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(須藤、江尻監督時代)
 
 
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{{出典の明記|date=2013年1月}}
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{{Otheruses||本球団の二軍チーム|横浜DeNAベイスターズ (ファーム)|1941年から1943年まで存在したプロ野球球団の'''「大洋軍」'''|西鉄軍}}
 
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'''横浜DeNAベイスターズ'''(よこはまディー・エヌ・エー・ベイスターズ、{{Lang-en|Yokohama DeNA BayStars}})は、[[日本]]の[[日本プロ野球|プロ野球]]球団。[[セントラル・リーグ]]に所属する。略称は「DeNA」。
 
 
[[神奈川県]]を[[プロ野球地域保護権|保護地域]]とし、同県[[横浜市]][[中区 (横浜市)|中区]]にある[[横浜スタジアム]]を[[専用球場]](本拠地)としている。また、[[横浜DeNAベイスターズ (ファーム)|二軍]]<ref group="注">かつては、「'''湘南シーレックス'''」と言う二軍独自の球団名が使われたことがある。</ref>([[イースタン・リーグ]]所属)の本拠地は同県[[横須賀市]]にある[[横須賀スタジアム]]である。更にその他には球団全体の練習場と合宿所が[[横浜DeNAベイスターズ総合練習場]]として同市に設けられている。
 
 
== 戦略的パートナシップ ==
 
2018年7月18日、[[オーストラリアン・ベースボールリーグ]]の[[キャンベラ・キャバルリー]]と戦略的パートナシップを締結したことを発表した、オーストラリアン・ベースボールリーグとの業務提携は球団初の試み
 
<ref>{{cite web|url=https://baseballking.jp/ns/159386|title=DeNAが豪州の強豪・キャンベラと戦略的パートナシップを締結|publisher=BASEBALL KING|date=2018-07-18|accessdate=2018-07-26}}</ref>。
 
 
== 球団の歴史 ==
 
{{基礎情報 会社
 
|社名=株式会社横浜DeNAベイスターズ
 
|英文社名=YOKOHAMA DeNA BAYSTARS BASEBALL CLUB, INC.
 
|ロゴ=
 
|種類=[[株式会社 (日本)|株式会社]]
 
|市場情報=
 
|略称=
 
|国籍={{JPN}}
 
|本社郵便番号=231-0015
 
|本社所在地=[[神奈川県]][[横浜市]][[中区 (横浜市)|中区]]尾上町一丁目8番<br />関内新井ビル7階
 
|本店郵便番号=
 
|本店所在地=
 
|設立=[[1953年]][[12月16日]]<br />(株式会社大洋松竹球団)
 
|業種=9050
 
|統一金融機関コード=
 
|SWIFTコード=
 
|事業内容=プロ野球興行事業など
 
|代表者=[[南場智子]]([[取締役]][[オーナー]])<br />[[岡村信悟]]([[代表取締役]][[社長]])
 
|資本金=1億円(2015年12月31日現在)<ref name="kessan">『[[官報]]』号外第85号、2018年(平成30年)4月16日、51ページ「会社その他の公告」</ref>
 
|発行済株式総数=130万株(2011年12月31日現在)
 
|売上高=
 
|営業利益=
 
|純利益=単独:11億9300万円<br />(2017年12月期)<ref name="kessan" />
 
|純資産=単独:27億5800万円<br />(2017年12月31日現在)<ref name="kessan" />
 
|総資産=単独:132億2100万円<br />(2017年12月31日現在)<ref name="kessan" />
 
|従業員数=
 
|決算期=[[12月31日|12月末日]]
 
|主要株主=[[ディー・エヌ・エー]] 97.69%<ref>{{Cite web |date = 2015-10-20 |url = http://v3.eir-parts.net/EIRNavi/DocumentNavigator/ENavigatorBody.aspx?cat=tdnet&sid=1306413&code=2432&ln=ja&disp=simple |title = 当社連結子会社(株式会社横浜DeNAベイスターズ)による株式会社横浜スタジアムに対する公開買付けの開始に関するお知らせ |publisher = ディー・エヌ・エー |format = PDF |accessdate = 2015-11-20 }}</ref><br />(2015年11月現在)
 
|主要子会社=[[横浜スタジアム|株式会社横浜スタジアム]]
 
|関係する人物=
 
|外部リンク=http://www.baystars.co.jp/
 
|特記事項=[[1954年]][[12月11日]]に株式会社大洋松竹球団から株式会社大洋球団へ、[[1993年]][[4月]]に株式会社大洋球団から株式会社横浜ベイスターズへ、[[2011年]][[12月2日]]に株式会社横浜ベイスターズから株式会社横浜DeNAベイスターズへ商号変更。
 
}}
 
 
林兼商店(後の[[マルハ|大洋漁業]]、現・[[マルハニチロ]])の実業団チームとして[[1929年]]5月に設立<ref>『東京日日新聞』1930年7月28日付。</ref>され、翌1930年の[[第4回全日本都市対抗野球大会]]では、初挑戦ながら全国大会出場を果たした(初戦敗退)。翌年は中国大会でベスト4に入るなどの成績を残したが、[[世界恐慌]]の影響などで1932年の[[第6回全日本都市対抗野球大会]]前に休止状態となり、[[軟式野球]]部だけが[[太平洋戦争]]開始前後まで存在していた<ref name="sateke">{{Cite book |和書 |author = 佐竹敏之 |title = 大洋ホエールズ誕生前! 林兼商店野球部から大洋漁業野球部まで |year = 2009 |publisher = [[文芸社]] |pages = {{要ページ番号|date=2015年10月}} |isbn = 978-4-286-07213-5 |ref =harv }}</ref>。戦後、1946年6月に大洋漁業(1945年12月に改称)軟式野球部として復活、同年11月(一説には1947年3月)には硬式野球部へ変更された。その後の都市対抗野球では全国大会の常連となり、[[1948年]]には[[国民体育大会|国体]]で優勝し一躍名をあげる<ref name="sateke" />。
 
 
[[1949年]]プロ野球シーズンオフ、リーグ拡張方針で各企業がプロ野球参加に名乗りを上げ、大洋漁業野球部からは、[[戸倉勝城]]・[[河内卓司]]・[[徳網茂]]ら主力選手が新球団の[[千葉ロッテマリーンズ|毎日オリオンズ]]に引き抜かれた。野球部に情熱を注いでいた前社長[[中部兼市]]<ref group="注">中部兼市は1947年8月から1950年11月まで次男の謙吉副社長とともに[[公職追放]]され、長男の謙吉が社長を務めていたが、実質は兼市が経営を掌握しており、プロ球団化も彼の意向によるものであった。</ref>は憤慨し、自社野球部のプロ参加方針を打ち出す。
 
 
1949年[[11月22日]]に「株式会社まるは球団」を設立し、球団名を暫定的に'''まるは球団'''とした。[[セントラル・リーグ]]に加盟。[[山口県]][[下関市]]を[[プロ野球地域保護権|フランチャイズ]]、[[下関市営球場]]([[下関球場]]とは別)を本拠地球場とした。本来、大洋の[[社章]]と同じ「(は)=はを丸囲みしてマルハと読ませる」とすべきだが、新聞の活字にそれがないため、「まるは」と表記していたといわれている<ref>{{Cite book |和書 |author = 堤哲 |title = 国鉄スワローズ1950-1964 |year = 2010 |publisher = [[交通新聞社]] |series = [[交通新聞社新書]] |pages = {{要ページ番号|date=2015年10月}} |isbn = 9784330156101 }}</ref>。
 
 
社会人野球としての大洋漁業野球部は、まるは球団設立によって1949年11月30日をもって解散したが、社会人野球時代の選手には拘らないという中部兼市の方針でまるは球団に移籍出来なかった選手のために、大洋漁業が呼びかける形で「全下関」チームが結成され、[[1951年]]まで活動していた<ref name="sateke" />。
 
 
=== 下関時代(旧・大洋ホエールズ時代) ===
 
 
;[[1950年の大洋ホエールズ|1950年]]-[[1952年の大洋ホエールズ|1952年]]
 
 
1950年シーズン開幕後に「'''大洋ホエールズ'''(たいようホエールズ)」に球団名を改称(3月に会社名を株式会社大洋球団に変更)し、{{要出典範囲|9月には事務所を下関市から[[東京都]][[千代田区]]に移転。|date=2015年1月}}[[読売ジャイアンツ]]からベテランの[[中島治康]]と[[平山菊二]]、大陽ロビンスから[[藤井勇]]と[[林直明]]を譲り受け、[[宇高勲]]のスカウト活動により、[[北海道日本ハムファイターズ|東急フライヤーズ]]から[[大沢清]]や[[長持栄吉]]、[[片山博]]らを、[[オリックス・バファローズ|阪急ブレーブス]]からは[[宮崎剛 (野球)|宮崎剛]]や[[今西錬太郎]]らを補強してスタートしたものの、投手力の弱さはいかんともしがたく、リーグ参戦1年目は5位に終わり、[[1951年]]は6位、[[1952年]]は4位と伸び悩んだ。
 
 
1951年、不採算から経営悪化した[[広島カープ]]を吸収合併することも検討されたが、広島球団関係者や地元市民らの必死の存続運動もあって広島との合併の話は立ち消えになった。1952年、9月7日の対松竹ロビンス戦([[京都市西京極総合運動公園野球場]])は、当時のセ・リーグ最長イニング記録である延長20回を戦い抜いたが、チームはサヨナラ負けを喫した。
 
 
=== 大阪時代(ロビンス時代) ===
 
 
;[[1953年の大洋松竹ロビンス|1953年]]、[[1954年の洋松ロビンス|1954年]]
 
 
1953年[[1月10日]]、「シーズン勝率3割未満の球団に対して処罰をおこなう」という前年の取り決め<ref group="注">具体的に「解散」などの処罰内容を決めていたわけではなかったが、下位球団を整理する意図は背景に存在した。</ref>の該当球団となった[[松竹ロビンス]]<ref group="注">球団史では傍系扱いとなり、<br />大東京軍(社名:大日本野球連盟・東京協会、経営:[[國民新聞社]]・1936年 - 1937年)<br />→ライオン軍(経営:[[共同印刷]]→[[田村駒商店]]、スポンサー:[[ライオン (企業)|ライオン歯磨本舗]]・1937年-1940年)<br />→朝日軍(社名:朝日野球倶楽部・1941年 - 1945年)<br />→パシフィック(1946年)<br />→太陽ロビンス(スポンサー:[[帝国繊維|太陽レーヨン]]・1947年)<br />→大陽ロビンス(1948年 - 1949年)<br />→松竹ロビンス(スポンサー:[[松竹]]・1950年 - 1952年)<br />の球団史や結成年度・優勝回数・その他記録は一切カウントされない。このため、本球団は初代セ・リーグ優勝球団の後身でありながら「初代セ・リーグ優勝チーム」と名乗ることができなくなっている。</ref>と対等合併に合意、セ・リーグは6球団体制となる。「'''大洋松竹ロビンス'''(たいようしょうちくロビンス)」に改称し、翌1954年には通称名の洋松が入る「'''洋松ロビンス'''(ようしょうロビンス)」に改称した。
 
 
1953年シーズンは球団の合併・統合が決まりながらも運営会社の完全合併が間に合わず、フランチャイズも大洋球団の下関市と松竹球団の[[京都市]]で並立。球団運営も2社で1つの球団を運営すると言う変則的な形となり、選手の給与もそれぞれの前所属球団から支給された。主催試合は興行面の利点から[[大阪スタヂアム]]で行われた。1年目のシーズン終了後([[12月16日]])に球団運営会社が[[合併 (企業)|新設合併]]で正式統合され(当時の会社名は株式会社大洋松竹球団)、球団事務所も大阪スタヂアム内に置かれた。
 
 
大阪時代の球団成績は1953年は5位。翌1954年は32勝96敗2分で最下位となり、優勝した[[中日ドラゴンズ]]とは55ゲーム離され、5位の[[東京ヤクルトスワローズ|国鉄スワローズ]]に23ゲームの大差を付けられる大惨敗であった。
 
 
=== 川崎時代(新・大洋ホエールズ時代) ===
 
 
;1954年
 
 
[[12月11日]]限りで[[松竹]]は球団経営から撤退し、[[中部謙吉]]がオーナーとなる。球団名を「'''大洋ホエールズ'''」に戻し、[[プロ野球地域保護権|保護地域]]を[[神奈川県]]へ移転した。
 
 
;[[1955年の大洋ホエールズ|1955年]]
 
 
[[川崎市]]の[[川崎球場]]を本拠とする新生ホエールズとして再スタートしたが、成績は31勝99敗。首位・巨人と61.5ゲーム差も離され、5位・国鉄にも大差をつけられての最下位。
 
 
;[[1956年の大洋ホエールズ|1956年]]
 
 
[[明治大学]]から[[秋山登]]、[[土井淳]]、[[岩岡保宏]]、[[黒木弘重]]、[[沖山光利]]の5名が入団。同一校の選手が同一球団へ同時に5人も入団するのは極めて珍しく、彼らは「'''明大五人衆'''」と呼ばれて注目を集めた。エース・秋山登が毎年の酷使に耐え抜き、巨人から移籍した[[青田昇]]が三度の[[最多本塁打 (日本プロ野球)|本塁打王]]を獲得。
 
 
;[[1959年の大洋ホエールズ|1959年]]
 
 
ロビンス時代の1954年から6年連続最下位。
 
 
;[[1960年の大洋ホエールズ|1960年]]
 
 
前年まで[[埼玉西武ライオンズ|西鉄ライオンズ]]の監督だった[[三原脩]]を招聘。三原は新人の[[近藤昭仁]]と、シーズン中に[[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファロー]]から獲得した[[鈴木武]]で二遊間を固め、秋山や[[島田源太郎]]を中心とした投手力を前面に押し出して[[水原茂]]監督率いる巨人と優勝争いを演じ、前年最下位からのリーグ優勝を果たす。[[1960年の日本シリーズ|日本シリーズ]]でも[[千葉ロッテマリーンズ|毎日大映(大毎)オリオンズ]]相手に全て1点差勝利で4連勝。日本一に輝いた。
 
 
;[[1962年の大洋ホエールズ|1962年]]-[[1964年の大洋ホエールズ|1964年]]
 
 
1962年・1964年も阪神と激しく優勝を争うもあと一歩及ばず、1963年は、最下位・広島と1ゲーム差の5位。
 
 
;[[1965年の大洋ホエールズ|1965年]]-[[1972年の大洋ホエールズ|1972年]]
 
 
1965年以降チームの勝率は1969年から1971年の3年間を除いて本拠地移転まで5割を超えなかった。三原は1967年に監督を退任。
 
1965年から1973年にかけての巨人の[[V9 (読売ジャイアンツ)|9連覇]]中、大洋は強力打線で巨人の投手陣を粉砕するものの、貧弱な投手陣が同様に打ち込まれ、大味な打撃合戦に発展することが多かった。当時の巨人に打ち合いで勝てるチームの筆頭は大洋で、それも両翼89メートル、中堅118メートルという本拠地・川崎球場の狭さも少なからず関係していた。
 
 
;[[1973年の大洋ホエールズ|1973年]]
 
 
開幕から6月頃までは混戦のセ・リーグで広島とともに首位争いの主導権を握っていた。ところが7月頃から徐々に低迷、結果的に巨人のV9を許し、優勝争いに最後まで加われなかったヤクルトにも抜かれて前年と同じく5位に終わった。[[青田昇]]が成績不振の責任をとって監督辞任。
 
 
;[[1974年の大洋ホエールズ|1974年]]
 
 
チームは5位。松原誠が初めて打率3割をマーク、最多安打を獲得。
 
 
;[[1975年の大洋ホエールズ|1975年]]
 
 
5位に終わる。
 
 
;[[1976年の大洋ホエールズ|1976年]]
 
 
川崎から[[横浜市|横浜]]への移転計画を画策していた大洋球団は、横浜での新球場建設の資金を捻出するため[[飛鳥田一雄]]横浜市長の斡旋で[[コクド|国土計画]](現[[プリンスホテル]])の出資を受け入れる。これにより、大洋球団の[[株式]]保有率は、大洋漁業55%、国土計画45%となる。
 
 
;[[1977年の大洋ホエールズ|1977年]]
 
 
オーナーだった中部謙吉が1月に死去。親会社の大洋漁業は長男の[[中部藤次郎]]が、大洋球団オーナーは三男の[[中部新次郎]]がそれぞれ継承した。松原や[[米田慶三郎]]といった守備の名手に加え、[[クリート・ボイヤー]]、[[ジョン・シピン]]、[[フェリックス・ミヤーン]]ら好守備を誇る外国人選手の活躍もあり、1970年代の大洋内野陣は堅守を誇った。1980年代に入っても[[山下大輔]]、[[基満男]]、[[高木豊]]に受け継がれた。
 
 
=== 横浜時代 ===
 
==== 横浜大洋時代 ====
 
 
===== 別当監督時代 =====
 
 
;[[1978年の横浜大洋ホエールズ|1978年]]
 
 
国土計画の主導で横浜市[[中区 (横浜市)|中区]]{{Refnest|group="注"|『スポーツの今日を刻む〜スポーツジャーナリスト21人からのメッセージ〜』に横浜市への球場使用料は1試合2,000万円とある。また、同著に元・球団社長の[[大堀隆]]が語ったとして「98年にベイスターズがセ・リーグで優勝し、日本シリーズも制したとき、同時期に[[第53回国民体育大会|かながわ・ゆめ国体]]も開かれていたんです。どちらが地域=横浜市の活性化に力があったか。私はベイスターズだと思う。地下街に佐々木の大魔神神社できたくらいですから。国体には何年にもわたって何千何百億円ものお金が使われたはずです。それにくらべて、せめてベイスターズには横浜球場の使用料を安くしてもらいたいと希望するのですが、それができない。市に言わせると、もし安くしたら必ず市民から、たかが一私企業のための利益をはかり、結局は税金を使うことになるようなことは許せない、と抗議の電話が殺到するだろう、というのです」とある<ref>{{Cite book |和書 |editor = 杉山茂、岡崎満義、スポーツデザイン研究所 編 |title = スポーツの今日を刻む〜スポーツジャーナリスト21人からのメッセージ〜 |year = 2002 |publisher = 創文企画 |pages = {{要ページ番号|date=2015年10月}} |isbn = 4-921164-11-8 }}</ref>。}}に建設した[[横浜スタジアム]]に移転{{Refnest|group="注"|横浜スタジアム建設の際、一口250万円の市民株主800口によるオーナーズ・クラブに内野席シーズン・シートを45年間与えたため、2023年まで(株)横浜スタジアムが運営([[指定管理者]])する球場を専用球場とすることが規定されている。このオーナーズ・クラブは球団総務部内のオーナーズ・クラブ事務局が管理している<ref>{{Cite journal |和書 |author = 田中祥夫 |author2 = 鶴岡博 |author3 = 堀勇良 |author4 = 篠崎孝子 |title = 座談会 横浜公園とスタジアム〜開港から現在まで〜 |date = 2001-01-01 |journal = 有鄰 |issue = 398 |publisher = [[有隣堂]] |pages = 3 |url = http://www.yurindo.co.jp/static/yurin/back/398_3.html |accessdate = 2015-10-07 }}</ref>。}}<ref group="注">このほかに[[第3セクター]]である(株)横浜スタジアムとの間に契約を交わし、20年契約で入場料収入の29%、シーズン席の収入の30%と販売経費を球団から球場へ払い、球場内広告に対して5,000万円、物販協力金として350万円を球場から球団へ支払うというものだった。1978年(初年度)の横浜スタジアムは広告収入5億3,300万円、物販収入9億2000万円。1993年は、球場収入13億9200万円、広告収入13億9,300万円、物販収入15億6500万円で、経常利益は13億9600億円、資産は現金・預金・有価証券で64億3800万円であった。この契約は現在も延長されていると思われる。</ref>、都市名を入れた「'''横浜大洋ホエールズ'''(よこはまたいようホエールズ)」に改称。横浜の小学生が入り易いファンクラブの設置<ref group="注">横浜大洋友の会。球団営業部主導の横浜ベイスターズ全国ファンクラブ→B☆SPIRITとは別組織。友の会はのちに横浜ベイスターズ友の会→横浜DeNAベイスターズ友の会と名称を変更し、2013年にはB☆SPIRITと統合し「B☆SPIRIT友の会」となった。</ref>など営業体制の改革を伴った改変によりファンが増加した。この年、国土計画が[[福岡野球|福岡野球株式会社]]([[埼玉西武ライオンズ|クラウンライターライオンズ]])を買収したため、野球協約に抵触することとなり、同社が持つ大洋球団の株式は[[ニッポン放送]]と[[東京放送ホールディングス|TBS(東京放送)]]へ2:1の割合で売却された。これより先2002年初めまで、球団株式保有率は大洋漁業(のちにマルハ)55%、ニッポン放送30%、TBS15%となった。
 
 
序盤は巨人と、6月からはヤクルトも交えた三つ巴の首位争いを展開する。移転初年度の年は4位に終わるが、観客動員は143万7千人となり、球団史上初めて100万人を突破している{{Refnest|group="注"|セ・リーグ既存の6球団では最後の達成<ref>{{Cite book |和書 |author = [[宇佐美徹也]] |title = 日本プロ野球記録大鑑 |year = 1993 |publisher = [[講談社]] |page = 1087 |isbn = 4062061082 }}</ref>。}}。
 
 
;[[1979年の横浜大洋ホエールズ|1979年]]
 
 
2位に躍進。この年をもって別当は監督を退任。翌年、大洋球団の常務取締役・球団代表に就任した。
 
 
===== 土井監督時代 =====
 
 
;[[1980年の横浜大洋ホエールズ|1980年]]
 
 
[[土井淳]]が監督就任。初年度は4位。この年の[[1980年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|ドラフト会議]]では地元[[東海大学硬式野球部|東海大学]]の[[原辰徳]]を1位指名したが交渉権を獲得できなかった。
 
 
;[[1981年の横浜大洋ホエールズ|1981年]]
 
 
キャンプでは野球用具が盗難に遭ってしまう。
 
開幕との広島戦が雨で2試合とも流れたため、開幕はホームでの巨人戦となったが、その巨人に8連敗。5月下旬に最下位に低迷し、6月に[[山下大輔]]が月間MVPを受賞して成績を勝ち越し、復調するかに見えたが、7月以降は連敗を繰り返して最下位脱出に至らず、土井はシーズン中の9月24日をもって休養。優勝した巨人から31.5ゲーム差、5位・中日にも15.5ゲーム差も離された最下位に終わる。
 
 
===== 関根監督時代 =====
 
 
;[[1982年の横浜大洋ホエールズ|1982年]]
 
 
[[長嶋茂雄]]を監督に招聘する布石として長嶋と親交のある[[関根潤三]]を監督に迎えたが、長嶋の招聘には失敗した。また、ジュニアと呼ばれた[[関根浩史]]入団について[[日産自動車硬式野球部|日産野球部]]との交渉が破談した。この年は5位に終わる。
 
 
;[[1983年の横浜大洋ホエールズ|1983年]]
 
 
4月は最下位で折り返すが、その後、次第に浮上していき、3位と4年ぶりのAクラスになる。
 
 
;[[1984年の横浜大洋ホエールズ|1984年]]
 
 
最下位に転落。この年限りで[[平松政次]]が引退。同年限りで関根は辞任。
 
 
===== 近藤貞雄監督時代 =====
 
 
;[[1985年の横浜大洋ホエールズ|1985年]]
 
 
[[近藤貞雄]]が監督に就任。[[高木豊]]、[[加藤博一]]、[[屋鋪要]]の[[スーパーカートリオ]]を売り出し注目された。しかし、遠藤、[[斉藤明雄|斉藤明夫]]頼みの投手陣は改善されず、チーム成績は振るわず4位。
 
 
;[[1986年の横浜大洋ホエールズ|1986年]]
 
 
4位に終わり、近藤は2年で監督を退任。
 
 
===== 古葉監督時代 =====
 
 
;[[1987年の横浜大洋ホエールズ|1987年]]-[[1989年の横浜大洋ホエールズ|1989年]]
 
 
広島を4度の優勝に導いた[[古葉竹識]]を監督に迎えるが、5位、4位、最下位と3年間で1度もAクラス入り出来ないなど成績は振るわず、1989年にシーズン最下位の責任をとり監督を辞任した。古葉は5年契約ながら3年目で辞めたことについて、成績不振と開幕から低迷したことで、スポーツ紙等で進退問題に関する記事が出て、球団からの辞任勧告につながったのだろうと述べている<ref>[[スポーツニッポン]]、古葉竹識の我が道、2016年11月28日</ref>。しかしこの間、{{by|1998年}}の優勝時の主力選手を多数獲得するなど、スカウティングの面では成功したといえる。古葉の後任監督にはOBでは元監督の土井淳、[[山下大輔]]、外部招聘では[[高田繁]]の名が挙がっていたが大洋で2年間二軍監督の経験のある[[須藤豊]]が監督に就任し、投手コーチには[[小谷正勝]]が3年ぶりに復活した<ref>日刊スポーツ 1989年10月24日7版</ref>。
 
