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{{基礎情報 公家
 
{{基礎情報 公家
 
| 氏名 = 松殿基房
 
| 氏名 = 松殿基房
| 画像 = Fujiwara_no_Motofusa.jpg
 
| 画像サイズ = 200px
 
| 画像説明 = 松殿基房像([[藤原豪信]]画『[[天子摂関御影]]』より、[[宮内庁]]蔵)
 
 
| 時代 = [[平安時代]]末期 - [[鎌倉時代]]前期
 
| 時代 = [[平安時代]]末期 - [[鎌倉時代]]前期
 
| 生誕 = [[天養]]元年(1144年)/[[久安]]元年([[1145年]])<ref>生年に二説あり、『国史大辞典』は『大日本史料』の没年記事から逆算して1145年とするが、『公卿補任』から逆算すると1144年である。</ref>
 
| 生誕 = [[天養]]元年(1144年)/[[久安]]元年([[1145年]])<ref>生年に二説あり、『国史大辞典』は『大日本史料』の没年記事から逆算して1145年とするが、『公卿補任』から逆算すると1144年である。</ref>
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}}
  
'''松殿 基房'''(まつどの もとふさ)は、[[平安時代]]末期から[[鎌倉時代]]前期にかけての[[公卿]]。実名は'''藤原基房'''(ふじわら の もとふさ)。[[藤原北家]]、[[関白]]・[[藤原忠通]]の五男。[[官位]]は[[従一位]]、[[摂政]]、関白、[[太政大臣]]。[[松殿家]]の祖。
+
'''松殿 基房'''(まつどの もとふさ)
  
松殿・菩提院・中山を号す。通称は'''松殿関白'''(まつどの かんぱく)。
+
実名は'''藤原基房'''(ふじわら の もとふさ)。
  
== 生涯 ==
+
平安時代末期の廷臣。関白忠通の次男。松殿,中山菩提院などと呼ばれた。保元1 (1156) 年正五位下となり,権中納言,内大臣,左近衛大将,右大臣を経て長寛2 (64) 年左大臣。仁安1 (66) 年後白河院政下で摂政,関白となったが,平氏抑圧を策して平清盛によって治承3 (79) 年解任された。のち[[源義仲]]と結んで復活したが,義仲の死後失脚した。
[[保元]]元年([[1156年]])8月、[[元服]]と同時に[[正五位|正五位下]]に叙任され、翌月に[[近衛府|左近衛少将]]に任ぜられる。翌年8月には[[従三位]][[中納言|権中納言]]となる。その後も[[内大臣]]、[[右大臣]]、[[左大臣]]といった高官を歴任し、兄・[[近衛基実]]が早世すると、基実の遺児[[近衛基通|基通]]が幼少のため、後任として[[摂政]]に補任された。[[仁安 (日本)|仁安]]3年([[1168年]])2月、六条天皇は皇太子憲仁([[高倉天皇]])に譲位したが、高倉も幼年であるため引き続き摂政を務めた。[[嘉応]]2年([[1170年]])12月には[[太政大臣]]を兼ね、高倉天皇の元服にあたって加冠役を務めた。[[承安 (日本)|承安]]2年 ([[1172年]])12月には[[関白]]に転じた。
 
 
 
