汪兆銘

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汪兆銘(汪精衛)
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プロフィール
出生: 1883年5月4日
光緒9年3月28日)
死去: 1944年民国33年)11月10日
日本の旗 日本愛知県名古屋市
出身地: 清の旗 広東省広州府三水県
職業: 政治家・革命家
各種表記
繁体字 汪兆銘(汪精衛)
簡体字 汪兆铭(汪精卫)
拼音 Wāng Zhàomíng (Wāng Jīngwèi)
注音二式 Wāng Jàumíng
和名表記: おう ちょうめい
発音転記: ワン ヂャオミン (ワン ジンウェイ)
ラテン字 Wang Chao-ming (Wang Ching-wei)
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汪 兆銘(おう ちょうめい、1883年5月4日 - 1944年11月10日)は中華民国政治家季新精衛(中華圏では「汪精衛」と呼ぶのが一般的である)[1]知日派として知られた。原籍は浙江省紹興府山陰県(現在の紹興市柯橋区)。

生涯

生誕から日本留学まで

光緒10年(1884年)、10人兄弟の末子として広東省三水県(現在の仏山市三水区)に生まれる。光緒30年(明治37年、1904年)9月、清朝の官費生として日本の和仏法律学校法政大学(今の法政大学の前身)に留学。留学中に孫文の革命思想に触れ、光緒31年(1905年)、革命党に入党した。

やがて孫文の来日を機に同年8月中国同盟会が結成され、汪兆銘は機関紙『民報』の編集スタッフを務めることになる。この頃から汪は「精衛」という号を用いるようになった。

光緒32年(1906年)6月、法政大学速成科を卒業。官費留学の期限は切れたが、汪はそのまま法政大学の専門部へ進み、革命運動を続けることとした。この頃、イギリス領マレーのペナン島の有力華僑の出であり、のちに汪の妻となる陳璧君も運動に参加している。若い頃は長身の美男子であり、スーツを好んで着こなしていた。

東南アジアでの活動

やがて清朝からの依頼を受けた日本政府の取締りにより『民報』は発行停止に追い込まれ、孫文は根拠地をフランス領インドシナハノイ、ついでイギリス領マレーのシンガポールに移した。孫文の信頼を得ていた汪も、孫文と行動を共にする。孫文がフランスへ去った後、汪はタイ王国以外は欧米の植民地支配下にあった当時の東南アジアにおける中国同盟会の勢力拡充に力を注ぐことになる。

清朝政府に対するテロ計画

宣統2年(1910年)、汪は革命運動を鼓舞するため、清朝要人の暗殺を計画した。汪は北京で写真屋になりすまし、密かに爆弾を用意、醇親王載灃を狙ったが未遂に終わった。清朝政府に逮捕された汪は死刑を覚悟したが、革命派との融和を図る民政部尚書粛親王善耆の意向により、終身禁固刑に罪一等を減ぜられることとなった。

民国成立から孫文死去まで

革命軍が蜂起し勢力を広げる中、宣統3年(1911年)11月、清朝政府の大赦により、汪は釈放された。やがて辛亥革命により清朝は崩壊し、民国元年(1912年)1月1日に中華民国が成立したが、この成立宣言の文章を起草したのは汪である。この年汪は、革命運動の同志になっていた陳璧君と結婚した。

民国元年(1912年)3月、袁世凱が臨時大総統に就任したが、「皇帝」への野心を持つ袁世凱孫文らの対立が表面化し(第二革命)、民国2年(1913年)、孫文は日本へ、汪はフランスへ亡命することとなった。袁世凱政府が崩壊して新政府が誕生すると、民国6年(1917年)、汪はフランスから帰国。孫文の下で、汪は広東軍政府の最高顧問を務めることとなる。民国14年(1925年)の孫文死去に際しては、有名な「革命尚未成功、同志仍須努力 (革命なお未だ成功せず、同志よって須く努力すべし)」との一節がある孫文の遺言を起草。病床にて孫文の同意を得たと伝えられる。

