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'''武家官位'''(ぶけかんい)とは、主として[[戦国時代 (日本)|戦国期]]から[[江戸時代|江戸期]]にかけて、[[武士]]が[[任官]]または自称した[[官位]]([[官職]]と[[位階]])をいう。
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== 前史 ==
 
[[武士団]]の成立には、[[国司]]や[[目代]]として下向した後土着した、旧[[受領]]層が大きく関わっている。彼らはその官位を支配のよりどころとして、自らの勢力を拡大した。武士勢力が成長すると、権力者はこれに官位を授け自らの支配下に組み込もうとした。官位は、[[律令制]]が崩壊し、実質的な意味が無くなっても権威としての威力を持っていたために、[[武士]]の序列を明確化する目的でも使用された。しかし同時に、武士に対する[[朝廷]]の支配を表すものであった。
 
 
 
[[武家政権]]が成立すると、[[源頼朝]]は[[御家人]]の統制のため、御家人が頼朝の許可無く任官することを禁じた。[[源義経]]が追放されたのもこの禁を破ったからである。後に[[武家]]の叙位任官は[[官途奉行]]の取り扱いのもと、[[幕府]]から[[朝廷]]へ申請する[[武家執奏]]の形式を取ることが制度化され、[[室町幕府]]もこの方針を踏襲した。
 
 
 
== 戦国~安土桃山時代の武家官位 ==
 
[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]になると幕府の権力が衰え、[[大名]]が直接[[朝廷]]と交渉して官位を得る直奏の例が増加することになる。[[朝廷]]が資金的に窮迫すると、大名達は献金の見返りとして官位を求め、朝廷もその献金の見返りとし、その[[武家]]の家格以上の官位を発給することもあった。たとえば[[京職|左京大夫]]は大名中でも[[四職]]家にしか許されない官であったが、戦国期には地方の小大名ですら任じられるようになり、時には複数の大名が同時期に任じられることもあった。[[大内義隆]]に至っては高額の献金を背景に、最終的には[[従二位]][[兵部省|兵部卿]]という高い官位を得ている。官位は権威づけだけではなく、領国支配の正当性や戦の大義名分としても利用されるようになる。その主な例として、[[大内氏]]が[[少弐氏]]に対抗するために[[大宰府|大宰大弐]]を求めた例、[[三河国]]の支配を正当化するために[[織田信秀]]、[[今川義元]]、[[徳川家康]]が三河守を求めた例がある。
 
 
 
一方この時代には、[[朝廷]]からの任命を受けないまま官名を自称([[僭称]])する例も増加した。[[織田信長]]が初期に名乗った[[上総国|上総介]]もその一つである<ref>当初は慣例的に[[親王]]が任命されるはずの「上総守」を名乗るなど混乱も見られる。</ref>。また、[[官途状|官途書出、受領書出]]といって主君から家臣に[[恩賞]]として官職名を授けるといったものまで登場した。[[豊臣秀吉]]が織田家重臣時代に使った[[筑前国|筑前守]]や、[[明智光秀]]が使った[[日向国|日向守]]もこの一つと考えられる。
 
 
 
豊臣秀吉が[[公家]]の最高位である[[関白]]として[[天下統一]]を果たすと、[[豊臣氏]]宗家を[[摂関家]]、豊臣氏庶流および[[徳川氏|徳川]]・[[前田氏|前田]]・[[上杉氏|上杉]]・[[毛利氏|毛利]]・[[宇喜多氏|宇喜多]]の諸氏を[[清華家|清華家格]]とする家格改革を行うなど、諸国の大名に官位を授けて律令官位体系に取り込むことで統制を行おうとした。ところがただでさえ公家の官位が不足気味だったところへ武家の高位への任官が相次いだために官位の昇進体系が機能麻痺を起こしてしまう。その結果、[[大臣]]の任用要件を有する公家が不在となってしまい、秀吉が死去した際([[1598年]])には、[[内大臣]][[徳川家康]]が最高位の官位保有者であるという異常事態に至った。また秀吉は同じく海外志向であった武将の[[亀井茲矩]]の申し出に対し、律令に無い官職である[[琉球王国|琉球守]](現在の沖縄)や台州守(現在の中国[[浙江省]][[台州市]])など異例な名乗りを許している。これは厳密に言えば[[朝廷]]にとって由々しき事態であったが、秀吉の海外進出が挫折すると亀井の名乗りも国内官職へ回帰した。
 
