「田中眞紀子」の版間の差分

提供: miniwiki
移動先:案内検索
(更迭と外相辞任)
 
 
(同じ利用者による、間の3版が非表示)
1行目: 1行目:
{{存命人物の出典明記|date=2012年12月}}
+
 
 
{{政治家
 
{{政治家
 
|人名 = 田中 眞紀子
 
|人名 = 田中 眞紀子
22行目: 22行目:
 
|ウェブサイト =
 
|ウェブサイト =
 
|サイトタイトル =
 
|サイトタイトル =
|国旗 = JPN
 
|職名 = 第17代 [[文部科学大臣]]
 
|内閣 = [[野田内閣 (第3次改造)|野田第3次改造内閣]]
 
|就任日 = [[2012年]][[10月1日]]
 
|退任日 = [[2012年]][[12月26日]]
 
|元首職 =
 
|元首 =
 
<!-- ↓省略可↓ -->
 
|国旗2 = JPN
 
|職名2 = 第132代 [[外務大臣 (日本)|外務大臣]]
 
|内閣2 = [[第1次小泉内閣]]
 
|就任日2 = [[2001年]][[4月26日]]
 
|退任日2 = [[2002年]][[1月30日]]
 
|元首職2 =
 
|元首2 =
 
|国旗3 = JPN
 
|職名3 = 第52代 [[科学技術庁長官]]
 
|内閣3 = [[村山内閣]]
 
|就任日3 = [[1994年]][[6月30日]]
 
|退任日3 = [[1995年]][[8月8日]]
 
|元首職3 =
 
|元首3 =
 
|国旗4 = JPN
 
|職名4 = [[衆議院]][[議員]]
 
|内閣4 =
 
|選挙区4 = ([[新潟県第3区 (中選挙区)|旧新潟3区]]→)<br />[[新潟県第5区|新潟5区]]
 
|当選回数4 = 6回
 
|就任日4 = [[1993年]][[7月18日]] - 2002年[[8月9日]]<br />[[2003年]][[11月10日]]
 
|退任日4 = [[2012年]][[11月16日]]
 
|元首職4 =
 
|元首4 =
 
 
}}
 
}}
'''田中 眞紀子'''(たなか まきこ、[[1944年]]([[昭和]]19年)[[1月14日]]<ref name=prof>[http://www.kantei.go.jp/jp/koizumidaijin/010426/04tanaka.html 外務大臣  田中 眞紀子]</ref> - )は、[[日本]]の元[[政治家]]。通常は田中真紀子と表記される場合が多い。
+
'''田中 眞紀子'''(たなか まきこ、[[1944年]]([[昭和]]19年)[[1月14日]]<ref name=prof>[http://www.kantei.go.jp/jp/koizumidaijin/010426/04tanaka.html 外務大臣  田中 眞紀子]</ref> -
 
 
父は第[[第1次田中角榮内閣|64]]・[[第2次田中角榮内閣|65]]代[[内閣総理大臣]]の[[田中角栄]]。1969年に[[田中直紀]](後に自由民主党衆議院議員、民主党[[参議院議員]])と結婚した<ref name=prof/>。
 
 
 
[[衆議院議員]](6期)、[[科学技術庁長官]]([[村山内閣|第52代]])、[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]([[第1次小泉内閣|第132代]])、衆議院[[文部科学委員会|文部科学委員長]]、[[衆議院]][[外務委員会|外務委員長]]、[[文部科学大臣]]([[野田内閣 (第3次改造)|第17代]])等を歴任した。
 
 
 
== 来歴・人物 ==
 
=== 議員となる前 ===
 
[[東京都]][[文京区]]に父・田中角栄、母・はなの長女として生まれる。[[本籍地]]は[[新潟県]][[柏崎市]]。千代田区立富士見小学校、[[日本女子大学附属中学校・高等学校]]を卒業し、[[早稲田大学商学部]]へ進学。早大在学中は演劇サークル[[劇団木霊]]に所属し、同期には[[久米宏]]や[[長塚京三]]がいた。大学卒業後は[[劇団雲]]に所属し、[[俳優|女優]]として舞台に出演するが、結婚を機に引退。母が病弱であったことや、高校時代のアメリカ[[留学]]経験もあり、父・角栄が首相在任中は事実上の[[内閣総理大臣夫人|ファーストレディ]]の役目を担った。ただし子供の頃や政界入りする前は角栄と対立する事も多く、進学先や[[田中直紀]](旧姓:鈴木)との結婚などは角栄の反対を押し切り決めたという。
 
=== 自民党時代 ===
 
[[1993年]]の衆院選で初当選、翌[[1994年]]に1年生議員ながら[[村山内閣]]の[[科学技術庁長官]]として初入閣して話題を呼んだ<ref group="注釈">1年生議員の入閣は[[1957年]]発足の[[第1次岸内閣改造内閣]]で[[法務大臣]]となった[[唐沢俊樹]]以来、37年ぶりだった</ref>。その後も国民的な人気を保ったが、与党内野党的な自由な立場からの奔放な発言が人気の源泉であり、政治家として目立った実績を残したわけではなかった。[[教育実習]]に[[ボランティア]]活動を義務化させる提案をし実現させ物議を醸した事もある。しかし[[2001年]]の小泉内閣誕生に際しては総裁選での応援を買って出るなど大きく寄与、自ら外相に就任して異例の高支持率を獲得。実務においては様々なトラブルを引き起こし外交が機能不全に陥るほどだったが、人気は衰えなかった。
 
=== 外相更迭と議員辞職 ===
 
ターニングポイントとなったのが[[2002年]]の事務方との対立に起因する外相更迭であり、当時は世論の圧倒的多数が更迭に反対して田中を支持、小泉内閣の支持率が一時的に急落するほどであった(読売新聞では下げ幅が30.7%に及んだ)。しかし直後に自らの秘書給与問題が浮上し、議員辞職に追い込まれる<ref>{{Cite web|author=[[菅直人]]|date=2002-08-09|url=http://archive.dpj.or.jp/news/?num=11309|title=田中真紀子氏の議員辞職について(談話)|publisher=[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]|accessdate=2009-03-08}}</ref>。[[2003年]]衆院選で復帰し、[[院内会派]]「'''民主党・無所属クラブ'''」に加入。今度は以前に所属していた自民党に対して厳しい批判を繰り返すようになった。
 
 
 
