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(内容を「 '''田沼 意次'''(たぬま おきつぐ) 江戸時代中期の幕府老中。田沼意行 (もとゆき) の子。父は紀州藩の足軽で,徳川吉宗に従...」で置換)
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{{基礎情報 武士
 
| 氏名 = 田沼意次
 
| 画像 = Tanuma Okitsugu2.jpg
 
| 画像サイズ =
 
| 画像説明 =
 
| 時代 = [[江戸時代]]中期 - 後期
 
| 生誕 = [[享保]]4年[[7月27日 (旧暦)|7月27日]]([[1719年]][[9月11日]])
 
| 死没 = [[天明]]8年[[6月24日 (旧暦)|6月24日]]([[1788年]][[7月27日]])
 
| 改名 = 龍助(幼名)→意次
 
| 別名 =
 
| 諡号 =
 
| 神号 =
 
| 戒名 = 隆興院殿耆山良英大居士
 
| 霊名 =
 
| 墓所 = [[勝林寺|万年山勝林寺]]([[東京都]][[豊島区]][[駒込]])
 
| 官位 = [[従五位|従五位下]] [[主殿寮|主殿頭]]、[[従四位|従四位下]] [[侍従]]
 
| 幕府 = [[江戸幕府]][[小姓]]、[[小姓組|小姓組番頭]]、[[御側御用取次]]<br />[[側用人]]、[[老中格]]、[[老中]]
 
| 主君 = [[徳川家重]]→[[徳川家治]]
 
| 藩  = [[相良藩]]主
 
| 氏族 = [[田沼氏]]
 
| 父母 = 父:[[田沼意行]]、母:[[田代高近]]の養女・辰
 
| 兄弟 = '''意次'''、[[田沼意誠|意誠]]、[[田沼意満|意満]]
 
| 妻  = 正室:[[伊丹直賢]]の娘<br />継室:[[黒沢定紀]]の娘
 
| 子  = [[田沼意知|意知]]、勇次郎、勝助、[[田沼意正|意正]]、松三郎、<br />[[土方雄貞]]、[[九鬼隆棋]]、千賀([[西尾忠移]]室)<br />宝池院([[井伊直朗]]室)<br />養女:''[[新見正則]]の娘([[大岡忠喜]]室→[[土方雄年]]室)''
 
| 特記事項 =
 
}}
 
'''田沼 意次'''(たぬま おきつぐ)は、[[江戸時代]]中期の[[旗本]]、のち[[大名]]、[[江戸幕府]][[老中]]。[[遠江国|遠江]][[相良藩]]の初代藩主である。相良藩[[田沼氏|田沼家]]初代。
 
  
== 生涯 ==
+
'''田沼 意次'''(たぬま おきつぐ)
=== 出生 ===
 
[[享保]]4年([[1719年]])7月27日、[[紀州藩]]士から[[旗本]]になった[[田沼意行]]の長男として[[江戸]]の本郷弓町の屋敷で生まれる。幼名は'''龍助'''。父・意行は[[紀州藩]]の[[足軽]]だったが、部屋住み時代の[[徳川吉宗]]の側近に登用され、吉宗が第8代[[征夷大将軍|将軍]]となると幕臣となり小身旗本となった。吉宗は将軍就任にあたって紀州系の家臣を多数引きつれて幕臣とし、特に勘定方と将軍および子供たちの側近に配置して幕政を掌握したが、意次は紀州系幕臣の第二世代目に相当し、第9代将軍となる[[徳川家重]]の西丸[[小姓]]として抜擢され、享保20年([[1735年]])に父の遺跡600石を継いだ<ref>藤田覚『田沼意次』ミネルヴァ書房2007年</ref>。
 