 
 
== 江戸時代の武家官位 ==
 
[[徳川家康]]が[[江戸幕府]]を開くと、官位を[[武士]]の統制の手段として利用しつつもその制度改革に乗り出した。まず、慶長11年(1606年)に武家官位は江戸幕府の推挙によるものとした。慶長16年(1611年)には武家官位を員外官(いんがいのかん)として公家官位と切り離す方針が打ち出され<ref>矢部、2011年、P171-172)。</ref>、[[禁中並公家諸法度]]により制度化された。これによって武士の官位保有が公家の昇進の妨げになる事態を防止した。また、武家の官位の任命者は事実上将軍とし、[[大名]]家や[[旗本]]が[[朝廷]]から直接昇進推挙を受けた場合でも、将軍の許可を受けねばならなかった。ただし、形式的手続であるとは言え、将軍が任じた官位を幕府から朝廷に申請を行って天皇の勅許を得る必要があり、勅許を得ることで正式にその官位が認められた。将軍に任命された時点では単に「諸大夫」「四品」などに任じられて「○○守」などの名乗りを許されたという仰書・申付書が下されるだけに過ぎないが、勅許を得ることで「従五位下」「従四位下」といった正式な位階と名乗りがそのまま[[官途名]]として認められた位記・口宣案が発給された<ref>[[池上裕子]][[編集|編]]、[[小和田哲男]]編、[[小林清治]]編、[[池享]]編、[[黒川直則]]編『クロニック 戦国全史』([[講談社]]、[[1995年]])599頁参照。</ref>。
 
 
 
なお、位記・口宣案の発給には[[従五位下]][[諸大夫]]で金十両、大納言で銀100枚と言った具合に天皇に対して金子を進上することになっており、それが[[太上天皇|上皇]]や[[皇太子]]、[[女院]]、[[中宮]]や[[武家伝奏]]、[[上卿]]や実務にかかわる[[地下官人]]などにも配分された。武家官位の授与数は年間で3桁以上に上るため、武家官位の授与は江戸時代の天皇・皇族・公家にとっては大きな収入源になっていた<ref>[[藤田覚]]『天皇の歴史06 江戸時代の天皇』([[講談社]]、[[2011年]])203-204頁参照。</ref>。
 
 
 
但し、全ての大名が武家官位を授けられるようになるのは、18世紀に入ってからである。江戸時代の初期には小大名の中には武家官位を授けられないままの者も少なくなかった。[[寛文印知]]によって大名の格式が整備された頃から、ほとんどの大名に官位が与えられるようになり、[[宝永]]6年3月7日([[1709年]]4月16日)に将軍[[徳川家宣]]は「今より万石以下の人々、みな叙爵あるべし」と宣言(『徳川実紀』(『文昭院殿御実紀』巻1))して官位のなかった27名の大名が一斉に叙爵されて以後、全ての大名が家督継承時(家格によってはそれ以前の段階)に武家官位が授けられることになったのである。これにより名目上となった武家の家格は余り重要視されなくなる。
 
 
 
[[大名]]に与える位階は、宮中の武官の家柄であった[[羽林家]]に倣い、
 
*[[従五位下]]([[諸大夫]]・五位) - 一般[[大名]]
 
*[[従四位下]]([[四品]]・しほん)<ref>[[四品以上に昇進する大名家一覧]]を参照</ref>
 
 
 
官職は
 
*[[侍従]]
 
**[[国主|国持大名]]([[小笠原氏|小笠原]]、[[鍋島氏|鍋島]]など)は[[従四位下]]侍従
 
**[[南部氏|南部]]・[[柳沢氏|柳沢]]と準国主([[丹羽氏|丹羽]]、[[立花氏|立花]]など)は初め従四位下または[[従五位下]]のち従四位下侍従に昇進
 
**[[織田氏|織田]]も江戸初期は準国主に次ぐ格式(「[[明和事件]]」「[[宇陀崩れ]]」で家格降下)
 
**譜代の一部([[榊原氏|榊原]]など)は従五位下のち侍従に昇進
 
**譜代並・願い譜代の一部([[真田氏|真田]]など)は従五位下のち従四位下に昇進
 
*[[近衛少将|左近衛権少将]] - 国持大名の一部([[黒田氏|黒田]]、[[池田氏|岡山池田]]、[[細川氏|細川]]など)、[[親藩]]、親藩並(鳥取池田など)、[[連枝]](高須、西条など)
 