 
===== 須藤、江尻監督時代 =====
 
 
;[[1990年の横浜大洋ホエールズ|1990年]]
 
 
序盤は巨人との熾烈な首位争いを見せた。その後、失速し、最後は広島にも抜かれて3位に終わるも、7年ぶりのAクラスを果たす。
 
 
;[[1991年の横浜大洋ホエールズ|1991年]]
 
 
4月は首位に立つもその後失速し、5位転落。
 
 
;[[1992年の横浜大洋ホエールズ|1992年]]
 
 
開幕からチームは低迷し5月に須藤監督が休養・辞任し、チーフコーチの[[江尻亮]]が監督代行。のちに監督昇格し、閉幕まで采配を振る。[[盛田幸妃]]と[[佐々木主浩]]のダブルストッパーが確立されチームも復調し混戦だったリーグ戦で検討を見せたが5位に終わり江尻の来シーズンの契約更新はなかった。
 
 
[[1993年の横浜ベイスターズ|1993年]]の[[4月1日]]、親会社の大洋漁業が[[コーポレートアイデンティティ]]実施によりマルハに改称することに伴い、ホエールズも地域に密着した市民球団を目指し、球団名を「'''横浜ベイスターズ'''(よこはまベイスターズ)」に改称した。翌年4月に会社名も従来の株式会社大洋球団から株式会社横浜ベイスターズに変更。球団名から企業名「大洋」を外し、都市名の「横浜」のみを冠するという方針は[[コーポレートアイデンティティ|CI]]導入決定時に決まっていたが、改称後の球団名は社内外では当初、愛称をそのまま使った「横浜ホエールズ」になるという憶測があった。しかし、中部慶次郎オーナーは、かつて大洋漁業の主力事業だった[[捕鯨|商業捕鯨]]の規制が強まっていることを指摘し「ウチの会社はもうこれ以上、クジラばかりに頼るわけにはいかなくなった。だから愛称も変更しなければならない」と、社内に新愛称を検討するよう指示。その結果、愛称は「[[横浜ベイブリッジ]]」から取った「ベイスターズ」となった。また、ベイスターズの選手がマルハのCMには一切出演しないことが確約された{{要出典|date=2017年12月}}<ref group="注">翌年訪米した[[宮澤喜一]][[首相]]が、捕鯨の規制強化を求める[[ビル・クリントン]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]に対して「かつての日本の商業捕鯨の中心だった大洋漁業も'''ホエールズ'''という球団名を捨てました」と、この大洋の球団名変更を話の種にしていたエピソードがある{{要出典|date=2015年10月}}。</ref>。
 
 
==== 横浜ベイスターズ時代 ====
 
 
===== 近藤昭仁監督時代 =====
 
 
;1993年
 
 
チーム生え抜きの[[近藤昭仁]]が監督に就任。球団名変更に伴い、ユニホーム・[[球団旗]]・[[ペットマーク]]・マスコットキャラクターを一新。ベイスターズ初年度は5位に終わる。この年限りで斉藤明夫が引退。この年のオフから始まった[[フリーエージェント (日本プロ野球)|フリーエージェント]]制度により、シーズン終了後に巨人の[[駒田徳広]]を獲得。長年チームを支えた[[高木豊]]や[[屋鋪要]]、[[山崎賢一]]、[[市川和正]]ら主力選手が大量解雇された。
 
 
;[[1994年の横浜ベイスターズ|1994年]]
 
 
獲得した駒田の他、[[佐伯貴弘]]や[[波留敏夫]]などを起用してチームの若返りを図るが、混戦のシーズンの中、結果的に最下位に終わる。
 
 
;[[1995年の横浜ベイスターズ|1995年]]
 
 
結果的に4位に終わるも12年ぶりのシーズン勝率5割台を果たす。のちに首位打者となる[[鈴木尚典]]が3番レフトに定着するなど若手が台頭した。{{要出典範囲|しかし、フロントからの近藤に対する監督としての評価はあまり芳しくなく、|date=2017年10月}}この年限りで任期満了により退任となった。
 
 
===== 第1次大矢監督時代 =====
 
 
;[[1996年の横浜ベイスターズ|1996年]]
 
 
バッテリーコーチの[[大矢明彦]]が監督に就任。4月を首位で折り返し、「セ・リーグの台風の目」と評されながらも5月以降失速し、5位に終わる。
 
 
;[[1997年の横浜ベイスターズ|1997年]]
 
 
[[権藤博]]をバッテリーチーフコーチに迎える。シーズン序盤は下位に低迷していたが、選手の実績より好調を優先した起用をし始めるとチームは浮上しシーズン後半に首位のヤクルトを脅かす急追を見せたもののあと一歩及ばず、2位で終わったが7年ぶりのAクラス入りを果たし貯金持ちでのAクラスは1979年以来であった。大矢は2年契約を終えてオフに監督を辞任。
 
 
===== 権藤監督時代 =====
 
 
;[[1998年の横浜ベイスターズ|1998年]]
 
 
権藤が監督に昇格。抑えの[[佐々木主浩]]を不動の中心とする投手陣と一度打ち始めると止まらない「[[マシンガン打線]]」がかみ合い、[[10月8日]]に38年ぶりのリーグ優勝<ref group="注">37年間リーグ優勝ができなかったのは日本球界最長記録である。</ref>を果たした。[[1998年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]と対戦した。下馬評は西武有利と予想されたが<ref>[[ベースボールマガジン]]2009年3月号、91頁</ref>、4勝2敗で日本一となる。ベストナインに6選手、ゴールデングラブ賞に5人が選出される。また前年怪我の為一軍登板が無かった[[斎藤隆]]が復活を果たし[[カムバック賞 (日本プロ野球)|カムバック賞]] を獲得。シーズンオフにはドラフトで、この年の目玉選手・地元[[横浜中学校・高等学校|横浜高校]]の[[松坂大輔]]を1位指名したが獲得できなかった。
 
 
;[[1999年の横浜ベイスターズ|1999年]]
 
 
[[ロバート・ローズ|ローズ]]が153打点を記録し二冠王に輝く活躍を見せるなどこの年もマシンガン打線が絶好調で、チームはシーズン通算打率.294と当時のチーム打率の日本記録<ref group="注">2003年に[[福岡ソフトバンクホークス|ダイエー]]の.297に抜かれ、現在はセ・リーグ記録。</ref>を更新する。しかし投手陣は[[川村丈夫]]が17勝<ref group="注">川村を最後に、15勝以上挙げた投手が途絶えている(2013年シーズン終了時点)。</ref>を挙げる活躍するものの、[[三浦大輔]]の不調や[[野村弘樹]]、佐々木主浩の故障などで頭数がそろわず、3位に終わる。オフには、佐々木が大リーグ・[[シアトル・マリナーズ]]に移籍。
 
 
;[[2000年の横浜ベイスターズ|2000年]]
 
 
ロッテから[[小宮山悟]]が入団。[[金城龍彦]]が新人王と首位打者の二冠に輝くものの、投打共に不調や故障者等で優勝争いには届かず2年連続の3位。オフに権藤が監督を勇退。主力打者のローズ、駒田も退団。この年よりファーム組織を'''湘南シーレックス'''と改称し、独立採算を目指した活動を開始する。
 
 
===== 森監督時代 =====
 
 
;[[2001年の横浜ベイスターズ|2001年]]
 
 
西武を8度リーグ優勝に導いた[[森祇晶]]が監督に就任。この年のみ順位決定方式が異なり、5年連続のAクラス(3位)となった(この年の順位に関しては[[#2001年と2005年の順位|後述]])。シーズンオフには、正捕手の[[谷繁元信]]が、森監督との確執もあり、<ref>{{Cite news|title=“中日・谷繁vs西武・伊原”新監督同士をめぐる意外な「因縁」とは…|newspaper=[[夕刊フジ|ZAKZAK]]|date=2014-02-23|author=江尻良文|url=http://www.zakzak.co.jp/sports/baseball/news/20140223/bbl1402230759004-n1.htm|accessdate=2015-10-07|publisher=[[産業経済新聞社]]}}</ref>[[フリーエージェント (日本プロ野球)|FA]]権を行使して中日に移籍した。また、チーム最多勝投手の小宮山もメジャーリーグに挑戦するために退団した。
 
 
;[[2002年の横浜ベイスターズ|2002年]]
 
 
[[1月26日]]に親会社(筆頭株主)がマルハから[[ニッポン放送]]に変更される予定だった。しかし、そのニッポン放送の当時の関連会社だった[[フジテレビジョン]](現・[[フジ・メディア・ホールディングス]])が[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト球団]]株を20%強保有していたため、一転してTBS([[東京放送ホールディングス|東京放送]]<ref group="注">TBSの略称は、2009年4月の東京放送ホールディングスへの社名変更に伴い、子会社の[[TBSテレビ]]に引き継がれた。</ref>)への移行がプロ野球オーナー会議で承認された。球団オーナーは当時のTBS社長[[砂原幸雄]]となった(詳細は[[#マルハからTBSへの筆頭株主交代|マルハからTBSへの筆頭株主交代の節]]を参照)<ref group="注">TBSがスポーツ団体の経営をするのは[[国際プロレス]]以来である。</ref>。これに際し、1978年以降ニッポン放送が独占中継権を押さえていたために喪失していた、[[TBSラジオ]]の中継権が復活。横浜スタジアムからの[[TBSラジオ エキサイトベースボール|ナイター中継]]の他、巨人戦以外の週末のデーゲームを「THEベースボール・ベイスターズ」と題して放送を開始した。この年を境に、フジテレビ系での横浜スタジアムの野球中継は年々減少していった。
 
 
チームは開幕から記録的な低迷を続け<ref group="注">この年は全日程最下位でシーズンを終えた。セ・リーグ全日程最下位は65年サンケイ、1980年中日、1985年ヤクルト、1991年阪神に次いで5度目。横浜は12球団で唯一サヨナラ勝ちがなく、サヨナラ試合は0勝6敗。セ・リーグでサヨナラ勝ちなしは1978年広島以来24年ぶり。また球団ワーストタイ目前となる13連敗も喫している。</ref>、9月25日に森がシーズン終了を待たずして休養を余儀なくされる。このシーズンでの最終勝率は.363だった。投手コーチには[[森繁和]]、内野守備走塁コーチには[[辻発彦]]と森の西武時代の教え子が就任したが、チーム防御率は3.75から4.09で、チーム防御率はセリーグ中で5位だった。チーム失策も68から81に悪化した。チーム打率、得点、安打、本塁打はリーグ最下位に終わり、投手・打撃・守備すべてにおいて低迷した。3年契約の2年目だったが、この年限りで事実上の解任となる。 2つあった[[応援団]]が統合し、[[横浜DeNAベイスターズの応援団#全国星覇会|全国星覇会]]が発足。
 
 
===== 山下監督時代 =====
 
 
;[[2003年の横浜ベイスターズ|2003年]]
 
 
チーム生え抜きの[[山下大輔]]が監督に就任。現役メジャーリーガーの[[スティーブ・コックス]]を移籍金100万ドル、年俸275万ドルの3年契約で、ダイエーから[[若田部健一]]をFAで獲得するなど大型補強を試みるが、コックスらは怪我などで戦力にならず、若手重視、攻撃重視の采配もことごとく空回りする。新外国人の[[タイロン・ウッズ]]や新人の[[村田修一]]、若手の[[多村仁志|多村仁]]ら野手陣の活躍はあったものの、勝率も前年を下回る.324を記録。5位・広島からも22.5ゲーム以上離され(2003年シーズン優勝・阪神と5位・広島のゲーム差は20)、優勝した阪神には開幕戦で白星後は16連敗を喫するなど大きく苦しみ6勝22敗と大きく負け越した。45勝94敗1分という惨憺たる成績で、シーズン90敗到達は日本プロ野球では[[1970年]]のヤクルト以来実に33年ぶりだった。
 
 
;[[2004年の横浜ベイスターズ|2004年]]
 
 
佐々木主浩が年俸6億5000万円の2年契約を結び5年ぶりにマリナーズからチームに復帰。打撃陣が好調で4月終了時点で首位に立つが、その後投手陣の不振により徐々に失速し、シーズン終了目前まで広島との5位争いを続けるが、最終戦に敗れて広島と勝率0.00092(9毛2糸)差という超僅差で45年ぶりの3年連続最下位が確定した。一方で前年大きく負け越した阪神には15勝13敗で勝ち越し、3位の巨人には9月下旬の横浜スタジアムの3連戦で3連勝して14勝14敗のタイとなるなど一定の成績は残した。山下はこの年、監督を退任した。シーズンオフに[[一場靖弘]]への金銭授受の問題の責任をとってオーナーの砂原幸雄が辞任し、TBS副社長の[[若林貴世志]]が新オーナーに就任。
 
 
===== 牛島監督時代 =====
 
 
;[[2005年の横浜ベイスターズ|2005年]]
 
  
[[牛島和彦]]が監督に就任。主砲のウッズが中日に移籍するも不調だった三浦をはじめ投手陣が復活し、4年ぶりのAクラスとなる3位に浮上した。また、巨人には[[東京ドーム]]で同一カード3連勝を記録するなど一度も負け越しがなく16勝6敗と大きく勝ち越した。エグゼクティブ・アドバイザーとして牛島の友人である[[石橋貴明]]([[とんねるず]])を抜擢、監督・選手とファンとのパイプ役を担わせるなど新しいファンサービスを試みた。
+
'''横浜DeNAベイスターズ'''(よこはまディー・エヌ・エー・ベイスターズ、{{Lang-en|Yokohama DeNA BayStars}})
  
;[[2006年の横浜ベイスターズ|2006年]]
+
[[日本]]の[[日本プロ野球|プロ野球]]球団。[[セントラル・リーグ]]に所属する。略称は「DeNA」。
  
投手陣や主力野手陣の相次ぐ不調・故障などで4、5月に低迷。6月以降は村田の4番打者定着や[[吉村裕基]]ら若手野手の台頭があったものの、最下位に終わる。球団側は続投を希望したものの、牛島は最下位の責任を取り、シーズン途中の[[9月3日]]にこの年限りの監督退任を発表。[[4月3日]]、スポーツ活動を通じて地域貢献を目指す[[特定非営利活動法人|NPO法人]][[ベイスターズ・ベースボールアカデミー|横浜ベイスターズ・スポーツコミュニティ]]を、理事長を球団[[OB・OG|OB]]の[[平松政次]]として設立した。[[7月1日]]、子会社の株式会社ベイスターズソフトを[[合併 (企業)|吸収合併]]する。 [[12月1日]]、資本金を6億5000万円から1億円へ減資する。「チーム運営統括」という[[ゼネラルマネージャー]]的ポジションの幹部として[[日産自動車硬式野球部]]で監督を務めた[[村上忠則]]が就任。この年チーム唯一の2桁勝利の[[門倉健]]が年俸査定に不満を持ち、FA宣言をして巨人に移籍した。
+
[[神奈川県]][[プロ野球地域保護権|保護地域]]とし、同県[[横浜市]][[中区 (横浜市)|中区]]にある[[横浜スタジアム]]を[[専用球場]](本拠地)としている。
 
 
===== 第2次大矢監督時代 =====
 
 
 
;[[2007年の横浜ベイスターズ|2007年]]
 
 
 
大矢明彦が10年ぶりに監督に復帰。[[福岡ソフトバンクホークス|ソフトバンク]]の若手投手・[[寺原隼人]]を主砲・多村仁との大型トレードで獲得し、また巨人の正二塁手だった[[仁志敏久]]を1選手プラス金銭のトレードで獲得した。また、FA移籍した門倉の人的保障として[[工藤公康]]が入団。移籍組やベテラン勢の活躍で、前半戦は一時首位に立つなど上位を猛追し3位で折り返す。最終戦に敗れシーズン勝ち越しを逃して4位に終わるが、1999年以来8年振りに70勝に到達し、村田修一が球団日本人選手としては[[桑田武]]以来31年ぶりの本塁打王と球団初の2年連続100打点を達成し、三浦大輔も35イニング連続無失点、寺原隼人も2試合連続完封を記録するなど主力選手の活躍が目立ち、翌年へ希望を持たせた。[[1月15日]]、[[産業能率大学]]と業務提携することになり、調印する。ファームの湘南シーレックスの取り組みを、スポーツビジネスの授業に取り入れていくことが決まった。
 
 
 
;[[2008年の横浜ベイスターズ|2008年]]
 
 
 
開幕投手最有力で阪神キラーの三浦が出遅れ、開幕カードの阪神戦を3連敗するとその後も低迷を続ける。この年に飛躍し首位打者と最多安打を獲得した[[内川聖一]]、本塁打王を獲得した村田、30本塁打を記録した吉村といったリーグ屈指の強力なクリーンアップを擁したが、12球団ワーストの706失点や168被本塁打、チーム防御率4.74を記録する等投手陣の崩壊により2年ぶりの最下位に沈み、2003年以来5年ぶりの90敗を記録した。選手の打率(内川の.378)がチーム勝率(.338)を上回るという2リーグ分裂後では初となる珍記録も記録された。シーズンオフにはヘッド兼打撃コーチの[[弘田澄男]]、投手コーチの[[斉藤明雄]]など4コーチが解任され、[[石井琢朗]]、鈴木尚典ら、チームを長年支えてきたベテランが退団した。また、正捕手の[[相川亮二]]がFA権を行使してヤクルトに移籍。
 
 
 
;[[2009年の横浜ベイスターズ|2009年]]
 
 
 
[[ワールド・ベースボール・クラシック|WBC]]での村田の故障などによって、開幕6連敗を喫するなど序盤から低迷。[[5月18日]]に大矢監督の無期限休養(事実上の解任)が発表された。二軍監督の[[田代富雄]]が翌日から監督代行を務めたが、チームを浮上させることができず93敗喫し、2年連続の最下位に終わる。前年同様一度も貯金はなく、田代は一軍の監督代行の職が解かれ、シーズン終了後に二軍監督に再任された。投手コーチの[[杉本正 (野球)|杉本正]]は一年で解任された。チーム防御率・失点<ref>[http://npb.jp/bis/2009/stats/tmp_c.html 2009年度セントラル・リーグ チーム投手成績]</ref>、打率・得点<ref>[http://npb.jp/bis/2009/stats/tmb_c.html 2009年度セントラル・リーグ チーム打撃成績]</ref>はリーグ最下位に終わった。[[11月11日]]、後任監督としてこの年まで巨人の投手コーチを務めていた[[尾花高夫]]を迎え入れ、[[横浜港]]を周遊する「[[マリーンルージュ]]」で就任記者会見を行った。
 
 
 
===== 尾花監督時代 =====
 
 
 
;[[2010年の横浜ベイスターズ|2010年]]
 
 
 
ロッテのエース[[清水直行]]を複数人とのトレードで獲得し、同じくFA宣言をしたロッテの[[橋本将]]、日本ハムを自由契約となった[[ターメル・スレッジ]]を獲得するなど大規模な補強を行った。当初の構想では、前年途中から抑えを務めた[[山口俊]]を先発に転向させ、新外国人投手の[[クリス・ブーチェック]]を抑えに起用する予定だったが、ブーチェックは[[オープン戦]]で成績を残せなかったことから、開幕直前に山口が抑えに再び戻った。また、[[三浦大輔]]が開幕前のオープン戦で大乱調だったことから急遽二軍落ちとなった。3月31日の巨人戦の勝利で順位を3位タイとし、同時に広島が単独最下位となったが、この横浜の「最下位からの脱出」は2008年4月5日以来284試合目(725日ぶり)であり、これまでの記録(楽天、2005年4月9日 - 2007年3月24日、262試合)を大幅に更新してのストップとなった。しかし、開幕当初の構想から外れた戦いを強いられたため、交流戦以降は低迷し、最下位に転落。一度も浮上することもなく[[9月7日]]の対巨人戦の敗戦で5年連続のBクラスが確定し、[[9月25日]]の対中日戦の敗戦で3年連続の最下位が確定。[[9月28日]]の対ヤクルト戦で敗れてプロ野球史上初の3年連続90敗、[[10月6日]]の対阪神戦の敗戦で130試合制だった[[1955年]]以来55年ぶりのシーズン95敗を喫した。前述の構想から外れた戦いを強いられたことや、エース三浦がシーズンでも成績を残すことができなかったことが要因である。ヘッドコーチの[[島田誠]]が不振の責任を取り1年で辞任。オフに内川聖一がFAでソフトバンクに移籍した。8月、2010年シーズン終了をもって、二軍の「湘南シーレックス」の名称を一軍と同じ「横浜ベイスターズ」に戻すことがプロ野球実行委員会で承認された。
 
 
 
[[9月30日]]、[[東京放送ホールディングス|TBSHD]]が保有している横浜ベイスターズの株式を住生活グループ(現・[[LIXILグループ]])との間で売却交渉を進めている旨がメディアで報じられ<ref>[http://www.asahi.com/business/update/0930/TKY201009300525.html 横浜ベイスターズ売却を打診 TBS、住生活G軸に]{{リンク切れ|date=2015年10月}}朝日新聞2010年10月1日</ref>、10月5日になって住生活グループ幹部がTBSHDとの交渉の事実を認めた。球団も10月4日に若林オーナー(東京放送副社長)が交渉に関し“大筋で合意しており10月中に正式決定”とコメントしていた<ref>[http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1010050010/ ベイ売却、来週にも「横浜残留」で住生活グループと合意へ] [[神奈川新聞]]2010年10月5日{{リンク切れ|date=2017年10月}}</ref>が、実際の交渉は難航。結局10月下旬、TBSHDは住生活グループとの交渉を打ち切り<ref group="注">TBSの会見にて財津敬三社長は、[http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1010280012/ 交渉打ち切りについて「私どもが決断した。あちらも言いたいことがあるだろうけど」と説明]{{リンク切れ|date=2015年10月}} カナロコ(神奈川新聞) 2010年10月28日閲覧。</ref>、同月27日TBSHDが2011年度も球団を保有することを発表するに至った<ref>{{Cite news |url=http://www.yomiuri.co.jp/sports/npb/news/20101027-OYT1T00728.htm |title=TBS、横浜ベイスターズを来季も保有 |work=YOMIURI ONLINE |newspaper=[[読売新聞]] |date=2010-10-27 |accessdate=2010-10-27 }}{{リンク切れ|date=2015年10月}}</ref>。交渉決裂の理由としてはTBSHDおよび住生活グループそれぞれが「条件面での不一致」としている<ref>[http://mainichi.jp/select/today/news/20101028k0000m050007000c.html 横浜ベイスターズ:TBS、住生活ともに交渉の破談認める]{{リンク切れ|date=2015年10月}} 毎日.jp 2010年10月27日</ref>ものの、同月28日加地隆雄球団社長は、秋季練習中の選手らへの事情説明に際して「一番大きな問題はフランチャイズ。横浜から出て、[[新潟県立野球場|新潟]]、[[静岡県草薙総合運動場硬式野球場|草薙]]([[静岡市|静岡]])、[[京都市西京極総合運動公園野球場|京都]]と違うところでやりたいと(住生活側は)主張し続けていた」と明らかにした<ref>{{Cite news |title = 横浜売却、本拠地移転が決裂要因 球団社長が公表 |newspaper = 47NEWS |agency = [[共同通信社]] |date = 2010-10-28 |url = http://www.47news.jp/CN/201010/CN2010102801000339.html |accessdate = 2015-10-07 }}</ref>。また同日潮田洋一郎住生活グループ会長も「それを含めていろいろあった。(球団運営など)すべてをゼロからやりたかったが、ゼロからできなかった」と理由を述べた<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/enterprises/manda/20101028-OYT8T00784.htm 住生活G会長「ゼロから出発したかった」]{{リンク切れ|date=2015年10月}} 読売新聞 2010年10月28日</ref>。
 
 
 
;[[2011年の横浜ベイスターズ|2011年]]
 
 
 