基実の死後、その遺領の大半は基実の室であった[[平盛子]]のものになっていた。『[[玉葉]]』によれば、承安3年(1173年)6月頃に[[後白河天皇|後白河院]]が基房と盛子の縁談を進めたとされている。だが、基房はその2年前に既に[[平清盛]]と親しかった[[三条公教]]の娘<ref>『今鏡』(巻6)によれば、公教の没後にその父親であった[[太政大臣]][[藤原実行]]の意向で[[北政所]]にしたと記されており、事実とすれば公教が没した[[永暦]]元年([[1160年]])7月から実行が没した[[応保]]2年([[1162年]])7月に婚姻が行われたことになる。</ref>と婚姻していたにも関わらず、太政大臣・[[藤原忠雅|花山院忠雅]]の娘・忠子を北政所にするという事件(『玉葉』承安元年8月10日条)があり<ref>なお、『愚管抄』巻5によれば、三条家の人々は基房が花山院家の血を引く師家を鍾愛して後継者と定めた(結果的に三条家の血を引く隆忠が軽んじられる)ことに反発して基房と不仲になったという</ref>、さらに盛子を迎えることに清盛が反発したため、この話は中止となった。{{要出典|date=2017年2月|清盛は基実の子である基通を正統な後継者とみなして、基房をその中継ぎと考えていたとみられており、その権力の強化に警戒を抱いていたようである。}}また、ほかの貴族にも同様の動きがあり、[[仁安 (日本)|仁安]]3年([[1168年]])の[[大嘗祭]]に付随して行われる[[五節舞]]の帳台試(天皇御前での予行演習)における摂政参入への随行を左近衛大将・[[藤原師長]]と右近衛大将・[[源雅通|久我雅通]]が揃って拒否して解任される事件が発生している<ref>なお、このとき近衛大将の代役を務めた基房の義弟[[三条実房|藤原実房]]の『[[愚昧記]]』(仁安3年11月20日条)によれば、特に師長については「旧意・旧懐」があったとして、彼が父[[藤原頼長|頼長]]の遺志を継いで基房から摂政の地位を奪おうとしていると批判している(樋口健太郎「藤原師長論」(『中世摂関家の家と権力』(校倉書房、2011年)所収、原論文は2005年)。</ref>。
 
 
 
[[治承]]3年([[1179年]])2月に基房の妻・忠雅女が[[皇太子]][[安徳天皇|言仁親王]]の養母となった。これは基実の妻の盛子も高倉天皇の養母となっており、その先例にならったことと、基房と平家の連携をはかった後白河院の意向であったとされるが、清盛は基房が基通から[[摂家|摂関家]]当主の地位を奪おうとしているとみて反発した。同年6月に盛子が死去すると、後白河と基房はその遺領を後白河の管領とした。さらに10月には基房の子・[[松殿師家|師家]]が、右中将であった基通を超えて[[中納言]]となった。基実-基通の系統に代えて基房-師家を摂関家の正統に位置づけようとする措置であった。基通を擁立して摂関家領の実質的な支配を維持するつもりだった清盛はこれに激怒し、11月、軍を率いて[[福原]]から上洛し、[[治承三年の政変|クーデター]]を起こす。清盛の怒りはまず基房に向けられ、関白を解任されて、[[大宰権帥]]に左遷された<ref>摂関の職に就いている公卿が遠流とされるのは史上初めてのことであり、『[[尊卑分脈]]』に「摂関人遠流例」との記載がある。</ref>。基房の身柄は実際に大宰府に送られることになったが、その途上に出家したことで[[備前国]]への配流に減免された。治承4年([[1180年]])12月になってようやく罪を許されて京都に帰還している。
 
 
 
清盛の死後、平氏が急速に衰退して[[寿永]]2年([[1183年]])に[[源義仲]]の攻勢の前に都落ちすると、基房は娘([[藤原伊子|伊子]]とされる)を義仲の正室として連携した<ref>義仲と基房の娘の婚姻を語るのは『[[平家物語]]』だけで、『[[玉葉]]』『[[愚管抄]]』には記述がないため、『平家物語』の創作とする見解もある。</ref>。同年11月、義仲の勢力を背景にして摂政基通を退け、子・師家を[[内大臣]]とし摂政に補任させることに成功する<ref>内大臣[[徳大寺実定]]が喪中であることを利用して、実定に迫って一時的に内大臣の地位を師家に貸し出させたのである(『玉葉』)。</ref>。だが、寿永3年([[1184年]])1月に義仲が[[源義経]]らによって討たれると、師家はたちまち罷免され、基通が摂政に復帰した。以後、基房は政界から引退した。
 
 
 
その後は[[朝廷]]における行事・儀式に長老として顔を出すだけだったが、[[公事]]・[[故実]]に通じた博識として後世まで重んじられた。[[寛喜]]2年([[1230年|1231年]])12月28日、87歳の長寿をもって亡くなった。法号は中山院、または菩提院。
 
 
 
== 殿下乗合事件 ==
 
基房に関する逸話として有名な『平家物語』「殿下乗合事件」については、
 
{{see|殿下乗合事件}}
 
 
 
