「石原慎太郎」の版間の差分

提供: miniwiki
移動先:案内検索
ja>曾禰越後守
(中華人民共和国: lk)
 
(出典)
 
(同じ利用者による、間の2版が非表示)
1行目: 1行目:
{{Otheruses|政治家|ラグビー選手|石原慎太郎 (ラグビー選手)}}
 
 
{{政治家
 
{{政治家
 
|人名 = 石原 慎太郎
 
|人名 = 石原 慎太郎
 
|各国語表記 = いしはら しんたろう
 
|各国語表記 = いしはら しんたろう
|画像 = Shintaro Ishihara 2009828.JPG
 
|画像サイズ = 200px
 
|画像説明 = [[2009年]][[8月28日]]、都知事執務室にて
 
 
|国略称 = {{JPN}}
 
|国略称 = {{JPN}}
 
|生年月日 = {{生年月日と年齢|1932|9|30}}
 
|生年月日 = {{生年月日と年齢|1932|9|30}}
48行目: 44行目:
 
|退任日6 = [[1972年]][[11月25日]]
 
|退任日6 = [[1972年]][[11月25日]]
 
}}
 
}}
'''石原 慎太郎'''(いしはら しんたろう、[[字体#旧字体|旧字体]]:石原 愼太郎、[[1932年]]([[昭和]]7年)[[9月30日]] - )は、[[日本]]の[[作家]]、[[政治家]]。
+
'''石原 慎太郎'''(いしはら しんたろう、旧字体:石原 愼太郎、[[1932年]]([[昭和]]7年)[[9月30日]] -
  
[[参議院議員]](1期)、[[環境大臣|環境庁長官]]([[福田赳夫内閣|第8代]])、[[運輸大臣]]([[竹下内閣|第59代]])、[[東京都知事]](第14代・第15代・第16代・第17代)、[[衆議院議員]](9期)、[[日本維新の会 (2012-2014)|日本維新の会]]代表、共同代表、[[次世代の党]]最高顧問を歴任した。
+
小説家,政治家。一橋大学在学中,既成価値に反逆する戦後世代を描く『太陽の季節』(1956)で[[芥川賞]]を受賞。その後,『行為と死』(1964),『化石の森』(1970,芸術選奨文部大臣賞)など,社会性に富む雄大な長編を執筆した。『狼生きろ豚は死ね/幻影の城』(1963)など戯曲も多い。1968年に 35歳で[[参議院]]議員選挙全国区で初当選して政界に進出した。1972年に[[衆議院]]議員に転じ,[[自由民主党]]の国会議員として活躍,環境庁長官,運輸大臣などを歴任した。1995年4月政治の形骸化を憂い議員辞職。1999年東京都知事選挙に無所属で立候補して当選,2003年再選,2007年 3選した。2011年 4選を果たしたが,2012年10月任期途中で国政復帰を表明し辞職した。創作活動も継続し,1995~2012年芥川賞選考委員を務めた。おもな作品に,『生還』(1988,平林たい子文学賞),『わが人生の時の時』(1990),『弟』(1996,毎日出版文化賞特別賞),『国家なる幻影 わが政治への反回想』(1999),『新・堕落論 我欲と天罰』(2011),[[盛田昭夫]]との共著『「No」と言える日本 新日米関係の方策』(1989)などがある。
 
 
== 概要 ==
 
[[ファイル:Ishihara Mishima.jpg|thumbnail|240px|[[三島由紀夫]]と。奥にいるのが石原。[[1956年]]、[[千代田区]][[紀尾井町]]の[[文藝春秋|文春ビル]]にて]]
 
[[兵庫県]][[神戸市]]生まれ{{refnest|group="注釈"|園田学園女子大学名誉教授[[田辺眞人]]によれば、「私の祖母が、そのあたり一帯のかつての[[地主]]につながる[[家柄]]だったんですが、その祖母が、石原慎太郎さんが作家デビューして有名になった頃、こんなふうにいっていたのを記憶しています。"あの人は昔、[[大手町 (神戸市)|大手]]に住んでいたんや。大手で慎太郎も[[石原裕次郎|裕次郎]]も生まれたんよ。あのへんは[[明治]]くらいまで一本松という大きな立派な[[松]]の木があって、石原一家はその松の木の南側の家に住んでいたんよ。[[山陽電気鉄道|山陽電鉄]]の[[東須磨駅]]と板宿駅の間に、昔は大手という駅があって、そのすぐそばやった。" (父親の潔さんは) そこから電車で会社に行ってはったようですよ。家は[[商船三井|山下汽船]]の社員寮で、一見[[長屋]]風だったらしい。あの辺は比較的階層が高い人が住んでいて、いわゆる[[中流階級|中産階級]]より少し上のクラスの人が住むところでした。だから社員寮もかなり立派で、造りは長屋風といっても、それぞれ独立した一軒家だったようです。もうその家はとっくにとりこわされていますし、当時のことを知る人もまずいないでしょうね」という<ref name="Sanop45"> [[佐野眞一]]著『てっぺん野郎─<span style="font-size:90%">本人も知らなかった石原慎太郎</span>』45-46頁 </ref>。}}。[[神奈川県立湘南高等学校]]、[[一橋大学法学部]]卒業<ref>[http://www.metro.tokyo.jp/GOVERNOR/profile.htm 知事の部屋/知事のプロフィール|東京都]によると、最終学歴は「一橋大学法学部卒業」となっている</ref>。
 
 
 
一橋大学では社会心理学の[[南博]]ゼミに所属。大学在学中の[[1956年]](昭和31年)に文壇デビュー作である『[[太陽の季節]]』が第34回[[芥川龍之介賞|芥川賞]]を受賞、「[[太陽族]]」が生まれる契機となる。また、同作品の[[映画]]化では弟・[[石原裕次郎|裕次郎]]をデビューさせた。作家としては他に[[芸術選奨|芸術選奨文部大臣賞]]、[[平林たい子文学賞]]などを受賞。『[[「NO」と言える日本|「NO」と言える日本 -新日米関係の方策-]]』([[盛田昭夫]]との共著)、裕次郎を題材にした『弟』は[[ミリオンセラー]]となった<ref name="isiharabungaku">{{Cite web | url = http://210.136.153.187/nbest/nbestm.html | title = 石原文学作品売り上げベスト10 | publisher = 石原慎太郎公式サイト | date = 2003 | accessdate = 2015-04-16 }}</ref>。
 
 
 
[[1968年]](昭和43年)に参議院議員となり、政治家に転ずる。[[福田赳夫内閣]]で[[環境大臣|環境庁長官]]を、[[1987年]](昭和62年)に[[竹下内閣]]で[[運輸大臣]]を歴任。[[1995年]](平成7年)議員辞職。
 
 
 
[[1999年東京都知事選挙]]に出馬。立候補の表明は有力候補中最も遅かったが、[[舛添要一]]・[[鳩山邦夫]]・[[明石康]]・[[柿澤弘治]]といった有力候補を抑え初当選する。[[2003年東京都知事選挙]]では都知事選史上最高の得票率で再選、[[2007年東京都知事選挙]]では[[浅野史郎]]らを破り3選。[[2011年東京都知事選挙]]では当初不出馬が取り沙汰されたものの、[[東国原英夫]]らを破り4選。[[2012年]](平成24年)、後継に[[猪瀬直樹]][[東京都副知事|副知事]]を指名し、次期衆議院選挙に出馬するため東京都知事を辞職。同年の[[第46回衆議院議員総選挙]]に[[日本維新の会 (2012-2014)|日本維新の会]]の候補として[[比例東京ブロック]]で当選し17年ぶりに国政に復帰。その後同党の分裂と[[次世代の党]]の結党に参加。[[2014年]]の[[第47回衆議院議員総選挙]]では党の熱意により落選覚悟で出馬、落選の確定を受けて政界引退。
 
 
 
[[趣味]]は[[サッカー]]、[[ヨット]]、[[テニス]]、[[スキューバダイビング]]、[[射撃]]<ref name="isiharakousiki">{{Cite web | url = http://210.136.153.187/index.html | title = 石原慎太郎公式サイト | accessdate = 2015-04-16 }}</ref>。実弟は俳優の[[石原裕次郎]]。長男は[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]衆議院議員の[[石原伸晃]]。次男は俳優・タレント・気象予報士の[[石原良純]]。三男は[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]衆議院議員の[[石原宏高]]。四男は画家の[[石原延啓]]。
 
 
 
== 経歴 ==
 
=== 学生時代 ===
 
[[湘南高校]][[サッカー]]部、[[一橋大学]][[柔道]]部、サッカー部と[[体育会系]]の一面も持つ。サッカーに関しては高校大学ともにレギュラーで試合に出場している。文芸評論家の[[江藤淳]]とは同級生であり、ともに高校の先輩である歴史学者[[江口朴郎]]宅に訪問したりしていた<ref>新潮日本文学〈62〉石原慎太郎集 (1969年)譜</ref>。江藤とは作家となってから共著を出版<ref>江藤淳・石原慎太郎 著『断固「No」と言える日本 戦後日米関係の総括』光文社カッパ・ホームス、1991年。</ref>するなど、1999年に江藤が自死するまで交流があった。文学では、[[ジャン・コクトー]]や[[レイモン・ラディゲ]]、[[アーネスト・ヘミングウェイ]]を読んでいたという<ref name="asami"/><ref name="kurihara19"/>。
 
 
 
[[公認会計士 (日本)|公認会計士]]になるために一橋大学に入学したものの、会計士には向かないことを自覚した慎太郎は、休刊していた一橋大学の同人誌『一橋文藝』の復刊に尽力する。ある日、[[神田 (千代田区)|神田]]の一橋講堂で「[[如水会]]」(一橋大学の[[OB・OG|OB]]会)主催の公開講座にOBの[[伊藤整]]が来た際、受付にいた慎太郎は伊藤の講演記録をとり、それを『一橋文藝』に掲載してもよいか伊藤に訊ねた<ref name="itosei">[[伊藤整]]「石原慎太郎君のこと」(『新鋭文学叢書』月報)([[筑摩書房]]、1960年)</ref>。その翌年、同人誌は刷れたが金が足りずに困り、慎太郎は友人と[[久我山]]に住む伊藤に資金援助を頼みに行った。その時のことを伊藤は以下のように述懐している<ref name="itosei"/>。
 
{{Quotation|石原君が西原君だったかもう一人の学生とやって来て、その雑誌が出来たのだが、金が足りなくて[[印刷所]]から引きとれないと言って、七千円だったか八千円だったかの金がほしいと言った。そのときも私は石原という名前を知らず、背の高い学生だな、と思っただけである。だが、そのもらい方がとてもよかったことが印象に残っている。押しつけがましくもなく、しつこく説明するのでもなく、冗談のようでもなく、素直さと大胆さが一緒になっている、特殊の印象だった。すぐ私は出してやる気になった。そのあとで私は、妙な学生だな、あれは何をやっても成功する人間かもしれない、と考えた。|[[伊藤整]]「石原慎太郎君のこと」<ref name="itosei"/>}}
 
 
 
慎太郎はこの同人誌に処女作である『灰色の教室』を発表し、文芸評論家の[[浅見淵]]に激賞されて自信をつけたのをきっかけに、第2作目の『[[太陽の季節]]』を執筆することになる<ref name="kurihara19"/>。
 
 
 
『太陽の季節』を引っ提げて華々しくデビューしたとき、[[マスメディア|マスコミ]]は慎太郎をこぞってとりあげた。以下はそのうちの一つ。
 
 
 
{{quotation|慎太郎が高校一年の時だった。[[日本の学生運動|学生運動]]が盛んになろうとしていた昭和23年に、民主学生同盟にいち早く入り、学内に社会研究会を作った。[[日本共産党]]へのヒロイックな気持にかられていた時、母は“大衆のために両親や弟を、そして地位も財産も捨て、獄につながれても後悔しない自信があるなら、私は反対しないが、その覚悟をしてほしい。それならお父さんが、どんなに反対しても、私は賛成する” この言葉にそのあくる日から彼は学生運動を離れている。|[[サンデー毎日]]1956年9月9日号「五つの道をゆく“石原慎太郎”批判」}}
 
 
 
石原は後にこの点について、『芸術生活』編集長・御木白日との対談の中で「女親っていうのはバカだから。主義主張が母親の意見で変わるなんてウソですよ。精神風俗としてそういうものに興味をもったから、親が心配したというだけの話です」と否定的に語っている<ref>『てっぺん野郎』195-196頁</ref>。
 
 
 
=== 作家として ===
 
{{Infobox 作家
 
| name = 石原 慎太郎<br />(いしはら しんたろう)
 
| birth_date =
 
| birth_place =
 
| death_date =
 
| death_place =
 
| resting_place =
 
| occupation = [[作家]]
 
| language = [[日本語]]
 
| nationality = {{JPN}}
 
| period = [[1955年]] -
 
| genre = [[小説]]・[[随筆]]・[[評論]]
 
| subject = 不可知なもの、暴力、生と死
 
| movement = 怒れる若者たち
 
| notable_works = 『[[太陽の季節]]』(1955年)<br />『[[処刑の部屋]]』(1956年)<br />『[[亀裂 (小説)|亀裂]]』(1958年)<br />『[[化石の森 (石原慎太郎)|化石の森]]』(1970年)<br />『[[わが人生の時の時]]』(1989年)<br />『[[弟 (小説)|弟]]』(1996年)
 
| awards = [[文學界新人賞]](1955年)<br />[[芥川龍之介賞]](1956年)<br />[[芸術選奨]](1971年)<br />[[平林たい子文学賞]](1988年)<br />[[毎日出版文化賞]]特別賞(1996年)<br />[[文藝春秋読者賞]](1969年、2001年)
 
| debut_works = 『灰色の教室』(1954年)
 
| footnotes =
 
}}
 
 
 
[[一橋大学]]在学中に、『[[太陽の季節]]』で、第1回(1955年度)[[文學界新人賞]]と、第34回(1955年下半期)[[芥川龍之介賞|芥川賞]]を受賞した。作品にみなぎる若々しい情熱や生々しい風俗描写、反倫理的な内容が賛否両論を巻き起こした<ref name="bungakukai">「『太陽の季節』および[[文學界新人賞]]選評」([[文學界]] 1955年7月号に掲載)</ref><ref name="akutagawa">「第34回芥川賞選評(1956年1月23日選考)」([[文藝春秋]] 1956年3月号に掲載)[http://homepage1.nifty.com/naokiaward/akutagawa/senpyo/senpyo34.htm 芥川賞-選評の概要-第34回]</ref>。同作が映画化された際には、“太陽族”という流行語が生まれた<ref>{{kotobank|太陽族|2=デジタル大辞泉}}</ref>。
 
{{main|太陽の季節}}
 
 
 
その後『[[処刑の部屋]]』 (映画原作)、『[[聖餐 (小説)|聖餐]]』といった現代の世相を鋭くえぐり出すのが特徴の同種の作品を多数発表した。[[1970年]](昭和45年)に『[[化石の森 (石原慎太郎)|化石の森]]』で[[芸術選奨]]文部大臣賞、[[1988年]](昭和63年)『生還』で[[平林たい子文学賞]]を受賞。弟裕次郎を描いた[[1996年]](平成8年)の『[[弟 (小説)|弟]]』は120万部を売り上げ、[[毎日出版文化賞]]特別賞を受賞。
 
 
 
また1969年『日本について語ろう』([[小田実]]と共著)、2001年『わが人生の時の人々』で、いずれも[[文藝春秋読者賞]]を受賞している。
 
 
 
[[1995年]]から[[2012年]]まで芥川賞の選考委員を務めた。辛口の批評も多かったが、[[又吉栄喜]]、[[辻仁成]]、[[花村萬月]]、[[町田康]]、[[青来有一]]、[[中村文則]]、[[青山七恵]]、[[西村賢太]]など強く推して受賞に至った作家もいる。また[[1992年]]から[[1999年]]まで[[三島由紀夫賞]]選考委員を務めた。
 
 
 
創作以外にも多くの著作があり、『[[スパルタ教育]]』 ([[1969年]]、70万部) 『[[「NO」と言える日本]]』 ([[1989年]]、125万部)、『法華経を生きる』 ([[1998年]]、33万部) 『老いてこそ人生』 ([[2002年]]、82万部)、『新・堕落論』([[2011年]]、25万部)、『[[天才 (石原慎太郎の作品)|天才]]』([[2016年]]、92万部)などがベストセラーとなっている。
 
 
 
映像作家としては、弟の裕次郎を世に送り出すことになった自作の映画化『狂った果実』で脚本を担当して以降、映画やテレビで自作小説の脚色を多く手がけている他、[[1958年]](昭和33年)、[[東宝映画]]『若い獣』で初[[映画監督|監督]]を務める。[[2007年]](平成19年)5月には“特攻の母”と呼ばれた[[鳥濱トメ]]と特攻隊員の交流にスポットを当てた映画『[[俺は、君のためにこそ死ににいく]]』を発表。制作・指揮・脚本を手がけた。石原は、[[内閣総理大臣|首相]]だった[[宮澤喜一]]に、鳥濱トメに[[国民栄誉賞]]を贈るよう進言したことがある<ref>[http://eiga.com/news/20050823/13/ 石原都知事が製作する特攻隊映画 ]2005年8月23日</ref>。映画公開同年、鹿児島の「知覧特攻平和記念会館」内に自らデザインした鳥濱への顕彰碑を建てた<ref>[http://www.toei.co.jp/release/movie/1173895_979.html 鳥濱トメさん顕彰碑」除幕式レポート] 2007年10月5日</ref>。顕彰碑には、石原による文言、「トメさんは、人々を救う菩薩でした」などが刻まれている<ref>[http://www.47news.jp/CI/200710/CI-20071004-10956476.html 「特攻の母」顕彰碑建立 知覧町] 2007/10/04付 西日本新聞朝刊</ref>。
 
 
 
[[俳句]]については、[[日本人]]の感性ならではの定型詩とする見解である。[[数学者]]の[[岡潔]]の「[[松尾芭蕉|芭蕉]]の俳句研究で[[数学]]の難問を解けた」とする述懐を紹介しながら日本の俳句について度々話している<ref name="okakiyoshi">「【日本よ】石原慎太郎 花見の頃に」産経2009年4月7日</ref><ref group="注釈">「数学の世界で世界的な業績を残した岡潔氏が、[[ハルトークス]]の残した数学での難問の多くをわずかな時間で解いてしまったのは、岡氏自身の述懐だと芭蕉の俳句の研究に没頭し、芭蕉が名句をものしたとほぼ同じ季節を選んで『[[奥の細道]]』を旅して、芭蕉が眺めたと同じ風物を同じ季節同じ時刻に眺め彼の名句を観賞したことによるそうな」と石原は紹介している</ref>。
 
 
 
政界進出以降、発表する作品数は減ったものの、一貫して創作活動を行った。
 
 
 
==== 評価 ====
 
* 作家としての石原は、[[田原総一朗]]<ref>[http://blogos.com/article/186291/ 田原総一朗×石原慎太郎「田中角栄論」]BLOGOS</ref>・[[水道橋博士]]<ref>[https://twitter.com/s_hakase/status/788001034140397568 2016年10月17日のツイート]</ref>・[[豊崎由美]]・[[栗原裕一郎]]<ref>[http://lite-ra.com/2014/06/post-175.html "同性愛嫌い"の石原慎太郎が書いた「BL小説」がすごい]リテラ</ref>などのような国家観の異なる者からも高く評価されている。
 
* 1957年10月『新潮』に発表した『[[完全な遊戯]]』について、[[高見順]]宅へ行った際、『群像』編集長の[[大久保房男]]と口論になり、『群像』には一度も執筆していない<ref>西村賢太との対談『en-taxi』2011年7月</ref>。
 
* 1959年(昭和34年)に文芸雑誌『文學界』8月号に発表した実験的[[ジャズ]]短編小説『[[ファンキー・ジャンプ]]』を[[三島由紀夫]]は見事な傑作と述べ、「現実の脱落してゆくありさまを、言葉のこのやうな脱落でとらへようとする(石原)氏の態度には、小説家といふよりは一人の逆説的な詩人があらはれてゐる」と評した<ref>三島由紀夫 著『美の襲撃―評論集』「石原慎太郎氏の諸作品」1961年。</ref><ref>三島由紀夫 著『決定版 三島由紀夫全集〈31〉評論(6)』「石原慎太郎氏の諸作品」 新潮社、2003年、6月。</ref>。
 
* 文芸評論家[[福田和也]]は、日本の現役小説家を採点した自著『[[作家の値うち]]』([[2000年]])の中で『[[わが人生の時の時]]』に100点満点中96点と最高点を付け、情景の鮮烈さが特に魅力的で、「数世紀後に、20世紀日本文学をふり返った時に名前が挙がるのはこの作品ではないだろうか」と評した<ref name="fukuda">[[福田和也]] 著『作家の値うち』([[飛鳥新社]]、2000年)132頁</ref><ref name="kurihara310">『石原慎太郎を読んでみた』22頁、310-311頁</ref>{{refnest|group="注釈"|同点の最高点96点は他に、[[村上春樹]]の『[[ねじまき鳥クロニクル]]』と、[[古井由吉]]の『[[仮往生伝試文]]』を福田和也は挙げている。それぞれ216頁と199頁<ref name="fukuda"/>。}}。
 
* 季刊文芸誌「en-taxi」2013年11月号のインタビューで[[集英社]]の文芸誌『[[すばる]]』の女性編集長に、三国人発言を理由に、作品の掲載を拒否されたエピソードを明かしている<ref>[http://biz-journal.jp/2013/12/post_3633.html 石原慎太郎、集英社に小説売り込むも拒絶される…徳洲会事件で検察が追及の可能性も | ビジネスジャーナル]</ref>。
 
 
 
=== 国会議員時代 ===
 
[[ベトナム戦争]]を取材した経験から政治家を志し、[[田中角栄]]の金権選挙を批判。[[1968年]](昭和43年)に[[第8回参議院議員通常選挙]]に[[全国区]]から[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]公認で出馬、史上最高の301万票を集めて初当選。[[1972年]](昭和47年)、[[第33回衆議院議員総選挙]]に当選、衆議院に鞍替えする。[[1973年]](昭和48年)、[[田中角栄]]による[[中華民国]]と国交断絶し、[[中華人民共和国]]と国交を結ぶ『[[日中国交正常化]]』に反対し、反共を旗印に政策集団「[[青嵐会]]」を結成する。[[1975年]](昭和50年)、[[1975年東京都知事選挙|東京都知事選挙]]に出馬、[[美濃部亮吉]]の[[革新自治体|革新都政]]に挑戦するも、僅差で敗れる。
 
 
 
翌[[1976年]](昭和51年)、[[第34回衆議院議員総選挙]]で国政復帰。選挙後に発足した[[福田赳夫内閣]]で[[環境大臣|環境庁長官]]にとして初入閣。在任中は[[水俣病]]補償問題に取り組み、[[日本国政府]]として謝意を表明し話題になった。一方で「ニセ患者もいる。」「患者団体が政治組織に利用されている。」と発言を行い、胎児性水俣病患者の上村智子に[[土下座]]して陳謝する一幕もあった。
 
 
 
[[1979年]](昭和54年)、青嵐会の後継団体として[[自由革新同友会]]を結成するも勢いが振るわず、[[1984年]](昭和59年)、[[清和政策研究会]]に合流する。
 
 
 
[[1987年]](昭和62年)、[[竹下内閣]]で[[運輸大臣]]に就任。[[1988年]](昭和63年)5月に[[成田国際空港|新東京国際空港]]を視察する。その際、[[成田新幹線]]用に造られ、放置されたままになっている[[成田空港駅]]を見学した。成田新幹線は、沿線[[住民]]の建設反対運動や、[[日本国有鉄道]]財政悪化の影響で建設工事がほとんど進まず、前年の[[国鉄分割民営化]]で、工事計画そのものが失効したが、[[成田線]]と交差する位置から[[成田空港駅]]までは、ほぼ工事が完成していた。その出来上がっている成田空港駅を見学した石原は、法規制に縛られている[[新東京国際空港公団]]関係者の懸念をよそに「既存の鉄道を入れろ」と発言し、その年の10月には[[上下分離方式]]の[[成田空港高速鉄道]]が設立され、2年半後の1991年(平成3年)3月には[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]と[[京成電鉄]]が成田空港駅に乗り入れを開始した<ref name="naritakukokosokutetudo">(参考文献「航空『2強対決』11選」[[杉浦一機]]著 [[中央書院]]発行)</ref>。
 
{{see also|成田空港高速鉄道|成田新幹線}}
 
[[1989年]]([[平成]]元年)、[[亀井静香]]・[[平沼赳夫]]・[[園田博之]]らに推される形で、[[1989年8月自由民主党総裁選挙|総裁選挙]]に出馬するも、[[経世会]]が推す[[番町政策研究所|河本派]]の[[海部俊樹]]に敗れる。[[1990年]](平成2年)の[[第39回衆議院議員総選挙]]で、[[東京都第4区 (中選挙区)|旧東京4区]]で長男の[[石原伸晃|伸晃]]が初当選し、父子揃って衆議院議員となる。[[1995年]](平成7年)[[4月14日]]、議員在職25年表彰を受けての衆議院[[本会議]]場での演説中、「[[日本の政治]]は駄目だ。失望した」という趣旨の発言を行ない、衆議院議員を辞職した(最初の地盤継承者は[[栗本慎一郎]])。
 
 
 
=== 東京都知事時代 ===
 
[[File:Shintaro Ishihara, 2006-Sep-1 Rev.jpg|thumb|都知事時代([[2006年]][[9月1日]])]]
 
{{main|石原都政}}
 
議員辞職から4年後の1999年4月、[[1999年東京都知事選挙|東京都知事選挙]]に立候補。先に立候補を表明していた並み居る政治家を尻目に圧勝する。以降、4期14年の長期政権を築き、様々な政策を推し進める。2011年に4期目に入ったころから国政の政権与党である[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]の混乱の中で「次の首相」候補として名前が取りざたされる。2012年10月、石原は4期目途中で知事職を辞任し、国政へ復帰した。
 
 
 
=== 衆議院議員復帰後 ===
 
==== 国会質疑 ====
 
衆院選当選時に80歳と高齢でありながら、党を代表して[[国会]]での質疑に立っている。
 
国政復帰初の2013年2月12日の国会質疑を「[[国民]]への遺言」とした<ref name="sinkanjp2013">[http://www.sinkan.jp/special/adbook/run_wildly/?link=index [[西条泰]] 『石原慎太郎 「暴走老人」の遺言』 石原慎太郎が国民に残した「遺言」]新刊JP</ref>。
 
