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'''松浦党'''(まつらとう)は、[[平安時代]]から[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に[[肥前国|肥前]]松浦地方で組織された松浦氏の武士団の連合。一族は48つに分かれており、'''松浦四十八党'''とも呼ばれた。[[水軍]]として有名。
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'''松浦党'''(まつらとう)
  
==起源==
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鎌倉~室町時代に肥前国松浦4郡を中心に割拠した[[武士]]集団の共和的連合組織。平安時代から水軍海賊として活躍したが,のち鎌倉[[御家人]]となった者も多い。南北朝時代には松浦一族以外の他氏族をも含めた地域的一揆結合を行い,室町時代以後には,党規のもとに団結を強めていった。斑島・佐志・波多・有浦・値賀石志・相知・大川野氏などから成る上松浦郡を中心とした上松浦党と,青方・宇久・平戸・大島・志自岐・中村・早田・山代氏などから成る下松浦郡を中心とした下松浦党に大別される。 ([[]] , [[松浦氏]] )  
[[江戸時代]][[平戸松浦氏]]によって編纂された『松浦家世伝』によると、[[嵯峨源氏]]の流れをくむ'''[[松浦氏]]'''を[[惣領]]とし、[[渡辺綱]]にはじまる'''[[渡辺氏]]'''を棟梁とする[[摂津国|摂津]]の[[滝口武者]]の一族にして水軍として瀬戸内を統括した渡辺党の分派とされる。祖の[[松浦久]](渡辺久、源久)は、[[渡辺綱]](源綱)の子の[[奈古屋授]](渡辺授、源授)の孫とされ、[[延久]]元年([[1069年]])松浦郡宇野御厨の[[荘官]](検校)となり、松浦郡に所領を持ち松浦の苗字を名乗る。
 
 
 
ところが、[[源久]]が[[肥前]]に下向されたとされる[[延久]]元年より前に、[[嵯峨源氏]]の系統と思われる一字名を名乗る者が、この地方に関係ある者として存在していたことを示す史料が存在している。[[嵯峨天皇]]の皇子[[源定]]の孫に、肥前守源浮がおり、[[藤原実資]]の日記『[[小右記]]』の[[長和]]5年([[1016年]])の条の記述からは、源聞という人物が肥前守に任じられ、[[藤原実資|実資]]の所に御礼言上のため訪れていたことが分かる。彼らは[[遥任]]国司であったと思われるが、この地にその子孫が定着したことは考えられる。また[[寛仁]]元年([[1019年]])の[[刀伊の入寇]]の防戦に当たった指揮者に、前肥前介源知という人物が存在し、多くの刀伊の賊徒を射殺し、一人を生け捕りにした。このように[[延久]]元年以前においても、松浦一族の先祖と思われる者が、[[国司]]や[[在庁官人]]として活動していた。<ref>[[瀬野精一郎]]『松浦党研究とその軌跡』青史出版、2010年、13-16頁</ref>
 
 
 
一族は、それぞれの拠点地の[[地名]]を[[苗字]]とし、一族の結合体を松浦党という。党的結合体であるから中心となる氏の強い統制によるものではなく、同盟的なものであったといえる。その中から指導力と勢力のある氏が、松浦党の惣領となった。
 
 
 
これら松浦一族は、その居住した地域が[[多島海]]沿岸であったことと、[[朝鮮半島]]、[[中国大陸]]に海を隔てて近接していたことから、船を利用して[[日宋貿易]]に従事する機会も多かったと思われる。また、船に頼る生活から、[[水軍]]として、さらには[[海賊]]常習者のイメージが中央貴族をはじめ一般にも定着し、松浦党の呼称が与えられることになった。
 
 
 
== 松浦氏と安倍氏 ==
 
松浦党には、嵯峨源氏渡辺党松浦氏系のものが大半だが、一部に[[陸奥国|奥州]][[安倍氏 (奥州)|安倍氏]]の生き残りで、[[源義家]]に敗れ[[宗像]]の筑前大島に流された[[安倍宗任]]の子孫の安倍宗任系のものがある。松浦党の系図は30種ほどもあり、その系譜については異同が多く、不明な点も少なくないとされる
 
 
 