=== 民主党入り ===
 
[[第45回衆議院議員総選挙|衆院選]]を目前に控えた[[2009年]][[8月15日]]、新潟県長岡市内で記者会見し、夫の[[田中直紀]]参議院議員とともに[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]入りを表明。民主党入りの理由について「確実に二大政党(の時代)になる。有権者に約束してきたことを実現するためには、組織に所属しなければならない」と述べ、選挙後の入党という選択肢については「それでは有権者に対して失礼」と否定した。[[鳩山由紀夫]]民主党代表は「夫婦そろっての民主党入党を心から歓迎する」と述べた<ref>{{Cite web
 
|date=2009-8-15
 
|url=http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20090815AT3S1500K15082009.html
 
|title=田中真紀子氏の民主党入り発表 鳩山代表「夫婦の入党歓迎」
 
|accessdate=2009年8月15日
 
}}</ref><ref>{{Cite web
 
|date=2009-8-15
 
|url=http://www.nikkansports.com/general/news/p-gn-tp3-20090815-531240.html
 
|title=真紀子氏民主入りへ15日鳩山代表と会談
 
|accessdate=2009年8月15日
 
}}</ref>。
 
 
 
同年9月の[[鳩山由紀夫内閣]]の成立に伴い、衆議院[[文部科学委員会|文部科学委員長]]に就任。[[2011年]]6月の菅[[内閣不信任決議]]案([[菅おろし]])で党議拘束に違反して棄権したため、民主党執行部から3ヶ月の党員資格停止処分が下された。なお、国会の役職については解任しない旨が民主党執行部から通達されたため、衆院文部科学委員長の職には留まった。党員資格が停止されたため、[[2011年民主党代表選挙]]では投票権が与えられなかった([[野田佳彦]][[日本の大蔵大臣・財務大臣一覧|財務大臣]]が当選)。同年9月の[[野田内閣]]の成立に伴い、衆議院[[外務委員会|外務委員長]]に就任。
 
 
 
[[2012年]][[6月26日]]の[[消費税]]増税法案には、[[小沢一郎]]や[[鳩山由紀夫]]らが反対票を投じ、小沢は自身のグループに所属する議員の大半を率いて離党、[[国民の生活が第一]]を結党したのに対し、田中は賛成票を投じ、造反の動きに同調しなかった。以前から田中は「反・野田」のスタンスに軸足を置いていたが、[[2012年9月民主党代表選挙]]では一転して野田首相の再選を支持し、野田陣営に参加している。同年10月、[[野田内閣_(第3次改造)|野田第3次改造内閣]]で[[文部科学大臣]]に任命され、[[2001年]]に発足した[[第1次小泉内閣]]以来、約11年ぶりに3度目の入閣を果たした。
 
 
 
同年11月、2013年春に新規開校を予定していた大学3校の不認可を示唆。3大学は、[[文部科学省]]の諮問機関である大学設置・学校法人審議会の認可を受けており、文部科学大臣が審議会の判断を覆すのは極めて異例で、田中は不認可の理由について「大学が多すぎ、質が低下している」と説明したことから<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20121103-OYT1T00216.htm?from=ylist 田中文科相考え直して…編入希望絶たれた短大生] YOMIURI ONLINE(2012年11月3日14時38分  読売新聞)</ref>、関係各所を巻き込んだ騒動に発展。この3校以外に同時期に認可の申請が出された既設大学の16学部、13の大学院を認可したことに続き、結局、[[文部科学省]]は11月8日、新規3校についても正式に認可した<ref>[http://www.mext.go.jp/b_menu/daijin/detail/1327739.htm][[笠浩史]][[文部科学副大臣]]記者会見録(2012年11月8日)/2017年12月26日閲覧。</ref>。
 
 
 
=== 落選 ===
 
2012年[[12月16日]]の[[第46回衆議院議員総選挙]]で、父の時代からの強固な地盤だった[[新潟県第5区|新潟5区]]では自民候補の[[長島忠美]]に3万票近い差をつけられ次点で落選し、比例復活もならず議席を失った。父・角栄の死去から丁度19年になる命日での出来事であった<ref>[http://sankei.jp.msn.com/politics/news/121217/elc12121701120023-n1.htm 落選の田中真紀子氏「私の努力不足」 対立陣営「時代の終わり」] MSN産経ニュース 2012年12月17日</ref>。「この地域に責任がある」と発言し政界引退は否定したが、その後の[[衆議院議員総選挙]]は出馬を見送っている<ref>[http://www.sankei.com/smp/politics/news/141120/plt1411200014-s.html]産経ニュース(2014年11月20日)/2017年12月26日閲覧。</ref><ref>[http://sp.yomiuri.co.jp/election/shugiin/2014/news1/20141120-OYT1T50078.html]読売オンライン(2014年11月20日)/2017年12月26日閲覧。</ref><ref>[https://search.yahoo.co.jp/amp/s/withnews.jp/amp/article/f0141120004qq000000000000000G0010101qq000011171A%3Fusqp%3Dmq331AQECAEYAQ%253D%253D]withnews(2014年11月20日)/2017年12月26日閲覧。</ref><ref>[https://search.yahoo.co.jp/amp/www.asahi.com/amp/articles/ASK8Q5JR2K8QUTFK00R.html%3Fusqp%3Dmq331AQECAEYAQ%253D%253D]朝日新聞デジタル(2017年8月22日)/2017年12月26日閲覧。</ref>。
 
 
 
== 評価 ==
 
田中の発言は他の政治家に比べて単なる「悪口」や人格への「中傷」が際立って多く、批判が多い<ref name="goroku">田中真紀子さんファンブック(田中真紀子ファンクラブ 著、データハウス 2001年)- 「真紀子さんを語る」の章</ref>。
 
 
 
新潟県中越地方の企業[[越後交通]]グループのオーナーでもある。眞紀子の選挙においては、バス会社である越後交通の各営業所は、選挙の情報収集や票固めと言った役割を果たすことになる。これらは父の角栄が築いたものであり眞紀子はそれを継承した。なお、同社では角栄を「大先生」と呼んでおり<ref>[http://www.echigo-kotsu.co.jp/contents/business/history/22.html 越後交通株式会社 田中角栄 大先生の功績]</ref>、営業所に写真も掲げられているという<ref>田中真紀子さんファンブック - 「角栄さんの引退と越山会の最後」「初出馬から外務大臣へ」各章</ref>。{{main|越山会#概要}}
 
 
 
眞紀子の人の好き嫌いは、父の角栄の存在の影響が非常に大きく、父を裏切った[[竹下登]]の旧経世会に連なる人間を憎んでいるとされる<ref group="注釈">竹下の側近だった[[野中広務]]は著書「老兵は死なず 野中広務全回顧録(文藝春秋、「金融危機と自自公連立」の章)の中で「父(角栄)を裏切った竹下さんと経世会は許せない」という思いがあったのではないかと書いている</ref>。無所属時代に統一会派を組み、現在は在籍している[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]の議員に対してすら、攻撃することがある<ref>「田中真紀子」研究(立花隆 著 文藝春秋 2002年)- 「真紀子の何が問題なのか?」の章</ref>。
 
 
 