  
父・意行は息子を授かるために[[七面大明神]]に帰依し、そして意次が生まれた。そのため意次は七面大明神に感謝し、家紋を七曜星に変更したといわれている。
+
江戸時代中期の幕府老中。田沼意行 (もとゆき) の子。父は紀州藩の足軽で,徳川吉宗に従って江戸に入り幕臣となった。意次は 15歳のとき西の丸つき小姓として仕え,元文2 (1737) 年主殿頭 (とのものかみ) ,宝暦1 (51) 年御側御用取次となった。9代将軍徳川家重の隠居後,10代将軍家治の信任を得て,明和4 (67) 年7月側用人 (そばようにん) に進み,一橋家や大奥との関係を深め,勢力を固めた。遠江相良 (5万 7000石) に城を築き老中格として専横のふるまいがあったことから,家治の没後は領地も削られ失脚。[[田沼時代]]として後世に有名である。
  
=== 相良藩主時代 ===
+
{{テンプレート:20180815sk}}
[[元文]]2年([[1737年]])、[[従五位|従五位下]][[主殿寮|主殿頭]]になり、[[延享]]2年([[1745年]])には家重の将軍就任に伴って本丸に仕える。[[寛延]]元年([[1748年]])に1,400石を加増され、[[宝暦]]5年([[1755年]])には更に3,000石を加増され、その後家重によって宝暦8年([[1758年]])に起きた[[美濃国]][[八幡藩|郡上藩]]の[[一揆|百姓一揆]]([[郡上一揆]])に関する裁判にあたらせるために、[[御側御用取次]]から1万石の大名に取り立てられた。
 
 
 
宝暦11年([[1761年]])、家重が死去した後も、世子の第10代将軍[[徳川家治]]の信任は厚く、破竹の勢いで昇進し、[[明和]]4年([[1767年]])にはさらに御側御用取次から[[板倉勝清]]の後任として[[側用人]]へと出世し5,000石の加増を受けた。さらに[[従四位|従四位下]]に進み2万石の[[相良城]]主となって、明和6年([[1769年]])には[[侍従]]にあがり[[老中格]]になる。[[安永]]元年([[1772年]])、相良藩5万7,000石の大名に取り立てられ、老中を兼任し、前後10回の加増で僅か600石の旗本から5万7,000石の大名にまで昇進し、側用人から老中になった初めての人物となった。順次加増されたため、この5万7,000石の内訳は[[遠江国]]相良だけでなく[[駿河国]]、[[下総国]]、[[相模国]]、[[三河国]]、[[和泉国]]、[[河内国]]の7か国14郡にわたり東海道から畿内に跨る分散知行となった<ref>『江戸幕府崩壊論』藤野保著、2008年、塙書房</ref>。
 
 
 
=== 田沼時代 ===
 
{{main|田沼時代}}
 
この頃より老中首座である[[松平武元]]など意次を中心とした[[幕府]]の[[閣僚]]は、数々の[[幕政改革]]を手がけ、'''[[田沼時代]]'''と呼ばれる権勢を握る。悪化する幕府の財政赤字を食い止めるべく、重商主義政策を採る。内容は[[株仲間]]の結成、銅座などの専売制の実施、鉱山の開発、[[蝦夷地]]の開発計画、[[俵物]]などの専売による外国との貿易の拡大、[[下総国]][[印旛沼]]の干拓に着手する等の政策を実施した。その結果、幕府の財政は改善に向かい、景気もよくなった。しかし、社会の初期[[資本主義]]化によって、町人・役人の生活が金銭中心のものとなり、そのために[[賄賂|贈収賄]]が横行した。
 
 
 
また、[[都市]]部で町人の文化が発展する一方、益の薄い農業で困窮した農民が田畑を放棄し、都市部へ流れ込んだために[[農村]]の荒廃が生じた。[[印旛沼]]運河工事の失敗や[[江戸の火事|明和の大火]]・[[浅間山]]の大噴火などの災害の勃発、疲弊した農村部に[[天明の大飢饉|天明の飢饉]]と呼ばれる食糧難や[[疫病]]が生じた。意次は対策を打ち出すが、失敗し逆に事態を悪化させてしまった。その中にあって財政難に陥っていた諸藩は米価の値上がりを借金返済の機会とし、検地により年貢の取立てを厳しくしていった。
 
 
 
このような世相の中、それらが元による都市部の治安の悪化、一揆・打ちこわしの激化により不満が高まり、江戸[[商人]]への権益を図りすぎたことを理由に贈収賄疑惑を流されるなど、次第に田沼政治への批判が集まっていく。
 
