「生実藩」の版間の差分

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'''生実藩'''(おゆみはん)は、[[下総国]][[千葉郡]](現在の[[千葉県]][[千葉市]][[中央区 (千葉市)|中央区]]生実町および同市[[緑区 (千葉市)|緑区]][[おゆみ野]])に存在した[[藩]]。藩庁は[[生実城|生実陣屋]]に置かれた。房総の諸藩のうちで、転封がなかった数少ない藩の一つである。
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'''生実藩'''(おゆみはん)
  
== 藩史 ==
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江戸時代,[[下総国]]千葉郡生実地方 (千葉県) を領有した譜代小藩。元和1 (1615) 年森川重俊が采地 3000石を受け立藩,寛永4 (27) 年 7000石加増により1万石となり,以来廃藩置県に及ぶ。江戸城菊間詰。
「生実」は元々「小弓」と書かれ、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]初期に[[古河公方]]の後継者争いに敗れた[[足利義明]]が[[千葉氏]]の重臣[[原氏]]の居城だった小弓城を奪って居城とし、「[[小弓公方]]」を名乗って房総一帯を制圧したが、[[国府台合戦|第一次国府台合戦]]で[[北条氏綱]]に討ち取られて滅亡している。後に原氏が旧領に復帰して地名を「生実」と改めたが、[[小田原の役]]で没落した。
 
 
 
[[元和 (日本)|元和]]9年([[1623年]])、将軍[[徳川家光]]の寵臣であった[[酒井重澄]]が生実に2万5000石を与えられて生実藩を立藩した。病気療養と称しながら、その間に子を儲けたことで家光の勘気を蒙り、[[寛永]]10年([[1633年]])に勤務怠慢との理由で改易され、酒井家の生実藩は廃藩となった。
 
 
 
寛永4年([[1627年]])2月、[[上総国|上総]]・[[相模国|相模]]・下総国内においてそれぞれ1万石を与えられて[[大名]]となった[[森川重俊]]は、酒井家とは別に生実藩を立藩した。重俊は[[慶長]]19年([[1614年]])の[[大久保忠隣]]失脚に連座して改易されていたが、その後赦免されて大名となった。領地は下総国葛飾・匝瑳郡、上総国武射郡・長柄郡、[[相模国]]大住郡・鎌倉郡内にそれぞれあった。重俊はその後、[[老中]]にまで栄進したが、寛永9年([[1632年]])1月25日、[[徳川秀忠]]の死後に殉死した。代わって[[森川重政]]が跡を継ぐが、年貢負担をめぐっての争論が起きるなど藩が混乱した。[[寛文]]3年([[1663年]])1月23日に死去し、跡を[[森川重信]]が継ぐ。重信は[[元禄]]5年([[1692年]])6月27日に隠居して家督は[[森川俊胤]]が継いだ。俊胤は大番頭・[[奏者番]]・[[寺社奉行]]を歴任し、幕閣において活躍した人物である。第8代藩主・[[森川俊知]]は西の丸[[若年寄]]に栄進し、藩政においては財政再建のために家臣団俸禄の減少などを行なったが効果は無く、逆に百姓の利八に直訴される有様であった。第9代藩主・[[森川俊民]]は[[天保]]9年([[1838年]])8月9日に俊知が死去した後、家督を継いだ。そして大番頭・[[奏者番]]・[[若年寄]]を歴任している。
 
 
 
最後の藩主となった[[森川俊方]]は、[[戊辰戦争]]では新政府側に与した。翌年の[[版籍奉還]]で俊方は[[知藩事]]となる。[[明治]]4年([[1871年]])の[[廃藩置県]]で生実藩は廃藩となる。その後は[[生実県]]を経て、同年11月に[[印旛県]]に編入され、のちに千葉県となった。
 
 
 
== 歴代藩主 ==
 
=== 酒井家 ===
 
2万5000石。[[譜代大名|譜代]]。
 
#[[酒井重澄]](しげずみ)〈従五位下・山城守〉
 
 
 
=== 森川家 ===
 
1万石。譜代。
 
#[[森川重俊]](しげとし)〈従五位下・出羽守〉
 
#[[森川重政]](しげまさ)〈従五位下・伊賀守〉
 
#[[森川重信]](しげのぶ)〈従五位下・出羽守〉
 
#[[森川俊胤]](としたね)〈従五位下・出羽守〉
 
#[[森川俊常]](としつね)〈従五位下・内膳正〉
 
#[[森川俊令]](としのり)〈従五位下・内膳正〉
 
#[[森川俊孝]](としたか)〈従五位下・紀伊守〉
 
#[[森川俊知]](としとも)〈従五位下・内膳正〉
 
#[[森川俊民]](としたみ)〈従五位下・出羽守〉
 
#[[森川俊位]](としひら)〈従五位下・出羽守〉
 
#[[森川俊徳]](としのり)〈従五位下・出羽守〉
 
#[[森川俊方]](としかた)〈従五位下・内膳正〉
 
 
 
== 現状 ==
 
陣屋跡は住宅地などとなり、生実神社との境に[[土塁]]と空堀の一部が残る。
 
 
 
== 幕末の領地 ==
 
* [[下総国]]
 
** [[千葉郡]]のうち - 19村
 
** [[匝瑳郡]]のうち - 3村
 
** [[海上郡]]のうち - 1村
 
* [[上総国]]
 
** [[長柄郡]]のうち - 1村([[安房上総知県事]]を経て[[鶴舞藩]]に編入)
 
** [[武射郡]]のうち - 1村(安房上総知県事を経て[[柴山藩]]に編入)
 
* [[相模国]]
 
** [[鎌倉郡]]のうち - 1村
 
** [[大住郡]]のうち - 3村
 
 
 
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生実藩(おゆみはん)

江戸時代,下総国千葉郡生実地方 (千葉県) を領有した譜代小藩。元和1 (1615) 年森川重俊が采地 3000石を受け立藩,寛永4 (27) 年 7000石加増により1万石となり,以来廃藩置県に及ぶ。江戸城菊間詰。