父との関係が比較的悪くなかった[[小沢一郎]]には好意的で、小沢が[[民主党代表]]だった時は「小沢氏を首相にする」と支援姿勢を鮮明にしていた<ref>[[週刊新潮]] 2006年5月17日号 p.63~64</ref>。[[2010年]]9月の[[2010年9月民主党代表選挙|民主党代表選挙]]でも小沢への支持を公言し、積極的に支援している<ref>[http://japanese.joins.com/article/799/132799.html 「キングメーカー」田中真紀子氏が小沢氏の遊説に(2010年9月6日 中央日報)]</ref>。しかし[[2012年]]7月、小沢が民主党を離党して新党「[[国民の生活が第一]]」を結成した際には、党首への就任含みで参加するよう誘われたものの、眞紀子は民主党にとどまった<ref>[[週刊朝日]] 2012年9月28日号 23-24ページ</ref>。
 
 
 
また、父・角栄が大蔵大臣時代からの秘書だった[[早坂茂三]]や「田中角栄の金庫番」と言われた[[佐藤昭子]]とも折り合いが悪く、角栄が[[脳梗塞]]で入院した際「(縁のある)[[東京逓信病院]]に入院させましょう」と発言した早坂に対して、眞紀子は「病院の看護婦や医師は[[創価学会]]員や[[日本共産党|共産党]]員が多いから、病状が[[公明党]]や日本共産党へ(父の病状が)漏れる可能性もある」と違う病院へ入院させるよう要請し、受け入れられず東京逓信病院への入院を許した眞紀子は、数日後早坂と佐藤を田中事務所から解雇した<ref>大下英治著「闘争!角栄学校」下巻「鉄の田中軍団・宿命の「暗闘と掟」」の章より</ref>。
 
 
 
自民党時代に外務大臣在任中、小泉内閣及び田中外相の方針に抵抗する外務省の[[官僚]]を更迭するため省内の人事異動に介入しようとしたものの、大臣には人事権がなく、省内の反発を受け頓挫した<ref>田中眞紀子はなぜ闘うのか : 田中バッシングの恐るべき真相を暴く(渡辺正次郎 著 日本文芸社 2001年)- 「第5章 田中真紀子は国家なき外務官僚を斬る!―真の独立国家「日本」誕生の日は近し」より</ref>。
 
 
 
作家の[[曽野綾子]]は、田中を「マスコミにもてはやされる才能を持ち、夫に対しても献身的なようだが、政治家には向いていない」と評した<ref>『人間にとって成熟とは何か』 (2013) p152-p153</ref>。
 
 
 
== 政治家としてのエピソード==
 
[[画像:Makiko Tanaka Ehime Maru.jpg|thumb|300px|[[えひめ丸]]曳航作業を視察する[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]田中眞紀子]]
 
 
 
=== 「凡人」「軍人」「変人」 ===
 
1998年7月の[[自由民主党総裁選挙]]に立候補した[[小渕恵三]]を「凡人」、[[梶山静六]]を「軍人」、[[小泉純一郎]]を「変人」と彼女が評した。梶山は旧[[陸軍航空士官学校]]出身。小泉は自民党の支持基盤の1つを解体すると目されていた「[[郵政民営化]]」を自身の政策の根幹に据えていたため、「[[自由民主党 (日本)|自民党]]の異端児」と評されていた。そして小渕は[[内閣官房長官|官房長官]]当時に「[[平成]]」の改元を発表した「平成おじさん」の印象程度しかなく、国民からの認知度が低かったため。これは同年の[[流行語]]ともなった。{{see also|小渕恵三#小渕内閣の実績|梶山静六#エピソード|小泉純一郎#総裁選への挑戦}}
 
 
 
=== 「パックン首相」 ===
 
これまで処理できなかった法案(ガイドライン法案、[[国旗国歌法]]案、改正[[住民基本台帳]]法案、年金制度改正法案など)を、[[内閣総理大臣]][[小渕恵三]]([[小渕内閣]])が、次々呑み込んで法案成立させてしまった様子を指して「パックン首相」と呼んだ。また、金融再生関連法案の立法過程に関して、野党・民主党の案をほぼ丸呑みしたこと、公明党の主張した[[地域振興券]]法案の実施なども含まれている。
 
  
=== お陀仏発言 ===
+
平成時代の政治家。
{{see also|小渕恵三#突然の発病と死}}
 
2000年[[5月14日]]に死去した[[小渕恵三]]について、2001年4月14日、自民党総裁選に立候補した小泉純一郎の応援演説の際に「小渕の恵ちゃんなんか、『僕は一年間で借金百兆円作った、ガハハ』なんて[[カブ]]上げて喜んで頭がパチッと切れて、オブチさんがオダブツさんになっちゃったんですからね。これも自業自得なんですよ」と発言した。この発言は後にマスコミや世間から「お陀仏発言」と呼ばれた。
 
  
翌日の4月15日、[[渋谷駅]]で[[街頭演説]]をしたときも、「小渕の恵三さんという人は、『私は一年間で百兆円の借金を作った、日本一の借金王だ』とカブを持ち上げたら、コロッと死んだじゃないですか。あれをお陀仏さんと言うんですよ、オダブツさん」と発言した。
+
昭和19年1月14日生まれ。田中角栄の長女。田中直紀の妻。平成4年越後(えちご)交通副社長となり,5年衆議院議員に初当選(当選6回)。同年自民党に入党。6年村山連立内閣の科学技術庁長官。13年小泉連立内閣の外相。14年秘書給与横領疑惑で議員辞職。15年離党し,1ヵ月後の総選挙で返り咲きをはたした。21年民主党に入党。24年第3次野田改造内閣の文部科学相。同年の総選挙で落選。26年総選挙は不出馬。東京都出身。早大卒。
  
2001年4月17日付の[[古賀誠]]自民党幹事長に送った手紙の中で「14日以降は一度もその発言はしておりません」と書いたが、事実とは異なっていた。4月18日、再び手紙を送り[[謹慎]]に入ることを宣言した。しかし、翌19日の[[記者会見]]で「謹慎してもダメなものはダメと判決が下っている。だから活動を再開します」と言って、活動を再開した。
+
==注釈==
 +
{{Reflist}}
  
小泉内閣の外務大臣就任後、2001年5月14日に開かれた衆議院[[予算委員会]]において、この「お陀仏発言」について質問され、眞紀子は「結果として言葉が走りましたことは認めます。そして、今日は小渕元総理の御命日であるということも承知いたしておりますので、御温容をしのびながら、以後、反省をいたします」と答弁した。
 
  
=== 外務大臣として ===
+
{{テンプレート:20180815sk}}
==== 日本の内閣の方針と合わない言葉を公言 ====
 
[[2001年]]4月26日に外相に就任。[[日本の政治|日本政府]]の閣議でミサイル防衛構想について反対の立場を決めたことはないのにも関わらず、眞紀子は[[アメリカ合衆国]]の[[リチャード・アーミテージ|アーミテージ]]副長官との会談で[[ミサイル防衛|ミサイル防衛構想]]への批判を公言した。
 
