「王位請求者」の版間の差分

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{{君主主義}}
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[[File:Prince James Francis Edward Stuart by Alexis Simon Belle.jpg|thumb|200px|[[イングランド王国|イングランド]]および[[スコットランド王国|スコットランド]]の正統な王として[[ジャコバイト]]に支持された「'''老僭王'''」こと[[ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート]]]]
 
'''王位請求者'''(おういせいきゅうしゃ)は、[[王|王位]]を請求する者のこと。広義には[[皇帝]]位など「王位」以外の君主位を請求する者を含む。この地位にある者は、一般的に'''[[王党派]]'''によって支持される<ref>王党派がみな王位請求者を支持するわけではない。共和国における王位請求者の支持者は文句なしに王党派であるが、君主国における王位請求者の支持者は、王党派である一方で正当とされる君主に対する反逆者の一面も持つ。</ref>。
 
 
 
英語で「'''プリテンダー'''(pretender)」と呼ばれることも多いが、この用語には「(不当な)要求者」という否定的な意味があり、中立的でない。これに相当する語句に、'''王位僭称者'''(おういせんしょうしゃ)、'''王位覬覦者'''(おういきゆしゃ)<ref>覬覦は「(分不相応なことを)うかがい狙う」の意。</ref>などがある。
 
 
 
== 概要 ==
 
[[File:Infante don Carlos, by Vicente Lopez.JPG|thumb|200px|[[カルリスタ王位請求者の一覧|スペイン王家の正統]]として「'''カルロス5世'''」を称した[[カルロス・マリア・イシドロ・デ・ボルボーン|モリナ伯ドン・カルロス]]]]
 
王位請求者が現れる理由としては、主として次のようなケースが考えられる。
 
*それまでの王統・皇統の断絶に際して、旧王朝と血縁関係や姻戚関係にある者が請求するケース(例:[[ハプスブルク家]]の男系が断絶した際に、妻がハプスブルク家出身であることを理由として神聖ローマ帝位やボヘミア王位を要求した[[カール7世 (神聖ローマ皇帝)|カール・アルブレヒト・フォン・バイエルン]])
 
*簒奪や[[クーデター]]・宮廷革命などで廃位された君主本人やその子孫、縁戚関係の者が請求するケース(例:王位を逐われて国外追放となってからもイングランド王を称し続けた[[ジェームズ2世 (イングランド王)|ジェームズ2世]]とその子孫)
 
*継承順位を下げられたり、継承権を奪われたりした元相続人が、不当だとして請求を開始するケース(例:スペイン王位継承順位1位だったが、王位継承法の変更により相続人の地位を失った[[カルロス・マリア・イシドロ・デ・ボルボーン|王弟カルロス]])
 
*継承権を持ちながらも順位が低い者、あるいは継承権を持たない縁戚関係にある者が、何らかの理由で請求を開始するケース
 
*[[革命]]や他国の[[併合]]などで君主制そのものが廃止された国家もしくは地域において、君主制の復活や独立などとともに自身の君主位を請求するケース
 
 
 
実際に君主制の復活を求める者に限らず、世が世なら君主の座に就くことができたであろう者全てが対象者となる。[[日本]]を例にとるならば、現在の[[沖縄県]]に当たる[[琉球王国]]の王家であった[[第二尚氏|尚氏]]の当主は、たとえ王位の復活を求めていなかったとしても、その立場上は王位請求者と見なされうる。日本の[[徳川将軍家]]や[[ネパール]]の[[ラナ家|ラナ宰相家]]のような、かつて実質的に君主として扱われていた一族の子孫も、しばしば王位請求者のような存在とみなされる。
 
 
 
現在、王位請求者とされる人物には、一般人として生活している者も多いが、中には君主の地位や君主制の復活を求めて[[亡命政府]]や政治団体などを組織して活動している者もいる。また(当人の意思にかかわらず)王位請求者を戴いて自らの理想とする形で君主制を復活させようとする[[王党派]]組織も、各国に存在する。([[シュヴァルツ=ゲルベ・アリアンツ]]、[[保守王党派クラブ]]、{{仮リンク|チェコ・コルナ (政党)|label=チェコ・コルナ|cs|Koruna Česká (monarchistická strana Čech, Moravy a Slezska)}}など)
 
 
 
== 現在の王位請求者の一覧 ==
 
{{See also|en:List of current pretenders}}
 
 
 
=== アジア ===
 
{|class="wikitable sortable" style="width:98%"
 
! width="18%" |'''国名'''
 
! class="unsortable" width="11%" |'''名前'''
 
! class="unsortable" width="11%" |'''肖像あるいは紋章'''
 
! class="unsortable" width="40%" |'''説明'''
 
|-
 
|| [[File:Flag of Afghanistan 1901.svg|border|25x20px|link=|alt=]] [[バーラクザイ朝|アフガニスタン王国]]
 
|| {{仮リンク|アフマド・シャー・ハーン|en|Ahmad Shah Khan, Crown Prince of Afghanistan}}
 
|| [[File:Emblem of Afghanistan (1931-1973).svg|150px]]
 
|| 最後のアフガニスタン国王[[ザーヒル・シャー]]の息子。
 
|-
 
|| [[File:Flag of the Mutawakkilite Kingdom of Yemen.svg|border|25x20px|link=|alt=]] [[イエメン王国|イエメン・ムタワッキリテ王国]]
 
|| {{仮リンク|アギッル・ビンモハメッド・アルバドル|en|Ageel bin Muhammad al-Badr}}
 
|| [[File:Coat of arms of Yemen (1962).png|150px]]
 
|| 最後のイエメン国王[[ムハンマド・アル=バドル]]の息子。イエメン王国亡命政府が現存する。
 
|--
 
|| {{IRQ1924}}
 
|| {{仮リンク|ラアド・イブン・ザイド|en|Ra'ad bin Zeid}}
 
|| [[File:Coat of arms of the Kingdom of Iraq.svg|150px]]
 
||  初代国王[[ファイサル1世 (イラク王)|ファイサル1世]]の弟{{仮リンク|ザイド・イブン・フサイン|en|Prince Zeid bin Hussein}}の長男に当たる。息子に[[国際連合人権高等弁務官事務所|国連人権高等弁務官]]{{仮リンク|ザイド・イブン・ラアド|en|Prince Zeid bin Ra'ad|label=ザイド・フセイン}}がいる。
 
|-
 
|| {{IRQ1924}}
 
|| {{仮リンク|シャリーフ・アリー・イブン・アル=フセイン|en|Sharif Ali bin al-Hussein}}
 
|| [[File:Sharif Ali Bin Al Hussein.jpg|150px]]
 
|| 最後の国王[[ファイサル2世 (イラク王)|ファイサル2世]]の従弟に当たる。[[サッダーム・フセイン|フセイン]]政権の崩壊後、王制滅亡以来初めてイラクの地を踏んだが、アメリカを含めどこの国からも充分な支援を得られず、またイラク国内に政治基盤もなくイラク国民からの支持がほとんどないため、イラクを離れ、現在はイギリスで生活している。2005年にイラクで行われた暫定国民議会選挙では、自らが党首を務める{{仮リンク|イラク立憲君主党|en|Iraqi Constitutional Monarchy}}も参加したが、議席は獲得できなかった。
 
|-
 
|| {{IRN1933}}<br />(パフラヴィー朝イラン)
 
|| {{仮リンク|クロシュ・レザー・パフラヴィー|en|Reza Pahlavi, Crown Prince of Iran}}
 
|| [[File:Reza Pahlavi by Gage Skidmore.jpg|150px]]
 
|| 最後の皇帝[[モハンマド・レザー・パフラヴィー]]の長男で、元皇太子。[[イラン・イスラーム共和国における人権|イランにおける人権問題]]等を批判し、イランの[[政教分離原則|世俗化]]と民主化を主張して政治活動を行っている。
 
|-
 
|| [[ファイル:Amir Kabir Flag.svg|border|25x20px]] [[ガージャール朝|崇高なる国ペルシア]]<br />(ガージャール朝イラン)
 
|| {{仮リンク|モハンマド・ハサン・ミールザー2世|en|Mohammad Hassan Mirza II}}
 
|| [[File:Imperial Emblem of the Qajar Dynasty (Lion and Sun).svg|150px]]
 
|| 第6代[[シャー|君主]][[モハンマド・アリー・シャー]]の子孫。亡命政府がアメリカ合衆国を拠点に存在する。
 
|-
 
|| {{OTT}}
 
|| [[デュンダル・アリ・オスマン]]
 
|| [[File:Osmanli-nisani.svg|150px]]
 
|| [[オスマン家]]第45代当主。
 
|-
 
|| [[File:Flag of Kingdom of Kartli-Kakheti.svg|25x20px]] {{仮リンク|カルトリ・カヘティ王国|en|Kingdom of Kartli-Kakheti}}
 
|| [[ダヴィッド・バグラチオン・ムフラニ]]
 
|| [[File:David de Bagration.jpg|150px]]
 