FAで日本ハムの[[森本稀哲]]を獲得。[[3月11日]]の[[東日本大震災]]発生時は横浜は横浜スタジアムで対ヤクルトオープン戦の試合中だったが、球場全体が揺れて試合は打ち切り、選手や観客がグラウンドに避難している<ref>{{Cite news |title = 東北・関東大地震 楽天、横浜は試合打ち切り |newspaper = [[スポーツニッポン]] |date = 2011-03-11 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/03/11/kiji/K20110311000407320.html |accessdate = 2012-10-15 }}</ref>。当初[[3月25日]]の公式戦開幕予定が、この震災の影響により[[4月12日]]に延期された。4年ぶりに本拠地での開幕となり、中日と対戦し3連戦を勝ち越し、2000年以来11年ぶりに開幕カードを勝ち越したが、5月以降低迷状態に陥り、交流戦ではロードで1勝(9敗2分)しかできず、7勝13敗の11位に終わり<ref>{{Cite web |url = http://bis.npb.or.jp/2011/stats/std_inter.html |title = 2011年度交流戦チーム勝敗表 |publisher = [[日本野球機構]] |accessdate = 2015-10-07 }}</ref>、7月は一度も連勝できないまま<ref>{{Cite news |title = 横浜わずか2安打で零敗…7月は連勝なし |newspaper = スポーツニッポン |date = 2011-07-31 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/07/31/kiji/K20110731001324570.html |accessdate = 2012-10-15 }}</ref>、オールスターまでの前半戦を25勝44敗6分、借金19で折り返す<ref>{{Cite news |title = 借金19と低迷も…首脳会談で「後半戦も現体制」確認 |newspaper = スポーツニッポン |date = 2011-07-21 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/07/21/kiji/K20110721001252730.html |accessdate = 2012-10-15 }}</ref>。後半戦も浮上することなく、9月27日の対巨人戦(横浜)に敗れたことでBクラスが確定し<ref>{{Cite news |title = 横浜6年連続Bクラス確定も尾花監督 |newspaper = スポーツニッポン |date = 2011-09-27 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/09/27/kiji/K20110927001711420.html |accessdate = 2012-10-15 }}</ref>、10月9日の対阪神戦(横浜)に敗れたことで4年連続の最下位が決定している<ref>{{Cite news |title = 4年連続最下位…尾花監督「全部言い訳になる。言いません」 |newspaper = スポーツニッポン |date = 2011-10-09 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/10/09/kiji/K20111009001789240.html |accessdate = 2012-10-15 }}</ref>。最終的に47勝86敗11分で首位から27.5、5位広島と11.5ゲーム差がついた<ref>{{Cite web |url = http://bis.npb.or.jp/2011/standings/ |title = 【2011年度 公式戦】勝敗表 |publisher = 日本野球機構 |accessdate = 2015-10-07 }}</ref>。チーム防御率は6年ぶりに3点台だったが2年連続で最下位、勝率も1957年から1961年の近鉄以来50年ぶりの4年連続で3割台と低迷した<ref>{{Cite news |title = 横浜最悪の幕切れ…尾花監督「責任は感じている」|newspaper = スポーツニッポン |date = 2011-10-22 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/10/22/kiji/K20111022001874730.html |accessdate = 2012-10-15 }}</ref>。オフに村田修一がFAで巨人に移籍。
 
 
 
10月19日、TBSHDが保有している横浜ベイスターズ株の大半を[[ディー・エヌ・エー]](DeNA)へ譲渡することで大筋において合意<ref>{{Cite web|date=2011-10-19|url=http://www.47news.jp/CN/201110/CN2011101901000009.html |title=DeNAが横浜球団買収へ TBSと大筋で合意|publisher=共同通信|accessdate=2011-10-24}}</ref>。10月22日、最終戦終了後に監督の尾花と一軍コーチ陣の休養が発表された<ref>{{Cite web|date=2011-10-22|url=http://www.47news.jp/CN/201110/CN2011102201000860.html |title=横浜、尾花監督が休養 球団売却で人事不透明に|publisher=共同通信|accessdate=2011-10-24}}</ref>。11月4日、TBSHDが所有する株式の一部(TBSHDの保有する640,000株(議決権割合 49.23%)、[[BS-TBS]]の保有する230,000株(議決権割合 17.69%))を12月2日付で、日本プロフェッショナル野球機構の実行委員会およびオーナー会議の承認を得ることを条件として、DeNAへ譲渡することで、両社の間で正式合意(取得価格1株あたり7,471円、総額65億円)<ref>{{Cite web|date=2011-11-04|accessdate=2011-11-04|url=http://v3.eir-parts.net/EIR/View.aspx?cat=tdnet&sid=929062 |title=(株)横浜ベイスターズ(連結子会社)株式の譲渡に関するお知らせ |format=PDF}}</ref>。また、球団名は「横浜DeNAベイスターズ」として申請される。11月22日、監督の尾花をはじめ6人のコーチの解任が発表された<ref>{{Cite web |date = 2011-11-22 |url = http://www.baystars.co.jp/news/2011/11/1122_02.php |title = 尾花髙夫監督解任記者会見について |publisher = 横浜DeNAベイスターズ |accessdate = 2015-10-07 }}</ref>。12月1日、日本プロ野球オーナー会議並びに実行委員会にてDeNAによる横浜ベイスターズ買収とオーナー会社変更が承認された<ref>{{Cite web|date=2011-12-01|url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/12/01/kiji/K20111201002147110.html |title=横浜DeNA誕生 組閣、補強、村田のFA流出阻止が急務|publisher=スポーツニッポン|accessdate=2011-12-01}}</ref>。翌2日球団株式が譲渡され、商号変更により「'''横浜DeNAベイスターズ'''」として新たにスタートを切った。球団GMには巨人OBの[[高田繁]]が就任したが、一方で監督人事は難航した。当初は[[新庄剛志]]や[[工藤公康]]らの名が候補に挙がったが、最終的に横浜OBでもある工藤公康が候補とされた。だが、投手コーチ編成を巡って工藤と球団が対立し、[[12月5日]]に高田GMが破談になったことを会見で述べている。翌6日には当初からの候補であった[[中畑清]]の名前が挙がり、[[12月9日]]に監督就任会見が行われ、合わせて新球団ロゴマークも発表されている<ref>{{Cite journal |和書 |journal = 週刊ベースボール |date = 2011-12-16 |pages  = 26 - 27 }}</ref>。
 
 
 
TBS傘下時代は11年間で8回最下位という戦績を残して幕をおろした。これは、プロ野球市場で一定期間以上参入した親会社としては他に類例のない惨憺たるものである。
 
 
 
==== 横浜DeNA時代 ====
 
===== 中畑清監督時代 =====
 
[[File:Yokohama Stadium fans 20150315.JPG|right|thumb|本拠地の横浜スタジアムでの応援の様子]]
 
[[ファイル:Yokohama-stadium-2014-08-19.jpeg|thumb|改修された横浜スタジアム]]
 
 
 
;[[2012年の横浜DeNAベイスターズ|2012年]]
 
 
 
親会社変更に伴いユニホーム・球団旗・ペットマーク・マスコットキャラクターを一新。[[1月29日]]、クイーンズスクエア横浜「クイーンズサークル」において「新ユニホーム発表セレモニー」を行う。[[3月18日]]には、これまでの球団マスコット、ホッシー・ホッシーナ・ホッシーゾの卒業と新マスコット・DBスターマンの就任を発表。
 
 
 
[[3月30日]]の開幕戦でDeNAとしての初陣となった対阪神戦(京セラドーム)は5対5で引き分けとし<ref>{{Cite web |date = 2012-03-30 |url = http://www.baystars.co.jp/game/2012/03/30/1_t/ |title = 試合結果・速報 2012年3月30日(金) |publisher = 横浜DeNAベイスターズ |accessdate = 2015-10-07 }}</ref>、[[4月1日]]の同カードにおいて6対2で球団名称変更後初勝利を挙げるが<ref>{{Cite web |date = 2012-04-01 |url = http://www.baystars.co.jp/game/2012/04/01/3_t/ |title = 試合結果・速報 2012年4月1日(日) |publisher = 横浜DeNAベイスターズ |accessdate = 2015-10-07 }}</ref>、続く4月4日から10日、同月22日から5月1日にかけて2度に渡り6連敗するなどした。交流戦は9勝14敗の10位に終わり、7月7日の対中日戦に敗れ借金20として、自力優勝が消滅している<ref>{{Cite news |title = DeNA借金20&自力V消滅 鬼門で29イニング無得点 |newspaper = スポニチアネックス |date = 2012-07-07 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/07/07/kiji/K20120707003623650.html |accessdate = 2015-11-07 |publisher = スポーツニッポン新聞社 }}</ref>。前半戦最後の3連戦の対ヤクルト戦(横浜)で今季初の同一カード3連勝するものの<ref>{{Cite news |title = 高城 同一カード3連勝呼んだ!球団23年ぶり高卒新人マスク |newspaper = スポニチアネックス |date = 2012-07-07 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/07/19/kiji/K20120719003710570.html |accessdate = 2015-11-07 |publisher = スポーツニッポン新聞社 }}</ref>、前半戦を最下位で終える。後[[9月15日]]の対ヤクルト戦(神宮)に敗れ、Bクラスが決定。9月29日の対巨人戦(横浜)に勝利して今季初の5連勝(2分含む)するものの<ref>{{Cite news |title = 今季初5連勝!9日間負けなし…中畑監督「最長不倒だよ」 |newspaper = スポニチアネックス |date = 2012-09-30 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/09/30/kiji/K20120930004226830.html |accessdate = 2015-10-07 |publisher = スポーツニッポン新聞社 }}</ref>、136試合目の[[9月30日]]の対中日戦(横浜)に敗れ、5年連続の最下位が決定した<ref>{{Cite news |title = 王溢正が乱調…大敗で最下位決定 中畑監督「先に台風来ちゃったね」 |newspaper = スポニチアネックス |date = 2012-09-30 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/09/30/kiji/K20120930004229720.html |accessdate = 2015-10-07 |publisher = スポーツニッポン新聞社 }}</ref>。10月7日、対巨人戦(東京ドーム)で敗れたことで、対巨人戦のロードでは1勝も出来ずに終わり<ref group="注">東京ドーム9敗1分、鹿児島1敗、宇都宮1分け。</ref>、東京ドームにおいてはセ・リーグ初の記録となった<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/10/08/kiji/K20121008004280450.html 中畑監督 屈辱の東京ドーム0勝「記録と負けっぷりを忘れない」]スポーツニッポン 2012年10月8日</ref>。最終的に首位巨人とは40ゲーム、5位阪神に9.5ゲーム差、46勝85敗13分、セ5球団に全て負け越している<ref>{{Cite web |url = http://bis.npb.or.jp/2012/stats/std_c.html |title = 2012年度 セントラル・リーグ セントラル・リーグ チーム勝敗表 |publisher = 日本野球機構 |accessdate = 2015-11-07 }}</ref>。
 
 
 
;[[2013年の横浜DeNAベイスターズ|2013年]]
 
 
 
中日を自由契約になった[[トニ・ブランコ]]<ref>{{Cite web |date = 2012-12-11 |url = http://www.baystars.co.jp/news/2012/12/1211_03.php |title = トニ・ブランコ選手獲得のお知らせ |publisher = 横浜DeNAベイスターズ |accessdate = 2015-10-07 }}</ref>、[[エンジェルベルト・ソト]]、[[ホルヘ・ソーサ]]の3人を獲得した。またかつてのチームの主力打者であったソフトバンクの多村仁志を含む3選手が、吉村裕基、[[山本省吾]]ら3選手とのトレードで入団。多村は7年ぶりの古巣復帰となった<ref>[http://www.sanspo.com/baseball/news/20121105/haw12110521230002-n1.html 古巣ベイ復帰の多村「正直驚いています」2012.11.5 21:22サンケイスポーツ]{{リンク切れ|date=2015年10月}}</ref>。交流戦は7勝17敗で最下位に終わる<ref>{{Cite web |url = http://bis.npb.or.jp/2013/stats/std_inter.html |title = 2013年度 交流戦 |publisher = 日本野球機構 |accessdate = 2015-10-07 }}</ref>。[[9月24日]]の対阪神戦(甲子園)に1対6で敗れ、[[2013年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]進出の可能性が消滅し、8年連続のBクラスが確定<ref>[http://www.sanspo.com/baseball/news/20130925/den13092505000000-n1.html がら空き三塁へ…DeNA・加賀美が痛恨エラー 2013.9.25 05:00サンケイスポーツ]{{リンク切れ|date=2015年10月}}</ref>したが、[[10月1日]]にヤクルトが巨人に敗れたことで、6年ぶりの最下位脱出が決定<ref>{{Cite news |title = ヤクルト 6年ぶり最下位決定「申し訳ない。監督の力不足」 |newspaper = スポニチアネックス |date = 2013-10-01 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/10/01/kiji/K20131001006728150.html |accessdate = 2015-10-07 |publisher = スポーツニッポン新聞社 }}</ref>。最終成績は5位に終わったものの、ヤクルト・阪神・中日の3球団に勝ち越し。セ3球団に勝ち越したのは実に12年ぶりのことであった<ref>[http://hochi.yomiuri.co.jp/baseball/npb/news/20131005-OHT1T00198.htm?from=sns 【DeNA】12年ぶり3球団に勝ち越し!]{{リンク切れ|date=2015年10月}} スポーツ報知2013年10月5日配信</ref>。オフに阪神の[[久保康友]]をFAで獲得。
 
 
 
;[[2014年の横浜DeNAベイスターズ|2014年]]
 
 
 
シーズン途中に、大砲の[[ユリエスキ・グリエル]]をキューバから獲得。シーズンは4月に7勝18敗 勝率.280と開幕ダッシュに失敗してしまったものの、5月に[[井納翔一]]、6月に[[山口俊]]、8月に[[三浦大輔]]と球団史上初めて1シーズン3度の月間MVPを獲得し<ref>{{Cite news |title = DeNA三浦 7年ぶり月間MVP!球団史上初のシーズン3投手受賞 |newspaper = スポニチアネックス |date = 2014-09-05 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/09/05/kiji/K20140905008876470.html |accessdate = 2015-10-07 |publisher = スポーツニッポン新聞社 }}</ref>(9月にも山口が獲得し最終的に1シーズン4度<ref>{{Cite news |title = DeNA山口が今季2度目の月間MVP |newspaper = [[デイリースポーツ]] |date = 2014-10-07 |url = http://www.daily.co.jp/newsflash/baseball/2014/10/07/0007399128.shtml |accessdate =2015-10-07 }}</ref>)、5月から8月まで勝率を5割以上をキープし9月までクライマックスシリーズ進出の可能性を残していたが、勝負の9月にチームは失速[[9月27日]]にAクラス入りの可能性がなくなり<ref>{{Cite news |title = 中畑監督 CS進出消え「まだまだ力足りなかった」 |newspaper = スポニチアネックス |date = 2014-09-28 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/09/28/kiji/K20140928009008030.html |accessdate = 2015-10-07 |publisher = スポーツニッポン新聞社 }}</ref>、[[10月6日]]の対ヤクルト戦(神宮)に敗れ5位が確定した<ref>{{Cite news |title = ヤクルト 山田 日本新記録は逆転満塁弾!DeNA 5位確定 |newspaper = スポニチアネックス |date = 2014-10-08 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/10/06/kiji/K20141006009058820.html |accessdate = 2015-10-07 |publisher = スポーツニッポン新聞社 }}</ref>。結果は2年連続で5位。オフに巨人から[[ホセ・ロペス (野球)|ホセ・ロペス]]、グリエルの弟、[[ルルデス・グリエル・ジュニア]]を獲得した。また、ドラフトでは、後に「小さな大魔神」と呼ばれるようになる、[[山崎康晃]]([[亜細亜大学]])を1位指名した。
 
 
 
;[[2015年の横浜DeNAベイスターズ|2015年]]
 
 
 
[[1月16日]]に球団オーナーが[[春田真]]から親会社・DeNAの創業者でもある[[南場智子]]に交代したことを発表、[[日本野球機構|NPB]]初の女性球団オーナーが誕生した<ref>{{Cite web |date = 2015-01-16 |url = http://www.baystars.co.jp/news/2015/01/0116_01.php |title = 役員人事に関するお知らせ|publisher = 横浜DeNAベイスターズ |accessdate = 2015-10-07 }}</ref><ref>{{Cite news |title = プロ野球初の女性オーナー誕生 DeNA新オーナーに南場智子氏 |newspaper = スポニチアネックス |date = 2015-01-16 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2015/01/16/kiji/K20150116009638830.html |accessdate = 2015-01-16 |publisher = スポーツニッポン新聞社 }}</ref>。また、ユニフォームも濃紺から、青色(通称:横浜ブルー)に変わった。[[4月9日]]、対阪神戦(甲子園)で勝利し、前日まで同率首位だった中日が敗れたため、12試合消化時点で単独首位となる。10試合以上消化後の単独首位は、横浜ベイスターズ時代の[[2007年]][[5月3日]]以来約8年、2898日ぶり、DeNAが親会社となってからは初の単独首位につく<ref>{{Cite news|date=2015-04-09|url=http://baseballking.jp/ns/28704 |title=DeNA単独首位に新垣、福浦、カラバイヨ...各地で続出した○○年ぶり|newspaper=BASEBALL KING|publisher=FromOne co.,ltd |accessdate = 2015-10-07 }}</ref>など、序盤好調な滑り出しを見せた。しかし、交流戦では、全6カードをすべて負け越し<ref>{{Cite news |title = DeNA交流戦全カード負け越し貯金0 |newspaper = デイリースポーツ |date = 2015-06-14 |url = http://www.daily.co.jp/baseball/2015/06/14/0008121245.shtml?pg=2 |accessdate = 2015-10-07 }}</ref>、球団では2008年以来の10連敗(1引き分け挟む)を喫するなど、3勝14敗1分で12球団中最下位。勝率・176は交流戦歴代ワースト記録<ref>{{Cite news |title = キヨシDeNA、交流戦史上最低勝率…就任4年目ワースト10連敗 |newspaper = [[サンケイスポーツ]] |publisher = [[産業経済新聞社]] |date = 2015-06-15 |url = http://www.sanspo.com/baseball/news/20150615/den15061505050003-n1.html |accessdate = 2015-10-07 }}</ref>。交流戦後の広島3連戦(3戦目は雨で中止)でも連敗は止まらず、連敗を「12」に伸ばしてしまう<ref>{{Cite news |title = DeNA史上初、首位から12連敗 最下位と1差 |newspaper = nikkansports.com |date = 2015-06-20 |url = http://www.nikkansports.com/baseball/news/1495421.html |accessdate = 2015-10-07 |publisher = 日刊スポーツ新聞社 }}</ref>。しかし、6月23日の巨人戦で2-7で勝利し、連敗を12で止めた<ref>{{Cite news |title = DeNA勝った!連敗12でストップ!巨人 貯金ゼロに |newspaper = スポニチアネックス |date = 2015-06-23 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2015/06/23/kiji/K20150623010596650.html |accessdate = 2015-10-07 |publisher = スポーツニッポン新聞社 }}</ref>。7月に、元メジャーリーガーの[[デュアン・ビロウ]]を獲得した。交流戦後の混戦の中6月・7月と阪神や巨人の後塵を拝することが多かったが、前半戦最後のカードである対巨人3連戦で3連勝し、巨人から首位を奪還。前回優勝の1998年以来となる、前半戦首位ターンとなった<ref>{{Cite news |title = セ・リーグ6球団監督が前半戦を総括 |newspaper = nikkansports.com |date = 2015-07-16 |url = http://www.nikkansports.com/baseball/news/1507867.html |accessdate = 2015-10-03 |publisher = 日刊スポーツ新聞社 }}</ref>。しかし、後半戦に入るとじわりじわりと順位を下げ、8月下旬にはとうとう最下位に転落。[[2シーズン制#日本プロ野球|期制]]直後に最下位を脱出するも、終盤は中日との最下位争いとなり、[[9月3日]]の中日戦に敗れ自力でのクライマックスシリーズ進出の可能性が消滅<ref>{{Cite news |title = ルナV撃!荒木猛打賞!中日集中打で連敗脱出 DeNAは自力CS消滅 |newspaper = スポニチアネックス |date = 2015-09-03 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2015/09/03/kiji/K20150903011060500.html |accessdate = 2015-09-03 |publisher = スポーツニッポン新聞社 }}</ref>。[[10月3日]]、シーズン最終戦(巨人戦)で敗れ3年ぶりの最下位が決定した<ref name="Saikai">{{Cite news |title = 巨人ヒヤヒヤの連勝 DeNA反撃届かず最下位確定 |newspaper = nikkansports.com |date = 2015-10-03 |url = http://www.nikkansports.com/m/baseball/news/1547597_m.html |accessdate = 2015-10-3 |publisher = 日刊スポーツ新聞社 }}</ref>。前半戦を首位で折り返しながら、シーズンを最下位で終えるのはプロ野球史上初(2期制時のパは除く)の記録となった<ref name="Saikai" />。また本塁打数こそリーグ最多の112だったものの、リーグワーストのチーム防御率3.80、総失点598、ワイルドピッチに至っては1990年の[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテオリオンズ]]の日本プロ野球タイに並ぶ68個を記録するほどだった。また、黒羽根、嶺井、高城を起用するなど捕手も固定されず、11個のパスボールも記録。観客動員数は好調で球団側は監督契約延長を申し出たが、中畑監督は低迷の責任を取る形で退任。これにより4年間に及ぶ中畑政権は幕を閉じた<ref>{{Cite web |date = 2015-10-03 |url = http://www.baystars.co.jp/news/2015/10/1003_06.php |title = 中畑清監督退任のお知らせ |publisher = 横浜DeNAベイスターズ |accessdate = 2015-10-07 }}</ref>。後任監督には球団史上初の外国人監督となる[[アレックス・ラミレス]]が就任することが発表された<ref>{{Cite news |title = DeNA新監督にラミレス氏=2年契約の見通し-プロ野球 |newspaper = 時事ドットコム |date = 2015-10-19 |url = http://www.jiji.com/jc/c?g=spo&k=2015101900069 |accessdate = 2015-11-06 |publisher = [[時事通信社]] }}{{リンク切れ|date=2017年9月}}</ref>。神宮球場では三浦大輔が登板した2試合の2勝しかできなかった。
 
 
 
[[10月21日]]、ラミレス新監督の就任が正式に発表された<ref>{{Cite web |date = 2015-10-21 |url = http://www.baystars.co.jp/news/2015/10/1021_03.php |title = アレックス・ラミレス新監督 就任記者会見 |publisher = 横浜DeNAベイスターズ |accessdate = 2015-11-07 }}</ref>。合わせて、2年契約で背番号80に決まったことも発表<ref>{{Cite news |title = DeNAラミレス新監督「優勝を」報道陣120人 |newspaper = nikkansports.com |date = 2015-10-21 |url = http://www.nikkansports.com/baseball/news/1555667.html |accessdate = 2015-11-07 |publisher = 日刊スポーツ新聞社 }}</ref>。
 
 
 
ドラフトでは、[[今永昇太]]([[駒澤大学]])を1位指名し、課題であった捕手の固定は[[戸柱恭孝]](背番号10)([[西日本電信電話|NTT西日本]])を指名することで対処した。
 
 
 
[[11月]]球団は本拠地である[[横浜スタジアム]]の運営会社・[[横浜スタジアム#管理・運用者|株式会社横浜スタジアム]]の[[株式公開買付け|友好的TOB]]を開始した。
 
 
 
===== アレックス・ラミレス監督時代 =====
 
 
 
;[[2016年の横浜DeNAベイスターズ|2016年]]
 
 
 
[[1月20日]][[横浜スタジアム]]運営会社の株式を議決権所有割合の過半数(71.12%)に該当する普通株を、総額74億2500万円で取得した。このため、運営会社は同月28日付で、横浜DeNAベイスターズの子会社([[ディー・エヌ・エー]]の孫会社)に名義を変更。キャンプ前に新外国人として[[ジェイミー・ロマック]]、[[ザック・ペトリック]]を獲得するも、
 