  
==== 外国要人との会談を直前に中止 ====
 
外相在任中、アメリカの[[コリン・パウエル|パウエル]]長官との電話で、アーミテージ副長官が来られることは楽しみにしていると語った。しかし、2001年4月に、アーミテージ副長官が日本に来て小泉首相に会うための日程を決めようとした時、彼女は直前にこれをキャンセルした{{Sfn|飯島勲|2006|p=109}}。
 
 
==== 金正男の身柄拘束後の対応 ====
 
[[2001年]][[5月1日]]、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]の[[金正日]]の長男、[[金正男]]が[[出入国管理法]]違反により[[成田国際空港|新東京国際空港]]内で[[東京入国管理局]]に身柄拘束されたことについて、田中が「そんな人間を日本に置いておいて、北朝鮮から[[弾道ミサイル|ミサイル]]が飛んで来たら大変なことになる。すぐ帰さないとだめだ。すぐに追い出すように」という趣旨の発言をしたとされたことについて、[[鈴木宗男]]が衆議院で質問したが、そのような発言の記録は見当たらないと[[町村信孝]]が答弁した<ref>[http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b168199.htm 衆議院議員鈴木宗男君提出金正男氏と思われる者に対する政府の認識及び対応に関する質問に対する答弁書] 内閣衆質一六八第一九九号 平成十九年十一月十六日</ref>。
 
 
==== アメリカ合衆国の機密情報を漏洩 ====
 
[[アメリカ同時多発テロ事件]]の直後、眞紀子は機密情報である[[アメリカ大統領]]の避難先を記者会見でしゃべってしまった<ref>高山正之『サンデルよ、「正義」を教えよう』</ref>。当時国民の間で圧倒的な人気を誇る眞紀子の外相罷免を避けた小泉首相は、とりわけ対米外交において外相の頭越しに外交を行わせるようになる。
 
 
==== 指輪騒動 ====
 
[[2001年]][[11月1日]]、田中眞紀子は[[指輪]]を紛失したことを[[上月豊久]]秘書官の責任にして、指輪を買いに行かせ、その結果[[イラン]]の[[:en:Kamal Kharazi|ハラジ]]外相との会談に遅刻した。
 
 
==== 小泉首相の靖国神社参拝を批判 ====
 
2001年5月に[[唐家セン|唐家璇]](中国外相)と会談したとき、唐に「小泉首相に靖国神社参拝をやめなさいとゲンメイ(言明または厳命)しました」と言われた。眞紀子は、小泉首相の[[靖国神社]]参拝に強く反対した。小泉首相の靖国神社参拝に関して、「今の中国を見てください。株やって儲けて、[[ロールス・ロイス]]や[[メルセデス・ベンツ|ベンツ]]に乗っている若い人がいる一方で、年収数千円という貧しい人がいる。そうやって国内の不満が爆発しそうなところに、小泉さんが靖国神社へ参拝するから[[デモ行進|デモ]]が起こるんです。あの人は、日本の国益とか世界平和なんて考えていないのです」と批判した。また、「小泉さんが、[[煮干し]]の出がらしみたいな顔して『俺は靖国行く』っていうからおかしくなった。あの人はホントにタチが悪い」と批判した。
 
 
==== 「触らないで下さいよ!」 ====
 
2001年7月に、群馬県で[[第19回参議院議員通常選挙|参議院選挙]]に立候補した[[吉川真由美]]を応援するための演説をするはずであったが、田中が応援演説の予定の午後4時よりも1時間以上前に[[群馬県庁]]前に到着し、応援すべき候補者が来るのを待たずに勝手に演説を始めた。このため吉川は別の場所で演説していたが、これを中断して群馬県庁前へ急行、田中と一緒に演説を始めた。田中は「これから新潟に行って外務省の用事があるもんですから、あと4分だけで終わりにしますが、候補者、どの人か知りません。駅についてチラシをもらうまで男か女かも知りませんでした。名誉のため、市議や県議をやったから国会に行ってみようとか、政治家の娘だから国会に行ってみようというのは税金の無駄遣いなんです。」と駅前で演説した(吉川は元群馬県議会議員であり、元[[衆議院議員]][[熊川次男]]の娘。「政治家の娘」云々は群馬県を選挙区とする[[小渕優子]]のことかと思われるが、もちろん田中自身も政治家の娘である)。吉川が田中の批判的な発言をなだめるために、にこやかに「そんなぁ」と言いながら、田中の肩へ手を回したが、田中は「この候補者、なんておっしゃるんですか。知らないから触らないでください。知らない人に触られたくありません。では地元に用事がありますし、外務省に用事がありますのでこの辺で失礼します」と駅前の大衆に向かって演説した後、すぐに帰った。報道によれば外務省での公用などなく、地元の用事とは、新潟でのクラシックコンサートを見ることだったとされている。田中眞紀子の事務所には、事前に吉川についての資料が送られていた。結局吉川は落選した。田中は党紀委員会にかけられたが、小泉首相側はこれを擁護した。
 
 
==== 「外務省は伏魔殿」 ====
 
[[外務省]]を「[[伏魔殿]]」と呼んで、外務省・外務官僚の閉鎖的な様子を鋭く表現し、[[外務省機密費流用事件]]や自身の進めようとした外務省改革・人事で外務省と対立した<ref group="注釈">[[花岡信昭]]の著書によると、外務官僚に「誰が外務大臣になってほしいか」というアンケートで[[河野洋平]]の前任者だった[[高村正彦]]の再復帰を望む声が多かった。そのため、外務官僚は花岡に「あの人(眞紀子)がくれば外交がめちゃめちゃになる」と言ったされる</ref>。
 
 
==== 更迭と外相辞任 ====
 
{{see also|鈴木宗男事件#概要|鈴木宗男#疑惑・逮捕・落選}}
 
[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]在任中、[[北方地域|北方領土]]返還をめぐる方針や[[外務省]]改革などを巡り、当時の衆議院議院運営委員長で、外務省に強い影響力を持っていた[[鈴木宗男]]との抗争や官僚との軋轢が報じられていた。ごく短期間に事務方の秘書が4人交代し、中には体調を崩して病院に入院する者も出ていた{{Sfn|飯島勲|2006|p=109}}。
 
