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[[ファイル:MolotovRibbentropStalin.jpg|thumb|220px|right|条約に調印するソ連外相モロトフ。後列の右から2人目はスターリン]]
 
'''独ソ不可侵条約'''(どくそふかしんじょうやく、{{lang-de-short|Deutsch-Russischer Nichtangriffspakt}}、{{lang-ru-short|Договор о ненападении между Германией и Советским Союзом}}、{{lang-en-short|German-Soviet Nonaggression Pact}})は、[[1939年]][[8月23日]]に[[ドイツ]]と[[ソビエト連邦|ソ連]]の間に締結された[[不可侵条約]]。[[天敵]]といわれた[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]と[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]が手を結んだことは、世界中に衝撃を与えた。
 
  
条約は別名署名した[[ヴャチェスラフ・モロトフ|モロトフ]]、[[ヨアヒム・フォン・リッベントロップ|リッベントロップ]]両外務大臣の名前を取り、'''モロトフ=リッベントロップ協定'''{{lang-de-short|Ribbentrop-Molotow-Pakt}}、{{lang-ru-short|Пакт Молотова-Риббентропа}}、{{lang-en-short|Molotov-Ribbentrop Pact}})、'''M=R協定'''とも呼ばれる。
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'''独ソ不可侵条約'''(どくそふかしんじょうやく、{{lang-de-short|Deutsch-Russischer Nichtangriffspakt}}、{{lang-ru-short|Договор о ненападении между Германией и Советским Союзом}}、{{lang-en-short|German-Soviet Nonaggression Pact}}
  
公表された条文は相互不可侵および中立義務のみであったが、この条約と同時に[[#秘密議定書|秘密議定書]]が締結されていた。これは[[東ヨーロッパ]]とフィンランドをドイツとソビエトの勢力範囲に分け、相互の権益を尊重しつつ、相手国の進出を承認するという性格を持っていた。独ソ両国による[[ポーランド侵攻|ポーランドへの侵攻]]、ソ連による[[バルト諸国併合]]と[[フィンランド]]に対する[[冬戦争]]、ソ連による[[ルーマニア]]領[[ベッサラビア]]の割譲要求はこの秘密議定書による黙認の元行われ、これに伴い[[イギリス]]と[[フランス]]によるドイツへの宣戦布告を招いて[[第二次世界大戦]]を引き起こした。この条約に基づいて独ソは占領地で{{仮リンク|独ソ共同軍事パレード|en|German–Soviet military parade in Brest-Litovsk}}を行って{{仮リンク|独ソ通商協定 (1939年)|en|German–Soviet Credit Agreement (1939)|label=独ソ通商協定}}で武器の供与<ref>Shirer, William L. (1990), The Rise and Fall of the Third Reich: A History of Nazi Germany, Simon and Schuster, ISBN 0-671-72868-7 pp. 668–9</ref><ref>Wegner, Bernd (1997), From Peace to War: Germany, Soviet Russia, and the World, 1939-1941, Berghahn Books, ISBN 1-57181-882-0 p. 105</ref><ref>Philbin III, Tobias R. (1994), The Lure of Neptune: German-Soviet Naval Collaboration and Ambitions, 1919 - 1941, University of South Carolina Press, ISBN 0-87249-992-8 p. 46</ref>も行うなど暫く準同盟関係を持ったが、[[1941年]]6月22日にナチス・ドイツがソ連に侵攻([[バルバロッサ作戦]])して条約は破棄された。
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1939年8月 23日ドイツ,ソ連間で締結された条約。 38年9月のミュンヘン協定を典型とするイギリス,フランスの対独宥和政策は,39年3月ドイツがチェコスロバキアを支配下におくに及び,破綻をきたした。このため両国はソ連を巻込みつつドイツに対抗する統一戦線を組もうとした。しかし3国の交渉も進展をみせず,ミュンヘン会談以来イギリス,フランスに対して不信をいだいていたソ連はドイツに接近。 39年初めから通商協定をめぐって折衝を重ね,ドイツの J.フォン・リッベントロップ外相の訪ソを待って独ソ不可侵条約が締結された。条約は7ヵ条から成り,(1) 締約国は互いに攻撃せず,一方が第三国と交戦状態に入った場合,他方はこの第三国に援助を与えない,(2) 締約国は共通の問題について随時協議する,(3) 締約国はいずれも他方を目標とする同盟に参加せず,両国間の紛争は平和的手段によって解決するなどがおもな内容。またポーランド,バルト3国の分割が付属秘密議定書において取決められた。この条約の発表後,ドイツはポーランド侵攻を開始,9月にはイギリス,フランスがドイツに宣戦布告を行い,第2次世界大戦が勃発。 41年6月 22日ドイツ軍によるソ連攻撃が開始され,条約は破綻した。
 