キャンプ中から開幕前にかけて故障者が続発。[[山崎憲晴]]が左膝靱帯断裂で今季絶望<ref>{{Cite web |url=http://www.nikkansports.com/baseball/news/1608322.html/ |title=DeNA山崎憲、左膝靱帯断裂で手術 復帰まで1年 |publisher=[[日刊スポーツ]] |accessdate=2016-02-24}}</ref>。となったほか、[[梶谷隆幸]]、[[石川雄洋]]、[[山口俊]]といった主力選手が故障により開幕に間に合わず、開幕直後に[[藤岡好明]]と[[マイク・ザガースキー]]を相次いで獲得したが、4月は投打に渡り戦力不足の結果9勝18敗と大きく負け越した。5月に入ると梶谷など怪我で離脱していた主力選手も戻り、[[石田健大]]、[[今永昇太]]が揃って月間4戦全勝(石田は26イニング連続無失点を記録)と活躍するなど[[5月3日]]時点で11あった負け越しを[[5月28日]]には完済した。交流戦は負け越したものの[[エリアン・エレラ]]が加入し、7月には[[筒香嘉智]]が月間16本塁打の歴代日本人最多記録、月間6度の複数本塁打と3戦連続複数本塁打という2つのプロ野球記録を樹立するなど大爆発。[[7月11日]]には[[三浦大輔]]が世界記録となるプロ野球投手としての24年連続安打を達成([[ギネス世界記録]]に認定され、[[8月22日]]、[[横浜スタジアム]]で認定証が授与)するなど勢いを取り戻し、17年ぶりとなる2年連続の前半戦Aクラスターンを決める。すると後半戦は[[8月25日]]に4位阪神に0.5差まで詰められるも最後までAクラスを守り抜き、[[9月19日]]、[[広島東洋カープ]]25回戦にて勝利、11年ぶりのAクラスが確定し、チーム初のクライマックスシリーズ(CS)進出を決めた。最終結果は69勝71敗3分。CS進出を決めた翌日に三浦大輔が現役引退を表明し、[[9月29日]]の対[[東京ヤクルトスワローズ]]25回戦(レギュラーシーズン最終戦)が引退試合として行われた。三浦大輔の引退により、大洋ホエールズ時代に在籍した選手と、1998年のリーグ優勝・日本一を経験した選手が全員引退した。[[2016年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|CS]]では公式戦2位の巨人と対戦し、2勝1敗でファイナルステージ進出を決めて公式戦1位の[[広島東洋カープ]]と対戦、第3戦で借金チームとして初のファイナルステージでの勝利を挙げたものの1勝4敗で敗退した。DeNAがCSに進出しファイナルステージまで進んだことにより、CS制度導入後10年目にして、12球団すべてがCSに出場するとともに<ref name="nikkei20160919">{{cite web|url=http://www.nikkei.com/article/DGXLSSXK10346_Z10C16A9000000/|title=プロ野球 DeNA、初のCS進出決定|accessdate=20160923}}</ref>、セ・リーグ全球団がCSファイナルステージ(第2ステージ)に出場した。
 
シーズンオフ、補強として新外国人の[[アウディ・シリアコ]]、[[フィル・クライン]]、[[ジョー・ウィーランド]]、[[スペンサー・パットン]]、ヤクルトから[[田中浩康]]をFAで[[山口俊]]が巨人へ移籍した[[フリーエージェント (日本プロ野球)#国内FAにおける制約・補償|人的補償]]として、[[平良拳太郎]]を獲得した。
 
 
 
;[[2017年の横浜DeNAベイスターズ|2017年]]
 
 
 
5月30日の交流戦初戦で3位に浮上する<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2017/05/31/kiji/20170530s00001173251000c.html DeNA3位浮上!ドラ1浜口が新人トップ3勝「これをきっかけに」] - スポニチアネックス、2017年5月31日</ref>。8月22日から同月24日の対広島3連戦。22日の第1戦は9回裏2対5の劣勢から[[筒香嘉智]](2ラン)、[[ホセ・ロペス (野球)|ホセ・ロペス]]、[[宮﨑敏郎]]の3者連続本塁打でサヨナラ勝利。本塁打3連発のサヨナラゲームはプロ野球史上初の事であった。翌23日も5-6で迎えた9回裏2死からのロペスのソロ本塁打で同点にし延長戦に突入、10回裏に[[梶谷隆幸]]のサヨナラタイムリーで連勝。24日の第3戦は9回、二死二塁から打者[[倉本寿彦]]の詰まった打球がイレギュラーバウンドを生みサヨナラ勝ち。同一カード全てリードされている状況からの逆転サヨナラでスイープを達成した。3試合連続サヨナラ勝利はベイスターズ前身のホエールズが1960年に達成して以来57年ぶり、同一カードとしては史上初である<ref>[http://www.sanspo.com/baseball/news/20170825/den17082505070001-n1.html DeNAが3戦連続サヨナラ勝ち!球団57年ぶり、同一カードでは初の快挙(2017年8月25日・SANSPO.COM) ]</ref>。9月に入り巨人が持ち直してきたため、巨人との間で激しい3位争いとなり順位が入れ替わることもあったが、10月1日の対広島戦で勝利し3位を確定させた<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/news/201710010000585.html DeNA2年連続CS進出!乱打戦制し3位確定] - 日刊スポーツ、2017年10月1日</ref>。73勝65敗5分で公式戦を終え、2001年以来16年ぶりのシーズン勝ち越しを決めた。
 
 
 
[[2017年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ(CS)]]では、1stステージで2位阪神を2勝1敗で破り、ファイナルステージでは第1戦を落としたのちに4連勝し4勝2敗(広島へのアドバンテージ1敗含む)で1位広島を破り日本シリーズに進出した。3位からの日本シリーズ進出はセ・リーグとしては初。またこれにより、セ・リーグでは2010年代で、CS制度導入後11年目にして全球団が日本シリーズに進出した。ソフトバンクとの[[2017年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では3連敗で王手をかけられたのち2連勝するが、6戦目で延長戦の末に敗れた。前身含め3度目となる日本シリーズで初めて敗退し、日本一を逃した。シーズンオフ補強として、新外国人の[[ネフタリ・ソト (野球)|ネフタリ・ソト]] 、[[エディソン・バリオス]]、阪神から[[フリーエージェント (日本プロ野球)|FA]]で[[前田大和]]を獲得した。また、中日から[[武藤祐太]]、楽天から[[中川大志 (野球)|中川大志]]を獲得した。
 
;[[2018年の横浜DeNAベイスターズ|2018年]]
 
 
 
2007年以来、球団が横浜DeNAになってからは初めて本拠地での開幕を迎えた(2011年にも開幕を本拠地で迎えたが、当時の東日本大震災の影響により変則日程で開幕を迎えたことによる)。開幕投手は2年連続で[[石田健大]]が務めた(試合は3-7で敗戦)。2年連続で開幕投手を務めるのは、2004年から2007年の[[三浦大輔]]以来である。開幕からの5試合で1勝4敗と波に乗れずにいたが、4月6日から同8日の対広島3連戦で今季初のカード勝ち越しを決め、直後の対巨人3連戦(同10日から12日)を3連勝で終えた。翌4月13日の対中日1回戦で逆転勝利を収め、単独首位に浮上した。首位に立つのは、ラミレス監督就任1年目の2016年3月25日の開幕戦に勝利した時以来となるが、単独首位はラミレス政権下では初であり、2015年7月15日以来となる。<ref>[http://www.sanspo.com/baseball/news/20180413/den18041321310005-n1.html DeNA、6連勝で首位浮上!] - サンスポ、4月13日閲覧</ref>また、[[4月7日]]から[[4月15日|15日]]にかけて[[2001年]]以来17年振りとなる8連勝を記録した。シーズン途中の7月4日に元[[アリゾナ・ダイヤモンドバックス]]傘下マイナー所属だった[[中後悠平]]を獲得、7月9日にはオリックスから[[伊藤光]]と[[赤間謙]]をトレードで獲得した<ref>[https://www.hochi.co.jp/baseball/npb/20180709-OHT1T50110.html オリックスの伊藤光、赤間とDeNA白崎、高城が緊急トレード!] - スポーツ報知 2018年7月9日閲覧</ref>。
 
 
 
== 所属選手・監督・コーチ ==
 
{{See also|横浜DeNAベイスターズの選手一覧}}
 
{{横浜DeNAベイスターズ|state=expanded}}
 
 
 
== チーム成績・記録 ==
 
[[Image:Yokohama BayStars Ranking.svg|thumb|320px|1950年以降の順位の変遷。赤い丸は日本シリーズ優勝を示す]]
 
{{See also|横浜DeNAベイスターズ及びその前身球団の年度別成績一覧}}
 
* リーグ優勝 2回
 
: (1960年、1998年)
 
* クライマックスシリーズ優勝 1回
 
: (2017年)
 
* 日本一 2回
 
: (1960年、1998年)
 
* Aクラス 17回
 
: (1960年、1962年、1964年、1969年 - 1971年、1979年、1983年、1990年、1997年 - 2001年、2005年、2016年 - )※1
 
* Bクラス 51回
 
: (1950年 - 1959年、1961年、1963年、1965年 - 1968年、1972年 - 1978年、1980年 - 1982年、1984年 - 1989年、1991年 - 1996年、2002年 - 2004年、2006年 - 2015年)
 
* 最多勝 80勝(1964年)
 
* 最多敗 99敗(1955年)
 
* 最多引分 17分(1979年)
 
* 最高勝率 .585(1998年)
 
* 最低勝率 .238(1955年)
 
* 最多連勝 10 ([[1964年の大洋ホエールズ|1964年]]、[[1967年の大洋ホエールズ|1967年]]、[[1968年の大洋ホエールズ|1968年]]、[[1998年の横浜ベイスターズ|1998年]]、[[1999年の横浜ベイスターズ|1999年]])※1967年、1968年、1998年のものは引き分けを挟む。
 
* 最多連敗 14 (1955年、2008年)※2008年のものは1引き分け挟む。
 
* 最長試合時間 6時間13分(1998年8月9日対広島戦)
 
* 連続イニング無得点 46(2012年)
 
* 連続Aクラス入り最長記録 5年(1997年 - 2001年)
 
* 連続Bクラス最長記録 10年(1950年 - 1959年、2006年 - 2015年)
 
* 通算4500敗 (2012年8月24日の対巨人戦で、2リーグ制発足後最速の記録)
 
: ※1 2001年のセ・リーグの順位は、勝率順ではなく、勝利数順のため、勝率の場合はBクラス(4位)になっていた。
 
 
 
=== その他の記録 ===
 
* 最小ゲーム差 1.0ゲーム(1964年)
 
* 最大ゲーム差 61.5ゲーム(1955年)
 
* 最多本塁打 194本(2004年)
 
* 最小本塁打 51本(1955年)
 
* 最高打率 .294(1999年)
 
* 最低打率 .208(1956年)
 
* 最高防御率 2.31(1971年)
 
* 最低防御率 4.94(1977年)
 
* 68暴投(2015年、ロッテオリオンズ〈1990年〉と並びプロ野球タイ記録)
 
 
 
== チームの特徴 ==
 
=== 球団名 ===
 
1993年から2011年までの間、12球団では唯一の正式名称に企業名を冠しない球団であった。1949年末の2リーグ分裂以降では他に広島カープ(1950年 - 1967年、現・広島東洋カープ)<ref group="注">「広島東洋カープ」の「東洋」は球団の筆頭株主である[[マツダ]]の旧社名・東洋工業に由来する。</ref>、東京オリオンズ(1964年 - 1968年、現・[[千葉ロッテマリーンズ]])の事例が存在する。
 
 
 
前身の大洋ホエールズと第二次世界大戦中に存在した[[西鉄軍|大洋軍]]は名前が同じだけで、繋がりは全くない。以前の愛称「ホエールズ」は当時の親会社・大洋漁業が[[捕鯨]]を主要業務にしていたことに由来する。現在の愛称「ベイスターズ」は「横浜ベイブリッジ」と「星」とを組み合わせた造語である。日本人が発案した造語であるため、英語の母語話者には通じないらしく『[[ジャパンタイムズ]]』等の国内発行の英字新聞ではしばしば「'Stars」と略して表記される。アメリカのプロスポーツチームの本拠地では[[タンパ|タンパベイ]]([[フロリダ州]])や[[グリーンベイ (ウィスコンシン州)|グリーンベイ]]([[ウィスコンシン州]])のように湾を意味する“ベイ”が入っている地名があるため、一部のアメリカメディアではチーム名が「ヨコハマ・ベイスターズ」ではなく「ヨコハマベイ・スターズ」として認識されることもしばしばある。
 
 
 
大洋・洋松時代は略称をパ・リーグの[[大映ユニオンズ|大映スターズ]]や後身の大毎オリオンズとの重複を避けるため「大」でなく「洋」とし、大毎が東京オリオンズとなって以降も1992年まで引き続き使用していた。2012年以降は通称が「横浜」から「DeNA」に変更される。略称については「D」では中日ドラゴンズのアルファベット略称と紛らわしくなるため、'''従来通り「横」を使用することが承認された'''が<ref name="db">{{Cite news |date=2011-12-06 |url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/12/06/kiji/K20111206002180800.html |title=略称は横浜DeNAかDeNA 実行委員会で承認 |publisher= スポーツニッポン |work=スポニチANNEX |accessdate=2011-12-06 }}</ref>、NPBの公式サイトでは「横」でなく「'''ディ'''」あるいは「'''デ'''」との表記も使用されている<ref>{{Cite web |url = http://www.npb.or.jp/schedule/ |title = セ・パ公式戦試合日程 |publisher = 日本野球機構 |accessdate = 2015-10-08 }}、{{Cite web |url = http://bis.npb.or.jp/teams/calendar_db_index.html |title = 球団別カレンダー 横浜DeNAベイスターズ |publisher = 日本野球機構 |accessdate = 2015-10-08 }}</ref>。また、[[共同通信社]]<ref>[http://www.47news.jp/sports/baseball/baseball_headline.html 共同通信プロ野球速報]([[47NEWS]])</ref>、[[日刊スポーツ]]<ref>[http://www.nikkansports.com/baseball/professional/schedule/top-schedule.html プロ野球 日程&結果](nikkansports.com)</ref>では「D」と表記している(中日は「中」)。テレビ中継では球団名を変更した2012年時点ではNHKが「D」、地元[[テレビ神奈川|tvk]]が「横」、[[サンテレビジョン|サンテレビ]]が「ディ」、CSで全試合中継するTBSが「De」、阪神の公式映像の[[Tigers-ai]]が「デ」、[[J SPORTS]]の自社制作では「DB」などと混在していたが、2015年現在ではNHK、サンテレビ、Tigers-aiも「De」の表記を使用しており、ある程度統一されつつある。
 
 
 
1993年シーズンに「ベイスターズ」へ改称した時点でアルファベットの略称が「B」で始まる球団が既に[[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]](略称・BW)と[[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファローズ]](略称・Bu)の2球団存在していたため「'''Y'''okohama '''B'''ayStars」の「'''YB'''」を略称としていた。なお2012年シーズンより「Yokohama '''D'''eNA '''B'''ayStars」を略した「'''DB'''」へ変更された<ref name="db" />。オリックスと近鉄は[[2005年]]シーズンより合併しオリックス・バファローズ(略称・Bs)となっているため、アルファベットの略称が「B」で始まる球団の重複状態は現在も続いている。
 
 
 
=== マスコット ===
 
{{出典の明記|date=2013年1月|section=1}}
 
{{Infobox baseball player
 
|選手名 = DB.スターマン
 
|所属球団 = 横浜DeNAベイスターズ
 
|役職 = マスコット
 
|背番号 = ☆
 
|選手写真ファイル名 =
 
|写真のコメント = 2012年3月18日 横浜スタジアムにて
 
|国籍 = {{JPN}}
 
|出身地 = 神奈川県横浜市
 
|生年月日 =
 
|没年月日 =
 
|身長 = ボール5個分
 
|体重 = ボール10個分(理想は5個分)
 
|利き腕 =
 
|打席 =
 
|守備位置 = [[マスコット]]
 
|プロ入り年度 =
 
|ドラフト順位 =
 
|初出場 = 2012年3月18日(オープン戦・対ソフトバンク)
 
|最終出場 =
 
|経歴 =
 
* 横浜DeNAベイスターズ
 
}}
 
{{Infobox baseball player
 
|選手名 = DB.ライダー
 
|所属球団 = 横浜DeNAベイスターズ
 
|役職 =マスコット
 
|背番号 =
 
|選手写真ファイル名 =
 
|写真のコメント = 2012年11月23日 横浜スタジアムにて
 
|国籍 = {{JPN}}
 
|出身地 = 非公開
 
|生年月日 =
 
|没年月日 =
 
|身長 =
 
|体重 =
 
|利き腕 =
 
|打席 =
 
|守備位置 = [[マスコット]]
 
|プロ入り年度 =
 
|ドラフト順位 =
 
|初出場 =
 
|最終出場 =
 
|経歴 =
 
* 横浜DeNAベイスターズ<br />(球団公認:2012年 - 2016年4月)
 
}}
 
{{Infobox baseball player
 
|選手名 = DB.キララ
 
|所属球団 = 横浜DeNAベイスターズ
 
|役職 = マスコット
 
|背番号 =
 
|選手写真ファイル名 =
 
|写真のコメント = 2013年4月21日 横浜スタジアムにて
 
|国籍 = {{JPN}}
 
|出身地 = 神奈川県横浜市
 
|生年月日 =
 
|没年月日 =
 
|身長 = ポンポン5個分
 
|体重 = ポンポン10個分
 
|利き腕 =
 
|打席 =
 
|守備位置 = [[マスコット]]
 
|プロ入り年度 =
 
|ドラフト順位 =
 
|初出場 = 2013年4月2日
 
|最終出場 =
 
|経歴 =
 
* 横浜DeNAベイスターズ
 
}}
 
 
 
球団[[マスコット]]は、「'''DB.スターマン'''」。チームの象徴である星(スター)と“ハマ(横浜)”と“スター”にちなんだハムスターがモチーフ。ずんぐりむっくり<ref group="注">ただ、あまりにもずんぐりした体型のおかげで、転ぶと自力で立ち上がれなくなることが多々ある。</ref>としたユニホーム姿の[[ゆるキャラ]]。元は1993年からマスコットとして活躍してきた前任者のホッシーファミリーに飼われていたペット。2012年3月18日のオープン戦・対ソフトバンクでファンにお披露目された。
 
 
 
また、「DeNAの勝利のために、そしてスタジアムの治安を保つために、あらゆる敵と戦う」ため、球場内のスタンドや横浜公園などでファンサービスやスタジアム観戦マナーの啓蒙(けいもう)活動を独自に行っていたヒーロー「DB.ライダー」。球団は、これらの活動に敬意を払い、球団のシンボルマークのついた新コスチュームを贈ったうえで、球団キャラクターとして公認。2012年の本拠地最終戦である9月28日の対巨人戦でファンにお披露目された。
 
 
 
翌2013年には親会社の交代後初の女性マスコット「'''DB.キララ'''」が登場した。
 
 
 
; DB.スターマン(通称・スターマン)
 
: 年齢不詳。横浜市生まれ。ハムスター(モンスター)族で、性別は♂(オス)。チャームポイントは☆形の顔、肉球も☆形。性格は食いしん坊でおちゃめ。趣味はボール集めと「食っちゃ寝」。好きなものは丸いもの・美味しいもの・[[Mobage|モバゲー]]。身長はボール5個分、体重はボール10個分(理想は5個分)。横浜スタジアム在住。背番号は「☆(1スター)」だが、[[2016年]]に限りDeNAベイスターズ5周年記念として「5☆」(数字の5の右上に小さい☆・DeNAベイスターズ5周年記念ロゴと同じ)となっていた。
 
: 名前の「DB.」は「DeNA BayStars」のイニシャルであると同時に「大好き・ぼくらの(Daisuki・Bokurano)」の意味も込められている<ref>{{Cite news |title = 趣味は「食っちゃ寝」 脱力系マスコット・横浜DeNA「スターマン」インタビュー |newspaper = [[ガジェット通信]] |date = 2012-05-10 |url = http://getnews.jp/archives/208310 |accessdate = 2012-05-17 |author = 小浦知佳 |agency = [[ニコニコニュース]] }}</ref>。ベルトには後述の「Bibon」が付いている。
 
; DB.ライダー
 
: 性別:男、年齢:非公開、血液型:非公開、身長・体重:非公開、出身地:非公開、活動場所:横浜スタジアム内、およびその周辺
 
: 「球場の守り神」として横浜スタジアムの内外で活動していたキャラクター。2012年8月から球場内のスタンドやコンコースなどに出没し、ファンが快適に試合を観戦できるよう自主的にパトロールを実施し、観戦マナーの啓蒙活動を続けた。この事に敬意を払い、DeNAは球団のシンボルマークのついた新コスチュームを贈ったうえで、球団キャラクターとして公認した。2016年4月6日、球団公認キャラクターとしての契約の終了を発表し、今後は再び「球場の守り神」に戻るとのこと<ref>[http://sp.baystars.co.jp/news/2016/04/0406_03.php DB.ライダー 球団公認キャラクターとしての活動終了のお知らせ] - 横浜DeNAベイスターズ公式サイト、2016年4月6日</ref>。
 
; DB.キララ(通称・キララ)
 
: 年齢不詳。横浜市生まれ。性別は女の子。チャームポイントは大きなリボン。性格は明るくて元気いっぱい。趣味はキラキラしたもの集め。好きなものはキラキラしたもの・[[ポップコーン]]。身長はポンポン5個分、体重はポンポン10個分。背番号はなし。
 
: 「横浜DeNAベイスターズの応援に横浜スタジアムへ通い、グラウンドやステージでキラキラ輝くdianaにいつも憧れていました。いつしか憧れは目標に変わり、夢を叶えるために、自分もキラキラ輝くために!ダンスを一生懸命練習しました。そして2013年、見事横浜DeNAベイスターズを応援する仲間として加わることになった」設定。スターマンから想いを寄せられているが、当の本人は全く興味が無い。
 
[[File:20140915 'diana' cheer team of the Yokohama DeNA BayStars at Yokohama Stadium.JPG|right|thumb|500px]]
 
[[File:20151128 'diana' cheer team of the Yokohama DeNA BayStars at Yokohama Stadium.JPG|right|thumb|500px|チアリーディングチームの "diana"。横浜スタジアムにて]]
 
 
 
==== 過去 ====
 
; ホエールズ時代
 
* クジラに乗った少年 - 川崎を本拠地にしていた時のペットマーク。グッズの他、ジャンパーやユニフォームの袖にワッペンが縫い付けられていた。
 
* マリン君(1978 - 1992) - 横浜に本拠地を移転した時に、[[ペットマーク]]として登場。以来、1992年までペットマークとして使用。2016年にDeNAベイスターズの5周年企画の一環として復刻<ref>[https://www.baystars.co.jp/news/2016/02/0205_03.php 横浜移転時に誕生したマスコットキャラクター“マリンくん”が限定復刻]</ref><ref>[http://full-count.jp/2016/02/05/post25399/ DeNA、マスコットキャラクターの“マリンくん”を限定復刻へ]</ref><ref>[http://www.hochi.co.jp/baseball/npb/20160131-OHT1T50047.html 【DeNA】大洋時代の「マリンくん」復刻!球団5周年で“再登板”] スポーツ報知、2016年1月31日</ref>。なお、復刻版は帽子のマークが大洋時代の「W」からDeNAの「B」に、帽子横の「★(大洋時代のホームランシール)」が「5th(DeNAベイスターズ5周年記念マーク)」に変更されている。
 
: <!-- バグ回避のための行「Help:箇条書き#定義の箇条書き中の箇条書き」参照-->
 
; ベイスターズ時代
 
* ホッシーファミリー(1993 - 2011) - 球団名を「横浜ベイスターズ」と一新したことに伴い誕生。以降約20年にわたり、ベイスターズのマスコットとして活躍してきたが、2012年「横浜DeNAベイスターズ」の誕生に伴いホッシーファミリーが故郷の星に帰ることになり、ペットとして飼われていたスターマンに後を託しお役御免となった。2012年3月18日のオープン戦・対ソフトバンクでホッシーファミリーの「卒業セレモニー」が行われた。
 
** ホッシー (hosshey) - 三兄弟の長兄でリーダー的存在。[[ペットマーク]]を含め球団のシンボルとして数多くの場所で採用されている。
 
*** 優しげな口調で喋る良い子キャラ。[[File:ホッシー (hosshey) in 2010.08.08.JPG|thumb|280px|right|ホッシーゾ:横浜スタジアムにて(2010年8月8日)]]
 
** ホッシーナ (hossiena) - ホッシーの妹で三兄弟の真ん中。
 
*** 明るい口調で喋る元気な女の子。
 
** ホッシーゾ (hossiezo) - ホッシーの弟で三兄弟の末っ子。
 
*** 語尾に「YO!!」(あるいは本人の名前に引っ掛けて「ZO!!」)を付けた言葉を多用する[[ヒップホップ]]系キャラ。
 
* ブラックホッシー - 黒いユニフォームの背中に「マスコット命」、サングラスの下に充血した目という謎のキャラクター。TBSの野球番組『好プレー珍プレー』の番組内企画で生まれたジョークマスコット。中の人([[スーツアクター]])は以前に[[阪神タイガース]]マスコットの「[[トラッキー]]」のアクターとして派手なパフォーマンスが人気を集めており、「流星ジャンプ」に代表されるハチャメチャなアクションで絶大な人気を得た。球団としてもグッズ製作に乗り出そうとした矢先の2004年オフ、「[[中の人]]」が[[東北楽天ゴールデンイーグルス|楽天]]の「非公認」マスコット[[Mr.カラスコ]]の「中の人」として引き抜かれたことで消えた。この時「ブラックホッシー獲られちゃったよ…」と肩を落とした横浜の峰岸球団社長だけでなく、[[佐伯貴弘]](トラッキー時代から交流があり、解任直後の中の人に横浜入りを勧めたとも言われている)や[[三浦大輔]]、若林オーナーまでもが失意のコメントを残している。その後、横浜スタジアムで開催された[[2008年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|2008年のオールスター]]第2戦、公式戦では[[2010年]][[3月30日]]の本拠地開幕戦(対巨人)、[[4月18日]]の対阪神戦や6月12日の対オリックス戦(京セラドーム大阪)で復活を果たしている。また横浜スタジアム開門直後に流れる球場マナーについてのお願いのVTRにはマナーの悪いファンとして出演している。
 