== 東国御家人との確執 ==
 
本流の[[摂津国|摂津]]の[[渡辺党]]は[[摂津源氏]]の[[源頼政]]一族の配下にあったが、[[肥前国|肥前]]の松浦党は[[平家]]の家人であり、源平合戦においては当初、平家方の水軍であった。しかし、[[壇ノ浦の戦い]]では源家方につき、源家方の勝利に大きく貢献したことから、その功により、鎌倉幕府の西国御家人となり、また九州北部の[[地頭]]職に任じられる。しかしながら同じ環境にあった[[秋月氏]]や[[蒲池氏]]、[[菊池氏]]などと同じく、元平家家人の九州御家人を信頼していない[[源頼朝]]が送り込んだ[[少弐氏]]・[[島津氏]]・[[大友氏]]などの「下り衆」の下に置かれる。
 
 
 
特に[[13世紀]]の[[元寇]]の時には[[佐志氏]]や[[山代氏]]をはじめ活躍したことで知られ、[[肥前国]][[松浦郡]]で蒙古軍と戦った[[佐志房]]と三人の息子の[[佐志直|直]]・[[佐志留|留]]・[[佐志勇|勇]]は揃って戦死し、松浦党数百人が討たれ、あるいは生け捕りにされ、松浦は[[壱岐]]や[[対馬]]同様に蒙古軍に蹂躙されたという。
 
 
 
==南北朝時代の松浦党==
 
===優勢な側に味方===
 
[[後醍醐天皇]]を中心とする倒幕勢力が各地で蜂起し、[[九州]]でも[[博多]]の[[鎮西探題]][[北条英時]]が、[[守護]]であった[[大友氏]]・[[島津氏]]・[[少弐氏]]などの軍勢に攻められて滅亡した。中央での倒幕勢力が大きくなると、松浦党諸家は、それぞれの家長の判断によって、ある者は[[後醍醐天皇]]の軍勢催促の[[綸旨]]に応じ、ある者は[[北条英時]]の元に馳せ参じた。
 
 
 
[[建武 (日本)|建武]]3年([[1336年]])3月、[[京都]]での権力争いに敗れた[[足利尊氏]]は再起を期して[[九州]]に逃れてきたが、この時松浦党の一部の家々は、これを迎え撃った[[菊池武敏]]側の軍にあった。しかし、[[多々良浜の戦い]]で[[足利尊氏|尊氏]]の勝利が動かない状勢になると、松浦党はたちまち[[足利尊氏|尊氏]]側に寝返った。そして、松浦党は[[足利氏]]と同じ[[源氏]]の一族であることを、積極的に主張するようになった。それに伴って、松浦一族でない松浦地方の他氏族も婚姻関係を頼って松浦一族を主張するようになった。
 
 
 
===松浦一揆===
 
[[多々良浜の戦い]]に勝利した[[足利尊氏]]は、九州経営のため、[[一色範氏]]を[[九州探題]]として留置した。一方[[南朝 (日本)|南朝]]方も、[[九州]]における[[菊池氏]]を中心とする南朝勢力結集のため、[[興国]]3年([[1342年]])、[[後醍醐天皇]]の皇子[[懐良親王]]が征西将軍宮として[[薩摩国]]に上陸した。さらに[[観応の擾乱]]による[[足利氏]]内部の対立抗争により、[[足利尊氏|尊氏]]の庶子[[足利直冬]]が下向したため、九州は三つの勢力に分かれて争われることになった。それぞれの勢力は、在地勢力を味方につけることによって、優位を占めようとし、諸勢力の軍事催促を受けた松浦党は、それぞれが独立する家長の利害得失の状況判断によって、行動の態度が決定された。
 
 
 
松浦党をひとつの固定した勢力として味方につけようとする試みが各勢力によってなされたが、特に熱心だったのは、[[応安]]4年([[1371年]])、[[九州探題]]に任命されて下向してきた[[今川了俊]]であった。彼は松浦党に対して地縁的関係による[[一揆]]契約を結ばせる政策を推進した。松浦党の[[一揆]]契諾状は[[応安]]6年([[1373年]])から[[明徳]]3年([[1392年]])までの約20年間に4回結ばれている。<ref>[[瀬野精一郎]]『松浦党研究とその軌跡』青史出版、2010年、144-147頁</ref>
 
 
 
== 戦国大名から平戸藩主へ ==
 
松浦党は、居住する地域によって上松浦党と下松浦党とに大別された。上松浦党は、松浦久以来の松浦地方の[[岸岳城]]を中心に大きな勢力を誇ったが、その最大勢力である[[波多氏]]は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]をへて滅亡した。下松浦党の傍系である[[平戸松浦氏]]は、[[戦国大名]]として成長し、[[関ヶ原の戦い]]以降、旧領を安堵されて[[平戸藩]]6万3千石の[[外様大名]]として存続した。
 