|| ムフラニ系統{{仮リンク|バグラティオニ朝|label=バグラティオニ家|en|Bagrationi dynasty}}(第2王統)の当主。過去に[[ジョージア (国)|ジョージア]]王家は2つに分かれており、ダヴィッドの祖父{{仮リンク|イラクリ・バグラチオン・ムフラニ|en|Irakli Bagration of Mukhrani}}は第二次世界大戦後、ソ連に留まったまま[[冷戦]]の激化によって行方が分からなくなっていた第1王統が途絶したと判断し、第2王統の自分がジョージア王室の長であることを宣言した。
 
|-
 
||  [[File:Flag of Kingdom of Kartli-Kakheti.svg|25x20px]] {{仮リンク|カルトリ・カヘティ王国|en|Kingdom of Kartli-Kakheti}}
 
|| {{仮リンク|ヌグザル・バグラチオン・グルジンスキ|en|Nugzar Bagration-Gruzinsky}}
 
|| [[File:Prince Nugzar of Georgia.jpg|150px]]
 
|| ソ連崩壊後に存続していたことが判明したグルジンスキ系統{{仮リンク|バグラティオニ朝|label=バグラティオニ家|en|Bagrationi dynasty}}(第1王統)の当主。娘の{{仮リンク|アンナ・バグラチオン・グルジンスキ|en|Anna Bagration-Gruzinsky}}を第2王統のダヴィッドと結婚させたが、夫妻は2013年に離婚している。
 
|-
 
||  [[File:Flag of the Kingdom of Sarawak (1870).svg|25x20px]] [[サラワク王国]]
 
|| {{仮リンク|ジェイソン・デズモンド・アンソニー・ブルック|en|Jason Desmond Anthony Brooke}}
 
|| [[File:Jason D A Brooke.jpg|150px]]
 
|| サラワク王家(ブルック王朝)の子孫。第2代国王[[チャールズ・ブルック]]の玄孫。
 
|-
 
|| {{QIN1890}}
 
|| {{仮リンク|金毓嶂|zh|金毓嶂}}
 
|| [[File:Seal of Qing dynasty.svg|150px]]
 
|| [[愛新覚羅溥任]]([[愛新覚羅溥儀]]の弟)の長男。血統的には[[愛新覚羅氏]]の嫡流であり当主といえるが、姓は愛新覚羅ではなく[[金 (姓)|金]]である。
 
|-
 
||  [[File:Late 19th Century Flag of Sulu.svg|25x20px]] [[スールー王国]]
 
|| [[:w:Muedzul Lail Tan Kiram]]ほか
 
|| [[File:Sulu Sultan Muedzul Lail Tan Kiram.jpg|150px]]
 
|| スールー王国の滅亡後、王家の複数の家系がスルタン位を主張しはじめ、現在、スルタン一族の間で継承順位を巡る論争が起きている。2013年、[[ジャマルル・キラム3世]]が[[ラハダトゥ対立 (2013年)|ラハダトゥ対立]]を起こした。
 
|-
 
|| {{KOR1897}}
 
|| [[李源]]
 
|| [[File:Yiwon 08JongmyoDaeje.jpg|150px]]
 
|| [[全州李氏]]宗家の第30代当主で、正式な皇位請求者である。[[高宗 (朝鮮王)|高宗]]の曾孫にあたる。2005年、直系の[[李玖]]の死後、その養子として李王家の後継者('''皇嗣孫''')となる。
 
|-
 
|| {{KOR1897}}
 
|| [[李海ウォン|李海瑗]]
 
|| [[File:Imperial Seal of the Korean Empire.svg|150px]]
 
|| 李源の叔母で、現当主の座を主張している。高宗の第5皇子である[[李コウ (義親王)|義親王李堈]]と[[側室]]の間に次女として生まれた。李玖の死を受けて2006年に皇位継承式を開催し、以後「'''大韓帝国女皇'''」を称している。
 
|-
 
|| {{TIB}}
 
|| [[ダライ・ラマ14世]]
 
|| [[File:MK37723 Tenzin Gyatso.jpg|150px]]
 
|| 宗教的権威者の立場と、政治的権威者の立場とを兼ね備えた[[チベット]]の僧侶君主だったが、1959年にインドへ亡命して政治難民となった。
 
|-
 
|| [[File:Flag of the Kingdom of Champasak (1713-1947).svg|16x20px]] [[チャンパーサック王国]]
 
|| Keo na Champassak
 
||
 
|| [[ブン・ウム]]の長男で、最後のチャンパーサック王ブア・ルパアン・ラーチャナダイの孫。
 
|-
 
|| [[File:Flag of Nepal (19th century-1962).svg|16x20px]] [[ネパール王国]]
 
|| [[ギャネンドラ・ビール・ビクラム・シャハ]]
 
|| [[File:Gyanendra 01.jpg|150px]]
 
|| 2008年に[[ネパール制憲議会|制憲議会]]によって廃された最後のネパール国王。
 
|-
 
|| [[File:Flag of the Alaungpaya Dynasty of Myanmar.svg|25x20px]] [[コンバウン王朝|ビルマ王国]]
 
|| {{仮リンク|タウ・パヤー|en|Taw Phaya}}
 
|| [[File:Sons and Daughters of Princess Myat Phaya Galay.jpg|150px]]
 
|| 最後の国王[[ティーボー]]の孫。
 
|-
 
|| [[File:Flag of the Empire of Vietnam (1945).svg|25x20px]] [[ベトナム帝国]]
 
|| {{仮リンク|阮福保エン|label=バオ・アン|zh|阮福保(阝恩)}}
 
|| [[File:Second flag of the Nguyen Dynasty.svg|150px]]
 
|| [[阮朝]]最後の皇帝であった[[バオ・ダイ]](保大帝)の皇子で、阮氏の現当主。
 
|-
 
|| {{LAO1949}}
 
|| [[スリウォンサワーン]]
 
|| [[File:Royal Seal of the Kingdom of Laos.svg|150px]]
 
|| 最後のラオス国王[[サワーンワッタナー]]の嫡孫で、ラオスの王位継承者。現在はフランスで亡命生活を送る。叔父でもある摂政の[[スリャウォンサワーン]]王子と共に、ラオス王室の代表を務める。ラオスにおける立憲君主制を復活させるために、{{仮リンク|ラオス王国亡命政府|en|Royal Lao Government in Exile}}と協力しながら政治活動を展開している。
 
|-
 
|| [[琉球王国|琉球国]]
 
|| [[尚衞]]
 
|| [[File:Mamoru Sho 01.jpg|150px]]
 
|| [[第二尚氏]]の第23代当主。最後の[[琉球国王]]として知られる[[尚泰王]]の玄孫。
 
|}
 
 
 
==== インド諸邦 ====
 
{|class="wikitable sortable" style="width:98%"
 
! width="18%" |'''国名'''
 
! class="unsortable" width="11%" |'''名前'''
 
! class="unsortable" width="11%" |'''肖像あるいは紋章'''
 
! class="unsortable" width="40%" |'''説明'''
 
|-
 
|| [[File:Flag of the Maratha Empire.svg|25x20px]] {{仮リンク|ヴァドーダラー藩王国|label=ヴァドーダラー王国|en|Baroda State}}
 
|| Maharaja Samarjitsinhrao Gaekwad
 
|| [[File:Baroda State CoA.png|150px]]
 
|| ヴァドーダラー王家当主。
 
|-
 
|| [[File:Kachchhflag.png|25x20px]] {{仮リンク|カッチ王国|en|Cutch State}}
 
|| [[:w:Pragmulji III]]
 
|| [[File:Pragmulji III.jpg|150px]]
 
|| カッチ王家当主。
 
|-
 
|| {{SIK1914}}
 
|| [[ワンチュク・ナムゲル]]
 
|| [[File:Seal of Sikkim color.png|150px]]
 
|| 最後のシッキム国王[[パルデン・トンドゥプ・ナムゲル]]の第2王子。祖国シッキムがインドに併合された後、アメリカ合衆国に亡命政府を構え、第13代シッキム国王を称している。
 
|-
 
|| [[File:Jammu-Kashmir-flag-1936-1953.gif|25x20px]] [[ジャンムー・カシュミール藩王国]]
 
|| [[カラン・シング]]
 
|| [[File:Dr-Karan-Singh-sept2009.jpg|150px]]
 
|| ジャンムー・カシュミール藩王家当主。最後の藩王[[ハリ・シング]]の息子。
 
|-
 
|| [[File:Flag of Dungarp.svg|25x20px]] {{仮リンク|ドゥーンガルプル王国|en|Dungarpur State}}
 
|| Mahipal Singh II, Maharawal of Dungarpur (born 1931)
 
||
 
|| ドゥーンガルプル王家当主。
 
|-
 
|| [[File:Flag of Kingdom of Travancore.svg|25x20px]] [[トラヴァンコール王国]]
 
|| {{仮リンク|ムラム・ティルナル・ラーマ・ヴェルマ|en|Moolam Thirunal Rama Varma}}
 
|| [[File:CoA Travancore 1893.png|150px]]
 
|| トラヴァンコール王家当主。
 
|-
 
|| [[File:Asafia flag of Hyderabad State.png|25x20px]] [[ニザーム王国]]
 