同年4月17日と12月4日には安倍首相との[[党首討論]]に臨んでおり、10月16日には[[衆議院]][[本会議]]において[[代表質問]]を行った。
 
 
 
==== 憲法 ====
 
国政復帰後は、主に自主憲法の制定を強く訴えている<ref>国会質疑等</ref>。現行憲法は、前文は極めて醜い日本語で、歴史的正当性がなくアメリカが日本の解体統治のために一方的に速成したものだとして、衆議院本会議で質問に立った際に変更を促した<ref>2013年10月16日 衆議院本会議等</ref>。
 
 
 
==== 脳梗塞発症 ====
 
石原は、議員当選後に「体調不良」から入院し、姿を見せない時期がしばらく続いていた。これに対し、2013年3月28日に『週刊新潮』が「[[菅直人]]の周辺が石原の[[脳梗塞]]発症説を漏らしている」と報じた<ref>[http://www.zakzak.co.jp/society/politics/news/20130328/plt1303281140003-n1.htm 石原慎太郎氏に脳梗塞報道 事務所は否定]zakzak 2013年3月28日</ref>。その後、3月30日に退院した石原は、復帰に伴う[[記者会見]]において「軽い脳梗塞」を発症していたことを認めた<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20130330-OYT1T00594.htm 石原氏「入院は軽い脳梗塞、政治活動は継続」]読売新聞 2013年3月30日</ref>。
 
 
 
==== 経済・財政 ====
 
;アベノミクスに関して
 
:[[2013年]][[2月12日]]、石原慎太郎は[[予算委員会#衆議院予算委員会|衆院予算委員会]]において「何としても[[アベノミクス]]を成功させて欲しい」と応援する発言をした<ref>{{Cite web | title = 2013年2月12日(火) 予算委員会 | url = http://www.shugiintv.go.jp/jp/index.php?ex=VL&deli_id=42394&media_type=fp | publisher = 衆議院インターネット審議中継 | date = 2013-02-12 | accessdate = 2013-02-13}}</ref><ref>{{Cite web | title = <nowiki>H25/2/12</nowiki> 衆院予算委員会・石原慎太郎【安倍内閣の政治姿勢集中審議】1/2 | url = http://nicoviewer.net/sm20068197 | date = 2013-02-12 | accessdate = 2013-02-13}}</ref><ref>{{Cite web | title = <nowiki>H25/2/12</nowiki> 衆院予算委員会・石原慎太郎【安倍内閣の政治姿勢集中審議】2/2 | url = http://nicoviewer.net/sm20068311 | date = 2013-02-12 | accessdate = 2013-02-13}}</ref>。
 
 
 
==== 国家の会計制度 ====
 
:[[2013年]][[2月12日]]、石原は[[衆議院|衆院]][[予算委員会]]において「日本の国家の会計制度に懸念を持っている。これを合理化して企業並みにしないと、アベノミクスのバリアになる。この国には健全な[[貸借対照表|バランスシート]]、[[財務諸表]]がない。国は何で[[外部監査制度|外部監査]]を入れないのか。アベノミクスを成功させるためにも会計制度を一新させる必要がある。会計制度を変えると税金の使途がハッキリ分かる」と[[安倍晋三|安倍総理]]および[[麻生太郎|麻生副総理]]に、石原が都知事時代に東京都の会計に採用した複式簿記・発生主義会計制度を国家の会計制度にも導入するよう提言を行った<ref>{{Cite web | title = 【石原氏の質疑詳報(下)】「子孫のために環境問題アピールを」(2/7ページ) | url = http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130213/plc13021310130011-n2.htm | publisher = 産経新聞 | date = 2013-02-13 | accessdate = 2013-02-13}}</ref>。
 
 
 
==== 維新の会分党、次世代の党結党へ ====
 
[[日本維新の会 (2012-2014)|日本維新の会]]では[[大阪維新の会|大阪系]]の議員らと政策や党運営で対立する局面がたびたびあったが、原子力政策を巡っては2014年3月に石原が会長を務める党エネルギー調査会の初会合で講演中、当時会期中の[[第186回国会]]で採決予定だった[[トルコ]]などへの[[原発]][[輸出]]を可能にする原子力協定について、党が昨年12月の[[両院議員総会]]で多数決で原子力協定反対を決めたことを「ばかばかしい。高校の生徒会のやり方だ」と批判。その上で「私は採決のとき賛成する」と明言した。党の方針に背いて独自に行動することを宣言したことに反発した大阪系の[[浦野靖人]]衆院議員(当選1回)が「(党の決定に)反対なら党から出ていったらよろしい」と発言、他の複数の大阪系議員も同調した<ref>{{Cite web|date=2014-03-06 |url=http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140306/stt14030621230005-n1.htm |title=維新・石原代表が原子力協定に賛成表明 大阪系「出て行け」と反発 |newspaper=MSN産経ニュース |accessdate=2014-08-08}}</ref>
 
 
 
さらに[[結いの党]]との合併協議に際しては「結いの党は[[護憲]][[政党]]だ」などとして否定的なスタンスをつらぬき、新党の綱領に自主憲法制定を目指すなどの文言を入れることに固執。あくまで意見の隔たりの大きい結いと合流し政界再編を目指す橋下共同代表や[[松野頼久]]国会議員団幹事長らとの決裂が決定的となった<ref>{{Cite web|date=2014-04-10|url=http://www.yomiuri.co.jp/feature/TO000307/20140410-OYT1T50142.html|title=「結いは護憲政党」…維新・石原氏、合流に慎重|newspaper=読売新聞|accessdate=2014-08-08}}</ref>。
 
 
 
2014年5月28日付で日本維新の会からの分党を表明<ref>{{Cite web|date=2014-05-28|url=http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140528/stt14052819010003-n1.htm|title=【維新分党】再び石原氏新党結成へ 結い合流めぐり橋下氏と決裂|newspaper=MSN産経ニュース|accessdate=2014-06-05}}</ref>、同6月5日付で「新党準備会」を発足<ref>{{Cite web|date=2014-06-06|url=http://www.nikkei.com/article/DGXNASFS05037_V00C14A6PP8000/|title=維新、橋下系37人・石原系は23人 野党再編に一歩|newspaper=日本経済新聞|accessdate=2014-06-06}}</ref>。石原グループの離党ではなく一度解散したうえでの分党([[政党助成法]]上の[[分割]])という手続きを取ることで、維新が受け取るはずだった政党助成金は議員数に比例して橋下グループの新党「日本維新の会」と石原グループ「次世代の党」の両者に按分される。
 
 
 
7月30日までに、両者間で[[政党助成金]]の分配額など、分党に必要な手続きに関する協議を終え、7月31日[[総務省]]への解散届出をもって正式に分党。翌8月1日に[[平沼赳夫]]を党首として新党「[[次世代の党]]」を発足・総務省へ届け出、石原は党最高顧問に就任した。
 
 
 
2014年11月に衆議院解散が確定的となると、石原は高齢を理由とした自らの体調不安から選挙前の引退を示唆した。しかし、党内からの強い希望もあり、比例単独候補(東京ブロック)として出馬を決断。石原本人の希望により「後輩を一人でも多く当選させたい」として比例順位は最下位にあたる9位だった<ref name="2014shugin">[http://www.sankei.com/politics/news/141129/plt1411290011-n1.html 次世代・石原慎太郎氏は比例名簿下位に「後輩を1人でも多く」]産経新聞 2014年11月29日配信</ref>。結果として次世代の党は石原が出馬した東京ブロックを含む全ての比例ブロックで議席を獲得するには至らず、石原は落選。選挙後の2014年12月16日に記者会見を開き、政界引退を表明した<ref name="intaikaiken">[http://www.sankei.com/politics/news/141216/plt1412160039-n1.html 【さらば石原慎太郎】引退会見詳報(1) - 産経ニュース ]産経新聞 2014年12月16日配信</ref>。会見で「歴史の十字路に何度か自分の身をさらして立つことができたことは政治家としても物書きとしてもありがたい経験だった」と述べ、わりと晴れ晴れとした気持ちで政界を去れるとの見解を述べた<ref name="intaikaiken"/>。
 
 
 
2015年春の褒章で[[旭日大綬章]]受章。
 
 
 
=== 政界引退後 ===
 
==== 百条委員会への証人喚問 ====
 
[[豊洲市場]]の土壌汚染([[築地市場移転問題]])に関連し、土地購入をめぐる責任を理由として石原が東京都に578億円の賠償することを求める[[住民訴訟]]があり、東京都は2017年1月に石原の法的責任調査に乗り出した。また都議会に設置される[[百条委員会]]において同年3月20日に石原が出頭した。先立つ3月3日に石原は会見し、自らに責任は無く、豊洲は安全であり速やかに豊洲移転を行わない[[小池百合子]]知事に責任があると糾弾したが、これに対し小池知事からは「人の責任と言うのは簡単」と批判された。
 
 
 
なお、石原は交渉にはまったく関与していないと証言で述べたものの、一橋大学OB会の[[如水会]]で東京ガスの[[上原英治]]社長と豊洲移転について語っている<ref>[http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201703/CK2017031202000144.html 「豊洲百条委「石原氏、東ガス社長と会談」 大矢氏証言 会見と食い違い」]東京新聞2017年3月12日 朝刊</ref><ref>[http://www.sankei.com/affairs/news/170311/afr1703110049-n1.html 「(7)上原英治東京ガス元会長「都に豊洲には土壌汚染があると強調した」」]産経ニュース2017.3.11 20:31</ref>。
 
 
 
百条委に都が提出した資料に石原都知事への青島幸男元知事からの引継ぎ書類が有り、そこに豊洲に移転させる方向性が示され、それ以外の候補地は記されていないことが、証人喚問に先立つ10日分かった。3日の記者会見で「知事就任早々に、豊洲移転は既定路線と聞いた」と説明しており、それを裏付ける資料となる。<ref>東京新聞 2017年3月10日 夕刊</ref>
 
 
 
石原の言う豊洲の安全性について、「建屋の安全性」には2016年12月末に検査済み証が交付され、「地下ピットの揮発性ガス」は換気すれば問題なしとの調査が発表され、「地下水の安全性」には2点目を含め専門家らが小池の姿勢に疑問を呈しいる。<ref>『豊洲移転』櫻井よしこ「産経新聞」2017.4.3</ref>
 
 
 
=== 略年譜 ===
 
* [[1932年]](昭和7年)
 
** [[9月30日]] - [[兵庫県]][[神戸市]][[須磨区]]にて海運会社[[商船三井|山下汽船]]に勤める[[石原潔]]・光子の長男として生まれる。父・潔は[[愛媛県]][[長浜町 (愛媛県)|長浜町]](現[[大洲市]])に生まれ、旧制宇和島中学(現在の[[愛媛県立宇和島東高等学校|宇和島東高校]])を[[中退]]し山下汽船に入社した。店童(てんどう)あがりだったにもかかわらず{{refnest|group="注釈"|店童(てんどう)とは、海運会社独特の制度で、商店でいえば[[丁稚]]に相当し、宿舎と[[食事]]は確保してくれる代わりに、[[給料]]は一切なかった。[[便所]]掃除、[[社員]]の[[靴]]磨き、使い走り。店童(てんどう)は上司から命じられれば何でもやらなければならなかった。時には、[[質屋|質]]入れや、なじみの[[遊郭]]の[[女郎]]に[[菓子]]を届けることまでやらされた<ref name="Sanop2835">『てっぺん野郎』28-35頁 </ref>。}}最後は[[関連会社]]の[[重役]]にまで出世した<ref name="Sanop2835"/>。母・光子は[[広島県]][[厳島]]の出身<ref name="tv-asahi-mother-20224">{{Cite news |url = http://www.tv-asahi.co.jp/mother/contents/100/backnumber/20224.html |title = 石原慎太郎・裕次郎の母 |work = [[グレートマザー物語]] |publisher = [[テレビ朝日]] |date = 2002-02-24 | accessdate = 2017-02-16 |archiveurl = http://web.archive.org/web/20021202203720/http://www.tv-asahi.co.jp/mother/contents/100/backnumber/20224.html |archivedate = 2002-12-02 }}</ref><ref group="注釈">母・光子が広島県人であるのは古くから知られていた。1971年に出版された『日本人研究 <第2巻>』 ([[板坂康弘]]著、流動) 広島県人の項、259-260頁に「石原慎太郎は父の勤務につれてあちこちで育ったが、血脈は広島である。石原も躁鬱気質の典型的な[[広島県]]人」と論じている。</ref>。なお石原自身は[[神奈川県]]を出身地としている<ref>『人事興信録』</ref>。
 
* [[1934年]](昭和9年)
 
** 12月28日 - 弟・[[石原裕次郎|裕次郎]]が生まれる。
 
* [[1936年]](昭和11年)
 
** 6月 - 父の転勤に伴い、[[北海道]][[小樽市]]に転居<ref name="Sanop476">『てっぺん野郎』476頁</ref>。小樽に来て間もなくマリア幼稚園(現[[小樽藤幼稚園]])に入園<ref name="Sanop124129">『てっぺん野郎』124-129頁</ref>。
 
* [[1939年]](昭和14年)
 
** - [[小樽市立稲穂小学校|稲穂小学校]]に入る<ref name="Sanop124129"/>。
 
* [[1943年]](昭和18年)
 
** 2月 - 父の転勤に伴い、神奈川県[[逗子市]]に転居<ref name="Sanop476"/>。石原一家が逗子で最初に住んだ桜山の家は山下汽船創業者[[山下亀三郎]]の別邸<ref>『てっぺん野郎』180頁</ref>。
 
* [[1945年]](昭和20年)
 
** 4月 - 神奈川県立湘南中学(後の[[神奈川県立湘南高等学校]])へ進学。
 
* [[1946年]](昭和21年)
 
** [[極東国際軍事裁判|東京裁判]]を二度傍聴する<ref>2014年(平成26年)2月12日 衆議院予算委員会</ref>。
 
* [[1948年]](昭和23年)
 
** 立身出世主義的な校風に反撥し、胃腸の病を口実に1年間[[休学]]<ref>[http://www.sensenfukoku.net/novel/novelm.html 石原慎太郎公式ウェブサイト 宣戦布告 鮮烈デビュー『太陽の季節』芥川賞受賞]</ref>。休学中は[[文学]]・[[美術]]・[[演劇]]・[[音楽]]・[[映画]]に耽溺し、[[フランス語]]を学習。
 
* [[1951年]](昭和26年)
 
** 10月 - 父が[[脳溢血]]で急死。山下近海汽船[[社長]][[二神範蔵]]から一橋大への進学と、当時できたばかりの[[公認会計士]]の取得を強くすすめられる<ref name="Sanop217219">『てっぺん野郎』217-219頁</ref>。
 
* [[1952年]](昭和27年)
 
** 4月 - [[一橋大学法学部]]に入学<ref name="Sanop217219"/>{{refnest|group="注釈"|[[佐野眞一]]は、「ちなみに一橋大には[[商学部]]、[[経済学部]]、法学部、[[社会学部]]の四学部があり、[[入学試験]]は第二志望まで希望することができた。慎太郎は[[公認会計士 (日本)|公認会計士]]を目指していたので、おそらく商学部を志望していたはずである。だが入学試験の成績が第一志望の商学部の水準に達しなかったのか、実際に入ったのは法学部だった」としている<ref name="Sanop217219"/>。なお新制大学への移行当時は、商学部・経済学部・法学社会学部の3学部であったが、慎太郎が入学する前年の1951年(昭和26年)に[[学部]]改組が行われ、法学社会学部が法学部と社会学部に分離した<ref>([http://passnavi.evidus.com/search_univ/0330/campus.html 一橋大学/キャンパスガイド|大学受験パスナビ:旺文社])</ref>。}}。[[柔道]]部、[[サッカー]]部に入部する。[[簿記]]や[[会計学]]などの勉強に励んだが半年間やってみて向いていないと悟り公認会計士になることを断念する<ref name="Sanop217219"/>。
 
* [[1954年]](昭和30年)
 
**学内同人誌『一橋文芸』の復刊に尽力する。
 
**12月 - 処女作『灰色の教室』を同人誌に発表(復刊第1号)、文芸評論家の[[浅見淵]]に評価される<ref name="asami">[[浅見淵]]『浅見淵著作集第1巻』([[河出書房新社]]、1974年)</ref><ref name="kurihara19">[[栗原裕一郎]]・[[豊崎由美]]『石原慎太郎を読んでみた』([[原書房]]、2013年)19頁、28頁</ref>。
 
* [[1955年]](昭和30年)
 
** 12月 - 当時18歳だった石田由美子(後に典子と改名)と[[結婚]]。『[[太陽の季節]]』が『[[文學界]]』に掲載され、第1回[[文學界新人賞]]を受賞。[[東宝]]の入社試験に合格し、助監督としての内定を得る。
 
* [[1956年]](昭和31年)
 
** 1月 - 『太陽の季節』により第34回[[芥川龍之介賞|芥川賞]]を当時史上最年少で受賞、[[ベストセラー]]となる。一橋大学[[法学部]]を卒業。東宝に入社するもまもなく退社し、嘱託となる。『太陽の季節』が日活で映画化され、弟・裕次郎が日活俳優としてデビューする。また自らも映画初出演を果たし、「[[太陽族]]」、「[[スポーツ刈り#慎太郎刈り|慎太郎刈り]]」が流行する。
 
**: 映画『太陽の季節』が公開された際、登場人物が[[強姦]]・[[不健全性的行為|不純異性交遊]]等を行う反社会的内容から映画を見た[[青少年]]への影響が取りざたされ、[[映画倫理委員会]](通称、映倫) が作られる契機となった<ref>「太陽族映画に反発 各地で観覧を禁止」『朝日新聞』1956年8月3日付朝刊。</ref>。
 
* [[1957年]](昭和32年)
 
** 4月19日 - 長男・[[石原伸晃|伸晃]]が誕生。
 
* [[1958年]](昭和33年)
 
** - [[東宝]]で映画『若い獣』の[[監督]]を務める。また、[[大江健三郎]]、[[江藤淳]]、[[谷川俊太郎]]、[[寺山修司]]、[[浅利慶太]]、[[永六輔]]、[[黛敏郎]]、[[福田善之]]ら若手文化人らと「[[若い日本の会]]」を結成し、[[安保闘争|60年安保]]に反対。
 
* [[1960年]](昭和35年)
 
** - 隊長として、南米横断1万キロ・[[ラリー]]に[[ラビットスクーター]]で参加<ref>[http://www.ne.jp/asahi/rabbit-house/yamada/ishihara.htm ISHIHARA - ラビットハウス]</ref>。
 
* [[1962年]](昭和37年)
 
** 1月15日 - 二男・[[石原良純|良純]]が誕生。
 
* [[1963年]](昭和38年)
 
** 3月 - 『狼生きろ豚は死ね・幻影の城』を新潮社より出版。
 
* [[1964年]](昭和39年)
 
** 6月19日 - 三男・[[石原宏高|宏高]]が誕生。
 
* [[1966年]](昭和41年)
 
** - 四男・[[石原延啓|延啓]]が誕生。
 
* [[1967年]](昭和42年)
 
** - [[読売新聞社]]の依頼で、[[ベトナム戦争]]を取材。
 
* [[1968年]](昭和43年)
 
** 7月 - [[第8回参議院議員通常選挙]]で初当選。
 
* [[1969年]](昭和44年)
 
** 11月 - 『スパルタ教育』を光文社より出版。
 
* [[1970年]](昭和45年)
 
**[[書き下ろし]]長編『[[化石の森 (石原慎太郎)|化石の森]]』を発表。第21回[[芸術選奨]]文部大臣賞を受賞。
 
* [[1972年]](昭和47年)
 
** 11月25日 - 参議院議員を辞職。
 
** 12月10日 - [[第33回衆議院議員総選挙|衆議院選挙]]に[[東京都第2区 (中選挙区)|旧東京2区]]から無所属で出馬して当選。後に自民党に復党。
 
* [[1973年]](昭和48年)
 
** 7月 - 「[[青嵐会]]」を結成。
 
* [[1975年]](昭和50年)
 
** 3月18日 - 衆議院議員を辞職。
 
** 4月13日 - [[1975年東京都知事選挙|東京都知事選挙]]に自民党推薦で出馬。233万票を得票するも落選。
 
* [[1976年]](昭和51年)
 
** 12月5日- 衆院選で国政に復帰。同月24日発足の[[福田赳夫内閣]]で[[環境大臣|環境庁長官]]に就任。
 
* [[1981年]](昭和56年)
 
** - 弟の裕次郎が倒れた際に小笠原諸島から海上自衛隊飛行艇を呼び寄せて帰京し、公私混同として問題になる。燃料代は160万円かかっていた。
 
* [[1983年]](昭和58年)
 
** - [[自由民主党の派閥]]、[[自由革新同友会]]を継いで代表就任、後に[[清和会]]へ合流。[[黒シール事件]]で社会的非難を浴びる。
 
* [[1987年]](昭和62年)
 
** 7月17日 - 弟・裕次郎が[[肝細胞癌]]で死去 (52歳)。
 
** 11月6日 - [[竹下内閣]]で[[運輸大臣]]に就任。
 
* [[1989年]](平成元年)
 
** 8月8日 - [[1989年8月自由民主党総裁選挙|自民党総裁選挙]]に出馬、[[海部俊樹]]に敗れる。
 
** 『[[「NO」と言える日本]]』を[[盛田昭夫]]と共著で出版。
 
* [[1995年]](平成7年)
 
** 4月14日 - 議員辞職。
 
* [[1996年]](平成8年)
 
** 7月 - 弟の石原裕次郎をテーマに『[[弟 (小説)|弟]]』を発表。数か月後[[ミリオンセラー]]となる。
 
* [[1999年]](平成11年)
 
** 4月11日 - [[1999年東京都知事選挙]]に出馬。立候補表明の[[記者会見]]での第一声の、「石原裕次郎の兄でございます」と言う挨拶が話題を呼ぶ。[[鳩山邦夫]]、[[舛添要一]]、[[明石康]]、[[柿澤弘治]]ら有力候補がひしめく中、166万票を得票して当選。{{要出典範囲|date=2014年3月31日 (月) 13:36 (UTC)|「都庁で会おうぜ」と言う当選の弁が話題を呼ぶ}}。
 
* [[2003年]](平成15年)
 
** 4月13日 - [[2003年東京都知事選挙]]に出馬。308万票(得票率史上最高)を獲得し、[[樋口恵子]]、[[若林義春]]らを破り再選。
 
* [[2004年]](平成16年)
 
** 11月17日 - 21日 - 『[[弟 (テレビドラマ)|弟]]』テレビドラマ化。
 
* [[2007年]](平成19年)
 
** 4月8日 - [[2007年東京都知事選挙]]に出馬。投票の過半数にあたる281万票を獲得し、[[浅野史郎]]、[[吉田万三]]、[[黒川紀章]]らを破り3選。選対本部長は[[佐々淳行]]が担った<ref name="sasachosaku">佐々 淳行 著『軍師・佐々淳行―「反省しろよ慎太郎だけどやっぱり慎太郎」 危機管理最前線〈2〉』 文藝春秋、2007年、10月</ref>。
 
* [[2010年]](平成20年)
 
** 4月10日 [[たちあがれ日本]]の応援団長に就任する。
 
* [[2011年]](平成23年)
 
** 4月10日 - 一時は3期目での退任を考慮した中で、[[2011年東京都知事選挙]]に出馬を決断して、立候補する。[[東国原英夫]]、[[小池晃]]らを破り、2,615,120票を獲得して四選(得票率は43.4%)。
 
* [[2012年]](平成24年)
 
** 10月25日 - 15時から[[東京都庁舎|都庁]]にて緊急記者会見を行い「本日をもって([[東京都知事]]を)辞任し、新党を結成する」と表明<ref name="yomiuri20121025">[http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20121025-OYT1T00905.htm?from=top 石原都知事が辞任表明…新党結成、衆院選出馬へ] - 読売新聞 2012年10月25日</ref><ref name="asahi20121025">[http://www.asahi.com/politics/update/1025/TKY201210250235.html 石原都知事が辞職表明、 新党結成、衆院選立候補を検討] - 朝日新聞 2012年10月25日</ref>。会見後に[[東京都議会|都議会]]議長に辞表を提出した<ref name="asahi20121025"/>。
 
** 10月31日 - 午後から開催された臨時会で、都知事辞職が同意される<ref>[http://mainichi.jp/select/news/20121101k0000m010074000c.html 石原知事辞任:「マイ・ウェイ」演奏の中、都庁を去る] - 毎日新聞 2012年10月31日</ref>。
 
** 11月13日 - [[たちあがれ日本]]を改称する形で'''[[太陽の党]]'''を結党。共同代表に就任する<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/election/shugiin/news/20121113-OYT1T00988.htm 石原氏、太陽の党旗揚げ…「第3極」結集目指す] - 読売新聞 2012年11月13日</ref>。
 
** 11月17日 - 太陽の党が[[日本維新の会 (2012-2014)|日本維新の会]]に合流。代表に就任<ref>[http://www.shinmai.co.jp/news/20121120/KT121119ETI090004000.php 維新と太陽 合流ありきの疑問残す] - 信濃毎日新聞 2012年11月20日</ref>。
 
** 12月16日 - [[第46回衆議院議員総選挙]]に[[比例東京ブロック]]で当選<ref>[http://sankei.jp.msn.com/politics/news/121217/elc12121702030052-n1.htm 石原氏親子3人、全員当選] - 産経ニュース 2012年12月17日</ref>。衆議院議員として、17年ぶりに国政に復帰。
 
* [[2014年]](平成26年)
 
** 8月1日 - 日本維新の会から分党した新党'''[[次世代の党]]'''を設立し最高顧問に就任。
 
** 12月14日 - 体力不安もあり[[第47回衆議院議員総選挙]]前の引退を示唆するが、党員に引き止められ比例単独での出馬を決断し落選。比例順位は石原の希望により最下位にあたる9位だった<ref name="2014shugin"/>。
 
** 12月16日 - 政界引退を表明<ref name="intaikaiken"/>。
 
* [[2015年]](平成27年)
 