国民政府との関わり

孫文の死後、汪は広東で国民政府常務委員会主席・軍事委員会主席を兼任する。この政府には、毛沢東中国共産党メンバーも参加していた(のち北伐開始後、政府は武漢に移る)。

民国15年(1926年)3月、中山艦事件により蒋介石との行き違いが生じ、汪は自発的に職責を辞任し、フランスに亡命した。民国16年(1927年4月1日、蒋介石の招電に応じ、再度帰国。中央常務委員、組織部長に返り咲いた。同年に「中国国民党の多数の同志、およそ中国共産党の理論およびその中国国民党に対する真実の態度を了解する人々は、だれも孫総理の連共政策をうたがうことはできない。」と発表。なお、この直後の4月12日に蒋介石は上海クーデターにより共産党の弾圧に乗り出した。

さらに蒋は4月18日、南京に国民政府を組織して、共産党の影響が強い武漢政府から離反した。汪は武漢政府に残ったが、やがて「共産党との分離」を決意し、武漢政府内にて清党工作を進めることとなった。

「反共産党」で一致したことから、武漢政府と南京政府の再統一がスケジュールにのぼり、蒋介石が下野して両政府は合体することとなった。汪は新政府で、国民政府委員、軍事委員会主席団委員等の地位に着いている。しかし共産党の広東蜂起の混乱の責任をとって汪は政界引退を表明し、再びフランスへ外遊することとなる。

一方国内では、独裁の方向に動き出した蒋と、その動きに反発する反蒋派との対立が生じる。汪は反蒋派から出馬を請われて帰国し、民国19年 (1930年)9月、北京にて国民政府を樹立したが、北京国民政府主席は戦局の不利を見てすぐに下野を表明し、政権は1日で瓦解した。汪は国民党から除名処分を受ける。

汪はしばらく香港に蟄居していたが、民国20年(1931年)5月、反蒋派が結集した広東国民政府に参画した。満州事変を機に蒋政府との統一の機運が高まり、民国21年(1932年1月1日、蒋と汪が中心となる南京国民政府が成立した。汪はこの政府で、行政院長、鉄道部長を務めた。

民国22年(1933年)5月、汪は関東軍の熱河侵攻に伴う塘沽停戦協定の締結に関わった。実質的に満州国の存在を黙認するものであったが、これは汪の「一面抵抗、一面交渉」という思想の現れでもあった。汪はその後、政府内の反対派の批判を受けつつ、「日本と戦うべからず」を前提とした対日政策を進めることとなる。

汪兆銘狙撃事件

ファイル:Wang Jingwei Time Cover.jpg
タイムの表紙を飾る汪兆銘(1935年3月18日号)

民国24年(1935年11月1日、国民党六中全会の開会式の記念撮影の時、汪兆銘は狙撃された。汪は3発の弾を受けたが幸いにして弾は急所を外れていた。

この時体内から摘出できなかった弾が、後の骨髄腫の原因となり、汪の命を奪うこととなる。犯人一味はただちに捕らえられた。対日外交への不満が犯行動機とされている[2]

汪は療養のため、民国25年(1936年)2月にヨーロッパへ渡り、友好国でもあるドイツで治療を行った。ドイツでは政府関係者と交流を持つなどの活動も行った。翌年の民国26年(1937年)1月に帰国した。

蒋介石との訣別

民国26年 (昭和12年、1937年)7月、日中戦争が始まった。徹底抗戦を貫く蒋介石に対し、汪は「抗戦」による民衆の被害に心を痛め、和平グループの中心的存在となった。

一方、民国27年(1938年)3月頃から、日中の和平派が水面下での交渉を重ねるようになったが、この動きはやがて、中国側和平派の中心人物である汪をパートナーに担ぎ出して「和平」を図ろうとする、いわゆる「汪兆銘工作」に発展していく。