 
== 背景 ==
 
{{see also|東方生存圏}}
 
ヒトラーは著書『[[我が闘争]]』の中で、東方に地続きの植民地、いわゆる「[[東方生存圏]]」の獲得が必要であると述べていた。また[[国家社会主義ドイツ労働者党]]は[[反共]]を党是としており、ソビエト連邦に対しても強烈な批判を行っていた。しかし[[ヴァイマル共和政]]下の政府は、国際的に孤立していたソ連と[[ラパッロ条約 (1922年)|ラパッロ条約]]を締結していち早く関係を構築し、軍事面でも密かに協力を行っていた。
 
 
 
[[国家社会主義ドイツ労働者党]]の権力掌握後はこれらの関係は断絶状態となり、反共のための外交活動もしばしば行われた。[[ドイツ国防軍]]情報部([[アプヴェーア]])局長[[ヴィルヘルム・カナリス]]は東の反共国家[[日本]]と連携してソ連を牽制する反ソ網の構築を目指し、国防軍や外務省内の親中派を押さえ込み([[中独合作]])、外相[[ヨアヒム・フォン・リッベントロップ]]も抱き込んで[[日独防共協定]]を実現させた{{sfn|田嶋信雄|1987-07|pp=138}}。また[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]により、[[大粛清]]の引き金となった[[ミハイル・トゥハチェフスキー]]赤軍元帥の失脚工作も行われている。一方ソ連はフランスのいわゆる東方ロカルノ案に同調していたが、ドイツとポーランドの拒否によって決裂した1933年以降は、フランスとの二国同盟政策に協調的になった{{sfn|植田隆子|1978|pp=101}}。フランスとソ連は1935年に{{仮リンク|仏ソ相互援助条約|en|Franco-Soviet Treaty of Mutual Assistance}}を締結し、事実上の同盟関係となった。このフランスとソ連の接近で[[二正面作戦]]を強いられることがドイツでは懸念された。
 
 
 
一方で駐英大使時代から反英感情を抱え、英仏との[[ミュンヘン協定]]もドイツの外交上の敗北としていたリッベントロップは、独伊日ソによって英仏に対抗する構想を固め始めていた。1938年1月にはヒトラーに対して反英構想の覚書を提出している{{sfn|岡俊孝|2000|pp=29}}。
 
 
 
== 独ソ提携交渉 ==
 
しかし1938年10月の[[ミュンヘン会談]]による対独宥和は、英仏がドイツのソ連侵攻を黙認しているのではないかという疑念をスターリンに与えた{{sfn|児島襄|第二巻|pp=278}}。またこれ以降米仏でドイツのウクライナ進出に関する新聞記事が複数掲載された。1939年3月10日の第十回[[ソビエト共産党]]大会でスターリンは「(ドイツのウクライナ進出報道は)ソ連を怒らせてドイツと紛争を起こさせるのが目的である」と演説している{{sfn|児島襄|第二巻|pp=279-280}}。その一方でスターリンがドイツへの接近を決めたのは、ミュンヘン会談で英仏がソ連の安全保障にも大きな影響があるチェコスロバキアをドイツに渡した結果であるとする、つまり1938年9月以降とする説がある。また[[ジョージ・ケナン]]は、スターリンは1937年には既に決意しており、大粛清は独ソ接近に対する反対派を処分するための手段であった、と考えている。
 
 
 
一方でドイツ側でもポーランドに対する軍事作戦を検討しており、その際にソ連の好意的中立は最低必要条件であった。ヒトラーはポーランド侵攻作戦『白の場合(Fall Weiß)』の政治条項を自ら執筆していたが、その際もポーランド孤立化成就を希望していた{{sfn|児島襄|第二巻|pp=276}}。しかし反共を謳っていた経緯から、たやすく対ソ接近ができる状況ではなかった。
 
 
 