** 4月29日 - 春の叙勲で[[旭日大綬章]]受章<ref>http://www.sankei.com/life/news/150429/lif1504290014-n1.html</ref>。
 
* [[2017年]](平成29年)
 
** [[3月20日]] - 豊洲市場移転問題に関して都議会[[百条委員会]]にて証人喚問を受ける([[石原慎太郎#政界引退後|#政界引退後]]を参照)。
 
 
 
== 選挙歴 ==
 
{{選挙歴
 
|衆|当落1=当|選挙名1=33|年齢1=40|選挙区1=[[東京都第2区 (中選挙区)|旧東京2区]]|政党名1=無所属|得票数1=118,671|得票率1=22.3%|定数1=5|得票順1=1|候補者1=9
 
|衆|当落2=当|選挙名2=34|年齢2=44|選挙区2=旧東京2区|政党名2=[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]|得票数2=111,112|得票率2=21.9%|定数2=5|得票順2=1|候補者2=10
 
|衆|当落3=当|選挙名3=35|年齢3=47|選挙区3=旧東京2区|政党名3=自由民主党|得票数3=71,238|得票率3=17.3%|定数3=5|得票順3=1|候補者3=10
 
|衆|当落4=当|選挙名4=36|年齢4=47|選挙区4=旧東京2区|政党名4=自由民主党|得票数4=162,780|得票率4=32.8%|定数4=5|得票順4=3|候補者4=6
 
|衆|当落5=当|選挙名5=37|年齢5=51|選挙区5=旧東京2区|政党名5=自由民主党|得票数5=96,386|得票率5=21.0%|定数5=5|得票順5=1|候補者5=9
 
|衆|当落6=当|選挙名6=38|年齢6=53|選挙区6=旧東京2区|政党名6=自由民主党|得票数6=101,240|得票率6=20.9%|定数6=5|得票順6=1|候補者6=6
 
|衆|当落7=当|選挙名7=39|年齢7=57|選挙区7=旧東京2区|政党名7=自由民主党|得票数7=119,743|得票率7=22.6%|定数7=5|得票順7=1|候補者7=11
 
|衆|当落8=当|選挙名8=40|年齢8=60|選挙区8=旧東京2区|政党名8=自由民主党|得票数8=92,259|得票率8=19.0%|定数8=5|得票順8=1|候補者8=10
 
||当落9=当|選挙名9=[[1999年東京都知事選挙|東京都知事選挙]]|年齢9=66|執行日9=[[1999年]][[4月11日]]|政党名9=無所属|得票数9=1,664,558|得票率9=30.47%|得票順9=1|候補者9=19
 
||当落10=当|選挙名10=[[2003年東京都知事選挙|東京都知事選挙]]|年齢10=70|執行日10=[[2003年]][[4月13日]]|政党名10=無所属|得票数10=1,664,558|得票率10=70.21%|得票順10=1|候補者10=5
 
||当落11=当|選挙名11=[[2007年東京都知事選挙|東京都知事選挙]]|年齢11=74|執行日11=[[2007年]][[4月8日]]|政党名11=無所属|得票数11=2,811,486|得票率11=51.06%|得票順11=1|候補者11=14
 
||当落12=当|選挙名12=[[2011年東京都知事選挙|東京都知事選挙]]|年齢12=78|執行日12=[[2011年]][[4月10日]]|政党名12=無所属|得票数12=2,615,120|得票率12=43.40%|得票順12=1|候補者12=11
 
|衆|当落13=当|選挙名13=46|年齢13=80|選挙区13=[[比例東京ブロック|比例東京]]|政党名13=[[日本維新の会 (2012-2014)|日本維新の会]]|定数13=17|比例順13=1|当選数13=3
 
|衆|当落14=落|選挙名14=47|年齢14=82|選挙区14=[[比例東京ブロック|比例東京]]|政党名14=[[次世代の党]]|定数14=17|比例順14=9|当選数14=0
 
}}
 
 
 
== 政治姿勢・発言 ==
 
{{観点|section=1|date=2017年3月}}
 
{{雑多な内容の箇条書き|section=1|date=2009年2月}}
 
政治的には、歯に衣着せぬ発言が支持を得る一方、政治問題化されるケースもある。批判に対しては安易な謝罪や訂正を拒否し、臆することなく堂々と反論を表明するという強気のスタンスを貫き、失言によって辞職に追い込まれたことは一度もなかった。
 
 
 
=== 尖閣・島嶼について ===
 
:[[沖ノ鳥島]]に視察上陸し、シマアジの稚魚を放流<ref>[[沖ノ鳥島#日本の対抗措置]]</ref>等、島嶼防衛・尖閣防衛について度々言及している<ref name="sinkanjp2013"/>。
 
:[[尖閣諸島]]について、[[江藤淳]]との共著(2004年)<ref name="isiharaetokyocho"/>において次のように記している。「尖閣列島周辺の海底に[[油田]]があるという話が持ち上がって以来、次々と妙なことが起こった。返還前のことですが、米国の石油メジャー会社が、時の佐藤首相に、外相がらみで自分たちによる試掘を持ちかけてきた。佐藤首相は自国日本のことだからといってそれを退けた。すると彼らは、同じ話を[[台湾]]と[[北京市|北京]]に持ち込み、「あの島々は本来なら中国の領土の筈だ」とそそのかした。」<ref name="isiharaetokyocho">石原慎太郎・江藤淳共著『断固NOといえる日本 戦後日米関係の総括』1991年 p96</ref>
 
:2009年、石原は、日中科学技術文化センター会報に掲載された対談にて、尖閣について日本の主権を棚上げにした上で共同開発すべきとの見解を示した<ref>高原明生「歴史を逆行させてはならない」新崎盛暉、岡田充、高原明生、東郷和彦、最上俊樹『「領土問題」の論じ方』岩波書店、2013年、33ページ。</ref>。
 
:[[2010年]]、[[5月27日]]の全国知事会には、米国が尖閣防衛に消極的である例を示した上で「日本の領土を守らないなら、何のため[[沖縄本島|沖縄]]に膨大な基地を構えるのか。抑止力を現政府が[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に問いたださない限り、訓練分散を論じる足場がない」と、当時の[[日本国政府]]を糾弾した。関連して同会合に出席していた、当時首相だった[[鳩山由紀夫]]に対し「総理は[[日本における外国人参政権|外国人参政権]]の問題で、『[[日本列島]]は[[日本人]]のためだけのものではない』と述べたが衝撃だ」と発言し、それら石原の問いに対し、鳩山は「日中の間で衝突があったとき、アメリカは[[日米安保条約]]の立場で行動する。しかし([[尖閣諸島]]の)帰属問題は日中当事者同士で議論して結論を出す、と私は理解をしている」との見解を示したため報道陣に、「日中間で[[尖閣諸島]]の帰属を協議しようって、こんな馬鹿を云う[[内閣総理大臣|総理大臣]]いるのか?正式に(米国から)返還されたんだ。[[馬鹿]]な会合だよ。[[ナンセンス]]!」と怒りを露わにしている<ref>{{Cite news | url =http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/localpolicy/396540/
 
| title = 「こんな総理、かなわんわ…」 鳩山発言に石原都知事激怒 全国知事会議 | newspaper = 産経新聞 | date = 2010-05-28 | accessdate = 2011-01-18 | archiveurl =http://web.archive.org/web/20100530091145/http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/localpolicy/396540/ | archivedate = 2010-05-30 }}</ref>。
 
:[[尖閣諸島]]の[[魚釣島]]に「[[日本青年社]]」が本格的な[[灯台]]を造ったことに対し、謝辞を述べている<ref>{{Cite news|url=http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/101004/plc1010040339002-n3.htm|title=【日本よ】石原慎太郎 尖閣、国家としての試練|publisher=産経新聞|date=2010-10-04|accessdate=2010-10-04}}産経新聞社連載の「日本よ」のコラム[[2003年]](平成15年)[[2月3日]]号や[[2010年]](平成22年)[[10月4日]]号などで言及している。</ref>。[[2010年]]11月に起きた[[尖閣諸島中国漁船衝突映像流出事件|尖閣沖での中国漁船衝突事件ビデオ流出]]後の記者会見では「なんで政府が発表しないのか。国民の目に実態を見てもらいたいと思って、流出した。結構なことじゃないか」と述べ、[[海上保安官]][[一色正春]]のビデオ映像流出行為を肯定した<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG0502H_V01C10A1CC1000/ 石原都知事「結構なこと」 尖閣映像流出巡り発言 ]2010年11月5日配信</ref>。
 
:[[2012年]]4月には、東京都による尖閣諸島購入計画を発表<ref>[http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120707/lcl12070719500006-n1.htm]産経新聞2012.7.7「東京都の購入計画をめぐる石原知事の主な発言」</ref>。
 
 
 
=== 日本国憲法について ===
 
:[[自主憲法論|自主憲法]]制定論を持論としている。現在の日本国憲法は勝者が敗者を統治するための占領基本法で戦勝国が押し付けた占領憲法であるとしている。占領憲法は勝者の敗者に対する統治の方法としてしか使われてなかったという事で否定したら誰も反対する法的な根拠はないとして、議会で現行憲法の廃棄決議をした上で自主憲法を制定すべきとしている<ref>[http://www.sinkan.jp/special/adbook/run_wildly/?link=index 西条 泰 『石原慎太郎 「暴走老人」の遺言』] 石原慎太郎が国民に残した「遺言」</ref><ref>[http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120305/plc12030503080001-n1.htm 【日本よ】石原慎太郎 歴史的に無効な憲法の破棄を 2012年、3月5日] </ref><ref>2012年11月30日記者クラブ討論会</ref>。
 
 
 
:天皇を日本国の元首と表現し、憲法に天皇を元首と明記すべきとの見解である<ref name="asahi19890110"/><ref>[http://sensenfukoku.net/philosophy/nation/constitution/ 石原慎太郎 『「アメリカ信仰」を捨てよ』 光文社、2001年。]「憲法改正までに十年をかけるという意見が膾炙しているが、しかしそんな呑気なことでいいのだろうか」 </ref>。2002年12月11日の都議会で[[日本国憲法]]について「改憲手続きなんていう面倒なことはせず、衆議院で破棄決議をすればいい」と発言した。インタビューなどでも、目標を「憲法を変えること」と明言している。
 
 
 
=== 軍事について ===
 
==== 自主防衛推進 ====
 
:「[[三木武夫]]がつくった[[武器輸出三原則]]や[[防衛費1%枠]]などの政策は変えるべきだ」とする、核武装・自主[[国防]]確立論者である<ref>石原慎太郎『「日米安保」は破棄できる』文芸春秋、8月号、[[2009年]]。など</ref>。
 
:[[1971年]][[7月19日]]付の朝日新聞で「([[核兵器]]が)なけりゃ、日本の外交はいよいよ貧弱なものになってね。発言権はなくなる」「だから、一発だけ持ってたっていい。日本人が何するかわからんという不安感があれば、世界は日本のいい分をきくと思いますよ」との発言が紹介された<ref>[http://dot.asahi.com/wa/2014041600065.html『週刊朝日』2014年4月25日号「[[キッシンジャー]]機密文書を入手 米国が警戒した日本の核武装、右傾化」] </ref>。[[2011年]][[6月20日]]の記者会見では、「日本は[[核兵器|核(兵器)]]を持たなきゃだめですよ。持たない限り一人前には絶対扱われない」「日本が生きていく道は[[軍事政権]]を作ること。そうでなければどこかの[[属国]]になる<ref>[[中華人民共和国]]を念頭に置いたもの。</ref>。[[徴兵制]]もやったらいい」と発言した。<!--(軍事国家になるべきとの意見と、軍国主義を肯定とは意味合いが別。)[[軍国主義]]を肯定する考え方を示した。--><!--(メディアの主観的な評価は不要)この石原の発言について、[[ANN]]は「今の政治の現状を憂う石原知事の発言でしたが、反核団体をはじめ各方面から反発を呼びそうです」とコメントした--><ref>[http://www.tv-asahi.co.jp/ann/news/web/html/210620028.html 「日本は核を持て、徴兵制やれば良い」石原都知事]</ref>。[[2011年]][[8月5日]]にも記者会見<ref>{{Cite news|url=http://www.47news.jp/CN/201108/CN2011080501001085.html|title=都知事、核保有の模擬実験は可能「3カ月でできる」|publisher=47NEWS|date=2011-08-05|accessdate=2011-08-06}}{{リンク切れ|date=2017年10月}}</ref>で、また2013年4月5日にも朝日新聞とのインタビューで「日本は強力な軍事国家にならなかったら絶対に存在感を失う」と主張している<ref>『[http://www.asahi.com/politics/update/0404/TKY201304040453.html 橋下君を首相にしたい 軍事国家になるべきだ 石原慎太郎氏インタビュー]』朝日新聞2013年4月5日</ref>。<!-- 発言の唐突な抜き出しで文脈の分からない記述 『[[論座]]』2001年5月号において、「[[アドルフ・ヒトラー]]になりたいね、なれたら」--><!--(なりたいねというのと尊敬するは意味が違う)ヒトラーを尊敬する趣旨のと発言している。 --><!--(戦に敗れた時の連帯感を賛美することは軍国主義肯定につながらない)また、2011年3月29日の記者会見において、[[東北地方太平洋沖地震]]の被災者・節電への配慮から今年は[[花見]]を自粛すべきとした上で、[[太平洋戦争]]を引き合いに出して「同胞の痛みを分かち合うことで初めて連帯感ができてくる」「戦争の時はみんな自分を抑え、こらえた。戦には敗れたが、あの時の日本人の連帯感は美しい」という考え方を示した <ref>[http://www.zakzak.co.jp/society/politics/news/20110330/plt1103301125000-n1.htm 時代錯誤では…慎太郎“花見禁止令”戦争時の「連帯感は美しい」] [[夕刊フジ]]2011年3月30日</ref> -->
 
 
 
=== 靖国神社参拝 ===
 
:毎年、[[8月15日]]に[[靖国神社]]に参拝している。衆議院議員当選・都知事就任以後も、[[日本維新の会 (2012-2014)|日本維新の会]]共同代表就任・国政復帰以後も参拝している。
 
:2013年の8月15日にも[[日本維新の会 (2012-2014)|日本維新の会]]共同代表として参拝している<ref>[http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/politicsit/676975/ 【靖国参拝】維新・石原氏、自民・野田聖氏も - MSN産経ニュース] 「日本維新の会の石原慎太郎共同代表は終戦の日の15日昼、東京・九段北の靖国神社を参拝した。自民党の野田聖子総務会長も同日午後、参拝した。」</ref>。
 
 
 
=== 佐野眞一について ===
 
:[[佐野眞一]]が[[橋下徹]]・大阪市長の出自をめぐる週刊朝日の連載記事で問題となった際に「橋下さんにも子供がおり、その子供にまで影響する。文筆を借りて、他人の家族までおとしめるという物書きは許せない」「同和や被差別部落の問題について強い偏見を持っている」「私も被害者の一人。父親の本籍地に出かけ、石原一族は同和、部落ではないか、と誘導尋問をしていたと報告があり、あきれた」「出自や親族の職業をあげつらい、それがDNAとして受け継がれて危険だというのは、中傷誹謗の域を出ない卑劣な作業だ。」と述べている<ref>[http://sankei.jp.msn.com/politics/news/121019/lcl12101918290002-n1.htm 石原知事、出自の記事「卑劣」と批判] </ref>。
 
 
 
=== 慰安婦について ===
 
[[日本の慰安婦]]について、「日本人が彼女たちを強制連行した証拠はない。生活が苦しい時期、女性が売春をすることは金をもうけるための仕事のひとつだった。彼女たちは自らこの仕事を選んだ」と発言した<ref>[http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120828-00000036-scn-kr 石原氏 従軍慰安婦は「自ら身体を売って稼いでいた」] =韓国サーチナ 8月28日(火)14時16分配信</ref>。また[[野村秋介]]について「通夜の席で“なぜ[[朝日新聞社]]に乗り込んだ時に相手(時の社長[[中江利忠]])と刺し違えなかった”と言ってやった」、「彼は[[朝日新聞]]に対して、命がけで決着をつけるべきだったのです。そうすれば、彼らはもう少しまともな会社になっていたのではないか。朝日が国を売った慰安婦報道をひっくり返した今、なおさらそう思います」、[[河野一郎邸焼き討ち事件]]を引いて「野村はそれで12年間、刑務所に入りました。もちろん放火という行為は推奨できないが、命懸けだった。少なくとも昔の言論人は命懸け、最近、そういう志の高い右翼はまったくいなくなりました。今(2014年現在)は、朝日が何をしようと安穏と過ごせる、結局うやむやにして過ごせる時代です」と発言<ref>「独占手記 国を貶めて新聞を売った『朝日』の罪と罰」[[週刊新潮]]2014年10月9日号</ref>
 
 
 
=== 諸外国に対する見解 ===
 
==== 国際連合 ====
 
:[[国際連合]]に対して、「[[国際連合憲章]]の精神って何ですか。金科玉条なんですか。国連てそんなに大したものなんですか。神様みたいな存在ですか。冗談じゃないですよ」「今ごろ国連憲章なんて、まともに信じている馬鹿いませんよ」<ref>2005年9月27日、都議会本会議にて、[[靖国神社]]参拝をやめるよう追及した[[吉田信夫]](共産党)に対しての発言。[[ジョン・ボルトン]]が同様に「国際連合本部ビルの最上層10階分がなくなったとしても何ら困らない」と発言している</ref>。
 
 
 
==== 中華民国・台湾 ====
 
:[[中国共産党]]の[[一党独裁]]国家である[[中華人民共和国]]への批判的な姿勢(詳細は下記を参照)とは対照的に、同国と対立関係にある[[議会制民主主義]]国家である[[台湾]]([[中華民国]])に対しては、日本と台湾の断交に政界で最も激しく反発していた[[青嵐会]]の事実上の創設者である代表的な[[親台派]]のため、非常に友好的な姿勢を取っている事で知られている(ただし、[[親華派]]だったため、民主化まで[[中国国民党]]が[[戒厳]]を布告していた独裁政権だった史実には沈黙)。都知事初の訪台を成し遂げ、数回に渡り同国への渡航を行う他、各種行事に参加していた。また、中華人民共和国との間に国交を樹立して台湾との国交を断絶した日本国政府の姿勢(「[[一つの中国]]」論)に対しても批判的である。なお、[[2008年中華民国総統選挙]]において国民党の[[馬英九]]は、[[台北市]]長時代の[[風俗街]]の取り締まりの厳しさや、パフォーマンス的な言動から「台湾の石原慎太郎」と[[民主進歩党]]支持者から揶揄された<ref>2008年3月20日新聞台新聞夜視界</ref>。
 
 
 
==== 中華人民共和国 ====
 
:[[2005年の中国における反日活動]]では「民度が低い」と非難し、中華人民共和国を「[[支那]]」と呼んでいるが、本人は「蔑称ではなく、尊敬して昔の呼び名で呼んでいる」「中国の人が屈辱に感じていることを知らなかった」と主張している。[[2008年北京オリンピック|北京オリンピック]]について「[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]の非常に政治的な[[1936年ベルリンオリンピック|ベルリンオリンピック]]に、ある意味似ているような気がする」<ref>[[朝日新聞]]2006年7月4日</ref>と発言した。その[[親台]][[反中]]姿勢が[[2016年東京オリンピック構想|東京でのオリンピック開催]]の実現を困難にする(中華人民共和国は、ODAを元に[[アジア]]や[[アフリカ]]の一部の[[開発途上国|発展途上国]]に影響力を持つ)という指摘もあったが<ref>『FACTA』2007年3月号</ref>、2016年夏季五輪招致に北京市の協力を要請し<ref name="isiharapekin"/>、中華人民共和国の招待に応じて当時の[[福田康夫]]首相とともに[[北京オリンピックの開会式]]には出席した。当時は[[反日]]的なネット世論を弾圧<ref>「中国が反日サイト閉鎖 「社会不安招く」と当局」共同通信2004年8月31日</ref><ref>「「反日先鋒」がサイト閉鎖声明」毎日新聞2005年5月3日</ref>していた[[胡錦濤]]政権ということもあり、この招待を「大国の度量を見せるもの」として中国のネット世論も支持した<ref name="isiharapekin">{{Cite web | url = http://www.recordchina.co.jp/b14675-s0-c50.html | title = <北京五輪>「大国の度量」とネット世論も支持、批判繰り返した石原都知事の招待で―中国 | publisher = [[Record China]] | date = 2008-01-15 | accessdate = 2017-05-03 }}</ref>。感想として「13億の人口のすごさってのはね、ひしひしと感じましたね。」「一番感じたのはね、ボランティアの大学生ですね、みんな。とってもね、いいね。アメリカのボディーチェックするような空港の役人なんかと違ってね、本当に横柄で何様だっていう感じだけど、(大学生は)とっても親切で礼儀正しくてね。」「やっぱり、それはね、いろいろ(政治)体制に対する批判はあるでしょうけど、私もいろいろ異論はあるけども、国家社会の前途にね、あの世代の若者が明らかに日本の大学生と違って期待を持っているということに、青春の生き甲斐を感じているということは、聞いてみてもうらやましく感じましたね。」「(中国の若者と比較して)日本の若者はある意味でかわいそうだな。[[青春]]にある者として[[自己同一性|アイデンティティー]]がないから。やっぱり『[[2ちゃんねる]]』の書き込みとかそんなもんで本当の[[コミュニケーション]]ができるもんじゃないし。全部現実から逃避しているし<ref>『朝日新聞』2008年8月12日</ref>」さらには「日本と中国が組めば技術でヨーロッパと対抗できるんだからいろいろやりましょう。」とまで述べた。これを中国メディアは「右翼の発言と思い難い中国の代弁者のようだ」と取り上げた<ref>{{cite news |first= |last=|title=石原知事が北京五輪開会式に痛烈ダメ出し|url=http://npn.co.jp/article/detail/27015068/ |work= リアルライブ |publisher=|date=2008-08-16 |accessdate=2016-11-06}}</ref>。2009年(平成21年)9月には「東京都と北京市の技術交流・技術協力に関わる合意書」が結ばれ、12月に北京副市長・[[黄衛]]が訪日の際に石原は「東京の技術は進んでおり、見たいものは全部見ていってください」と述べて黄副市長は「これからも交流を活発にしていきたい」と応じた<ref>{{cite news |first= |last=|title=知事の部屋/知事フォトギャラリー|東京都|url=http://www.metro.tokyo.jp/GOVERNOR/ARC/20121031/PHOTO/s21/211201.htm |work= 東京都 |publisher=|date=2010-01-20 |accessdate=2017-05-05}}</ref>。日中間の領土問題において、東京都の[[沖ノ鳥島]]は岩である旨主張し続ける中国共産党政府の態度、また事前通知無しで調査船を派遣していることに対し反発している。そのため、都知事の立場から「日本の[[経済水域]]であることを実証する」として、沖ノ鳥島に上陸して[[日章旗]]を掲げる等のパフォーマンスを行っている。[[在日中国人]]による犯罪について「民族的DNAを表示するような犯罪が蔓延することでやがて日本社会全体の資質が変えられていく恐れが無しとはしまい」と発言した<ref>『産經新聞』2001年5月8日</ref>。2008年1月、中華人民共和国から輸入された冷凍餃子に毒が混入していた事件([[毒入り餃子事件]])に関して「独裁統制国家なんだから、しっかりしてもらわないと困りますな」と、中華人民共和国当局を批判した<ref>[http://web.archive.org/web/20080603035210/http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/119502/ 「「独裁国家なんだからしっかりしろ」石原知事、毒餃子で苦言」政治も‐地方自治ニュース:イザ!] [[産経新聞]]2008年1月31日</ref>。2月には「中国の領土拡張姿勢に日本が賢明に対処しなければ、[[中華人民共和国の国旗|五星紅旗]]の"六番目の星"になるだろう」と発言している<ref>[http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=96063&servcode=A00§code=A00 中央日報 - 石原都知事「日本が第2次大戦起こして植民地が独立」] 中央日報2008年2月15日。なお、五星紅旗の4小星は星条旗と異なり、社会階層を意味する。</ref>。2010年、石原は「反中国ではなく、反中国の共産主義」「僕は中国の歴史や文化が好きだ。しかし、中国の共産主義が嫌い」「中国は反対しないが、共産党支配下にある中国は、日本にとって脅威となる」などと述べた。共産党や共産主義を中国とは分けて考えている石原氏の論点は素晴らしいと、ラジオ自由アジア(RFA)は四川省作家・[[冉雲飛]]氏の言葉を引用して評価した。都知事辞任会見では共産主義は嫌いと前置きしつつ学生時代に読んだ[[毛沢東]]の[[矛盾論]]は「正にその通りだと思う」として日本の抱える矛盾の解決を訴えた<ref>{{Cite news|date=2012-10-29|url=http://www.metro.tokyo.jp/GOVERNOR/ARC/20121031/KAIKEN/TEXT/2012/121025.htm|title=石原知事記者会見(平成24年10月25日)|newspaper=東京都|accessdate=2014-06-22}}</ref><ref>[http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20121101/238912/?rt=nocnt 石原 慎太郎 前東京都知事の告白 「中央官僚支配を壊す」] [[日経ビジネス]]2012年11月1日</ref>。後の橋下徹との対談でも「僕は共産主義は嫌いだが、毛沢東の矛盾論は称賛してる」と述べた<ref>【社会部プレミアム対談】石原知事×橋下市長 教育の破壊的改革を追求(産経新聞)2011年12月25日</ref>。また、インタビューで、人間にとって「自由」が最も大事と述べた。そのため、自由のない独裁国家は嫌いで、戦時中の日本も嫌いだと語った。また、アメリカと中国の高圧的な態度に嫌悪感を抱いていることを表明し、尖閣諸島問題で中国が5回にわたって日本の駐在大使を呼びつけることは、日本に対する侮辱行為だと批判した<ref>[http://www.epochtimes.jp/jp/2010/10/html/d22219.html 「反中ではなく反中共だ」 中国週刊誌、石原慎太郎氏インタビュー果敢報道] </ref>。2013年に石原が脳梗塞で入院した際、掲示板では“ハッピーニュース”として喜ぶ声が殺到した一方で「石原氏はかなりの中国通で、中国政府は嫌いだが中国文化は好きだと言っている。中国に対する理解は並みの中国人以上だし、多芸多才な民族主義者だよ」と一定の評価をするコメントも見られた<ref>[http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2013&d=0330&f=national_0330_038.shtml 【中国BBS】石原慎太郎氏の入院に「やったあ、いい気味!」と喜びの声]</ref>。2014年6月22日、日本維新の会解党を正式決定した同党臨時党大会にテレビ中継で参加した際には、「日本という国家は下手をすると隣の中国の属国になりかねない危機的な状況にあり、これを防ぐために私たちは行動してきた。」と発言、憲法改正や集団的自衛権行使容認等の政策が対中国戦略である旨を明言した<ref>{{Cite news|date=2014-06-22|url=http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140622/stt14062219560007-n1.htm|title=「中国の属国化を防ぐ」 石原氏発言要旨|newspaper=MSN産経ニュース|accessdate=2014-06-22}}</ref>。
 
