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(内容を「 {{Infobox 峠 |名称=碓氷峠 |標高=960 | 緯度度 = 36 | 緯度分 = 20 | 緯度秒 = 41.6 | 経度度 = 138 |経度分 = 39 | 経度秒 = 3.8 |所在地=群馬...」で置換)
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{{Otheruses|[[群馬県]]・[[長野県]]の峠|[[神奈川県]]の峠|碓氷峠 (神奈川県)}}
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{{Infobox 峠
 
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'''碓氷峠'''(うすいとうげ)は、[[群馬県]][[安中市]][[松井田町坂本]]と[[長野県]][[北佐久郡]][[軽井沢町]]との境にある[[日本]]の[[峠]]である。[[標高]]は約960[[メートル]] (m) 。[[信濃川]]水系と[[利根川]]水系とを分ける[[中央分水嶺]]である。峠の長野県側に降った[[雨]]は[[日本海]]へ、群馬県側に降った雨は[[太平洋]]へ流れる。
+
'''碓氷峠'''(うすいとうげ)
 
 
[[古代]]には'''碓氷坂'''(うすひのさか)、'''宇須比坂'''、'''碓日坂'''などといい、[[中世]]には'''臼井峠'''、'''臼居峠'''とも表記された。[[近世]]以降は碓氷峠で統一されている。「碓井峠」「碓水峠」は誤表記。
 
 
 
== 地理 ==
 
1200万年ほど前には現在の碓氷峠は海中にあり、[[クジラ]]や[[サメ]]などが生息していた。700万 - 200万年前には[[碓氷川]]上流地域で[[噴火]]活動があり、110万 - 65万年前の[[溶岩]]噴出で碓氷峠付近は[[平地]]となった。その後、30万 - 20万年前に[[霧積川]]によって東部で[[侵食]]があり、急な[[崖]]が形成された。以上のような経緯から、[[地層]]は下部が[[第三紀]]中期の[[堆積岩|海生堆積岩類]]、上部が後期[[中新世]]から前期[[更新世]]の[[火山岩|火山岩類]]で構成されている{{Sfn|野村哲|1996|pp=5&ndash;6}}。下部の堆積岩層は[[泥岩]]、[[砂岩]]、[[凝灰岩]]などで侵食されやすい。また、上部の火山岩層の厚みは数百メートルに達する。
 
 
 
東部が激しく侵食された結果、現在の碓氷峠は直線距離で約 10[[キロメートル]] (km) の間に[[標高]]差が500&nbsp;m以上に達する急峻な東側のみの片勾配となっていて、[[群馬県]]側の麓・横川の標高387&nbsp;mに対し、[[長野県]]側の[[軽井沢町|軽井沢]]は標高939&nbsp;mと峠 (960&nbsp;m) との標高差がほとんどない。特に、[[中山道|中仙道]]を例に取ると[[坂本宿]]から[[刎石山]]までの水平距離700&nbsp;mの間に標高差が300&nbsp;mもある{{Sfn|野村哲|1996| p=6}}。そのため一般的な、山脈を[[トンネル]]で抜けることで峠越えの高低差を解消できる両勾配を持つ峠と異なり、通行には[[近代]]に至るまで数多くの困難を抱えた。
 
 
 
[[気象学]]的にも、碓氷峠は[[関東地方]]と[[中部地方]]の境界にあたる。日中、関東地方南岸では大規模な[[海風]](太平洋海風)が生じて、およそ5&nbsp;[[メートル毎秒|m/s]]で大気が内陸に向かって進む。一方で中部地方内陸部では上空に低圧部が現れ、谷から山頂に向かう風が生まれる。午前中は碓氷峠にこれら二つの流れが両側から向かってきて、峠では風が真上に向かって[[平衡]]状態となる。午後になると[[地表面]]の温度が高くなって双方の勢いが増すが、関東地方からの流れがより強くなるため南東風が吹き、関東地方の大気が中部地方に流入する経路となる。なお夜間には海風が支配的となって南東風が続く{{Sfn|鶴田治雄|1985|p=242}}。また、山を登る空気は気圧が低くなるとともに[[膨張]]して温度が下がり、[[飽和]]した[[水蒸気]]が[[霧]]となるため、関東平野から碓氷峠を登って流れ込む南東風が原因となって軽井沢では年間130日以上も霧が発生している<ref>『朝日新聞』2006年6月14日付 夕刊、マリオン面、6面。</ref>。
 
 
 
== 自然環境 ==
 
[[植生]]は付近にあって[[標高]]の近い[[浅間山]]山麓部分と似ており、[[ブナ]]や[[コナラ]]などの[[落葉樹]]、および[[モミ]]や[[カラマツ]]といった[[針葉樹]]が生えている。[[下草]]としては[[ゼンマイ]]や[[ススキ]]、[[リンドウ]]、[[ニッコウザサ]]などがある。浅間山との違いとしては、[[ムラサキ]]や[[シモツケソウ]]、[[モウセンゴケ]]が多いことが挙げられる{{Sfn|本田政次|1988|p=266}}。
 
 
 
一帯には古くから[[ニホンザル]]が生息しているが、[[1980年代]]から人里に降りてきて農作物などに被害が出るようになり、[[1984年]]には[[碓氷郡]][[松井田町]](当時)など3町で計2000万円以上もの被害があった。その原因としては
 
* [[林野庁]]が[[ナラ]]や[[クリ]]などの[[広葉樹]]を[[スギ]]などの[[針葉樹]]に代えたため、餌となる木の実が減少した
 
* [[北陸新幹線]]や[[上信越自動車道]]の建設にともなって従来の棲み処を離れた
 
* 観光客らが餌を与えるようになって人に馴れた
 
などが指摘されている<ref>『朝日新聞』1988年12月10日付 朝刊、群馬地方面</ref>。上信越自動車道の開通後は交通量の減った[[国道18号]]への出没も増え<ref>『朝日新聞』1998年6月13日付 夕刊、娯楽面、7面。</ref>、[[1990年代]]末以降は碓氷峠を拠点に軽井沢の中心部にも出現している<ref>『朝日新聞』2005年1月29日付 朝刊、オピニオン面、12面。</ref>。
 
 
 
== 歴史 ==
 
[[ファイル:碓氷峠の変遷.png|right|400px|thumb|碓氷峠の変遷<br />中仙道・中仙道和宮道・国道18号・信越本線・碓氷バイパス・上信越自動車道・北陸新幹線]]
 
=== 古代 ===
 
古来から坂東と[[信濃国]]をつなぐ道として使われてきたが、難所としても有名であった。この碓氷坂および[[駿河国|駿河]]・[[相模国|相模]]国境の[[足柄峠|足柄坂]]より東の地域を[[坂東]]と呼んだ。『[[日本書紀]]』景行紀には、[[ヤマトタケル|日本武尊]](ヤマトタケル)が坂東平定から帰還する際に碓氷坂(碓日坂)にて、安房沖で入水した妻の[[弟橘媛]]をしのんで「吾妻(あづま)はや」とうたったとある。なお『[[古事記]]』ではこれが[[足柄峠|足柄坂]]だったとされ、どちらが正しいかという論争が存在する{{Sfn|倉田正|1979|p=65}}。現在でも碓氷峠を境にして、東側が[[関東地方|関東]]文化圏・[[関東方言]]に、西側が[[中央高地]]文化圏・[[東海東山方言]]に分かれている。
 
 
 
碓氷峠の範囲は南北に広いが、その南端に当たる[[入山峠]]からは[[古墳時代]]の祭祀遺跡が発見されており(入山遺跡)、古墳時代当時の古東山道は入山峠を通ったと推定されている。[[7世紀]]後葉から[[8世紀]]前葉([[飛鳥時代]]後期 - [[奈良時代]]初期)にかけて、全国的な幹線道路([[日本の古代道路|駅路]])が整備されると、碓氷坂にも[[東山道]]駅路が建設された。入山遺跡はこの時期までに廃絶しており、碓氷坂における東山道駅路は近世の[[中山道|中仙道]]にほぼ近いルートだったとする説が有力視されている。なお、[[万葉集]]にみえるように[[防人]]たちにとっては故郷との別離の場となっていた{{Sfn|市川潔|1983|p=190}}。
 
 
 
[[平安時代]]前期から中期頃の坂東では、武装した富豪百姓層([[しゅう馬の党|僦馬の党]])が国家支配に抵抗し、国家への進納物を横領したり略奪する動きが活発化した。これら富豪百姓層を「群盗」と見なした国家は、その取締りのため[[昌泰]]2年([[899年]])に碓氷坂と[[足柄峠|足柄坂]]へ関所を設置した。これが[[碓氷関]]の初見である。碓氷関は[[天慶]]3年([[940年]])に廃止され、[[中世]]に何度か復活した{{Sfn|倉田正|1979|p=66}}。
 
 
 
古代駅路は全国的に[[11世紀]]初頭頃までに廃絶しており、碓氷坂における東山道駅路も同時期に荒廃したとされている。その後、碓氷峠における主要交通路は、旧碓氷峠ルートのほか、入山峠ルート・[[鰐坂峠]]ルートなどを通過したと考えられているが、どのルートが主たるものであったかは確定に至っていない。
 
 
 
=== 中世 ===
 
中世には碓氷峠付近の主要道は現在の大字峠(地図中の旧碓氷峠)を通るようになった。この峠には[[熊野皇大神社]](碓氷峠熊野神社)があり、同神社[[正応]]5年[[4月8日_(旧暦)|4月8日]]([[1292年]][[5月3日]])紀の鐘銘から、この頃までには大字峠の道が開設されていたといわれる。入山峠を通る古道よりも坂本付近などが峻険で通りにくかったが、そのため防備に優れていたとされる<ref name="日本歴史地名大系">日本歴史地名大系</ref>。
 
 
 
[[応永]]30年([[1423年]])の[[国一揆|国人一揆]]や[[永享]]12年([[1440年]])の[[結城合戦]]では、碓氷峠は[[信濃国|信州]]からの侵攻を防ぐ要衝となっていた。[[永禄]]4年([[1561年]])に[[上杉謙信|長尾景虎]]が[[小田原城]]の[[後北条氏]]を攻めた際に[[武田信玄]]が笛吹峠に出陣し、信玄は碓氷峠からの進出をその後数回にわたって行ない、永禄9年([[1566年]])には[[箕輪城]]の攻略に成功して[[上野国]]へ進出した。[[天正]]18年([[1590年]])の[[小田原征伐]]の際、[[豊臣秀吉]]は[[前田利家]]らの北国勢を碓氷峠から進軍させている<ref name="日本歴史地名大系" />。
 
 
 
[[ファイル:Old Usui Pass.JPG|thumb|right|240px|旧碓氷峠(長野県[[北佐久郡]][[軽井沢町]][[大字]]峠町)]]
 
=== 近世 ===
 
[[江戸時代]]には[[中山道]]が[[五街道]]のひとつとして整備され、旧碓氷峠ルートが本道とされた。碓氷峠は、[[関東地方|関東]]と[[信濃国]]や[[北陸地方|北陸]]とを結ぶ重要な場所と位置づけられ、峠の江戸側に[[関所]](坂本関)が置かれて厳しい取締りが行われた{{sfn|「日本の道100選」研究会|2002|pp=58&ndash;59}}。峠の前後には[[坂本宿]]・[[軽井沢宿]]が置かれ、両宿場間の距離は2里26町(約10[[キロメートル]]〈km〉余)であったが、峠頂部の熊野神社の標高が1200&nbsp;m、坂本宿の京都口が標高460&nbsp;mであるから、その標高差は740&nbsp;mもあり通行者の大きな負担になっている{{sfn|「日本の道100選」研究会|2002|pp=58&ndash;59}}。特に刎石(はねいし)は[[つづら折れ]]の急坂のうえ落石も多く、峠道最大の難所である{{sfn|「日本の道100選」研究会|2002|pp=58&ndash;59}}。なお、坂本から熊野神社までの旧中山道ルートの現在は、旧[[建設省]]と「道の日」実行委員会により制定された[[日本の道100選]]のひとつとして1986年(昭和61年)に選定を受けている{{sfn|「日本の道100選」研究会|2002|pp=6&ndash;13}}。
 
 
 
ただし、古道はその後も活用されており、たとえば難所の碓氷峠を避けることができる鰐坂峠ルートは「姫街道」「女街道」と呼ばれていた。この道は[[本庄市|本庄]]で中山道本道から分かれて[[藤岡市|藤岡]]・[[富岡市|富岡]]・[[下仁田町|下仁田]]を経由し、鰐坂峠([[和美峠]]付近)を経て信州に入り、追分宿付近で本道と合流していた。しかし、こちらも難所であることに差はなかったといい、本道と同様に西牧関所が置かれていた。
 
 
 
[[天明]]3年([[1783年]])の[[浅間山]]噴火では3[[尺]] (90[[センチメートル]]<!-- (cm) -->) 以上の砂が積り、碓氷峠往還は8日間にわたって通行不可能になっている<ref name="日本歴史地名大系" />。碓氷峠は中山道有数の難所であったため、幕末の[[文久]]元年([[1861年]])に[[和宮]]が[[徳川家茂]]に嫁ぐために中山道を通ることが決まった際に一部区間で大工事が行われ、和宮道と呼ばれる多少平易な別ルートが開拓された。なお、約3万人の和宮一行は同年[[11月9日 (旧暦)|11月9日]](1861年[[12月10日]])に軽井沢を発って碓氷峠を越え、翌10日(1861年[[12月11日]])に横川に宿泊している{{Sfn|倉田正|1979|p=67}}。
 
 
 
=== 明治時代以降 ===
 
[[明治]]に入ってもその重要性は変わらず、人々や物資の往来は続いた。[[1878年]][[9月11日]]、[[明治天皇]]の北陸道・東海道巡幸では、天皇は徒歩にて峠を通過している。[[明治天皇紀]]によれば、「峠の険難は馬すらも通はず・・・」とあり<ref>{{Cite book |和書 |author=富山県護国神社 |year=2012 |title=富山県における聖帝四代の御製を拝す |page=p78 |publisher=富山県護国神社}}</ref>、この時期においても難所であることには変わらなかった。[[1882年]]に従来の南側に新道が作られ、[[1886年]]には馬や車での通行が可能となった。「碓氷新道」と呼ばれたこの新道は[[国道18号]](の旧道)にあたり、[[坂本宿]]からその後[[碓氷湖]]が作られたあたりまではおおむね和宮道(正しくは、(明治天皇)御巡幸道路であり、和宮道は、熊野神社北側から子持山の南西あたりまでをいう)を踏襲し、そこから西側は中尾川に沿って全く新しいルートとされ、軽井沢宿と沓掛宿の間で旧道と合流するものであった。新道の碓氷峠は、中山道旧道の碓氷峠(新道開通後は旧碓氷峠と呼ばれている)から南に3&nbsp;kmほどの場所に移動した。この結果、碓氷峠越えの道は3&nbsp;km長くなったものの平均勾配が半分以下に低減された{{Sfn|倉田正|1979|p=68}}。その後「旧軽井沢」と呼ばれるようになった地区は中山道旧道に沿った場所で、[[軽井沢駅]]周辺は明治時代に開発された新道沿いにあたる。
 
 
 
[[大正]]以降は[[貨物自動車|トラック]]などの往来も盛んになり、[[失業]]対策も兼ねた[[公共事業]]の一環として[[1932年]]から翌年にかけて拡幅および一部[[舗装]]工事が行なわれ、これを記念した石碑が県境に残っている{{Sfn|倉田正|1979|p=68}}。なお、[[第二次世界大戦]]中には牛や馬の峠越えによる物資の輸送も行なわれた<ref>『朝日新聞』1984年12月11日付 朝刊、解説面、4面。</ref>。国道18号の碓氷峠の区間は、[[1956年]](昭和31年)から拡幅や改良・舗装工事が進められていたが、カーブが184個もあることなどから限界があり、交通需要の高まりに応えるため[[1971年]]に国道18号のバイパスである[[有料道路]]の'''[[碓氷バイパス]]'''(入山峠を通る、かつての古東山道のルート)が開通した。碓氷バイパスは[[2001年]][[11月11日]]から無料化され、かつての中山道は[[ハイキング]]コースとして整備された。[[1993年]]には[[上信越自動車道]]が開通したことから、[[1979年]]には[[交通量]]が2,000台/日あった明治時代の新道もその重要性は薄れつつある。なお上信越自動車道の建設に当たっては、同道路内で最長となる全長1,267メートルの[[碓氷橋]]が、碓氷川などをまたぐように架橋された。
 
 
 
=== 現在の交通量 ===
 
[[2005年]]の[[上信越自動車道]]の碓氷峠付近(群馬・長野県境)の交通量は以下の通りである<ref>{{Cite web |title = 平成17年度道路交通センサス/長野県 |date = 2013-08-07 |url = http://www.pref.nagano.lg.jp/michiken/infra/doro/chosa/kotsuryo.html |publisher = 長野県 |accessdate = 2015-03-20 }}</ref>。
 
:{| class="wikitable"
 
 
 
|+ 碓氷峠付近の1日当たりの平均交通量(2005年)
 
! 日 !! [[乗用車]](台/日) !! [[貨物自動車]](台/日) !! 合計(台/日)
 
|-
 
! 平日
 
| {{0}}8,669 || 10,065 || 18,734
 
|-
 
! 休日
 
| 17,538 || {{0}}4,177 || 21,715
 
|}
 
 
 
なお、2005年の[[国道18号]]の碓氷峠付近(安中市松井田町原甲)の交通量は平日が2,016台/日、休日が4,129台/日<ref>{{Cite web |title = 群馬県の道路交通量一覧 |url = http://www.ktr.mlit.go.jp/takasaki/takasaki00050.html |publisher = [[国土交通省]] [[地方整備局#関東地方整備局|関東地方整備局 高崎河川国道事務所]] |accessdate = 2015-03-20 }}</ref>、[[2001年]]の[[碓氷バイパス]]の1日当たりの平均交通量は10,235台/日だった<ref>『朝日新聞』2001年11月3日付 朝刊、群馬地方面、35面。</ref>。[[1993年]]の予測では上信越自動車道、碓氷バイパスの交通量はそれぞれ8,000台/日、7,000台/日になると見込まれており<ref>『朝日新聞』1993年3月8日付 夕刊、社会面、8面。</ref>、実際の値はともにこれを上回っている。特に碓氷バイパスは1993年の交通量およそ15,000台/日からの半減が予想されたが、利用台数はそれほど減っていない。
 
 
 
== 鉄道 ==
 
=== 鉄道の建設 ===
 
[[ファイル:Usui-Bridge-3.jpg|thumb|200px|right|線路の一部だった[[碓氷第三橋梁]]]]
 
[[ファイル:JGR-3900SL.jpg|thumb|200px|right|最初に投入されたラック式の3900形蒸気機関車]]
 
[[鉄道]]においても碓氷峠を越えることは早くから重要視され、[[上野駅]] - [[横川駅 (群馬県)|横川駅]]間が[[1885年]]に、さらに[[軽井沢駅]] - [[直江津駅]]間が[[1888年]]に開通すると当区間が輸送の[[ボトルネック]]となり、東京と新潟の間の鉄道を全線開通させることが強く望まれた{{Sfn|倉田正|1979|p=68}}。なお、1888年から1893年にかけては[[碓氷馬車鉄道]]という[[馬車鉄道]]が[[国道18号]]上に敷設されていたが、輸送可能な量が少ない上に峠越えに2時間半もかかっていた{{Sfn|田島二郎|1998|p=11}}。当初の[[機関車]]の能力では[[粘着式鉄道]]にて通過困難な[[線形 (路線)#勾配|勾配]]があり、[[スイッチバック]]や[[ループ線]]などを設ける方法では対処できなかったため[[ラック式鉄道]]を模索し、視察した[[ドイツ]]の[[ハルツ山地|ハルツ山]]鉄道を参考にして[[アプト式]](アブト式)を用いることを提案した[[仙石貢]]と[[吉川三次郎]]のプランが採用された。この案では中山道沿いに線路を敷設するため資材や人員の運搬コストを低減できる一方で、最大で66.7&nbsp;[[パーミル|‰]](= {{分数|1|15}}。約 3.8 度)という急な勾配になる。なお、この際に鉄道建築師長の[[ボーナル]]は[[和美峠]]や[[入山峠]]を通る{{分数|1|40}}程度の勾配の案を提示している{{Sfn|北河大次郎|2007|p=55}}。
 
 
 
[[1891年]][[3月24日]]に起工したが、急勾配でアプト式のラックレールを用いるには列車の推進力を受ける[[道床]]に十分配慮する必要があった。ボーナルはその対策として、大きな[[スパン]]に従来よく使われていた[[鋼]]桁ではなく[[レンガ]]製の[[アーチ]]を用いている。また、工事中の1891年10月に[[濃尾地震]]が起きてレンガ造りの建造物が倒壊したことを受け、橋脚に石柱を組み合わせたりレンガを縦に積むなどの地震対策が採り入れられた{{Sfn|北河大次郎|2007|p=55}}。このような技術が評価され、[[碓氷第三橋梁]]などの一連の橋梁、[[トンネル|隧道]]などは[[1993年]]から翌年にかけて[[近代化遺産]]として国の[[重要文化財]]に指定されている<ref>{{文化遺産オンライン|191843|碓氷峠鉄道施設 第三橋梁}}など。</ref>。ただしアーチ部分の耐震性については効果は限定され、完成後の[[1894年]]6月の[[明治東京地震]]([[マグニチュード]]=7.0)ではアーチにひびが入り、同年から[[1896年]]にかけてレンガを巻き立てる補強が行なわれた{{Sfn|北河大次郎|2007|p=56}}。
 
 
 
このような経緯を経て、延長11.2&nbsp;kmの間に18の橋梁と26の[[トンネル]]が建設され、着工から1年9か月後の[[1892年]][[12月22日]]に工事が完了し、翌[[1893年]][[4月1日]]に官営鉄道中山道線(後の[[信越本線]])として横川 - 軽井沢間が開通した。碓氷峠を越えることから「'''碓氷線'''」、また横川と軽井沢から「'''横軽'''(よこかる)」とも呼ばれる。<!--なお、当時の通常の[[蒸気機関車]]ではこの傾斜の登坂が困難であったが、その後技術の進歩により、[[京阪京津線]]は碓氷峠と同じ66.7 ‰(約3.8度)<ref>[http://web.archive.org/web/20060314225451/www.keihan-o2.com/st/k01.html 京阪電車大津線公式webサイトkeihan-o2.com 上栄町駅] (Internet Archive)</ref>、さらに[[箱根登山鉄道鉄道線|箱根登山鉄道]]は80 ‰(約4.6度)の勾配をラックレールなしで登坂している。←自分だけ登ればいい電車を、貨物や客車(勾配区間では非常に大きな負荷になる)を動かさないといけない機関車と一緒にしないでください。東武鉄道の日光軌道線なんかわざわざED40(ラック機能なし)で貨物列車(しかも登りは推進運転)運行してましたが、この路線を普通に電車は登っていましたよ?。-->
 
 
 
=== ラック式鉄道 ===
 
[[ファイル:JGR-10001-EL.jpg|thumb|200px|right|アプト方式ラック式の10000形電気機関車]]
 
トンネルの連続による煤煙の問題から、乗務員の中には[[吐血]]や[[窒息]]する者も現れ{{Sfn|倉田正|1979|p=68}}、[[1911年]]に横川駅付近に[[火力発電所]]が設けられて[[1912年]]には日本で最初の幹線[[鉄道の電化|電化]]が行われた。
 
 
 
電化により碓氷線の所要時間は80分から40分に半減して輸送力は若干増強された{{Sfn|田島二郎|1998|p=11}}が、輸送の[[ボトルネック|隘路]]であることは変わらず、「東の碓氷」は「北の[[板谷峠|板谷]]」、「西の[[瀬野八]]」などと並び、名だたる鉄道の難所として称された。
 
 
 
[[1900年]]に[[大和田建樹]]によって作成された「[[鉄道唱歌]]」第 4 集北陸編では、碓氷峠の区間は以下のように歌われている。
 
* 19.''これより音にききいたる 碓氷峠のアブト式 歯車つけておりのぼる 仕掛は外にたぐいなし''
 
* 20.''くぐるトンネル二十六 ともし火うすく昼くらし いずれは天地うちはれて 顔ふく風の心地よさ''
 
 
 
さらに『鉄道唱歌』と同じ年に作成された、現在の長野[[都道府県民歌|県歌]]である『[[信濃の国]]』も、6番において以下のように碓氷峠を歌っている。
 
* ''吾妻はやとし 日本武(やまとたけ) 嘆き給いし碓氷山 穿(うが)つ隧道(トンネル)二十六 夢にもこゆる汽車の道 みち一筋に学びなば 昔の人にや劣るべき 古来山河の秀でたる 国は偉人のある習い''
 
 
 
なお、「ア'''ブ(BU)'''ト」という表現は当時見られたものだが、語源はドイツ語なので現在の「アプト」の方が原語に近い。
 
<!--アプト式はラック方式鉄道の一形式に過ぎず、ラック式鉄道をアプト式と呼ぶのは誤りである。←マーシュ式など他のラックレールを使っている路線を「アプト(アブト)式」と呼ぶなら間違いでしょうが、碓氷峠は実際アプト式のラックレールなのですから「アプト(アブト)式」でいいのでは? 別のもので例えるなら「マレー式は複式であり、ビッグボーイのような単式をマレー式と呼ぶのは誤り。」ならともかく「マレー式は関節式型の一形態に過ぎない、だから国鉄9800形蒸気機関車は関節式機関車であり、マレー式機関車と呼ぶのは誤り。」というのは変でしょう。-->
 
 
 
=== 粘着運転化 ===
 
[[ファイル:JRE-EF6316-JRW-EC489-Hakusan.jpg|thumb|200px|right|EF63形電気機関車を連結して碓氷峠に向かう特急「白山」]]
 
{{Sound|JNR 169 series kumoha169-4 EF63 10 EF63 20 myoko karuizawa.ogg|クモハ169-4の走行音(EF6310+EF63 20と協調運転、301M妙高 、1号車)|(信越本線線横川-軽井沢間、1986年10月26日)}}
 
 
 
[[太平洋戦争]]後は輸送隘路の解消のため最急勾配を22.5 ‰(約1.3度)とする迂回ルートも検討されたが、最大66.7 ‰(約3.8度)の急勾配は回避せず一般的な車輪による[[粘着式鉄道|粘着運転]]で登降坂することになり、[[1961年]]に着工し[[1963年]][[7月15日]]に旧線のやや北側をほぼ並行するルートで新線が単線で開通した。同年[[9月30日]]にラック式鉄道は廃止され、さらに[[1966年]][[7月2日]]には、旧ラック式線の一部を改修工事する形でもう1線が開通し[[複線]]となった。これによって当区間の所要時間は旅客列車で40分から下り列車は17分、上り列車は24分に短縮された{{Sfn|倉田正|1979|p=69}}。
 
 
 
しかし[[電車]]・[[気動車]]・[[客車]]・[[貨物列車|貨物]]を問わず単独での運転は勾配に対応できず、[[補助機関車]]として2両を1組とした[[国鉄EF63形電気機関車|EF63形]]を常に連結することとなった。勾配を登る下り列車(横川→軽井沢)を押し上げ、勾配を下る上り列車(軽井沢→横川)は発電ブレーキによる抑速ブレーキとなるという機能であった。そのために必ず勾配の麓側にあたる横川側に2両が連結された。
 
 
 
;客車・貨物列車の場合(EF62形単機回送も含む)
 
:信越本線内の本務機関車としてEF63形と同時期に製造された[[国鉄EF62形電気機関車|EF62形]]が牽引する列車ではEF63形を連結して当区間を走行する際の輸送定数は客車が360[[トン]] (t) 、貨物列車で400&nbsp;tに制限されたほか、ラック時代に一部列車で実施されていた客車と貨車を混結した状態で走る[[混合列車]]の運転が保安上禁止された。
 
:下り列車の場合(軽井沢)EF62 + 客車もしくは貨車 + EF63 + EF63(横川)の編成となり、無線通信によって最前部のEF62が牽引し後部のEF63形 2 両で推進するプッシュプル方式での運転操作が行われた。上り列車の場合、(軽井沢)客車 + EF62 + EF63 + EF63(横川)と勾配の麓側に 3 両の機関車が連なり、最前部のEF63形から 3 両の[[総括制御]]を行う。
 
:EF62+EF63+EF63の 3 重連による牽引力は[[国鉄D51形蒸気機関車|D51形蒸気機関車]]の5重連に相当する{{Sfn|久保田 (2005)|p=202}}。
 
:<!-- バグ回避のための行「Help:箇条書き#定義の箇条書き中の箇条書き」参照-->
 
;電車・気動車の場合
 
:EF62形・EF63形量産車による3重連以上を用いた試験の結果、EF63形が無動力の電車・気動車を牽引する場合は編成両数が電車が最大8両、気動車は最大7両に制限された{{Sfn|真宅正博|渡辺登|1968|p=26}}。この問題についてはさまざまな解決策が検討されたが、最終的にEF63形と当区間を通過する電車を協調運転することで、増結が求められていた4両分の荷重を電車が負担する案が採用されることになった。こうして[[1968年]]以降、EF63形との[[協調運転]]により最大 12 両編成での通過を可能とした[[国鉄165系電車#169系|169系]]・[[国鉄485系電車#489系|489系]]・[[国鉄183系電車#189系|189系]]の各形式電車が投入されたが、協調・非協調を問わず当区間の運転はすべてEF63形に乗務する[[運転士|機関士]]が担当し、峠を登る列車では運転士は後ろ向きに運転を行うため、電車・気動車による列車では先頭に乗務している運転士は[[鉄道信号機|信号]]現示と進路の確認を行ない車内電話を通してEF63形乗務の機関士へ伝達し相互喚呼していた。また協調運転時の総括制御、推進・牽引運転時に電車・気動車側の[[マスター・コントローラー]]とブレーキ弁を扱うと制御回路を破損してしまうため、電車・気動車側の[[マスター・コントローラー]]はハンドル「切」位置にして鍵を抜き取り、ブレーキ弁ハンドルも抜き取るよう規程されていた。
 
:[[1985年]](昭和60年)頃には余剰のサロ183形を改造した自力登坂可能な187系(第 2 案)も計画されたが、諸般の事情から白紙撤回されている。詳細は「[[国鉄183系電車#国鉄187系特急用直流電車開発計画|国鉄187系特急用直流電車開発計画]]」も参照のこと。
 
 
 
==== 横軽対策 ====
 
[[ファイル:157series10tsc number.JPG|thumb|200px|right|車両番号(クロ157-1)の先頭に付された横軽対策識別マーク]]
 
最大66.7&nbsp;‰の急勾配という条件で峠の下側から本形式による推進・牽引運転を実施するため、非常ブレーキ動作時などに過大な自動連結器作用力(自連力)が発生し、連結器の破損や列車の[[座屈]]による車両の車体と台車の分離、浮き上がり脱線の予防、車両の逸走といった事故が発生するのを防止する目的で、当区間を通過する車両には以下の対策(通称:「'''横軽対策'''」)が必須とされた。また、指定された形式以外の車両、大物車、鋼木合造客車は通過を禁止されている。
 
*台枠・連結器の強化{{Sfn|真宅正博|渡辺登|1968|pp=26, 29}}
 
*緩衝器容量の増大{{Sfn|真宅正博|渡辺登|1968|p=26}}
 
*車掌弁(車掌用非常ブレーキ装置)への絞り追加{{Sfn|真宅正博|渡辺登|1968|p=27}}
 
*台車横揺れ制限装置の追加<ref>{{Cite journal |和書 |journal = [[レイルマガジン|Rail Magazine]] |issue = No. 161 |publisher = [[ネコ・パブリッシング]] |pages = {{要ページ番号|date=2015年3月}} |date = 1997-02 }}</ref>
 
*[[空気バネ]]台車装着車に対するパンク機能の付加{{Sfn|真宅正博|渡辺登|1968|p=26}}<ref>{{Cite journal |和書 |author = 菅原憲一 |title = 国鉄の急こう配線の現状と展望 |journal = [[鉄道ピクトリアル]] |issue = No. 363 |page = 48 |publisher = [[電気車研究会]] |date = 1979-07 }}</ref>
 
 
 
対策施工車両には識別のため車両番号の先頭に直径40[[ミリメートル]]<!-- (mm) -->の「●(Gマーク)」を付した。
 
 
 
これらの制約は、当区間の粘着運転への切り替え直前に実施された165系電車9両編成とEF63形による下り勾配での試験運転で、非常ブレーキを作動させたところ機関車次位のクハ165形の軽井沢方にあたる車体後部が垂直座屈で浮上し、車体と台車が分離するという現象や上り勾配での客車牽引で縦勾配の変曲点で軽井沢方の台車が脱線する現象が発生した{{Sfn|真宅正博|渡辺登|1968|p=26}}<ref>{{Cite journal |和書 |author = 黒岩源雄 |title = 横軽の思い出-アプト方式廃止の頃 |journal = 鉄道ピクトリアル |issue = No. 570| page = 20 |publisher = 電気車研究会 |date = 1993-01 }}</ref>ことに由来する。
 
 
 
この結果、機関車と他の車両との間で発生する自連力の過大がもたらす悪影響が認識され当区間での被牽引対象列車に対する最大8両(系列によっては7両)までの連結両数制限と車種を問わず心皿脱出防止のため空気バネ台車装着車に対するパンクの義務化が決定された{{Sfn|真宅正博|渡辺登|1968|p=26}}。前述の専用車両によるEF63形との協調運転システムの開発は、前者の制限を解消し輸送力不足を補う手段として開発されたものである。後者の対策は空気バネ台車の限界自連力が金属バネ台車に比べて著しく小さいため垂直座屈に弱い一方で空気バネをパンクさせてストッパゴムだけで車体を支持する状態にすると空気バネ有効時と比較して約6倍の限界自連力を得られることから実施されたもの{{Sfn|中橋順一|2008|pp=27&ndash;28}}で、同様に貨物列車の[[車掌車]]についても推進運転時の坐屈問題から 1 段リンク式足回りをもつ[[国鉄ヨ3500形貨車|ヨ3500形]]が限定使用された<ref group="注">新線開業直後の1963年10月以降 3 回にわたり 2 段リンク式足回りを持つ緩急車の脱線事故が発生し、検証の結果大きな横圧が発生することが判明したことからヨ3500形の限定使用となった。</ref>。
 
 
 
電車では協調・非協調を問わず座屈による浮き上がり脱線予防策として車両重量のある[[動力車|電動車]]ユニットを峠の下側に組成することになり、[[新前橋電車区]](現・[[高崎車両センター]])・長野運転所(後の北長野運転所→長野総合車両所→現・[[長野総合車両センター]])配置の165・169系が他車両基地配置車と逆向きの編成に組成されていたほか、後に松本運転所(現・[[松本車両センター]])配置の[[国鉄115系電車#1000番台|115系1000番台]](後に長野へ移管)・新前橋電車区配置の[[国鉄185系電車#200番台|185系200番台]]も電動車ユニットの向きが本来と逆向きにされた。
 
 
 
=== 新幹線開業に伴う廃止 ===
 
廃止に先立ち、[[1993年]](平成5年)[[8月17日]]に、鉄道施設の一部を「碓氷峠鉄道施設」として国が[[重要文化財]]に指定した<ref>1993年(平成5年)8月17日文部省告示第106号「文化財を重要文化財に指定する件」</ref>。
 
 
 
碓氷峠の抜本的な輸送改善は、[[1997年]]の[[北陸新幹線]]高崎 - 長野間(この区間は2015年3月13日まで[[長野新幹線]]として営業)の開通によってなされた。その際、信越本線の碓氷峠区間(横川 - 軽井沢間)は、長距離旅客が新幹線に移行する反面で県境を越える即ち住環境を跨ぐローカル旅客数が見込めないことや、峠の上り下りに特別な装備が必要で維持に多額の費用がかかるとして、[[第三セクター鉄道]]などに転換されることなく[[廃線|廃止]]された。
 
 
 
代替交通機関として横川駅 - 軽井沢駅間を片道34分で結ぶ[[ジェイアールバス関東]][[ジェイアールバス関東小諸支店|小諸支店]]による[[碓氷線]]1日7往復の運行に移行した<ref>『朝日新聞』1997年10月2日付 朝刊、長野地方面</ref>。北陸新幹線は碓氷峠北方にある碓氷峠トンネルを通過する。この区間は 30&ndash;‰(約1.7度)の勾配が連続しているため、[[新幹線E2系電車|E2系]]などの勾配対策を施工した車両のみが入線可能である{{Sfn|田島二郎|1998|p=11}}。新幹線開業後の1997年10月の高崎 - 軽井沢間の1日平均の乗車人員は上下方向で合計およそ30,000人・[[定員#混雑率・乗車率|乗車率]] 68&nbsp;[[パーセント|%]] と前年同期に同区間を運行していた信越線特急・[[あさま#特急「あさま」の設定後|あさま]]と比べて約12,000人増加した<ref>『朝日新聞』1997年11月5日付 朝刊、社会面、30面。</ref>。廃止の方針について、[[群馬県]][[安中市]]の[[新島学園中学校・高等学校|新島学園高等学校]]に[[長野県]]から通学する生徒の[[保護者]]を中心に廃止許可の取消を求める[[行政訴訟]]([[取消訴訟]])が[[前橋地方裁判所]]に起こされたが、裁判所は「(廃止の手続きを定めた)[[鉄道事業法]]は利用者個々の利益を直接保護するものではない」として[[取消訴訟#原告適格|原告適格]]を認めず、訴えを[[却下]]した<ref>[http://www.oft.co.jp/02-2/023911/h11-226-099.html H11.2.26 前橋地裁 平成09(行ウ)9 信越線廃止許可処分取消請求事件]{{リンク切れ|date=2015年3月}}</ref>。[[東京高等裁判所]]の[[控訴]]審、[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]の[[上告]]審も前橋地方裁判所の決定を支持し、訴訟却下が確定した。
 
 
 
旧碓氷線の廃線部分11.2&nbsp;kmのうち、群馬県側の約10&nbsp;kmは[[碓氷郡]][[松井田町]](現・安中市)が買収しており、残り約840&nbsp;mについても[[北佐久郡]][[軽井沢町]]に買取を陳情する動きがあった<ref>『朝日新聞』2007年8月26日付 朝刊、長野東北信面、33面。</ref>。廃線跡は廃止前と変わらない状態を保つように管理されており、かつての線路跡が遊歩道「[[アプトの道]]」となっている以外にも線路部分が多く残されている(遊歩道区間は、横川駅からラック方式の旧線をたどり旧熊ノ平駅までとなっている。[[#見所|後節]]も参照)。架線や通信ケーブル等も現役当時のまま残っていたが、現在では横川方の上下線で盗難され現存しない<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG0804O_Y3A500C1CC1000/ JR信越線、廃線区間11キロで架線など盗難 被害100万円超] 『日本経済新聞』2013年5月9日</ref>。[[碓氷峠鉄道文化むら]]では、横川駅側の廃線跡を利用して、かつて使われていた保守機関車500Aなどを走らせている<ref>『朝日新聞』2001年10月12日付 朝刊、群馬地方面、34面。</ref>。
 
 
 
=== 車両 ===
 
==== ラック方式時代 ====
 
* [[国鉄3900形蒸気機関車]]
 
* [[国鉄3920形蒸気機関車]]
 
* [[国鉄3950形蒸気機関車]]
 
* [[国鉄3980形蒸気機関車]]
 
* [[国鉄EC40形電気機関車]]
 
* [[国鉄ED40形電気機関車]]
 
* [[国鉄ED41形電気機関車]]
 
* [[国鉄ED42形電気機関車]]
 
* [[国鉄キハ57系気動車]]
 
* [[国鉄キハ80系気動車]]
 
 
 
==== 粘着式(非ラック方式)時代 ====
 
* [[国鉄EF62形電気機関車]]
 
* [[国鉄EF63形電気機関車]]
 
* EF63形との協調運転可能車
 
** [[国鉄165系電車#169系|国鉄169系電車]]
 
** [[国鉄183系電車#189系|国鉄189系電車]]
 
** [[国鉄485系電車#489系|国鉄489系電車]]
 
* 横軽通過対策車(被牽引)
 
** [[国鉄80系電車]](一部)
 
** [[国鉄115系電車]](0番台の一部・300番台・1000番台)
 
** [[国鉄157系電車]]
 
** [[国鉄165系電車]](一部)
 
** [[国鉄181系電車]](一部)
 
** [[国鉄183系電車]](一部)
 
** [[国鉄185系電車]](200番台)
 
** [[JR東日本107系電車]](100番台)
 
** [[国鉄キハ57系気動車]]
 
** [[国鉄キハ80系気動車]](一部)
 
** [[国鉄12系客車]]
 
** [[国鉄14系客車]](一部)
 
 
 
== 近代以降の事故 ==
 
[[File:EC40 Usui touge accident.jpg|thumb|1918年(大正7年)3月7日に発生した[[信越本線熊ノ平駅列車脱線事故|熊ノ平駅列車脱線事故]]の現場]]
 
碓氷峠では[[明治]]以降だけでも多くの事故が起きている。[[1891年]]から[[1893年]]の線路の建設に当たっては、完成を急いだことなどから500名以上もの殉職者が生じている{{Sfn|倉田正|1979|p=68}}{{Refnest|group="注"|歴史作家の[[清水昇]]は、[[碓氷関所]]跡にある「招魂碑」(1892年〈明治25年〉3月建立)に刻まれている500人という犠牲者数について、「1年間に500人もの作業員が犠牲になるだろうか」と疑問を呈した上で、この招魂碑は碓氷峠の工事のみならず日本における鉄道の建設開始(1870年〈明治3年〉3月)から1891年(明治24年)までの全体的な犠牲者を弔ったのではないかと述べている<ref>{{Cite book |和書 |author = 清水昇 |year = 2015 |title = 碓氷峠を越えたアプト式鉄道 66.7パーミルへの挑戦 |pages = 120 - 124 |publisher = [[交通新聞社]] |series = 交通新聞社新書 |isbn = 978-4-330-53815-0 |quote = 碓氷線建設の犠牲者 }}</ref>。}}。1901年には[[日本鉄道]]副社長[[毛利重輔]]が偶然巻き込まれ死亡した[[毛利重輔#碓氷峠列車逆走事故|碓氷峠蒸気列車逆走事故]]が起こった<ref>[{{NDLDC|1920419/165}} 「碓氷隧道の汽車逆行の珍事時事新報明治34年7月15日」『新聞集成明治編年史. 第十一卷』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。また、[[1950年]]には[[熊ノ平駅]]で数回にわたる土砂崩れが起きて50名が亡くなった。勾配が極めて急なことから[[列車脱線事故]]もしばしばあり、例えば[[1963年]][[10月16日]]に[[トンネル]]内で[[貨車]]が<ref>『朝日新聞』1963年10月17日付 朝刊、社会面、15面。</ref>、[[1975年]][[10月28日]]には[[電気機関車]]が脱線している([[日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#信越線軽井沢 - 横川間回送機関車脱線転落事故|信越線軽井沢 - 横川間回送機関車脱線転落事故]])<ref>『朝日新聞』1975年10月28日付 夕刊、社会面、9面。</ref>。特に1975年の事故では機関車4両が10&nbsp;m下の県道斜面まで転落し、乗員3名が重傷を負った。また、被災した機関車4両も復旧不能で全機廃車となった。
 
 
 
夏季は[[豪雨]]で[[国道18号]]が崩落することも多く、[[1979年]][[8月12日]]には雷雨のため長さ15&nbsp;m、幅2.5&nbsp;mにわたって崩落して通行止めとなり<ref>『朝日新聞』1979年8月13日付 朝刊、社会面、18面。</ref>、[[1992年]][[8月29日]]には長さ150&nbsp;m、幅6&nbsp;mにわたって道路北側の土砂が崩れた上に地盤が緩み、復旧に2か月を要している<ref>『朝日新聞』1992年8月31日付 朝刊、群馬地方面。</ref>。この他、[[1969年]]には[[山火事]]で国道18号の3&nbsp;kmの区間が通行止めとなったこともある<ref>『朝日新聞』1969年4月14日付 夕刊、社会面、11面。</ref>。
 
 
 
== 伝承・歌など ==
 
碓氷峠には、他の峠などと同様に[[豪傑]]の伝承などがある。[[古代]]では[[頼光四天王]]の1人、[[碓井貞光]]が有名であり、先祖が勅勘によって[[配流]]され碓氷峠に隠棲していたといわれる{{Sfn|佐藤喜久一郎|2004|p=31}}。[[中世]]から[[近世]]にかけては「灘田の左太夫」(なだたのさだゆう)の話が伝わっている。実在した[[土豪]]の佐藤氏が左太夫のモデルになったとされ、具体的な内容としては
 
* 足が非常に速く、茶飲み話をしている間に[[信濃国]]まで行って[[ソバ]]を刈ってきた{{Sfn|佐藤喜久一郎|2004|p=32}}。
 
* 怪力の持ち主で、[[加賀藩|加賀藩主]]の[[駕籠]]を1人でかつぎ、反対側には巨石をぶら下げたまま休まずに峠を登りきった{{Sfn|佐藤喜久一郎|2004|p=33}}。
 
* 力を利用して悪事を働いたため峠を追われ、[[妙義山|裏妙義]]に隠れ住んで亡くなった{{Sfn|佐藤喜久一郎|2004|p=33}}。
 
などがある。
 
 
 
[[近代]]に入ると多くの文学者が訪れ、[[正岡子規]]は[[1891年]]の『かけはしの記』<ref>[http://www.aozora.gr.jp/cards/000305/files/4626_10323.html 青空文庫『かけはしの記』]</ref>の中で、碓氷峠を[[馬車鉄道]]で越えた時の様子を描いている。
 
 
 
[[大正|大正時代]]には、[[北原白秋]]が『碓氷の春』という一連の[[和歌]]を詠んでおり、その一首を刻んだ[[歌碑]]が[[横川駅 (群馬県)|横川駅]]下のドライブインに存在する{{Sfn|市川潔|1983|p=190}}。また、頂上の[[熊野神社 (安中市)|熊野神社]]の境内には[[山口誓子]]や[[杉浦翠子]]が碓氷峠を詠んだ[[俳句]]の句碑がある{{Sfn|市川潔|1983|p=191}}。[[西條八十]]の[[詩]]・『ぼくの帽子』の冒頭には碓氷峠が登場し、[[森村誠一]]の『[[人間の証明]]』はそれを引用している。
 
 
 
== 見所 ==
 
* 旧[[中山道]] [[坂本宿]]
 
* 旧碓氷線 [[碓氷第三橋梁]](めがね橋)
 
* [[碓氷湖]]
 
*: [[碓氷川]]に建設された坂本[[ダム]]によってできたダム湖であるが、周辺が整備され新緑や[[紅葉]]の名所である。
 
* [[碓氷峠鉄道文化むら]]:付近の観光施設
 
* [[アプトの道]]:[[遊歩道]]
 
*: 信越本線の横川を基点として、旧上り本線を経由し、丸山変電所、峠の湯、碓氷第三橋梁(通称めがね橋)を経て、現在は熊ノ平(旧本線の信号所)までが通行可能となっている。なお、熊ノ平から軽井沢の間は、ラック方式時代の物も残ってはいるものの、一部はトンネルがふさがれたりしており、現時点での整備計画はない。なお、横川から峠の湯までは旧上り本線を[[アスファルト]]で舗装しているが、急勾配のレールの重さによるずれにより、所々にアスファルトにひびが入っている(現在も年間に数ミリのレールのずれが起きている)。[[2005年]](平成17年)に開通したトロッコを運転している旧下り本線は柵で分離し、立入できないようになっている。なお、トロッコは碓氷峠鉄道文化むらの遊具という扱いとなっているため、同施設の入場券が必要であり、さらに11月から3月中旬までは運休となる。運転は土曜・休日及び特定日の日中となっており、横川の鉄道文化むらから峠の湯までの2.6[[キロメートル|キロ]]を走る。
 
* 丸山変電所
 
*: ラック方式鉄道電化の際に軽井沢の矢ケ崎変電所とともに建設された施設で、蓄電池室と機械室の2棟からなる。レンガ造りで丸山にある物は用途廃止後もそのまま放置される形となり残ったが、矢ケ崎の物は解体された。信越本線廃止後に遊歩道の整備にあわせて復元工事が行われ、[[2002年]](平成14年)に完成した。この工事にあわせ、建物内部の一部のものが撤去されている。トロッコ開通により、丸山駅として停留所が新設されたが、ラック方式時代には丸山信号所としていた場所となる。なお、廃線前から秋に咲く[[コスモス]]が絵になるとして有名ではあるが、このコスモスは付近の土地所有者が植えたもので、それが増えて現在のようになっている。
 
* [[熊ノ平駅|熊ノ平信号場]]
 
*: ラック方式時代には駅として開業したもので、[[1968年]](昭和38年)の粘着式運転の開始により、その後駅は廃止され信号場となる。駅としての機能があるときには玉屋(現在は坂本にある玉屋ドライブイン)が、峠の力餅を販売していた。[[1950年]](昭和25年)に発生した土砂災害によって多くの犠牲者が発生し、殉難の碑が建立され、現在も毎年慰霊祭が行われている。慰霊碑に隣接して、熊ノ平神社もある。熊ノ平は現在、遊歩道以外は立入禁止となっている。
 
*: ラック方式時代のトンネルが 3 本、旧本線のトンネルが 4 本あるが、ラック方式時代に作られた引き上げ線となるトンネルの1本が国道18号(旧道)に続いており、業務用の出入り口として使用されていた。現在も工事車両の出入り口となっており、入口の門は施錠されている。場内には変電所も放置されたまま残っており、そこに新たに気象観測の機器も設置されている。この他アプトの碑やホーム跡も残っており、廃線当時と状態は変わっていない。
 
* ラック方式時代のトンネル・橋梁
 
*: 国道18号(旧道)沿いで、至る所に見ることができる。トンネル・カルバート・橋梁に関して、熊ノ平から横川の方には案内看板が設置されているが、軽井沢に近い中尾橋やその近くのトンネルは特に案内板などは設置されていない。旧本線に関しても案内板などの設置はない。
 
* ゴルフ場付近
 
*: [[霧積温泉]]へ通じる道路で旧本線が観察できる。[[1975年]](昭和50年)に発生した脱線転覆事故の際に出来たトンネル壁面の傷が、上り本線の第一トンネル出口に残されている。事故現場付近の植生が違っているが、旧本線から見ないとわからない状態となっている。なお、遊歩道化されていない部分の上り本線は草木が生い茂り、かなり荒れている。また、上り第一トンネル付近に出る所は吸血[[ヒル (動物)|ヒル]]が生息しているため、無用な立入りは避けたい。
 
 
 
廃線区間の注意事項:遊歩道など開放された箇所以外の立入は禁止されており、許可がない立入は[[住居侵入罪#邸宅・建造物|建造物侵入罪]]となる。特にラック方式時代のトンネルなどは経年から危険である。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
=== 注釈 ===
 
{{Reflist|group="注"}}
 
 
 
=== 出典 ===
 
{{Reflist|2}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* {{Cite journal |和書 |author = 市川潔 |title = 文学碑のある旅 -20-磯部温泉・碓氷峠(群馬県) |journal = 俳句 |volume = 32 |issue = 3 |publisher = [[角川書店]] |pages = 188 - 191 |year = 1983 |harv = ref }}
 
* {{Cite journal |和書 |author = 北河大次郎 |title = 文化を彩る近代の橋(9)わが国最大の煉瓦造橋梁 碓氷峠鉄道施設 第三橋梁 |journal = 橋梁と基礎 |volume = 41 |issue = 3 |publisher = 建設図書 |pages =54 - 56 |year = 2007 |harv = ref }}
 
* {{cite book | 和書 | author = [[久保田博]] | title = 日本の鉄道史セミナー | publisher = [[グランプリ出版]] | date = 2005年5月18日 | edition = 初版 | isbn = 978-4876872718 | ref = 久保田 (2005)}}
 
* {{Cite journal |和書 |author = 倉田正 |title = 峠物語 碓氷峠 |journal = 道路 |issue = 464 |publisher = 日本道路協会 |pages = 65 - 70 |year = 1979 |harv = ref }}
 
* {{Cite journal |和書|author = 佐藤喜久一郎 |title = 歴史叙述のなかの正当と異端 碓氷峠における佐太夫伝説とその由緒 |journal = 日本民俗学 |issue = 240 |publisher = 日本民俗学会 |pages = 29 - 58 |year = 2004 |harv =ref }}
 
* {{Cite journal |和書 |author = 田島二郎 |title = 鉄路4代 - 碓氷峠を越えて |journal = 土木学会誌 |volume = 83 |issue = 3 |publisher = 土木学会 |pages = 10 - 11 |year  = 1998 |harv = ref }}
 
* {{Cite journal |和書 |author = 鶴田治雄 |title = 光化学スモッグの碓氷峠越え 内陸域における大気汚染の動態 |journal = [[科学 (雑誌)|科学]] |volume = 55 |issue = 4 |publisher = [[岩波書店]] |pages = 239 - 243 |year = 1985 |harv = ref }}
 
* {{Cite journal |和書 |author = 中橋順一 |title = 列車の座屈現象 |journal = Railway Research Review |volume = Vol.65 |issue = No.8 |publisher = [[鉄道総合技術研究所]] |date = 2008-08 |pages = 26 - 29 |url = http://bunken.rtri.or.jp/doc/fileDown.jsp?RairacID=0004004786 |format = PDF |harv = ref }}
 
*{{cite book|和書|author=「日本の道100選」研究会|title=日本の道100選〈新版〉|publisher=[[ぎょうせい]]|editor=国土交通省道路局(監修)|date=2002-06-20|isbn=4-324-06810-0|ref=harv}}
 
* {{Cite journal |和書 |author = [[野村哲]] |title = 平成7年度 : 群馬県、碓氷川源流域にみる自然環境の形成要因 : 碓氷峠越えを困難にしている自然史的要因を探る |journal = 群馬県の地域情報に関する総合的研究:特定研究報告書 |publisher = [[群馬大学]]社会情報学部 |pages = 3 - 10 |year = 1996 |harv = ref }}
 
* {{Cite book |和書 |author = [[本田正次]] |title = 植物学のおもしろさ |publisher = [[朝日新聞社]] |series = 朝日選書 |pages = 262 - 267 |year = 1988 |isbn = 4022594667 |harv = ref }}
 
* {{Cite journal |和書 |author = 真宅正博 |author2 = 渡辺登 |title = 信越線横川-軽井沢間の電気機関車と電車の協調運転 |journal = [[鉄道ピクトリアル]] |issue = No. 213 |publisher = [[電気車研究会]] |date = 1968-08 |harv = ref }}
 
* 日本歴史地名大系(オンライン版) 小学館 (『日本歴史地名大系』 平凡社、1979年・2002年 を基にしたデータベース)
 
  
== 関連項目 ==
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群馬県西部,[[安中市]]と長野県[[軽井沢町]]との境の峠。古来[[中山道]]第1の天険といわれ,関東地方に入る要地として,東海道の箱根峠と並び称せられた。旧道は旧軽井沢から標高 1336mの峠を経て,坂本の宿駅,横川の碓氷関所に達した。 1883年旧道の南 3km,標高 956mの地点を通る道路が開け,これが改修されて現在の国道 18号線となった。次いで 1893年には,国道 18号線に近接して信越本線が横川-軽井沢間に通じ,日本最大勾配の路線区間として知られたが,1997年北陸新幹線の開通に伴い,廃線となった。峠の東側は急傾斜地が多く交通の難所であったが,1971年に横川から南へ分かれ,軽井沢の南へ出る碓氷バイパスが完成し,自動車交通は容易になった。
* [[日本の峠一覧]]
 
* [[坂東]]:碓氷峠と[[箱根峠]]より東の呼称。[[白河関]]と[[勿来関]]より南。
 
* [[入山峠]]:付近の峠
 
* 碓氷峠を通っていた古道、および現在通っている道路
 
** [[東山道]]
 
** [[中山道]]
 
** [[国道18号]]
 
** [[碓氷バイパス]]
 
** [[上信越自動車道]]
 
* 東山道と境界
 
** [[不破関]]:[[関ケ原町]]にある滋賀県と岐阜県の境
 
** [[鳥居峠 (長野県)]]:木曽地方と筑摩盆地の境
 
** [[青木峠 (長野県)]]:筑摩盆地と東信地方の境
 
** [[和田峠 (長野県)]]:諏訪盆地と東信地方の境
 
** [[白河関]]:栃木県と福島県中通りの境
 
* 鉄道関連
 
** [[碓氷馬車鉄道]]:かつて碓氷峠を通っていた馬車鉄道
 
** [[信越本線]]:かつて碓氷峠を通っていた鉄道路線。[[長野新幹線]]開業に伴い[[1997年]]9月30日の最終列車をもって当該区間廃止。
 
** [[横川運転区]]:旧称横川機関区。鉄道で碓氷峠を越える際に使用する[[補助機関車]]「[[国鉄EF63形電気機関車|EF63]]」が所属していた運転区。
 
** [[北陸新幹線]]:現在碓氷峠を通る鉄道路線。1997年10月1日、長野新幹線として先行開業。
 
** [[碓氷線]]:碓氷峠を通るバス路線
 
** [[板谷峠]]:[[奥羽本線]]・[[山形新幹線]]。碓氷峠と並ぶ鉄道の難所
 
** [[瀬野八]]:[[山陽本線]]。碓氷峠と並ぶ鉄道の難所
 
* [[美しい日本の歩きたくなるみち500選]]
 
* [[峠の釜めし]]
 
* [[頭文字D]]:[[漫画]]・[[アニメ]]。架空の設定で、[[日産自動車|日産]]・[[日産・シルエイティ|シルエイティ]]に乗り公道レースを行う女性[[走り屋]]チーム「[[頭文字Dの登場人物#インパクトブルー|インパクトブルー]]」の拠点として国道18号が劇中に登場する。
 
* [[碓氷と彼女とロクサンの。]]:[[ライトノベル]]。旧線になった横川~軽井沢間を復活させようという物語で、碓氷峠が舞台。
 
  
 
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2018/12/31/ (月) 14:21時点における最新版

碓氷峠
標高 960 m
所在地 群馬県安中市松井田町坂本長野県北佐久郡軽井沢町
位置 東経138度39分3.8秒北緯36.344889度 東経138.651056度36.344889; 138.651056
山系 関東山地
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碓氷峠(うすいとうげ)

群馬県西部,安中市と長野県軽井沢町との境の峠。古来中山道第1の天険といわれ,関東地方に入る要地として,東海道の箱根峠と並び称せられた。旧道は旧軽井沢から標高 1336mの峠を経て,坂本の宿駅,横川の碓氷関所に達した。 1883年旧道の南 3km,標高 956mの地点を通る道路が開け,これが改修されて現在の国道 18号線となった。次いで 1893年には,国道 18号線に近接して信越本線が横川-軽井沢間に通じ,日本最大勾配の路線区間として知られたが,1997年北陸新幹線の開通に伴い,廃線となった。峠の東側は急傾斜地が多く交通の難所であったが,1971年に横川から南へ分かれ,軽井沢の南へ出る碓氷バイパスが完成し,自動車交通は容易になった。