*[[近衛中将|左近衛権中将]] - 松平(将軍家の兄の家。[[越前松平家|越前松平]]福井藩)、保科(将軍家の弟の家。[[会津松平家|会津松平]])、[[島津氏|島津]]、[[伊達氏|伊達]]、[[井伊氏|井伊]]
 
*[[参議]](宰相) - [[前田氏|前田]]、家門(館林、甲府)
 
*[[中納言|権中納言]](黄門) - [[水戸徳川家]]
 
*[[大納言|権大納言]](亜相) - [[尾張徳川家]]、[[紀州徳川家]]
 
とした。
 
 
 
これらの武家官位について、[[伺候席]]席次を官位の先任順としたり、一部の伺候席を[[四品以上に昇進する大名家一覧|四品]]以上の席としたりするなどして、格差をつける。その上で、大名家により初官や昇進の早さを微妙に変えるなどして家格の差を生ぜしめた。
 
 
 
なお、旗本が武家官位を授けられる場合には、[[正六位]]相当の[[布衣]]に任ぜられる場合があった。江戸幕府による武家官位では、布衣がもっとも下位にあたった。また、御三家及び加賀藩の家老のうち数名が幕府の推挙という形式で叙爵を受けることができた。([[附家老]])
 
 
 
ただし、以上の規定にも関わらず、[[喜連川藩]]の藩主である[[喜連川氏]]のみは、歴代当主は幕府からの武家官位を受けずに公式には無位無官でありながら、「左兵衛督」「左馬頭」を自称し、幕府や朝廷も許容していた。これは、同氏は[[足利将軍家]]の血を引く生き残り([[古河公方]]の末裔。「左兵衛督」「左馬頭」は歴代の[[鎌倉公方]]・古河公方の官職)であり、幕藩体制の統制下の枠組みには完全には含まれていなかった影響があるとみられている<ref>阿部能久 『戦国期関東公方の研究』 思文閣、2006年、198-274頁(喜連川家の誕生)。</ref>。
 
 
 
参考までに1712年(正徳2年)刊行の「[[和漢三才図会]]<ref>寺島良安『倭漢三才圖會』(復刻版)吉川弘文館、1906年(明治39年),124頁</ref>」記載の官位昇進の順序を以下に示す(ただし、左の番号は、便宜的につけたものである。)。
 
1[[侍]]→2[[諸大夫]]→3[[侍従]](相当[[従五位下]])→4[[少将]](相当[[正五位下]])→5[[中将]](相当[[従四位上]])→6[[参議]](相当[[正四位下]]または[[従三位]])→7[[中納言]](相当従三位)→8[[大納言]](相当[[正三位]]・従三位)→9[[内大臣]](相当[[正二位]]・[[従二位]])→10[[右大臣]](相当従二位)→11[[左大臣]](相当正二位)→12[[太政大臣]](相当[[正一位]]・[[従一位]])
 
 
 
=== 官名の特例 ===
 
武家官位では、「〜守」「〜頭」等の官途名乗りは官職とはされず、叙爵された者が称しているものとされた。ただし、勅許を得ることで作成される口宣案にその官途名が明記され、単なる自称とは異なる重みを持つことになった。この官途名乗りにおいても幕府の許可が必要とされていたが、原則的には名乗る当人の希望が重視された。ただし、一部の官途名に特例を設けるなどして大名統制に利用している。具体的には次のとおり。
 
 
 
* 同姓同官名の禁止
 
**混乱を避けるため
 
* 松平姓の国持大藩大名による領国名優先使用
 
**[[加賀藩|加賀前田家]](幕府より松平姓を賜る)の加賀守、[[越前松平家|福井松平家]]の越前守など
 
* 外様の国持大藩大名による領国名優先使用
 
**[[仙台藩|仙台伊達家]]の[[陸奥国司|陸奥守]]、[[薩摩藩|薩摩島津家]]の[[薩摩国司|薩摩守]]、[[紀州藩|和歌山徳川家]]の[[常陸国司|常陸介]]、[[福岡藩|福岡黒田家]]の[[筑前国|筑前守]]、[[広島藩|広島浅野家]]の[[安芸国|安芸守]]、[[佐賀藩|佐賀鍋島家]]の[[肥前国|肥前守]]<ref>八代藩主[[鍋島治茂]]以後。</ref>など。この他幕府創成期には[[毛利秀就]]の[[長門国|長門守]]の例もあったが、後に[[侍従]]が[[極位極官|極官]]となっている。
 