 
 
==対外関係==
 
===朝鮮との関係===
 
[[鎌倉時代]]の初期、[[嘉禄]]元年([[1225年]])頃より松浦党は[[高麗]]に押しかけ、[[倭寇]]の源をなした。[[藤原定家]]の日記『[[明月記]]』は、[[嘉禄]]2年([[1226年]])に[[対馬]]が[[高麗]]と抗争したことや、松浦党が兵船数十艘で[[高麗]]を侵したことを伝えている。<ref>「鎮西凶党等(号松浦党),構数十艘兵船,行彼国之別島合戦,滅亡民家,掠取資材」『明月記』嘉禄二年条</ref>さらに『[[吾妻鏡]]』[[貞永]]元年([[1232年]])閏9月17日の条によれば、[[肥前国]]鏡社(現[[佐賀県]][[唐津市]]鏡)の住人が、[[高麗]]に渡り夜討ちをして多くの珍宝を盗み取り帰国していたことが記されている。海賊の活動に苦しんだ[[高麗]]は、しばしば[[鎌倉幕府]]に使節を送り、取り締まりの強化を申し入れた。これを受け、幕府は[[肥前国]][[守護]][[武藤資頼]]に命じ、海賊行為の張本人と思われる[[対馬]]島人90人を捕らえ、[[高麗]]国使の面前で斬首したことがあった。この中には松浦党も多数含まれていたと思われる。<ref>[[瀬野精一郎]]『松浦党研究とその軌跡』青史出版、2010年、142-143頁</ref>[[元寇]]の以後は更に甚だしくなった。したがって[[朝鮮]]国王は使をよこして禁寇の交渉を行い、[[室町時代]]には[[嘉吉]]元年([[1441年]])から[[文明 (日本)|文明]]3年([[1471年]]) の間、松浦党と[[歳遣船]]の約を結んだ。<ref>[[松浦史料博物館]]『史都平戸-年表と史談-』2000年改版、88頁</ref>
 
 
 
===中国との関係===
 
[[寛仁]]3年([[1019年]])の[[刀伊の入寇]]の時、肥前介源知はこれを撃退したが、第8代[[松浦久]]以後の松浦党は海上に活躍する者が多く、[[元寇]]でも大いに特技を海上に発揮した。[[元寇]]に勝利を得てから商人や大いに気を強くする者も出て、[[中国]]沿岸との貿易に従事し、あるいは辺海を掠めて[[海賊]]化して[[倭寇]]の勢力を増すようになったが、[[松浦郡|松浦]]地方はその根拠地となった。
 
 
 
[[天文 (元号)|天文]]11年([[1542年]])、[[明]]人[[王直]]は、領主[[松浦隆信]]の優遇を受け[[平戸島|平戸]]を根拠地として密貿易を開始した。[[中国]]沿岸は勿論、[[ルソン]]、[[安南]]、[[シャム]]、[[マラッカ]]等に航路を求め、大陸物資の導入に努め、[[平戸島|平戸]]は殷盛を極めるようになった。その後は[[李旦]]、[[鄭芝竜]]が来るなど[[中国]]と松浦党の関係は密であった。<ref>[[松浦史料博物館]]『史都平戸-年表と史談-』2000年改版、89-90頁</ref>
 
 
 
==脚注==
 
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== 関連項目 ==
 
* [[松浦氏]]
 
* [[波多氏]]
 
 
 
* [[鶴田氏]]
 
* [[伊万里氏]]
 
* [[佐志氏]]
 
* [[神田氏]]
 
 
 
* [[有田氏]]
 
* [[大河野氏]]
 
* [[峯氏]]
 
* [[山代氏]]
 
* [[御厨氏]]
 
  
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[[Category:武士団]]
 
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松浦党(まつらとう)

鎌倉~室町時代に肥前国松浦4郡を中心に割拠した武士集団の共和的連合組織。平安時代から水軍海賊として活躍したが,のち鎌倉御家人となった者も多い。南北朝時代には松浦一族以外の他氏族をも含めた地域的一揆結合を行い,室町時代以後には,党規のもとに団結を強めていった。斑島・佐志・波多・有浦・値賀石志・相知・大川野氏などから成る上松浦郡を中心とした上松浦党と,青方・宇久・平戸・大島・志自岐・中村・早田・山代氏などから成る下松浦郡を中心とした下松浦党に大別される。 ( , 松浦氏 )  



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