 
 
外国との貿易を黒字化させて国内の金保有量を高め、さらには北方において[[ロシア帝国]]との貿易も行おうとしていたほか、[[平賀源内]]などと親交を持ち、[[蘭学]]を手厚く保護し、士農工商の別にとらわれない実力主義に基づく人材登用も試みたが、これらの急激な改革が身分制度や[[朱子学]]を重視する保守的な幕府閣僚の反発を買い、[[天明]]4年([[1784年]])に息子で[[若年寄]]の[[田沼意知]]が[[江戸城]]内で[[佐野政言]]に暗殺された<ref>実際は斬られて重傷を負い、その傷が癒えないまま亡くなった。</ref>ことを契機とし、権勢が衰え始める。
 
 
 
天明6年([[1786年]])8月25日、将軍家治が死去。死の直前から「家治の[[勘気]]を被った」としてその周辺から遠ざけられていた意次は、将軍の死が秘せられていた間(高貴な人の死は一定期間秘せられるのが通例)に失脚するが、この動きには反田沼派や[[一橋家]]([[徳川治済]])の策謀があったともされる。8月27日に老中を辞任させられ、[[伺候席|雁間詰]]に降格。閏10月5日には家治時代の加増分の2万石を没収され、さらに大坂にある蔵屋敷の財産の没収と江戸屋敷の明け渡しも命じられたのだった。
 
 
 
その後、意次は蟄居を命じられ、二度目の減封を受ける。[[相良城]]は打ち壊し、城内に備蓄されていた金穀は没収と徹底的に処罰された。長男の[[田沼意知|意知]]は一昨年に暗殺されており、他の3人の子供は全て[[養子]]に出されていたため、孫の[[田沼意明|龍助]]が陸奥1万石に減転封のうえで辛うじて大名としての家督を継ぐことを許された。同じく軽輩から[[側用人]]として権力をのぼりつめた[[柳沢吉保]]や[[間部詮房]]が、辞任のみで処罰は無く家禄も維持し続けたことに比べると最も苛烈な末路となった<ref>柳沢・間部の職が側用人のみで正式の老中には就任していなかった(柳沢は老中格→大老格)ことと異なり、田沼は老中も兼ねていた。将軍の取次役である側用人が処罰されることはない(将軍の政治責任を問うことになってしまうため)が、老中は失政の責任を問わされるためしばしば処罰を受けていた。</ref>。
 
 
 
その2年後にあたる天明8年([[1788年]])6月24日、江戸で死去。[[享年]]70。
 
 
 
== 人物 ==
 
田沼の失脚後から既に悪評が出ており、これは明治以降も引き継がれた。しかし、[[川路聖謨]]は「よほどの豪傑」「正直の豪傑」であったと評している<ref>川路聖謨「遊芸園随筆」。ただし、人生の後半は「骨髄よからぬ人」になってしまい、このためすべて悪かったかのように非難されているとしている。</ref>。
 
 
 
近代には、大正6年(1917年)に[[辻善之助]]著『田沼時代』が発表されると、田沼意次=「賄賂政治家」とされ、田沼悪人説が流通していた。ただし、辻は政策の進歩性などについて大きく評価しており<ref>政治家としては徳川吉宗よりも遥かに良く、その政策は大度胸であったと評価している。</ref>、開明的政治家としての再評価も高まっている<ref>関根徳男著『田沼の改革』郁朋社 1999年 156 - 164頁</ref>{{信頼性要検証|date=2017年11月29日 (水) 04:28 (UTC)}}<!-- 自費出版書籍 -->。
 
 
 
