を記した書である。条文の続きには具体的な書物の名が挙げられているがいずれも中国・[[唐]]の『[[貞観政要]]』『[[群書治要]]』や[[宇多天皇]]が記した『[[寛平御遺誡]]』といったものであり、名目上の存在とはいえ天皇は君主であり、あくまでも君主として必要なことを学ぶよう求めている。(藤田覚『江戸時代の天皇』p.16-19)</ref>以下略。)
 
|-
 
!第2条
 
|三公([[太政大臣]]、[[左大臣]]、[[右大臣]])の座次
 
|一 三公之下親王。(以下略)(現役の三公の席次は、親王より上である。)
 
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!第3条
 
|[[清華家]]の大臣辞任後の座次
 
|一 淸花之大臣、辭表之後座位、可爲諸親王之次座事。(辞任後の三公の席次は、親王より下である。)
 
|-
 
!第4条
 
|rowspan="2"|[[摂関]]の任免
 
|一 雖爲[[摂家|攝家]]、無其器用者、不可被任三公攝關。況其外乎。<br/>([[摂家|摂関家]]の生まれであっても、才能のない者が三公([[太政大臣]]、[[左大臣]]、[[右大臣]])・[[摂政]]・[[関白]]に任命されることがあってはならない。ましてや、[[摂家|摂関家]]以外の者の任官など論外である。)
 
|-
 
!第5条
 
|一 器用之御仁躰、雖被及老年、三公攝關不可有辭表。但雖有辭表、可有再任事。<br/>(能力のある三公・摂政・関白が高齢だといえども辞めてはならない。ただし、辞任したとしても、再任は有るべきである。)
 
|-
 
!第6条
 
|[[養子縁組|養子]]
 
|一 [[養子]]者連綿。但、可被用同姓。女縁其家家督相續、古今一切無之事。
 
|-
 
!第7条
 
|[[武家官位]]
 
|一 [[武家官位|武家之官位]]者、可爲公家當官之外事。<br/>(武家の官位は、公家の官位とは別のものとする 。)
 
|-
 
!第8条
 
|[[改元]]
 
|一 改元、漢朝年號之内、以吉例可相定。但、重而於習禮相熟者、可爲本朝光規之作法事。<br/>(改元は、中国の年号から良いものを選ぶべきである。ただし、今後(担当者が)習礼を重ねて相熟むようになれば、日本の先例によるべきである。)
 
|-
 
!第9条
 
|天子以下諸臣の衣服
 
|一 天子禮服、大袖、小袖、裳、御紋十二象(以下略)
 
|-
 
!第10条
 
|諸家昇進の次第
 
|一 諸家昇進之次第、其家々守舊例可申上。(以下略)
 
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!第11条
 
|[[関白]]や[[武家伝奏]]などの申渡違背者への罰則
 
|一 [[関白|關白]]、[[武家伝奏|傳奏]]、并奉行職事等申渡儀、[[堂上家|堂上]][[地下家|地下]]輩、於相背者、可爲[[流罪]]事。<br/>([[関白]]・[[武家伝奏]]・奉行職が申し渡した命令に[[堂上家]]・[[地下家]]の[[公家]]が従わないことがあれば流罪にするべきである。)
 
|-
 
!第12条
 
|罪の軽重の[[名例律]]准拠
 
|一 罪輕重可被守名例律事。
 
|-
 
!第13条
 
|[[摂家]][[門跡]]の座次
 
|一 攝家[[門跡]]者、可爲親王門跡之次座。(以下略)
 
|-
 
!第14条
 
|rowspan="2"|[[僧正]]、[[門跡]]、[[院家]]の任命叙任
 
|一 [[僧正]]<small>大、正、權</small>、門跡院家可守先例。至平民者、器用卓抜之仁希有雖任之、可爲准僧正也。但、國王大臣之師範者各別事。
 
|-
 
!第15条
 
|一 門跡者、[[僧都]]<small>大、正、少</small>、[[法印]]任叙之事。院家者、僧都<small>大、正、少、權</small>、[[律師]]法印[[法眼]]、任先例任叙勿論。但、平人者、本寺推擧之上、猶以相選器用、可申沙汰事。
 