 
決定となったのは[[2002年]]1月、[[アフガニスタン]]復興会議への[[非政府組織|NGO]][[ピースウィンズ・ジャパン]]出席取り消し事件について、田中は「事務方は『鈴木議員からの圧力があった』と自分にいった」と発言したことである{{Sfn|飯島勲|2006|p=114}}。この点は28日の予算委員会で追及され、田中は具体的な幹部職員名を上げ「言った、間違いない」、事務方は「そのようなことは言っていない」と答弁し、答弁の食い違いに委員会は大紛糾した。その日の夕方に[[野上義二]]外務[[事務次官]]の[[参考人]]招致が実施され(事務次官の参考人招致は前代未聞)、次官は「私の口からは鈴木議員云々とは一切言っていない」と証言し{{Sfn|飯島勲|2006|p=114}}、対立は一層深刻化した。
 
 
29日、[[小泉純一郎]]は田中大臣と野上次官を[[総理大臣官邸]]に呼び、[[喧嘩両成敗]]として2人を更迭、鈴木宗男に衆議院[[議院運営委員会|議院運営委員長]]の辞任を求めて辞任した{{Sfn|飯島勲|2006|p=117}}。田中は「一生懸命やってきたつもりだったんですけどね」とカメラの前で[[涙]]を流した。圧倒的な人気を誇る彼女を更迭したことで、小泉内閣の支持率は30%程度急落した{{Sfn|飯島勲|2006|p=118}}。
 
 
==== 秘書給与流用疑惑と議員辞職 ====
 
秘書給与横領で元秘書より詐欺罪で告発され、自民党の党員資格を停止され、議員辞職となる。東京地検特捜部の捜査の結果、告発対象の秘書については「バス会社越後交通からの出向であるが、秘書としての勤務実態はあった」「秘書給与は同社に入れる一方、会社給与等の形で秘書給与額をやや上回る額が秘書に給与され、流用が確認できない」「出向扱いにしていたのは、社員としての身分保障の継続を求めた秘書側の希望」などが判明し、詐欺罪の公訴時効にかからない1996年以降の公設秘書10人も捜査された結果、犯罪性はないとされて2003年9月30日に嫌疑なしの不起訴処分となった<ref>秘書給与流用疑惑 田中真紀子元外相、不起訴/東京地検 読売新聞2003年10月1日</ref>。
 
 
その後、第43回衆議院議員総選挙で当選し、民主党会派(民主党・無所属クラブ)に入会した。以降、選挙の際に民主党公認の立候補者の選挙支援に重用される。ただし、当時は民主党員ではなく、あくまで無所属であった。従来どおり自由民主党公認候補である夫の支援も行っていたが、その後、夫を離党させた。
 
 
父角栄からの[[相続税]]の脱税が指摘され、目白邸の一部を分納したことがある。角栄の死去に伴い眞紀子は角栄遺産について1994年7月、[[小石川税務署]]に相続税の申告を行なった。その際に申告した遺産総額(課税対象額)は約120億円。しかし、1995年12月、その申告には78億円以上の申告漏れがあると[[東京国税局]]に指摘された。非上場の同族企業つまり[[ペーパーカンパニー]]に持たせていた資産にメスが入れられたのである。申告すべき実際の遺産額は約200億円だった。この結果、納税すべき相続税額も約55億円増えた。このため、眞紀子や夫の直紀が相続した[[目白御殿]]と呼ばれていた角栄自宅の一部や軽井沢別荘の一部が、納税に充てるために物納された。
 
 
===民主党への入党===
 
==== 角友会の解散 ====
 
父の古くからの支持者との軋轢の一つに、2004年から2005年にかけて起こった[[東日本旅客鉄道|JR]][[浦佐駅]]前に立つ銅像を巡って発生した管理団体との対立が挙げられる。この銅像に屋根をつけるべき(地元は豪雪地帯のため、「雪が積もってお父ちゃんが可哀想」と発言したとも)と2004年11月に管理団体「角友会」(会長・須佐昭三、越山会元幹事長)に申し入れるも難色を示されたため、2005年2月に「田中角栄記念館」を通じて六日町[[簡易裁判所]]に調停を申し立てた。話し合いの末、像の管理は田中家がすることとなり「角友会」は解散。銅像そのものは、支持者が角栄の地元発展への尽力に感謝し、約2億円をかけて1985年に建立したもの。また、2005年には銅像に屋根が掛けられた。
 
 
[[第45回衆議院議員総選挙|第45回総選挙]]では、民主党候補の支援の他、選挙区によっては[[国益と国民の生活を守る会|平沼グループ]]の支援も行っている。
 
 
==== 北朝鮮による拉致被害者 ====
 
2003年10月31日、佐渡において行った[[藤島正之]]候補の応援演説で、「拉致家族の子供は北朝鮮で生まれたから本来なら北朝鮮に返すべきじゃないですか? その辺のところを蓮池何とか(=[[蓮池透|透]]、被害者の[[蓮池薫|薫]]さんの兄)さんはよく考えてください」と発言し、 [[北朝鮮による拉致被害者家族連絡会]]・[[北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会]]を批判した。また、「(被害者に)耳触りのいいことを言うべきではない」、「(帰国した5人の拉致被害者の)家族の国籍は[[国際法]]上は北朝鮮籍。外務省も知っているはず。(日本帰国は)難しいとはっきり言うべき」と発言した。[[北朝鮮による拉致被害者家族連絡会]]と[[北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会]]は田中真紀子事務所に抗議したが、一切回答していない。
 
 
==== 記事出版差し止め ====
 
{{Main|田中真紀子長女記事出版差し止め事件}}
 
2004年3月、長女の記事に関し、長女がプライバシー侵害を理由に記事の差し止めの仮処分を申請し認められた。仮処分は後に東京高裁で取り消された。
 
 
=== 文部科学大臣として===
 
2012年(平成24年)[[11月1日]]に、[[大学設置・学校法人審議会]]が新設大学の認可を[[文部科学省]]に答申したが、翌2日に田中眞紀子[[文部科学大臣]]が3つの大学を不認可とすることを公表した<ref>[http://web.archive.org/web/20121103075208/http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20121103-OYT1T00216.htm 田中文科相考え直して…編入希望絶たれた短大生] - 2012年11月3日14時38分 讀賣新聞(YOMIURI ONLINE)</ref>。これに対する[[世論]]・[[マスコミ]]の反発は大きく<ref>[[日本放送協会|NHK]]は不認可が撤回された8日の[[時論公論]]でも、なお田中を批判するほどだった。[https://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/137470.html 「"大学設置不認可"は何だったのか?」] - NHKオンライン</ref>、6日後の同月8日に撤回した。田中自身は、就任間もない大臣(前月10月1日就任)が大学の認可・不認可という重要事項を自分の一存で決められるものではなく、事務方の意向に沿っただけのものであるとした<ref>参考資料; [http://www.mext.go.jp/b_menu/soshiki/rekidai/jimujikan.htm 歴代文部科学事務次官]、[[文部科学審議官|歴代文部科学審議官]]。</ref>。
 