また、[[大石慎三郎]]らは「賄賂政治家」という悪評は反対派によって政治的に作られていったとしている<ref>大石は「つくられた悪評」としている。</ref>。これらの説によると、田沼悪人説の根拠となる史料も田沼失脚後に政敵たちにより口述されたもので、辻の著作においては信憑性が検証されていないとしている。また、[[仙台藩]]主[[伊達重村]]からの賄賂を田沼が拒絶したという史料<ref>ただし、伊達家側役の古田良智に田沼の屋敷に直接訪ねる(=賄賂を直接受け渡しする)必要はないとしているのみで、「賄賂を拒絶した」記録ではない。実際、古田は田沼家用人井上寛司と懇意に接触し、井上を通じた賄賂の受け渡しを行っている。そのため、大石が史料を誤読しているとの指摘もある。</ref>の存在、逆に田沼を非難していた松平定信さえも田沼にいやいや金品を贈ったと書き残していることなどをその論拠としている。
 
 
 
また贈収賄は江戸時代通じての問題で、それ自体も近代以後に比べればかえって少なかったという説も唱えられている。なお、田沼の没後[[松平定信]]によって私財のほとんどを没収されたが、そのときには「塵一つでない」といわれるほど財産がなかったとの逸話もある。
 
 
 
田沼失脚後に老中となった松平定信ら[[譜代]]・[[親藩]]による[[寛政の改革]]が始まり、意次の政策は否定される。11代将軍[[徳川家斉]]の[[大御所時代]]に、[[水野忠友]]の子[[水野忠成]]と、田沼意次の四男[[田沼意正]]らによって重商主義に基づく政策は一時見直されるが、大御所家斉の浪費のためほとんど効果を上げることはできなかった。松平定信は庶民の着物の柄まで制限するほどの質素倹約な方針だったので、良くも悪くも世俗的な田沼意次の政治を懐かしむ声も見られた。この時期流行った[[落首]]として次の二つがある。定信の就任当初は前者の歌が流行ったが、やがて改革が厳しすぎるとわかると後者の歌に取って代わられた。
 
* 田や沼やよごれた御世を改めて 清くぞすめる白河の水
 
* 白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋しき
 
現在の田沼論はどちらかといえば「老中としての田沼」を論ずるのがメインとなっている感があるが、相良藩主としての田沼に関しては街道や港の拡張、火事対策(相良で起こった大火の後、藁葺きの家はことごとく瓦葺にするよう令を発している)、[[殖産興業]]などきわめて正統的で当を得た施政を行っている。
 
 
 
旧相良藩中にある牧之原市では郷土の偉人として紹介されることが多い。相良城が位置した場所に存在する市立の相良中学校の校章は、田沼意次の威光にあやかり田沼家の家紋である「七曜紋」をモチーフしたものになっている。また、同校の体育大会と文化祭を総称して「七曜祭」と言う。
 
 
 
[[イェール大学]]の[[ジョン・ホイットニー・ホール]]は''Tanuma Okitsugu, 1719-1788, forerunner of modern Japan'' (1955)において「意次は近代日本の先駆者」と評価している。
 
 
 
== 人脈 ==
 
仙台藩医の[[工藤平助]]は、迫りくる北方の大国ロシアの脅威に備えるため「[[赤蝦夷風説考]]」を天明3年(1783年)、当時の幕府老中、田沼意次に献上した。このことが田沼の蝦夷地開発の原点になったといわれる。田沼は、蝦夷地調査団に、まず、経世家の[[本多利明]]を招聘しようとしたが、辞退されてしまう。代わりに本多から推薦されたのが[[最上徳内]]であった。
 
 
 
発明家として有名だった平賀源内のことを田沼は大変気に入っていたといわれる。田沼は平賀をオランダ商人のいる出島に遊学させたこともあった。ところが、平賀源内が殺人事件を起こしてしまったため、田沼は彼とのつながりを全面的に否定せざるをえなかった。もし平賀が殺人事件を起こしていなければ、田沼は蝦夷地開発の責任者を平賀にやらせただろう、とも言われている。ただし平賀は自身の思った通りのこと(遊学・江戸行など)を行うため、自家の隠居願と引き換えに[[高松藩]]より[[奉公構]]の扱いとなっていたため、そのあたりについては甚だ未知数な推測である部分は否めない。
 
 
 
== 政策 ==
 
貨幣経済を振興しようと思ったきっかけは、徳川吉宗による政治にあった。吉宗時代の質素倹約は、幕府の財政支出の減少のみならず、課税対象である農民にも倹約を強制し、税を搾り取ろうとするものであった{{要出典|title=増税が目的ならば、具体的に倹約を奨励されたものの内、何が追加課税されたのか?|date=2017年6月|}}。それによって幕府財政は大幅な改善を見たが、この増税路線は9代将軍家重の代には百姓一揆の増発となって現れ、破綻するのである。そして、天領における一揆ではないものの、意次は郡上一揆の裁定を任されたことから、農民に対する増税路線の問題を目の当たりにする立場であった。また、米相場の乱高下に頭を悩ます吉宗を身近で見て、田沼は日本に貨幣経済を普及させて問題を解決できないか、と考えたという。
 
 
 
田沼の経済政策は、市中に流れる貨幣の流通速度をコントロールして経済を活性化し、そして商人に対する課税によって幕府の財政を健全化させる目的があったとする説が有力である。意次は逆に景気を刺激し、内需を拡大し、その結果利を得た商人に課税しようと考えたのである。
 
 
 
そのため、広く人材や献策を取り入れたが、「山師」の跋扈する時代を生むこととなった。そのようなマイナス面を見て、彼の行った諸政策を「[[金権政治]]」の一言で切り捨てる向きもあるが、農民に重税を課すような苛政ではなく、民衆を富ませて幕府財政を立て直そうとした側面を無視している。田沼意次の在任中に幕府財政の貨幣収入が増えたことは特筆に価する{{要出典|title=貨幣収入が増えたという根拠は?|date=2017年6月|}}。
 
 
 
=== 蝦夷地開発 ===
 
田沼は、蝦夷地を調べるために幕府の探検隊を作った。メンバーには、[[青島俊蔵]]、[[最上徳内]]、[[大石逸平]]、[[庵原弥六]]、などがいた。また、蝦夷地の調査開発をすすめる事務方には、勘定奉行[[松本秀持]]、勘定組頭[[土山宗次郎]]などがいた。そして、幕府の潤沢な財政を蝦夷地開発に注ぎ込んだが、あまり良い結果は出せなかった。田沼失脚後、[[松平定信]]は、田沼の政策である蝦夷地開発を中止し責任者を厳罰にしたが、その頃、蝦夷地近海に頻繁に現われるロシア艦船に不安を感じ、蝦夷地の天領化、北方警備に幕府として取り組み始めた。
 
 
 
=== 相良藩の藩政 ===
 
田沼意次は[[御側御用取次]]であった[[宝暦]]8年(1758年)に第9代将軍家重から呉服橋御門内に屋敷を与えられるとともに、相良1万石の大名となった。この時の相良は郡上一揆で改易となった[[本多忠央]]が前領主であったが、城はなく陣屋のみあった。[[明和]]4年([[1767年]])には第10代将軍家治より[[神田橋]]御門内に屋敷を与えられ(この時から「神田橋様」と呼ばれることとなった)、さらに築城を許可されて城主格となった。翌年から相良城の建設を始め、完成までに11年間の月日を要した。意次は普請工事を家老の井上伊織に全て委ね、1780年(安永9年)の完成に合わせて62歳になった意次は検分の名目でお国入りを果たした。特に[[天守]]を築くことを許されており、縄張りを[[北条流]][[軍学者]]の須藤治郎兵衛に任せ、三重櫓の天守閣を築いた。出世を重ねた意次の所領は最終的に5万7,000石にまで加増された<ref>深谷克己『田沼意次―「商業革命」と江戸城政治家』2010年、山川出版社</ref>。
 
 
 
意次は江戸定府で幕政の執務に勤めていたため、国元の藩政については町方と村方の統治を明確化し、城代・国家老などの藩政担当家臣を国元に配置した。上記の築城の他、城下町の改造、後に[[田沼街道]](相良街道)と呼ばれる[[東海道]][[藤枝宿]]から相良に至る分岐路の街道整備、相良港の整備、助成金を出して瓦焼きを奨励して火事対策とするなどのインフラに力を注いだ。意次は郡上一揆の調査と裁定を行った経歴から、[[年貢]]増徴政策だけでは経済が行き詰まることを知っていたので、[[家訓]]で年貢増徴を戒めており、領内の年貢が軽いことから百姓が喜んだ逸話が残された。殖産興業政策にも取り組み、農業では[[養蚕]]や櫨栽培の奨励、[[製塩]]業の助成、食糧の備蓄制度も整備して藩政を安定させた<ref>深谷克己『田沼意次―「商業革命」と江戸城政治家』2010年、山川出版社</ref>。
 