* [[伺候席|大廊下、大広間]]詰め大名以外の、老中と同一の名乗り禁止
 
**老中昇進時に同名乗りの大名及び配下の幕府役人、諸大名家の家臣らは遷任し、名乗りを変える。
 
* 国持大名以外の領国名使用禁止
 
** [[肥前国|肥前]]の[[松浦氏]]([[肥前国|肥前守]]、他には[[壱岐国|壱岐守]])、[[信濃国|信濃]]の[[真田氏]]([[信濃国|信濃守]]、他には[[伊豆国|伊豆守]])、[[対馬国|対馬]]の[[宗氏]]([[対馬国|対馬守]])等は例外として許可された。
 
 
 
==== 忌諱・憚られた名乗り ====
 
* 三河守(将軍家養子の津山松平家のみ例がある)や武蔵守や山城守(慶応3年3月25日より)の禁止
 
** 徳川氏発祥の地である三河と、江戸城のある"将軍の国"武蔵の二国は、これを名乗ることをはばかられ、通常は任命もされなかった。
 
**ただし少数の例外はあり(将軍家の兄の系統である[[結城秀康]]・[[松平忠直]]、津山松平家の三河守[[松平綱国]]など)。
 
* 治部少輔([[石田三成]])や尾張守([[陶晴賢|陶隆房]]、[[松田憲秀]])の忌避
 
* 同様に、右衛門尉([[関ヶ原の戦い]]で東西両陣営に日和見した[[増田長盛]]が名乗る)、右兵衛尉(実兄を密告し栄達した[[山県昌景]]が名乗る)、右衛門佐(親子で天下人に二度も謀反のうえ自害した[[松永久通]]が名乗る)も忌避された、とされる。
 
**その一方、左兵衛尉(浅井久政・小山田信茂など、判断を誤り予期せぬ最期を遂げた)、左衛門督([[朝倉義景]]・[[小早川秀秋]]・[[大崎義隆]]など、家を潰した)、左衛門佐([[真田信繁|真田幸村=信繁]]、[[大坂の役]]で徳川幕府に敵対)などは、水戸徳川、庄内酒井、喜連川(足利)、吉良、遠山などに使用されたため、上記の忌避には一貫性が無いとする説・主張もある。
 
** 上野介は忌避されず、多くの大名や旗本が名乗っている([[本多正純|本多]]・[[堀田正信|堀田]]・[[吉良義央|吉良]]・[[三河小栗氏|小栗]]など)。また、日向守は[[本能寺の変]]を起こした[[明智光秀]]以後暫くは名乗るものがなかったが、特に忌避されていたとする史実はない。江戸時代に入って以降、[[摂津国]][[高槻藩]][[永井氏]]、[[伊勢国]][[亀山藩]][[石川氏]]、[[下野国]][[宇都宮藩]][[戸田氏]]、[[結城藩]][[水野氏]]や[[越前松平家]]の分家である[[糸魚川藩]][[松平氏]]が代々使用するようになった。
 
 
 
=== 有力大名(三家及び親藩、本国持、及び大身国持の上位)の官名 ===
 
* [[尾張徳川家|尾張徳川氏]] - 権中納言、権大納言、右兵衛督は[[喜連川氏]](足利)に優先
 
* [[紀州徳川家|紀州徳川氏]] - 権中納言、権大納言、常陸介
 
* [[水戸徳川家|水戸徳川氏]] - 権中納言、左衛門督
 
* 加賀[[前田氏]] - 参議、加賀守
 
* [[越前松平氏]]本家(福井藩) - 参議、左近衛権中将・少将、越前守
 
* [[島津氏]] - 左近衛権中将・少将、修理大夫、薩摩守、大隅守
 
* 仙台[[伊達氏]] - 左近衛権中将・少将、陸奥守
 
* [[会津松平氏]] - 左近衛権中将・少将、肥後守は[[細川氏]]に優先
 
* 連枝(西条松平・高須松平など) - 左京大夫、弾正少弼、摂津守、左近衛権少将、侍従
 
* [[黒田氏]] - 肥前守、美濃守、筑前守、左近衛権少将、侍従
 
* [[細川氏]] - 越中守、肥後守(会津不使用時)、左近衛権少将、侍従
 
* [[浅野氏]] - 弾正少弼、安芸守、左近衛権少将、侍従  
 
* [[上杉氏]] - 弾正大弼、左近衛権少将、侍従
 
* [[佐竹氏]] - 右京大夫、左近衛権少将、侍従
 
* [[毛利氏]] - 大膳大夫、長門守、侍従
 
* [[鍋島氏]] - 丹後守、信濃守、侍従   
 
* [[藤堂氏]] - 和泉守、侍従 など。
 
* 美作津山藩松平([[越前松平氏]]) - 越後守 
 
 
 