|| {{仮リンク|ムカラム・ジャー|en|Mukkaram Jah}}
 
|| [[File:Prince Mukarram Jah, the last Nizam (5613295569).jpg|150px]]
 
|| ニザーム王家当主。王太子[[アーザム・ジャー]]の息子。
 
|-
 
|| [[File:Flag of Bharatpur1.png|25x20px]] [[バラトプル王国]]
 
|| {{仮リンク|ヴィシュヴェンドラ・シング|en|Vishvendra Singh}}
 
|| [[File:Coat of arms of Bharatpur State.png|150px]]
 
|| バラトプル王家当主。
 
|-
 
|| [[File:Flag of Mysore.svg|25x20px]] [[マイソール王国]]
 
|| [[:w:Yaduveer Krishnadatta Chamaraja Wadiyar]]
 
|| [[File:Yaduveer Krishnadatta Chamaraja Wadiyar.JPG|150px]]
 
|| マイソール王家当主。
 
|-
 
|| [[File:Flag of Jodhpur.svg|25x20px]] [[マールワール王国]]
 
|| {{仮リンク|ガジ・シング (1948-)|label=ガジ・シング|en|Gaj Singh}}
 
|| [[File:CoA Jodhpur 1893.png|150px]]
 
|| マールワール王家当主。
 
|-
 
|| [[File:Alam of the Mughal Empire.svg|25x20px]] [[ムガル帝国]]
 
|| {{仮リンク|ミールザー・グラーム・モイーヌッディーン・ムハンマド・ジェイブド・ジャー・バハードゥル|en|Mirza Ghulam Moinuddin Muhammad Javaid Jah Bahadur}}
 
|| [[File:Imperial Seal of the Mughal Empire.svg|150px]]
 
|| 1931年にインド政府によってムガル朝(ティムール朝)の当主として認められた{{要出典|date=2018年3月}}[[w:en:Muhammad Khair ud-din Mirza, Khurshid Jah Bahadur|Muhammad Khair ud-din Mirza, Khurshid Jah Bahadur]]の息子。
 
|-
 
|| [[File:Drapeau Udaipur Mewâr.png|25x20px]] [[メーワール王国]]
 
|| {{仮リンク|マヘンドラ・シング・メーワール|en|Mahendra Singh Mewar}}
 
|| [[File:Insignia of Mewar, inside the City Palace, Udaipur.jpg|150px]]
 
|| メーワール王家当主。
 
|-
 
|| [[File:Rampur flag.svg|25x20px]] {{仮リンク|ラームプル藩王国|en|Rampur State}}
 
|| Sayyid Muhammad Kazim Ali Khan, Nawab of Rampur
 
|| [[File:Rampur State Coat of Arms.png|150px]]
 
|| ラームプル藩王家当主。
 
|-
 
|| [[File:Flag of Rajpipla.svg|25x20px]] {{仮リンク|ラジピプラ王国|en|Rajpipla State}}
 
|| Raghubirsinhji, Maharaja of Rajpipla
 
|| [[File:Rajpipla CoA.jpg|150px]]
 
|| ラジピプラ王家当主。息子は「インドで最も有名なゲイ」とされる{{仮リンク|マンベンドラ・シン・ゴーヒル|en|Manvendra Singh Gohil}}。
 
|}
 
 
 
=== アフリカ ===
 
{|class="wikitable sortable" style="width:98%"
 
! width="18%" |'''国名'''
 
! class="unsortable" width="11%" |'''名前'''
 
! class="unsortable" width="11%" |'''肖像あるいは紋章'''
 
! class="unsortable" width="40%" |'''説明'''
 
|--
 
|| {{EGY1922}}
 
|| [[フアード2世 (エジプト王)|フアード2世]]
 
|| [[File:Fuad II of Egypt 1952.jpg|150px]]
 
|| [[ムハンマド・アリー朝]]の最後のエジプト国王。1歳にも満たないうちに即位し、戴冠しないうちにその翌年のクーデターで王政が廃止されたため、実質的な統治は行わなかった。
 
|-
 
|| {{ETH1897}}
 
|| {{仮リンク|ゼラ・ヤコブ・アムハ・セラシエ|en|Zera Yacob Amha Selassie}}
 
|| [[File:Imperial coat of arms of Ethiopia (Haile Selassie).svg|150px]]
 
|| 最後の[[エチオピア皇帝]]である[[ハイレ・セラシエ1世]]の孫。エチオピア皇帝を称していた{{仮リンク|アムハ・セラシエ|en|Amha Selassie}}の息子。1997年の父の死後、エチオピア帝室の家長であると エチオピア帝国亡命政府「{{仮リンク|エチオピア帝冠評議会|en|Crown Council of Ethiopia}}」に認識されている。
 
|-
 
|| {{ETH1897}}
 
|| {{仮リンク|ギルマ・ヨハニス・イヤス|en|Girma Yohannis Iyasu}}
 
|| [[File:Imperial coat of arms of Ethiopia (Haile Selassie).svg|150px]]
 
|| 戴冠式を行わないまま退位させられた[[リジ・イヤス|イヤス5世]]の曾孫として、ゼラ・ヤコブと対立する王位請求者となっている。
 
|-
 
|| [[File:Zanzibar-dec-1963-jan-1964.svg|25x20px]] [[ザンジバル王国]]
 
|| {{仮リンク|ジャムシッド・ビン・アブドゥッラー|en|Jamshid bin Abdullah of Zanzibar}}
 
||
 
|| 1964年に発生した[[ザンジバル革命]]によって廃された[[スルターン]]。[[オマーン]]の[[ブーサイード朝]]の分家にあたる。
 
|--
 
|| [[File:Flag of the Central African Republic.svg|25x20px]] [[中央アフリカ帝国]]
 
|| {{仮リンク|ジャン=ベデル・ボカサ2世|en|Jean-Bédel Bokassa Jr}}
 
|| [[File:Imperial Coat of arms of Central Africa (1976–1979).svg|150px]]
 
|| 中央アフリカ皇帝[[ジャン=ベデル・ボカサ|ボカサ1世]]の息子で、元皇太子。
 
|-
 
|| [[File:Flag of Tunis Bey-fr.svg|25px]] [[チュニジア王国]]
 
|| Muhammad Al Husain
 
|| [[File:Tunisia Royal Coat of Arms.PNG|150px]]
 
|| Muhammad VI al-Habibの孫。
 
|-
 
|| [[File:Flag of Burundi (1962-1966).svg|25x20px]] [[ブルンジ王国]]
 
|| {{仮リンク|ローザ・ポーラ・イリバギザ|en|Rosa Paula Iribagiza}}
 
|| [[File:Coat of arms of the Kingdom of Burundi.png|150px]]
 
|| 最後のブルンジ国王[[ンタレ5世]]の妹。
 
|-
 
|| {{flagicon2|Libya|1951}}  [[リビア王国]]
 
|| {{仮リンク|ムハンマド・エル=サヌーシー|en|Mohammed El Senussi}}
 
|| [[File:Sidi Mohammed El Senussi.jpg|150px]]
 
|| [[サヌーシー教団|サヌーシー朝]]リビア王[[イドリース1世 (リビア王)|イドリース1世]]の甥の息子。
 
|-
 
|| [[File:Flag of Rwanda (1959-1961).svg|25x20px]] [[ルワンダ王国]]
 
|| [[ユヒ6世]]
 
|| [[File:Yuhi VI of Rwanda (2017).jpg|150px]]
 
|| 最後のルワンダ国王[[キゲリ5世]]の甥。
 
|}
 
 
 
=== ヨーロッパ ===
 
{|class="wikitable sortable" style="width:98%"
 
! width="18%" |'''国名'''
 
! class="unsortable" width="11%" |'''名前'''
 
! class="unsortable" width="11%" |'''肖像あるいは紋章'''
 