4月17日、ソ連駐独大使メレカロフが赴任以来初めてドイツ外務省を訪ね、ドイツとソ連は「正常な関係」を結ぶべきであるというメッセージを伝えた{{sfn|児島襄|第二巻|pp=280-281}}。5月には外務人民委員[[マクシム・リトヴィノフ]]が解任され、後継に[[ヴャチェスラフ・モロトフ]]が就任した。フランスへの接近を担当して[[ユダヤ人]]でもあったリトヴィノフの解任は対独接近の意思表示であると受け止められた{{sfn|児島襄|第二巻|pp=282}}。しかしこの時点でもヒトラーは積極的に対ソ接近に動くつもりはなかった{{sfn|児島襄|第二巻|pp=290}}。
 
 
 
一方でソ連は英仏との間でも交渉を行っており、5月24日に[[ネヴィル・チェンバレン]]首相が「近くソ連と完全な合意に達しえる可能性がある」と演説を行った。危機感を持ったヒトラーは、方針を転換してリッベントロップと駐ソ大使{{仮リンク|フリードリヒ・ヴェルナー・フォン・デア・シェレンブルク|de|Friedrich Werner von der Schulenburg}}にソ連との交渉を行うよう命令した。リッベントロップはこの際に日本とイタリアの駐独大使に同盟交渉について内報しているが、日本大使[[大島浩]]は激しく反対し、この情報を東京に打電することも拒否した。イタリア大使{{仮リンク|ベルナルド・アトリコ|it|Bernardo Attolico}}もドイツ側からの接近には否定的であり、ヒトラーは同盟交渉を一時中止した{{sfn|児島襄|第二巻|pp=292}}。しかし5月30日になるとふたたび同盟交渉を命令した。ところがヒトラーは6月29日にふたたびソ連との接触停止を命じた。しかし今度はソ連側の対応が積極的となった。
 
 
 
ソ連駐ベルリン通商代表は独ソ通商協定の締結交渉を申し入れ、ドイツ側との交渉が活発となった。一方で7月23日には英仏との間で軍事協定の交渉にはいることが合意されており{{sfn|児島襄|第二巻|pp=301}}、ソ連はドイツと英仏を両天秤にかけていた。この情報に危機感を持ったドイツ側は、ポーランドやバルト諸国問題でもソ連の権益尊重を約束しても良いと訓令し、駐ソ大使シェレンブルクにモロトフと直接交渉を行うよう命令した。8月3日にモロトフとシェレンブルクの会談が行われたが、モロトフは具体的な交渉に入ろうともしなかった{{sfn|児島襄|第二巻|pp=305}}。一方で英仏がソ連との交渉に派遣した交渉団は十分な権限も与えられておらず、英仏が用意する兵力も十分でないなど、ソ連側は英仏の提案に失望していた{{sfn|児島襄|第二巻|pp=331}}。
 
 
 
8月16日にモロトフはシェレンブルクと面会してリッベントロップの訪ソを要請し、さらに不可侵条約の締結、日ソ関係改善のためのドイツによる仲介、バルト諸国への共同保障を提案した{{sfn|児島襄|第二巻|pp=333}}。報告を受けたヒトラーはモロトフ提案を全面的に受諾し、週末にリッベントロップをモスクワに派遣するとソ連側に伝えた。8月17日にモロトフとシェレンブルクは再び会談し、モロトフは「不可侵条約の不可分の一部」として、相互の権益を定義する議定書締結を提案した{{sfn|児島襄|第二巻|pp=341}}。ところがソ連側はリッベントロップの受け入れをなかなか表明せず、8月19日になって「独ソ通商協定が調印される一週間後」にリッベントロップがソ連を訪問するよう提示した。9月1日のポーランド侵攻の予定日がせまっており、ヒトラーはスターリンに親電を送り、8月22日もしくは8月23日にリッベントロップが訪ソできるよう要請した{{sfn|児島襄|第二巻|pp=347}}。
 
 
 
8月21日、ソ連代表[[クリメント・ヴォロシーロフ]]元帥は英仏との交渉を無期限延期とし、交渉は事実上中止された{{sfn|児島襄|第二巻|pp=352}}。同日ドイツ時間午後7時、ドイツ国営放送は「ソ連政府からの重大提案」が行われた旨を公表し、現在交渉中であると伝えた{{sfn|児島襄|第二巻|pp=354}}。午後9時にはシェレンブルクが「23日にリッベントロップの訪ソを受け入れる」というスターリンの返事を打電し、午後10時20分には独ソ不可侵条約成立がラジオで放送された{{sfn|児島襄|第二巻|pp=355}}。報告を受けたヒトラーはテーブルをたたいて歓喜し、スターリンがソ連軍兵士を閲兵する映画を上映させて鑑賞し、「これで、この連中も無害な存在となったわけだ」とつぶやいたという<ref>[[アルベルト・シュペーア]]の回想、{{harv|児島襄|第二巻|pp=356-357}}</ref>。しかしこの方針を受けて党が動揺しないかという[[ハインリヒ・ホフマン (写真家)|ハインリヒ・ホフマン]]の質問に対しては、「党は私が基本原則を捨てないことを知っている」と語った{{sfn|児島襄|第二巻|pp=358}}。
 