===武家官位に対する異論===
 
武家官位は伝統的な[[律令制]]以来の身分体系に武家を組み込み、将軍を頂点とした序列を付け、統制を行うのに効果的な役割を果たしたが<ref>藤田覚『天皇の歴史06 江戸時代の天皇』([[講談社]]、[[2011年]])205-206頁参照。</ref>、これに対し江戸時代において全く異議が唱えられなかった訳ではない。
 
 
 
第6代将軍[[徳川家宣|家宣]]・第7代将軍[[徳川家継|家継]]の下で[[正徳の治]]を行った[[新井白石]]は、著書『[[読史余論]]』で[[足利義満]]の時代について触れた中で、義満とその臣下は君臣関係にあるが、同時に義満は天皇の臣下であるため天皇の臣下と言う点では将軍もその臣下と同じということになってしまうために(君臣共に王官をうくる時は、その実は君・臣たりといへども、その名はともに王臣也)将軍の臣下([[守護大名]]達)は義満に心から従わず、それゆえに反乱が多かった([[明徳の乱]]・[[応永の乱]]など)と論じた。そして、公家・武家から人民に至るまで将軍の臣下となるような独自の身分制度を作るべきだったと主張している<ref>藤田覚『天皇の歴史06 江戸時代の天皇』([[講談社]]、[[2011年]])206-207頁参照。</ref>。また[[荻生徂徠]]は第8代将軍[[徳川吉宗|吉宗]]の諮問を受けて提出した意見書『政談』で、大名の中には官位を叙任する文書は天皇から発給されるので天皇こそ真の主君だと考え、今は将軍の威勢を恐れているので家来になっているだけの者がいる、と指摘し、武家には十二段階の独自の勲等制度を設けるべきだと提言している<ref>藤田覚『天皇の歴史06 江戸時代の天皇』([[講談社]]、[[2011年]])207-208頁参照。</ref>。この指摘は、幕末になって江戸幕府の威勢が衰えると現実のものとなったのである<ref>藤田覚『天皇の歴史06 江戸時代の天皇』([[講談社]]、[[2011年]])210頁参照。</ref>。
 
 
 
== 脚注 ==
 
<div class="references-small"><references/></div>
 
 
 
== 参考文献 ==
 
 
 
* 池上裕子編、小和田哲男編、小林清治編、池享編、黒川直則編『クロニック 戦国全史』(講談社、1995年)
 
* 松平秀治『大名家格制についての問題点』(徳川林政史研究所研究紀要 昭和48年度)[[1974年]][[3月]] 徳川黎明会編 徳川黎明会
 
* 宮沢誠一『幕藩制的武家官位の成立』(史観:第101号)[[1979年]][[10月]] [[早稲田大学]]史学会
 
* [[深谷克己]]『近世の国家・社会と天皇』([[校倉書房]]、[[1991年]][[6月]]) ISBN 4-7517-2090-2
 
** 第一部 近世の国家と朝廷 第一章 統一政権と武家官位 p14~p45
 
* 李啓煌『近世武家官位制の成立過程について』(史林:第74巻6号)[[1991年]][[11月]] 史学研究会編 史学研究会
 
* 水林彪『武家官位制-幕藩制確立期の武家官位制の構造分析』←石上英一ほか編「講座・前近代の天皇 第3巻(天皇と社会諸集団)」[[1993年]][[5月]] [[青木書店]] 所収。
 
* 下村效『豊臣氏官位制度の成立と発展--公家成・諸大夫成・豊臣授姓』(日本史研究:第377号)[[1994年]][[1月]] 日本史研究会←下村效「日本中世の法と経済」続群書類従完成会 [[1998年]][[3月]]発行 ISBN 4-7971-0659-Xにも所収。
 
* [[堀新 (歴史学者)|堀新]]「近世武家官位の成立と展開-大名の官位を中心に-」←山本博文編「新しい近世史①(国家と秩序)」新人物往来社 [[1996年]][[3月]]発行 ISBN 4-404-02348-0 に所収。
 