! class="unsortable" width="40%" |'''説明'''
 
|--
 
|| [[File:Royal_Standard_of_Ireland_(1542%E2%80%931801).svg|border|25px]] [[アイルランド王国]]
 
|| [[フランツ・フォン・バイエルン|フランシス・ボナヴェンチャー・オブ・バヴァリア]]
 
|| [[File:Franz von bayern.JPG|150px]]
 
|| [[ヴィッテルスバッハ家]]の家長。[[ジャコバイト]]から「'''フランシス2世(Francis II)'''」と見なされているが、本人はアイルランド王位を請求していない。
 
|--
 
|| [[File:Royal_Standard_of_Ireland_(1542%E2%80%931801).svg|border|25px]] [[アイルランド王国]]
 
|| {{仮リンク|ペドロ・デ・ボルボン=ドス・シシリアス|label=ピーター・オブ・バーボン=トゥー・シシリーズ|en|Prince Pedro, Duke of Calabria}}
 
||
 
|| 別系統のジャコバイト王位請求者。カラブリア系ブルボン=シチリア家の家長で、両シチリア王国とナバラ王国の王位請求者でもある。
 
|--
 
|| [[File:Flag of Albania (1934-1939).svg|border|25x20px]] [[アルバニア王国 (近代)|アルバニア王国]]
 
|| [[レカ・ゾグ (1982-)|レカ・ゾグ]]
 
|| [[File:LekaII.JPG|150px]]
 
|| アルバニア国王[[ゾグ1世]]の孫で、アルバニア王家の家長。王制支持者からは「'''レカ2世(Leka II''')」と呼ばれている。
 
|--
 
|| {{ENG927}}
 
|| [[フランツ・フォン・バイエルン|フランシス・ボナヴェンチャー・オブ・バヴァリア]]
 
|| [[File:Franz von bayern.JPG|150px]]
 
|| [[ヴィッテルスバッハ家]]の家長。[[ジャコバイト]]から「'''フランシス2世(Francis II)'''」と見なされているが、本人はイングランド王位を請求していない。
 
|--
 
|| {{ENG927}}
 
|| {{仮リンク|ペドロ・デ・ボルボン=ドス・シシリアス|label=ピーター・オブ・バーボン=トゥー・シシリーズ|en|Prince Pedro, Duke of Calabria}}
 
||
 
|| 別系統のジャコバイト王位請求者。カラブリア系ブルボン=シチリア家の家長で、両シチリア王国とナバラ王国の王位請求者でもある。
 
|--
 
|| {{AUT1804}}
 
|| [[カール・ハプスブルク=ロートリンゲン|カール・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン]]
 
|| [[File:Blue-Shield Vienna 3406.JPG|150px]]
 
|| 最後のオーストリア皇帝[[カール1世 (オーストリア皇帝)|カール1世]]の孫で、[[ハプスブルク=ロートリンゲン家]]の家長。
 
|--
 
|| {{GRC1828}}
 
|| [[コンスタンティノス2世 (ギリシャ王)|コンスタンティノス2世]]
 
|| [[File:King Constantine.jpg|150px]]
 
|| 最後のギリシャ国王。1974年の国民投票で廃位された。
 
|--
 
|| [[File:Flag of the Kingdom of Croatia.svg|border|25x20px]] {{仮リンク|クロアチア=スラヴォニア王国|de|Königreich Kroatien und Slawonien}}
 
|| [[カール・ハプスブルク=ロートリンゲン|カルロ・ハプスブルシコ=ロレンスキ]]
 
|| [[File:Blue-Shield Vienna 3406.JPG|150px]]
 
|| 最後の国王[[カール1世 (オーストリア皇帝)|カルロ4世]]の孫で、[[ハプスブルク=ロートリンゲン家]]の家長。
 
|--
 
|| {{HRV1941}}
 
|| [[アメデーオ・ディ・サヴォイア=アオスタ (1943-)|アメデーオ・ディ・サヴォイア=アオスタ]]
 
|| [[File:Amedeo di Savoia-Aosta.jpg|150px]]
 
|| クロアチア国王[[トミスラヴ2世]]の息子。「'''ズヴォニミル2世(Zvonimir II)'''」を名乗っている。
 
|--
 
|| {{SCO843}}
 
|| [[フランツ・フォン・バイエルン|フランシス・ボナヴェンチャー・オブ・バヴァリア]]
 
|| [[File:Franz von bayern.JPG|150px]]
 
|| [[ヴィッテルスバッハ家]]の家長。[[ジャコバイト]]から「'''フランシス2世(Francis II)'''」と見なされているが、本人はスコットランド王位を請求していない。
 
|--
 
|| {{SCO843}}
 
|| {{仮リンク|ペドロ・デ・ボルボン=ドス・シシリアス|label=ピーター・オブ・バーボン=トゥー・シシリーズ|en|Prince Pedro, Duke of Calabria}}
 
||
 
|| 別系統のジャコバイト王位請求者。カラブリア系ブルボン=シチリア家の家長で、両シチリア王国とナバラ王国の王位請求者でもある。
 
|--
 
|| {{ESP1785}}
 
|| [[カルロス・ハビエル・デ・ボルボン=パルマ]]
 
|| [[File:Carlos de Bourbon de Parme (2017).jpg|150px]]
 
|| [[ブルボン=パルマ家]]の家長で、スペインの[[カルリスタ王位請求者の一覧|カルリスタ王位請求者]]として「'''カルロス・ハビエル1世(Carlos Javier I''')」と呼ばれる<ref>[http://elcarlismocontralaglobalizacion.blogspot.com/2011/05/mensaje-al-pueblo-carlista-de-smc-don.htmlMENSAJE AL PUEBLO CARLISTA DE S.M.C. DON CARLOS JAVIER I DE BORBÓN, REY DE LAS ESPAÑAS] – [[blogspot]] El Carlismo contra Globalizatión ''(Spanish)''</ref><ref>[http://www.europapress.es/nacional/noticia-nuevo-pretendiente-carlista-corona-espana-20110505133101.html El primogénito de Carlos Hugo de Borbón – Nuevo pretendiente carlista a la corona de España] – website news agency Europa Press ''(Spanish)''</ref>。
 
|--
 
|| {{ESP1785}}
 
|| {{仮リンク|ドミニコ・デ・アウストリア=トスカーナ|en|Dominic von Habsburg}}
 
||
 
|| [[ハプスブルク=ロートリンゲン家|アブスブルゴ=トスカーナ家]]の一族。{{仮リンク|カルロクタビスモ|label=カルロクタビスタ|en|Carloctavismo}}派の[[カルリスタ王位請求者の一覧|カルリスタ王位請求者]]だが、有力な支持者はいない。ルーマニアの[[ブラン城]]の所有者。
 
|--
 
|| [[File:Flag of Serbia (1835-82).png|border|25x20px]] [[セルビア王国 (近代)|セルビア王国]]
 
|| [[アレクサンダル2世カラジョルジェヴィチ]]
 
|| [[File:HRH Crown Prince Alexander II with Legion of Honour.jpg|150px]]
 
|| [[ユーゴスラビア王国]]最後の国王である[[ペータル2世 (ユーゴスラビア王)|ペータル2世]]の息子で、元王太子。「'''セルビア王太子アレクサンダル2世'''」を称する。
 
|--
 
|| [[File:Bandera Navarra.svg|border|25x20px]] [[ナバラ王国]]
 
|| {{仮リンク|ペドロ・デ・ボルボン=ドス・シシリアス|en|Prince Pedro, Duke of Noto}}
 
|| [[File:Great Royal Coat of Arms of the Two Sicilies.svg|150px]]
 
|| スペインの王族で、カラブリア系の[[シチリア・ブルボン朝|ブルボン=シチリア家]]の家長。[[両シチリア王国]]の王位請求者でもある。カラブリア公およびカゼルタ伯を名乗る。公称「'''ペドロ2世'''」。祖母の[[アリシア・デ・ボルボーン=パルマ|アリシア・デ・ボルボン=パルマ]]が伝統的な親族間の男系優先の[[長子相続]]に基づくナバラ王位の請求者であることが、カラブリア系ブルボン=シチリア家の公式ホームページ<ref>http://www.borbone-due-sicilie.org/english/genealogy.html</ref>において言及されていた。
 
|--
 
|| [[File:Bandera Navarra.svg|border|25x20px]] [[ナバラ王国]]
 
|| [[ルイス・アルフォンソ・デ・ボルボーン|ルイス・アルフォンソ・デ・ボルボン]]
 
|| [[File:Louis XX.jpg|150px]]
 
|| {{仮リンク|ブラン・デスパーニュ|en|Blancs d'Espagne}}と呼ばれる現在のフランスおよびナバラ王位請求者。[[ルイ13世 (フランス王)|ルイ13世]]以降のナバラ王位のフランス王位への統合にともなう、[[サリカ法典|サリカ法]]による相続に基づく。公称「'''ルイス9世'''」。
 
|--
 
|| {{HUN1867}}
 
|| [[カール・ハプスブルク=ロートリンゲン|ハプスブルグ=ロタリンギアイ・カーロイ]]
 
|| [[File:Blue-Shield Vienna 3406.JPG|150px]]
 
|| 最後のハンガリー国王[[カール1世 (オーストリア皇帝)|カーロイ4世]]の孫で、[[ハプスブルク=ロートリンゲン家|ハプスブルグ=ロタリンギア家]]の家長。
 
|-
 
|| {{FIN1917}}
 
|| {{仮リンク|フィリップ・フォン・ヘッセン (1970-)|label=フィリップ・フォン・ヘッセン|sv|Philipp av Hessen (född 1970)}}
 
|| [[File:Coat of Arms of Kingdom of Finland (1918-1919).svg|150px]]
 
|| [[ヘッセン家]]の当主[[ハインリヒ・ドナトゥス・フォン・ヘッセン]]の弟。フィンランド国王[[フリードリヒ・カール・フォン・ヘッセン|カールレ1世]]の子孫で、叔父{{仮リンク|ハインリヒ・フォン・ヘッセン|label=ハインリヒ|en|Prince Heinrich of Hesse-Kassel}}から[[フィンランド王国]]の王位請求権を相続した。
 
|--
 
|| {{BGR1908}}
 
|| [[シメオン・サクスコブルクゴツキ|シメオン2世]]
 