 
[[新国立競技場]]の建設について田中は[[毎日新聞]]に意見を読者投稿し、2015年8月22日付の「みんなの広場」(11面)に掲載された(「新国立」政治家は責任取れ)。既に支出された約62億円について「[[東日本大震災]]の被災者の方々のために役立てられたらと思うと、心から残念だ」などという内容。7月に白紙となった[[ザハ・ハディッド|ザハ]]案は、2012年11月、田中が文科相を務めていた時期([[近いうち解散|衆院解散]]の前日)に決まったものだった<ref>[http://www.nikkansports.com/general/news/1527044.html 田中真紀子氏「政治家責任を取るべき」新国立白紙で] 日刊スポーツ、2015年8月22日</ref>。
 
 
== エピソード==
 
* [[久米宏]]とは早稲田大学の同級生であったことから仲が良く、久米が司会をしていた『[[選挙ステーション]]』等の番組にたびたび出演、持論を展開した。
 
 
== テレビ・ラジオ出演 ==
 
* [[みのもんたの“さしのみ”]]の初回ゲストであった。
 
* [[2005年]][[4月]]より、[[文化放送]]の昼のワイド番組「[[寺島尚正 ラジオパンチ!|寺島尚正のラジオパンチ!]]」で水曜日のコメンテーターとして[[ラジオパーソナリティ]]として出演し話題になった。公務との関係で一時番組のコメンテーターを降板したが、翌年、再び、文化放送の清水克彦プロデューサーや寺島アナウンサーに要請されたのを受けて復帰した。
 
* [[2007年]][[1月6日]]16時より、[[新潟県民エフエム放送|FMPORT]]「[[げんこつRADIO SHOW!]]」にて、出演。その数週間前から、眞紀子の肉声で「は〜い」が何度か放送される。
 
 
== 発言 ==
 
* 「([[村山富市]])総理は私たち閣僚にとってかけがえのない人。私たちの首([[国務大臣]])を切ればいくらでも切れる。できれば、官僚にこき使われてヘトヘトにならないようにしてほしい。[[総理大臣公邸|総理公邸]]が合わなければ[[議員宿舎]]の中で[[パンツ]]1つで過ごしたほうがいいですよ」:科学技術庁長官時代に閣僚懇談会で発言。男性閣僚はギクッとなったが、村山首相は苦笑いしただけだった<ref group="注釈">[[岩見隆夫]]の著書より一部改編・抜粋</ref><ref name="goroku"/><ref name="mougoroku1">田中眞紀子猛語録:スーパーレディが日本列島を震撼させる(緒方邦彦 著 イースト・プレス 2001年)- 「第1章 炸裂する「真紀子節」」の章</ref>。
 
* 「愛人は誰にだっているんじゃないんですか」:田中が名付けた「軍人、変人、凡人」の直後菅直人(当時民主党代表)の愛人問題が取りだされ、マスコミから愛人について尋ねられた時の発言<ref name="goroku"/><ref name="mougoroku1"/>。
 
* 「人間には、敵か、家族か、使用人の3種類しかいない」<ref name="goroku"/><ref name="mougoroku1"/>:このような[[人生観]]は、田中眞紀子に限った話ではなく、思想家の[[吉本隆明]]は著書の中で「その通りだ」と書いている。
 
* 「何も知らないお姫様が[[神輿]]に担がれて選挙している」:急逝した小渕恵三首相の後を継ぎ立候補した[[小渕優子]]衆議院議員に対して。当時はマスコミも、小渕優子の立候補を「お姫様選挙」と揶揄した<ref name="goroku"/><ref name="mougoroku2">田中眞紀子猛語録:スーパーレディが日本列島を震撼させる - 「第2章 自民党の鬼っ子代議士」の章</ref>。
 
* 「[[スカート]]を踏んづけられていたので、後ろを振り返ってみると、言っている本人(小泉)だった」:外務省改革を妨害したと言って小泉首相を批判<ref name="goroku"/><ref name="mougoroku2"/>。
 
* 「([[非政府組織|NGO]]団体の案内状は届いたというのは)[[内閣官房長官|官房長官]]([[福田康夫]])のお得意の、勘違いをなさっておられるのではないでしょうか」<ref name="goroku"/><ref name="mougoroku2"/>。
 
* 「私が当時外相を務めていたら、他の国に行ってもらう手段を考えただろう」:外相就任前、[[李登輝]]の[[査証]]発給問題について<ref name="goroku"/><ref name="mougoroku3">田中眞紀子猛語録:スーパーレディが日本列島を震撼させる - 「第3章 女性宰相への茨の道」の章</ref>。
 
* 「私は変人の生みの親でございますから、生むだけじゃなくて育てていかないと。」と外相就任に関して記者に話した。小泉首相と共に、改革への決意を語っていた<ref name="goroku"/><ref name="mougoroku3"/>。
 
* 「小泉首相はいつまでも[[リチャード・ギア]]とダンスでも踊ってりゃいいのよ。」<ref name="goroku"/><ref name="mougoroku1"/>
 
* 「本当にあの人(小泉首相)はアメリカ大好き」<ref name="goroku"/><ref name="mougoroku1"/>
 
* 「小泉さんも自民党をぶっ潰すとか何とかおっしゃってましたけど、この小沢先生は本当にぶっ壊してきた実績がおありの方ですから」:[[小沢一郎]]を指して<ref name="goroku"/><ref name="mougoroku1"/>。
 
* 「『もなか』だか『おなか』だか」:[[野中広務]]を指して<ref name="goroku"/><ref name="mougoroku1"/>。
 
* 「静かじゃない人」:[[亀井静香]]を指して<ref name="goroku"/><ref name="mougoroku1"/>。
 
* 「うらなりの[[サクランボ|さくらんぼ]]」:[[加藤紘一]]を指して<ref name="goroku"/><ref name="mougoroku1"/><ref group="注釈">なお、加藤はさくらんぼで有名な[[山形県]]の出身である</ref>。
 
* 「ジジ公('''自自公''')だかババ公だか」:小渕首相時代の自民・[[自由党 (日本 1998-2003)|自由]]・[[公明党|公明]]の連立内閣を指して<ref name="goroku"/><ref name="mougoroku1"/>。
 
* 「蜃気楼」:[[森喜朗]]元首相(当時・自民党幹事長)のどこか茫洋としていて、切れ味が鈍く乏しいさまを、彼の名前を音読みして、「[[蜃気楼]]」と発言した。ただしこれは眞紀子のオリジナルというわけでもなく、[[浜田幸一]]も著書で同様の批判を行っていた<ref name="goroku"/><ref name="mougoroku1"/>。
 
* 「[[カレー]]食って下痢して顔が細くなったような人」:[[細田博之]]を指して<ref name="goroku"/><ref name="mougoroku1"/><ref group="注釈">細田の父・[[細田吉蔵]]は父・角栄と同じ[[佐藤栄作|佐藤]]派に属しており、かつては同じ派閥だった</ref>。
 