* [[鶴田啓]]『近世大名の官位叙任過程--対馬藩主宗義倫・義誠の事例を中心に』(日本歴史:第577号)[[1996年]][[6月]] 日本歴史学会編 [[吉川弘文館]]
 
* 箱石大『幕末期武家官位制の改変』(日本歴史:第577号)[[1996年]][[6月]] 日本歴史学会編 [[吉川弘文館]]
 
* 池享『武家官位制再論』(日本歴史:第577号)[[1996年]][[6月]] 日本歴史学会編 [[吉川弘文館]]
 
* 黒田基樹『慶長期大名の氏姓と官位』(日本史研究:通号414号)[[1997年]][[2月]] 日本史研究会
 
* [[藤田覚]]『近世武家官位の叙任手続きについて―諸大夫の場合―』(日本歴史:第586号)[[1997年]][[3月]] 日本歴史学会編 [[吉川弘文館]]
 
* 堀新『近世武家官位試論 (1997年度歴史学研究会大会報告) -- (<近世史部会>近世の国家権力と政治秩序) (歴史学研究:第703号)[[1997年]][[10月]] 歴史学研究会編 青木書店
 
* 金子拓『中世武家政権と政治秩序』([[吉川弘文館]]、[[1998年]]) ISBN 4-642-02769-6
 
* 堀新『織田信長と武家官位』(共立女子大学文芸学部紀要:第45号)[[1999年]][[1月]] [[共立女子大学]]
 
* 橋本政宣 編『近世武家官位の研究』(続群書類従完成会、[[1999年]][[3月]]) ISBN 4-7971-0678-6
 
** 橋本政宣 序章 近世の武家官位 p1~p56ほか
 
* [[藤田覚]]『近世政治史と天皇』([[吉川弘文館]]、[[1999年]][[9月]]) ISBN 4-642-03353-X
 
** 第九章 近世後期の武家官位と天皇、第十章 武家官位の「価格」 p269~p312
 
*藤田覚『天皇の歴史06 江戸時代の天皇』([[講談社]]、2011年) ISBN 978-4062807364
 
**第四章 江戸時代の天皇の諸相 4 武家の官位 p198~p210
 
* 村川浩平『日本近世武家政権論』([[近代文芸社]]、[[2000年]][[6月]]) ISBN 4-8231-0528-1
 
* 川島慶子『幕藩制前期の大名の身分序列について--大名家格制成立過程解明のために (彙報 第38回史学研究大会報告) (史艸:第41号)[[2000年]][[11月]] [[日本女子大学]]史学研究会
 
* [[今谷明]]『戦国大名と天皇 <small>室町幕府の解体と王権の逆襲</small>』([[講談社学術文庫]]、[[2001年]]) ISBN 4-06-159471-0
 
* 永井博『「御三家」の家格形成過程--官位を中心に』(茨城県立歴史館報 :通号第29号)[[2002年]][[3月]] 茨城県立歴史館編 茨城県立歴史館
 
* [[三鬼清一郎]] 『織豊期における官位制論をめぐって 』(歴史科学:第171号)[[2002年]][[12月]] 大阪歴史科学協議会
 
* 堀越祐一『豊臣期における武家官位制と氏姓授与 (特集 日本中・近世移行期の権力と支配) 』(歴史評論:第640号)[[2003年]][[8月]] 歴史科学協議会編 [[校倉書房]]
 
*木下聡『中世武家官位の研究』吉川弘文館 [[2011年]][[11月]] ISBN 978-4-642-02904-9
 
*矢部健太郎『豊臣政権の支配秩序と朝廷』吉川弘文館2011年[[12月]] ISBN 978-4-642-02905-6
 
*村川浩平「天正・文禄・慶長期、武家叙任と豊臣姓下賜の事例」『駒沢史学』80号(2013年3月)
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[官位]]
 
* [[受領名]]
 
* [[百官名]]
 
* [[日本の官制]]
 
* [[極位極官]]
 
 
 
 
 
{{DEFAULTSORT:ふけかんい}}
 
[[Category:日本の位階]]
 
[[Category:日本の律令制]]
 
[[Category:戦国時代 (日本)]]
 
[[Category:江戸時代]]
 
[[Category:武士]]
 
[[Category:近世日本の称号]]
 

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