田中友幸

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田中 友幸(たなか ともゆき、1910年4月26日 - 1997年4月2日)は、映画プロデューサー東宝映画代表取締役会長日本創造企画代表取締役会長、日本アカデミー賞協会副会長、日本映画テレビプロデューサー協会顧問を歴任。ペンネームは神宮司八郎大阪府柏原市出身。趣味は旅行。通り名として、「友幸」を「ゆうこう」と呼ばれることが多い。

家族

学歴

職歴

来歴

大阪協同劇団での演劇活動を経て、プロデューサーとして活躍し、『ゴジラ』(1954年)以降、同社の看板シリーズとなった怪獣・SF映画のほとんどをプロデュース。また、「8.15」シリーズをはじめとするアクション映画や戦記大作、黒澤明岡本喜八監督などの作品も手掛け、喜劇・文芸作品を専門分野としていたプロデューサー・藤本真澄と東宝の黄金時代を牽引した。なお、関西大学から演劇活動にかけての仲間からは、俳優の志村喬、脚本家の木村武がのちに結集して特撮路線を支えている。

元々健全市民カラーの強い東宝にあって、ひたすら非日常の世界、豪快な男性路線にこだわり続けた。東宝社内で異端派に終わるべきところ、数回にわたって日本映画の興行成績記録を更新するという空前絶後のヒットメーカーぶりを発揮。結局は会社の色まで染め替えてしまった。今日では東宝の名は創立以来のサラリーマン喜劇や文芸映画以上に、田中が主導した特撮&アクション路線の印象が強くなっている。とりわけ『日本沈没』で大ヒットを飛ばして以後は東宝系の映画館主から絶大な信頼を受けた。黒澤明作品も、田中がプロデュースした1960年から1980年にかけての時期は娯楽性が強く、大ヒット作が多い。

テレビなどでゴジラの生みの親として紹介されるのは円谷英二であることが多いが、一般に知られているゴジラの基本設定を思いつき、実際の企画を立ち上げたのは田中である(円谷は第1作では実質カメラを有川貞昌に任せて特撮全体を指揮していたものの、タイトル上は特殊撮影担当者として、特殊美術や合成と並ぶ3人の「特殊技術」の1人としてしか扱われていない)。田中はこのことに強い自負を抱いていたらしく、キネマ旬報誌上で北島明弘が執筆したゴジラ関連記事に自分への言及がないことに不満を抱いて呼び出し、インタビューを掲載させたこともある(北島はその思い入れの強さに感じ入ったと記している)。

1998年に公開された『GODZILLA』のエンドクレジットの最後には、「田中友幸の思い出に捧ぐ」という一文が記されている。

その硬派で一貫した作品群、上記のインタビューのような強気なエピソード、三菱創価学会とも太いパイプを築き東宝グループ製作部門に君臨した晩年のポジションなどから、強面なイメージで語られることも多いが、実際は柔和で温厚な調整型の人物であったとされる。試写でまずいところがあると、隣席の監督をつねってくるなど、お茶目な面もあった。なお、1970年代後半には本社の専務取締役である西野一夫が社長を兼ねる東宝映像の会長をつとめるなど、製作部門においては藤本引退後は不動のトップとして待遇されながら、森、藤本(あるいは田中の後で東宝映画社長に就いた林芳信、島谷能成、市川南)とは異なって一度も本社取締役には就かなかった。そのため、本体中枢入りと引き換えにプロデューサーの肩書きを外さざるを得なかった彼ら(藤本は退社後にフリープロデューサーに転じる予定だったが死によって果たせなかった)と違って、終生製作部隊である株式会社東宝映画に君臨。オーナー型でさえ海外にも類のない、86歳まで切れ目なく作品を発表するという映画プロデューサー人生を、しかもサラリーマン型でまっとうすることとなった。

1976年、前半期の黒澤映画を一手にプロデュースして名声を博しながら東宝を追われ、ピンク映画の監督に転じていたかつての同僚・本木荘二郎が窮死した際はした。その少し前には宝塚映画あたりで本木をカムバックさせられないか打診していたといわれる。

三船プロダクションの設立と運営にも森岩雄藤本真澄川喜多長政らと大きく尽力した[2]

晩年には、ゴジラとガメラを戦わせるのも面白いという旨を発言していた。

没後に製作された『モスラ3 キングギドラ来襲』の劇中に、主人公の祖父の肖像として田中の写真が飾られている。

博覧会とのかかわり

1967年1月、大阪万博に向けて、三菱万国博綜合委員会寺尾一郎委員長から三菱パビリオンのプロデューサー就任を求められる。基本出展構想を練るために起案メンバーに未来志向の福島正実星新一矢野徹真鍋博を起用する。同年、三菱館のテーマ「日本の自然と日本人の夢」に決まる。館名を「三菱未来館」とし、明解なメッセージを発信する。プロローグとエピローグは歩行動線、全室映像に包み込まれる日本の自然と50年後の日本の「空」「海」「陸」の未来ゾーンは、動く歩道の強制動線とする。田中プロデューサーの意図する展示は分かりやすさと臨場感、見事に観客に伝わった。EXPO'70では人気ベストスリーとなり、三菱未来館は1,142万人の動員を誇る。

1971年1月8日、東宝三菱商事三菱地所の出資により日本創造企画株式会社(東京都千代田区丸の内)を設立し田中友幸は創業社長となる。時代を先取りする「レジャー」、「教育環境」、「流通」の企画・制作を営業の柱とする。 特に博覧会部門は「沖縄海洋博」、「ポートピア'81」、「科学万博つくば'85」では三菱未来館の総合プロデューサーを歴任する。

田中友幸の博覧会への信条は、掲げたテーマを分かりやすく具現化し、動員数を高めるため駆動装置(ライド)を導入することであった。海洋博では高低差のあるムービングシート1周140m、ポートピア'81では直径28m回転劇場/ラウンドロード、科学万博ではモーションコントロール・カー1周160m16車両による強制動線を採用する。三菱グループの企業のうちの三菱重工業のハード技術を博覧会に活用させる。

それぞれの博覧会では、「海の資源を展開する海洋博」、「宇宙から深海までの生活に及ぼす事象のポートピア'81」、「生命の起源から宇宙開発を巡る科学万博」の複合展示を採用した。

映画人田中友幸にとっての博覧会は徹底したライブ感を持続していた。博覧会が開幕してもパビリオンに入ると展示の手直しを要求する。博覧会の展示は生き物である。その持論は止む時がなかった。反面、映画と違い一発勝負が博覧会である、と。その怖さを身をもって体験されていた。

日本創造企画では、取締役社長を21年間、取締役会長を5年間務める。株式会社東宝映画プロデューサーの中、イベント会社を持ち多角的に活動した者は珍しい。田中友幸はかねがね一発勝負の仕事もさりながら継続性のあることに専念せよと唱えていた。日本創造企画は出資会社の三菱地所から横浜みなとみらい21地区「横浜ランドマークタワー・展望フロアスカイガーデン」などの集客施設の運営業務に携り、田中友幸の提唱に応えている。

主な製作担当作品

東宝社員時代・契約プロデューサー時代

東宝映像社長時代

東宝映画社長時代

東宝映画会長時代

東宝映画相談役時代

受賞歴

脚注

  1. 「「ゴジラ」の生みの親」読売新聞1997年4月3日朝刊35面
  2. 黒井和男 『映像の仕掛け人たち』 キネマ旬報社、1986-07。

出典・参考文献

外部リンク

先代:
藤本真澄
株式会社東宝映画社長
第2代(1975年 - 1981年)
次代:
林芳信


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