|| [[File:Simeon II of Bulgaria.jpg|150px]]
 
|| ブルガリア最後の国王。[[第二次世界大戦]]中の1943年、6歳で即位したが、終戦後の1946年、国民投票により王政は廃止され、母后とともに亡命した。のちに「シメオン・サクスコブルクゴツキ」として[[ブルガリアの首相]]に就任した。
 
|--
 
|| [[File:Flag of Bohemia.svg|border|25x20px]] [[ボヘミア王国]]
 
|| [[カール・ハプスブルク=ロートリンゲン|カレル・ハプスブルスコ=ロートリンスキー]]
 
|| [[File:Blue-Shield Vienna 3406.JPG|150px]]
 
|| 最後のボヘミア王[[カール1世 (オーストリア皇帝)|カレル3世]]の孫。[[ハプスブルク=ロートリンゲン家|ハプスブルスコ=ロートリンスカ家]]の家長。
 
|--
 
|| {{PRT1830}}
 
|| [[ドゥアルテ・ピオ・デ・ブラガンサ]]
 
|| [[File:Jantar dos Conjurados.2008 029 (crop).jpg|150px]]
 
|| [[ブラガンサ朝|ブラガンサ家]]の家長。[[ポルトガル内戦]]で廃された[[ミゲル1世 (ポルトガル王)|ミゲル1世]]の曾孫で、最後の国王[[マヌエル2世 (ポルトガル王)|マヌエル2世]]から後継指名された[[ドゥアルテ・ヌノ・デ・ブラガンサ|ドゥアルテ・ヌノ]]の長男。「'''ブラガンサ公'''」を名乗る。大部分の王党派は彼を正当な王位請求者として認めている。
 
|--
 
|| {{PRT1830}}
 
|| D. Pedro Folque de Mendoça Rolim de Moura Barreto, 6º duque de Loulé
 
|| [[File:Armas duques loulé.png|150px]]
 
|| ポルトガルの貴族{{仮リンク|ローレ公爵家|pt|Duque de Loulé}}の当主。 ミゲル1世の妹[[アナ・デ・ジェズス・マリア・デ・ブラガンサ]]の子孫。この系統の支持者は、ミゲル1世はポルトガル王位に関する全ての権利を放棄したため、その子孫であるドゥアルテ・ヌノの系統には王位請求者たる資格がないとみなす。最後の国王マヌエル2世がドゥアルテ・ヌノを後継に定めているため、この主張はあまり支持を得られておらず、また公爵本人は王位を請求していない。
 
|--
 
|| [[ファイル:Flag of Montenegro (1905–1918).svg|border|25x20px]] [[モンテネグロ王国]]
 
|| [[ニコラ・ペトロヴィッチ|ニコラ・ペトロヴィチ=ニェゴシュ]]
 
|| [[File:Le prince Nicolas Petrovitch-Njegosh de Monténégro, vers 1990.jpg|150px]]
 
|| モンテネグロ王[[ニコラ1世 (モンテネグロ王)|ニコラ1世]]の嫡曾孫で、モンテネグロ王家の家長。「モンテネグロ王太子」を称しており、王党派からは「'''ニコラ2世(Никола II)'''」と呼ばれている。王家礼遇法により、大統領と同額の手当が支給されている。
 
|--
 
|| {{flagicon|LTU}} [[リトアニア王国 (1918年)|リトアニア王国]]
 
|| Inigo von Urach
 
||
 
|| 1918年に[[リトアニア王国 (1918年)|リトアニア王国]]の王に選出された[[ミンダウガス2世]]の孫。リトアニア語を話せることなどの条件から、兄のウラッハ公[[ヴィルヘルム・アルベルト (ウラッハ公)|ヴィルヘルム・アルベルト・フォン・ヴュルテンベルク]]に優先して王党派組織「リトアニア王室協会」に選ばれ、受諾しリトアニア王位請求者となった<ref>[https://www.delfi.lt/archive/mindaugo-ii-anukas-jei-lietuviai-panores-atgaivinti-monarchija-esu-pasirenges-priimti-sia-garbe.d?id=61409369 Mindaugo II anūkas: jei lietuviai panorės atgaivinti monarchiją, esu pasirengęs priimti šią garbę]</ref>。
 
|--
 
|| {{ROM1881}}
 
|| [[マルガレータ・ドゥダ|マルガレータ・ア・ロムニエイ]]
 
|| [[File:Princess Margarita of Romania.JPG|150px]]
 
|| 最後のルーマニア国王[[ミハイ1世 (ルーマニア王)|ミハイ1世]]の長女。{{仮リンク|ルーマニア王室|ro|Familia Regală a României}}の家長として「'''ルーマニア王冠の守護者'''」の称号と「'''陛下'''」の敬称を用いる。
 
|--
 
|| {{ROM1881}}
 
|| {{仮リンク|パウル・ランブリノ|ro|Paul Lambrino}}
 
|| [[File:Printul Paul al Romaniei.jpg|150px]]
 
|| ルーマニア国王[[カロル2世 (ルーマニア王)|カロル2世]]の庶流の孫。叔父ミハイ1世の系統をルーマニア王家の正統として認めず、自身がルーマニア王室の家長であると主張する。
 
|--
 
|| {{ROM1881}}
 
|| {{仮リンク|カール・フリードリヒ・フォン・ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン|en|Karl Friedrich, Prince of Hohenzollern}}
 
|| [[File:Graf von dem Bergh, Fürst Karl Friedrich von Hohenzollern, Chef Hohenzollern-Sigmaringen.jpg|150px]]
 
|| ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン侯爵家の当主。ルーマニア王家の本家筋にあたり、女子であるマルガレータ・ア・ロムニエイによる継承を認めない一部王党派から支持される。ただし本人はルーマニア王位には興味がないと答えている。
 
|--
 
|| {{RUS1883}}
 
|| [[マリヤ・ウラジーミロヴナ・ロマノヴァ]]
 
|| [[File:MariaVlad.png|150px]]
 
|| [[ロマノフ家]]([[ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ家]])の家長を称する。ロシア帝室家憲の男系男子継承の原則ならびに[[貴賤結婚]]の解釈の違いから、一族の中にはマリヤが当主を務めることに対する異論もあり、ロマノフ家の分家に属する{{仮リンク|ニコライ・ロマノヴィチ・ロマノフ|en|Nicholas Romanov, Prince of Russia}}と競合状態にある。
 
|--
 
|| {{RUS1883}}
 
|| {{仮リンク|アンドレイ・ロマノフ|en|Prince Andrew Romanov}}
 
|| [[File:Andrey Romanov, Arkady Volozh (cropped).jpg|150px]]
 
|| [[アンドレイ・アレクサンドロヴィチ (ロシア公)|アンドレイ・アレクサンドロヴィチ]]の息子。{{仮リンク|ニコライ・ロマノヴィチ・ロマノフ|en|Nicholas Romanov, Prince of Russia}}の死後、その弟{{仮リンク|ドミトリー・ロマノヴィチ・ロマノフ|ru|Романов, Димитрий Романович}}が家督を継いだが、ドミトリーが没すると{{仮リンク|ロマノフ家協会|en|Romanov Family Association}}によって当主とされた。
 
|--
 
|| {{RUS1883}}
 
|| [[ニコライ3世|ニコライ・キリロヴィッチ・ライニンゲン=ロマノフ]]
 
|| [[File:Karl Emich of Leiningen photo3.jpg|150px]]
 
|| ライニンゲン公子カール・エミッヒ。第7代ライニンゲン公{{仮リンク|エミッヒ・カイル・ツー・ライニンゲン|label=エミッヒ・カイル|en|Emich Kyrill, Prince of Leiningen}} の長男。祖母が皇女[[マリヤ・キリロヴナ]]で、マリヤ大公女の従甥にあたる。2014年4月より{{仮リンク|ロシア連邦君主制主義者党|en|Monarchist Party}} が「'''ロシア皇帝ニコライ3世'''」と公称して推戴している。ロマノフ男系ではないものの、マリヤ大公女及びニコライ・ロマノヴィッチ大公は共に貴賤結婚の子孫のため皇位継承権を有していないというのが理由である。父の死後、第8代ライニンゲン公位は弟の{{仮リンク|アンドレアス・ツー・ライニンゲン|label=アンドレアス|en|Andreas, Prince of Leiningen}} が継いでいる。
 
|}
 
 
 
==== イタリア諸邦 ====
 
{|class="wikitable sortable" style="width:98%"
 
! width="18%" |'''国名'''
 
! class="unsortable" width="11%" |'''名前'''
 
! class="unsortable" width="11%" |'''肖像あるいは紋章'''
 