* ニューホッシー - 正式名称は「2001年ニューホッシー」。文字どおり2001年シーズンに登場。視線が常に本人から見て左側を向いているが、これは球団公式イラストのホッシーとデザインを合わせたため。以前からのホッシーと比較して、顔が着ぐるみでない(同時に登場した湘南シーレックスのマスコット・レックの人形と同じ材質)うえに大きさも小さいため、体型がシャープで、既存ホッシーに比べると多少アクロバティックな動きもこなせる。2001年から2004年頃にかけて度々登場していたが、既存ホッシーほどの支持を得られなかったため、数年で姿を消すことになった。背番号2001。
 
 
 
球団のマスコットではないが、[[TBSテレビ|TBS]]が親会社の頃は、横浜スタジアムと交流戦のビジター球場ではTBSのマスコットである「[[BooBo]](ブーブ)」と[[TBSラジオ]]『[[TBSラジオ エキサイトベースボール|エキサイトベースボール]]』のマスコットである「エキベ〜」が登場した。
 
 
 
また、[[カネシゲタカシ]]がスポナビブログで連載している漫画『ベイスたん』<ref>{{Cite web |url = http://www.plus-blog.sportsnavi.com/yakyuu_manga/ |title = ベイスたんのブログやよ!(スポナビブログ)|publisher = ワイズ・スポーツ |work = スポーツナビ+ |accessdate = 2015-10-08 }}</ref>の主人公・ベイスたんは、球団の「公認“非公式”キャラクター」として位置づけられ、球団からコラボグッズも発売されている<ref>{{Cite book |和書 |title = ベースボールサミット |volume = 第2号 |year = 2014 |publisher = カンゼン |page = 164 |isbn = 978-4-86255-266-2 |quote = 特集:横浜DeNAベイスターズ }}</ref><ref>{{Cite web |date = 2012-11-20 |url = http://www.baystars.co.jp/news/2012/11/1120_01.php |title = 『ファンフェスティバル2012』にて新商品発売のお知らせ |publisher = 横浜DeNAベイスターズ |accessdate = 2015-10-08 }}</ref>。
 
 
 
2014年より横浜を愛する人々を対象にプロ野球をきっかけとしたまちづくりを推進していくプロジェクト[[I☆YOKOHAMA]]を掲げ、シンボルキャラクターのBART &CHAPY(バート アンド チャピー)が誕生した。
 
 
 
=== 応援スタイル ===
 
{{出典の明記|date=2013年1月|section=1}}
 
{{See also|チャンステーマ}}
 
トランペット・ドラム(太鼓)・選手別応援歌・ユニフォーム着用などは他球団の多くと同様だが、トランペットなどの楽器は応援には珍しい二重奏を用いている。応援メガホンの使用は他球団のファンと比較し非常に少なく、手拍子と声による応援が中心となっている。また、一部ファンにおいて[[ゲートフラッグ]]の掲揚が行われている。
 
 
 
また、2012年の親会社交代に伴い、新たな応援スタイル2種が球団側より提示された。一つは「Bibon(ビボン)」でタオルに代わり使用されるもので、専用の振りがある<ref group="注">ただし、マフラータオルも引き続き販売されている。</ref>。イベント時に随時配布される他、選手・監督名の入ったものも販売されている。もう1つは5回裏終了時やチームの勝利時「[[シャボン玉]]」を飛ばすことである。これは横浜スタジアムにおいて、当時[[ジェット風船]]の使用が禁止されていたため(理由は下記注を参照)、代替として編み出されたものである。球場でシャボン液とストローのセットが販売されている。
 
 
 
; 以下は現時点(2013年 - )のもの
 
* 横浜主催ゲームの多く(主として本拠地・[[横浜スタジアム]])では、試合前イベントの時間を確保する都合上、スターティングメンバー発表時の応援団による応援歌演奏<ref group="注">俗に1-9と呼ばれる、当日のスタメン選手の応援歌をメドレー形式で演奏するもので、スタメン発表時や試合勝利後に行われる。</ref>は、球場アナウンスの選手発表(選手名コール)に続けて、各選手個別に演奏している(選手名→応援歌→選手名→応援歌の繰り返し)。このスタイルは相手チームも同様に行う。
 
* 得点時には「熱き星たちよ」が演奏される。
 
* 相手投手交代時には応援団主導のもと、タオルマフラー・フェイスタオルを広げながら[[布袋寅泰]]作の「勇者の遺伝子」を歌う。
 
* 代打登場時には1回だけ「代打のテーマ」が演奏される。応援歌前のファンファーレが存在する選手([[筒香嘉智]]、かつて在籍した[[アレックス・ラミレス]]、[[佐伯貴弘]]、[[村田修一]]など)については、代打で登場した場合でもファンファーレが優先される。(ただしコールが固有のものである乙坂智やG.後藤武敏については、固有のコールが優先される。)
 
* 投手の打席では投手用応援歌が演奏されるが、過去には[[三浦大輔]]、[[斎藤隆 (野球)|斎藤隆]]、[[野村弘樹]]、[[ライアン・グリン]]などに対しては専用の応援歌が演奏された。なお、野村弘樹の応援歌は新たに左投げ投手用の応援歌として使われている。
 
* 以前はプロの作詞家・作曲家により製作され、ポップス調やロック調の編曲で収録された選手別応援歌CDが発売されており、球場でのトランペット演奏でもこれらの応援歌を用いていた。しかし、2000年頃以降に新規製作された楽曲は諸々の事情により、実際に球場で使用されることは少なくなった<ref group="注">2000年頃以降に製作された楽曲は、製作者(作曲・作詞・編曲など)や曲調などが従来までと異なり、球場での演奏に不適なものが多くなったため、応援団側がこれらの使用を拒んだことも要因にある。</ref>ことから2003年を最後に制作されなくなった。2000年頃以降に応援歌が設定された選手では、応援団が新規に製作した楽曲や、過去に他の選手用として製作された応援歌<ref group="注">例として[[金城龍彦]]([[市川和正]]より流用)、[[村田修一]](大洋時代の[[谷繁元信]]より流用)、[[内川聖一]]([[高木豊]]より流用)、[[内藤雄太]]([[駒田徳広]]より流用)など</ref>を流用している。
 
* 7回の攻撃時には、ホームでは「熱き星たちよ」の映像が流され、ビジターでは「[[横浜Boy Style|WINNING]]」が応援団により演奏される。多くの球団で行われている[[ジェット風船]]は2012年まで通常時は[[横浜スタジアム]]で使用禁止<ref group="注">横浜市[[ポイ捨て|ポイ捨て・喫煙禁止条例]]に違反することや、球場すぐ近隣を走行するJR[[根岸線]]の架線に引っ掛かり、電車の運行を妨害する危険があるため。</ref>であったため、原則として長らく使用されることはなかった。
 
* 2013年から「スタージェット」(球場外へ飛び出す可能性が低く、球場周辺の[[横浜公園]]の環境面やポイ捨て禁止条例遵守、近くを走る電車への影響という安全面でも優れた風船)のみ使用可能となった<ref>{{Cite web |date = 2013-03-19 |url = https://www.baystars.co.jp/news/2013/03/0319_03.php |title = 『OPENING SERIES 2013 夢のクライマックスシリーズへ!』 ニュース第2弾 ロケット風船『スタージェット』をプレゼント |publisher = 横浜DeNAベイスターズ |accessdate = 2015-10-08 }}</ref>。同年より横浜ファンも風船の使用を開始し、7回表終了後に青色の風船、勝利時には水色の風船を飛ばしたが、2015年より発売されているものには青色のみが入っており、水色のものは使われなくなった。
 
** ただしこの以前にも他球場において、例外的に横浜ファンが大々的にジェット風船飛ばしを行った事例がある。2006年5月27日の[[神戸総合運動公園野球場|スカイマークスタジアム]]での[[オリックス・バファローズ]]戦でスポンサーの神戸トヨペットが先着2万人に配った創立50周年記念のジェット風船を横浜ファンも飛ばしていた。2011年6月12日の[[札幌ドーム]](当時同球場でジェット風船の使用は禁止されていたが、この試合のみ実験的に解禁。問題がなかったことが判明し、2012年シーズンより全面使用解禁)での[[北海道日本ハムファイターズ]]戦において、横浜ファンも青色のジェット風船を飛ばした。
 
* 2007年より試合時、初回先頭打者に対して「勝利の輝き ファンファーレ」が演奏されるようになった(初期はビジターのみ)。
 
* [[東北楽天ゴールデンイーグルス]]の本拠地・[[宮城球場|楽天Koboスタジアム宮城]]ではトランペットおよび笛の使用が禁止されているため、メロディー部の口ラッパを含め応援歌の歌唱をアカペラで行う。ヒットによる出塁や盗塁時に「いいぞ いいぞ ○○(人名)」を、四死球や野手選択など相手のミスによる出進塁時に「Let's Go Let's Go ○○(人名)」を通常の三三七拍子に変えてコールする。宮城球場以外でも、鳴り物応援を自粛する22時以降にはこの応援を行う。
 
* ヒットでの出塁の際はファンファーレ(三三七拍子)の後に、ヒットを打った選手の名前をスリーコールする。
 
* 2010年、2011年に在籍した[[ターメル・スレッジ]]には、交流戦でのみ日本ハム時代の応援歌と横浜での応援歌<ref group="注">かつて在籍した[[デーブ・ドスター]]のCD収録版応援歌のメロディを流用したもので、歌詞は新規。ドスター在籍時には実際に演奏されることはなかった。</ref>を交互に演奏することがあった。
 
* 2010年7月に、当時在籍していた[[内川聖一]]の応援歌(過去1993年に[[高木豊]]の応援歌として製作し使用されたもの)をサビに使用した楽曲「[[頑張って いつだって 信じてる]]」が、同年5月にデビューしたアイドルグループ・[[東京女子流]]によりリリースされた。同曲は、内川本人の登場曲として、実際に球場で使用されたことがあった。
 
* 2016年より、四球、ホームラン、勝利時のファンファーレに[[横浜市歌]]のメロディが使われている。この年はサビのみ演奏されたが2017年から四球はAメロ部分に変更された。
 
 
 
 
 
==== 私設応援団 ====
 
DeNA球団では[[特別応援許可|NPB特別応援許可]]を受けた以下の団体が応援を指揮する。
 
# [[横浜DeNAベイスターズの応援団#横浜ベイスターズを愛する会|横浜ベイスターズを愛する会]]
 
# [[横浜DeNAベイスターズの応援団#全国星覇会|全国星覇会]]
 
# [[湘南海坊主 (SHONAN SEABOSE)]]<ref group="注">球団の二軍を専門に応援する団体である。</ref>
 
# [[横浜ベイスターズ下関ファン集いの会]]
 
 
 
=== 戦いぶり ===
 
*[[1998年の日本シリーズ]]で横浜スタジアムでの胴上げ([[1960年の日本シリーズ]]は毎日大映オリオンズの本拠地・[[後楽園球場]])を果たしているが、リーグ優勝はいずれもビジターでの達成(1960年・1998年ともに[[阪神甲子園球場]])である<ref>横浜ベイスターズ記録サイトあと何?大洋ホエールズ60年全試合http://www.kernelsupport.co.jp/atonan/nenndobetuseiseki/zen60nen.htm{{信頼性要検証|date=2015-10}}</ref>。
 
*2017年終了時点で日本シリーズ出場は3回で現存するセ・リーグ6球団の中では最少だが、2016年まで敗退がなく、2005年発足で敗退のない楽天を除けば現存11球団で最も日本シリーズの敗退が遅かった。また、試合勝率.625は出場全球団のうち最高の記録である。また、[[2017年の日本シリーズ]]の第3戦の黒星は日本シリーズで本拠地での初黒星となった。それまでは一度も本拠地で負けたことがなかった<ref>[[1960年の日本シリーズ|1960年のシリーズ]]は4勝無敗で日本一、[[1998年の日本シリーズ|1998年のシリーズ]]では第3戦と第4戦で黒星を喫したが、いずれも[[西武ドーム|西武球場]]だった。</ref>。
 
*現存するセ・リーグ6球団の中で唯一、球団OB(選手としての在籍経験者)監督の下でのリーグ優勝・日本シリーズ制覇を一度も達成していない。優勝監督の[[三原脩]]と[[権藤博]]はいずれも本球団に選手として在籍した経験はない。2017年に日本シリーズ出場した時の監督であるアレックス・ラミレスはDeNAのOBであるが、レギュラーシーズンは3位である。
 
*現存するセ・リーグ5球団全てに対して通算対戦成績が負け越している。現存するセ・リーグ6球団の中ではAクラス入り回数が最少(2017年終了時点で17回)。3シーズン連続90敗を唯一記録している球団であり(2008年 - 2010年)、他に2シーズン連続90敗を記録している(1954年 - 1955年)。2シーズン連続90敗は現存する12球団では唯一の記録である(解散球団では過去に[[高橋ユニオンズ|トンボユニオンズ・高橋ユニオンズ]]や[[大阪近鉄バファローズ|近鉄パールス・近鉄バファロー]]が記録)。3シーズン連続90敗はこれまで延べ5チームが喫した2シーズン連続を上回るプロ野球ワースト記録。また、この球団のシーズン90敗以上は6回。2008年から2012年まで5年連続で勝率.399以下を記録し、これは1957年から1961年までの近鉄パールス以来50年ぶりの記録である。シーズン最下位23回は、消滅した球団も含めて日本プロ野球全球団で最多。
 
*2007年シーズンから導入された[[クライマックスシリーズ]]に2016年に初出場を果たしたが、これは12球団で最も遅いCS初出場であり「悲願」とする見方もあった<ref>{{cite web|url=http://mainichi.jp/articles/20160920/k00/00m/050/085000c|title=悲願のCS切符…粘りの起用、守護神進化|accessdate=20160923}}</ref>。また、同年のファイナルステージ進出および2017年のCS初突破はセ・リーグで一番遅い。また、2017年終了時点で12球団で唯一CSを主催ゲームで開催していない。
 
*セ・リーグ6球団では唯一[[最優秀選手 (日本プロ野球)|シーズンMVP]]に選ばれた野手が1人もいない球団である。
 
*打者有利な横浜スタジアムをホームにしているため、以前はマシンガン打線に代表された98年のように打ちまくる、投手は先発勝ち投手の権利を得ると5~7回で降板し中継ぎに託す粗い戦法が得意なチームだったが親会社がDeNAになってからはチームカラーを一新し、GMに[[高田繁]]を招聘し日本ハム時代に採用した「BOS」(ベースボール・オペレーション・システム)を本にしたチーム作成、スカウトに着手している。<ref>[http://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3670/index.html “常識破り”の球団改革 ~密着・DeNAベイスターズ~]2017年2月17日閲覧。</ref>BOSについて詳しくは[[北海道日本ハムファイターズ]]を参照。
 
 
 
=== 営業・ファンサービス ===
 
{{出典の明記|date=2013年1月|section=1}}
 
* レフト側外野指定席の一部を対戦カード別年間指定席として発売している。2007年は三塁側内野指定席の一部についても「ビジターシート」として対戦カード別年間指定席が発売された。
 
* 2005年から、エグゼクディブ・アドバイザーの[[石橋貴明]]([[とんねるず]])<ref group="注">牛島和彦監督(当時)がテレビ番組で頼み込んでの就任</ref>の意向で、[[横浜スタジアム]]の可動席前(一・三塁付近)にあったネットが撤去された。選手とファンとの距離感が縮まり、試合前や勝利時には選手とのコミュニケーションが取れるようになっている。この付近の席に人気が集中したため、2006年からFA席・FB席新設という形で事実上のチケット値上げが行われた。
 
* 試合前や試合中に行われるイベントの種類と回数がかなり多く、攻守交代時のうち半分程度は何かイベントが行われている。
 
* [[2012年]]から[[読売ジャイアンツ]]・[[東京ヤクルトスワローズ]]との合同で『'''[[セントラル・リーグ首都圏3球団合同企画 GSDB〜Get Stamp&DeKA Badge!|GSDBプロジェクト]]'''』を立ち上げ、ファンクラブ会員限定イベントの実施の他該当試合の前売りチケット優先販売や球場DJ・チアチーム・マスコットキャラクターの相互訪問やファンクラブ会員に限り巨人・ヤクルト主催のDeNA戦で来場ポイントの付与を行っている。
 
*: ''以下は2016年時点のもの''
 
<!-- 2016年での実施が確認出来た時点でコメントアウトを解除 -->
 
** スピードガンコンテスト(試合ごとに異なる募集形式で選ばれた10名がマウンドから投げる、ホーム最終戦はマスコミ記者対抗戦が行われるのが恒例[[読売新聞グループ]]各社(読売新聞・日本テレビ・スポーツ報知)の記者には必ず[[ブーイング]]または野次が飛ぶ)。
 
** BAYスマイルショット(オーロラビジョンを使用した写真撮影、試合前と試合中に数回ずつ)
 
** ベイスターズスーパーバズーカ(客席に子供向けのシャツやカラーボールを発射、試合中に2回)
 
** ドッカーン!FLY CATCH(2名がフライキャッチに挑戦、成功すればホットドッグのトッピング量2倍などの特典)
 
<!-- **アップグレードシート(小中学生を含む4名までのグループをバックネット裏に招待) -->
 
** ハッピースターダンスコンテスト(5回裏終了後。オーロラビジョンを使用したダンスコンテスト、一番多く映った人に賞品が送られる。賞品は2006年がグローブ、2007年が[[デサント]]提供の年間指定席ペア招待券、2016年が[[アットホーム]]提供のベイブルーシートペア招待券)
 
** サインボールの投げ入れ(ヒーローインタビューに出た選手のもの)
 
** 横浜スタジアムでは交流戦と相手チームのマスコットが来場している時、そして(本球場での)同一カードシーズン最終戦に限り、7回にビジターの応援歌が流れる。
 
 
 
=== 株主構成 ===
 
: ''[[2016年]][[3月31日]]現在''
 
# 株式会社[[ディー・エヌ・エー]] 127万株(97.69%)<ref>株式会社ディー・エヌ・エー2013年3月期以降の有価証券報告書【企業の概況】4【関係会社の状況】参照</ref>
 
# 株式会社[[東京放送ホールディングス]] 3万株(2.31%)<ref>「横浜ベイスターズ株の譲渡完了 TBSからDeNA」[[日本経済新聞]]12月2日付 [http://www.nikkei.com/article/DGXNASDD020JL_S1A201C1TJ1000/]2017年1月29日閲覧</ref><ref>株式会社ディー・エヌ・エー2012年3月期の有価証券報告書記載内容には日本経済新聞12月2日付記事の記載通り持株比率が66.9%と記載されているので、少なくとも2013年3月までにディー・エヌ・エーは第二位株主だった[[ニッポン放送]]より30.79%を取得し、買い増している。</ref>
 
==== マルハからTBSへの筆頭株主交代 ====
 
[[2001年]][[11月16日]]、経営が悪化していた当時の親会社・[[マルハ]]が球団株の第2位の株主だった[[ニッポン放送]]への球団株譲渡(身売り)を発表し、[[日本野球機構|NPB]]も一旦はこれを認めた。ところが10日以上も経ったところで[[読売ジャイアンツ]]の[[渡邉恒雄]]オーナーが「ニッポン放送の持分法適用関連会社である[[フジテレビジョン|フジテレビ]]が[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]の球団株を所有しており、横浜球団のニッポン放送への売却は野球協約に抵触する」と異議を申し立て、これをきっかけにニッポン放送への球団株売却は頓挫。最終的に第3位株主のTBS([[東京放送ホールディングス|東京放送]])に譲渡された。この際、TBSがもともとベイスターズの株主企業のひとつだったことから「筆頭株主の交代」という判断が下された。この判断により当時の野球協約に規定されている球団譲渡を受ける際の加盟料30億円{{Refnest|group="注"|当時は新規加盟(球団譲渡を伴わない全くの新チーム)の場合は60億円だった([http://www.geocities.jp/baseball_wind21/kabu3ikenn.html 株式譲渡意見書]{{信頼性要検証|date=2015-10}}参照)。現在は新規加盟・譲渡を問わず加盟料は30億円(うち25億円は預託金)である<ref>{{Cite news |title = TBS買収時は新規加盟料30億円免除 |newspaper = スポーツニッポン |date = 2010-10-01 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/2010npb/baystars5/KFullNormal20101001156.html |accessdate = 2015-10-08 }}</ref>。}}の支払いは不要とされた。
 
 
 
それまでの球団の身売りは球団名からユニホームまで一新されるケースばかりだったが、マルハ→TBSのケースは球団名もユニホームもそのまま残された。唯一変わったところは、ユニホームの袖についたTBSのロゴマークが入ったワッペンだけである。横浜ファンでもある[[コラムニスト]]の[[綱島理友]]は「ファンを悲しませない最もスマートなやり方。球団の身売りはこうあるべきだ」と高く評価している。
 
 
 
2005年10月、[[楽天]]がTBSの株式を大量購入して筆頭株主となった。しかし、楽天がすでに[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]を運営していることから野球協約違反になる可能性が再浮上した。11月に楽天側は経営統合を撤回、資本・業務提携となったが、TBSが[[放送持株会社|認定放送持株会社]]東京放送ホールディングス(以下TBSHD)に移行したことから楽天は買収を断念して反対株主の[[株式買取請求権]]を使い、TBSHDに保有全株式の買取請求を行ったことで問題は収束した。
 
 
 
==== TBS時代以降の放映権 ====
 
{{See also|放映権 (日本プロ野球)}}
 
TBSHDが筆頭株主(事実上のオーナーと目される)であった時代も、傘下([[子会社]])の放送局である[[TBSテレビ]]・[[TBSラジオ]]では、週末午後に行っていた対巨人戦以外の中継は、大洋漁業からマルハ保有時代よりも減少し、散発的に行われた程度だった。巨人戦以外は[[視聴率]]と[[聴取率]]が取れないことにも起因していた。テレビ中継は通常[[テレビ神奈川]]が単独で放送<ref group="注">2000年代後半頃、番組名が[[tvkプロ野球中継 横浜DeNAベイスターズ熱烈LIVE]]であっても、TBSテレビでの地上波中継の無い主催試合の場合、tvk制作の中継ではなく、BS-TBS・TBSニュースバードの[[SAMURAI BASEBALL|BANG BANG BASEBALL]]を購入して同時放送を行う傾向にあった。</ref>し、同局で放送しないデーゲーム分のみ、自社か[[テレビ東京]]系列(対中日戦は[[テレビ愛知]]、対阪神戦は[[テレビ大阪]])の中継で補っていた。フジテレビもニッポン放送との資本関係上放映権は保有しているが、2006年以降自社での放送から撤退し、対戦相手の地元系列局(対阪神戦は[[関西テレビ放送|関西テレビ]]、対ソフトバンク戦は[[テレビ西日本]])制作中継のために使っていた。
 
 
 
CS放送については、2002年にマルハからTBSグループに譲渡されてからも、しばらくは巨人戦のTBS系中継実施時のみ[[TBSニュースバード]]で放送するも、当時フジテレビ系のCSであった[[J SPORTS]](のちに[[スポーツ・アイ ESPN]]との合併の際、TBSも資本参加)で中継していたが、[[2008年]]以後TBSニュースバードに放送チャンネルが移行している。[[2014年]]シーズンより[[TBSチャンネル|TBSチャンネル2]]に移行された<ref group="注">ただし完全移行は2014年6月からで、4・5月はTBSch2が視聴できない[[ケーブルテレビ局]]への配慮を含めた視聴者保護と、円滑なチャンネル移行が行えるようにするための経過処置として、地上波・[[BS-TBS]]での放送がない16試合を対象に、ニュースバードとTBSch2の並列放送を実施した。</ref><ref>[http://www.tbs.co.jp/tbs-ch/oshirase/201312091043.html お知らせ]{{リンク切れ|date=2015年10月}} TBSチャンネル公式サイト(2014年3月13日閲覧)・[http://www.tbs.co.jp/newsbird/nb_baseball_release.pdf プロ野球中継に関するプレスリリース CS放送「TBSニュースバード」と「TBSチャンネル2」で4月・5月の横浜DeNAベイスターズ主催16試合を同時完全生中継決定]{{リンク切れ|date=2015年10月}} TBSテレビ 2014年3月14日。9月6日閲覧</ref>。
 
 
 