 
 
==== 北朝鮮 ====
 
:[[北朝鮮による日本人拉致問題]]が公になって以降は強硬な姿勢を貫いている。Webキャスターの[[草薙厚子]]によれば、[[1998年]](平成10年)に「朝鮮民主主義人民共和国がノドン何号かを京都へ撃ち込んでくれれば、この社会もちっとはピリッとするんだろうけどね」との発言を行ったという<ref>[http://kodansha.cplaza.ne.jp/broadcast/special/2000_04_19/content.html 石原慎太郎都知事のふざけた「差別感覚」] - [http://moura.jp/biglobe/ Web現代 MouRa BIGLOBE edition]</ref>。[[2002年]]には『[[ニューズウィーク]]』のインタビューに応じ、映画『[[風とライオン]]』の内容([[モロッコ]]のリフ族に拉致されたアメリカ人教師を[[セオドア・ルーズベルト]]大統領が[[軍艦]]を送って取り戻したエピソード)について語り、「国家の国民に対する責任を示している」「私が総理であったら、北朝鮮と戦争してでも(拉致被害者を)取り戻す」「[[アメリカ合衆国|アメリカ]]がそれに協力しないとしたら、[[日米安保条約]]は意味がなくなる」と述べている<ref>『[[ニューズウィーク]]』日本版 [[2002年]][[6月19日]] 第17巻23号 通巻812号 P.27</ref>。2009年には、北朝鮮による拉致被害者を救出する知事の会を[[泉田裕彦]][[新潟県知事]]や[[上田清司]][[埼玉県知事]]らと共に設立し、会長に就任。47都道府県の知事のうち[[達増拓也]][[岩手県知事]]ただ一人が参加しなかったため、会見では「[[民主党代表]]の[[小沢一郎]]さんの出身地である岩手の知事を除いて……何でかは知りませんよ私は」と皮肉った(後に達増知事は一転、参加を表明)。また会見で、北朝鮮は中国に併合されたほうが良いと発言した<ref>[http://www.afpbb.com/article/politics/2557594/3682076 石原都知事、「中国が北朝鮮を合併するのが一番楽」] AFP・BBニュース2009年1月13日付</ref>。これに対して韓国の政治家や北朝鮮政府は反発を見せた<ref>[http://s01.megalodon.jp/2009-0115-0836-44/www.ibaraki-np.co.jp/zenkoku/detaile.php?f_page=top&f_file=CN2009011401000923.1.N.20090114T204728.xml 韓国、石原都知事発言に反発 沈黙の政府にも批判] 茨城新聞2009年1月14日</ref><ref>[http://s03.megalodon.jp/2009-0118-1452-37/www.sponichi.co.jp/society/flash/KFullFlash20090117103.html 石原都知事発言に北朝鮮「容赦しない」] スポニチ・アネックスニュース 2009年1月17日</ref>。
 
 
 
===== 在日北朝鮮人の代表なる男たちから脅迫を受ける =====
 
:石原の自宅に突然押しかけてきた在日北朝鮮人から、「息子を殺す」と脅迫を受けた事がある。政治家になってから、テレビ発言が元になり、石原の自宅に在日北朝鮮人の代表なる男たちが突然押しかけてきて、「お前が謝らなければ、そこにいる息子を殺してやるから覚悟しろ」と「テレビでの発言が元になって思いがけぬ脅迫に遭った」と自著で述べている。脅迫の元になったテレビ発言は、北朝鮮が実質的に国家・政府と一体である労働党の規約に、「日本軍国主義」を打倒するなどといった大時代的な文言を掲げ、なおかつ中共とも手を組んだ執拗な日本攻撃を繰り返していたとして「こうした国との友好はその限りで不可能だし、彼等が日本に何かを望むならばまず、すみやかに日本を敵国視することをいわば国是としているような異常な状態を改めるべきだ」といったものだったという<ref>石原慎太郎 『国家なる幻影』 文藝春秋、2001年10月</ref>。
 
 
 
===== 朝鮮総連施設・朝鮮学校への対応 =====
 
;朝鮮総連施設
 
: [[在日本朝鮮人総聯合会]]施設は、1972年(昭和47年)に当時の都知事だった[[美濃部亮吉]]が「外交機関に準ずる機関」として認定して以来、多くの自治体が朝鮮総聯の施設を事実上の外交機関や公共施設に準ずるものとみなして、[[固定資産税]]や不動産取得税の減免措置を行ってきた。[[査証]]や[[パスポート|旅券]]発行代理業務を行うなど、[[朝鮮民主主義人民共和国]]の窓口機能があったため、「外交機関に準ずる機関」又は「公民館的施設」という名目の下に課税減免措置がとられていたが、2002年(平成14年)9月の[[小泉純一郎]]首相(当時)訪朝で北朝鮮が拉致問題への関与を認めたことを境に、国内の北朝鮮関連組織や施設への優遇措置が見直されるようになった。
 
: 2003年(平成15年)、東京都は、朝鮮総連の関連施設について「所有者の大半が関連企業(朝鮮総連が法人ではないため)であったり、外交とは無関係なものがある」などとして方針を変更、これらの一部について固定資産税を課すこととした。他の自治体にもこれに追随して固定資産税の減免を解除する動きがあったが、この時点では従来通り減免措置を継続する自治体が多かった。
 
: こうした措置に対して朝鮮総連や[[北野弘久]]など一部の法学者は反発し、行政訴訟や民事訴訟で争われた。東京都にある朝鮮総連中央本部の不動産への固定資産税などの課税処分をめぐり、登記上の不動産所有者である合資会社「朝鮮中央会館管理会」が、東京都に課税処分取り消しなどを求めた民事訴訟では一審、二審とも請求を棄却。2009年8月12日、最高裁も上告を退け総連側の敗訴が確定した。
 
: この固定資産税などの減免措置を巡っては、「北朝鮮に拉致された日本人を救出する熊本の会」の[[加納良寛]]会長が熊本市長を相手取り、朝鮮総連施設への課税減免措置の無効確認を求めた訴訟を起こした。2005年(平成17年)4月21日、[[熊本地方裁判所]]([[永松健幹]]裁判長)は「公益性を備えた公民館類似施設と評価でき、減免に違法性はない」熊本市の主張をほぼ全面的に認め、原告の訴えを退けた。これを不服として原告側は控訴し、2006年(平成18年)2月2日に[[福岡高等裁判所]]([[中山弘幸]]裁判長)が、「朝鮮総聯の活動に公益性はなく税の減免措置は違法である」とする判決を出した。熊本市長はこれを不服として上告したが、2007年(平成19年)11月30日最高裁判所第二[[小法廷]](中川了滋裁判長)は、熊本市長の上告を棄却し減免措置は違法とした高裁判決が確定した。
 
: この最高裁判決により朝鮮総連施設に対する税減免措置の見直しは急速に進んだ。2013年(平成25年)現在、朝鮮総聯関連施設があるとみられる自治体が全国で128。通常課税の自治体が114。全額免除の自治体は0。一部減免の自治体が10。施設なしと回答した自治体が4である([[在日本朝鮮人総聯合会#課税減免措置撤廃の流れ]])。
 
;朝鮮学校
 
:朝鮮学校に対しては、学校運営や教育内容などについて調査をし、2012年の東京都の予算から朝鮮学校への補助金を除外し停止した。石原は、「反日教育をしてわれわれの同胞を拉致する手助けをしていた、そういう組織がそれに連脈のある教育をこれからもするなら、援助するいわれはない」と明言していた<ref>[http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140208/elc14020808580000-n2.htm 朝鮮学校への補助金 3氏が「支給しない」]2014年2月8日配信</ref>。2012年当時、東京都議会議員で尖閣諸島を守る為に行動する議員連盟」)の会長でもあった 野田数は「私は以前に都議会で、拉致問題が解決していないのだから朝鮮学校への補助金は凍結すべきと主張しました。その際も自民党から妨害を受けました。」証言している<ref>[http://wpb.shueisha.co.jp/2012/09/13/14010/ 民主が中国寄り、自民が韓国・北朝鮮寄りな理由とは?]2012年9月13日配信</ref>。
 
 
 
==== 米国(アメリカ) ====
 
:[[日米安保]]に反対する「若い日本の会」に[[大江健三郎]]、[[江藤淳]]らと共に参加し、反安保集会に日活俳優を総動員するよう指示するなどした<ref>『芸能人別帳』ちくま文庫</ref>。政治家となって以降は、[[日米安保]]を[[安全保障]]上容認するものの、[[日米安保]]破棄について時折触れている<ref>石原慎太郎『「日米安保」は破棄できる』文芸春秋、8月号、[[2009年]]。など</ref>。日米両国で話題を呼びベストセラーとなった『[[「NO」と言える日本]]』を出版するなど、常に[[第二次世界大戦]]以降のアメリカの[[覇権主義]]的な態度には疑問を呈し続けている。[[1980年代]]の[[ジャパンバッシング]]の際には「何の努力もせずに文句だけつけて来る」として批判した。
 
 
 
:都知事として[[アメリカ合衆国|米国]]に[[横田飛行場|横田基地]]を求め続け、石原の要求は[[2005年]]に見通しがついた[[2006年]]10月27日の[[横田飛行場#横田空域|横田空域]]の[[航空交通管制]]権の一部返還日米合意により部分的に実現する<ref>[http://www.toonippo.co.jp/tokushuu/danmen/danmen2006/1027.html 横田空域の一部返還/一歩前進、米軍支配は続く]</ref>。[[2007年]]5月17日、[[ニューヨーク]]を訪問中に講演会で[[日米安保条約]]について触れ、「台湾や尖閣諸島での有事の際に、米国が日本の防衛にどれだけ責任を持つかは極めて疑問だ」「米国が日本を守らないのなら、自分で何とかする。それは、米国が懸念する核保有につながるかもしれない」と[[核武装論|核武装]]を示唆した。
 
 
 
:[[トヨタ自動車の大規模リコール (2009年-2010年)]]が起こった時には「アメリカのメンタリティとして自分たちの作り出した自動車を日本に抜かれた、腹立たしい気分はあるだろうね。これがフォードやGMの問題だったら、ちょっとこんな騒ぎにはならなかった気がするけどね。アメリカはそういうところはしたたか、ずるいんですよ」と発言した<ref>[http://response.jp/article/2010/02/13/136317.html 反発はアメリカの嫉妬? 石原都知事、トヨタリコールで発言] Response.</ref>。
 
 
 
===== TPP反対 =====
 
:[[2011年]](平成23年)10月28日の記者会見で、[[環太平洋連携協定|TPP]]について「あんなものはアメリカの策略で、みんなもうちょっと頭を冷やして考えたほうがいい」「[[国民皆保険]]や日本の寿命の高度化はおそらく基本的にぐらついてくる」と主張、TPP参加反対の姿勢を示した<ref>しんぶん赤旗 2011年10月29日 2面</ref>。
 
 
 
==== 南アフリカ共和国 ====
 
:[[1984年]](昭和59年)6月に結成された日本南ア友好議員連盟の副長であった<ref>[http://www.h3.dion.ne.jp/~win-tom/newpage7.htm アパルトヘイトへの加担の罪] 2008年9月20日閲覧</ref>。同議連には40人が参加し、[[南アフリカ共和国]]で実施されていた[[アパルトヘイト]]政策に対する国際的非難が強まっていた状況下で、[[レアメタル]]などの希少金属の確保を目的とした活動をおこなっていた。
 
 
 
==== 外国人参政権 ====
 
:民主党や公明党などが成立を目指す[[日本における外国人参政権|外国人地方参政権]]については「危ない試み」「発想そのものがおかしい」「絶対反対」「日本に永住する方なら日本の国籍取ったらいい、問題起こしてないんだったら」等々、反対意見をはっきり述べている<ref>{{cite news | url = http://sankei.jp.msn.com/politics/local/100115/lcl1001152329003-n1.htm | title = 【石原知事会見詳報 (1) 】外国人参政権「危ない試み。発想おかしい」 (1/3ページ) | newspaper = 産経新聞 | date = 2010-01-15 | accessdate = 2010-01-15 }}</ref><ref>{{cite news | url = http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20100115AT3B1501B15012010.html | title = 石原都知事、「絶対反対」 永住外国人への地方参政権付与に | newspaper = 日本経済新聞 | date = 2010-01-15 | accessdate = 2010-01-15 }}</ref><ref>{{cite news | url = http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2010011500801 | title = 外国人参政権「絶対反対」=永住するなら国籍取得を-石原都知事 | newspaper = 時事通信 | date = 2010-01-15 | accessdate = 2010-01-15 }}</ref><ref>{{cite news | url = http://www.sponichi.co.jp/society/flash/KFullFlash20100115150.html | title = 石原都知事 永住外国人の地方選挙権「絶対反対」 | newspaper = スポーツニッポン | date = 2010-01-15 | accessdate = 2010-01-15 }}</ref>。[[2010年]](平成22年)[[3月3日]]、都議会で、永住外国人に対する地方参政権付与問題について見解を問われ、「絶対反対だ」と答弁、外国人参政権について改めて反対の意思表示をした<ref>{{cite news | url = http://sankei.jp.msn.com/region/kanto/tokyo/100304/tky1003041204000-n1.htm | title = 外国人参政権 都議会で答弁 知事「絶対反対だ」 (1/2ページ) | newspaper = MSN産経ニュース (産経新聞) | date = 2010-03-04 | accessdate = 2010-03-10 }}</ref>。
 
 
 
=== 話題になった発言 ===
 
;石原発言捏造テロップ事件:{{Main|石原発言捏造テロップ事件}}
 
:[[2003年]](平成15年)[[11月2日]]、[[TBSテレビ|TBS]]『[[サンデーモーニング]]』が「日韓合併を100%正当化するつもりはない」という石原が述べた発言の語尾を編集して「日韓合併を100%正当化するつもりだ」とテロップ入りで事実とは異なる放送をした。石原側はこの放送内容に抗議を行ったもののTBSから誠意ある回答が得られないとして刑事告訴した。その結果、名誉棄損容疑で TBSの社員ら4人が東京地検に書類送検されたが<ref>[http://www.zakzak.co.jp/gei/2004_12/g2004121501.html 慎太郎「当然だ!」…日韓発言誤報TBS社員が送検] [[夕刊フジ]]2004年12月15日</ref>、[[東京地方検察庁]]は証拠不十分による不起訴処分とした。TBSは「ミス」として番組で謝罪した。
 
;在日外国人・諸文化: [[在日韓国・朝鮮人]]等の[[日本の外国人]]及び外国文化に関する発言が政治問題化することがあるが、一方、賛同意見もある。2000年(平成12年)[[4月9日]]の[[陸上自衛隊|陸自]]記念式典において「不法入国した多くの[[三国人]]、外国人が凶悪な犯罪を繰り返しており、大きな災害が起きた時には騒擾(そうじょう)すら想定される」<ref>『朝日新聞』2000年4月12日</ref>と発言し、三国人という言葉が取り上げられ問題とされた<ref>{{Citation | last = LARIMER | first = TIM | author-link = | last2 = Sakamaki | first2 = Sachiko | author2-link = | title = Rabble Rouser | newspaper = TIMEasia | location = Tokyo | volume = 155 | number = 16 | pages = | year = 2000 | date = April 24 | url = http://www.time.com/time/asia/magazine/2000/0424/cover1.html | accessdate = <!-----21 February 2010----->}}</ref>。石原は自身のウェブサイトでこの発言について、単に外国人犯罪について言及した発言であり[[朝日新聞]]や特定組織に三国人という語の差別性だけを拡大解釈された、との考えを示している<ref>[http://www.sensenfukoku.net/mailmagazine/no12.html 「あきれたメディア事情」石原慎太郎エッセイ『日本よ』] 2003.06.02 産経新聞</ref>。また「謝罪の必要はない」とも述べた<ref>{{Citation| title = 'There's No Need For an Apology' | newspaper = TIMEasia| location = Tokyo | volume = 155| number = 16 | pages =| year = 2000| date = April 24 | url= http://www.time.com/time/asia/magazine/2000/0424/int.ishihara.html | accessdate = <!-----21 February 2010----->}}</ref>。[[2001年]](平成13年)5月には、[[中国人]]犯罪について「民族的[[デオキシリボ核酸|DNA]]を表示するような犯罪が蔓延することでやがて日本社会全体の資質が変えられていく恐れが無しとはしまい」と主張した<ref>『[[産經新聞]]』[[2001年]][[5月8日]]</ref>。[[2004年]](平成16年)10月、都庁内であった[[首都大学東京]]の支援組織設立総会でフランス文学が好きでフランス語を勉強したと述べた上で「[[フランス語]]は数を勘定できない言葉だから国際語として失格しているのも、むべなるかなという気がする」「都立大はフランス語の講師が8人いて、受講者は1人もいない」との主旨の発言をした。これに対し東京都立大学人文学部フランス文学専攻教員らが「石原東京都知事に発言の撤回を求める」と声明を発表した<ref>東京都立大学人文学部フランス文学専攻教員一同「[http://www.kit.hi-ho.ne.jp/msatou/04-11/041101katayama-toritsu.htm 石原東京都知事に発言の撤回を求める]」 2004年10月31日、2004年11月1日更新、2010年2月21日取得。なお、同声明の中で、「相手国の言語と文化をいたずらに貶めて恥じないような人物を、東京都の長の座に、そして大学設置主体の最高責任者の座に戴いてしまったことの不幸を、良識ある東京都民、現・東京都立大学の教職員、学生諸君とともに心より嘆く」と述べ、また、「フランス語の講師が8人云々」の発言に対し、「現・東京都立大学において、フランス語を学ぶ学生は、毎年、数百人の規模で存在しており、また、人文学部フランス文学専攻に在籍する学生の数(昼間部・夜間部の上限定数、各学年それぞれ9名・3名)がゼロであった年度など、いまだかつて一度もなかった」とも述べている。</ref>。後にフランス語教育関係者らによる訴訟に発展した<ref>『[[東奥日報]]』2007年3月19日</ref>。韓国人については「[[大韓民国|韓国]]に対する差別意識はない。私がもっとも尊敬する政治家は[[朴正煕]]大統領だ」との認識をインタビューで語っている<ref>『朝日新聞』2000年4月26日</ref>。また[[金田正一]]の項目に引退時のエピソードが詳述されているように帰化人の金田や在日コリアンの[[つかこうへい]]とも親交がある。また思想的に正反対でありながらも[[柳美里]]を作家として評価する発言をした事もある。他方で、オリンピックの福岡誘致を応援した[[姜尚中]]を「怪しげな外国人が出てきてね。生意気だ、あいつは」と発言した<ref>「姜尚中氏の福岡応援に石原知事反発 『怪しげな外国人』」『朝日新聞』2006年8月30日。</ref>。
 
;日本人:「日本人には[[携帯電話]]を使って[[売春]]する子供が、[[小学生]]でもざらにいる。300万円、1000万円も貯めて、それを[[鉄道駅|駅]]の[[コインロッカー]]に隠している。こんな[[風俗]]は他の国にはまずない<ref>「石原都知事 小学生が売春で1000万円稼ぐ日本人を嘆く」『[[週刊ポスト]]』2011年2月25日号</ref>」と主張している。石原はその主張の根拠として[[読売新聞]]社会部が著した読売新聞社会部『親は知らない―ネットの闇に吸い込まれる子どもたち』(2010年11月)という書籍を挙げている<ref>{{Cite book|和書|title=親は知らない―ネットの闇に吸い込まれる子どもたち|Author=読売新聞社会部|publisher=[[中央公論新社]]|date=2010-11|isbn=9784120041709}}</ref>。
 
;東日本大震災について:[[2007年]](平成19年)[[4月8日]]の都知事選の当選確定直後、会見で「[[阪神・淡路大震災|阪神大震災]]では首長の判断が遅くて2000人が死んだ」と発言。震災当時の兵庫県知事・[[貝原俊民]]が「見当違い」と反論した。反論を受けた石原は4月27日の定例会見で、「ちょっと数字は違ったかもしれない」「[[佐々淳行|佐々さん]]の受け売りなので、彼に聞いてほしい」と発言<ref>『毎日新聞』2007年4月28日</ref>。[[2011年]](平成23年)[[3月14日]]には、[[東日本大震災]]により日本の東北地方で広範囲が[[津波]]の被害を受けたことに関して、「被災者の方々はかわいそう」としながらも、「アメリカのアイデンティティーは[[自由]]。フランスは[[自由、平等、友愛|自由と博愛と平等]]。日本はそんなものはない。日本人のアイデンティティーは我欲。物欲、金銭欲。この津波をうまく利用して我欲を1回洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う」とコメントした<ref>[http://www.asahi.com/national/update/0314/TKY201103140356.html 「大震災は天罰」「津波で我欲洗い落とせ」石原都知事] Asahi.com 2011年3月14日</ref>。同日、記者会見で「天罰」発言について「意味がどうあれ、被災された方にとっては非常に不謹慎な発言だと思いますが、撤回されるお考えはありませんでしょうか」と追及されると、「『被災された人は非常に耳障りな言葉に聞こえるかもしれないが』と言葉を添えた」と釈明して撤回をしなかったが、実際にはそのような言葉は添えていなかった<ref>[http://www.47news.jp/CN/201103/CN2011031401000989.html 大震災は「天罰」と石原知事 「津波で我欲洗い落とせ」] [[共同通信]]2011/3/14 21:00</ref>。この発言に対し、津波被害を受けた宮城県の[[村井嘉浩]]知事が不快感を示したほか、[[長渕剛]]も、自身のラジオ番組『長渕剛 RUN FOR TOMORROW 〜明日に向かって〜』で「ふざけるな石原。東北の人たちが何をした」と非難。果てはメールや電話による批判が東京都庁に多数殺到したため、石原は翌3月15日の会見で「天罰」発言を撤回して謝罪をするに至った<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20110315-OYT1T00633.htm 石原知事、天罰発言撤回・謝罪「深く傷つけた」] YOMIURI ONLINE 2011年3月15日</ref>。この石原の「天罰」発言は、日本だけでなく韓国でも大きく取り上げられた。韓国メディアは、「日本の[[韓国併合]]は韓国人が望んだことだ」とする石原の過去の発言にも触れつつ、「韓国人が望んで日本人が韓国を併合したとの妄言で悪名高い石原知事が今度は自国民に大きな傷を負わせた」「石原知事が自国民にまで毒舌」などと批判的な報道を繰り広げた。さらに、石原が折しも自らの4期目当選を狙って都知事選への出馬表明をした直後に「天罰」発言を行ったことについて、韓国メディアは「苦しみや悲しみに耐えながら頑張っている国民に慰めるどころか大きな傷を与えた石原知事に対し、東京の有権者が(今回の都知事選で)どのような判断を下すのか注目される」とコメントしている<ref>[http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2011&d=0316&f=national_0316_107.shtml 「自国民にまで毒舌」…石原都知事の「天罰」発言を非難=韓国]</ref>。また、[[三宅久之]]が支持をする一方、[[桂ざこば (2代目)|桂ざこば]]からは「共感できない」と苦言、[[泉谷しげる]]などは激怒しながら批判をした。
 
;原子力発電所事故について:石原は自らを「原発推進論者」であると公言している。東京都知事に就任した翌年の[[2000年]](平成12年)[[4月26日]]、東京国際フォーラムで開かれた日本原子力産業会議の第33回年次大会の場において、石原は「完璧な管理技術を前提とすれば、東京湾に[[原子力発電所]](原発)を造っても良いと思っている」などと発言していた<ref>[http://www.jcp.or.jp/akahata/aki11/2011-03-29/2011040104_06_0.html 石原都知事、原発で暴言数々]</ref>。ただし石原の構想は、東京都の電力依存を軽減するために、(津波や巨大地震をやり過ごせる)フローティングシステムの上に、[[東芝]]製の[[4S (原子炉)|4S炉]]のような5万キロワットクラスの超小型原発を必要数東京湾に浮かばせるという具体的なものであった<ref>[http://www.cnfc.or.jp/pdf/Plutonium54J.pdf 『2030年に30-40%程度以上でいいのか』社団法人原子燃料政策委員会 (2006年)]</ref>。その後、[[2011年]](平成23年)[[3月11日]]に発生した[[東北地方太平洋沖地震]]の影響で[[福島第一原子力発電所]]が爆発事故を起こし、大規模な放射能汚染が福島県のみならず東京都民の生活にも深刻な悪影響を及ぼしている状況の中で、石原は同年3月25日に福島県災害対策本部を訪問した際、報道陣の前で「私は原発推進論者です、今でも。日本のような資源のない国で原発を欠かしてしまったら経済は立っていかないと思う」などと発言した<ref>{{Cite web|date=2011-03-25|url=http://www.gaylife.co.jp/?p=1775|title=石原慎太郎知事、「原発推進論者」と発言|work=|author=|publisher=Gay Life Japan|accessdate=2013-05-27|deadlink=2013-05-27|archiveurl=http://web.archive.org/web/20120415112640/http://www.gaylife.co.jp/?p=1775|archivedate=2012-04-15}}</ref>。[[2011年東京都知事選挙]]において、[[東国原英夫]]・[[渡邉美樹]]・[[小池晃]]など他の立候補者が原発の危険性を強く指摘し、原発の廃止や見直しを訴えていた中、原発の増設・推進に賛成の意を表していた立候補者は石原だけである。ただし東京の臨海地帯に[[東京風ぐるま]]の建設を許可するなど、再生エネルギーを否定しているというわけではない<ref>[http://www.otsuka-t.jp/activity_BN/bn004_activity.html 『東京臨海風力発電所開所式に出席』大つかたかあき]</ref>。
 