* 「全財産を身につけて歩いているような人」:[[扇千景]]元[[保守新党|保守党]]党首に対して<ref name="goroku"/><ref name="mougoroku1"/>。
 
* 「小泉さん(純一郎元首相)がはいと言えば『はい』と言う人間たち」:[[83会|小泉チルドレン]]を批判した発言<ref name="goroku"/><ref name="mougoroku1"/>。
 
* 「[[かつら (装身具)|ヅラ]]被ったおっさん」:[[与謝野馨]]を指して<ref name="goroku"/><ref name="mougoroku1"/>。
 
* 「大風呂敷おばさん」:[[風呂敷]]の有効利用を促した[[環境大臣]][[小池百合子]]を指して<ref name="goroku"/><ref name="mougoroku1"/>。
 
* 「[[ポマード]]を(べったり)頭につけたおっちゃん」:首相辞任後の[[橋本龍太郎]]を指して<ref name="goroku"/><ref name="mougoroku1"/>。
 
* 「最初はおいしかったが、だんだんしゃっこく(冷たく)なって、肉は[[ミートホープ]]の肉か知らないけど、見るだけでもいやになった。そういう時に新しく[[天丼]]が出てきたら、食べてみることだ」:自民党をカレーライスに例えて。天丼は民主党<ref name="goroku"/><ref name="mougoroku1"/>。
 
* 「69歳のコピー人間」「もうじき70、[[老人ホーム]]行きになる人間」:[[福田康夫]]を指している<ref name="goroku"/><ref name="mougoroku1"/>。
 
* 小泉政権を「大きな花火が上がって家が振動するくらいだったけど、外に出たら消えている」とし、次期首相となった安倍晋三官房長官(当時)についても「(安倍の総理総裁就任は)[[課長]]がいきなり[[代表取締役]][[社長]]になるようなもの」「ぱちぱちとちっちゃな[[線香花火]]をもって『これも花火には違いない』みたいに言っているなあと。すぐに落ちてしまう」と徹底的に批判を加えている<ref name="goroku"/><ref name="mougoroku1"/>。
 
* 「50万トンじゃダメなのよ。100万トンでもあげればいい。外交にはタイミングが大事」:2000年10月に[[北朝鮮による拉致被害者家族連絡会|家族会]]が[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]へのコメ支援に反対して自民党本部前に座り込んだ際の発言<ref>蓮池透「奪還」「人質――日本に引き留めようとする家族とも「戦わ」なければならなかった」の章</ref>。
 
* 2006年10月6日の衆院予算委員会代表質問で安倍首相の政治姿勢を厳しい言葉で非難した。「お父さんの靴を履いて飛び出していったら右に右に歩いていった(=安倍が政治家一家の出であることを揶揄。また、政治スタンスが「極右」であると批判)。」「聞いたところによると[[中西輝政]]先生におもねっているのではないでしょうか?(=[[ブレーン]]・アドバイザーすべてが保守論客である事を肴に歴史認識が欠如しているのではないか、と質した。)」「[[2002年]]に(内閣官房副長官として)訪朝したのですから拉致問題に関して連帯責任を負うべきですよ。」「どうも貧相な朝食を食べているそうですから安倍さんの政治は筋肉質とはいえません。」「反対に我が家にはしっかりとした朝食がありますからどうか食べにこられたら如何でしょうか?(=前者の発言を受けた皮肉)」<ref>[[日刊スポーツ]] 2006年10月7日 社会面</ref>
 
* 「(父の)田中角栄さんまでの自民党は良かった。その時の幻影をまだ見るのか。まだ(選挙で)自民党と書くのか」<ref name="nikkan070617">[[日刊スポーツ]] 2007年6月17日 社会面</ref>
 
* 「([[年金記録問題|年金問題]]について)[[グレーゾーン]]は支払うべき。これは国家が国民を信用し愛せるかの問題。小泉さん、安倍さんには愛がない。だから大臣([[松岡利勝]]前農水相)が首をつったんじゃないですか。内閣の[[防波堤]]にされたんじゃないですか」(2007年6月16日の応援演説)<ref name="nikkan070617"/>
 
* 安倍晋三首相の学歴を引き合いに出して低学歴と揶揄する発言(2007年7月19日の新潟県での講演会)。ただし田中も学位は安倍と同じ「学士」である<ref>[[夕刊フジ]] 2007年7月20日 3面</ref>。
 
* [[麻生太郎]]外相の2007年7月19日の講演でのいわゆる「[[アルツハイマー]]発言」に対して「口の曲がったわけのわからないおっちょこちょいの外相が『中国のお米と日本のお米の(価格の)計算が分からない人なんてアルツハイマーだ』だって、自分がアルツハイマーだからそんなこと言っているんでしょう」と発言(7月28日の米子市での演説会)<ref>2007年7月30日 [[読売新聞]] 政治面</ref>。
 
* 「今の瞬間が福田さんにとってはピーク。あとは転げ落ちていく」:2007年9月26日に組閣した[[福田康夫内閣]]を指して<ref>2007年9月27日 [[産経新聞]] 社会面</ref>。
 
* 「年取った安倍晋三(前首相)が演説しているようなもの。税金の無駄、首相を辞めて解散だ」:[[2007年]][[10月1日]]の福田康夫[[首相]]の所信表明演説を酷評<ref>2007年10月2日 [[日刊スポーツ]]他 社会面</ref>。
 
* [[麻生太郎]]を「'''ひょっとこ総理'''」と命名した<ref>[[週刊ポスト]] 2009年7月24日号 30-32ページ</ref>。
 
* 「[[予算委員会]]の答弁を聞いていても何を言っているのか分からない。[[菅直人]]首相もあまり力量のない方だということが証明された」「[[中国]]に毅然と物が言えないようでは困る。何も遠慮することはない」:[[尖閣諸島]]沖での漁船衝突事件への対応について菅直人首相らを酷評<ref>[[夕刊フジ]] 2010年11月9日 2面 など。</ref>。
 
* 「やはり[[暴走老人]]で大変だなと。大変だろうなとみております」:2012年10月、[[東京都知事]]を辞任して、国政への復帰と[[たちあがれ日本|新党結成]]を表明した[[石原慎太郎]]に対して<ref>[http://sankei.jp.msn.com/politics/news/121026/plc12102611560008-n1.htm 「石原氏は暴走老人」 “真紀子節”が炸裂「ご子息方がお気の毒」(産経ニュース 2012年10月26日)]</ref>。
 
