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'''畿内'''(きない、きだい、うちつくに)とは、
 
*日本では、
 
*[[首都|都]]や[[皇居]]に近い地域を指す呼称。
 
**[[京都|京]](きょう)に近い国々([[山城国]]・[[大和国]]・[[河内国]]・[[和泉国]]・[[摂津国]]の令制5か国)を指す呼称として用いられる。
 
*中国では[[国王|王]]、[[皇帝]]などが住む[[首都|都]]の周辺の地域を指す呼称として用いられる。
 
本項では、日本と古代中国での用法について記述する。
 
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== 日本の畿内 ==
 
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[[日本]]では、畿内とは以下の5国である。近現代の行政区分では、[[奈良県]]の全域と、[[京都府]]の南部、[[大阪府]]の大部分、[[兵庫県]]の南東部に当たる。なお畿内という地域概念は現在でも存在し[[地方分権]]などの行政区分や[[観光]]などの産業分野でしばし取り上げられる。
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'''畿内'''(きない、きだい、うちつくに)
* [[山城国]](京都府[[京都市]]以南。ただし[[左京区]]広河原、[[右京区]][[京北町|京北]]は[[山陰道]][[丹波国]])
 
* [[大和国]](奈良県)
 
* [[河内国]](大阪府東部)
 
* [[和泉国]](大阪府南西部)
 
* [[摂津国]](大阪府北中部および兵庫県[[神戸市]][[須磨区]]以東。ただし[[高槻市]]樫田と[[豊能町]]牧・寺田は丹波国、神戸市須磨区[[須磨ニュータウン]]西部と[[北区 (神戸市)|北区]]淡河町は[[山陽道]][[播磨国]])
 
  
'''五畿'''・'''五畿内'''とも呼ばれる。ただし、[[716年]]に和泉国が河内国より分離される前は、'''四畿'''・'''四畿内'''といった。'''中国'''とも称される<ref>[http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=%E4%B8%AD%E5%9B%BD&dtype=0&dname=0ss&stype=0 Yahoo!辞書 - 大辞林]</ref>。
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中国,朝鮮,日本で,王城,皇居などのある首都周辺の特別区域の名。日本では「うちつくに」ともいう。山城,大和,河内,和泉,摂津の5ヵ国の総称。中国の畿内制を取入れ,8世紀初めの『大宝律令』では,大倭,河内,摂津,山背の4ヵ国を畿内とし,特別の行政区域とした。畿内制成立の時期については諸説がある。畿内の文字の初見は『日本書紀』崇神天皇 10年 10月の条であるが,制度としての畿内制に関する記事の初見は,大化改新の詔の第2条である。それには区域を,東は伊賀国 (三重県) の横河,西は播磨国 (兵庫県) の櫛淵,南は紀伊国 (和歌山県) 兄山,北は近江国 (滋賀県) 狭々波合坂山 (ささなみのおうさかやま) 以内としているが,その後国を単位として区域を構成するようになり,浄御原令制下ではすでに四畿内が成立している。その行政単位である国には若干の変動があり,まず和泉,芳野2監 (げん) の廃置があったが,天平宝字1 (757) 年和泉国を復し,「五畿内」が成立,七道と合せ「[[五畿七道]]」として全国をさすようになった。畿内に対する特典として,調の半分と庸のすべてが免除された。その他種々の面において,畿内は中央先進地域としての処遇を受け,長く政治,経済,文化の中心として栄え,明治以後は京都,奈良,大阪,兵庫の各府県に編入された。
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歴代の[[皇居]]のほとんどがこの地方に置かれた。
 
 
=== 畿内国 ===
 
[[646年]]に発せられた[[改新の詔]]には、「およそ畿内とは、東は名墾([[名張市|名張]])の横河より以来(こちら側)、南は[[紀伊国|紀伊]]の兄山より以来、西は赤石([[明石市|明石]])の櫛淵<ref>現在の[[神戸市]]須磨区一の谷から垂水区塩屋町付近と考えられている。この辺の海岸が櫛目のように出入りしていることから付けられたと推測できる。福島好和「大和王権の進出と展開 3内なる国と外なる国」 今井修平・小林基伸・鈴木正幸・野田泰三・福島好和・三浦俊明・元木泰雄『兵庫県の歴史』山川出版社 2004年8月 65ページ</ref>より以来、北は[[近江国|近江]]の狭狭波(さざなみ)の合坂山(逢坂山)より以来を、畿内国とす」<ref>『[[日本書紀]]』孝徳天皇2年正月の甲子(きのえね)の朔(ついたちのひ)の条にあることから、一般に甲子の詔といい、「其の一(はじめに)に曰(のたま)はく、…」で始まり、「其の四に曰はく、…」まであり、「畿内国」については其の二の後段にある。校注者坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋『日本書紀』(四)[全5冊] 岩波書店 2002年9版 256-260ページ</ref>という畿内の範囲に関する記述がある。ここにいう「畿内」はのちの4、5国をさす畿内ではなく、大和を中心に四囲を示した「畿内国」として定めたと考えられる。このように、畿内の範囲は[[646年]](大化2)当時[[皇居]]が置かれていた[[難波宮]](現在の[[大阪市]])、また、それ以前に難波高津宮、より古くから[[大王]]の宮殿の多くが置かれた[[奈良盆地]]を基準に決められたと考えられる。
 
 
中央集権制の下で、[[貴族]]が[[朝廷]]の許可もなく、畿内の外に出る事は[[律令法]]によって禁じられていたが、[[794年]]に山城国の畿内北東端にあたる[[平安京]]に[[遷都]]されて以後は、平安京から山一つ越えただけの近江国や丹波国へ出る事が禁じられ、平安京から数日かかる和泉や大和南部の方が規制が緩いという矛盾が生じていたという。なお、[[江戸幕府]]の法令で[[重追放]]を受けた場合の立入禁止地域には近江・丹波は含まれていなかったが、[[京都]]で事件を起こした者に対してのみは例外的にこの両国と[[河内国]]も含むこととされている。
 
 
=== 変遷 ===
 
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|title = 畿内令制国の変遷
 
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; 名称の変更に限るもので、令制国間の郡・郷の移動に関しては記載していない。
 
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{{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|01|'|:||||`|02|'||||||||||||||||||:||||:|||||:| 01=[[葛城国造|葛城国]]|02=[[芳野監]]<br/>([[716年]]-[[738年]])}}
 
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{{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left||||!|:||||`|01|-|'|||||||`|02|-|-|-|-|-|-|*|03|*|-|03|%|04| 01=[[和泉監]]<br/>([[716年]]-[[740年]])|02=[[和泉国]]<br/>([[757年]]-)|03='''[[和泉国]]'''|04=大阪府(南西部)}}
 
{{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left||||`|*|01|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|02|*|03|*|-|03|%|04| 01='''[[摂津職]]'''|02=[[摂津国]]<br/>([[793年]]-)|03='''[[摂津国]]'''|04=大阪府(北中部)、[[兵庫県]](南東部)}}
 
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=== 類似の地域名 ===
 
; [[天下]]
 
: [[中世]]から[[近世]]にかけての呼称<ref>神田千里、「織田信長」(ちくま新書1093)、p.117、筑摩書房、2014年。</ref>。
 
; [[上方]]
 
: [[江戸時代]]以降の呼称。本来[[京都]](あるいは京都の方向)を指すが、[[大阪]]を含む広い範囲をも指す。
 
: [[上方舞]]や[[上方落語]]など、近世以降の[[上方文化]]に関わってよく用いられる。
 
; [[京阪神]]
 
: [[京都市]]・[[大阪市]]・[[神戸市]]およびその周辺。
 
; [[近畿地方|近畿]]
 
: 畿内を含む府県とその隣接県。通常、大阪府・兵庫県・京都府・奈良県・三重県・和歌山県・滋賀県の2府5県を指す。
 
; [[畿央]]
 
: 近畿の中央部。[[首都機能移転]]候補地である[[三重・畿央地域]]などと用いられる。
 
; [[関西]]
 
: [[関東]]に対応して大正時代以降、[[関東]]の民間で使われだした語。
 
:「[[近畿]]」または「[[京阪神]]」と同じ範囲を指して用いられることが多いが、西日本を広く指す場合もある。
 
 
「京阪神」は[[経済]]用語や俗称としての色が濃いのに対して、「畿内」は[[歴史地理学]]用語としての色が濃い。
 
 
[[邪馬台国]]の所在地について、[[九州]]説に対峙する説は、「畿内説」と呼ばれる。この説で実際に所在地とされているのは、主に大和の[[奈良盆地]]である。
 
{{令制国一覧}}
 
 
== 中国の畿内 ==
 
古代[[中国]]では、[[天子]]の居城(都)から500[[里]](約202[[キロメートル]]。[[周]]代の1里 = 約405[[メートル]])以内の範囲。天子が直轄した。'''畿甸'''(きでん)とも。
 
 
== 脚注 ==
 
{{Reflist}}
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[五畿七道]]
 
* [[日本の首都]]
 
* [[太平洋ベルト]]
 
 
{{Japan-geo-stub}}
 
{{China-stub}}
 
 
{{デフォルトソート:きない}}
 
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[[Category:畿内|*]]
 
[[Category:畿内|*]]
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[[Category:近畿地方の歴史]]
 
[[Category:近畿地方の歴史]]
 
[[Category:夏殷周]]
 
[[Category:夏殷周]]
 
[[zh:五畿七道#五畿]]
 

2018/12/24/ (月) 08:28時点における最新版

畿内(きない、きだい、うちつくに)

中国,朝鮮,日本で,王城,皇居などのある首都周辺の特別区域の名。日本では「うちつくに」ともいう。山城,大和,河内,和泉,摂津の5ヵ国の総称。中国の畿内制を取入れ,8世紀初めの『大宝律令』では,大倭,河内,摂津,山背の4ヵ国を畿内とし,特別の行政区域とした。畿内制成立の時期については諸説がある。畿内の文字の初見は『日本書紀』崇神天皇 10年 10月の条であるが,制度としての畿内制に関する記事の初見は,大化改新の詔の第2条である。それには区域を,東は伊賀国 (三重県) の横河,西は播磨国 (兵庫県) の櫛淵,南は紀伊国 (和歌山県) 兄山,北は近江国 (滋賀県) 狭々波合坂山 (ささなみのおうさかやま) 以内としているが,その後国を単位として区域を構成するようになり,浄御原令制下ではすでに四畿内が成立している。その行政単位である国には若干の変動があり,まず和泉,芳野2監 (げん) の廃置があったが,天平宝字1 (757) 年和泉国を復し,「五畿内」が成立,七道と合せ「五畿七道」として全国をさすようになった。畿内に対する特典として,調の半分と庸のすべてが免除された。その他種々の面において,畿内は中央先進地域としての処遇を受け,長く政治,経済,文化の中心として栄え,明治以後は京都,奈良,大阪,兵庫の各府県に編入された。



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