 
 
== 官途 ==
 
* [[享保]]19年([[1734年]]) - 徳川家重の小姓となる。
 
* [[元文]]2年([[1737年]]) - [[従五位|従五位下]][[主殿寮|主殿頭]]に叙任。
 
* [[延享]]4年([[1747年]]) - 小姓組番頭格。
 
* [[寛延]]元年([[1748年]])閏10月1日 - 小姓組番頭、奥勤兼務に異動。石高1400石加増。それまでは、小姓組番頭格奥勤。
 
* [[宝暦]]元年([[1751年]])4月18日 - 御側御用取次側衆に異動。
 
* 宝暦5年([[1755年]]) - 石高3,000石加増。知行合計5,000石になる。
 
* 宝暦8年([[1758年]]) - 石高5,000石加増。1万石の大名となる。[[評定所]]への出席を命じられ、美濃[[郡上一揆]]の審理に当たる。遠江相良に領地を与えられる。
 
* 宝暦10年([[1760年]]) - 9代家重引退し、家治10代となる。意次御用取次留任。
 
* 宝暦12年([[1762年]]) - 石高5,000石加増され、合計1万5,000石となる。
 
* [[明和]]4年([[1767年]])7月1日 - [[側用人]]に異動。[[従四位|従四位下]]に昇叙。石高5,000石加増、合計2万石。遠江国相良2万石の領主となる。
 
* 明和6年([[1769年]])8月18日 - [[老中格]]に異動し、側用人兼務。[[侍従]]兼任。石高5,000石加増。
 
* 明和9年([[1772年]])1月15日 - 老中に異動。石高5,000石加増合計3万石。11月18日、安永元年。この年諸国で凶作。
 
* [[安永]]3年([[1774年]])8月 - [[杉田玄白]]ら『[[解体新書]]』刊行。
 
* [[安永]]6年([[1777年]])4月21日 - 石高7,000石加増。
 
* [[天明]]元年([[1781年]])4月2日 - 元年。7月15日、石高1万石加増。合計4万7,000石。12月15日、意知、奏者番になる。
 
* 天明5年([[1785年]])1月21日 - 石高1万石加増。合計石高5万7,000石となる。
 
* 天明6年([[1786年]])8月27日 - 老中依願御役御免。石高2万石召上げ。雁之間詰。
 
* 天明7年([[1787年]])10月2日 - 石高3万7,000石召上げ。[[蟄居]]となる。
 
 
 
== 系譜 ==
 
* [[田沼氏]]:意行は[[徳川御三家|御三家]][[紀州藩]]の[[足軽]]だったが[[徳川吉宗]]に従って幕府の[[旗本]]となった。意行の嫡子・意次の代に異例の出世を遂げた。
 
* [[家紋]]は「丸に一文字」だったが、前述の七面大明神の逸話から定紋を「七曜」に、「丸に一文字」は替紋になった。
 
* 本姓は[[藤原氏]]だが、[[源氏]]に改姓している。これは途中、新田氏流の者が入ってきたためである。
 
<pre>
 
意行━意次━意知━意明=意壱=意信=意定=意正━意留━意尊=意斉=知恵(意尊長女)=望━正 
 
</pre>
 
 
 
== 家臣 ==
 
意次の家臣には正規の武士ではないもの、つまり浪人や農民などの出身者が多く、他家からは「異色の家」と言われつつ、このような斬新な雇用が田沼家独特の家風を築いたともされる。
 
 
 
; 井上伊織
 
: 近江国甲賀郡出身。諱は良矩(よしのり)。父は浪人の井上郡太夫。16歳の時から田沼家に仕え、わずか22歳で家老となる。意次の信頼が厚く、当初は井上寛司といったが、意次の要望で伊織に改める。[[相良城]]築城の指揮をとる。後に意次から永代家老職を与えられ、子孫は代々田沼家に仕え続けた。
 