;首相への暴行呼びかけ:[[2010年]](平成22年)[[6月19日]]、[[札幌市]]内で開かれた[[たちあがれ日本]]の集会で、[[菅直人]]内閣総理大臣について、「もし、自衛隊の[[中央観閲式|観閲式]]の国旗入場で立たなかったら、構わないから殴れ。殴られてもしょうがない」と発言した<ref>{{Cite news|url=http://www.hokkaido-np.co.jp/news/politics/237582.html|title=「構わず首相を殴れ」 観閲式めぐり石原都知事が発言|publisher=北海道新聞|date=2010-06-20|accessdate=2010-06-20}}</ref>。
 
;女性専用車両:2012年2月24日の都庁定例記者会見で、記者から「女性専用車両は差別では」との質問に際に、「混雑差はそんなにあるのか」「女性は弱者ではない」「今度俺が女性専用車両乗ってみるが痴漢扱いされたら問題提起する」と、女性専用車両にある数々の問題を厳しく指摘する見解を示された。しかし、その一方で、知事をしていた当時、[[東京都交通局]]では[[都営地下鉄]]に女性専用車両を設置している。[http://www.youtube.com/watch?v=U04E6G2Cy8o&list=PLC6839F661C03104D 記者会見の中継動画]
 
;東京中央郵便局建替問題:[[2009年]](平成21年)、当時の[[総務大臣]][[鳩山邦夫]]が[[東京中央郵便局]]建物の[[文化財]]的価値に鑑み、建替えに反対の立場をとっている問題に関して、石原都知事は、計画前後までに文化財的価値を指摘すれば計画自体に大きな変化があったのであり、そのため建物を残すことには無理があり、大きな計画そのものを棄損しかねないとして、建物の一部を保存した現行の建替え案への容認を示し、鳩山総務相に苦言を呈した。併せて都は同日中に建替えを認める[[都市計画]]決定である[[JPタワー]]計画を行った<ref>[http://mainichi.jp/select/seiji/news/20090307k0000m010100000c.html 東京中央郵便局:都が建て替え認める都市計画決定] [[毎日新聞]] 2009年3月6日{{リンク切れ|date=2017年9月}}</ref>。この建て替え工事は2012年5月31日に終了し、2013年3月21日にグランドオープンを迎えた。
 
;賃貸住宅の所有者と賃借人の法的権限:[[2012年]](平成24年)3月に、[[立川市]]の都営アパートで住民が孤立死した事件に関し、記者会見で「住んでいる人たちは権利者じゃなく使用者。管理人が合鍵で入って、元気ならああ失礼しました、お元気でって帰ればいいじゃないですか」と、管理者の都住宅供給公社の姿勢を批判した<ref>[[東京新聞]]2012年3月10日付朝刊したまち版26頁「石原知事会見ファイル 9日発言」。</ref>
 
;「ニート」・フリーター :ニート・フリーターについて、「[[ニート]]なんて格好いいように聞こえるけど、みっともない。無気力・無能力な人間のことです」<ref>[http://www.metro.tokyo.jp/POLICY/TOMIN/GIRON/eif85100.htm 「次代の日本と世界を担う若者とは…」平成17年度第1回「〜東京ビッグトーク〜石原知事と議論する会」議事概要] H17.8.5</ref>「今、ニートなんて、ふざけたやつがほとんどだよ」<ref>[http://www.metro.tokyo.jp/GOVERNOR/KAIKEN/TEXT/2006/060118.htm 石原知事臨時記者会見録 平成18 (2006) 年1月18日 (水) ]</ref>「[[フリーター]]とかニートとか、何か気のきいた外国語使っているけどね、私にいわせりゃ穀つぶしだ、こんなものは」<ref>{{リンク切れ|date=2010年3月}}[http://www.gikai.metro.tokyo.jp/netreport5/no_4/04.htm 都議会ネットリポートno_4/04.htm]</ref>との見解を示している。[[田中良 (政治家)|田中良]]都議から、石原が (働いている) フリーターも穀つぶしと非難したことは[[ワーキングプア]]に対しての無理解であるとの指摘を受け、「私の言葉を勝手に引用されまして歪曲されていますが、私が穀つぶしといったのは、これはフリーターじゃありませんよ。ニートのことはそう申しました。こういう歪曲した引用というのは非常に卑劣だと思います」と反論した<ref>{{リンク切れ|date=2010年3月}} [http://www.gikai.metro.tokyo.jp/gijiroku/honkaigi/2007-1/d5117211.htm 東京都議会本会議議事録 2007-1/d5117211.htm]</ref>。[[ネットカフェ難民]]について、2008年10月3日の定例会見では、「[[山谷 (東京都)|山谷]]に行けば1泊200円、300円で泊まれる宿がいっぱいあるのに、ファッションみたいな形で1泊1500円払いながら『オレは大変だ』なんて言うのはねえ」と述べ、彼らが苦境に陥っているとするのはマスコミの偏向だと主張した<ref>[http://www2.toonippo.co.jp/news_kyo/news/20081003010006601.asp カフェ難民の報道おかしい 石原都知事] 東奥日報 2008年10月3日{{リンク切れ|date=2009年10月}}</ref>。この発言は[[台東区]]長から猛抗議を受け、1週間後の定例会見で「数字が異なった」と撤回したが、同時に「1500円より安いとこ行ったらいいじゃないですか」とも述べている<ref>{{リンク切れ|date=2010年3月}} [http://mainichi.jp/select/today/news/20081011k0000m040079000c.html 石原都知事: 「山谷は200〜300円」発言を撤回] 毎日新聞 2008年10月11日</ref>。[[年越し派遣村]]問題については、[[2009年]](平成21年)[[1月5日]]、年頭の挨拶において[[厚生労働省]]の対応を批判した<ref>{{リンク切れ|date=2010年3月}}[http://sankei.jp.msn.com/politics/local/090105/lcl0901051820002-n1.htm 石原知事、派遣村問題で国に苦言「大事な現場を知らない」] MSN産経ニュース 2009年1月5日</ref>。
 
; 天皇 :[[2006年]]、「祭司たる天皇」というタイトルのエッセイの中で、天皇について、「天皇こそ、今日の世界に稀有となったプリースト・キング(聖職者王)だと思っている。」「天皇は本質的に宗教というよりも、宗教的しきたりも含めて日本の文化の根源的な資質を保証する祭司に他ならない」という見解を示している<ref name="tenno">[http://210.136.153.187/mailmagazine/no44.html 石原慎太郎エッセイ「日本よ」「祭司たる天皇」 産経新聞、2006年。] </ref>。そして、神道が日本人の感性の表象であるとし、過去の歴史の中で天皇が政治に様々な形で組み込まれ利用されてきた一面にも触れながら、「それらの時代を通じて天皇に関わる事柄として日本人が一貫して継承してきたものは、神道が表象する日本という風土に培われた日本人の感性に他なるまい。そして天皇がその最大最高の祭司であり保証者であったはずである。私がこの現代に改めて天皇、皇室に期待することは、日本人の感性の祭司としてどうか奥まっていただきたいということだ。」と書き綴っている<ref name="tenno"/>。石原の天皇に対する態度は複雑である。天皇を元首とし、[[君主]]としての行為を称えたり、天皇の[[靖国神社]]親拝を期待<ref name="yomiuri20130212">{{Cite news | url = http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20130212-OYT1T00987.htm | title = 石原氏、予算委で“独演会”…憲法や尖閣諸島で「神道の祭司である天皇陛下に、国民を代表してぜひぜひ参拝していただくことをお願いしてほしい」 | agency = [[読売新聞社]] | publisher = [[YOMIURI ONLINE]] | date = 2013-02-12 | accessdate = 2013-02-12 }}</ref>する時もあれば興味が無いと言ったりもする。[[東日本大震災]]の発生から少し経った[[2011年]](平成23年)[[3月30日]]、天皇に対し[[皇太子徳仁親王]]夫妻と[[秋篠宮]]夫妻を名代として被災地への見舞いに差し向けることを建言するも、天皇は「[[東北]]へは私が自分でいきます」と答えた。のちに天皇は被災した各地を慰問したが、[[2012年]](平成24年)2月に天皇が[[狭心症]]と診断されたことから、石原は「私の建言なんぞの前に陛下はとうにご自分で心に決めておられていたのだと思う」としつつも「しかし陛下にじかに、余計だったかも知れぬ建言を申し立てた私としては、陛下が心臓の病で倒れられたと聞いた時密かな自責の念に囚われぬ訳にはいかなかった」と記し、「(東日本大震災一周年追悼式にて)式辞を述べられ退席される陛下に出来れば私は、二階正面から陛下の御健勝を祈って天皇陛下[[万歳]]を叫びたかった」「陛下はその身の危うさを顧みることなく見事な[[君主]]として、そして見事な男として、その責を果たされたものだと思う」と天皇を称えたり<ref>{{Cite news|title=【日本よ】石原慎太郎 天皇陛下の勇気 - MSN産経ニュース|newspaper=[[産経新聞]]|date=2012-04-02|url=http://sankei.jp.msn.com/life/news/120402/imp12040203120002-n1.htm|accessdate=2012-10-15}}</ref>、「神道の祭司である天皇陛下に、国民を代表してぜひぜひ参拝して頂く事をお願いして欲しい」と天皇の[[靖国神社]]親拝を切望したり<ref>石原慎太郎 衆議院予算委員会国会議事録 2013年、2月12日。</ref><ref name="yomiuri20130212" />、運輸相だった1989年9月22日の記者会見で「天皇陛下は元首でもあるが、それ以上に、国民のおとうさんみたいなものだ」と述べて、天皇を元首とし憲法に明記すべきとの見解であるが<ref name="asahi19890110">[http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2003/01291/contents/015.htm 元首はだれか 「象徴」に揺れる解釈(政治の中の天皇:3)]1989年1月10日 朝日新聞朝刊</ref><ref>[http://sensenfukoku.net/philosophy/nation/constitution/ 『「アメリカ信仰」を捨てよ』 光文社、2000年、11月。]「憲法改正までに十年をかけるという意見が膾炙しているが、しかしそんな呑気なことでいいのだろうか」</ref>、27歳頃には『文藝春秋』1959年8月号で「天皇が国家の象徴などという言い分は、もう半世紀すれば、彼が現人神だという言い分と同じ程度笑止千万で理の通らぬたわごとだということになる、というより問題にもされなくなる、と僕は信じる」<ref>『文藝春秋』1959年8月号</ref>、28歳頃には[[深沢七郎]]の小説『風流夢譚』が皇室への不敬とされる描写で物議をかもした折、『週刊文春』1960年12月12日号で「とても面白かった。皇室は無責任きわまるものだったし、日本に何の役にも、立たなかったのだ。そういう、皇室に対するフラストレーション(欲求不満)を、われわれ庶民は持っている。この作品の感覚は、庶民の意識としては、ぜんぜんポピュラーだ、読んでいてショックもなかった」<ref>『週刊文春』1960年12月12日号</ref>との発言が見られ、[[文學界]]の[[2014年]]3月号のインタビューで、聞き手の[[中森明夫]]から皇室について考えを尋ねられた時には「いや、皇室にはあまり興味ないね」と答え、小学生の時に、皇居の前で父親に「頭下げろ」と小突かれ、「姿も見えないのに遠くからみんなお辞儀する。馬鹿じゃないか、と思ったね」と当時を回想している<ref>{{Cite news|title=石原慎太郎氏「君が代は歌詞を変えて歌う」と発言 「斉唱が義務」の教員もそんなことが許されるのか?|newspaper=J-CASTニュース |date=2012-03-04|url=http://www.j-cast.com/2014/03/04198326.html|accessdate=2014-03-21}}</ref>。月刊ペン 1969年11月号に掲載された[[三島由紀夫]]と石原慎太郎の対談内では、三島が戦後のパーソナルな人間天皇制が一番いけないとの見解を述べて天皇の話題を切り出し、それに対し石原は「そうです。昔みたいにちっとも神秘的ではないもの。」と応じている。三島は再度、天皇をパーソナルなものにするということは天皇制に対する反逆だとの見解を述べ、石原は「僕もまったくそう思う。」と応じ、その後に三島は「石原さんみたいな、つまり非常に無垢ではあるけれども、天皇制廃止論者をつくっちゃった」と述べ、石原は「僕は反対じゃない。幻滅したの」と応じている。その時に、三島は「幻滅論者というのはつまりパーソナルにしちゃったから幻滅したんですよ。」と結論づけた<ref>[[三島由紀夫]]・石原慎太郎の対談『守るべきものの価値』(月刊ペン 1969年11月号に掲載)</ref><ref name="naotake">『[[尚武のこころ]] 三島由紀夫対談集』([[日本教文社]]、1970年。1986年再刊)に所収。</ref><ref name="taidan40">『決定版 三島由紀夫全集第40巻・対談2』(新潮社、2004年)に所収。</ref>。[[夏季オリンピック|オリンピック]]誘致活動においては、皇族の協力を求めている。今上天皇へ皇居のライトアップを奏上したことを公表し、宮内庁に咎められたこともある<ref>『産経新聞』2002年10月21日</ref>。これに対して石原は「宮内庁ごときが決める問題ではない」と宮内庁を批判し皇族の協力を要求した<ref>[http://b.hatena.ne.jp/entry/sankei.jp.msn.com/culture/imperial/080704/imp0807041933001-n1.htm はてなブックマーク - 「宮内庁ごときが決める問題ではない」石原知事が反発 五輪招致 皇太子さまご協力問題 - MSN産経ニュース] 2008.7.4 </ref>。[[2008年]](平成20年)2月には「あそこで装備を見せることで国民の自覚、危機感が出てくる」として弾道ミサイルを地上から迎撃する航空自衛隊の[[パトリオットミサイル|地対空誘導弾ペトリオットPAC-3]]を[[皇居前広場]]で展開すべきとの見解を示している。
 
; 日の丸・君が代:[[毎日新聞]]([[1999年]](平成11年)[[3月13日]]付)のインタビューにて「[[日の丸]]、[[君が代]]を学校の行事に強制しますか?」という質問に対し「日の丸は好きだけれど、君が代って歌は嫌いなんだ、個人的には。歌詞だってあれは一種の[[滅私奉公]]みたいな内容だ。新しい国歌を作ったらいいじゃないか。好きな方、歌いやいいんだよ。」と答えている。一方で、都知事就任後は文部省の決定に則して都立学校の公式行事における君が代の斉唱と[[国旗]]掲揚の徹底をし、君が代を起立して斉唱しなかった教師に対し懲戒処分を行った。この処分に対し東京都立学校の教職員173人が、都に処分の取り消しと1人あたり55万円の賠償を求める訴訟を東京地裁に起こしている<ref>[http://www.asahi.com/special/061213/TKY200702090332.html asahi.com: 君が代不起立で処分は違法 173人が提訴 東京地裁 - 石原都政特集] 2007年2月9日</ref>。[[文學界]]の2014年3月号で、[[中森明夫]]からインタビューを受けた時に「僕、国歌歌わないもん。国歌を歌うときはね、僕は自分の文句で歌うんです。『わがひのもとは』って歌うの」。そして、こう歌うと周りの人たちが驚いて振り返るのだと明かしている<ref>{{Cite news|title=石原慎太郎氏「君が代は歌詞を変えて歌う」と発言 「斉唱が義務」の教員もそんなことが許されるのか?|newspaper=J-CASTニュース |date=2012-03-04|url=http://www.j-cast.com/2014/03/04198326.html|accessdate=2014-03-21}}</ref>。
 
;靖国:靖国神社には毎年8月15日に参拝し、総理大臣には「もし首相が靖国に行かなければ、この国は芯からガラガラと崩れていく」<ref>(2005年6月都議選応援演説)</ref>と参拝を求め、天皇の[[靖国神社]]親拝を期待する発言を行い、[[小谷喜美]]との対談の中で「日本が行った戦争がすべて[[侵略]]だから[[靖国]]に参拝するななんていう[[進歩的文化人]]の連中はおかしい。」と述べている。一方で<ref name="yomiuri20130212" />、[[A級戦犯]]の靖国合祀に関しては異議を唱えたこともある<ref>『産経新聞』2005年9月5日</ref>。「靖国が日本の興亡のために身を挺して努め戦って亡くなった功ある犠牲者を祭り鎮魂するための場であるなら、彼等を無下に死に追いやった科を受けるべき人間が鎮魂の対象とされるのは面妖な話である」「戦争の明らかな責任者を外して合掌している」と述べている。拳銃が決して致命に至らぬ最小の22口径で自決しようとした[[東条英機]]より、潔く自決した[[大西滝治郎]]中将や[[阿南惟幾]]陸相を靖国へ合祀しない事に異議を唱えた。石原は東条の「戦陣訓」の中の「生きて虜囚の辱めを受けず」なる文言が当時の日本の社会の中でいかに恐ろしい拘束力を持ち、いかに多くの犠牲者を生み出したか、と述べている。
 
; ジェンダー・性・障害者・同性愛:自著の『真実の性教育』(1972年,光文社)では、「同性愛など、そうした衝動が衝動として異常とは、けっして言いきれない。」「それを日々の性愛の生活のなかにいちいち体現するのは、これはアブノーマルかもしれぬ。しかしある程度のものは、じつは性生活、性愛のスパイスのようなもので、適度に用いられれば、性生活、性愛の高揚につながるはずである」といっている<ref>『真実の性教育』(1972年,光文社)</ref>。また、自身の書いた小説に同性愛をテーマにした『待伏せ』という1967年に発表された短編が存在する。現在の石原と国家観が異なる[[豊崎由美]]と[[栗原裕一郎]]は『待伏せ』を「たとえ芥川賞候補作であっても、A評価で推せるくらいの秀作ですよ」と評価し、「コワイ」「ナガイ、ヨル」などと文字を書き合って会話する描写を見た豊崎が「かーわーいーいー!」「セックスよりも濃いっ」とはしゃいだりする一幕もあった<ref>[http://lite-ra.com/2014/06/post-175_2.html "同性愛嫌い"の石原慎太郎が書いた「BL小説」がすごい]リテラ</ref>。高校教師と生徒との同性愛関係を描いた『バスタオル』([[福島次郎]]著)が1996年(平成8年)、第115回[[芥川龍之介賞|芥川賞]]候補となった際、石原はこの小説を強く推し、「ここに描かれている高校教師とその生徒との関わりは間違いなく愛であり、しかも哀切である。誰かがこれが男と女の関係ならばただの純愛小説だといっていたが、もしそうとしてもそれがなぜ小説としての瑕瑾となるのか」、「この作品だけが私には官能的なものとして読めた。小説が与える官能こそが小説の原点的な意味に違いない」と賞賛している。ちなみに著者の福島は、三島由紀夫との赤裸々な同性愛関係を綴った「剣と寒紅」の著者でもある。2000年代に入った頃からは[[2010年]](平成22年)[[12月3日]]の記者会見で、「テレビなんかにも同性愛者が平気で出るでしょ。日本は野放図になり過ぎている。」と同性愛者の露出に言及するなど、センセーショナルに報じられるようになる<ref>[http://mainichi.jp/area/tokyo/news/20101204ddlk13010267000c.html 都青少年健全育成条例改正案: PTA団体など、都に成立求め要望書/東京] 毎日新聞 2010年12月4日 地方版</ref>。同年12月7日、この発言の真意を記者から尋ねられ、「どこかやっぱり足りない感じがする。遺伝とかのせいでしょう。マイノリティーで気の毒ですよ」と答えた。さらに過去に米・サンフランシスコを視察した際の感想を振り返り、「ゲイのパレードを見ましたけど、見てて本当に気の毒だと思った。男のペア、女のペアあるけど、どこかやっぱり足りない感じがする」と話した。同性愛者のテレビ出演についても、「それをことさら売り物にし、ショーアップして、テレビのどうのこうのにするってのは、外国じゃ例がないね」と改めて言及した<ref>[http://mainichi.jp/select/wadai/news/20101208k0000m040122000c.html 石原都知事:同性愛者「やっぱり足りない感じ」]毎日jp 2010年12月7日</ref>。この発言は日本国外でも問題になり、国際人権団体[[ヒューマン・ライツ・ウォッチ]]は発言を撤回すべきだとする声明文を発表した<ref>[http://www.hrw.org/ja/news/2011/02/01 日本 東京都知事は同性愛者差別発言を撤回すべき | Human Rights Watch]</ref>。またWSJの日系記者は日本国内の一部のメディアしか大きく問題視しなかったことに疑問を呈した<ref>[http://jp.wsj.com/US/Economy/node_179629 【肥田美佐子のNYリポート】米人権団体が石原都知事の同性愛差別発言に「ノー」 ウォールストリートジャーナル日本版]</ref>。また人権救済申し立てを受けた[[日本弁護士連合会]]から2度にわたり警告を受けている<ref>[http://www.nichibenren.or.jp/activity/document/complaint/year/2014/140422.html 元東京都知事石原慎太郎氏宛て警告(HTML版)][http://www.nichibenren.or.jp/library/ja/opinion/hr_case/data/2014/complaint_140422.pdf 元東京都知事石原慎太郎氏宛て警告(文書)] 日本弁護士連合会2014年4月22日</ref>。2010年代には、石原の同性愛に関する発言がセンセーショナルな話題になると、同年、同性愛者コミュニティや一般社会の橋渡し役となった個人や団体を表彰する目的で開催されるTokyo SuperStar Awards (TSSA) の「ラズベリー賞」([[ゴールデンラズベリー賞]]の[[オマージュ]])を受賞した。TSSA公式サイトよると、反同性愛的な独自の主張を展開しながらも、同性愛者が市長や市議会議長であるパリ市・ベルリン市及びニューヨーク市との姉妹友好都市を提携し、また、都民サービスの一環として東京都庁をTSSAの授賞式に利用させたり、2007年の[[ゲイ・パレード|LGBT パレード]]に都として後援したりするなど、「私利私欲・主張を傍らに、真摯に東京都民の公益のみに邁進」している点が評価されての受賞となった。副賞として、苺のミルフィーユ味のアイスクリームが送られた<ref>{{Cite web|author=|authorlink=|coauthors=|date=2010-12-08|url=http://www.tokyosuperstarawards.com/?p=376|title=TSSA2010 ラズベリー賞の発表!!|work=PRESS |pages=|publisher=Tokyo SuperStar Awards|language=[[日本語]]|accessdate=2010-12-10}}</ref><ref>{{cite news |title=石原都知事、TSSAラスベリー賞を受賞 |author= |authorlink= |url= http://www.gaylife.co.jp/?p=1286 |agency= |newspaper= [[GAY LIFE JAPAN]] |publisher=コチ株式会社 |location= [[東京都]] |date= 2010-12-09 |page= |pages= |accessdate=2010-12-10 |language= [[日本語]]}}</ref>。障害者についての発言が政治問題化したのは、[[1999年]](平成11年)9月に東京都知事として府中療育センター(重度知的・身体[[障害者]]療育施設)を視察した後の記者会見での発言だった。「ああいう人ってのは人格あるのかね。ショックを受けた。ぼくは結論を出していない。みなさんどう思うかなと思って。絶対よくならない、自分がだれだか分からない、人間として生まれてきたけれどああいう障害で、ああいう状態になって」と発言した。次いで「おそらく西洋人なんか切り捨てちゃうんじゃないかと思う。そこは宗教観の違いだと思う。ああいう問題って安楽死につながるんじゃないかという気がする」と発言意図を説明した。上記の発言が一部のメディアで問題発言として報道され、知的障害者団体からも抗議された。石原は「文学者としての表現」と弁明している<ref>『[[朝日新聞]]』1999年9月18日</ref>。[[東京新聞]]はさらに詳しく発言を取材しており、視察の帰りがけに「入所者は自分がだれだか分からない。(彼らに)人生がない、というくくり方をする人もいるが、それなりの人生があるんだという一つの確信を持って仕事をしているのは、素晴らしいことだ」と発言していることを報じた。石原は自身の発言を[[差別]]発言として報道した[[朝日新聞社]]に対して、[[産経新聞]]紙上で「卑劣なセンセーショナリズムであり、アジテーションであり、社会的には非常に危険なこと」として批判している。[[ジェンダーフリー]]問題を巡り、[[フェミニスト]]とは日常的に応酬し合っている。「[[女性]]が[[生殖]]能力を失っても生きているってのは無駄で罪です <ref>NPO法人JKSK「[http://www.jksk.jp/j/matsunobu/200301.htm 異議あり-偉そうな男たちの言葉の暴力- (松信章子) ]」</ref>」「男は80、90歳でも生殖能力があるけれど、女は閉経してしまったら子供を生む能力はない。そんな人間が、[[きんさん・ぎんさん]]の年まで生きてるってのは、地球にとって非常に悪しき弊害」「文明がもたらしたもっとも悪しき有害なものはババァ」<ref>『[[週刊女性]]』2001年11月6日号</ref>と識者の話を引用する形で発言をし([[ババア発言]])、[[裁判]]に発展したが、最高裁で石原側の勝訴が確定している。性の問題については『太陽の季節』などの小説で奔放な性を描き、都政でも未成年者の[[性行為|性交]]を禁止する条例案には疑問を示しており、必ずしも[[保守]]派と同じ歩調を取っているわけではない<ref>『朝日新聞』 東京版 2004年9月25日付「中学生の性交渉条例で禁止せず 知事が表明」</ref>。
 
 
 
==== 障碍者について ====
 
 
 
:[[文學界]]2016年10月号において精神科医の[[斎藤環]]との対談で、[[相模原障害者施設殺傷事件]]について、「この間の、障害者を十九人殺した相模原の事件。あれは僕、ある意味で分かるんですよ」と発言し<ref>文學界2016年10月号128ページ</ref>、さらに、「昔、僕がドイツに行った時、友人がある中年の医者を紹介してくれた。彼の父親が、ヒトラーのもとで何十万という精神病患者や同性愛者を殺す指揮をとった。それを非常にその男は自負して、『父親はいいことをしたと思います。石原さん、これから向こう二百年の間、ドイツ民族に変質者は出ません』と言った」と肯定する発言を行った<ref>文學界2016年10月号129ページ</ref>。
 