* 「自爆テロ解散」:[[2012年]][[12月16日]]に行われた[[第46回衆議院議員総選挙]]で、小選挙区の[[新潟県第5区|新潟5区]]で[[長島忠美]]に敗れ比例復活もできず連続当選が6回で止まり落選。落選翌日、記者会見で[[野田佳彦]]首相を痛烈に批判した時に対しての発言<ref>[http://sankei.jp.msn.com/politics/news/121218/plc12121811480007-n1.htm 「総理は独りよがり」「自爆テロ解散」 田中文科相が痛烈批判(産経ニュース 2012年12月18日]</ref>。
 
 
== 一族 ==
 
=== 家庭・親族 ===
 
* 父 - [[田中角栄|田中{{lang|zh|角}}榮]](第64・65代[[内閣総理大臣]])
 
* 母 - 田中はな - 旧姓・坂本
 
* 夫 - [[田中直紀]](第10代[[防衛大臣]])
 
* 子 - 男子1人・女子2人<ref name=prof/>
 
* 兄 - 正法 - 4歳で死亡
 
* 異母弟 -  [[田中京 (音楽評論家)|田中京]]と田中祐は、父の妾・辻和子との子。
 
* 異母妹 -  佐藤敦子は父と[[佐藤昭子]]との子。(認知はされていない)
 
 
=== 系譜 ===
 
; ''田中家''
 
{{familytree/start}}
 
{{familytree |TKu|-|TS|-|TKj|-|TKe|v|TM|TKu=角右衛門|TS=捨吉|TKj=角次|TKe=[[田中角栄|角榮]]|TM=正法}}
 
{{familytree | | | | | | | | | | | | | | | |!| |}}
 
{{familytree | | | | | | | | | | | | | | | |`|TM|TM='''眞紀子'''
 
|boxstyle_TM=background-color: #afa;
 
}}
 
{{familytree | | | | | | | | | | | | | | | | |!|}}
 
{{familytree | | | | | | | | | | | | | | | | |TN|TN=[[田中直紀|直紀]]}}
 
{{familytree/end}}
 
 
== 出典・注釈==
 
=== 出典 ===
 
{{Reflist|2}}
 
 
=== 注釈 ===
 
{{脚注ヘルプ}}
 
<references group="注釈" />
 
 
== 参考文献 ==
 
* {{Cite |和書|author=飯島勲 |title=小泉官邸秘録 |date=2006 |publisher=日本経済新聞社 |isbn=4532352444 |ref=harv}}
 
 
== 関連文献 ==
 
* 『田中真紀子の恩讐』[[上杉隆]]著、[[小学館]]
 
* 『田中真紀子の正体』上杉隆著、[[草思社]]
 
* 『田中真紀子研究』[[立花隆]]著、[[文藝春秋]]
 
* 『裸の女王様―田中真紀子秘書日記 』[[穂苅英嗣]]著、文藝春秋
 
* 『わたしは特別なのよ!―田中真紀子の実像』[[須藤義雄]]著、[[STUDIO CELLO]]
 
* 『田中真紀子は復讐する』[[佐野眞一]]著、[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]2003年12月号、2003年
 
* 『週刊文春「検閲」事件 「角栄・真紀子」の血と判事の暴走』[[桜井よしこ]]・[[小林節]]著、文藝春秋2004年5月号、2004年
 
* 『疑惑の相続人 田中真紀子』[[野田峯雄]]・[[小山唯史]]著、[[光文社]]
 
* "[http://www.kandagaigo.ac.jp/kuis/about/bulletin/jp/021/pdf/001.pdf カリフォルニア州ロサンゼルス統一学区における英語教育の試みと日本における小学校英語教育への示唆]." ([http://www.webcitation.org/6JOgboVcU Archive]) 『[[神田外語大学紀要]]』. [[神田外語大学]]. 2009年. 第21号. -- 前と同じもの 英文 田中 真紀子
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Commonscat|Makiko Tanaka}}
 
* [[越山会]]
 
* [[新潟放送]]
 
* [[介護等の体験]]、[[小学校及び中学校の教諭の普通免許状授与に係る教育職員免許法の特例等に関する法律]]
 
* [[皇民党事件]]
 
{{-}}
 
{{start box}}
 
{{s-par}}
 
{{succession box
 
| title  = {{Flagicon|日本}} [[外務委員会|衆議院外務委員長]]
 
| before = [[小平忠正]]
 
| years  = 2011年 - 2012年
 
| after  = [[中山義活]]
 
}}
 
{{succession box
 
| title  = {{Flagicon|日本}} [[文部科学委員会|衆議院文部科学委員長]]
 
| before = [[岩屋毅]]
 
| years  = 2009年 - 2011年
 
| after  = [[石毛えい子|石毛鍈子]]
 
}}
 
{{s-off}}
 
{{succession box
 
| title  = {{Flagicon|日本}} [[文部科学大臣]]
 
| before = [[平野博文]]
 
| years  = 第17代:2012年
 
| after  = [[下村博文]]
 
}}
 
{{succession box
 
| title  = {{Flagicon|日本}} [[外務大臣 (日本)|外務大臣]]
 
| before = [[河野洋平]]
 
| years  = 第132代:2001年 - 2002年
 
| after  = [[小泉純一郎]]
 
}}
 
{{succession box
 
| title  = {{Flagicon|日本}} [[科学技術庁長官]]
 
| before = [[近江巳記夫]]
 
| years  = 第52代:1994年 - 1995年
 
| after  = [[浦野烋興]]
 
}}
 
{{succession box
 
| title  = {{Flagicon|日本}} [[原子力委員会|総理府原子力委員会委員長]]
 
| before = 近江巳記夫
 
| years  = 第52代:1994年 - 1995年
 
| after  = 浦野烋興
 
}}
 
{{end box}}
 
{{衆議院文部科学委員長}}
 
{{衆議院外務委員長}}
 
{{外務大臣}}
 
{{文部科学大臣||[[科学技術庁長官]],[[文部科学大臣]]}}
 
{{総理府原子力委員会委員長}}
 
{{Normdaten}}
 
 
{{デフォルトソート:たなか まきこ}}
 
{{デフォルトソート:たなか まきこ}}
 
[[Category:日本の閣僚経験者]]
 
[[Category:日本の閣僚経験者]]

2018/9/21/ (金) 23:21時点における最新版


田中 眞紀子(たなか まきこ、1944年昭和19年)1月14日[1] - )

平成時代の政治家。

昭和19年1月14日生まれ。田中角栄の長女。田中直紀の妻。平成4年越後(えちご)交通副社長となり,5年衆議院議員に初当選(当選6回)。同年自民党に入党。6年村山連立内閣の科学技術庁長官。13年小泉連立内閣の外相。14年秘書給与横領疑惑で議員辞職。15年離党し,1ヵ月後の総選挙で返り咲きをはたした。21年民主党に入党。24年第3次野田改造内閣の文部科学相。同年の総選挙で落選。26年総選挙は不出馬。東京都出身。早大卒。

注釈




楽天市場検索: