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[没] 1978.5.30. 神奈川,藤沢  
 
[没] 1978.5.30. 神奈川,藤沢  
  
政治家。クリスチャン。[[安部磯雄]]門下の社会民主主義者。東京大学法学部卒業。弁護士として活躍するかたわら,労働総同盟,日本農民党の顧問としても活躍し,1926年[[社会民衆党]]から立候補して代議士となる。 40年戦争政策を衆議院で批判した民政党[[斎藤隆夫]]が除名されるや,この除名決議に反対したため党から除名された。 45年 11月に[[日本社会党]]を結成し,その書記長となった。 47年5月,[[日本国憲法]]による第1回特別国会が召集され,首相に指名され,6月1日,社会,民主,国民協同3党による連立内閣を発足させた。しかし,党内左派との調整がつかず,48年党大会が[[日本自由党]]を含めた4党の政策協定の破棄を決定,続いて衆議院予算委員会で補正予算案の組替え動議が可決されたため,2月総辞職。 50年には,党内指導権争いで日本社会党は分裂し,右派の委員長となった。 55年再統一した社会党顧問,のちには民主社会党の顧問となった。その間54年憲法擁護国民連合を組織,委員長となり,60年脱退,民社党系の憲法擁護新国民会議議長となった。
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政治家。クリスチャン。[[安部磯雄]]門下の社会民主主義者。東京大学法学部卒業。弁護士として活躍するかたわら,労働総同盟,日本農民党の顧問としても活躍し,1926年[[社会民衆党]]から立候補して代議士となる。 40年戦争政策を衆議院で批判した民政党[[斎藤隆夫]]が除名されるや,この除名決議に反対したため党から除名された。 45年 11月に[[日本社会党]]を結成し,その書記長となった。 47年5月,[[日本国憲法]]による第1回特別国会が召集され,首相に指名され,6月1日,社会,民主,国民協同3党による連立内閣を発足させた。しかし,党内左派との調整がつかず,48年党大会が[[日本自由党(1945-1948)|日本自由党]]を含めた4党の政策協定の破棄を決定,続いて衆議院予算委員会で補正予算案の組替え動議が可決されたため,2月総辞職。 50年には,党内指導権争いで日本社会党は分裂し,右派の委員長となった。 55年再統一した社会党顧問,のちには民主社会党の顧問となった。その間54年憲法擁護国民連合を組織,委員長となり,60年脱退,民社党系の憲法擁護新国民会議議長となった。
  
 
*[[社会主義]]
 
*[[社会主義]]

2018/7/28/ (土) 12:15時点における最新版

[生] 1887.7.28. 和歌山,田辺

[没] 1978.5.30. 神奈川,藤沢

政治家。クリスチャン。安部磯雄門下の社会民主主義者。東京大学法学部卒業。弁護士として活躍するかたわら,労働総同盟,日本農民党の顧問としても活躍し,1926年社会民衆党から立候補して代議士となる。 40年戦争政策を衆議院で批判した民政党斎藤隆夫が除名されるや,この除名決議に反対したため党から除名された。 45年 11月に日本社会党を結成し,その書記長となった。 47年5月,日本国憲法による第1回特別国会が召集され,首相に指名され,6月1日,社会,民主,国民協同3党による連立内閣を発足させた。しかし,党内左派との調整がつかず,48年党大会が日本自由党を含めた4党の政策協定の破棄を決定,続いて衆議院予算委員会で補正予算案の組替え動議が可決されたため,2月総辞職。 50年には,党内指導権争いで日本社会党は分裂し,右派の委員長となった。 55年再統一した社会党顧問,のちには民主社会党の顧問となった。その間54年憲法擁護国民連合を組織,委員長となり,60年脱退,民社党系の憲法擁護新国民会議議長となった。