;老人の出処進退:[[1975年]](昭和50年)、初の東京都知事選挙出馬の演説で、対立候補の[[美濃部亮吉]](当時71歳)に関し「もう新旧交代の時期じゃありませんか、美濃部さんのように[[前頭葉]]の退化した六十、七十の老人に政治を任せる時代は終わったんじゃないですか」と発言し<ref>[[沢木耕太郎]]著 沢木耕太郎ノンフィクションIII 時の廃墟 ISBN 4163648704 p.222『シジフォスの四十日』</ref>、政治家は遅くとも70歳前に引退すべきとする考えを表明した。しかしながら、石原自身は78歳になってもなお、自らの都知事4期目当選を狙って[[2011年東京都知事選挙|2011年都知事選]]に立候補し、当選した。さらに、2012年には都知事を辞任して国会へ復帰し、新たに[[日本維新の会 (2012-2014)|日本維新の会]]の代表になるなど、80歳を過ぎても政界から引退する意志は全くない考えを示している。
 
;冒険家堀江謙一の世界一周について:[[堀江謙一]]の277日間単独無寄港世界一周成功を全否定した。[[週刊プレイボーイ]]1975年11月25日号で「堀江クンの世界一周は、ヨット仲間の常識からいってウソなんだ。絶対にやってないよ。あのときつかったヨットではあんな短期間に世界一周ができるはずはないんだ。彼のほかにも、イギリスの[[ロビン・ノックス]]が312日間、チャイ・ブロイスチャイ・ブロイス――(以下略)」<ref>[[週刊プレイボーイ]]1975年11月25日号</ref>また、朝日新聞社の取材ヘリが堀江のマーメイド号から[[航海日誌]]を吊り上げ回収したことに「国際法違反だ」と指摘した。[[本多勝一]]は、『貧困なる精神(121)』において、この石原の行為を「小心者の卑劣な嫉妬心」と批判した。
 
;[[小池百合子]]について:[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]・[[公明党]]・[[日本のこころを大切にする党]]から推薦で[[2016年東京都知事選挙]]に立候補した[[増田寛也]]の決起集会(2016年7月27日)に長男の伸晃と共に参加した際、「とにかく岩手県で行政手腕を発揮した増田さんに任せないとね、やっぱり厚化粧の女に任せるわけにはいかないね、これは」と増田への支援を呼びかける一方、小池に対しては「大年増の厚化粧がいるんだな、これが。これはね。困ったもんでね。」と評した<ref>{{Cite news | url = https://www.j-cast.com/2016/07/27273726.html?p=all | title = 「大年増の厚化粧が...」 石原慎太郎氏の小池氏罵倒、「逆効果」の気配【都知事選2016】 | work = J-CASTニュース | publisher = [[ジェイ・キャスト]] | date = 2016-07-27 | accessdate = 2018-03-25 }}</ref>。小池が都知事に当選した翌日の8月1日、次男の良純がテレビ番組『[[モーニングショー]]』で「おそらく小池先生もご存じだとは思いますけど、石原慎太郎というのはああいう人ですので、たぶん謝らないと思いますので、私がかわりに...」と述べ、小池に謝罪した<ref>{{Cite news | url = https://www.j-cast.com/2016/08/01274112.html?p=all | title = 「お父さんには大変お世話になりました」 小池百合子氏が石原良純に放った余裕の笑顔【都知事選2016】 | work = J-CASTニュース | publisher = [[ジェイ・キャスト]] | date = 2016-08-01 | accessdate = 2018-03-25 }}</ref>。
 
;[[枝野幸男]]について:[[第48回衆議院議員総選挙]]直前の[[2017年]]10月に[[民進党]]の[[希望の党]]への合流方針に反対姿勢を示して[[立憲民主党 (日本)|立憲民主党]]を結成した際には「節を通した枝野は本物の男に見える」と評した。<ref>{{Cite news | url = https://m.huffingtonpost.jp/2017/10/16/shintaros-twitter_a_23245397/ | title = 「枝野は本物の男に見える」 石原慎太郎氏が絶賛(衆院選2017) | publisher = [[ハフポスト]] | date = 2017-10-17 | accessdate = 2018-07-01 }}</ref>。
 
;海外メディアの反応:[[オーストラリア放送協会|ABC]]からはフランスの極右政治家に例えて「日本の[[ジャン=マリー・ル・ペン|ル・ペン]]」<ref>[http://www.abc.net.au/worldtoday/stories/s546099.htm The World Today Archive - Japan's Le Pen] 2002.5.2 {{en icon}}</ref>、[[中央日報]]からは「極右<!-- 政治家 -->勢力の代表」<ref>[http://jpadm.joins.com/article/article.php?aid=109998&servcode=500&sectcode=500 「中国が北朝鮮と合併するのがいちばん楽」] 中央日報2009年1月14日{{ja icon}}</ref>、[[フィガロ (新聞)|フィガロ]]や[[リベラシオン]]からは「[[国家主義]]的思想の持ち主」「右翼[[ポピュリズム|ポピュリスト]]」<ref>[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-04-28/2006042804_03_0.html 石原都知事が「現代美術は無」-仏メディアが批判](2006.4.28 しんぶん赤旗)</ref>、[[エコノミスト]]からは「日本右翼の年老いたゴロツキ(old rogue of the Japanese right)」<ref>[http://www.economist.com/node/21564263 Nationalism in Japan:Beware the populists(日本のナショナリズム:ポピュリストを警戒せよ)] エコノミスト2012年10月6日{{en icon}}</ref>と呼ばれるなど、各国のマスコミからは[[極右]]政治家と認識されている。石原は自らを「真ん中よりちょっと左と思っている」と述べている<ref>[http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140324/stt14032407590001-n3.htm【単刀直言】石原慎太郎・日本維新の会共同代表] 産経新聞 2014年3月24日配信</ref>。
 
;諸団体との関わり
 
:1976年、[[世界基督教統一神霊協会|統一協会(統一教会)]]の「希望の日晩餐会」に出席し、あいさつをした<ref>[http://dailynk.jp/archives/46963/4 【日韓国交50年】歴史問題も霊感商法も“どこ吹く風”…統一教会と蜜月「日本の大物政治家」たち] デイリーNK 2015年6月22日</ref>。
 
:2000年(平成12年)、[[犯罪被害者]]の権利確立を目指す[[全国犯罪被害者の会]]代表幹事の[[岡村勲]]弁護士が[[文藝春秋]]に寄稿した「私は見た『犯罪被害者』の地獄絵」を読み感銘を受けた石原のほか、[[瀬戸内寂聴]](作家)、[[奥田碩]]([[日本経済団体連合会|経団連]]会長、[[如水会]]理事長)、[[樋口廣太郎]]([[アサヒビール]]名誉会長)が代表発起人となり「犯罪被害者の会を支援するフォーラム」が設立された。事務局長には石原と大学同期の[[高橋宏]]([[首都大学東京]]理事長、[[如水会]]副理事長)と、山本千里([[如水会]]理事兼事務局長)が就任した<ref>[http://www.navs.jp/report/2/event1/event1-8.htm l 祝辞]全国犯罪被害者の会 NAVS【あすの会: シンポジウム】、[http://www.navs.jp/report/2/event1/event1-6.html 全国犯罪被害者の会を支援するフォーラム代表/首都大学東京理事長高橋宏氏]全国犯罪被害者の会 NAVS【あすの会: シンポジウム】。</ref>。同フォーラムは全国犯罪被害者の会へ経済的支援を行い、2004年(平成16年)の[[犯罪被害者等基本法]]の成立、2007年(平成19年)の[[刑事訴訟法]]改正による[[被害者参加制度]]創設、2008年(平成20年)の[[犯罪被害者等給付金の支給等による犯罪被害者等の支援に関する法律]]改正の実現などに尽力した<ref>[[松村恒夫]][http://www8.cao.go.jp/hanzai/kou-kei/houkoku_h20/asahikawa_giji_kicho.html 「犯罪被害者の現状と必要な支援」][[内閣府]],2008年</ref><ref>「[http://www8.cao.go.jp/hanzai/kou-kei/houkoku/osaka_contents.html 「犯罪被害者週間」国民のつどい]」内閣府,2006年</ref>。岡村は[[2007年]](平成19年)4月に開かれた如水会有志による「石原慎太郎東京都知事、激励と懇親の会」に出席、来賓祝辞を述べ、[[2007年東京都知事選挙]]で再選を目指す石原を激励した。2010年(平成22年)には全国犯罪被害者の会創立10周年記念シンポジウムが[[有楽町]]で開催され、代表幹事の岡村の開会あいさつの後、石原の祝辞があった。
 
:政界進出にあたり、自身の後見人的立場だった当時の[[産経新聞]]社主[[水野成夫]]を介して[[霊友会]]の支持を取りつけ、大量の組織票を獲得する<ref>『てっぺん野郎』</ref>自らも霊友会の信者であり、自らの信仰についての著作(「法華経を生きる」など)も書いており、霊友会の機関誌「あした21」に連載を持っている<ref>[http://www.reiyukai.or.jp/backnumber/backnumber_02_11.html あした21 (2002年) 11月号のご案内]</ref>。霊友会初代会長小谷喜美を師として仰いでおり、霊友会現会長大形市太郎と対談を行っている<ref>[http://www.reiyukai.or.jp/backnumber_05_01.html あした21 (2005年)1月号のご案内]</ref>。また、2002年(平成14年)には霊友会の新年会で挨拶している<ref>[http://web.archive.org/web/20070930124420/http://www.onokiyoko.com/album/main22.html 霊友会 新年会]</ref>。石原慎太郎本人は霊友会と深い関係にあるが、子息の[[石原伸晃]]は[[崇教真光]]、[[石原宏高]]は[[幸福の科学]]に入信しており、一族で別々の[[新宗教]]からの支援を受けている。いずれの三団体はフランスの1995年のフランス議会委員会報告により[[政府の文書によってセクトと分類された団体一覧|セクト宗教]]として取り扱われている。
 
:[[公明党]]は[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]と並んで事実上石原都政の与党である<ref>[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-03-01/2007030125_01_0.html 東京都知事選 共産党が推す吉田万三氏 自公民が支える石原都政変える確かな力] 2007.3.1 しんぶん赤旗</ref>2003年と2007年の選挙では選挙支援を受けている。[[2007年参院選]]では[[公明党]]による都知事選支援の見返りとして、東京選挙区から出馬する[[公明党]]公認の[[山口那津男]]の応援で街頭演説するなどしている<ref>[http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/69566/ http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle<br />/politics/69566/] {{リンク切れ|date=2010年3月}}</ref>。[[1999年]](平成11年)の都知事選の直前の[[週刊文春]]誌における「あなたの[[池田大作]]氏への人物評価をお聞かせ下さい」との質問に対して、「悪しき天才、巨大な俗物」と回答していた。あわせて創価学会に日本の政治が壟断されている現実を「情けない限り」と評していた<ref>『週刊文春』2007年3月29日号</ref>。かつては[[創価学会]]に対する批判はしばしば辛辣を極め、『悪辣にして極めて危険な[[カルト]]集団』と表現するなど、長年にわたり『亡国の徒に問う』などの著書類をはじめとして、様々な媒体で批判を行っていた。日本の新興宗教論「巷の神々」を産経新聞に連載中に創価学会を取り上げ学会と争いになる<ref name="ISBN 4344400011">石原慎太郎『法華経を生きる』 ISBN 4344400011</ref>。
 
:「[[戸塚ヨットスクール]]を支援する会」を組織し、戸塚ヨットスクールの教育方針を全面的に支持している。殊に、戸塚ヨットスクール主宰者である[[戸塚宏]]の教育方針の支柱をなす「[[脳幹論]]」(脳細胞そのものをトレーニングしてその機能を高めることにより、教育問題の解決を目指すと主張する<ref>[http://www.totsuka-yacht.com/kaikaku.htm 教育改革に関する意見 戸塚ヨットスクール]</ref>)に共鳴し、「今の日本人が弱くなったのは[[脳幹]]が弱くなったからだ。これは医学的にも証明されている」とする主張を[[産経新聞]]のコラム(『日本よ』)や、自らの公式サイト上で公開している。
 
:石原と同じく[[日本会議]]代表委員である「[[崇教真光]]」代表者・[[岡田恵珠]]と『岡田光玉師御対談集』(崇教真光編集)において、対談を行っている30ページの記事がある<ref>[http://web.archive.org/web/20021007225344/http://www.geocities.com/Tokyo/shrine/5712/protocols.htm THE DEMON IN THE PROTOCOLS] (Garry Greenwood,英語) </ref>。長男の[[石原伸晃]]が少年の頃、[[岡田光玉]]と岡田恵珠が自宅に訪れたエピソードを伸晃が同宗教団体の42周年秋季大祭([[2001年]])の祝辞にて披露する<ref>『崇教真光』誌平成13年12月号</ref>。また、伸晃は45周年秋季大祭([[2004年]])にて自身が信徒であることを明らかにし、信徒としての立場をメインに祝辞を述べている<ref>『崇教真光』誌 平成16年12月号</ref>。
 
 
 
=== 新党構想 ===
 
:中央政界の政変の度に石原首相待望論・石原新党構想などが[[保守]]系マスコミを中心として頻繁に取り沙汰された。2010年、都知事と並行して「たちあがれ日本」を結党し、国政にも間接的に関わるようになる。民主党政権が末期症状に陥った2012年には、「次の首相」の世論調査で大阪市長を務めていた[[橋下徹]]と首位を分け合うまでに至る。同年、石原は都知事を辞任、橋下と「日本維新の会」を結成して国政復帰を果たす<ref name="yomiuri20121025"/><ref name="asahi20121025"/>。
 
 
 
=== 交流 ===
 
:大学同期の[[高橋宏]] (後の[[日本郵政]]副社長)、[[高原須美子]] (元[[経済企画庁長官]])、[[鳥海巌]] (元[[丸紅]]社長) と親しく、4家族で毎年旅行にいく仲であった<ref>1999/05/31, 日本経済新聞</ref>。のちに石原都政で、高原は[[都営地下鉄大江戸線|都営地下鉄12号線]]路線名称選考委員会委員長、鳥海は東京都の[[外郭団体]]から[[民営化]]された[[東京国際フォーラム]]の初代社長、高橋は都立大学を統合して設立された[[首都大学東京]]の初代理事長などをそれぞれ務めた。慎太郎は大学2年の終わり頃から、小金井の下宿を出て小平の一橋寮で暮らすようになった。これを機に高橋との交流は深まり、3年になると高橋のいる柔道部に入部した<ref name="Sanop217219"/>。
 
 
 
{{要出典範囲|[[高倉健]]、[[藤田まこと]]、[[立川談志]]と交流があった。|date=2015年11月}}
 
 
 
=== 議員連盟 ===
 
* [[憲法20条を考える会]](顧問)
 
* [[国際観光産業振興議員連盟]](最高顧問)
 
* [[自主憲法研究会]](顧問)
 
* [[2020年東京オリンピック・パラリンピック大会推進議員連盟]](名誉顧問)
 
 
 
== 家族・親族 ==
 
=== 石原家 ===
 
; ([[愛媛県]][[松山市]]・[[八幡浜市]]・[[大洲市]]、[[兵庫県]][[神戸市]][[須磨区]]、[[北海道]][[小樽市]]、[[神奈川県]][[逗子市]]、[[東京都]])
 
; 家系
 
: 慎太郎によれば、「私も幼い頃家族しての神奈川県から愛媛、[[広島県|広島]]への大[[旅行]]で父や母の実家を初めて訪れた時に会った、まだ元気でいた父の母親と母の父親の記憶をこの旅で見た他の何よりも強い印象で覚えていますが、何故かそれはその後私が成長していってからの方がますます鮮やかで確かな記憶として心に刻まれてきたような気がする。そして父や母が亡くなった後、父や母への追憶に重ねてそれがますます懐かしく鮮やかに思い出されるようになりました。」という<ref>石原慎太郎『法華経を生きる』217頁</ref>。
 
: 石原家は'''潔''' (慎太郎の父) の2代前の[[石原安太夫]]の時代に絶家となった (理由は不明) <ref name="Sanop2835"/>。それを再興するため服部家から[[服部信義]]の二男の[[石原信直|信直]]が石原家に入った<ref name="Sanop2835"/>。石原家再興の当主となった[[1862年]] ([[文久]]2年)生まれの信直と、[[1867年]]([[慶応]]3年)生まれの妻ササヨの間には、潔を含めて6人の子供が生まれた<ref name="Sanop2835"/>。長男の[[石原克己]]、長女の壽万 (すま)、二男の[[石原静夫]]、三男の'''潔'''、二女の美壽 (みす)、四男の[[石原真砂]] (まさご) の6人である<ref name="Sanop2835"/>。信直の職業は[[警察官]]だった<ref name="Sanop2835"/>。'''潔'''は[[愛媛県]][[長浜町 (愛媛県)|長浜町]](現[[大洲市]])に生まれ、幼少期は八幡浜や宇和島など、西宇和、南宇和地区ですごした<ref name="Sanop19">『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』19頁</ref>。
 
: 石原本家の[[菩提寺]]は[[八幡浜市]][[保内町]]の龍潭(りょうたん)寺である<ref name="Sanop2835"/>。
 
: 佐野との対談の中で慎太郎は「うちの本家はそもそも石原ではなく服部なんです。そんな[[名門|大家]]でもないけれど、元は、落魄 (らくはく) <ref name="落魄(らくはく)"/>した[[士族]]です。先祖は[[武田氏|武田]]の[[浪士|残党]]でそれが[[松山市|松山]]に流れて服部姓を名乗った。[[弓 (武器)|弓]]の名人だったらしく、戦 (いくさ) で七人殺したか、まあ七十人は殺さなかったでしょうが (笑)、それで七つ矢車の[[家紋]]を許された。歴代、服部勘助を名乗った服部本家の血筋をひいている親父の親父が石原家に入って、それ以来石原姓を名乗った。」と述べている<ref name="Sanop2835"/>。
 
: [[AERA]]誌のインタビューのとき、ノンフィクション作家の[[吉田司]]に慎太郎は「うちは[[士族]]の出でね<ref name="taizyou_p190">[[斎藤貴男]]・[[吉田司]]『石原慎太郎よ、退場せよ!』190頁</ref>。カッコいいんだ<ref name="taizyou_p190"/>。武田の[[武士]]でね、弓矢の名人でね、[[家紋]]が7つ矢の矢車なんですよ<ref name="taizyou_p190"/>。武田軍団って、戦強かったでしょ<ref name="taizyou_p190"/>。うちの家訓はね、『明日の戦、わが身無念と心得べし』ってんですよ<ref name="taizyou_p190"/>。つまり死ぬだろうと……<ref name="taizyou_p190"/>。だから俺の親父もわりと覚悟して、毎晩接待で[[酒]]飲み続けて、仕事で死んでいった<ref name="taizyou_p190"/>。『今宵の宴、わが身無念と心得べし』じゃないけどね (笑) <ref name="taizyou_p190"/>」と述べている。
 
 
 
* 祖父・'''[[石原信直]]'''([[警察官]])
 
: [[1862年]]([[文久]]2年)生 - [[1922年]]([[大正]]11年)没
 
: [[服部信義]]の二男として生まれ石原家に入った<ref name="Sanop2835"/>。
 
* 祖母・'''ササヨ'''
 
: [[1867年]]([[慶応]]3年)生 - 没
 
* 父・'''潔'''([[商船三井|山下汽船]]社員)
 
: [[File:Ishihara Family.jpg|thumb|300px|right|<div style="text-align:center">[[北海道]]の[[小樽市|小樽]]にて家族写真<br />(左から父・潔、弟・[[石原裕次郎|裕次郎]]、母・[[石原光子|光子]]、慎太郎)</div>]]
 
: [[1899年]]([[明治]]32年)12月生 - [[1951年]]([[昭和]]26年)10月没
 
:; 生い立ち
 
:: [[愛媛県]][[八幡浜市|八幡浜]]に隣接する[[長浜町 (愛媛県)|長浜]]という港町に生まれた<ref name="Sanop19"/>。[[警察官]]石原信直・ササヨの三男。父・信直の人事異動に伴って、幼い頃は信直の赴任先である愛媛県各地の[[派出所]]を随分転々とさせられた<ref name="Sanop2835"/>。[[1922年]]([[大正]]11年)、父・信直が59歳で亡くなり、子供たちはみんな非常に苦労したという<ref name="Sanop47">『てっぺん野郎』47-58頁</ref>。
 
:; 山下汽船へ
 
:: [[1913年]]([[大正]]2年)3月、宇和島男子尋常高等小学校を卒業し、旧制宇和島中学(現在の[[愛媛県立宇和島東高等学校|宇和島東高校]])に進んだが、入学から一年もしないうちに同校を[[中退]]している<ref name="Sanop2835"/>。中退の理由はわからない<ref name="Sanop2835"/>。[[1914年]]([[大正]]3年)、山下汽船に入社。当時潔はまだ14歳の少年だった<ref name="Sanop2835"/>。潔の山下汽船入社時の身分は店童 (てんどう)だった<ref name="Sanop2835"/>。
 
:: 慎太郎によれば、「(潔は)本当は大学へ行きたかったんだけど、家の事情で行けなかったようです<ref name="Sanop47"/>。家は落魄 (らくはく) <ref name="落魄(らくはく)">落魄(らくはく)とは、落ちぶれること</ref>する一方だったようですからね<ref name="Sanop47"/>」という。
 
:: 店童 (てんどう)として入社してから5年目[[台湾]]赴任時代の[[1919年]]([[大正]]8年)12月正式の社員となった<ref name="Sanop173">『てっぺん野郎』173-174頁</ref>。
 
:: [[1942年]]([[昭和]]17年)9月山下汽船小樽出張所は小樽支店に格上げされた<ref name="Sanop173"/>。この組織改革に伴って潔はそれまでの小樽出張所長から小樽支店長心得に出世し、翌18年1月1日を以って、正式に小樽支店長となった<ref name="Sanop173"/>。慎太郎が10歳のときだった<ref name="Sanop173"/>。しかし潔が小樽支店長の肩書を使ったのは二ヵ月にも満たなかった<ref name="Sanop173"/>。同年2月15日には東京支店副長の辞令が出て、足かけ8年すごした小樽を後にした<ref name="Sanop173"/>。同じ年の10月には子会社の山下近海機船(昭和24年山下近海汽船に改組改称)に転出となり、山下汽船のほうは[[嘱託社員|嘱託]]扱いとなった<ref name="Sanop173"/>。
 
:: 店童 (てんどう) あがりだったにもかかわらず、最後は[[関連会社]]の[[重役]]にまで出世した。
 
:; 人柄
 
:: 妻光子が書いた『おばあちゃんの教育論』によると、潔は身長百七十五センチ、体重は八十キロもあった大男であだ名は“クマさん”だったという<ref name="Sanop47"/>
 
:: 先妻は元大同海運社長[[崎山好春]]の妻の[[姪]]にあたる<ref name="Sanop47"/>。
 
:: [[佐野眞一]]によれば、「[[商船三井|山下汽船]]OBたちの間からは潔を絶賛する声が次々とあがった<ref name="Sanop47"/>。その評価のなかに仕事に関するものはほとんどなく、[[酒]]や人とのつきあいに関するものばかりだったといってよい<ref name="Sanop47"/>。潔が“人間的”魅力にあふれていたことは間違いないようである<ref name="Sanop47"/>。」という。
 
:: 慎太郎によれば、「親父は僕ら兄弟と一緒にいると、いつも相好を崩していた<ref name="Sanop62">『てっぺん野郎』62-66頁</ref>。怒るときは怒ったけど、ああいう偏愛っていうか溺愛っていうか、動物的な愛情の示し方は、おふくろはしなかった<ref name="Sanop62"/>。ですから、どこが似てるかっていわれれば、そういうところが似てると思うし、なんか言わなくていいことを言って、平気で相手をコキオロシたりするところは、おふくろに似てるし… (笑) <ref name="Sanop62"/>。」という。
 
:; 晩年
 
:: 晩年には今まで家になかった[[仏壇]]をしつらえて、毎朝出勤する前に必ず合掌して[[お経]]を上げるようになったという<ref>石原慎太郎『法華経を生きる』99頁</ref>。
 
:: 慎太郎によれば、「朝など時折、前夜の接待が遅くまでになって、好きではあったが医者に禁じられている酒を毒と知りつつ自らに強いて接待に努め疲れて戻った父が、眠りも足りなかったのだろう、[[高血圧]]のせいもあって、舌がもつれて[[お経]]を読む声がいつもと違って少し呂律が回らず、自分でもそれがわかるのかいらいらしながら同じ部分を何度も唱えなおしているのを床の中で聞きながら、子供なりに心を痛めたのを覚えています。そして結局父は五十一歳で、当時としても若死にしました」という<ref>石原慎太郎『法華経を生きる』100頁</ref>。
 
* 母・'''光子'''([[加藤三之助]]の娘)
 
: [[File:Ishihara Mituko.jpg|thumb|150px|right|<div style="text-align:center">母・石原光子<br />(神戸第二高女時代)</div>]]
 
: [[1909年]]([[明治]]42年)9月生 - [[1992年]]([[平成]]4年)6月没。
 
:; 生い立ち
 
:: [[2002年]](平成14年)[[2月24日]]に[[テレビ朝日]]系で放送された『[[グレートマザー物語]]』では、光子は[[広島県]]の生まれと紹介している<ref name="tv-asahi-mother-20224"/>。
 
:; 厳島での生活
 
:: 加藤家は[[厳島神社]]の[[参道]]で[[土産物]]屋を開いた。光子がいくつのとき厳島に移ってきたかははっきりしない。光子は[[大正]]末期か[[昭和]]のはじめ頃に厳島を出ていった。地元の古老によれば「光子が厳島を出ていったのは、[[継母]]との折り合いが悪かったからだろう」という。
 
:; 神戸での生活、結婚
 
:: 厳島を出た光子が誰を頼って神戸に出たかについてははっきりしていない。慎太郎によれば「神戸ではおばさんの家に寄宿していたんでしょう。その家は[[三宮]]にあって、[[貿易]]商だったみたいですよ。そこに預けられたけれど、[[従姉妹]]にあたる娘となかなかそりがあわなくて、ずいぶん意地悪されたって言ってましたけど。それで(第二高女を卒業後)東京に行ったんだという言い方をしてましたけどね。名前はたしかタケウチさんといったかな。」という<ref name="Sanop62"/>。
 
:: 光子の神戸での寄宿先は竹内五一商店という貿易商だった<ref name="Sanop62"/>。<!-- 信憑性に乏しい人物(佐野眞一)による情報源の記述を修正 -->慎太郎は、潔と光子の[[見合い]]は[[芦屋市|芦屋]]に住む河野という女性が仲介したという話は聞いているが、それ以外は知らない、といった。
 
:: [[1927年]](昭和2年)3月に神戸市立第二[[高等女学校]] (現[[神戸市立須磨高等学校|神戸市立須磨高校]]) を卒業した<ref name="Sanop62"/>。第二高女を卒業した光子は絵描きを目指して上京した<ref name="Sanop62"/>。
 
 
 
* 弟・'''[[石原裕次郎|裕次郎]]''' ([[俳優]]、歌手)
 
: [[1934年]]([[昭和]]9年)12月生 - [[1987年]](昭和62年)7月没。
 
:* 同妻・'''[[石原まき子|まき子]]''' (元[[俳優|女優]])
 
:* 子どもはない
 
* 妻・'''[[石原典子|典子]]'''([[石田光治]]の娘)
 
: [[1938年]](昭和13年)1月生 -
 
: 典子の父親石田光治は落下傘の[[紐]]などを製造する東洋麻糸という[[紡績]][[会社]]に勤めていた<ref name="Sanop259">『てっぺん野郎』255-259頁</ref>。典子は父光治が同社の彦根工場に赴任し召集令状を受け中国戦線に出征した後、母方の実家のある[[広島市]]己斐町 (現・[[西区 (広島市)|西区]]己斐) で生まれた<ref name="Sanop259"/>。光治は典子が生まれて十ヵ月後の1938年(昭和13年)秋、中支の攻略戦で敵の弾丸を受け、胸部貫通銃創で戦死した<ref name="Sanop259"/>。
 
: 典子が慎太郎と母同士が知り合いだった関係で出会い、淡い憧れのような感情を抱いたのは12歳の頃だったという<ref name="Sanop259"/>。
 
: 結婚について慎太郎は[[阿川佐和子]]との対談で「まあね、面倒臭いからしちゃったんですよねえ<ref name="Sanop262">『てっぺん野郎』262-263頁</ref>。今でいう[[ラブホテル]]から二人で出てくるのを[[親戚]]に見つかって、おっかないおばあさんにいいつけられちゃった (笑) <ref name="Sanop262"/>。それで、呼びつけられて“切れるか[[結婚]]するか、どっちだ?”って言われて、しょうがないから"結婚します"って決心しちゃったのよ (笑) <ref name="Sanop262"/>」と述べている。
 
* 長男・'''[[石原伸晃|伸晃]]'''(政治家)
 
: [[1957年]](昭和32年)4月生 -
 
:* 同妻・'''[[田中理佐|里紗]]'''(元女優・[[タレント]])
 
* 二男・'''[[石原良純|良純]]'''(俳優・タレント、[[気象予報士]])
 
: [[1962年]](昭和37年)1月生 -
 
* 三男・'''[[石原宏高|宏高]]'''(銀行員、政治家)
 
: [[1964年]](昭和39年)6月生 -
 
* 四男・'''[[石原延啓|延啓]]''' ([[画家]])
 
: [[1966年]](昭和41年)生 -
 
* '''末弟'''(あるいは'''従兄弟''')
 
: [[1940年]](昭和15年)3月生 -
 
: 最初、潔の[[戸籍]]に入っていたが、のち他家に[[養子]]縁組した<ref name="Sanop154">『てっぺん野郎』153-154頁</ref>。この男性によれば、父親は潔ではなく潔の弟の真砂 (まさご) であるという<ref name="Sanop154"/>。なおこの男性の"父"という真砂 (まさご) と"母"という女性の間に正式の[[結婚|婚姻]]関係はない<ref name="Sanop154"/>。この男性が[[養子]]縁組した祖母の家と、[[山下亀三郎]]の生家は直接の血縁関係はないが、遠い縁戚にあたる<ref name="Sanop154"/>。
 
* 異母兄('''小河姓''')
 
: 父・潔が先妻との間にもうけた子。
 
: 潔の[[姉]]壽万 (すま) 夫婦に子供がなかったため[[養子]]に行った。[[1952年]]([[昭和]]27年)、神戸商大を卒業して[[山下汽船]]と同じ[[資本]]系列にある第一汽船に入社した<ref name="Sanop47"/>。
 
* 伯母・'''壽万''' (すま、[[教員]])
 
: 父・潔の姉、異母兄 (小河姓) の[[養親|養母]]。
 
: 慎太郎によれば「壽万 (すま) さんという伯母さんは苦労して資格をとって学校の先生になった」という<ref name="Sanop47"/>。
 
: 慎太郎の異母兄 (小河姓) によれば「(壽万 (すま) の夫は)一時[[獣医]]をやっていましたが、すぐにやめて[[明石市]]の[[市役所]]の公吏になりました<ref name="Sanop47"/>。仕事は[[税務]]関係です<ref name="Sanop47"/>。養母も明石小学校の[[教員]]をやっとったから、生活的には困ったことはありません<ref name="Sanop47"/>」という。
 
* 伯父・'''[[石原克己]]'''、'''[[石原静夫]]'''
 
: 父・潔の兄。
 
: [[1944年]]([[昭和]]19年)から敗戦までは、[[家制度|本家]]である克己の石原家は[[八幡浜市|八幡浜]]から[[今治市|今治]]に[[疎開]]していた<ref name="Sanop39">『てっぺん野郎』39頁</ref>。
 
* 叔父・'''[[石原真砂]] '''(まさご)
 
: [[1939年]]([[昭和]]14年)没
 
: 父・潔の弟。
 
* 叔母・'''美壽'''(みす)
 
: 父・潔の妹。
 
* [[認知]]した子('''男'''、元[[ホステス]]との間に出生、1994年認知)
 
: [[1996年]](平成8年)3月、慎太郎の[[愛人]]問題が発覚<ref name="Sanop404">『てっぺん野郎』404頁</ref>。このスキャンダルをスクープした写真週刊誌は、「愛人は[[銀座]]の高級クラブの元ホステスで、二人の間には一九八〇年代はじめに生まれた男の子もいる<ref name="Sanop404"/>。母子はいま母の故郷の雪深い町でひっそりと暮している。」と報じた<ref name="Sanop404"/>。
 
 
 
; 小泉家との関係
 
: 妻典子の従兄弟の子にあたる美枝子が政治家の[[小泉純一郎]] (元首相) の実弟・[[小泉正也]]と結婚した<ref>慎太郎は小泉が首相に就任する以前のインタビューで「小泉君は女房と同じ横須賀の出身で、[[親戚]]筋なんだ。血がつながってないんで、ほっとしているけど (笑)」と述べている (系図でみる近現代より) </ref>。
 
 
 
=== 系図 ===
 
<div style="font-size:80%">
 
{{familytree/start}}
 
{{familytree|border=1| | | | |mata|-|yoshi| | | | |mata=[[小泉又次郎]]|yoshi=[[小泉芳江|芳江]]}}
 
{{familytree|border=1| | | | | | | | | |:| |,|zyun|v|kou|zyun=[[小泉純一郎]]|kou=[[小泉孝太郎]]}}
 
{{familytree|border=1| | | | | | | | | |:| |!| | | |!| |}}
 
{{familytree|border=1| | | | | | | | | |}|-|(| | | |`|shin|shin=[[小泉進次郎]]}}
 
{{familytree|border=1| | | | | | | | | |:| |!| |}}
 
{{familytree|border=1| | | | | | | | | |:| |`|masa|masa=[[小泉正也]]}}
 
{{familytree|border=1| | | | | | | | |sumi| | |:| | |sumi=[[小泉純也]]}}
 
{{familytree|border=1| | | | | | | | | | | | | |:| | }}
 
{{familytree|border=1| | | |,|zyuu |-|kichi|-|mie| | | | | |zyuu=[[石田重蔵]]|kichi=[[石田吉之輔]]|mie=美枝子}}
 
{{familytree|border=1| | | |!| | | | | | | | | | | }}
 
{{familytree|border=1| | | |!| | | | | | | | | | | }}
 
{{familytree|border=1| | | |!| | | | | | | | | | | }}
 
{{familytree|border=1| | | |`|mitsu|-|nori| | | | |mitsu=[[石田光治]]|nori=[[石原典子|典子]]}}
 
{{familytree|border=1| | | | | | | | | |:| |,|nobute|nobute=[[石原伸晃]]}}
 
{{familytree|border=1| | | | | | | | | |:| |!| | | }}
 
{{familytree|border=1| | | | | | | | | |}|-|+|yoshi|yoshi=[[石原良純]]}}
 
{{familytree|border=1| | | | | | | | | |:| |!| | | }}
 
{{familytree|border=1| | | | | | | | | |:| |)|hiro|hiro=[[石原宏高]]}}
 
{{familytree|border=1| | | | | | | | | |:| |!| | | }}
 
{{familytree|border=1| | | | | | | | | |:| |`|nobuh|nobuh=[[石原延啓]]}}
 
{{familytree|border=1| | | | | | | |,|shinn| | | | |shinn='''石原慎太郎'''|boxstyle_shinn=background-color: #afa;}}
 
{{familytree|border=1|nobu|-|kiyo|!| | | | | |nobu=[[石原信直]]|kiyo=[[石原潔]]}}
 
{{familytree|border=1| | | | | |:| |!| | | | | | | }}
 
{{familytree|border=1| | | | | |}|-|(| | | | |}}
 
{{familytree|border=1| | | | | |:| |!| | | | | | | }}
 
{{familytree|border=1|katou|-|mitu|!| | | | | | | |katou=[[加藤三之助]]|mitu=光子}}
 
{{familytree|border=1| | | | | | | |`|yuu| | | | |yuu=[[石原裕次郎]]}}
 
{{familytree|border=1| | | | | | | | | |:| | |}}
 
{{familytree|border=1| | | | | | | | | |:| | | | | }}
 
{{familytree|border=1| | | | | | | | | |:| | |}}
 
{{familytree|border=1| | | | | | | | |maki | |||maki=[[石原まき子|まき子]]}}
 
{{familytree/end}}
 
</div>
 
 
 
== 著書 ==
 
=== 創作 ===
 
{{Multicol}}
 
* [[太陽の季節]] 新潮社、(1956年[[芥川龍之介賞|芥川賞]]受賞・1955年[[文学界新人賞]]受賞) のち新潮文庫 ISBN 4-10-111901-5
 
* 北壁 三笠書房 1956
 
* [[狂った果実 (小説)|狂った果実]] 新潮社、1956 のち角川文庫
 
* 日蝕の夏 三笠書房 1956
 
* 理由なき復讐 三笠書房 1956
 
* 若い獣 新潮社 1957 のち角川文庫
 
* [[完全な遊戯]] 新潮社、1958 のち角川文庫
 
** (完全な遊戯、若い獣、乾いた花、[[鱶女]]、[[ファンキー・ジャンプ]]、狂った果実)
 
* 海の地図 角川書店 1958 のち文庫
 
* 亀裂 文藝春秋新社、1958 のち角川文庫、新潮文庫 1960, ISBN 4-10-111902-3
 
* 月蝕 角川書店、1959 のち文庫
 
* 夜を探がせ 光文社 1959 のち角川文庫
 
* 男の掟 角川書店 1959
 
* 乾いた花 文藝春秋新社 1959
 
* 殺人教室 新潮社 1959 のち角川文庫
 
* 青年の樹 1-2 角川書店 1959-1960 のち文庫
 
* 挑戦 新潮社 1960 のち文庫
 
* 見知らぬ顔 新潮社 1960
 
* 青い糧 講談社 1961
 
* 汚れた夜 新潮社 1961 のち集英社文庫
 
* 死んでいく男の肖像 角川書店 1961
 
* 雲に向かって起つ 第1-2 集英社 1962
 
* 禁断 角川書店 1962 のち文庫
 
* 断崖 新潮社 1962
 
* 狼生きろ豚は死ね・幻影の城 新潮社 1963[戯曲]
 
* 日本零年 文藝春秋新社 1963 のち角川文庫
 
* 密航 新潮社 1963
 
* てっぺん野郎 青雲編 集英社 1963
 
* 死の博物誌 新潮社 1963
 
* '''石原慎太郎文庫''' 全8巻 河出書房新社 1964-1965
 
* 行為と死 河出書房新社 1964 のち新潮文庫
 
* てっぺん野郎 昇竜編 集英社 1964
 
* 銀色の牙 講談社 1964 のち角川文庫
 
* 傷のある羽根 文藝春秋新社 1964
 
* 終幕 集英社 1964 のち文庫
 
* 青春とはなんだ 講談社 1965 のち角川文庫
 
* 命の森 読売新聞社 1965 のち角川文庫
 
* 星と舵 河出書房新社 1965 のち新潮文庫
 
* おゝい、雲! サンケイ新聞出版局 1965 のち角川文庫
 
* 砂の花 新潮社 1965
 
* 人魚と野郎 集英社 1965 のち角川文庫
 
* 大いなる海へ 集英社 1965
 
* 還らぬ海 講談社 1966
 
* 飛べ、狼 講談社 1966
 
* 青い殺人者 集英社 1966 のち文庫
 
* 野性の庭 河出書房 1967
 
* 黒い環 河出書房新社 1967
 
* 野蛮人のネクタイ 読売新聞社 1968 のち集英社文庫
 
* 鎖のついた椅子 新潮社 1969
 
{{Multicol-break}}
 
* 化石の森 ([[芸術選奨]]文部大臣賞受賞) 新潮社 1970 のち文庫
 
* 野蛮人の大学 集英社 1971 のち文庫
 
* 信長記 河出書房新社 1972
 
* 石原慎太郎短編全集 新潮社 1973
 
* 男の海 集英社 1973
 
* 風の神との黙約 北洋社 1975[散文詩集]
 
* 大いなる手との黙約 文藝春秋 1976
 
* 光より速きわれら 新潮社 1976
 
* 刃鋼 文藝春秋 1976 のち角川文庫
 
* 暗闇の声 光文社 1977
 
* 嫌悪の狙撃者 中央公論社 1978 のち文庫
 
* 一点鐘 集英社 1979
 
* 亡国 日本の突然の死 角川書店 1982 のち文庫
 
* 大いなる海へ 舵社 1983 (海洋文庫)
 
* 秘祭 新潮社 1984 のち文庫
 
* 生還 ([[平林たい子賞]]受賞) 新潮社 1988 ISBN 4-10-301505-5
 
* 不思議な不思議な航海 白泉社 1990[絵本]
 
* [[わが人生の時の時]] 新潮社 1990 のち文庫
 
* 十代のエスキース 成瀬書房 1991[画集]
 
* 遭難者 新潮社 1992
 
* 風についての記憶 集英社 1994 のち幻冬舎文庫 ISBN 4-08-774059-5
 
* わが人生の時の会話 集英社 1995 のち幻冬舎文庫 ISBN 4-08-774163-X
 
* 弟 ([[毎日出版文化賞]]特別賞受賞) 幻冬舎 1996 のち文庫 ISBN 4-87728-119-3
 
* 肉体の天使 新潮社 1996
 
* 聖餐 幻冬舎 1999 のち文庫 ISBN 4-87728-306-4
 
* 僕は結婚しない 文藝春秋 2001 のち文庫 ISBN 4-16-320380-X
 
* 『石原愼太郎の文学』全10巻 文藝春秋 2007 (以下が収録作品。括弧の数字は収録巻)
 
** 刀鋼 (はがね) (1) ISBN 4-16-641580-8
 
** 化石の森 (2)
 
** 亀裂 (3)
 
** 死の博物誌 (3)
 
** 星と蛇 (4)
 
** 風についての記憶 (4)
 
** 行為と死 (5)
 
** 暗殺の壁画 (5)
 
** 光より速きわれら (6)
 
** 秘祭 (6)
 
** 生還 (7)
 
** 弟 (7)
 
** わが人生の時の時 (8)
 
** 短編集I『太陽の季節』『完全な遊戯』 (9)
 
** 短編集II『遭難者』 (10)
 
* 火の島 文藝春秋、2008
 
* 生死刻々 文藝春秋、2009
 
* 再生 文藝春秋、2010
 
* やや暴力的に 文藝春秋、2014
 
* [[天才 (石原慎太郎の作品)|天才]] 幻冬舎、2016
 
* 海の家族 文藝春秋、2016
 
* 救急病院 幻冬舎、2017
 
{{Multicol-end}}
 
 
 
=== 短編作品 ===
 
* 灰色の教室 一橋文芸 復刊第1号、1954年12月
 
* 太陽の季節 文學界 1955年7月号
 
* 冷たい顔 文學界 1955年9月号
 
* 取り返せぬもの 新女苑 11月号
 
* 奪われぬもの 文學界 1956年2月号
 
* 処刑の部屋 新潮 1956年3月号
 
* 日蝕の夏 別冊文藝春秋 50号、1956年3月
 
* 失われた女 新女苑 1956年3月号
 
* 北壁 新潮 1956年6月号
 
* 空港にて 別冊文藝春秋 52号、1956年6月
 
* 悪い夢 小説新潮 1956年6月号
 
* 透きとおった時間 文學界 1956年7月号
 
* 狂った果実 オール讀物 1956年7月号
 
* 婚約指輪 小説公園 1956年7月号
 
* 青い舷燈 知性 1956年8月号
 
* 傷痕 別冊文藝春秋 54号、1956年10月
 
* 恋の戯れ 新潮 1956年11月号
 
* 男だけ 別冊文藝春秋 55号、1956年11月
 
* 舞扇 小説春秋 1956年12月号
 
* ヨットと少年 理由なき復讐 (三笠書房、1956年)に書き下ろし
 
* 若い獣 文藝春秋 1957年1月号
 
* 旅の果て 文藝 1957年1月号
 
* 接吻泥棒 オール讀物 1957年2月号
 
* 蟷螂の庭 新潮 1957年4月号
 
* 白い翼の男 別冊文藝春秋 58号、1957年6月
 
* 谷川 知性 1957年8月号
 
* 完全な遊戯 新潮 1957年10月号
 
* ギンザ・ファンタジア オール讀物 1957年10月号
 
* それだけの世界 別冊文藝春秋 61号、1957年12月
 
* 栄光を白き腕に 小説新潮 1958年1月号
 
* 水中花 宝石 1958年2月号
 
* 乾いた花 新潮 1958年6月号
 
* 怒りの果実 オール讀物 1958年6月号
 
* 男の掟 別冊文藝春秋 65号、1958年8月
 
* 鱶女 文學界 1958年10月号
 
* 遊戯の終点 小説新潮 1958年10月号
 
* 不死鳥 オール讀物増刊 スポーツ読本 1958年10月号
 
* 夜の道 新潮 1959年7月号
 
* 太陽の餌 聲 4号、1959年7月
 
* ファンキー・ジャンプ 文學界 1959年8月号
 
* ともだち 新潮 1959年8月号
 
* 顔のない男 オール讀物 1959年8月号
 
* 男たち 文學界 1959年10月号
 
* 殺人キッド 中央公論 文芸特集臨時増刊号、1959年10月
 
* 殺人教室 日本 1959年10月号
 
* 見知らぬ顔 小説新潮 1959年10月号
 
* 題名のないバラード 小説新潮 1959年4月号
 
* 十八歳 小説中央公論 臨時増刊号、1960年7月
 
* 黒い声 オール讀物 1960年7月号
 
* 誰 小説新潮 1960年8月号
 
* 神立ち船 小説新潮 1960年10月号
 
* ファンキーな出会い 〈恋のもざいく(1)〉 女性自身 1960年9月28日号
 
* 最後の接吻 〈恋のもざいく(2)〉 女性自身 1960年10月5日号
 
* 海は許す 〈恋のもざいく(3)〉 女性自身 1960年10月12日号
 
* ある別れ 〈恋のもざいく(4)〉 女性自身 1960年10月19日号
 
* 声 小説中央公論 第2号、1960年10月
 
* 密航 別冊文藝春秋 74号、1960年12月
 
* 吹きっさらし 小説中央公論 1961年1月号
 
* 紅い祭礼 小説新潮 1961年1月号
 
* 死んでいく男の肖像 オール讀物 1961年1月号
 
* 失われた道標 別冊文藝春秋 1961年3月
 
* 鴨 中央公論 1961年4月号
 
* 人間 新潮 1961年5月号(死の博物誌 に収録)
 
* 花火 小説新潮 1961年8月号
 
* 喪われた街 オール讀物 1961年9月号
 
* 十年選手 別冊文藝春秋 1961年9月号
 
* 腕 小説新潮 1961年11月号(死の博物誌 に収録)
 
* フィッシング・ボートの日記 日本 1961年11月号
 
* 明日に船出を 別冊文藝春秋 78号、1961年12月
 
* 鼓斬り オール讀物 1962年2月号
 
* 朝の微笑 新潮 1962年2月号
 
* 小さき闘い 文學界 1962年8月号(死の博物誌 に収録)
 
* 青い島白い波 別冊文藝春秋 81号、1962年9月
 
* 顔のない女 別冊文藝春秋 82号、1962年12月
 
* 閉ざされた部屋 文學界 1963年1月号
 
* 傷のある羽根 オール讀物 1963年1月号
 
* 白い小さな焔 文藝 1963年2月号
 
* 雲の上にいた 別冊文藝春秋 83号、1963年3月
 
* 狼の王子 小説新潮 1963年4月号
 
* 還らぬ海 文學界 1963年5月号
 
* 弔鐘 オール讀物 1963年6月号
 
* リキとタクとルリ 別冊文藝春秋 84号、1963年6月
 
* 屍体 文藝 1963年8月(死の博物誌 に収録)
 
* 裸の踊り子 オール讀物 1963年12月号
 
* 悪い娘 別冊文藝春秋 86号、1963年12号
 
* 鉛の部屋 小説現代 1964年5月号
 
* 歴史の外で オール讀物 1964年7月号
 
* 飛べ、狼 別冊文藝春秋 89号、1964年9月
 
* 聖書 オール讀物 1964年12月号
 
* 暴力 小説現代 1964年12月号
 
* 虚無と貞操 別冊文藝春秋 90号、1964年12月
 
* 一点鐘 風景 1965年1月号
 
* 貧しい海 文藝春秋 1965年1月号
 
* 大計画 オール讀物 1965年4月号
 
* 錆色の塔 小説新潮 1965年5月号
 
* 獅子の倒れた夜 日本 1965年7月号
 
* 盲目の天使 別冊文藝春秋 93号、1965年9月
 
* 灰波 文藝 1965年10月
 
* 天使よ、俺を起こしてくれ オール讀物 1965年11月号
 
* 水際の塑像 文藝 1966年1月号
 
* 聖衣 小説現代 1966年1月号
 
* 沈黙 文藝春秋 1966年3月号
 
* 野生の庭 文藝 1966年5月号
 
* 神の鎖 小説現代 1966年12月号
 
* 失踪者 別冊文藝春秋 98号、1966年12月
 
* 天使たちの革命 文藝 1967年1月号
 
* 癌対策――革命の童話 オール讀物 1967年1月号*1
 
* 死に神と殺し屋 オール讀物 1967年1月号初出不明*2
 
* 待伏せ 季刊藝術 1号、1967年4月
 
* L・S・D 文學界 1968年2月号
 
* 鎖のついた椅子 文學界 1969年2月号
 
* 神異 文藝春秋 1969年2月号
 
* 機密報告――ニッポンの危機 一九七×年 小説宝石 1969年2月号
 
* 明月鏡 文藝 1971年1月号
 
* 条約 文藝春秋 1972年1月号
 
* 国家についての個人的会話――歴史の備忘ノート 別冊文藝春秋 118号、1971年12月
 
* 桃花 文藝 1973年1月号(* 公人 と改題)
 
* 甘い毒 新潮 1973年7月号(光より速きわれら に収録)
 
* 救済 文學界 1973年7月号
 
* 天体 新潮 1973年8月号(光より速きわれら に収録)
 
* 院内 文學界 1974年1月号
 
* 孤島 新潮 1974年1月号
 
* 饗宴 新潮 1974年12月号(光より速きわれら に収録)
 
* 視つめている眼 別冊文藝春秋 132号、1975年6月
 
* 舞踏 文藝 1975年8月号(光より速きわれら に収録)
 
* パティという娼婦 野性時代 1978年6月号
 
* ボストンの夜 文藝 1981年8月号
 
* きょうだい すばる 1990年8月号
 
* ある行為者の回想 新潮 1992年1月号
 
* 遭難者 新潮 1992年5月号
 
* 風の使途たち すばる 1992年8月号(風についての記憶 に収録)
 
* 風の罠 すばる 1993年1月号(風についての記憶 に収録)
 
* 風についての記憶 すばる 1993年10月号(風についての記憶 に収録)
 
* 山からの声 新潮 1994年10月号
 
* 海からの声 新潮 1994年11月号
 
* 肉体の天使 新潮 1996年1月号
 
* 沢より還る 新潮 1996年9月号
 
* 海にはすべて 新潮 1998年1月号
 
* 空からの声 すばる 1999年3月号
 
* 青木ヶ原 新潮 2000年1月号
 
* 生き残りの水兵 新潮 2001年2月号
 
* ブラックリング 新潮 2002年1月号
 
* 夢のつづき――続 青木ケ原 文學界 2010年7月号
 
* 夢々々 文學界 2011年3月
 
* 世の中おかしいよ 文學界 2012年4月号
 
* 僕らは仲が良かった 文學界 2013年1月号
 
* 連作短篇集「やや暴力的に」文藝界 2013年10月号
 
 
 
=== 随筆 ===
 
{{Multicol}}
 
* 青春にあるものとして 河出書房 1956
 
* 価値紊乱者の光栄 凡書房 1958
 
* これが恋愛だ 講談社 1960
 
* 南米横断一万キロ 講談社 1960
 
* 孤独なる戴冠 河出書房新社 1966 のち角川文庫
 
* 青春との対話 (人生のことば) 番町書房 1967
 
* 巷の神々 サンケイ新聞出版局 1967
 
* 怒りの像 サンケイ新聞社出版局 1968 のち角川文庫
 
* 祖国のための白書 集英社 1968
 
* プレイボーイ哲学 集英社 (プレイボーイ・ブックス) 1968
 
* スパルタ教育 強い子どもに育てる本 光文社 1969 (カッパ・ホームス)
 
* 慎太郎の政治調書 講談社 1970
 
* 慎太郎の第二政治調書 講談社 1971
 
* 男の世界 集英社 1971
 
* 真実の性教育 学校では教えない人間の性 光文社 1972 (カッパ・ホームス)
 
* 酒盃と真剣 対話集 参玄社 1973
 
* 新和漢朗詠集 現代に息づく日本人の鼓動 いんなあとりっぷ 1973
 
* 対極の河へ 河出書房新社 1974
 
* 息子をサラリーマンにしない法 わが子よオレを越えて行け 光文社 1975 (カッパ・ホームス)
 
* 真の革新とはなにか 対論集 読売新聞社 1976
 
* 伯爵夫人物語 ヨットと海を愛する歓び 集英社 1976
 
* 情熱のための航海 大和出版 1976 (わが人生観)
 
* 戦士の羽飾り 男の博物誌 角川書店 1979
 
* バカでスウェルな男たち 男の美学 プレジデント社 1984
 
* 暗殺の壁画 河出書房新社 1984[ノンフィクション]
 
* 流砂の世紀に 新潮社 1985
 
* 現代史の分水嶺 文藝春秋 1987 のち文庫
 
* 拝啓息子たちへ 父から四人の子へ人生の手紙 光文社 1987 (カッパ・ホームス)
 
* 時の潮騒 日本と世界をめぐる父と子の14の対話 PHP研究所 1990 のち文庫
 
* 光速の時代に PHP研究所 1991
 
* 来世紀の余韻 中央公論社 1991
 
* [[三島由紀夫]]の日蝕 新潮社 1991 ISBN 4-10-301507-1
 
{{Multicol-break}}
 
* 禁断の島へ [[加納典明]]、大津善彦写真 集英社 1992
 
* かくあれ祖国 誇れる日本国創造のために 光文社 1994
 
* 亡国の徒に問う 文藝春秋 1996 のち文庫
 
* "父"なくして国立たず 光文社 1997 ISBN 4-334-97150-4
 
* 法華経を生きる 幻冬舎 1998 のち文庫 ISBN 4-87728-271-8
 
* 国家なる幻影 わが政治への反回想 文藝春秋 1999 のち文庫
 
* この日本をどうする 再生のための10の対話 文藝春秋 2001 のち文庫
 
* いま魂の教育 光文社 2001 ISBN 4-334-97225-X
 
* 生きるという航海 海竜社 2001 のち幻冬舎文庫
 
* 東京の窓から日本を 1-3 文春ネスコ 2001-2003
 
* わが人生の時の人々 文藝春秋 2002 のち文庫 ISBN 4-16-712809-8
 
* 老いてこそ人生 幻冬舎 2002 のち文庫 ISBN 4-344-40382-7
 
* 日本よ 扶桑社 2002 のち文庫
 
* 惰眠を貪る国へ 東京をテコに国を変える挑戦 扶桑社 2004
 
* 息子たちと私-子供あっての親 幻冬舎 2005 のち文庫 ISBN 4-344-01064-7
 
* 人の心を動かす「名言」 新装版 [[ロングセラーズ]] 2005 ISBN 978-4845404483
 
* 日本よ、再び 産経新聞出版 2006
 
* 東京の窓から世界を 対談集 PHP研究所 2007 ISBN 4-569-64656-5
 
* オンリー・イエスタディ 幻冬舎 2008
 
* 私の好きな日本人 [[幻冬舎]] 2008 のち新書
 
* 新・堕落論-我欲と天罰 2011 [[新潮新書]] ISBN 978-4106104268
 
* 私の海 2014 [[幻冬舎]] ISBN 978-4344026001
 
{{Multicol-end}}
 
 
 
== 共著 ==
 
* 新旧の対決か調和か [[賀屋興宣]] 経済往来社 1969
 
* 人間の原点 対話 [[小谷喜美]] サンケイ新聞社出版局 1969
 
* いかに国を守るか [[羽仁進]]、[[藤原弘達]] 日新報道 1970
 
* エベレスト 日本エベレスト・スキー探検隊の記録 [[三浦雄一郎]]共著 文藝春秋 1970
 
* 闘論 君は日本をどうするか [[野坂昭如]] 文藝春秋 1975
 
* 「NO」と言える日本 (共著: 盛田昭夫) 光文社カッパ・ホームス 1989 ISBN 4-334-05158-8
 
* それでも「NO」と言える日本 -日米間の根本問題- (共著: [[渡部昇一]]・[[小川和久]]) 光文社 1990 ISBN 4-334-05174-X
 
* 断固「NO」と言える日本 (共著: [[江藤淳]]) 光文社 1991 ISBN 4-334-05184-7
 
* 「No」と言えるアジア 対欧米への方策 [[マハティール・ビン・モハマド|マハティール]] 光文社 1994
 
* 宣戦布告「NO」と言える日本経済 アメリカの金融奴隷からの解放 [[市川周]]共著 光文社 1998 ISBN 4-334-97190-3
 
* 「アメリカ信仰」を捨てよ 二〇〇一年からの日本戦略 一橋総合研究所共著 光文社 2000
 
* 勝つ日本 [[田原総一朗]] 文藝春秋 2000 のち文庫
 
* 永遠なれ、日本 元総理と都知事の語り合い [[中曽根康弘]] PHP研究所 2001 のち文庫
 
* 人生への恋文-往復随筆 [[瀬戸内寂聴]] 世界文化社 2003 文春文庫 2008
 
* 日本の力 田原総一朗 文藝春秋 2005 のち文庫
 
* 生きる自信 健康の秘密 [[石原結實]]対談 海竜社 2008
 
* 鍛える! 嫌われても憎まれても果たすべき大人の役割 [[松平康隆]]対談 小学館 2009 ISBN 978-4093878449
 
 
 
== 随筆・対談・評論選集 ==
 
*石原慎太郎の思想と行為 第1巻 政治との格闘 産経新聞出版 (平成24年10月)
 
*石原慎太郎の思想と行為 第2巻 「NO」と言える日本 産経新聞出版 (平成24年10月)
 
*石原慎太郎の思想と行為 第3巻 教育の本質 産経新聞出版 (平成25年1月)
 
*石原慎太郎の思想と行為 第4巻 精神と肉体の哲学 産経新聞出版 (平成25年2月)
 
*石原慎太郎の思想と行為 第5巻 新宗教の黎明 産経新聞出版 (平成25年3月)
 
*石原慎太郎の思想と行為 第6巻 文士の肖像 産経新聞出版 (平成25年4月)
 
*石原慎太郎の思想と行為 第7巻 同時代の群像 産経新聞出版 (平成25年5月)
 
*石原慎太郎の思想と行為 第8巻 孤独なる戴冠 産経新聞出版 (平成25年6月)
 
 
 
== 作詞曲 ==
 
* [[狂った果実 (小説)#映画版|狂った果実]] (曲: [[佐藤勝]]、歌唱: 石原裕次郎)
 
* [[青年の樹 (1960年の映画)|青年の樹]] (曲: [[山本直純]]、歌唱: [[三浦洸一]])
 
* [[夏の終わり (曖昧さ回避)|夏の終わり]] (曲: 石原慎太郎、歌唱: [[ペギー葉山]]&石原慎太郎)
 
* [[青年の国をつくろう]] (曲: [[小林亜星]]、歌唱: 石原裕次郎)
 
* [[泣きながら微笑んで]] (曲: 石原慎太郎、歌唱: 石原裕次郎)
 
* [[さあ太陽を呼んでこい]] (曲: 山本直純、歌唱: [[NHK東京児童合唱団|東京放送児童合唱団]])
 
 
 
== 翻訳 ==
 
* [[ロバート・J.リンガー]]『型破りで勝つ!』三笠書房 1978
 
 
 
== 外国語訳 ==
 
* ''Season of Violence. The Punishment Room. The Yacht and the Boy.'' John G. Mills, Toshie Takahama & Ken Tremayne. Rutland, Vt. : C. E. Tuttle Co., 1966(太陽の季節、処刑の部屋、ヨットと少年)
 
* ''Undercurrents: Episodes from a Life on the Edge''(わが人生の時の時)Wayne P. Lammers 2006
 
* ''The Japan That Can Say NO'' 『NOといえる日本』
 
* ''Le Japon sans Complexe'' 『NOといえる日本』フランス語
 
 
 
== 関連作品 ==
 
=== 映画 ===
 
{{Multicol}}
 
* [[太陽の季節#映画|太陽の季節]] (1956年、原作・出演)
 
* [[処刑の部屋]] (1956年、原作)
 
* [[狂った果実 (小説)#映画版|狂った果実]] (1956年、脚本・原作・出演)
 
* [[日蝕の夏]] (1956年、脚本・原作・出演)
 
* [[婚約指輪 (映画)|婚約指輪]] (1956年、脚本・原作・出演)
 
* [[月蝕 (映画)|月蝕]] (1956年、原作)
 
* [[危険な英雄]] (1957年、出演)
 
* [[穴 (1957年の映画)|穴]] (1957年、唄・出演)
 
* [[俺は待ってるぜ]] (1957年、脚本)
 
* [[錆びたナイフ]] (1958年、脚本・原作)
 
* [[霧の中の男]] (1958年、脚本・原作)
 
* [[死の壁の脱出]] (1958年、脚本)
 
* [[若い獣]] (1958年、監督・脚本・原作)
 
* [[完全な遊戯]] (1958年、原作)
 
* [[海は狂っている]] (1959年、脚本・原作)
 
* [[海の地図]] (1959年、原作)
 
* [[海底から来た女]] (1959年、脚本・原作)
 
* [[夜を探がせ]] (1959年、原作)
 
* [[青年の樹 (1960年の映画)|青年の樹]] (1960年、原作)
 
* [[接吻泥棒]] (1960年、原作・出演)
 
* [[トップ屋を殺せ]] (1960年、脚本)
 
* [[愛と炎と]] (1961年、原作)
 
* [[青い狩人]] (1961年、原作)
 
* [[雲に向かって起つ (映画)|雲に向かって起つ]] (1962年、原作)
 
* [[禁断]] (1962年、原作)
 
* [[二十歳の恋]] (1962年、監督・脚本)
 
{{Multicol-break}}
 
* [[素晴らしい悪女]] (1963年、原作)
 
* [[狼の王子]] (1963年、原作)
 
* [[小さな冒険旅行]] (1963年、原作)
 
* [[乾いた花 (映画)|乾いた花]] (1964年、原作)
 
* [[敗れざるもの]] (1964年、原作)
 
* [[おゝい雲! (映画)|おゝい雲!]] (1965年、原作)
 
* [[青春とはなんだ (映画)|青春とはなんだ]] (1965年、原作)
 
* [[処刑の島]] (1966年、製作・脚本)
 
* [[これが青春だ!]] (1966年、脚本監修)
 
* [[男なら振りむくな]] (1967年、原作)
 
* [[復讐の歌が聞える]] (1968年、脚本・原作)
 
* [[狂戀詩 Summer Heat]] (1968年、原作)
 
* [[野蛮人のネクタイ]] (1969年、原作)
 
* [[スパルタ教育 くたばれ親父]] (1970年、原作)
 
* [[化石の森 (1973年の映画)|化石の森]] (1973年、原作)
 
* [[青年の樹 (1977年の映画)|青年の樹]] (1977年、原作)
 
* [[秘祭]] (1998年、脚本・原作)
 
* [[俺は、君のためにこそ死ににいく]] (2007年、製作総指揮・脚本)
 
* [[宇宙戦艦ヤマト 復活篇]] (2009年、原案)
 
* [[青木ヶ原 (映画)|青木ヶ原]] (2012年、製作総指揮・企画・原作・脚本・出演)
 
{{Multicol-end}}
 
 
 
=== テレビドラマ ===
 
{{Multicol}}
 
* [[深夜のメス]] (1957年、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]、原作)
 
* [[幽霊と宝石と恋]] (1958年、[[日本放送協会|NHK]]、原作)
 
* 慎太郎ミステリー 暗闇の声 (1959年 - 1960年、[[TBSテレビ|ラジオ東京テレビ]]、企画・監修)
 
** [[見知らぬ顔]] (1959年、原作)
 
** [[分身]] (1960年、脚本)
 
* [[この情報を買ってくれ]] (1959年、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]、脚本)
 
* [[降霊]] (1960年、[[東海テレビ放送|東海テレビ]]「[[夜の十時劇場]]」、脚本)
 
* [[怒りの果実]] (1960年、[[TBSテレビ|TBS]]「[[グリーン劇場]]」、原作)
 
* [[これが恋愛だ]] (1961年、TBS「日立劇場」、原作)
 
* [[密航 (テレビドラマ)|密航]] (1961年、TBS「グリーン劇場」、原作)
 
* [[殺人キッド]] (1961年、TBS「日立劇場」、原作)
 
* [[青年の樹 (1961年のテレビドラマ)|青年の樹]] (1961年、TBS「[[ナショナル劇場|ナショナルゴールデンアワー]]」、原作)
 
* [[死んでゆく男の物語]] (1961年、[[NHK教育テレビジョン|NHK教育テレビ]]、脚本)
 
* [[喪われた街 (1962年のテレビドラマ)|喪われた街]] (1962年、NHK「テレビ指定席」、原作)
 
* [[夜を探せ]] (1962年、フジテレビ、原作)
 
* [[闇から来る]] (1962年、[[テレビ朝日|NET]]、原作)
 
* [[アラスカ物語]] (1962年、NHK、脚本)
 
* [[青い糧]] (1963年、NET「銀行8時劇場」、原作)
 
{{Multicol-break}}
 
* [[断崖 (テレビドラマ)|断崖]] (1963年、NET「銀行8時劇場」、原作)
 
* [[雲に向って起つ (テレビドラマ)|雲に向って起つ]] (1963年、NET「銀行8時劇場」、原作)
 
* [[夜の道]] (1963年、NHK、原作)
 
* [[喪われた街 (1964年のテレビドラマ)|喪われた街]] (1964年、NET、原作)
 
* [[小さき闘い]] (1964年、フジテレビ「[[一千万人の劇場]]」、原作)
 
* [[有馬稲子アワー 喪われた街]] (1965年、フジテレビ「[[シオノギテレビ劇場]]」、原作)
 
* [[てっぺん野郎]] (1965年、TBS、原作)
 
* [[青春とはなんだ]] (1965年、日本テレビ、原作)
 
* [[おゝい雲! (テレビドラマ)|おゝい雲!]] (1965年、[[MBSテレビ|毎日放送]]、原作)
 
* [[人魚と野郎]] (1967年、NET、原作)
 
* [[おおい雲]] (1971年、NHK「[[銀河ドラマ]]」、原作)
 
* [[恐怖の人喰い鱶 鱶女]] (1980年、[[テレビ朝日]]「[[土曜ワイド劇場]]」、原作)
 
* [[太陽の季節#テレビドラマ|太陽の季節]] (2002年、TBS、原作)
 
* [[狂った果実 (小説)#テレビドラマ版|狂った果実2002]] (2002年、TBS、原作)
 
* [[弟 (テレビドラマ)|弟]] (2004年、テレビ朝日、原作)
 
{{Multicol-end}}
 
 
 
=== 舞台 ===
 
* 若きハイデルベルヒ(1977年、[[日生劇場]]、潤色)
 
 
 
=== 楽曲の作詞等 ===
 
*「夏の終わり」、作詞:石原慎太郎、歌:ペギー葉山。
 
*「お早う僕の町」、唱:[[マイク眞木]]、作詞:石原慎太郎、作曲:[[湯浅譲二]]。
 
*「リコール ツー マイ メモリー」、唱:石原慎太郎。
 
*「さあ太陽をよんでこい」、作詞:石原慎太郎、作編曲:山本直純。
 
*「焔のカーブ」、唱:[[ジャニーズ]]、作詞:石原慎太郎、作曲:[[三保敬太郎]]。
 
*「DREAM」、唱:石原慎太郎。
 
*「母の声」、唱:二葉百合子、作詞:石原慎太郎、作曲:[[玉置和郎]]。
 
*「青年の樹」、唱:三浦洸一、作詞:石原慎太郎、作曲:山本直純。
 
 
 
== 演じた俳優 ==
 
* [[別所哲也]]『[[人間ドキュメント 石原裕次郎物語]]』 ([[1993年]][[フジテレビジョン|フジテレビ]])
 
* [[テレビ朝日]]『[[弟 (テレビドラマ)|弟]]』 ([[2004年]][[11月17日]] - [[11月21日]][[放送]]) での配役
 
** [[鈴木宗太郎]] (幼年期)
 
** [[久保海晴]] (少年期)
 
** [[渡邉邦門]] (思春期)
 
** [[長瀬智也]] ([[TOKIO]]) (青年期)
 
** [[渡哲也]] (父・石原潔との二役) (壮年期 - 現在)
 
 
 
== 逸話 ==
 
* かつて対談した[[数学者]]の[[岡潔]]による哲学を信奉している<ref name="okakiyoshi"/><ref>[http://hashimoto-news.com/news/2011/11/21/9000/ 「日本民族の危機」(岡潔博士)販売〜上映・講演会]</ref>。
 
* [[Ustream]]での放送にて、[[田原総一朗]]が[[政治献金]]をしている事が明らかになる<ref>{{cite news |url = http://www.ustream.tv/recorded/8105327 |title = [[田原総一朗]]のタブーに挑戦! 10.07.06) |publisher = [[ジャパンエフエムネットワーク|JFN]] |date = 2010-07-06}}</ref>。
 
* 『[[正論 (雑誌)|正論]]』は、特集「2012年注目の政治家50人を値踏みする」で、石原を10点満点中9点と評価した<ref>『正論』2012年3月号 50-91頁</ref>。
 
* 自身が代表を務める[[日本維新の会 (2012-2014)|日本維新の会]]の[[幹事長]]である[[松井一郎]][[大阪府知事]]が[[フリーアナウンサー]]の[[辛坊治郎]]に語った話では、石原は、基本的に、朝は遅く昼からしか働かないという<ref>[http://www.ytv.co.jp/wakeup/movie/index.html ''WAKE! UP+ 動画+'']([[読売テレビ]][[ウェークアップ!ぷらす]][[2012年]][[12月1日]]配信分(配信日に閲覧)){{リンク切れ|date=2017年9月}}</ref>。
 
  
 
== 脚注 ==
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
 
 
=== 注釈 ===
 
=== 注釈 ===
 
{{Reflist|group="注釈"}}
 
{{Reflist|group="注釈"}}
 
=== 出典 ===
 
=== 出典 ===
{{Reflist|3}}
+
{{Reflist}}
 
 
== 参考文献 ==
 
* [[神一行]]『閨閥 改訂新版 ―特権階級の盛衰の系譜―』([[角川文庫]] 2002年) 231、244頁
 
** 同 『石原慎太郎と都知事の椅子』 [[角川文庫]]、2000年がある。
 
* [[佐野眞一]]『てっぺん野郎 ―本人も知らなかった石原慎太郎―』([[講談社]] 2003年) ISBN 4-06-211906-4
 
** 増補改題され、『誰も書けなかった石原慎太郎』([[講談社文庫]]、2009年)
 
* [[斎藤貴男]]『空疎な小皇帝 「石原慎太郎」という問題』 ([[岩波書店]] 2003年、[[ちくま文庫]] 2006年)
 
** [[吉田司]]との対話『石原慎太郎よ、退場せよ!』([[洋泉社]]新書 2009年)
 
* [[江藤淳]]『石原慎太郎論』([[作品社]] 2004年)
 
* [[鈴木斌 (文芸評論家)|鈴木斌]]『作家・石原慎太郎 価値紊乱者の軌跡』(菁柿堂 2008年)
 
* [[前野徹]]『救世主石原慎太郎』([[扶桑社]]文庫、2004年)
 
* [[別冊宝島]]編集部『石原慎太郎の値打ち』([[宝島社]]文庫 2003年)
 
* 嶋田昭浩『解剖・石原慎太郎』([[講談社文庫]] 2003年)
 
* [[浅野史郎]]ほか8名『石原慎太郎の東京発日本改造計画』(人物文庫・学陽書房、2002年)
 
* [[上杉隆]]『石原慎太郎「5人の参謀」』([[小学館]]文庫、2000年)
 
* 『特集石原慎太郎研究 ポリティーク08号』<労働法律旬報別冊> (旬報社 2004年)
 
* [[一ノ宮美成]]+グループK21『黒い都知事 石原慎太郎』([[宝島社]]) ISBN 978-4796676328
 
* [[栗原裕一郎]]・[[豊崎由美]]『石原慎太郎を読んでみた』([[原書房]]、2013年)
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Commonscat|Shintaro Ishihara}}
 
{{Wikiquote}}
 
* [[高倉健]]
 
* [[三浦雄一郎]]
 
* [[藤田まこと]]
 
* [[石原裕次郎]]
 
* [[立川談志]]
 
* [[渡部昇一]]
 
* [[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]
 
* [[黒シール事件]]
 
* [[新しい歴史教科書をつくる会]]
 
* [[櫻井よしこ]]
 
* [[渡邉恒雄]]
 
* [[高井英樹]]
 
* [[タカ派]]
 
* [[マッチョ|マッチョイズム]]
 
* [[南京の真実]] 賛同者
 
* [[国家基本問題研究所]] 理事
 
* [[日本会議]]
 
* [[平沼赳夫]]
 
* [[阿久津幸彦]] - 元[[公設秘書]]
 
* [[北朝鮮に拉致された日本人を早期に救出するために行動する議員連盟]]
 
* [[非核三原則]] - [[日本の核武装論]]
 
* [[成田空港高速鉄道]] - 運輸大臣時代、[[成田国際空港|新東京国際空港空港]]への[[空港連絡鉄道]]の不備を感じた際「鶴の一声」で整備が決定された。
 
* [[未確認飛行物体|UFO]] - [[三島由紀夫]]や[[星新一]]らとともに[[日本空飛ぶ円盤研究会]]の会員であった。
 
* [[伝統と創造の会]]
 
* [[野中広務]] - プライベートで食事をするなどの仲。もっとも、野中は[[辛淑玉]]との対談集「差別と日本人」中で石原を“ボンボンだ”と評している。
 
* [[日本維新の会 (2012-2014)|日本維新の会]]→[[次世代の党]]
 
  
== 外部リンク ==
 
* [http://sensenfukoku.net/ 石原慎太郎公式サイト「宣戦布告.net」]
 
* {{Twitter|i_shintaro}}
 
{{-}}
 
{{start box}}
 
{{s-off}}
 
{{succession box
 
| title = {{Flagicon|東京都}} [[東京都知事]]
 
| before = [[青島幸男]]
 
| years = 公選第14 - 17代:1999年 - 2012年
 
| after = [[猪瀬直樹]]
 
}}
 
{{succession box
 
| title = {{Flagicon|JPN}} [[運輸大臣]]
 
| before = [[橋本龍太郎]]
 
| years = 第59代:1987年 - 1988年
 
| after = [[佐藤信二]]
 
}}
 
{{succession box
 
| title = {{Flagicon|JPN}} [[環境大臣|環境庁長官]]
 
| before = [[丸茂重貞]]
 
| years = 第8代:1976年 - 1977年
 
| after = [[山田久就]]
 
}}
 
{{s-ppo}}
 
{{succession box
 
| title = [[日本維新の会 (2012-2014)|日本維新の会共同代表]]
 
| titlenote = [[橋下徹]]と共同
 
| before = 新設
 
| years = 初代:2013年 - 2014年
 
| after = 廃止
 
}}
 
{{succession box
 
| title = [[日本維新の会 (2012-2014)|日本維新の会代表]]
 
| before = [[橋下徹]]
 
| years = 第2代:2012年 - 2013年
 
| after = 共同代表制へ
 
}}
 
{{succession box
 
| title = [[太陽の党|太陽の党共同代表]]
 
| titlenote = [[平沼赳夫]]と共同
 
| before = 結成
 
| years = 初代:2012年
 
| after = [[日本維新の会 (2012-2014)|日本維新の会]]へ合流
 
}}
 
{{s-hon}}
 
{{succession box
 
| title  = [[衆議院議員|最年長衆議院議員]]
 
| before = [[沓掛哲男]]
 
| after  = [[亀井静香]]
 
| years  = 2012年 - 2014年}}
 
{{end box}}
 
{{石原慎太郎}}
 
{{石原裕次郎}}
 
{{環境大臣|1976年-1977年|環境庁長官}}
 
{{国土交通大臣|1987年-1988年|[[運輸大臣]]}}
 
{{東京都知事|1999年-2012年}}
 
{{最年長衆議院議員}}
 
{{次世代の党}}
 
{{日本維新の会 (2012-2014)}}
 
{{太陽の党}}
 
{{たちあがれ日本}}
 
{{芥川賞|第34回}}
 
{{Normdaten}}
 
  
 
{{デフォルトソート:いしはら しんたろう}}
 
{{デフォルトソート:いしはら しんたろう}}
1,178行目: 87行目:
 
[[Category:一橋大学出身の人物]]
 
[[Category:一橋大学出身の人物]]
 
[[Category:神奈川県立湘南高等学校出身の人物]]
 
[[Category:神奈川県立湘南高等学校出身の人物]]
[[Category:神戸市出身の人物]]
 
[[Category:北海道出身の人物]]
 
[[Category:神奈川県出身の人物]]
 
[[Category:成田空港問題に関連する人物]]
 
 
[[Category:1932年生]]
 
[[Category:1932年生]]
[[Category:存命人物]]
 

2018/8/8/ (水) 21:59時点における最新版

石原 慎太郎(いしはら しんたろう、旧字体:石原 愼太郎、1932年昭和7年)9月30日 - )

小説家,政治家。一橋大学在学中,既成価値に反逆する戦後世代を描く『太陽の季節』(1956)で芥川賞を受賞。その後,『行為と死』(1964),『化石の森』(1970,芸術選奨文部大臣賞)など,社会性に富む雄大な長編を執筆した。『狼生きろ豚は死ね/幻影の城』(1963)など戯曲も多い。1968年に 35歳で参議院議員選挙全国区で初当選して政界に進出した。1972年に衆議院議員に転じ,自由民主党の国会議員として活躍,環境庁長官,運輸大臣などを歴任した。1995年4月政治の形骸化を憂い議員辞職。1999年東京都知事選挙に無所属で立候補して当選,2003年再選,2007年 3選した。2011年 4選を果たしたが,2012年10月任期途中で国政復帰を表明し辞職した。創作活動も継続し,1995~2012年芥川賞選考委員を務めた。おもな作品に,『生還』(1988,平林たい子文学賞),『わが人生の時の時』(1990),『弟』(1996,毎日出版文化賞特別賞),『国家なる幻影 わが政治への反回想』(1999),『新・堕落論 我欲と天罰』(2011),盛田昭夫との共著『「No」と言える日本 新日米関係の方策』(1989)などがある。

脚注

注釈

出典