 
 
=== 調印 ===
 
リッベントロップはモスクワ時間8月23日午後1時にモスクワに到着し、午後5時からモロトフと会談を行った。午後8時5分にリッベントロップは本国に調印の許可を要請し、通知を受けたヒトラーもすぐ応諾した。深夜過ぎに調印が行われ、スターリンも出席した乾杯が幾度も行われた。退出しようとするリッベントロップにスターリンは「我がソ連は決してパートナーを裏切りませんぞ、決して、です。」と声をかけた{{sfn|児島襄|第二巻|pp=370}}。
 
 
 
== 内容 ==
 
条約は全7条。内容は次の通り。
 
*第1条:独ソ両国は、相互にいかなる武力行使・侵略行為・攻撃をも行なわない。
 
*第2条:独ソの一方が第三国の戦争行為の対象となる場合は、もう一方はいかなる方法によっても第三国を支持しない。
 
*第3条:独ソ両国政府は、共同の利益にかかわる諸問題について、将来互いに情報交換を行なうため協議を続ける。
 
*第4条:独ソの一方は、他方に対して敵対する国家群に加わらない。
 
*第5条:独ソ両国間に不和・紛争が起きた場合、両国は友好的な意見交換、必要な場合は調停委員会により解決に当たる。
 
*第6条:条約の有効期間は10年。一方が有効期間終了の1年前に破棄通告をしなければ5年間の自動延長となる。
 
*第7条:条約は直ちに批准し、調印と同時に発効する。
 
*〔笹本駿二『第二次世界大戦前夜』([[岩波新書]]、1969年)より抜粋〕
 
 
 
== 秘密議定書 ==
 
[[File:Occupation of Poland 1939.png|right|thumb|ポーランドの地図。青い点線が1939年のポーランド国境。赤い線が独ソ間で合意された分割線]]
 
公表された条約の内容は上記のようなごく平凡なもので、独ソの結託という大事件の結果としては取るに足らないものでしかない。そのため、必ず裏取引――秘密議定書があると、成立当初から疑われていた。事実、第二次世界大戦後にそれは明らかにされている。そこでは、[[東ヨーロッパ]]における独ソの勢力範囲の線引きが画定され、[[バルト三国]]、[[ルーマニア]]東部の[[ベッサラビア]]、[[フィンランド]]をソ連の勢力圏に入れ、独ソ両国は[[カーゾン線]]におけるポーランドの分割占領に合意していた。
 
 
 
秘密議定書部分は全4条。その内容は次の通りである<ref>[[s:en:Molotov-Ribbentrop Pact#Secret Additional Protocol|独ソ不可侵条約秘密議定書 - ウィキソース英訳版]]</ref>。
 
 
*第1条:バルト諸国([[フィンランド]]、[[エストニア共和国 (1918年-1940年)|エストニア]]、[[ラトビア共和国 (1918年-1940年)|ラトビア]]、[[リトアニア共和国 (1918年-1940年)|リトアニア]])に属する地域における領土的及び政治的な再編の場合、リトアニアの北の国境がドイツとソビエト連邦の勢力範囲の境界を示すものになる。このことに関連する[[ヴィリニュス]]地域におけるリトアニアの利権は独ソ両国により承認される。
 
 
 
*第2条:[[ポーランド|ポーランド国]]に属する地域における領土的及び政治的な再編の場合、ドイツとソビエト連邦の勢力範囲はナレフ([[:en:Narew|Narew]])川、[[ヴィスワ川]]、[[サン川]]の線が大体の境界となる。
 
 
 
:独ソ両国の利益にとってポーランド国の存続が望ましいか、またポーランド国がどのような国境を持つべきかという問題は今後の政治展開の上で明確に決定される。
 
 
 
:いかなる場合も独ソ両国政府はこの問題を友好的な合意によって解決する。
 
 
 
*第3条:南東ヨーロッパに関してはソ連側がベッサラビアにおける利権に注目している。ドイツ側はこの地域には全く関心を持っていないことを宣誓する。
 
 
 
*第4条:この議定書は独ソ両国により厳重に秘密扱いされるものである。
 
 
 
なお、のちに[[バルト三国]]がソ連より独立する際、上記の秘密議定書を根拠に主権の回復を主張することになる。
 
 
 
== 調印直後の反応 ==
 
[[ファイル:Armia Czerwona, Wehrmacht 22.09.1939 wspólna parada.jpg|thumb|right|1939年9月22日、[[ブレスト (ベラルーシ)|ブレスト]]で談笑する[[ハインツ・グデーリアン]]と{{仮リンク|セミョーン・クリヴォシェイン|ru|Кривошеин, Семён Моисеевич}}]]
 
ヒトラーは「偉大な二つの国が、荘厳な条約を締結した」としながらも、調印時に撮影された写真を見るとスターリンがどの構図でも[[タバコ]]を持っていたため、「条約の調印は厳粛な儀式だ」として写真を修正して取り除かせた{{sfn|ジョン・トーランド|1990年|pp=185}}。またヒトラーはスターリン肖像写真を拡大させて耳を確認し、耳たぶが肉に食い込んでいないためユダヤ人ではないと判定している{{sfn|ジョン・トーランド|1990年|pp=185}}。ドイツ[[国民啓蒙・宣伝省|宣伝相]][[ヨーゼフ・ゲッベルス]]は日記に『昨日、我が国はソビエトと不可侵条約を締結した。これでヨーロッパの力の均衡が揺らぐ。ロンドンやパリは耳を疑うに違いない。世界の反応を篤と見物しよう。』と記している。翌日、ヒトラーは[[ベニート・ムッソリーニ]]イタリア王国首相に手紙を出し、条約締結についてのドイツの意図を誤解しないように伝えた{{sfn|ジョン・トーランド|1990年|pp=186}}。ドイツの国民もおおむねこの提携を喜んで受け入れた。反共を通してきた古参ナチ党員達の間には複雑な感情が残ったものの、[[指導者原理]]に従ってこの決定を受け入れた{{sfn|ジョン・トーランド|1990年|pp=186}}。[[アルフレート・ローゼンベルク|ローゼンベルク]]は、まるで「古くからの党の仲間のあいだにいる」かのよう、という調印の時のリッベントロップの感想を非難している。
 
 
 
またイデオロギー的に対立していた[[ナチズム]]と[[共産主義]]の提携が、世界の共産主義者や社会民主主義者、そして反共主義者に与えた影響は大きかった。[[アメリカ共産党]]の[[アール・ブラウダー]]や[[フランス共産党]]などは、この提携が究極的な反ファシズムの戦いに乗り出したためであるというモスクワの公式見解を受け入れた{{sfn|ジョン・トーランド|1990年|pp=184}}。一方、かつて[[日独防共協定]]を結び、さらにドイツと同盟交渉中であった[[日本]]の政界が受けた衝撃は甚大であった。当時日本はソ連および[[モンゴル人民共和国]]との国境紛争・[[ノモンハン事件]](1939年5月11日~9月15日)の最中であった。8月25日に、[[平沼内閣]]は[[日独伊三国軍事同盟|日独同盟]]の締結交渉中止を閣議決定した。8月28日には[[平沼騏一郎]]首相が「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」ために同盟交渉を打ち切ると声明し、責任をとって総辞職した。
 
 
 
ポーランドおよび[[イギリス]]と[[フランス]]は衝撃を受けたものの、ドイツに抵抗する姿勢を変えなかった。英仏は8月25日ポーランドと相互援助条約を結んだ。しかしドイツはこの条約によってポーランドを孤立化できると考え、同年9月1日、[[ポーランド侵攻|ポーランドに侵攻]]した。イギリスとフランスは相互援助条約に基づき、9月3日にドイツに対して宣戦布告し、[[第二次世界大戦]]が開始された。9月17日にはソ連が「ウクライナ系・ベラルーシ系市民の保護」を口実にポーランド東部国境から侵攻を開始した。独ソ両軍は衝突することもなく、秘密議定書の分割線に従って、その占領域を確定させた。9月28日には独ソ不可侵条約を前進させた[[ドイツ・ソビエト境界友好条約]]が締結された。英仏はソ連に対しては宣戦布告を行わなかった。
 
 
 
== 四国同盟構想と独ソ協調の破綻 ==
 
[[ファイル:Molotov with Ribbentrop.jpg|thumb|right|1939年8月23日、握手するモロトフとリッベントロップ]]
 
リッベントロップは反英思想からドイツ・ソ連・イタリア・日本のユーラシア四国同盟構想を持つようになり、ソ連および日本に対して本格的な同盟交渉を開始した。また日本においても[[高木惣吉]]、[[白鳥敏夫]]、[[松岡洋右]]といった人物が同様の四国同盟を構想するようになり{{sfn|三宅正樹|2010年|pp=16-20}}、[[日独伊三国同盟]]の成立や[[日ソ中立条約]]の成立に結びついた。
 
 
 
一方で1940年6月27日にソ連が[[ルーマニア王国]]に圧力をかけ、[[ベッサラビア]]と北[[ブコビナ]]を割譲させたことはヒトラーを怒らせた({{仮リンク|ソ連によるベッサラビアと北ブコヴィナの占領|en|Soviet occupation of Bessarabia and Northern Bukovina}})。北ブコビナは秘密議定書に言及されておらず、ドイツ側はこれを協定違反と見なした{{sfn|三宅正樹|2010年|pp=24}}。さらに6月30日、[[ウィーン裁定|第二次ウィーン裁定]]によって独伊がルーマニアに保障を与えたことは、ソ連を刺激した{{sfn|三宅正樹|2010年|pp=24}}。ヒトラーは[[バトル・オブ・ブリテン]]の失敗により、イギリスを屈服させるためにはソ連を打倒するほかないと考えるようになり、7月30日、「ソ連が粉砕されれば、英国の最後の望みも打破される」として「ヨーロッパ大陸最後の戦争」である対ソ戦の開始を軍首脳達に告げ、準備を開始させた{{sfn|児島襄|第三巻|pp=333-336p}}。8月18日にはドイツがフィンランドと協定を結び、9月18日からドイツ軍の駐屯を開始した({{仮リンク|フィンランドとドイツの通過協定|fi|Suomen ja Saksan kauttakulkusopimus}})。11月12日からはベルリンでヒトラーとモロトフの会談が開かれたが、事実上決裂した{{sfn|三宅正樹|2010年|pp=24}}。なおも親ソ反英にとらわれていたリッベントロップは四国同盟案をモロトフに持ちかけた。スターリンはこれを見て同盟の対価はなおもつり上げが可能であると考えていた。11月26日のスターリンからの回答は「条件付きで同盟を受諾する」としながらも{{sfn|三宅正樹|2010年|pp=30-31}}、その条件はドイツにとって受け入れ不可能であるフィンランドからの撤兵{{sfn|三宅正樹|2010年|pp=24}}、[[ボスポラス海峡]]・[[ダーダネルス海峡]]の租借などであり{{sfn|三宅正樹|2010年|pp=31}}、ヒトラーはこの申し入れについて何等回答しなかった{{sfn|三宅正樹|2010年|pp=32}}。
 
 
 
12月18日には[[総統指令21号]]が発令され、1941年5月15日にソ連に対して侵攻を開始するという「[[バルバロッサ作戦]]」の作戦準備が指令された{{sfn|三宅正樹|2010年|pp=32}}。その後も表面上両国関係は平穏であった。1941年1月10日にはソ連からドイツに物資を引き渡す協定と、ドイツがリトアニア領の引き渡し要求を放棄する協定が成立した。しかしソ連からの物資が滞りなく流入していたにもかかわらず、ドイツの支払いは不自然なほどに引き延ばされたり、工作機械のソ連への引き渡しが当局によって妨害されたりもした{{sfn|ジョン・トーランド|1990年|pp=370-371}}{{sfn|ジョン・トーランド|1990年|pp=405}}。ソ連側はこの対応に抗議を行ったが、スターリンはそれがいきすぎないように交渉者にブレーキをかけていた{{sfn|ジョン・トーランド|1990年|pp=371}}。この頃松岡外相がドイツを訪問し、リッベントロップに日ソ中立条約の件を話したが、リッベントロップは「こんな時期にそんな条約を結んでも何の益もない」と冷淡であった。しかし松岡は意に介さず、モスクワで中立条約を締結した。この際、モスクワを離れる松岡を見送ったスターリンは、ドイツ大使シェレンブルクの肩を抱いて「我々は友達でいなければならない!」「われわれは君たちと友達でいつづけなければならない!いかなる場合にもだ!」と叫んだ{{sfn|ジョン・トーランド|1990年|pp=385}}。当時ドイツ軍航空機の領空侵犯事件が頻発しており{{sfn|ジョン・トーランド|1990年|pp=385}}、軍情報部もドイツ侵攻の危険をスターリンに訴え続けたが、それらは無視、あるいは処罰された{{sfn|ジョン・トーランド|1990年|pp=383-384}}。[[アンドレイ・エリョーメンコ]]元帥は、スターリンがナチスと資本主義者を争わせることを望んでおり、ドイツへの防備体制の構築がヒトラーを刺激し、赤軍の準備が整わないうちに攻撃されることを怖れていたと回想している{{sfn|ジョン・トーランド|1990年|pp=384}}。
 
 
 
1941年6月22日、ドイツ軍はソ連領内に侵攻を開始し、条約は事実上破棄された([[独ソ戦]])。リッベントロップは半狂乱となり、ソ連大使に対して「私がこの侵略に反対していたと言うことをモスクワに伝えてほしい」と述べた{{sfn|三宅正樹|2010年|pp=38}}。スターリンも大きな衝撃を受け、ドイツ軍への爆撃は国境を越えないように指令するほか、日本を通じて交渉を開始しようとするほどであった{{sfn|ジョン・トーランド|1990年|pp=384}}。フリッツ・ヘッセはリッベントロップから聞いた話として、ブルガリアを通じてソ連から休戦が申し入れられたが、ヒトラーは勝利を確信していたため拒絶したとしている<ref>Fritz Hesse. 『Hitler and the English』(1954年)よりの引用。{{harv|ジョン・トーランド|1990年|pp=441}}</ref>。
 
 
 
1941年7月12日、ソ連は同じくドイツと交戦していたイギリスと{{仮リンク|アングロ・ソビエト軍事同盟|en|Anglo-Soviet Agreement}}を締結して[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]側に本格的に参戦することになった。
 
 
 
== 評価 ==
 
{{言葉を濁さない|date=2013年3月14日 (木) 09:36 (UTC)|section=1}}
 
この条約の締結により、ドイツは東西[[二正面作戦|二正面]]での開戦という最悪の事態を避けられるようになり英仏との戦いに有利な状況ができたため、第二次世界大戦の勃発を早める結果となった。戦後に東西冷戦が始まると、アメリカを中心にこの点が問題視され、「スターリンは、ヒトラーの背後の安全を保証してやってドイツと英仏を戦わせ、両陣営が消耗するのを待ってヨーロッパの支配に乗り出す魂胆だったのだ」と主張されるようになった<ref group="注">[[砕氷船理論]]に基づき、その実行の意志が[[1939年8月19日のスターリン演説]]に示されているとの見方がある。</ref>。一方で親ソ的な言論の中には、当時のソ連が英仏独という大国のいずれからも敵視され戦争に巻き込まれる危険を抱えていたので、ドイツか英仏のどちらかと手を結ばざるを得なかったのである、とする意見がある。
 
 
 
いずれにせよ、ヒトラーもスターリンも独ソ不可侵条約は互いの勢力拡大の前段階としての一時的な協調に過ぎないと考えていたのは確かである。条約は1941年6月にドイツからの攻撃開始で破綻したが、仮にドイツが先制攻撃をしなかったとしても、いずれ軍備増強が完了すればソ連の方から戦端を開いたであろう事は[[日ソ中立条約]]の例からも充分考えられる。実際、[[独ソ戦]]では緒戦でソ連は大敗北を喫したが、それはドイツ攻撃のためソ連軍が南方に集結しており、中央部の防御が手薄になっていたためだとする説もある。
 
 
 
== 脚注 ==
 
=== 注釈 ===
 
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=== 出典 ===
 
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== 参考文献 ==
 
* ハリソン・E・ソールズベリー『独ソ戦 <small>この知られざる戦い</small>』([[早川書房]]、1980年)大沢正 訳、 ISBN 4-15-205159-0
 
* 義井博『ヒトラーの戦争指導の決断 <small>1940年のヨーロッパ外交</small>』(荒地出版社、1999年)、ISBN 4-7521-0108-4
 
* ヴェルナー・マーザー『独ソ開戦 <small>盟約から破約へ</small>』([[学研ホールディングス|学習研究社]]、2000年)、守屋純 訳、ISBN 4-05-400983-2
 
* アンソニー・リード&デーヴィッド・フィッシャー『ヒトラーとスターリン <small>死の抱擁の瞬間</small>』上、下([[みすず書房]]、2001年)根岸隆夫 訳
 