! class="unsortable" width="40%" |'''説明'''
 
|--
 
|| {{ITA1861}}<br>[[File:Flag of Kingdom of Sardinia (1848).svg|border|25x20px]] [[サルデーニャ王国]]
 
|| [[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・ディ・サヴォイア]]
 
|| [[File:Vittorio Emanuele di Savoia (2009).jpg|150px]]
 
|| 最後のイタリア国王[[ウンベルト2世]]の長男で、元王太子。[[サヴォイア家]]の家長として、王党派からは「'''ナポリ公'''」あるいは「'''イタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ4世'''」と呼ばれているとされる。
 
|--
 
|| {{ITA1861}}<br>[[File:Flag of Kingdom of Sardinia (1848).svg|border|25x20px]] [[サルデーニャ王国]]
 
|| [[アメデーオ・ディ・サヴォイア=アオスタ (1943-)|アメデーオ・ディ・サヴォイア=アオスタ]]
 
|| [[File:Amedeo di Savoia-Aosta.jpg|150px]]
 
|| サヴォイア家の分枝である[[サヴォイア=アオスタ家]]の当主。[[貴賤結婚]]を強行した本家当主のヴィットーリオ・エマヌエーレの継承が先代当主ウンベルト2世の同意を得ていないとして、自ら正統の王位請求者として行動している。
 
|--
 
|| [[File:Flag of the Grand Duchy of Tuscany (1840).svg|border|25x20px]] [[トスカーナ大公国]]
 
|| [[ジギスムント・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン|シギスモンド・ダスブルゴ=ロレーナ・ディ・トスカーナ]]
 
|| [[File:Great coat of arms of the Grand Duchy of Tuscany.svg|150px]]
 
|| [[ハプスブルク=ロートリンゲン家|アスブルゴ=ロレーナ・ディ・トスカーナ家]]の家長。
 
|--
 
|| [[File:Bandiera del granducato di Toscana (1562-1737 ).png|border|25x20px]] [[トスカーナ大公国]]
 
|| {{仮リンク|ジュリアーノ・デ・メディチ・ディ・オッタイアーノ|en|Giuliano de' Medici di Ottajano}}
 
|| [[File:Great coat of arms of the Medici di Ottajano.svg|150px]]
 
|| [[メディチ家]]の分家である{{仮リンク|メディチ・ディ・オッタイアーノ家|It|Medici di Ottajano}}(オッタイアーノ公爵家)の家長。
 
|--
 
|| [[ファイル:Flag of the Duchy of Parma.svg|border|25x22px]] [[パルマ公国]]
 
|| [[カルロス・ハビエル・デ・ボルボン=パルマ|カルロ・サヴェリオ・ディ・ボルボーネ=パルマ]]
 
|| [[File:Carlos de Bourbon de Parme (2017).jpg|150px]]
 
|| [[ブルボン=パルマ家|ボルボーネ=パルマ家]]の家長で、名目上の[[パルマ公の一覧|パルマおよびピアチェンツァ公]]「'''カルロ5世(Carlo V''')」<ref>[http://elcarlismocontralaglobalizacion.blogspot.com/2011/05/mensaje-al-pueblo-carlista-de-smc-don.html Mensaje al Pueblo Carlista de S.M.C. Don Carlos Javier II de Borbón, Rey de Las Españas] – [[blogspot]] El Carlismo contra Globalizatión ''(Spanish)''</ref><ref>[http://www.europapress.es/nacional/noticia-nuevo-pretendiente-carlista-corona-espana-20110505133101.html El primogénito de Carlos Hugo de Borbón – Nuevo pretendiente carlista a la corona de España] – website news agency Europa Press ''(Spanish)''</ref>。
 
|--
 
|| [[File:Flag_of_the_Duchy_of_Modena.svg|25px]] [[モデナ=レッジョ公国]]
 
|| [[ローレンツ (オーストリア=エステ大公)|ローレンツォ・ダスブルゴ=エステ]]
 
|| [[File:Prince Lorenz of Belgium, Archduke of Austria-Este.jpg|150px]]
 
|| [[オーストリア=エステ家|アスブルゴ=エステ家]]の家長。
 
|--
 
|| [[File:Flag of the Kingdom of the Two Sicilies (1816).svg|border|25px]] [[両シチリア王国]]
 
|| [[カルロ・ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエ]]
 
||  [[File:Carlo di Borbone (old photo).jpg|150px]]
 
|| カストロ系の[[シチリア・ブルボン朝|ボルボーネ・デッレ=ドゥエ・シチリエ家]]の家長。「カストロ公」を名乗る。カラブリア系と長年争っていたが、2014年に和解文書の署名がなされた。
 
|--
 
|| [[File:Flag of the Kingdom of the Two Sicilies (1816).svg|border|25px]] [[両シチリア王国]]
 
|| {{仮リンク|ペドロ・デ・ボルボン=ドス・シシリアス|label=ピエトロ・ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエ|en|Prince Pedro, Duke of Noto}}
 
|| [[File:Great Royal Coat of Arms of the Two Sicilies.svg|150px]]
 
|| カラブリア系の[[シチリア・ブルボン朝|ボルボーネ・デッレ=ドゥエ・シチリエ家]]の家長。「カラブリア公」および「カゼルタ伯」を名乗る。カストロ系と長年争っていたが、2014年に和解文書の署名がなされた。
 
|--
 
|| [[File:Flag of the Kingdom of Naples (1811).svg|border|25px]] [[両シチリア王国]]
 
|| {{仮リンク|ジョアシャン・ミュラ (1944-)|label=ジョアッキーノ・ムラト |en|Joachim, 8th Prince Murat}}
 
|| [[File:Joachim 8th Prince Murat.png|150px]]
 
|| {{仮リンク|ムラト家|it|Murat (famiglia)}}の当主。フランス皇帝ナポレオン1世の妹婿で、両シチリア王「'''ジョアッキーノ1世'''」として即位した[[ジョアシャン・ミュラ]]の子孫。
 
|}
 
 
 
==== ドイツ諸邦 ====
 
{|class="wikitable sortable" style="width:98%"
 
! width="18%" |'''国名'''
 
! class="unsortable" width="11%" |'''名前'''
 
! class="unsortable" width="11%" |'''肖像あるいは紋章'''
 
! class="unsortable" width="40%" |'''説明'''
 
|--
 
|| [[File:Flagge Herzogtum Anhalt.svg|border|25x20px]] [[アンハルト公国]]
 
|| {{仮リンク|エドゥアルト・フォン・アンハルト|de|Eduard Prinz von Anhalt}}
 
|| [[File:Eduard Anhalt.jpg|150px]]
 
|| 最後のアンハルト公[[ヨアヒム・エルンスト (アンハルト公)|ヨアヒム・エルンスト]]の息子。
 
|--
 
|| [[File:Flag of Germany (3-2 aspect ratio).svg|border|25x20px]] [[ヴァルデック侯国|ヴァルデック=ピルモント侯国]]
 
|| [[ヴィッテキント・ツー・ヴァルデック=ピルモント]]
 
|| [[File:Wappen Deutsches Reich - Fürstentum Waldeck und Pyrmont.png|150px]]
 
|| ヴァルデック=ピルモント侯爵家の家長。
 
|--
 
|| [[File:Flagge Königreich Württemberg.svg|border|25x20px]] [[ヴュルテンベルク王国]]
 
|| [[カール・フォン・ヴュルテンベルク]]
 
|| [[File:Coat of Arms of the Kingdom of Württemberg, 1817.svg|150px]]
 
|| [[ヴュルテンベルク家]]の家長。
 
|--
 
|| [[File:Flag of Oldenburg (Scandinavian Cross).svg|border|25x20px]] [[オルデンブルク (領邦)|オルデンブルク大公国]]
 
|| {{ill2|クリスティアン・フォン・オルデンブルク|en|Christian, Duke of Oldenburg}}
 
|| [[File:Coats of arms Grand Duché d Oldenbourg.svg|150px]]
 
|| [[ホルシュタイン=ゴットルプ家|オルデンブルク大公家]]の家長。
 
|--
 
|| {{SAC}}
 
|| {{仮リンク|アレクサンダー・フォン・ザクセン=ゲッサフェ|en|Alexander, Margrave of Meissen}}
 
|| [[File:Alexander Prinz von Sachsen-Gessaphe.jpg|150px]]
 
|| {{仮リンク|ザクセン=ゲッサフェ家|en|Saxe-Gessaphe}}の家長。1997年、ザクセン王家の男系が断絶しそうなことを危惧した当時の当主[[マリア・エマヌエル・フォン・ザクセン]](アレクサンダーにとっては母の兄にあたる)によって未来の相続人に指名される。
 
|--
 
|| {{SAC}}
 
|| {{仮リンク|リューディガー・フォン・ザクセン|en|Rüdiger, Margrave of Meissen}}
 
|| [[File:Coat of Arms of the Kingdom of Saxony 1806-1918.svg|150px]]
 
|| {{仮リンク|ティーモ・フォン・ザクセン|fr|Thimo de Saxe}}が平民との[[貴賤結婚]]で儲けた男子。マリア・エマヌエルの弟で最後の男系家長となった{{仮リンク|アルベルト・ヨーゼフ・フォン・ザクセン|label=アルベルト|en|Albert, Margrave of Meissen (1934–2012)}}は、女系の甥アレクサンダーの継承に反対し、貴賤結婚で生まれた子ながらも王家の男系男子であるリューディガーを支持した。
 