; 三浦庄司(庄二とも)
 
: 備後[[備後福山藩|福山藩]]領の農家出身(一説には江戸市民とも。どちらにしても武士ではない)。田沼家臣の養子となって用人を務め、意次のよき相談相手だったという。
 
; 倉見金太夫
 
: 江戸詰家老。諱は庸貞。意次の信頼厚く、また家中でも慈悲深い人情家であったという。妻は意次室の姉妹であり、意次の義弟であった。生没年は不明であるが、意次失脚後も意次の孫である[[田沼意明]]に仕えている。
 
; 各務久左衛門
 
: 家老。旗本の三男であり、最初は目付の脇坂家に仕えたが意次の求めによって田沼家臣となる。算学に秀でたほか武芸の達人でもあり、また意次同様に信仰心が厚い人柄であったという。意次逝去の翌年に死去した。
 
; 須藤治郎兵衛
 
: [[北条流]]軍学を学んだ人物で、江戸城修理を手がけたことがあり、相良築城ではその手腕を発揮した。城の完成後には意次から褒賞として御用人の地位を与えられた。
 
; 深谷市郎右衛門
 
: 家老。深谷家は意次の父である意行の代から仕え、市郎右衛門はわずか23歳で意次の家老となる。終始江戸家老として活躍し、老中として活躍していた意次を裏方で支える人物でもあった。
 
; 三好四郎兵衛
 
: 家老。名は方庸(まさつね)。相良の廻船問屋に生まれ、25歳の時に能役者を目指して江戸に行くも夢を果たせず、能筆家であることを買われて田沼家に仕える。相良築城の際には相良の風土や風習に詳しいとして現地に家老として派遣される。城の完成後には城代家老となった。
 
; 潮田由膳(内膳とも)
 
: 田沼家側用人。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{reflist}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* [[海音寺潮五郎]] 『悪人列伝 近代篇』文藝春秋 1967年(初版) 文春文庫 2007年(再刊)ISBN 978-4-16-713551-5
 
* [[後藤一朗]] 『田沼意次-ゆがめられた経世の政治家』 清水書院 1971年
 
* [[辻善之助]] 『田沼時代』 岩波文庫 1980年
 
* [[江上照彦]] 『悲劇の宰相・田沼意次』 教育社 1982年
 
* [[大石慎三郎]] 『田沼意次の時代』 岩波書店 1991年
 
* [[関根徳男]] 『田沼の改革』 郁朋社 2001年 ISBN 4-87302-019-0
 
* [[八幡和郎]] 『江戸300藩 バカ殿と名君』 光文社新書 2004年 ISBN 4-334-03271-0
 
* [[藤田覚]] 『田沼意次』ミネルヴァ書房 2007年 ISBN 978-4-623-04941-7
 
* [http://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/resume022.html 日本史 第22回 幕政改革の展開 ~三大改革を見直す~] - NHK高校講座
 
* [[篠原総一]]「[http://www.econ-edu.net/activity/ws/Prof.Shiohara%20Edo.pdf 経済を通して学ぶ歴史 ~ 江戸時代の経済政策 ~ ]」経済教育ネットワーク
 
 
 
== 田沼意次が登場する作品 ==
 
; 主人公として登場する小説
 
* [[山本周五郎]]『[[栄花物語 (山本周五郎)|栄花物語]]』(1953年) - 1983年に[[森繁久彌]]主演でドラマ化([[TBSテレビ|TBS]])。
 
* [[村上元三]]『田沼意次』(1985年)
 
* [[佐藤雅美]]『主殿の税』(1988年)
 
* [[平岩弓枝]]『魚の棲む城』(2002年)
 
* [[高任和夫]] 『青雲の梯』(2009年)
 