ラジオ中継はTBSラジオが[[基幹局]]を務める[[JRN|JRN系]]、ニッポン放送が基幹局を務める[[全国ラジオネットワーク|NRN系]]で裏送りも含めて中継していた。主に対巨人戦が雨天中止になった時の予備カードや、対巨人戦がないときに放送された<ref group="注">他に[[フジ・メディア・ホールディングス]]の主要株主であり、ニッポン放送とともにNRN基幹局を務めるラジオ局でもある[[文化放送]]の[[文化放送ライオンズナイター]]、[[文化放送ホームランナイター]]、同社が技術協力する[[NACK5 SATURDAY&SUNDAY LIONS]]([[エフエムナックファイブ|NACK5]])、[[アール・エフ・ラジオ日本|RFラジオ日本]]の[[ラジオ日本ジャイアンツナイター]]で主催試合を中継する場合があった。</ref>。親会社でなくなった2012年以降もベイスターズの株を保有しており、テレビもしくはラジオの放送を従前通り継続している。
 
 
 
DeNAがオーナー会社となった2012年以降は、各[[ライブ配信]]サービスでの主催試合生中継も展開している。2012年から[[ニコニコ生放送]]で全主催試合を配信しているほか、2015年からはDeNAから分割した『SHOWROOM株式会社』運営の[[SHOWROOM (ストリーミングサービス)|SHOWROOM]]でも配信<ref>2015年5月までは無料。以降は試合の3回終了まで無料、4回以降の視聴は有料チャンネル入会要。[https://www.showroom-live.com/campaign/baystars 横浜DeNAベイスターズ SHOWROOM PASS]</ref>している。さらに2016年終盤から[[パフォーム・グループ#DAZN|DAZN]](入会有料)、2017年から[[スポナビライブ]](入会有料)、同じく2017年から[[AbemaTV]](無料)でも全主催試合の配信を行っている<ref>{{Cite web |url=https://abematimes.com/posts/3813000 |title=横浜DeNAベイスターズ公式戦をAbemaTVで完全無料生中継 |publisher=AbemaTIMES  |date=2018年3月7日 |accessdate=2018年3月26日 }}</ref>。
 
 
 
=== その他 ===
 
* 球団関連会社からファンマガジン『[[月刊ベイスターズ]]』を発売(毎月25日)していた。2010年12月号を持って休刊。
 
* TBS時代まで横浜スタジアム側から、選手強化費用として毎年3億円を球団に還元していた<ref>{{cite news |title=DeNA、横浜スタジアムと7年契約=プロ野球 |newspaper=時事通信 |date=2012-03-07 |url=http://www.jiji.com/jc/zc?k=201203/2012030700412 |accessdate=2012-03-12}}{{リンク切れ|date=2015年10月}}</ref>。
 
* 株式会社煙草屋安兵衛が展開する食料品店チェーン「ベイスターズマート(旧名:ホエールズマート)」が神奈川県内に40店ほど存在する。
 
 
 
== ユニフォームの変遷 ==
 
{{出典の明記|date=2013年1月|section=1}}
 
=== 一軍 ===
 
==== 下関時代(旧・大洋ホエールズ時代) ====
 
* [[1950年]] - [[1951年]] 白は「WHALES」。グレーは「Whales」と「WHALES」を併用。白とグレーの「WHALES」は球団ロゴが左胸についた[[サンフランシスコ・シールズ]]型<ref>[[綱島理友]]『日本プロ野球ユニフォーム大図鑑 中』[[ベースボール・マガジン社]]、2013年、26頁。</ref>。
 
* 1951年 ロゴが筆記体の「W」に変更される。同時にビジター用の定番となる「TAIYO」の印が初登場。
 
* [[1952年]] 胸に「TAIYO WHALES」と書かれたビジター用が登場。この年監督に就任した[[小西得郎]]が当時の[[ピッツバーグ・パイレーツ]]のビジター用ユニフォームを参考にしたものである<ref>綱島、28頁。</ref>。このフルレターユニフォームはシーズンオフに[[松竹ロビンス]]と合併したため1年間しか使われなかったが、[[1959年]]に1年間だけ復活している。
 
 
 
==== 大阪時代(ロビンス時代) ====
 
* [[1953年]] 松竹ロビンスと合併し、球団名が大洋松竹ロビンスに変更。帽子は黒地にTとSの組み合わせ(Tが銀糸、Sが金糸)。黒いロゴと赤いロゴはホーム用で春・秋用。ノースリーブで赤いロゴのユニフォームは夏用であった。ビジター用は「Taiyo Shochiku Robins」の頭文字を取って筆記体で「TSR」。
 
* [[1954年]] 球団名が洋松ロビンスに変更。ホーム用とビジター用は同じデザイン。
 
 
 
==== 川崎時代(新・大洋ホエールズ時代) ====
 
* [[1955年]] 松竹が球団経営から撤退し、球団名が大洋ホエールズに戻る。同時にロゴの中に線が入ったユニフォームが登場。左袖に「KANAGAWA」の印が入る。
 
** 左袖のマークはK・N・G・Wの4文字がAを取り囲む形となっている。この年に新しい本拠地に定めた[[神奈川県|神奈川(かながわ)]]の4文字がいずれも「あ」を[[母音]]とする点に着目したもので、神奈川に対する思いを表現したものとなっている<ref>綱島、35頁。</ref>。
 
* 1955年 - [[1958年]] [[ロサンゼルス・ドジャース|ブルックリン・ドジャース(現在のロサンゼルス・ドジャース)]]を参考にしたユニフォームに変更。左袖のワッペンは最初は「KANAGAWA」だったが、[[1957年]]から親会社・大洋漁業の[[社章]]「まるはマーク」に変更。
 
* 1959年 - [[1962年]] クリーム地に橙色の「Whales」ロゴ。1959年のみ帽子マークは「T」と「W」を重ね合わせたものを使用し、ビジター用は「TAIYOWHALES」とチーム名を全て表記したものを使用。翌[[1960年]]から帽子マークは「T」となり、ビジター用は再び「TAIYO」表記に。この1960年から白地となり、胸番号が入る。[[1960年の日本シリーズ]]および[[1961年]]には左袖にチャンピオンマークが入る。
 
* [[1963年]] 1年間だけ白地に赤の「Whales」ロゴ(黒い縁取り入り)。ビジター用の「TAIYO」のロゴが太くなり、線がオレンジ色から赤に変更される。
 
* [[1964年]] - [[1972年]] 白地に黒の「Whales」ロゴ(赤い縁どり入り、レターが逆転)。[[1968年]]に帽子の印が筆記体の「W」となる。この「W」の書体は、[[テキサス・レンジャーズ|当時のワシントン・セネタース(現在のテキサス・レンジャーズ)]]の帽子と同じ<ref group="注">[[2005年]]には[[ワシントン・ナショナルズ]]の帽子として復活した。</ref>。背中に名前が入るのもこのユニフォームからである。ホーム用は「KAWASAKI」と本拠地の[[川崎市]]を意味する英文字が、ビジター用は選手の名前を英文字でそれぞれ使われた<ref name="ユニフォーム">綱島、40 - 41頁。</ref>。その後、ホーム用は選手名のものと併用される<ref name="ユニフォーム" />。
 
* [[1973年]] 白地でオレンジ色のロゴが1シーズンだけ復活。背番号の上の「KAWASAKI」(ビジター用のみ。ホーム用は選手名)もこれが最後。
 
** 帽子の色は黒にオレンジ色のW。アンダーシャツ・ストッキング・スパイクシューズの色は黒。(スパイクシューズはラインなし)ユニフォームはホーム用の地色が白でビジター用がライトグレー。ホーム用の筆記体のWhalesロゴとビジター用のTAIYOロゴ、胸背番号、背番号の上のネームがオレンジを黒で囲んだものとなり襟袖ズボンラインもオレンジを黒で囲んだものとなる。帽子のWマークはそれまでの筆記体から斜体がかったデザインに変更。左袖に○はマーク。
 
* [[1974年]] - [[1977年]] 基本色が[[湘南電車]]カラーと呼ばれたものになる(経緯については[[横浜DeNAベイスターズ#湘南電車カラーのユニフォーム|後述]])。
 
** 帽子はグリーン地にツバ・天ボタン・空気穴がオレンジ。マークはオレンジに白で囲われた「W」。
 
** ホーム用は、白地でないものを採用。オレンジ色地に緑の「Whales」ロゴ(白い縁取り入り)が入ったユニフォームを使用。
 
** ビジター用は緑地に橙色「TAIYO」ロゴ(白い縁取り入り)となっている。
 
** パンツはホーム用・ビジター用ともベルトレス。
 
*** [[1977年]]後半から、袖の「丸に『は』(まるは)」マークが「鯨に乗った少年」のイラストに変更。また、ビジター用の胸マーク、背番号、背ネームの白縁取りがなくなり、背番号が若干小さくなる。
 
 
 
==== 横浜時代 ====
 
===== 横浜大洋時代 =====
 
* [[1978年]] - [[1992年]] 本拠地が川崎から横浜へ移転し、球団名が横浜大洋ホエールズに変更され、チームカラーが紺一色になる。帽子は紺色でマークは白で「W」。
 
** ホーム用は、白地にマリンブルー(紺色)のライン。胸に本拠地名のロゴ「YOKOHAMA」(紺色)、左袖に「TAIYO」(同)。
 
** ビジター用は、上着が紺色に白(ホーム用と逆)で「TAIYO」、左袖に「WHALES」。「TAIYO」、「WHALES」のロゴはこれが最後。パンツはグレー<ref group="注">ビジター用のユニフォームはスリムなデザインが受けて全国の草野球チームでこれを模倣したユニフォームが使われるほどであった。</ref>。
 
** スパイクは、[[ローリングス]](日本での発売元は[[アシックス]])を使用し、当時の12球団では唯一の採用であった。
 
** [[1980年]]、ヘルメットの横に自分が打ったホームランの数だけ星印のシール(通称:ホームランスター)を貼る制度を導入。
 
 
 
===== 横浜ベイスターズ時代 =====
 
* [[1993年]] - [[2008年]] 球団名が横浜ベイスターズに変更され、ユニフォームも一新。チームカラーのマリンブルーと呼ばれる青<ref group="注">ブルーアズール=藍青色</ref>を基調とし、スパイクも青地に白線となる。ユニホームは第3ボタンまで脱着可能(後は飾りボタン)のプルオーバータイプとなる。背番号、胸番号、選手名は日本球界で初めて[[カッパー・プレート・ゴシック]]と呼ばれる製版業で使われる書体を採用。途中若干のマイナーチェンジはあったが、球団史上最長の16シーズン採用されたデザインとなった。帽子は、青地に白の「β」、後ろに☆が3つ。
 
** ホーム用は白地に青のピンストライプ。青地に白の縁取りの「'''BayStars'''」のロゴ。胸番号、背番号は黒、選手名は青となる。
 
** ビジター用は上着が青、パンツが白で、袖とパンツに2本線(上着は白、パンツは青)が入る。胸ゴロは白ので「YOKOHAMA」の文字と'''β'''の印、選手名、背番号、胸番号は白。
 
*** [[1996年]] - [[大矢明彦]]監督就任と同時に、帽子のマークの☆の数が3つから1つに変更(デザインは、☆の中にβが入る。色は白)。
 
*** [[2001年]] - スパイクの色が白地に青線になる。
 
*** [[2003年]] - パンツの2本線が細くなる。
 
*** [[2004年]] - 袖の2本線が細くなる。
 
*** [[2006年]] - ビジター用の左胸の'''''β'''''の後ろにある星のマークが消え、「YOKOHAMA '''''β'''''」のみとなる。ホーム用の白地が明るくなり、ピンストライプ部分が刺繍からプリントになる。
 
* [[2009年]] - [[2011年]] 横浜開港150周年に合わせてホーム・ビジターとも一新。胸元にyokohamaの頭文字にちなみ「Yネック」を採用。プロ野球では2001年の[[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]]以来となる前開きでないプルオーバータイプを採用する。胸番号・背番号がゴシック体のような書体になる。アンダーシャツ、ベルト、スパイクの色が紺。帽子のマークから☆マークが消え、「β」のみになる。
 
** ホーム用はピンストライプがなくなり、左胸に「β」の印、右腹部に背番号。両肩に銀色の星マークが入る。「BAYSTARS」の大文字ロゴがパンツの左側線に入る。背ネームは幅狭。
 
** ビジター用はグレー地、白のピンストライプ、前面に筆記体の「Yokohama」の文字、左腹部に背番号。ビジター用のみ帽子のツバの色が青色。背ネームはホームに比べて幅広。
 
*** [[2010年]] 主催ゲームの初戦に限り、ホーム用の両肩の星マークの色を「金星をつかむ」という意味を込めて金色に変更。ただし、実際には初戦以外でも使われ、事実上「金星タイプ」がデフォルトとなった。
 
*** [[2011年]] 主将の[[村田修一]]のユニフォームに「C」と「[[錨]]」を組み合わせたキャプテンマークをつけた。ホーム用は右袖、ビジター用は左胸に装着。
 
 
 
===== 横浜DeNA時代 =====
 
* [[2012年]] - [[2014年]] 球団名が横浜DeNAベイスターズに変更され、新しい球団としてスタートしたことに伴い、ユニフォームのデザインを一新。新しいユニフォームのデザインコンセプトは、チームロゴ、プライマリーマークと同様に、「継承と革新」。「ワクワク感」「強さ・かっこ良さ」等、ファンが球団に期待する要素をイメージしてデザイン。帽子のマークがホーム用とビジター用で違うなど、斬新なアイデアが盛り込まれた。
 
** ホーム用は「継承と革新」をコンセプトに1993年から2008年まで使われたデザインを踏襲、4季ぶりに縦じまが採用され、1998年に日本一に輝いた当時のユニホームを彷彿とさせるデザインとなった。白を基調にライトブルーの縦線で、上下縦じまを採用。胸には新球団のロゴを据えられたほか、脇下には濃紺、袖口・首回りにはライトブルーのラインがそえられた。帽子は濃紺を地色にチームのシンボルマークの「B」。
 
** ビジター用の上は濃紺がベースとした単一カラーで袖口や首回り、ラケットラインには薄い青。ズボンは白と濃紺の二種類を用意、上下とも濃紺のユニホームを着用することもある。背番号・胸番号と胸の「BAYSTARS」の文字は「横浜の海」をイメージし、白と水色のグラデーションがかかったデザインとなった。帽子には濃紺を地色にチームの象徴でもある「星」をあしらった。
 
*** 主将に任命された[[石川雄洋]]のユニフォーム左胸上部には、キャプテンマークの「C(ホーム用は白縁に赤、ビジター用は黒縁に金色)」の文字が入る。
 
*** 7月3日から5日の対巨人戦では、本拠地の横浜スタジアムでビジター用ユニフォームを着用するイベントを開催。ただし、ソックスはイベント用に作られたもの(紺色地にブルーの二本線)を使用。
 
* [[2013年]] - 現在使用しているホーム用・ビジター用ユニフォームに加えて、新たに「第3のユニフォーム(サードユニフォーム)」が登場。3月29日の中日戦から年間を通して週末のビジターゲームを中心に着用する(月曜日の試合も着用)。
 
** デザインは1993年から2008年まで使用していたビジターユニフォームを彷彿とさせる「ベイスターズブルー」をメインカラーに採用、首回りと袖口に水色が据えられた。左袖にチームロゴ、胸に「'''YOKOHAMA :DeNA'''」のロゴ、:DeNAの文字の下に胸番号。ロゴ・胸番号・背番号・背ネームは、白字でネイビーと水色で縁取り。ズボンは白で、水色の線が入る。帽子は青地に白字で「''':De'''」(ネイビーと水色で縁取り)<ref>{{Cite web |date = 2013-03-12 |url = http://www.baystars.co.jp/news/2013/03/0312_04.php |title = 伝統の“ベイスターズブルー”を継承 サードユニフォームで週末ビジターゲームも青く燃える! |publisher = 横浜DeNAベイスターズ |accessdate = 2015-10-11 }}</ref>。
 
** なお、現在使用しているユニフォームの背ネームに関して、[[井納翔一]] (INOH) や[[大原慎司]] (S.OHHARA) のように[[ローマ字|ヘボン式ローマ字]]表記とは別に、[[大田阿斗里]] (ŌTA) のように[[ローマ字#日本国内規格|訓令式]]ローマ字(かつて、[[オリックス・バファローズ|阪急ブレーブス]]が採用した)表記が混在していた。
 
* 2014年 - 前年使用したサードユニフォームの勝率が.575のハイアベレージを記録し、2014年はより多くの試合で日本一当時のブルーを継承して試合に臨み、更なる躍進を目指して、ビジターユニフォームとして導入。デザインは、胸ロゴが「''':DeNA'''」に変更になり右袖に「'''YOKOHAMA'''」で、それ以外は前年のサードユニフォームと同じ<ref>{{Cite web |date = 2014-01-24 |url = http://www.baystars.co.jp/news/2014/01/0124_05.php |title = ビジターユニフォーム変更のお知らせ |publisher = 横浜DeNAベイスターズ |accessdate = 2015-10-11 }}</ref>。
 
* [[2015年]] - ホームユニフォームを変更。
 
** デザインは前年まで使用したホームユニフォームと同じで、メインカラーを「海と港の街」横浜をイメージした鮮やかな「横浜ブルー」に変更。また、ユニフォームの首元の裏に選手自身が大事にしているスローガンや目標を言葉にした「Personal slogan」が記される。帽子は「横浜ブルー」にチームのシンボルマークの「B」。[[ヘルメット]]が星に照らされて輝く海をイメージした「横浜ブルーメタリック」。
 
* [[2016年]] - 親会社がDeNAとなって5周年を記念しビジターユニフォームを変更。
 
** 「海と港の街、横浜」をコンセプトに、これまで、ビジターユニフォームの胸に配していた「DeNA」のロゴを「横浜に根づき、横浜と共に歩む」という想いから「YOKOHAMA」に変更。球団のメインカラー「横浜ブルー」をベースに、青色の濃淡のストライプを使って、横浜の澄み渡る青い空と海を表現したデザイン<ref>{{Cite web |date = 2016-01-09 |url = http://www.baystars.co.jp/news/2016/01/0109_01.php |title = 2016シーズンよりビジターユニフォームをフルモデルチェンジ 〜球団創設5周年を機に、胸のロゴから「DeNA」を外し「YOKOHAMA」を配します〜 |publisher = 横浜DeNAベイスターズ |accessdate= 2016-01-10 }}</ref>。
 
* [[2018年]] - ビジターゲーム用のキャップデザインを変更。”YOKOHAMA”に対する皆様の想い・誇りと共に敵地で戦うという強い意志を込め、従来の「:De」から、ビジターユニフォーム胸部の「YOKOHAMA」の「Y」と同じデザインに変更した<ref>{{Cite web |date = 2018-01-18 |url = http://www.baystars.co.jp/news/2018/01/0118_02.php |title = 2018年シーズンよりビジターキャップのロゴが地域名に!
 
~DeNAの『De』からYOKOHAMAの『Y』へ~ |publisher = 横浜DeNAベイスターズ |accessdate= 2018-01-19 }}</ref>。
 
 
 
=== 二軍 ===
 
* 2000年 - 2010年 二軍の独立採算化と一軍との差別化を目的に、二軍の球団名を「'''湘南シーレックス'''」に変更し、ユニフォームも独自のものを使用。帽子は紺色を地色に白の「S」マーク、ツバはエメラルドグリーン。
 
** ホーム用:シャツは白地にエメラルドグリーンの首元から胸にかけてのラケットラインと袖口のラインが入り、胸にエメラルドグリーンで筆記体の「Searex」ロゴ、胸番号・背ネーム・背番号は黒、パンツは白地に横に青緑色のライン、アンダーシャツは青緑色。
 
** ビジター用:シャツはエメラルドグリーン(ラインなし)、胸に白で筆記体の「Shonan」ロゴ、胸番号・背ネーム・背番号は白、パンツは白地に横にエメラルドグリーンのライン、アンダーシャツは青。
 
* 日本のプロ野球球団のユニフォームの多くは、背番号・背ネーム部分をユニフォームの生地に直付け(刺繍もしくはプリント)しているが、湘南のユニフォームの背ネーム部分は、アーチ状の生地にネームをプリントしたものをユニフォームの生地に縫い付けている。これは「シーレックスに定着されては困る」という励ましの意味で、2012年現在、日本のプロ野球球団に於いては唯一のケースである。
 
 
 
=== 交流戦限定ユニフォーム ===
 
* 2005年 - 2006年 ホーム用はピンストライプがなくなって左胸には「β」の印、右袖に背番号。左袖にTBSのロゴのワッペン。ビジター用は灰色の下地に前面に筆記体で「Yokohama」の文字、ホーム用と同じく右袖にも背番号。
 
* 2007年 - 2008年 ホーム用のみとなり、チームカラーの青を一切使わない紺基本のユニフォーム。左胸には「β」の印、右胸に背番号が紺に金の縁取り。両脇には[[横浜赤レンガ倉庫]]をイメージした臙脂色が用いられる<ref group="注">当時使用された楽天の交流戦ユニフォーム(ホーム用)とよく似ている。</ref>。
 
* 2009年以降は登場していない。
 
 
 
=== 夏季限定ユニフォーム ===
 
[[File:20130803_Shuichirou_Osada,_pitcher_of_the_Yokohama_DeNA_BayStars,_at_Yokohama_Stadium.JPG|thumb|『YOKOHAMA STAR☆NIGHT 2013』限定ユニフォーム([[長田秀一郎]])]]
 
; 横浜時代
 
[[2004年]]から毎年原則で、夏季限定ユニフォームを採用しており、いずれも8月の主催ゲームで行われるのみである。交流戦・夏季限定ともに、2年ごとにデザインが変更されている<ref group="注">2008年は[[北京オリンピック|夏季オリンピック北京大会]]開催のため8月の主催ゲームが8カード21試合中13試合と少ないため、夏季限定ユニフォームの着用はなく、2009年も登場していない。</ref>。
 
* 2004年 - 2005年は白の下地の前面に「BayStars」のロゴが入り、脇下が青で当時の[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]のデザインとよく似ていた。両年とも期間終了後に選手のサインをいれてファンにプレゼントされる。背番号の氏名ローマ字は記載されていない。
 
* 2006年 - 2007年は白地の前面にブロック体で「BAYSTARS」の刺繍、その左上の方に背番号、左肩に「yokohama」、背中には背番号のみで首周りは青色で肩付近にかけてマリンブルーにし、帽子はマリンブルー地に「B」のみ。「ベータ・キャップ」と称される。
 
* 2010年は3年ぶりに夏季限定ユニフォームが登場した(2011年も同デザイン)。デザインは通常ホーム用をベースに、ラグランスリーブ部はグラデーション入りの青として背番号にも金の縁取りが入る。キャップは通常ビジター用をベースに、マーク部が金文字となる。
 
; 横浜DeNA時代
 
親会社がDeNAに変更されてからは、毎年夏に『YOKOHAMA STAR☆NIGHT(ヨコハマスターナイト)』というイベントが行われており、2013年からはその期間中限定でスペシャルユニホームが用意され、選手および監督・コーチはスペシャルユニホームを着用。
 
* 2013年8月2日からの対中日3連戦では、選手プロデュースによるイベント「YOKOHAMA STAR☆NIGHT 2013」の一環として、選手プロデュースの『YOKOHAMA STAR☆NIGHT』スペシャルユニフォームを着用<ref>{{Cite web |date = 2013-06-19 |url = http://www.baystars.co.jp/news/2013/06/0619_04.php |title = 『YOKOHAMA STAR☆NIGHT 2013』第1弾情報 球団初!スペシャルユニフォームを3日間連続で来場者プレゼント |publisher = 横浜DeNAベイスターズ |accessdate = 2015-10-11 }}{{Cite web |date = 2013-06-19 |url = http://www.baystars.co.jp/news/2013/06/0619_07.php |title = 『YOKOHAMA STAR☆NIGHT 2013』選手着用スペシャルユニフォームを発表 |publisher = 横浜DeNAベイスターズ |accessdate = 2015-10-11 }}</ref>。スペシャルユニホームのデザインは、「横浜の街もチームも星のように輝いて」という選手の思いから星空をイメージしたもので青を基調に空に輝く星空をイメージして肩や胸、背中などにかけて白い星がちりばめられたデザイン。胸には「YOKOHAMA」の文字が入る。帽子はサードユニフォームと同じもので、青地に白字で「''':De'''」(ネイビーと水色で縁取り)。
 
* 2014年8月8日からの対ヤクルト3連戦において行われた「YOKOHAMA STAR☆NIGHT 2014」の一環としてスペシャルユニフォームを着用。デザインは、夜空を彩る流れ星をイメージしたデザインです。プロ野球で一番輝く星になりたいという選手・ファンの思いを表現。ブルーをメインカラーにチームカラーの青や勝利の白星を意味する白で描かれた星をデザインし、キャップはビジター仕様のものを用いた。
 
* 2015年8月18日からの対ヤクルト3連戦において行われた「YOKOHAMA STAR☆NIGHT 2015」の一環としてスペシャルユニフォームを着用。デザインは「海と港の街・横浜」を象徴する港の光きらめく水面をモチーフに、水色、青、濃紺の爽やかな迷彩柄で、小さく12選手のシルエットも描かれている。キャップには、この3試合限定で勝利を意味する「白星」が刺繍されたものを用いた。
 
* 2016年8月5日からの対中日3連戦において行われた「YOKOHAMA STAR☆NIGHT 2016」の一環としてスペシャルユニフォームを着用。デザインは夜の横浜に輝く星空をモチーフとし、横浜ブルーの夜空に煌めく星を幾何学模様のグラデーションで表現したものとなった。キャップには通常のホームゲームで着用するものの左つばに「5th ANNIVERSARY」と刺繍されたものを用いた。
 
 
 
=== 復刻ユニフォーム ===
 
* 2010年8月にセ・リーグにおける球団の主催で行われた「[[「GREAT CENTRAL」〜オールドユニホームシリーズ2010〜|オールド・ユニフォーム・シリーズ]]」では横浜大洋時代のホーム用ユニフォームを使用した<ref>[http://sankei.jp.msn.com/sports/baseball/100725/bbl1007251828013-n1.htm 【プロ野球】セ・リーグ6球団が復刻版ユニフォームで対戦 産経新聞 2010年7月25日]{{リンク切れ|date=2015年10月}}</ref>。
 
* 2012年8月 - 9月にセ・リーグにおける球団の主催で行われた「[[「GREAT CENTRAL」〜レジェンドユニフォームシリーズ2012〜|レジェンド・ユニフォーム・シリーズ]]」では横浜ベイスターズ時代の1993年 - 2008年まで使用され、1998年の優勝・日本一時のビジター用ユニフォームを使用した<ref group="注">復刻ユニフォームには「ノジマ」や「リスト」の広告が入る。</ref>。
 
* 2016年、5月10日 - 12日の中日ドラゴンズ戦、6月15日・20日<ref group="注">当初は6月16日予定だったが雨天中止のためこの日に振替となった。</ref>の北海道日本ハム戦を対象に復刻した横浜大洋ホエールズのユニフォームを選手たちが着用して戦う「We☆YOKOHAMA DAY」を開催した<ref>{{Cite web |date = 2016-04-26 |url = http://sp.baystars.co.jp/news/2016/04/0426_02_2.php |title =横浜DeNAベイスターズになって初めて、ハマスタにホエールズが帰ってくる!
 