== 基房と有職故実 ==
 
基房自身は[[摂政]]・[[関白]]を務めたものの、権力者の動向に翻弄される生涯を送った。だが、一方で『[[今鏡]]』(巻5)にてその才能は高く評価され、政治的失脚後も公事や有職故実に通じた大家として宮廷内では重んじられた。また、現在ではほとんど逸散してしまったものの、日記や[[有職故実]]書を著してその説が摂関家においては重んじられていた。
 
 
 
これは、基房が幼少時に実父・忠通の下で育てられて、忠通から[[九条流]]・[[御堂流]]の有職故実を直接伝授されたこと、共に伝授を受けた異母兄の近衛基実の早世によって九条流・御堂流の口伝を知る者が基房のみになったこと、加えて室の実家である[[三条家]]や[[花山院家]](及び分家の[[中山家]])も有職故実に通じた家として知られており、基房は九条流や御堂流のみならず、両家を通じて彼らが奉じていた[[土御門流]]や[[花園流]]の故実に関しても知識を学び、九条流-御堂流の有職故実の価値を高める努力を欠かさなかったことによる。これに対して忠通の子である九条兼実や基実の子である[[近衛基通]]は共に早くに父を失ったためにこうした公事や有職故実の知識を得る機会には恵まれておらず、彼らは政治的な局面では基房と対立する場面があっても、摂関家の故実の唯一の担い手であった基房の知識や学説に対しては常に敬意を払っていた。これは基実の孫・[[近衛家実]]や兼実の孫・[[九条道家]]が[[嵯峨野|嵯峨]]に隠棲していた基房を訪ねて教えを受けていることからでも知ることが出来る。更に[[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]]も[[内弁]]の作法の伝授を受けるために秘かに基房を訪ねたことが知られている(『[[古今著聞集]]』巻3)。
 
 
 
基房の没後、松殿家自体は衰退するものの、その有職故実の学説は「松殿関白説」などと呼ばれて、[[近衛家]]・[[九条家]]を始めとする摂関家において重要視され、[[村上源氏]]や[[閑院流]]が奉じてきた土御門流や花園流の作法を批判して、「正説」([[九条良経]]『春除目抄』巻2など)である松殿関白説を擁する摂家こそが公家社会を主導すべきとする[[家意識]]を形成することになる。
 
 
 
== 官歴 ==
 
※日付=旧暦
 
* [[保元]]元年([[1156年]])
 
** 8月29日:元服し、[[正五位|正五位下]]に叙す。
 
** 9月8日:[[近衛府|左近衛権少将]]に任ず。
 
** 9月17日:左近衛権中将に任ず。
 
** 11月28日、[[従四位|従四位下]]に叙す。
 
* 保元2年([[1157年]])
 
** 1月24日:従四位上に叙す。[[播磨国#国司|播磨権守]]を兼ねる。
 
** 6月25日:[[正四位|正四位下]]に叙す。
 
** 8月3日、禁色を聴される。
 
** 8月9日、[[従三位]]に叙す。左近衛権中将元のごとし。
 
** 8月19日、[[中納言|権中納言]]に任ず。左近衛権中将元のごとし。
 
** 8月21日、[[正三位]]に叙す。
 
* 保元3年([[1158年]])
 
** 3月1日:[[従二位]]に叙す。
 
* 保元4年([[1159年]])
 
** 1月2日:[[正二位]]に叙す。
 
* 改元して平治元年
 
** 12月2日:[[橘氏長者|橘氏是定]]宣下。
 
* [[平治]]2年([[1160年]])
 
** 2月28日:[[大納言|権大納言]]に任ず。
 
** 8月11日:[[内大臣]]に任ず。
 
** 8月14日:[[近衛大将|左近衛大将]]を兼ねる。
 
* [[応保]]元年([[1161年]])
 
** 9月13日:[[右大臣]]に任ず。
 
** 9月15日:左近衛大将元のごとし。
 
* [[長寛]]2年([[1164年]])
 
** 閏10月23日:[[左大臣]]に任ず。
 
** 閏10月26日、左近衛大将元のごとし。
 
* [[永万]]2年([[1166年]])
 
** 7月27日:[[摂政]]に任ず。[[藤氏長者]]宣下。
 
** 8月17日:左近衛大将を辞退。
 
* 改元して仁安元年
 
** 11月4日、左大臣を辞退。
 
* [[仁安 (日本)|仁安]]2年([[1167年]])
 