10月12日には汪はロイター記者に対して日本との和平の可能性を示唆、さらにそののち長沙の焦土戦術に対して明確な批判の意を表したことから、蒋介石との対立は決定的なものとなった。今井武夫によれば、汪は11月16日の蒋との話し合いで、蒋との訣別を決心したと伝えられる[3]

11月、上海で、汪派の高宗武梅思平と、日本政府の意を体した影佐禎昭今井武夫との間で話し合いが重ねられ(重光堂会談)、11月20日、両者は「中国側の満州国の承認」「日本軍の2年以内の撤兵」などを内容とする「日華協議記録」を署名調印した。

その合意の実現のため、汪側は、「汪は重慶を脱出する。日本は和平解決条件を公表し、汪はそれに呼応する形で時局収拾の声明を発表し、昆明、四川などの日本未占領地域に新政府を樹立する」という計画を策定した。

この計画に従い、12月18日、汪はついに重慶脱出を決行した。12月20日ハノイ着。汪の脱出に前後して、陳公博陶希聖梅思平らの汪グループも、それぞれ重慶から脱出した。しかし汪の期待に反して、昆明の竜雲、四川の潘文華第四戦区(広東・広西)の司令官張発奎将軍などの軍事実力者たちは、ついに汪に同調することはなかった。

さらに汪にとって打撃となったのが、12月22日、汪の脱出に応える形で発表された近衛声明(第三次近衛声明)である。声明は、汪と日本側の事前密約の柱であった「日本軍の撤兵」には全く触れておらず、汪グループに強い失望を持たせる結果となった。

12月29日、汪は通電を発表し、広く「和平反共救国」を訴えた(「29日」の日付をとって「艶電」と呼ばれる)。蒋政権はただちに汪を国民党から永久除名した。民国28年(1939年)1月、近衛文麿は突然首相を辞任し、汪の構想は完全に頓挫することとなった。

ハノイでの狙撃事件

当初の構想が挫折した汪は、しばらくハノイに滞在することになる。民国28年(1939年3月21日、国民党の刺客が汪の家に乱入、汪の腹心であった曽仲鳴を射殺した。刺客は汪を狙ったが、たまたま当日は汪と曽が寝室を取り替えていたため、曽が身代わりに犠牲になったものだった。

日本側は、ハノイが危険であることを察知し、汪をハノイから脱出させることにした。影佐禎昭、犬養健らがこの工作に携わり、4月25日、汪はハノイを離れ、5月6日、上海に到着した。

汪兆銘政府の成立

一時は新政府樹立を断念していた汪だったが、ハノイでの狙撃事件をきっかけに、「日本占領地域内での新政府樹立」を決意することとなる。これは、日本と和平条約を結ぶことによって、中国-日本間の和平のモデルケースをつくり、重慶政府に揺さぶりをかけ、最終的には重慶政府が「和平」に転向することを期待するものであった。

上海に移った汪は、ただちに日本を訪問し、新政府樹立への内諾を取り付けた。そして8月28日より、国民党の法統継承を主張すべく、上海で「第六次国民党全国大会」を開催、自ら党中央執行委員会主席に就任した。

そして、日本占領地内の傀儡政権の長であった王克敏梁鴻志と協議を行い、9月21日、中央政務委員の配分を「国民党(汪派)三分の一、臨時維新両政府(王、梁政府)三分の一、その他三分の一」とすることで合意に達し、彼らと合同して新政府を樹立することとなった。

次いで10月、新政府と日本政府との間で締結する条約の交渉が開始された。しかし日本側の提案は、従来の近衛声明の趣旨を大幅に逸脱する過酷なもので、汪工作への関わりが深い関係者も、「権益思想に依り新たに政府各省から便乗追加された条項も少くなく、忌憚なく言って、帝国主義的構想を露骨に暴露した要求と言う外ない代ろ物であった」[4]、「十月初興亜院会議決定事項として堀場中佐及平井主計中佐の持参せる交渉原案を見るに及び自分は暗然たるを禁じ得なかつた。・・・堀場中佐は自分に問ふて曰く「この条件で汪政府が民衆を把握する可能性ありや」と自分は「不可能である」と答へざるを得なかつた」[5]と回想している。

あまりの過酷な条件である 華日新関係調整要綱に、汪自身もいったんは新政府樹立を断念したほどであった。また民国29年(1940年)1月には、汪新政権の傀儡化を懸念する高宗武、陶希聖が和平運動から離脱して「内約」原案を外部に暴露する、という事件も生じたが、最終的には日本側が若干の譲歩を行ったこともあり、汪はこの条約案を承諾することとなった。

民国29年(1940年)3月30日南京国民政府の設立式が挙行された[6]。 汪は、重慶政府との合流の可能性を睨んで、当面新政府の「主席代理」に就任した(民国29年(1940年)11月「主席」就任)。なお、新政府では妻の陳璧君も重要な役割を果たすことになった。

その後、折衝のため数度訪日。民国31年(1942年)12月の訪日時には、大勲位菊花大綬章を授与された。

島本真の備忘メモによると、当時大東亜省並びに中華民国国民政府の要請により同国、南京、上海、蘇州に於いて同国滑空機指導者講習会を開いたと言う。

死去

民国33年(1944年)に入ると、狙撃の際に受けた傷が激しく痛み始め、まもなく下半身不随の重体となった。汪は若い頃から体質的な糖尿病を病んでおり、この糖尿病が傷の症状をさらに悪化させることになった。3月3日には渡日して名古屋帝国大学医学部附属病院に入院。多発性骨髄腫と診断された。汪は身体の激痛に耐えながら闘病生活を続けたが、11月10日、そのまま名古屋にて客死した。汪は晩年には家族に対して、日本人に本当の友人はいないと嘆いていたとも伝えられる。

遺体を小牧飛行場から飛行機に乗せて送り出す際には、小磯国昭重光葵ら当時の政府閣僚、近衛文麿・東条英機重臣などが見送りに訪れた。南京郊外の梅花山に埋葬されたが、墓を暴かれる恐れから、棺はコンクリートで覆いがされた。

終戦後の民国35年(1946年1月15日、国民党第七四軍は、墓のコンクリートの外壁を爆破、汪の棺を取り出した。遺体はまもなく火葬場で灰にされた後、野原に捨てられたという。「漢奸」の墓を残すわけにはいかない、との考えからと見られる[7]

南京国民政府のその後

新政権は誕生したものの、結局は汪の意図したような「重慶政府との和平」は実現せず、戦争は継続されることとなった。

民国30年(1941年12月8日、太平洋戦争が始まったが、汪は事前に日本の開戦決意を知らされておらず、「和平」の実現がますます遠のいたことに衝撃を受けたという。汪は日本の国力では英米に対抗できないとの判断から開戦には反対していたが、結局汪兆銘政府も参戦することになり、民国32年(1943年)1月、英米に対し宣戦布告。同11月には東京で開かれた大東亜会議に、汪は南京国民政府代表として他のアジア諸国の首脳とともに出席した。島本真によると中華民国滑空士指導者講習会も行ったという。

ポツダム宣言受諾が公表された翌日の1945年8月16日[8]に解散された。

評価

汪兆銘は中国において「日本に寝返った最悪の裏切り者」として評価されている[9]。ただし近年では汪を再評価する研究も発表されており、中国内でも歴史的評価は変わる可能性がある。

著作

  • 『汪兆銘全集』(和訳:河上純一訳、東亜公論社、1939年)
  • 『汪主席和平建国言論集』中央書報発行所、1940年
  • 『中国の諸問題と其解決』(和訳:日本青年外交協会研究部訳編、日本青年外交協会出版部、1939年)
  • 『日本と携へて』(和訳:黒根祥作訳、朝日新聞社、1939年)
  • 『汪精衛自敍伝』(和訳:安藤徳器編訳、講談社、1941年)
  • 『全面和平への道』(和訳:東亜聯盟中国総会編、改造社、1941年)
  • 『汪主席訪日言論集』上海特別市政府秘書処、出版年不明
  • 『双照楼詩詞藁』

伝記

  • 森田正夫『汪兆銘』(興亜文化協会 昭和14年(1939年))
  • 今井武夫『支那事変の回想』(みすず書房 昭和39年(1964年))
  • 山中徳雄『和平は売国か  ある汪兆銘伝』(不二出版 平成2年(1990年))
  • 杉森久英 『人われを漢奸と呼ぶ 汪兆銘伝』(文藝春秋 平成10年(1998年))
  • 上坂冬子 『我は苦難の道を行く 汪兆銘の真実』(各(上・下)、講談社 平成11年(1999年)、文春文庫 平成14年(2002年))
  • 小林英夫『日中戦争と汪兆銘』(吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー〉 平成15年(2003年))
  • 今井貞夫『幻の日中和平工作 軍人今井武夫の生涯』(中央公論事業出版 平成19年(2007年))

脚注

ファイル:Wang Jinwei Chan pitqun in Malaya.jpg
マレーシアにて
後列左から2人目が汪、その左が陳璧君
  1. 戦前・戦中までの日本でも、「汪精衛」との呼称を使用する例は決して少なくなかった。東亜問題調査会『最新支那要人伝』朝日新聞社(昭和16年)や『写真週報』などの出版物、さらに週間ニュース映画「日本ニュース」などが「汪精衛」としている。
  2. 動機は対日外交反対派の暴挙と判明 政局に一大暗影を投じたが蒋、汪合作却って強化 汪氏狙撃事件の波紋”. 大阪朝日新聞. 神戸大学 (1936年11月2日). . 2011年11月2日閲覧.
  3. 今井武夫『支那事変の回想』P85
  4. 今井武夫『支那事変の回想』P103
  5. 影佐禎昭『曾走路我記』
  6. 国民党の正統な後継者であることを主張するため「南京遷都式」の形式をとった。
  7. 劉傑『漢奸裁判――対日協力者を襲った運命』、中公新書、2000年
  8. 「汪精衛政権の基盤強化の戦略」土屋光芳(明治大学政経論叢第77巻第5・6号2009.3.30)[1][2]PDF-P.3に記述あり
  9. 【世界史の遺風】(62)汪兆銘 「漢奸」と断罪された「愛国者」 (1/4ページ) 産経新聞、2013年6月13日。

関連項目

 中華民国の旗 中華民国国民政府
先代:
胡漢民
(広東大元帥府大元帥)
広州国民政府主席委員
1925年7月 - 1926年3月
(1926年、譚延闓代理)
次代:
(武漢国民政府主席に
改組)
先代:
(広州国民政府から改組)
武漢国民政府主席
1926年12月 - 1927年8月
次代:
(南京国民政府に合流)
先代:
集団指導制:胡漢民ら4名
南京国民政府常務委員
1927年9月 - 1928年1月
(集団指導制:譚延闓胡漢民
蔡元培李烈鈞
次代:
集団指導制:汪兆銘ら9名
先代:
集団指導制:汪兆銘ら5名
南京国民政府常務委員
1928年1月 - 2月
(集団指導制:譚延闓胡漢民
蔡元培李烈鈞于右任蒋介石
孫科林森
次代:
集団指導制:譚延闓ら5名
先代:
(創設)
広東国民政府常務委員
1931年5月 - 1932年
(集団指導制:唐紹儀古応芬
鄧沢如孫科
次代:
(廃止)
先代:
孫科
行政院長
1932年1月 - 1935年12月
1932年8月 - 1933年3月
宋子文代理、
1935年7月 - 12月孔祥熙代理)
次代:
蒋介石
先代:
羅文幹
外交部長(署理)
1933年8月 - 1935年12月
次代:
張群
 25px 南京国民政府(汪兆銘政権
先代:
(創設)
主席
1940年3月 - 1944年11月
(1940年11月まで代理)
次代:
陳公博
先代:
(創設)
行政院長
1940年3月 - 1944年11月
次代:
陳公博