復刻ユニフォーム選手着用試合「We☆YOKOHAMA DAY」開催 |publisher = 横浜DeNAベイスターズ |accessdate = 2016-04-28 }}</ref>。横浜DeNAベイスターズとなってからは初の大洋ホエールズ復刻ユニフォームである<ref group="注">復刻ユニフォームには「ノジマ」や「リスト」の広告が入る。</ref>。
 
 
 
この他、[[2006年]]のファン感謝デーには、大洋・横浜大洋時代の復刻ユニフォームを着用してアトラクションをこなしている。
 
 
 
== ユニフォームのスポンサー ==
 
{{出典の明記|date=2013年1月|section=1}}
 
; いずれもホーム用。太斜字は現在掲出中のスポンサー。
 
 
 
=== 左胸 ===
 
* [[2008年]] - [[2011年]] [[ノジマ]]<ref group="注">2010年の「オールドユニホームシリーズ」では広告を右袖に掲示。</ref>
 
 
 
=== 袖部分 ===
 
* [[2005年]]・[[2006年]] TBS([[東京放送ホールディングス|東京放送]]。[[ジ〜ン]]マーク入り)
 
* [[2007年]] [[アサヒ飲料]]「アサヒ富士山のバナジウム天然水」
 
* [[2012年]] - ノジマ
 
 
 
=== ズボン ===
 
* 2007年 TBS(ジ〜ンマーク入り)
 
* 2008年 [[マイナビ]]([[毎日コミュニケーションズ]])
 
* [[2009年]] - 2011年 TBS([[TBSテレビ]]〈2009年4月より旧東京放送からTBSの略称を引き継ぐ〉。[[BooBo|ブーブ]]と[[ピンクリボン|ピンクリボン活動]]との[[コラボレーション]])
 
* '''''2012年、2015年 - [[リスト (不動産)|リスト]]'''''
 
* 2013年 - 2014年 [[ディー・エヌ・エー|:DeNA]]
 
 
 
=== ヘルメット ===
 
* 2007年 - 2008年、[[2010年]] - 2011年 、2013年 - 2014年 リスト
 
* 2009年 TBS、[[開国博Y150]]
 
* 2012年  [[Mobage]]
 
* ''''' 2015年 - [[パロマ (企業)|Paloma]]'''''
 
 
 
== 球団旗の変遷 ==
 
=== 一軍 ===
 
* 1950年 - 1953年:白地に赤文字で大洋漁業の[[社章]](通称・まるはマーク)。
 
* 1954年:球団名が洋松ロビンスに変更され、紫地に赤字で大洋漁業のまるはマークと松竹の社章を合体。
 
** 上半分がまるはマーク、下半分が松竹の社章。
 
* 1955年 - 1963年:球団名が大洋ホエールズに戻り、合併前のデザインに大洋の社名が入る。「大(は)洋」
 
* 1964年 - 1977年:漢字を「TAIYOWHALES」とアルファベットに変更。「TAIYO(は)WHALES」
 
** 初期にはKAWASAKI(川崎)という文字が入るバージョンも存在した。「KAWA(は)SAKI」
 
* 1978年 - 1992年:紺色地に白文字で「W」。その下に同じく白文字で小さく「YOKOHAMA TAIYO」
 
* 1993年 - 2011年:中央に「YOKOHAMA BayStars」ロゴ、その下に小さく「REACH FOR THE STARS」(慣用句で“トップを目指せ”)。ホーム用は白地に青文字、ビジター用は青地に白文字。文字の後ろには☆のグラデーション。
 
* 2012年 - :上下に青・青緑色のツートンカラーのライン、白地に青の横ストライプ、青いリボンが巻き付いた星形(☆の中央に「BAYSTARS」、巻きついたリボンの上に「DeNA」、下に「YOKOHAMA」)のプライマリーマークを使用。
 
 
 
=== 二軍 ===
 
* 2000年 - 2010年:湘南シーレックス時代のもの。白地に渦潮を模したグラデーション、中央に「SHONAN Searex」ロゴ、その下に一軍のものと同様に「REACH FOR THE STARS」のスローガンが入る。
 
 
 
== 歴代本拠地 ==
 
* 1950年 - 1952年 [[下関球場]]
 
* 1953年 - 1954年 [[大阪スタヂアム]]
 
: ※本来は[[松竹ロビンス]]の本拠地であった[[衣笠球場]]と大洋ホエールズの本拠地であった下関球場のダブルフランチャイズであったが、実質的には松竹ロビンスの準本拠地とされていた大阪スタヂアムの方が集客能力が高いということで、使用頻度が多くなった。
 
* 1955年 - 1977年 [[川崎球場]]<ref group="注">川崎球場は大洋が本拠地とした当初、1954年に参入した[[高橋ユニオンズ]](1955年はトンボユニオンズ)も本拠地としていた。そのため大洋の川崎移転初年の1955年と高橋が消滅した翌1956年の2年間は大洋と高橋が川崎球場を掛け持ちしていた。</ref>
 
* 1978年 - [[横浜スタジアム]]
 
 
 
== 歴代監督 ==
 
* 1950年 : [[渡辺大陸]]
 
* 1951年 : [[中島治康]]
 
* 1951年 : [[有馬義一]]
 
* 1952年 - 1953年 : [[小西得郎]] <ref group="※">ここから大洋松竹ロビンス</ref>
 
* 1954年 : [[永沢武夫]]<ref group="※">ここから洋松ロビンス</ref>
 
* 1955年 : [[藤井勇]] <ref group="※">ここから大洋ホエールズ(第2次)</ref>
 
* 1956年 - 1958年 : [[迫畑正巳]]
 
* 1959年 : [[森茂雄]]
 
* 1960年 - 1967年 : '''[[三原脩]]'''
 
* 1968年 - 1972年 : [[別当薫]](第1次)<ref group="※">1972年は8月30日まで指揮、残り試合は[[青田昇]]と[[宮崎剛 (野球)|宮崎剛]]が代行。</ref>
 
* 1973年 : [[青田昇]]
 
* 1974年 : [[宮崎剛 (野球)|宮崎剛]]
 
* 1975年 - 1976年 : [[秋山登]]
 
* 1977年 - 1979年 : 別当薫(第2次)<ref group="※">ここから横浜大洋ホエールズ</ref>
 
* 1980年 - 1981年 : [[土井淳]] <ref group="※">1981年は9月24日まで指揮、残り試合は[[山根俊英]]が代行。</ref>
 
* 1982年 - 1984年 : [[関根潤三]]
 
* 1985年 - 1986年 : [[近藤貞雄]]
 
* 1987年 - 1989年 : [[古葉竹識]]
 
* 1990年 - 1992年 : [[須藤豊]]
 
* 1992年 : [[江尻亮]]
 
* 1993年 - 1995年 : [[近藤昭仁]] <ref group="※">ここから横浜ベイスターズ</ref>
 
* 1996年 - 1997年 : [[大矢明彦]](第1次)
 
* 1998年 - 2000年 : '''[[権藤博]]'''
 
* 2001年 - 2002年 : [[森祇晶]] <ref group="※">2002年は9月25日まで指揮、残り試合は[[黒江透修]]が代行。</ref>
 
* 2003年 - 2004年 : [[山下大輔]]
 
* 2005年 - 2006年 : [[牛島和彦]]
 
* 2007年 - 2009年 : 大矢明彦(第2次)<ref group="※">2009年は5月17日まで指揮、残り試合は[[田代富雄]]が代行。</ref>
 
* 2010年 - 2011年 : [[尾花高夫]]
 
* 2012年 - 2015年 : [[中畑清]]<ref group="※">ここから横浜DeNAベイスターズ</ref>
 
* 2016年 - : [[アレックス・ラミレス]]
 
※'''太字'''は優勝達成監督
 
{{Reflist|group="※"}}
 
 
 
== 歴代オーナー ==
 
* [[中部謙市]](1950年 - 1953年)
 
* [[中部謙吉]](1953年 - 1977年)
 
* [[中部新次郎]](1977年 - 1990年)
 
* [[中部慶次郎]](1990年 - 2001年)
 
* [[砂原幸雄]](2001年 - 2004年)
 
* [[若林貴世志]](2004年 - 2011年)
 
* [[春田真]](2012年 - 2015年)
 
* [[南場智子]](2015年 - )
 
 
 
== 永久欠番 ==
 
球団の[[野球界の永久欠番|永久欠番]]は次の通り。
 
* なし
 
** マルハ経営時代の1997年より、'''100''''''永久欠番'''として'''球団に対して貢献のある複数の著名人'''に与えていたが、[[2013年]]に育成ドラフト1位で入団した[[今井金太]]が着用した。
 
 
 
===横浜ナンバー===
 
他球団における「準永久欠番」にあたる。
 
 
 
* '''18''':[[三浦大輔]]
 
** 横浜大洋ホエールズ時代の[[1993年]]から[[2016年]]にかけて横浜一筋で活躍した投手(番号は1998年より着用)。球団は引退に際し'''「プレー・振る舞いの両面でチームを牽引するとともに、チームの象徴となるべき選手がつける番号」'''通称・横浜ナンバーとした。ふさわしい後継が現れるまで欠番とし、新たに選手が付ける場合には三浦と球団が協議したうえで決定する<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2016/09/21/kiji/K20160921013395330.html 三浦の背番号18は半永久欠番「横浜ナンバー」に] - スポーツニッポン、2016年9月21日、2016年11月14日閲覧</ref>。
 
 
 
== 顕彰 ==
 
DeNAでは、[[日本プロ野球名球会]]の入会条件である通算2000本安打、通算200勝、通算250セーブを記録した選手に対し、球団より貢献者として顕彰される。各人物は、横浜スタジアムの外野フェンス右翼部分にレリーフを飾り顕彰している。2012年よりリボンビジョンを設置したため、右翼外野席最上段の手すりに移動した。現在の対象者は以下の通り。
 
* 25 - [[松原誠]](一塁手)
 
* 27 - [[平松政次]](投手)
 
* 10 - [[駒田徳広]](一塁手)
 
* 22 - [[佐々木主浩]](投手)
 
* 5 - [[石井琢朗]](遊撃手)
 
* 3 - [[アレックス・ラミレス]](左翼手)
 
* 99 - [[中村紀洋]](三塁手)
 
 
 
== 主な歴代の球団歌・応援歌 ==
 
* [[熱き星たちよ]](球団歌)
 
*: 1993年、球団名が「横浜ベイスターズ」となったのを機に製作。メインボーカルは、横浜出身の歌手・[[高尾直樹]]、作曲・朝倉紀幸([[朝倉紀行]])、作詞・秋谷銀四郎。
 
*: 本拠地横浜スタジアムの最寄駅である[[関内駅]]と[[日本大通り駅]]では、JRは2011年6月2日から<ref group="注">2012年までは公式戦が実施されている期間のみの使用となっていた。</ref>、横浜市営地下鉄は2012年4月3日から、みなとみらい線は2013年4月2日から、それぞれ[[発車メロディ]]として使用されている。
 
*: DeNAベイスターズとなった2012年、歌詞のうち球団名部分が「横浜ベイスターズ」から「DeNAベイスターズ」に変更され、中畑清監督以下5選手(三浦大輔・A.ラミレス・森本稀哲・高崎健太郎・石川雄洋)がヴォーカルを担当した「熱き星たちよ・2012年ヴァージョン」を発表。曲調は以前のものとは大きく異なるものとなった。なお、ベイスターズの得点時・勝利時にも応援団によりトランペット演奏が行われるが、この際の歌詞は従来通り「横浜ベイスターズ」のままである。
 
*: 2014年の新バージョンでは、中畑監督、三浦、金城、久保、ブランコ、バルディリス、石川、黒羽根、三嶋の9名が参加。旧バージョンで、ラミレスがアドリブでコールしたセリフは、ブランコとバルディリスによるスペイン語のコールとして継承されている。
 
*: 2015年以降は毎年のように新バージョンが制作されている。
 
**:2015年-中畑監督、山崎憲晴、ロペス、梶谷、黒羽根、山口、三浦、筒香、モスコーソ、バルディリス<ref>[https://www.baystars.co.jp/news/2015/03/0322_02.php 3/31(火)横浜DeNAベイスターズ球団歌CD『熱き星たちよ ~2015~』発売決定!(2015年3月22日)]</ref>
 
**:2016年-A.ラミレス監督、山口、三浦、石川、梶谷、筒香、山﨑康晃、嶺井<ref>[https://www.baystars.co.jp/news/2016/03/0317_04.php ラミレス監督 & 筒香選手など7選手が歌う『熱き星たちよ-2016-』発売(2016年3月17日)]</ref>
 
**:2017年-A.ラミレス監督、筒香、石田、山﨑康晃、今永、倉本、戸柱、桑原<ref>[https://www.baystars.co.jp/news/2017/03/0317_02.php CD『熱き星たちよ-2017-』、ハマスタ限定『応援歌フェイスタオル』、NEW ERAキャップなどの新商品3/18(土)発売!!(2017年3月17日)]</ref>
 
* 勝利の輝き(応援歌)
 
* 横浜ベイスターズ球団テーマ(公式テーマ。[[インストゥルメンタル]]曲)
 
*: 1998年の優勝を記念して製作。主に横浜主催ゲームでの、横浜のスタメン選手発表時にBGMとして使用されていたが、横浜DeNAとなってからは一軍戦のスタメン発表では使用されていない模様。なお、二軍戦のスタメン発表時には従来通り使用されている。
 
* [[勇者の遺伝子]]
 
*: [[2013年]]3月に作詞[[森雪之丞]]、作曲[[布袋寅泰]]によってつくられた新応援歌。他の球団歌にはあまりない骨太なロックテイストな歌になっている。レコーディングには抽選で選ばれたベイスターズファン50人が参加した。
 
 
 
=== 過去 ===
 
; 大洋・横浜大洋時代
 
* [[行くぞ大洋]](球団歌)(歌:[[三鷹淳]]とチャッピーズ)
 
* 勝利花(応援歌)(歌:三鷹淳とチャッピーズ)
 
; 横浜時代
 
* [[横浜Boy Style]](イメージソング)(歌:[[CoCo (アイドルグループ)|CoCo]])
 
* WINNING(応援歌)(歌:CoCo)
 
*: 「横浜Boy Style」のカップリング曲。コーラスには当時現役だった[[佐々木主浩]]・[[盛田幸妃]]・[[野村弘樹]]・[[谷繁元信]]・[[進藤達哉]]・[[石井琢朗]]の6選手が参加していた。CoCoの解散や選手の退団・移籍が重なり公式ではほとんど使われなくなったが、2018年現在でも応援団により演奏されている。
 
* BayStarsを観にいこうよ(イメージソング)(詞・曲・歌:[[ダ・カーポ (歌手グループ)|ダ・カーポ]])
 
* BE A HERO(公式ソング)(歌:[[クレイジーケンバンド]] feat.小野瀬雅生)※2006年まで
 
; 湘南シーレックス
 
* 若き王者たち(公式ソング)
 
* Searex Horizon(公式テーマ。インストゥルメンタル曲)
 
 
 
== 主なキャンプ地 ==
 
* 山口県・[[下関球場#歴史|下関球場]]:1950、1952
 
* 兵庫県・神戸銀行グラウンド:1951
 
* 兵庫県・[[兵庫県立明石公園第一野球場|明石球場]]:1953、1960 - 1961
 
* 長崎県・[[長崎市営大橋球場|大橋球場]]:1954
 
* 鹿児島県・[[鹿児島県立鴨池野球場|鴨池球場]]:1955、1957 - 1958
 
* 千葉県・銚子球場:1956、1962
 
* 岡山県・[[岡山県野球場|岡山球場]]:1956
 
* 静岡県・三保東海大グラウンド:1959 - 1961
 
* 愛媛県・[[松山市営球場|松山球場]]:1959
 
* 静岡県・島田球場:1972 - 1973
 
* [[静岡市]]・[[静岡県草薙総合運動場硬式野球場|草薙球場]]:1963 - 1971、1974 - 1979、1981 - 1986の一軍キャンプ、(1981・1987 - 1989の二軍キャンプ)、他
 
* [[アメリカ合衆国]]・[[アリゾナ州]][[メサ (アリゾナ州)|メサ市]]・[[:en:HoHoKam Stadium|ホホカム球場]]:1980 - 1981<ref group="注">1980年はメサ市ホホカム球場のみでのキャンプ開催であったが、1981年は第一次キャンプを静岡・草薙球場で、第二次キャンプをメサ市ホホカム球場で実施した。</ref>
 
* 静岡県・熱海スタジアム:1980年代 秋季キャンプとして使用
 
* [[宜野湾市]]・[[宜野湾市立野球場]]:1987 -
 
* [[神奈川県]]・[[横浜DeNAベイスターズ総合練習場]]:1990 -
 
* [[沖縄県]]・[[嘉手納町営球場]]:二軍キャンプ
 
* [[鹿児島県]]・[[名瀬運動公園野球場]]:2010秋季、2011秋季(プロ野球初の[[奄美大島]]でのキャンプとなる)
 
 
 
== 歴代開幕投手 ==
 
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small;"
 
|-
 
!年度!!開幕投手!!勝敗!!スコア!!対戦相手
 
|-
 
|1950||[[今西錬太郎]]||○||2-0||国鉄
 
|-
 
|1951||[[高野裕良]]||○||4-2||名古屋
 
|-
 
|1952||高野裕良||○||4-2||阪神
 
|-
 
|1953||江田貢一||△||1-1||名古屋
 
|-
 
|1954||[[権藤正利]]||○||9-2||阪神
 
|-
 
|1955||権藤正利||●||2-8||広島
 
|-
 
|1956||[[江田孝]]||●||2-11||中日
 
|-
 
|1957||[[大石正彦]]||●||0-4||広島
 
|-
 
|1958||大石正彦||●||6-7||阪神
 
|-
 
|1959||[[鈴木隆 (投手)|鈴木隆]]||●||1-3||中日
 
|-
 
|1960||[[幸田優]]||●||3-4||中日
 
|-
 
|1961||[[秋山登]]||○||8-7||広島
 
|-
 
|1962||[[島田源太郎]]||●||1-3||国鉄
 
|-
 
|1963||[[稲川誠]]||●||1-4||広島
 
|-
 
|1964||稲川誠||○||7-4||中日
 
|-
 
|1965||稲川誠||○||1-0||国鉄
 
|-
 
|1966||秋山登||○||6-3||巨人
 
|-
 
|1967||[[森中千香良]]||○||3-2||中日
 
|-
 
|1968||森中千香良||○||8-5||巨人
 
|-
 
|1969||[[平岡一郎]]||○||1-0||阪神
 
|-
 
|1970||[[平松政次]]||●||2-3||広島
 
|-
 
|1971||平松政次||●||1-2||ヤクルト
 
|-
 
|1972||[[山下律夫]]||●||3-6||広島
 
|-
 
|1973||平松政次||○||3-1||阪神
 
|-
 
|1974||平松政次||●||1-2||阪神
 
|-
 
|1975||平松政次||○||8-4||巨人
 
|-
 
|1976||平松政次||●||0-1||中日
 
|-
 
|1977||[[渡辺秀武]]||○||15-7||広島
 
|-
 
|1978||平松政次||○||3-1||中日
 
|-
 
|1979||平松政次||○||9-0||ヤクルト
 
|-
 
|1980||平松政次||○||4-3||巨人
 
|-
 
|1981||[[斉藤明雄]]||●||1-2||巨人
 
|-
 
|1982||斉藤明夫||○||3-2||阪神
 
|-
 
|1983||[[遠藤一彦]]||●||2-5||巨人
 
|-
 
|1984||遠藤一彦||●||3-9||ヤクルト
 
|-
 
|1985||遠藤一彦||○||12-6||巨人
 
|-
 
|1986||遠藤一彦||○||8-7||阪神
 
|-
 
|1987||遠藤一彦||○||5-1||広島
 
|-
 
|1988||[[欠端光則]]||○||2-1||中日
 
|-
 
|1989||斉藤明夫||○||4-3||中日
 
|-
 
|1990||[[中山裕章]]||△||5-5||中日
 
|-
 
|1991||中山裕章||○||4-3||阪神
 
|-
 
|1992||[[野村弘樹]]||●||4-6||中日
 
|-
 
|1993||[[有働克也]]||●||2-5||巨人
 
|-
 
|1994||有働克也||○||4-3||中日
 
|-
 
|1995||野村弘樹||●||0-4||広島
 
|-
 
|1996||[[盛田幸妃|盛田幸希]]||●||1-2||ヤクルト
 
|-
 
|1997||盛田幸希||●||2-3||中日
 
|-
 
|1998||[[川村丈夫]]||○||8-0||阪神
 
|-
 
|1999||[[三浦大輔]]||●||5-10||ヤクルト
 
|-
 
|2000||川村丈夫||○||7-6||阪神
 
|-
 
|2001||[[小宮山悟]]||●||4-6||ヤクルト
 
|-
 
|2002||三浦大輔||●||1-2||広島
 
|-
 
|2003||[[吉見祐治]]||○||4-2||阪神
 
|-
 
|2004||三浦大輔||●||1-3||ヤクルト
 
|-
 
|2005||三浦大輔||●||0-4||中日
 
|-
 
|2006||三浦大輔||●||2-12||巨人
 
|-
 
|2007||三浦大輔||●||2-3||巨人
 
|-
 
|2008||[[寺原隼人]]||●||2-4||阪神
 
|-
 
|2009||三浦大輔||●||1-4||中日
 
|-
 
|2010||[[スティーブン・ランドルフ|ランドルフ]]||●||3-7||阪神
 
|-
 
|2011||[[山本省吾]]||○||5-4||中日
 
|-
 
|2012||[[高崎健太郎]]||△||5-5||阪神
 
|-
 
|2013||[[藤井秀悟]]||○||4-3||中日
 
|-
 
|2014||[[三嶋一輝]]||●||1-9||ヤクルト
 
|-
 
|2015||[[久保康友]]||●||2-3||巨人
 
|-
 
|2016||[[井納翔一]]||○||2-1||広島
 
|-
 
|2017||[[石田健大]]||●||2-9||ヤクルト
 
|-
 
|2018||石田健大||●||3-7||ヤクルト
 
|}
 
 
 
== 主なエピソード ==
 
=== 荒川事件 ===
 
{{main|荒川事件}}
 
 
 
=== 湘南電車カラーのユニフォーム ===
 
1974年から1977年のシーズンに使われたユニフォームのこと。ホーム用は橙色、帽子とビジター用は緑色を使っていたため、[[湘南電車]]を髣髴とさせる配色から「湘南電車カラー(湘南カラー)」と言われた。
 
 
 
このユニフォームが採用される契機になったのは[[山下大輔]]の入団である。当時の大洋は[[静岡県草薙総合運動場硬式野球場]]でキャンプを行うなど、静岡県とのつながりがあった。そこに静岡県出身の山下がドラフト1位で入団したため、ヘッドコーチの[[秋山登]]が「(静岡名産の)ミカンとお茶を題材にしたユニフォームは出来ないものか」とオーナーの[[中部謙吉]]に提案したところ、中部も「食品会社としてイメージアップにつながる」と了承。その結果、橙色と緑を使ったユニフォームが完成した。具体的なデザインは、[[オークランド・アスレチックス]]の当時のユニフォームを参考にしている。
 
 
 
=== 2001年と2005年の順位 ===
 
[[2001年]]のみ[[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]の順位決定方法が通常と異なっていた。勝率の順位と勝利数の順位が異なる場合は、勝利数を優先して順位を決定し、勝率1位のチームと勝ち数1位のチームが異なる場合はその両チームによる[[プレーオフ制度 (日本プロ野球)|プレーオフ]]でリーグ優勝チームを決めることにした。
 
 
 
その2001年、横浜は69勝67敗4分けで、[[広島東洋カープ|広島]]は68勝65敗7分けでシーズンを終えた。勝率は横浜.507、広島.511。前年までの順位決定方式なら広島が上位になるところだが、上述の通りこの年は「勝利数順」で決めていたため、勝ち数で上回っている横浜が3位に入り、5年連続でAクラス入りした。
 
 
 
この順位決定方式は、シーズン途中では試合を早く消化したチームが上位になりやすいという結果となり、実態が分かりづらいなどの理由からわずか1年で「勝率順」に戻した<ref group="注">ただし、勝率1位チームと勝ち数1位チームとのプレーオフは、実例はないものの2006年まで継続していた。</ref>。
 
 
 
[[2005年]]は順位決定方法が勝率順に戻っていたため、69勝(70敗7分け、勝率.496)の横浜が3位、71勝(73敗2分け、勝率.493)の[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]が4位となった。
 
 
 
=== 沖縄で公式戦 ===
 
横浜時代の[[2010年]]6月29日・6月30日の2日間、同年全面改築が竣工した[[那覇市営奥武山野球場|沖縄セルラースタジアム那覇]]で対[[東京ヤクルトスワローズ]]2連戦を主催開催した。大洋ホエールズ時代の[[1975年]]5月17日・5月18日に改築前の県営奥武山野球場(当時)で対[[広島東洋カープ]]2連戦を主催開催したが、[[沖縄県]]ではこの試合以来35年ぶりのプロ野球公式戦となった。また、この2試合は沖縄県でのプロ野球一軍公式戦<ref group="注">これに先駆けて[[4月]]に[[読売ジャイアンツ (ファーム)|巨人]]対[[阪神タイガース (ファーム)|阪神]]の二軍公式戦が18時から同じ沖縄セルラースタジアム那覇でナイターで行われている</ref>としては史上初のナイター(19時開始)となった。以降も同球場では[[2011年]]、[[2012年]]、[[2014年]]、[[2015年]]に横浜/横浜DeNA主催による公式戦が毎年2試合組まれ、最低でも年1試合は開催された。
 
 
 
[[2013年]]は[[阪神タイガース]]が沖縄セルラースタジアム那覇で公式戦を開催したため沖縄遠征は行わなかったが、2014年は[[読売ジャイアンツ|巨人]]を帯同し、2年ぶりに沖縄遠征を実施した。ただ、7月8日と7月9日の2連戦(平年より30分早い18時30分試合開始)での開催を予定していたが、7月8日の試合については[[平成26年台風第8号]]が最大級の勢力を保ったまま沖縄に直撃する恐れがあり試合の開催が困難であることと、観客の来場時の安全を考慮して、前日(7日)午後の段階で開催取りやめを発表した<ref>{{Cite web |date = 2014-07-07 |url = http://www.baystars.co.jp/news/2014/07/0707_07.php |title = 7/8(火)横浜DeNA 対 巨人(沖縄セルラースタジアム那覇)の試合は中止 |publisher = 横浜DeNAベイスターズ |accessdate = 2015-10-11}}</ref>。またこの影響で、当初沖縄遠征に参加する予定だった[[ユリエスキ・グリエル]]は、台風による飛行機の揺れへの不安から参加を辞退したことも判明した。グリエルは飛行機恐怖症との診断を受け、球団と協議したうえで沖縄遠征への参加を見送ったとしている<ref>[http://www.kanaloco.jp/article/74160/cms_id/90128 横浜DeNA:グリエル「飛行機怖い」 沖縄遠征の帯同見送り]{{リンク切れ|date=2015年10月}}(神奈川新聞2014年7月8日)</ref>。
 
 
 
なお、[[2016年]]以降は地方開催を[[新潟県立野球場|ハードオフ・エコスタジアム新潟]]での1試合のみに縮小したため、それ以降の沖縄での公式戦は[[パシフィック・リーグ|パ・リーグ]]の球団が持ち回りで主催試合を行っている。
 
 
 
=== アツいぜ! チケット ===
 
2012年5月1日から6日までの5戦で「全額返金!?アツいぜ!チケット」を1枚4000円・50席限定で販売した。このチケットは観客の満足度によって、試合内容が気に入らなければ勝ち・引き分けの場合は半額の2000円まで、負けた場合は全額の4000円を上限に返金するものであった。初日に敗れた時は全員が返金を要求。金額にして9割に及ぶ返金額となったが、勝った試合でも半数以上の人間が返金を求め<ref>[http://sportsnavi.yahoo.co.jp/baseball/npb/team/baystars/headlines/20120508-00000015-dal-base.html DeNA「アツいぜ!チケット」勝っても半数以上が返金要求]{{リンク切れ|date=2015年10月}} -スポーツナビ</ref>、5試合での売上100万円のうち半数近い47万円が返金となった。この結果に中畑監督はショックを受け、「ひどい負け方をしたならともかく、最高のプレーをして『金返せ!』じゃ選手のモチベーションを下げるだけ」として二度とやらないように求めている<ref>{{Cite news |title = ショックだった返金企画…中畑監督「屈辱。二度とやらないで」 |newspaper = スポーツニッポン |date = 2012-05-08 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/05/08/kiji/K20120508003206980.html |accessdate = 2015-10-11 }}</ref>。
 
 
 
2012年度のレギュラーシーズン最終戦(10月8日広島戦)において、「新・熱いぜ!チケット」が企画・発売された。これは、内野SS席ペアチケット(通常2人分で1万1000円)に2000円分(1人1000円)の追加負担をすれば、2016年度までに[[クライマックスシリーズ]](CS)で横浜DeNAが主管権(レギュラーシーズン2位以上)を確保して初進出した場合、その主管試合の内野指定席での観戦ができる権利を得るというものであったが、この期間中にCSに進出できなかったり、進出してもレギュラーシーズン3位で主管権を得られなかった場合、およびCSが廃止となって権利失効となった場合は追加負担分は神奈川県のアマチュア野球の振興に役立てる<ref>{{Cite web |date = 2012-08-21 |url = http://www.baystars.co.jp/news/2012/08/0821_02.php |title = クライマックスシリーズ主催試合観戦権付きチケットなど、9/28(金)〜10/3(水)対象の企画チケットを8/25(土)に発売 |publisher = 横浜DeNAベイスターズ |accessdate = 2012-11-03 }}</ref>としており、実際には2016年の3位が期間内の最高順位でCSを主催できなかったため、観戦権は成立しなかった<ref>{{Cite web |date = 2016-09-23 |url = http://www.baystars.co.jp/news/2016/09/0923_02.php |title = 2012年発売『~感謝、そして夢~新・熱いぜ!チケット』での「2016年度 クライマックスシリーズ・セ」ご観戦について|publisher = 横浜DeNAベイスターズ |accessdate = 2016-10-15 }}</ref>。
 
 
 
=== 新潟との関係 ===
 
オーナーが[[新潟県|新潟]]出身という事もあり、[[新潟県立野球場|ハードオフ・エコスタジアム新潟]]では開業した2009年から毎シーズン主催試合を開催している。一時は、集客の見込める土曜・日曜の開催や対巨人戦の開催を行うなど、新潟への配慮は大きい。先述の通り2016年以降は地方開催を縮小しており、本拠地のある同じ神奈川県内の[[平塚球場|バッティングパレス相石スタジアムひらつか]]や[[相模原市立相模原球場|サーティーフォー相模原球場]]での開催からは撤退したものの、新潟での開催は毎年平日1試合のみであるが唯一継続している。
 
 
 
他にも新潟に関連するイベントを開催しており、関係を継続している。
 
 
 
*球団公認ファンクラブ'''B☆Spirit Niigata'''の創設<ref>http://www.ohbsn.com/contents/b-spirit-niigata/index.php</ref>
 
*新潟県の野球少年へ5周年ロゴ入り野球帽の贈呈<ref>https://www.baystars.co.jp/news/2016/03/0310_01.php</ref>
 
*「うまさぎっしり新潟」DAY in ハマスタBAYガーデンの開催<ref>http://www.baystars.co.jp/news/2016/07/0706_01.php</ref>
 
 
 
== キーワード ==
 
=== 明大五人衆 ===
 
[[1956年]]に[[明治大学]]から[[秋山登]]、[[土井淳]]、[[岩岡保宏]]、[[黒木弘重]]、[[沖山光利]]の5名が入団。同一校の選手が同一球団へ同時に5名も入団するのは極めて珍しく、彼らは「'''明大五人衆'''」と呼ばれて注目を集めた。
 
 
 
=== スーパーカートリオ ===
 
{{main|スーパーカートリオ}}
 
 
 
=== マシンガン打線 ===
 
{{main|マシンガン打線}}
 
 
 
=== ハマの大魔神 ===
 
{{main|ハマの大魔神}}
 
 
 
=== クアトロK ===
 
{{main|クアトロK}}
 
 
 
=== 横浜大洋銀行 ===
 
1980年代、横浜大洋ホエールズに対し、本拠地の横浜を主な営業エリアとする[[横浜銀行]]や当時存在した[[太陽神戸銀行]](現在の[[三井住友銀行]])をもじった'''「横浜大洋銀行」'''という呼び名が付けられていた<ref>{{Cite news |title = 中畑監督ハマギンのため8・8借金完済だ |newspaper = 日刊スポーツ |date = 2014-06-20 |url = http://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20140620-1320640.html |accessdate = 2015-10-11 }}</ref><ref name="Syuchousya_2007">『プロ野球70年から掘り起こす迷・珍言語録』 著:山口純一 出版元:朱鳥社 </ref>。これは当時長年にわたって低迷し、毎年のように他球団に勝利を配給し続けてきた様を、勝敗数や勝率を預金や融資になぞらえて揶揄したもので、この不名誉な呼び名はいつしか定着してしまった。特に巨人ファンが「貯金をするなら横浜大洋銀行」へという合言葉とともに当球団を煽るなどしていたが<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/yakyu-jin/yutaka-sudou/KFullNormal20070511141.html 16・ラストチャンス] (スポーツニッポン 2007年5月11日)</ref>、そのほかにも当球団以外の球団のファンが大洋や大洋ファンを嘲る際のみならず、大洋ファンも自嘲の念を込めて使い、特に連敗が込んだ時やテレビでの露出機会が多い巨人戦の対戦成績が著しく悪いシーズンにはマスメディアでも頻繁に使われた<ref group="注">巨人に連敗し続けたあるシーズンのこと。大洋(横浜)が久々に巨人に勝った夜には、当時[[テレビ朝日]]系『[[ニュースステーション]]』で放送されていた名物企画「プロ野球1分勝負」で同カードの結果を報じるVTRの最後に「今後の融資はお断りいたします」というテロップでオチを付けたほどだった。また、同番組では大洋が巨人に負けた場合、司会の久米宏がスポーツのコーナーを「CMの後は横浜大洋銀行です」と告知することも頻繁にあったという。</ref><ref name="Syuchousya_2007"/>。また、最近では、同じく相性の悪い阪神戦においても、この名称が使用されることがある<ref group="注">該当例とするなら、[[1985年]]、[[2003年]]、[[2008年]]、[[2014年]]のシーズンがあり、横浜は阪神に大きく負け越していた。</ref>。一方で、その阪神とひっくるめて、セリーグで特に弱い球団として、「大洋神戸銀行」と揶揄することもあったという<ref name="Syuchousya_2007"/>。巨人戦で負けが続くと「**銀行」と揶揄する事例も見られる(2014年に当時の監督の名前から「中畑銀行」と呼んだ見出し<ref>{{Cite news |title = DeNAに負けなし 巨人が狙う“中畑銀行”から「貯金24」 |newspaper = [[日刊ゲンダイ]] |date = 2014-04-23 |url = http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/149712 |accessdate = 2017-10-21}}</ref>)。
 
 
 
1993年から球団名が横浜ベイスターズに改称されてからは「'''横浜銀行'''」と呼ばれるケースが多いものの<ref>[http://www.kanaloco.jp/article/73275/cms_id/87159 横浜DeNA:強力援軍で借金完済?横浜銀行がイベント協賛]{{リンク切れ|date=2015年10月}} - 2014年6月20日 神奈川新聞</ref>、実際には球団と同行の間には直接的な関係はなかったが、2014年8月に行われる「YOKOHAMA STAR☆NIGHT 2014 第1弾」に横浜銀行が初めて協賛することとなった<ref>{{Cite web |date = 2014-06-19 |url = http://www.baystars.co.jp/news/2014/06/0619_06.php |title = 『YOKOHAMA STAR☆NIGHT 2014』第1弾情報 3年目の今年、地域に根差した横浜銀行がイベントパートナーに決定 |publisher = 横浜DeNAベイスターズ |accessdate = 2015-10-11 }}</ref>。詳細は[[横浜銀行#その他]]を参照のこと。
 
  
 
== 脚注 ==
 
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
 
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=== 出典 ===
 
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== 関連項目 ==
 
=== 人物(架空人物を含む)関連 ===
 
* [[横浜55年会]]
 
* [[大堀隆]]
 
* [[池杉昭次郎]](かつての名物応援団長)
 
* [[清岡千穂]](かつての応援歌作曲担当)
 
* [[石橋貴明]]([[とんねるず]])(2005年 - 2006年頃まで球団のエグゼクティブ・アドバイザーを務めた)
 
* [[みのもんた]](2007年、TBS内でのチーム応援団長)
 
* [[萩本欽一]](2011年、萩本と球団の合同による「欽ちゃん!!横浜ベイスターズ応援プロジェクト」を展開)
 
* [[スタジアムDJ]]
 
** [[栗原治久]]
 
** [[ケチャップ (タレント)|ケチャップ]](2003年 - 2011年)
 
**[[南隼人]](2012年 - 2015年)
 
* オフィシャルリポーター
 
** 長澤百代(2001年 - 2003年)
 
** [[大矢陽子]](2003年 - 2006年)
 
** [[吉岡さちこ]](2006年 - 2009年)
 
** [[芦崎愛]](2010年 - 2011年)
 
* [[diana]](球団の公式チアリーディングチーム、[[TBSトライメディア]]が運営)
 
 
 
=== 野球漫画の登場人物関連 ===
 
* [[左門豊作]] - 『[[巨人の星]]』に登場する大洋の選手。1976年から1979年までの『新・巨人の星』では、最終章で球団名が横浜大洋となり、[[大リーグボール]]右1号(蜃気楼魔球)を打った場所も横浜スタジアムであり、飛雄馬と初めて会った場所も横浜である。
 
* [[土門剛介]] - 『[[ドカベン]]』
 
* [[H2の登場人物#主要人物|橘英雄]] - 『[[H2〜君といた日々|H2]]』。ドラマ版では横浜を経由して大リーグへ挑戦していった。ドラマ版の制作局は当時の親会社・TBSである。
 
* パウラ・ドード - 『[[ミラクルジャイアンツ童夢くん]]』に登場する大洋の選手。
 
 
 
=== 記録関連 ===
 
* [[1960年の日本シリーズ]]
 
* [[1998年の日本シリーズ]]
 
* [[2017年の日本シリーズ]]
 
 
 
=== 試合関連 ===
 
* [[横浜DeNAベイスターズ主催試合の地方球場一覧]]
 
 
 
=== 放送・新聞関連 ===
 
* [[プロ野球中継]]
 
* [[放映権 (日本プロ野球)#横浜DeNAベイスターズ]]
 
* [[TBSテレビ|TBS]]・[[BS-TBS]]・[[TBSラジオ]]・[[東通]]・[[TBSニュースバード]](2013年まで)・[[TBSチャンネル]](2014年 - )
 
** [[ハマスタWAVE]](TBS経営時代のインターネット中継)
 
** [[ニコニコ生放送]](2012年以降、DeNA売却後のインターネット中継。映像はTBSから配信され、実況は独自)
 
** [[SAMURAI BASEBALL]](2008年から2013年までは[[TBSニュースバード]]で、2014年からは[[TBSチャンネル]]にて完全放送中。TBS地上波で放送がない場合はtvkで放送される場合もある。当初tvk向けは外部所属のフリーアナウンサーの実況による同時放送だったが、2011年から独自実況になり、2012年以降はテロップも独自に)
 
** 教えて!EA(2005年 シーズン(4月上旬~9月下旬)中にのみ毎週日曜日の17時25分にTBS地上波で放送されていた。同年就任の[[牛島和彦]]監督に同学年の高校球児として憧れていた[[石橋貴明]]([[とんねるず]])がエグゼクティブ・アドバイザー(EA)を務めた。)
 
** お願い!EA(2006年 シーズン(4月上旬~9月下旬)中にのみ毎週日曜日の17時25分にTBS地上波で放送されていた。)
 
** [http://www.tbs.co.jp/sports/baseball/moveon/ move on ベイスターズ](2008年 シーズン(4月上旬~9月下旬)中にのみ毎週日曜日の早朝にTBS地上波で放送されていた。)
 
** [[Love BayStars]](2009年 - 2011年 シーズン(4月上旬~9月下旬)中にのみ毎週日曜日の早朝にTBS地上波で放送されていた)
 
** [http://www.tbs.co.jp/program/oh-bay-stars.html#midokoro Oh!ベイスターズ](2012年 - シーズン(4月上旬~9月下旬)中にのみ毎週日曜日の早朝(2012年)、金曜日の深夜(2013年以降)にTBS地上波で放送。なお2013年以降タイトルには西暦が入る。)
 
** [[TBSラジオ エキサイトベースボール]](1978年以降主催ゲームを中継できなかったが、1993年 - 2001年は、ヤクルトと巨人が対戦している際の裏カードのみ対広島戦を[[中国放送|RCC]]に、対中日戦を[[CBCラジオ|CBC]]に、対阪神戦を[[ABCラジオ|ABC]]・[[MBSラジオ|MBS]]にネットしないという条件付で中継可能となり〔前記各局にはCBCも含めて[[ニッポン放送|LF]]が[[裏送り]]したが、RCCの土・日曜は[[文化放送|QR]]の場合もあり〕、2002年から裏送りも含め再度完全に可能となった。また、2002年は日曜デーゲームを中継し、「ベースボールベイスターズ」のタイトルで放送。2004年から2006年まではナイターでも「ベイスターマン」と称したチーム担当レポーターを配していた。)
 
** [[アッコにおまかせ!]](2002年 - 2006年 「横浜ベイスターズ応援プロジェクト」コーナー)
 
** [[MLB主義]](2004年 - 2006年「ベイスターズ主義」コーナー)
 
** [[みのもんたの朝ズバッ!]](2009年 - 2013年 毎週火曜に「週刊みのVP」を選出)
 
* [[ニッポン放送]]
 
** [[ニッポン放送ショウアップナイター]]([[1978年]]に横浜大洋主催試合の独占放送権を取得し、[[2002年]]の筆頭株主交代までヤクルト主催試合と共に中継の目玉であった)。現在も、対巨人戦のNRN全国中継を中心に試合を放送することがある。
 
** [[ヒーローインタビュー (映画)|ヒーローインタビュー]](映画)
 
* [[文化放送]]
 
** [[文化放送ホームランナイター]](土曜に放送されるが、主催試合は対巨人戦を除き自社で放送されることは少なく、系列局向けの裏送り(主に2001年までと2012年の対広島戦のRCC)や技術協力の場合が多かった。2011年以降は巨人主催試合の週末デーゲーム増加により、年数試合程度が自社でも放送されている)
 
** [[文化放送ライオンズナイター]](平日の交流戦・横浜DeNA対[[埼玉西武ライオンズ|西武]]戦で中継)
 
* [[J SPORTS]]
 
** [[J SPORTS STADIUM]](1998年から2007年まで放送。[[ジュピターテレコム]](J:COM)・[[フジテレビジョン|フジテレビ]]などが主要株主(2005年[[スポーツ・アイ ESPN]]合併後はTBSもわずかながら出資)だが、ベイスターズがTBS傘下に入ってからも引き続き放送された。TBS傘下入り後はTBSのアナウンサー・解説者の出演が多かった他、TBSのアナウンサーと大洋・横浜OBのフジテレビ・tvkの解説者の組み合わせとなる場合もあった)
 
* [[神奈川新聞]]
 
* [[テレビ神奈川|tvk]]
 
** [[tvkプロ野球中継 横浜DeNAベイスターズ熱烈LIVE]]
 
** [[ベイスターズくらぶ]]
 
* [[イッツ・コミュニケーションズ]]・[[横浜ケーブルビジョン]]・[[YOUテレビ]]・ジュピターテレコム(J:COM)
 
** move on ベイスターズ!(2007年 イッツ・コミュニケーションズと横浜ケーブルビジョンで、横浜スタジアムでのナイター試合開始直前の平日17:30 - 17:45に生放送された番組)
 
** [http://www.itscom.net/ch/program/%E4%BB%8A%E6%97%A5%E3%81%8B%E3%82%89%EF%BC%81%E3%83%99%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%BA 今日から!ベイスターズ](地元少年野球チームが出演してベイスターズ選手との交流を描く)
 
* [[月刊ベイスターズ]]
 
* [[ササキ様に願いを]](漫画)
 
* 『[[ダグアウトの向こう|ダグアウトの向こう -今を生きるということ。]]』(プロ野球球団として、初の試みである球団公式ドキュメンタリー映画であり、[[2012年]]から、毎年公開している)
 
 
 
=== 本拠地の所在地である横浜市及び神奈川県関連 ===
 
* [[横浜熱闘倶楽部]]
 
** [[横浜F・マリノス]]
 
** [[横浜FC]]
 
** [[横浜ビー・コルセアーズ]]
 
* [[ベイスターズ・ベースボールアカデミー]]
 
* [[日産自動車]]
 
* [[神奈川大学]]
 
* [[産業能率大学]]
 
* [[横浜商工会議所#ベイスターズ横浜会|ベイスターズ横浜会]]
 
* [[シミズオクト|横浜シミズ]](主催ゲームで、球場と折半で運営業務・施設管理を委託している)
 
* [[京浜急行電鉄]](大々的に宣伝している)
 
* [[横浜フリューゲルス]]
 
* [[川崎ブレイブサンダース]](2018-19シーズンよりDeNAが親会社)
 
 
 
=== 応援団関連 ===
 
* [[横浜DeNAベイスターズの応援団#全国星覇会|全国星覇会]]
 
* [[横浜DeNAベイスターズの応援団#横浜ベイスターズを愛する会|横浜ベイスターズを愛する会]](横浜・北海道・関西・九州)
 
  
 
== 外部リンク ==
 
== 外部リンク ==
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* [http://m-pe.tv/u/page.php?uid=seabose&id=1/ SHONAN SEABOSE公式サイト]
 
  
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2018/8/9/ (木) 01:20時点における最新版

チーム名 横浜DeNAベイスターズ
会社名 株式会社横浜DeNAベイスターズ
加盟団体 セントラル・リーグ
創設年度 1950年
チーム名の遍歴

大洋ホエールズ(1950年 - 1952年
松竹ロビンスと対等合併
大洋松竹ロビンス(1953年
洋松ロビンス(1954年
大洋ホエールズ(1955年 - 1977年
横浜大洋ホエールズ(1978年 - 1992年
横浜ベイスターズ(1993年 - 2011年

横浜DeNAベイスターズ(2012年 - 現在)
本拠地 横浜スタジアム神奈川県横浜市中区
収容人員 29,000 人(横浜スタジアム)

横浜DeNAベイスターズ(よこはまディー・エヌ・エー・ベイスターズ、英語: Yokohama DeNA BayStars

日本プロ野球球団。セントラル・リーグに所属する。略称は「DeNA」。

神奈川県保護地域とし、同県横浜市中区にある横浜スタジアム専用球場(本拠地)としている。

脚注

注釈

出典

外部リンク