|-
 
!第16条
 
|[[紫衣]]の寺住持職
 
|一 [[紫衣]]之寺住持職、先規希有之事也。近年猥勅許之事、且亂臈次、且汚[[官寺]]、甚不可然。於向後者、撰其器用、戒臈相積、有智者聞者、入院之儀可有申沙汰事。<br/>([[紫衣]]を許される住職は以前は少なかった。しかし、近年はみだりに[[勅|勅許]]が行われて(紫衣の)席次を乱しており、ひいては寺院の名を汚すこととなり、大変よろしくない。今後は(当人の能力をもって)紫衣を与えるべきかどうかを良く選別し、その住職が紫衣を与えるに相応しい住職であることを確かめた上で、[[紫衣]]を与えるべきである。)
 
|-
 
!nowrap| 第17条 
 
|[[上人]]号
 
|一 [[上人]]號之事、碩學之輩者、本寺撰正權之差別於申上者、可被成勅許。但、其仁躰、佛法修行及廿箇年者可爲正、年序未滿者、可爲權。猥競望之儀於有之者、可被行流罪事。
 
|-
 
!&nbsp;
 
|末文、作成年月日、署名花押
 
|右可被相守此旨者也。<br/>(このむねをあいまもらるべきものなり)<br/><br/>慶長廿年乙卯七月日<br/>(慶長20年7月)<br/><br/>[[二条昭実|昭 實]]([[花押]])<br/>[[徳川秀忠|秀 忠]](花押)<br/>[[徳川家康|家 康]](花押)
 
|}
 
 
 
== この法度の分析 ==
 
{{参照方法|date=2014年12月|section=1}}
 
{{出典の明記|date=2014年12月|section=1}}
 
第一条の条文は[[鎌倉時代]]の[[順徳天皇]]が記した[[有職故実]]書『[[禁秘抄]]』に書かれている文章の抜粋である<ref>橋本、2002年、P590</ref>。これについて[[橋本政宣]]は第一条にこれに関白が連署して[[公家法]]としての要件を得る事によってこの法度の実際の制定権力である江戸幕府への「[[大政委任]]」の法的根拠を与えたと解説する<ref>橋本、2002年、P590-594</ref>。
 
 
 
橋本の分析によると、[[武家伝奏]]の位置付けなど朝幕関係のあり方を規定し、幕府への大政委任に法的根拠を与えた事は事実であるが、直接的に朝廷の統制を目的とした条文は存在していない。そもそもこの法度の対象に含まれるのは、大政委任を受けた征夷大将軍の指揮下に置かれて自身も武家官位の任命対象である「武家」や僧官の任命対象である「僧侶」など、朝廷と将軍によって任官された全ての身分が拘束されるものである。更に、新規に定められたものは朝幕関係規定以外は[[宮中座次]]など、むしろ朝廷内部で紛糾していた問題に関連する部分が多い。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の混乱期に一旦は解体しかけた朝廷及び公家社会の秩序回復に、江戸幕府が協力する姿勢を示したものとも言える。これは歴史上で見れば、[[鎌倉時代]]に[[皇位継承]]で朝廷内が紛糾した際に[[鎌倉幕府]]が[[両統迭立]]原則を呈示して仲裁にあたった事例に近い性質のものである(ここで問題とされたものは、後に[[紫衣事件]]や[[尊号一件]]などで再び議論が持ち上がったものばかりで、幕府権力をもってしても困難な課題であった事も共通している)。つまり、禁中並公家諸法度本来の趣旨としては[[公家]]・[[武家]]・[[僧侶]]が[[天皇]]及びその大政委任を受けた[[征夷大将軍]]に仕えるための秩序作りのための法度であった結論づける<ref>橋本、2002年、P565-595</ref>。これに対して[[田中暁龍]]は法度の作成に二条昭実ら朝廷側も関与していたことや宮中座次などの問題の解決を目指したことについては同意するが、[[一条兼香]](江戸時代中期の摂関)が示した第一条解釈(『兼香公記』享保20年4月22日条)を引用しながら、朝廷において天皇に求められた学問は和歌や文学よりも「国家治政の学問」であるという論理は『禁秘抄』が書かれた昔から一貫して変わっておらず、その朝廷側の論理を幕府が汲み込む形で第一条は成立したと考えられ、幕府側の論理である大政委任の法的根拠と解釈することで出来ないとしている<ref>田中暁龍「禁中并公家中諸法度第一条について」『近世朝廷の法制と秩序』(山川出版社、2012年) ISBN 978-4-634-52015-8 P33-43</ref>。
 