|--
 
|| [[File:Flagge Großherzogtum Sachsen-Weimar-Eisenach (1897-1920).svg|border|25x20px]] [[ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国]]
 
|| [[ミヒャエル・ベネディクト・フォン・ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ]]
 
|| [[File:Coat of Arms of the Grand Duchy of Saxe-Weimar-Eisenach.svg|150px]]
 
|| [[エルネスティン家|ザクセン大公家]]の家長。最後のザクセン大公[[ヴィルヘルム・エルンスト (ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公)|ヴィルヘルム・エルンスト]]の孫にあたる。[[ヴェッティン家]]の長嫡系子孫として'''ヴェッティン伯'''({{Lang-de|Graf von Wettin}})を名乗ることがある。
 
|--
 
|| [[File:Flagge Herzogtum Sachsen-Coburg-Gotha (1911-1920).svg|border|25px]] [[ザクセン=コーブルク=ゴータ公国|ザクセン=コーブルクおよびゴータ公国]]
 
|| [[アンドレアス・フォン・ザクセン=コーブルク・ウント・ゴータ]]
 
|| [[File:Prince Andreas.jpg|150px]]
 
|| ザクセン=コーブルク=ゴータ公爵家([[ザクセン=コーブルク=ゴータ家]]のうち公爵位に最後についた系統)の家長。
 
|--
 
|| [[File:Saxe- Meiningen.png|border|25x20px]] [[ザクセン=マイニンゲン公国]]
 
|| {{仮リンク|コンラート・フォン・ザクセン=マイニンゲン|en|Konrad, Prince of Saxe-Meiningen}}
 
|| [[File:Coat of Arms of the Duchy of Saxe-Meiningen-Hildburghausen.svg|150px]]
 
|| [[ザクセン=マイニンゲン公国|ザクセン=マイニンゲン公爵]]家の家長。
 
|--
 
|| [[File:Flag of Schleswig.svg|border|25x20px]] [[シュレースヴィヒ公国]]<br>[[File:Merchant Ensign of Holstein-Gottorp (Lions sinister).svg|border|25x20px]] [[ホルシュタイン公国]]
 
|| [[クリストフ・ツー・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン]]
 
|| [[File:Christoph of Schleswig-Holstein 2010 crop.jpg|150px]]
 
|| デンマークとノルウェーの王家である[[グリュックスブルク家]]本家の当主にあたり、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公爵家の当主でもある。
 
|--
 
|| {{DEU1871}}<br>{{PRU}}
 
|| [[ゲオルク・フリードリヒ・フォン・プロイセン]]
 
|| [[File:Georg Friedrich Prinz von Preußen1, Pour le Merite 2014.JPG|150px]]
 
|| 最後のドイツ皇帝・プロイセン国王[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]の玄孫で、[[ホーエンツォレルン家]]の家長。ドイツ帝位・プロイセン王位の請求者であり、プロイセン側の[[オラニエ公|オラニエ侯]]位継承者でもある。
 
|--
 
|| [[File:Flagge Herzogtum Nassau (1806-1866).svg|border|25x20px]] [[ナッサウ公国]]
 
|| [[アンリ (ルクセンブルク大公)|アンリ・ド・リュクサンブール]]
 
|| [[File:Henri of Luxembourg (2009).jpg|150px]]
 
|| [[ルクセンブルク大公]]。
 
|--
 
|| [[File:Baden 1862.png|border|25x20px]] [[バーデン (領邦)|バーデン大公国]]
 
|| [[マクシミリアン・アンドレアス・フォン・バーデン]]
 
|| [[File:Maximilian Andreas Markgraf von Baden (2017).jpg|150px]]
 
|| [[ツェーリンゲン家|バーデン大公家]]の家長。
 
|--
 
|| {{BAY}}
 
|| [[フランツ・フォン・バイエルン]]
 
|| [[File:Franz von bayern.JPG|150px]]
 
|| 最後の[[バイエルン国王]][[ルートヴィヒ3世 (バイエルン王)|ルートヴィヒ3世]]の嫡系の曾孫で、[[ヴィッテルスバッハ家]]の家長。「'''バイエルン公'''」を称する。
 
|-
 
|| {{flagicon2|ハノーファー州|kingdom}} [[ハノーファー王国]]
 
|| [[エルンスト・アウグスト・フォン・ハノーファー (1954-)|エルンスト・アウグスト・フォン・ハノーファー]]
 
|| [[File:Royal Arms of the Kingdom of Hanover.svg|150px]]
 
|| [[ハノーファー家]]の家長「'''エルンスト・アウグスト5世(Ernst August V)'''」。
 
|--
 
|| [[File:Flagge Großherzogtum Hessen ohne Wappen.svg|border|25x20px]] [[ヘッセン大公国]]
 
|| [[ハインリヒ・ドナトゥス・フォン・ヘッセン]]
 
|| [[File:Coat of Arms of the Grand Duchy of Hesse 1806-1918.svg|150px]]
 
|| [[ヘッセン家]]の家長。
 
|--
 
|| [[File:Flag of Hohenzollern-Hechingen and Sigmaringen.png|border|25x20px]] {{仮リンク|ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン侯国|de|Hohenzollern-Sigmaringen}}
 
|| {{仮リンク|カール・フリードリヒ・フォン・ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン|en|Karl Friedrich, Prince of Hohenzollern}}
 
|| [[File:Graf von dem Bergh, Fürst Karl Friedrich von Hohenzollern, Chef Hohenzollern-Sigmaringen.jpg|150px]]
 
|| ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン侯爵家の当主。
 
|--
 
|| [[File:Flagge Großherzogtümer Mecklenburg.svg|border|25x20px]] [[メクレンブルク=シュヴェリーン|メクレンブルク=シュヴェリーン大公国]]<br />[[File:Flagge Großherzogtümer Mecklenburg.svg|border|25x20px]] [[メクレンブルク=シュトレーリッツ|メクレンブルク=シュトレーリッツ大公国]]
 
|| [[ゲオルク・ボルヴィン・ツー・メクレンブルク]]
 
|| [[File:Borwin of Mecklenburg 2010 crop.jpg|150px]]
 
|| [[メクレンブルク家]]の当主。1996年にメクレンブルク=シュトレーリッツ大公家の家督を引き継ぎ、次いで2001年に断絶したメクレンブルク=シュヴェリーン大公家の家督も引き継いだ。
 
|--
 
|| [[File:Flagge Fürstentum Lippe.svg|border|25x20px]] [[リッペ侯国]]
 
|| {{ill2|シュテファン・ツア・リッペ|en|Stephan, Prince of Lippe}}
 
|| [[File:Wappen Deutsches Reich - Fürstentum Lippe.png|150px]]
 
|| リッペ侯爵家の当主。
 
|--
 
|| [[File:Flagge Fürstentum Reuß ältere Linie.svg|border|25x20px]] [[ロイス=グライツ侯国]]<br />[[File:Flagge Fürstentum Reuß jüngere Linie.svg|border|25x20px]] [[ロイス=ゲーラ侯国]]
 
|| ハインリヒ14世
 
|| [[File:CoA Reuss Family.svg|150px]]
 
|| [[ロイス家]]の当主。
 
|}
 
 
 
==== フランス ====
 
{|class="wikitable sortable" style="width:98%"
 
! width="18%" |'''国名'''
 
! class="unsortable" width="11%" |'''名前'''
 
! class="unsortable" width="11%" |'''肖像あるいは紋章'''
 
! class="unsortable" width="40%" |'''説明'''
 
|--
 
|| {{FRA1814}}
 
|| [[ルイス・アルフォンソ・デ・ボルボーン|ルイ・アルフォンス・ド・ブルボン]]
 
|| [[File:Louis XX.jpg|150px]]
 
|| [[レジティミスト]]の支持する国王として「'''ルイ20世'''」と呼ばれている。[[スペイン・ブルボン朝|スペイン・ブルボン家]]のスペイン国王[[アルフォンソ13世 (スペイン王)|アルフォンソ13世]]の曾孫の一人。スペイン・ブルボン家は[[ブルボン朝|フランス・ブルボン家]]から分枝しており、[[アンリ・ダルトワ]]死後のフランス王位継承権はスペイン・ブルボン家に継承されたとレジティミストが主張している。
 
|--
 
|| {{FRA1814}}
 
|| {{仮リンク|バルタザール4世・ド・ブルボン|en|Balthazar Napoleon IV de Bourbon}}
 
|| [[File:Prince Adrian, Princess Elisha, Prince Balthazar IV and Princess Michelle.JPG|150px]]
 
|| 「ブルボン=[[ボーパール]]家」を称する、インドの旧貴族。先祖はインドに土着化したブルボン家の王族だとする。スペイン・ブルボン家はスペイン王位を継承するにあたってフランス王位継承権を放棄したと解釈し、かつオルレアン家に反発する一部レジティミストから支持されるが、ブルボン家の子孫であると科学的に証明されているわけではない。({{仮リンク|インドのブルボン家|en|Bourbons of India}}参照)
 
|--
 
|| {{FRA1814}}
 
|| {{仮リンク|シャルル・ルイ・ド・ブルボン|fr|Charles Louis de Bourbon (Naundorff)}}
 
|| [[File:Blason Famille Naundorff-de Bourbon sacre-coeur.svg|150px]]
 
|| 偽ルイ17世こと{{仮リンク|カール・ヴィルヘルム・ナウンドルフ|en|Karl Wilhelm Naundorff}}の子孫({{仮リンク|ナウンドルフ家|fr|Famille de Bourbon (Naundorff)}}参照)で、「'''シャルル13世'''」を称する。ナウンドルフは[[ミトコンドリアDNA]]調査でルイ17世とは別人であるとの結果が出ているが、一方でナウンドルフの男系玄孫である{{仮リンク|ユーグ・ド・ブルボン|fr|Hugues de Bourbon}}とブルボン家一族の男性3名のY遺伝子が酷似しているという調査結果も出ている<ref>http://www.ijsciences.com/pub/pdf/V320140219.pdf.</ref>。ただし多くの科学者は信頼性に疑問を呈している。
 
|--
 
|| {{FRA987}}
 
|| [[フランツ・フォン・バイエルン|フランソワ・ド・バヴィエール]]
 
|| [[File:Franz von bayern.JPG|150px]]
 
|| [[ヴィッテルスバッハ家]]の家長。[[ジャコバイト]]のフランス王「'''フランソワ2世(François II)'''<ref>[[百年戦争]]以来の伝統として、ジャコバイトは[[ヴァロワ=オルレアン家|ヴァロワ=アングレーム家]]の[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]と[[フランソワ2世 (フランス王)|フランソワ2世]]をフランス王として認めておらず、したがってフランソワという名のフランス王は「フランソワ1世」こと[[フランチェスコ5世 (モデナ公)|モデナ公フランチェスコ5世]]に続いて彼が2人目ということになる。</ref>」と見なされているが、本人はフランス王位を請求していない。
 
|--
 
|| {{FRA987}}
 
|| {{仮リンク|ペドロ・デ・ボルボン=ドス・シシリアス|label=ピエール・ド・ブルボン=シシリー|en|Prince Pedro, Duke of Calabria}}
 
||
 
|| 別系統のジャコバイト王位請求者。カラブリア系ブルボン=シチリア家の家長で、両シチリア王国とナバラ王国の王位請求者でもある。
 
|--
 
|| {{FRA1830}}
 
|| [[アンリ (フランス公)|アンリ・ドルレアン]]
 
|| [[File:Henri d'Orléans (1933-).jpg|150px]]
 
|| [[オルレアニスト]]の支持する[[オルレアン家]]の家長。名目上のフランス王として「'''アンリ7世'''」を称している。
 
|--
 
|| {{FRA1852}}
 
|| [[シャルル・ナポレオン]]
 
|| [[File:Coat of Arms Second French Empire (1852–1870)-2.svg|150px]]
 
|| [[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]の弟[[ジェローム・ボナパルト]]の玄孫。対等結婚によって息子を儲けて離婚した後、平民と再婚([[貴賤結婚]])し、「'''ナポレオン6世'''」こと父[[ルイ・ナポレオン (ナポレオン公)|ルイ・ナポレオン]]から継承権を剥奪されたが、貴賤結婚によって生まれる子孫はともかく自身の継承権はあるとして、正当な[[ボナパルト家]]当主であることを主張する。「'''ナポレオン7世'''」
 
|--
 
|| {{FRA1852}}
 
|| [[ジャン・クリストフ・ナポレオン]]
 
|| [[File:Prince Napoléon.JPG|150px]]
 
|| [[シャルル・ナポレオン]]の息子。「'''ナポレオン6世'''」として知られた祖父[[ルイ・ナポレオン (ナポレオン公)|ルイ・ナポレオン]]の遺言により、母との離婚後に[[貴賤結婚]]に走った父を飛ばしてボナパルト家の当主「'''ナポレオン7世'''」となった。父シャルルの継承を正当とする立場からは、次期家長として「'''ナポレオン8世'''」の予定者とみられている。
 
|}
 
 
 
=== 北アメリカ ===
 
{|class="wikitable sortable" style="width:98%"
 
! width="18%" |'''国名'''
 
! class="unsortable" width="11%" |'''名前'''
 
! class="unsortable" width="11%" |'''肖像あるいは紋章'''
 
! class="unsortable" width="40%" |'''説明'''
 
|--
 
|| [[File:Bandera del Segundo Imperio Mexicano (1864-1867).svg|border|25px]] [[メキシコ帝国]]
 
|| {{仮リンク|マクシミリアン・フォン・ゲッツェン=イトゥルビデ|fr|Maximilian von Götzen-Iturbide}}
 
|| [[File:Escudo de Armas de la Casa Götzen-Iturbide.svg|150px]]
 
|| [[メキシコ第一帝政|第一帝政期]]の帝室{{仮リンク|イトゥルビデ家|en|House of Itúrbide}}の家長。「'''マクシミリアーノ2世(Maximiliano II)'''」を称する。
 
|}
 
 
 
=== 南アメリカ ===
 
{|class="wikitable sortable" style="width:98%"
 
! width="18%" |'''国名'''
 
! class="unsortable" width="11%" |'''名前'''
 
! class="unsortable" width="11%" |'''肖像あるいは紋章'''
 
! class="unsortable" width="40%" |'''説明'''
 
|--
 
|| [[File:Flag of the Kingdom of Araucanía and Patagonia.svg|border|25px]] [[アラウカニア・パタゴニア王国]]
 
|| {{仮リンク|フレデリック・リュズ|fr|Frédéric Luz}}
 
||
 
|| 「'''アントワーヌ4世'''」公こと{{仮リンク|ジャン=ミシェル・パラシリティ・ディ・パラ|en|Jean-Michel Parasiliti di Para}}が2017年に没した後、後継者に選出された。「'''フレデリック1世(Frédéric I)'''」
 
|--
 
|| [[File:Flag of the Kingdom of Araucanía and Patagonia.svg|border|25px]] [[アラウカニア・パタゴニア王国]]
 
|| スタニスラス・パルビュレスコ(Stanislas Parvulesco)
 
|| [[File:Royaume d'Araucanie et de Patagonie.png|150px]]
 
|| 「'''フレデリック1世'''」と対立する王位請求者として、「'''スタニスラス1世(Stanislas I)'''」を称する。
 
|--
 
|| [[File:Flag of Empire of Brazil (1870-1889).svg|border|25x20px]] [[ブラジル帝国]]
 
|| [[ペドロ・カルルシュ・デ・オルレアンス・イ・ブラガンサ]]
 
|| [[File:DOM PEDRO CARLOS DE ORLEANS E BRAGANÇA CHEFE DA CASA IMPERIAL DO BRASIL.jpg|150px]]
 
|| ペトロポリス系ブラジル帝位請求者。祖父の[[ペドロ・デ・アルカンタラ・デ・オルレアンス・エ・ブラガンサ|ペドロ・デ・アルカンタラ]]が[[貴賤結婚]]をしたことによる継承権放棄を無効と考える君主制支持者の一部から、正統なブラジル帝位継承者と見なされ、「'''ペドロ5世(Pedro V''')」とされている。
 
|--
 
|| [[File:Flag of Empire of Brazil (1870-1889).svg|border|25x20px]] [[ブラジル帝国]]
 
|| [[ルイス・ガスタン・デ・オルレアンス・イ・ブラガンサ]]
 
|| [[File:COA Dinasty Orleães-Bragança.svg|150px]]
 
|| ヴァソウラス系ブラジル帝位請求者。1981年に父の後を継いで名目上のブラジル帝位を継承し、「'''ルイス1世(Luís I''')」となった。
 
|}
 
 
 
=== オセアニア ===
 
{|class="wikitable sortable" style="width:98%"
 
! width="18%" |'''国名'''
 
! class="unsortable" width="11%" |'''名前'''
 
! class="unsortable" width="11%" |'''肖像あるいは紋章'''
 
! class="unsortable" width="40%" |'''説明'''
 
|--
 
|| [[File:Flag of Hawaii (1816).svg|25x20px]] [[ハワイ王国]]
 
|| {{仮リンク|クエンティン・クヒオ・カワナナコア|en|Quentin Kawānanakoa}}
 
|| [[File:Quentin Kawananakoa, 2013 King Kamehemeha Parade, crop.jpg|150px]]
 
|| {{仮リンク|カラカウア朝|en|House of Kalākaua}}断絶により王位継承権を承継した{{仮リンク|カワナナコア家|en|House of Kawānanakoa}}の嫡流。
 
|}
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist}}
 
 
 
==関連項目==
 
*[[ジャコバイト王位継承者の一覧]]
 
*[[カルリスタ王位請求者の一覧]]
 
*[[僭称]]
 
*[[熊沢寛道]] - 通称熊沢天皇。[[南朝 (日本)|南朝]]の子孫を称し、自身が正当な天皇であると主張した。
 
 
 
{{Former monarchic orders of succession}}
 
{{DEFAULTSORT:おういせいきゆうしや}}
 
[[Category:王位請求者|*]]
 
[[Category:王位継承]]
 
[[Category:君主制]]
 

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