** 上 ISBN 4-622-03845-5、下 ISBN 4-622-03846-3
 
* [[三宅正樹]]『スターリン、ヒトラーと日ソ独伊連合構想』(朝日選書、2007年) ISBN 978-4-02-259916-2
 
* {{Cite journal|和書|author= [[田嶋信雄]] |title=<論説>日独防共協定像の再構成(2・完) : ドイツ側の政治過程を中心に|date=1987-07 |publisher=成城大学 |journal=成城法学 |volume=25|naid=110000246296|pages=105-142|ref=harv}}
 
* {{Cite journal|和書|author= [[植田隆子]] |title=東方ロカルノ案をめぐるソ連外交 : ソ連外交における「集団安全保障」政策の形成|date=1978 |publisher=北海道大学 |journal=スラヴ研究|volume=22|naid=110000189349|pages= 69-103|ref=harv}}
 
* {{Cite journal|和書|author=岡俊孝|title=<論文>現実と映像と政策決定・覚書 : 独ソ不可侵条約と「複雑怪奇」 : 国際関係と観光学の接点を求めて|date=2000 |publisher=大阪観光大学 |journal=大阪明浄大学紀要|volume=開学記念特別|naid=110000038327|pages=25-31|ref=harv}}
 
* {{Cite book|和書|author = 児島襄|year = 1992|title = 第二次世界大戦 ヒトラーの戦い |volume = 第二巻 |publisher = 文藝春秋社 |isbn = 978-4167141370|ref=harv}}
 
* {{Cite book|和書|author = 児島襄|year = 1992|title = 第二次世界大戦 ヒトラーの戦い |volume = 第三巻 |publisher = 文藝春秋社 |isbn = 978-4167141387|ref=harv}}
 
* {{Cite book|和書|author=ジョン・トーランド|translator=永井淳|year=1990|title=アドルフ・ヒトラー|volume = 第3巻|publisher=集英社文庫|isbn=978-4087601824|ref=harv}}
 
* {{Cite journal|author =三宅正樹 |date=2010|journal =平成22年度戦争史研究国際フォーラム報告書|url=http://www.nids.go.jp/event/forum/pdf/2010/02.pdf|title=日独伊三国同盟とユーラシア大陸ブロック構想|ref=harv}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Commonscat|Molotov-Ribbentrop Pact}}
 
{{Wikisource|ru:Договор о ненападении между Германией и СССР|独ソ不可侵条約|3=ロシア語原文}}
 
{{Wikisource|en:Molotov–Ribbentrop Pact|独ソ不可侵条約と秘密議定書|3=英訳}}
 
* [[独露再保障条約]] - 本条約と同様にロシアとフランスの接近を牽制した条約
 
* [[ドイツ・ソビエト境界友好条約]]
 
* [[1939年8月19日のスターリン演説]]
 
* [[砕氷船理論]]
 
* [[日独伊三国同盟]]
 
* [[独ソ戦]]
 
* [[平沼内閣]]
 
* [[日ソ中立条約]]
 
* [[リュッツオウ (重巡洋艦)]]
 
  
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2018/12/24/ (月) 16:32時点における最新版

独ソ不可侵条約(どくそふかしんじょうやく、: Deutsch-Russischer Nichtangriffspakt: Договор о ненападении между Германией и Советским Союзом: German-Soviet Nonaggression Pact

1939年8月 23日ドイツ,ソ連間で締結された条約。 38年9月のミュンヘン協定を典型とするイギリス,フランスの対独宥和政策は,39年3月ドイツがチェコスロバキアを支配下におくに及び,破綻をきたした。このため両国はソ連を巻込みつつドイツに対抗する統一戦線を組もうとした。しかし3国の交渉も進展をみせず,ミュンヘン会談以来イギリス,フランスに対して不信をいだいていたソ連はドイツに接近。 39年初めから通商協定をめぐって折衝を重ね,ドイツの J.フォン・リッベントロップ外相の訪ソを待って独ソ不可侵条約が締結された。条約は7ヵ条から成り,(1) 締約国は互いに攻撃せず,一方が第三国と交戦状態に入った場合,他方はこの第三国に援助を与えない,(2) 締約国は共通の問題について随時協議する,(3) 締約国はいずれも他方を目標とする同盟に参加せず,両国間の紛争は平和的手段によって解決するなどがおもな内容。またポーランド,バルト3国の分割が付属秘密議定書において取決められた。この条約の発表後,ドイツはポーランド侵攻を開始,9月にはイギリス,フランスがドイツに宣戦布告を行い,第2次世界大戦が勃発。 41年6月 22日ドイツ軍によるソ連攻撃が開始され,条約は破綻した。



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