 
 
[[江戸幕府]]による[[朝廷]]及び公家社会の秩序回復については、[[関ヶ原の戦い]]の翌月([[慶長]]5年([[1600年]])[[10月 (旧暦)|10月]])に、[[公家領]]の録上を行い、翌年には[[禁裏御料]]をはじめとして[[女院]]・[[宮家]]・[[公家]]・[[門跡]]に対する[[知行]]の確定を行っている。続いて、[[地下家|地下]][[官人]]制度の再編成を行っており([[出納]][[平田家]]による蔵人方統率など)、禁中並公家諸法度もその流れの一環として位置づけられる。また、[[武家官位]]との関係で言えば、武家官位の員外官化と公家官位からの分離は既に慶長11年(1606年)4月に導入されていた武家官位推挙の江戸幕府への一本化と合わせ、豊臣氏宗家を摂関家に豊臣氏庶流や豊臣氏庶流および徳川・前田・上杉・毛利・宇喜多の諸氏を清華家として位置づけようとした豊臣政権における官位システムの解体<ref>これには徳川氏が豊臣政権下で豊臣氏宗家の下に位置づけられ、かつ前田・上杉・毛利といった現存外様大名を含む他大名と同格とされた事実の否定・隠蔽を含む。</ref>と徳川氏による武家官位掌握を目指したものであり、その結果徳川氏一門を唯一の武家公卿とする原則(まれに加賀藩前田氏などが公卿となった例がある)が確立された<ref>矢部健太郎「豊臣「武家清華家」の創出」2001年(『歴史学研究』746号)、後に矢部『豊臣政権の支配秩序と朝廷』(吉川弘文館、2011年)所収</ref>。
 
 
 
== 脚注 ==
 
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== 参考文献 ==
 
* [[橋本政宣]] 「禁中并公家中諸法度の性格」『近世公家社会の研究』 [[吉川弘文館]]、[[2002年]]、ISBN 4642033785
 
* [[藤田覚]] 『天皇の歴史06 江戸時代の天皇』[[講談社]]、[[2011年]]、ISBN 9784062807364
 
 
 
== 関連項目 ==
 
*[[武家諸法度]]
 
*[[寺院諸法度]]
 
*[[紫衣事件]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
*文部省宗教局編『宗教制度調査資料 第16輯』[{{NDLDC|980502/26}} 「三五 公家諸法度」]、1926年発行 - 国立国会図書館近代デジタルライブラリー
 
 
 
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[[Category:江戸幕府の法令]]
 
[[Category:江戸幕府の法令]]

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禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)

『公家諸法度』ともいう。元和1 (1615) 年7月 17日,江戸幕府によって制定された法令。 17ヵ条。起草者は金地院崇伝。幕府が「天子は御学問のこと第一」以下朝廷,公家の地位を確定したもので,朝廷の権威に対して武家の権威を確立した基本法。『武家諸法度』の場合と違って幕末まで改訂されることはなかった。



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