** 2月11日:[[従一位]]に叙す。
 
* [[嘉応]]2年([[1170年]])
 
** 12月14日:[[太政大臣]]を兼ねる。
 
* [[承安 (日本)|承安]]元年([[1171年]])
 
** 4月22日:太政大臣を辞退。
 
* 承安2年([[1172年]])
 
** 12月27日:摂政を止め、[[関白]]に転ず。[[准摂政]]宣下。
 
* [[治承]]3年([[1179年]])
 
** 11月17日:解官。
 
** 11月18日:[[大宰権帥]]に左遷。
 
** 11月21日:出家し、法名「善観」。[[備前国]]へ配流先変更。
 
* 治承4年([[1180年]])
 
** 12月2日:帰洛し、嵯峨の地に居を構える。
 
* [[寛喜]]2年([[1230年]])
 
** 12月28日:死去。享年87。中山院また菩提院と号す。
 
 
 
== 系譜 ==
 
* 父:[[藤原忠通]]
 
* 母:源俊子 - [[源国信]]の娘
 
* 正室:[[三条公教]]の娘
 
**男子:[[藤原隆忠]](1163-1245)
 
* 妻:三条公教の娘(隆忠母の妹)
 
** 男子:[[藤原家房]](1167-1196)
 
* 妻:藤原忠子([[藤原忠雅]]の娘)
 
** 男子:[[松殿師家]](1172-1238)
 
** 女子:藤原壽子(?-1222) - [[九条良経]]室
 
* 妻:堀川局([[藤原行雅]]の娘)
 
** 男子:[[松殿忠房]](1193-1273)
 
* 妻:[[藤原公保]]([[徳大寺公保]]?)の娘
 
** 男子:兼寛
 
* 妻:[[民部省|民部大輔]]家実(姓不明)の娘(家女房)
 
** 男子:仁慶(1175-1229)
 
* 妻:二条院典侍督局
 
** 男子:道弘
 
* 妾:藤原伊子([[藤原伊経]]の娘)
 
* 生母不明:
 
** 男子:聖尊
 
** 男子:尊誉
 
** 男子:尊澄
 
** 男子:良観
 
** 男子:[[実尊]](1180-1236)
 
** 男子:承円(1180-1236)
 
** 男子:[[行意]](1177-1217)
 
** 男子:最守(1224-1256)
 
** 女子:[[藤原伊子]](1167?-1207?) - [[源義仲]][[側室]]、後に[[源通親]][[側室]]、[[道元]]の生母とされる
 
** 女子:[[一条高能]]室
 
** 女子:八条院女房西御方 - [[藤原公明]]室
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 出典 ==
 
* 細谷勘資「摂関家の儀式作法と藤原基房」(初出:渡辺直彦 編『古代史論叢』(続群書類従完成会、[[1994年]])/改題「摂関家の儀式作法と松殿基房」)
 
* 細谷勘資「松殿基房の著書と「前関白文書」」(初出:『大阪青山短大国文』15号([[大阪青山短期大学]]、[[1999年]])
 
** ともに、細谷勘資氏遺稿集刊行会 編『中世宮廷儀式書成立史の研究』([[勉誠出版]]、[[2007年]])所収
 
 
 
{{先代次代|[[松殿家]]当主|初代|([[藤原忠通]])|[[松殿師家]]}}
 
{{藤原氏長者}}
 
{{日本の摂政}}
 
{{歴代関白}}
 
{{歴代太政大臣}}
 
  
 +
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{{DEFAULTSORT:まつとの もとふさ}}
 
[[Category:松殿家|もとふさ]]
 
[[Category:松殿家|もとふさ]]

2018/10/27/ (土) 21:35時点における最新版


松殿 基房(まつどの もとふさ)

実名は藤原基房(ふじわら の もとふさ)。

平安時代末期の廷臣。関白忠通の次男。松殿,中山菩提院などと呼ばれた。保元1 (1156) 年正五位下となり,権中納言,内大臣,左近衛大将,右大臣を経て長寛2 (64) 年左大臣。仁安1 (66) 年後白河院政下で摂政,関白となったが,平氏抑圧を策して平清盛によって治承3 (79) 年解任された。のち源義仲と結んで復活したが,義仲の死後失脚した。



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