; 脇役等として登場する小説
 
* [[井上ひさし]]『[[表裏源内蛙合戦]]』
 
* [[池波正太郎]]『[[剣客商売]]』シリーズ
 
* [[佐伯泰英]]『[[居眠り磐音 江戸双紙]]』シリーズ
 
; 漫画
 
* [[みなもと太郎]] 『[[風雲児たち]]』 - 意次の台頭から失脚までを丁寧に、かつ好意的に扱っている。
 
* [[よしながふみ]] 『[[大奥 (漫画)|大奥]]』
 
; 映画
 
* [[紫頭巾]](1958年、[[東映]] 演者:[[山村聰]])
 
;テレビドラマ
 
* [[天下御免]](1971年、[[日本テレビ放送網|NHK]][[金曜時代劇]] 演者:[[仲谷昇]])
 
* [[紫頭巾]](1972年、[[テレビ東京|東京12チャンネル]] 演者:[[渥美国泰]])
 
* [[剣客商売 (テレビドラマ)|剣客商売]]([[加藤剛]]・[[山形勲]]版)(1973年、[[フジテレビジョン|フジテレビ]] 演者:[[松村達雄]])
 
* [[闇を斬れ]](1981年、[[関西テレビ放送|関西テレビ]] 演者:[[三國連太郎]])
 
* 剣客商売([[加藤剛]]・[[中村又五郎]]版)(1982年、フジテレビ 演者:[[小沢栄太郎]])
 
* [[翔んでる!平賀源内]](1989年、TBS[[ナショナル劇場]] 演者:[[藤岡琢也]])
 
* [[快傑黒頭巾]](1990年、TBS 演者:[[長門裕之]])
 
* [[大江戸捜査網|大江戸捜査網 平成第1シリーズ]](1991年、[[テレビ東京]] 演者:[[藤岡琢也]])
 
* [[大江戸捜査網|大江戸捜査網 平成第2シリーズ]](1992年、[[テレビ東京]] 演者:[[青木義朗]])
 
* [[殿さま風来坊隠れ旅]](1994年、[[テレビ朝日]] 演者:[[遠藤太津朗]])
 
* [[八代将軍吉宗]](1995年、NHK[[大河ドラマ]] 演者:[[小林健]])
 
* [[風光る剣〜八嶽党秘聞]](1997年、[[NHK正月時代劇]]、演者:[[津川雅彦]])
 
* 剣客商売([[藤田まこと]]・[[渡部篤郎]]→[[山口馬木也]]版)(1998年、フジテレビ 演者:[[平幹二朗]])
 
* 剣客商売([[北大路欣也]]・[[斎藤工]]版)(2012年、フジテレビ 演者:[[國村隼]])
 
* [[大江戸捜査網|大江戸捜査網2015〜隠密同心、悪を斬る!]](2015年、テレビ東京、演者:[[瑳川哲朗]])
 
* [[陽炎の辻 完結編〜居眠り磐音 江戸双紙〜]](2017年、NHK正月時代劇、演者:[[長塚京三]])
 
* [[風雲児たち#テレビドラマ|風雲児たち 〜蘭学革命(れぼりゅうし)篇〜]] (2018年、NHK正月時代劇、演者:[[草刈正雄]])
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[五匁銀]]・[[南鐐二朱銀]]
 
* [[わいろ最中]] - 田沼意次が藩主を務めた旧[[相良町]]で考案された[[土産]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/toukai/sagara.html 相良藩]
 
 
 
{{相良藩主|田沼氏|初代|1767年 - 1786年}}
 
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[[Category:田沼氏|おきつく]]
 
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田沼 意次(たぬま おきつぐ)

江戸時代中期の幕府老中。田沼意行 (もとゆき) の子。父は紀州藩の足軽で,徳川吉宗に従って江戸に入り幕臣となった。意次は 15歳のとき西の丸つき小姓として仕え,元文2 (1737) 年主殿頭 (とのものかみ) ,宝暦1 (51) 年御側御用取次となった。9代将軍徳川家重の隠居後,10代将軍家治の信任を得て,明和4 (67) 年7月側用人 (そばようにん) に進み,一橋家や大奥との関係を深め,勢力を固めた。遠江相良 (5万 7000石) に城を築き老中格として専横のふるまいがあったことから,家治の没後は領地も削られ失脚。田沼時代として後世に有名である。



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